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2013/10/31

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 8 帰京/貸本屋

 再びドクタア・マレーの款待に接し、半焼けのロースト・ビーフ、本当のバタ、それから佳良なパンの正餐の卓に向った時は悦しかった。ミルクもバタもチーズもパンも珈琲(コーヒー)もない――今迄もかつて無かった――国ということを考えるのには骨が折れる。日本人にとって、バタは極めて不味いので、彼等は菓子にせよ何にせよ、バタを入れてつくった食品を食うことが出来ない。

[やぶちゃん注:ここでモース一行は東京に帰着、加賀屋敷内十六番館のマレー東京大学文学学監の居宅に招かれてディナーの歓待(「款待」は同義同音)を受けたものと思われる。]

 

 帝国大学の動物学教授として招聘されて以来、私は夏期の実験所を計画し、学生九十名の級の為に課程を整え、博物館創立の計画に忙しく暮している。

 


M103
図―103

 

 大きな包を背負った人を、往来で屢々見ることがある。この包は青色の布で被われて、手風琴を思わせる。これは大きな書架……事実巡回図書館なのである。本はいたる処へ持って行かれる。そして日本には無教育ということがないので、本屋はあらゆる家へ行き、新しい本を残して古いのを持って帰る(図103)。

[やぶちゃん注:貸本屋である。山本笑月「明治世相百話」の「文化」の四「オツな商売貸本屋」にある「オツな商売貸本屋 草双紙から活版本の誕生時代」に(網迫電子テクストからコピー・ペースト、ルビは( )で示した)、

    《引用開始》

 双子の着物に盲縞の前かけ、己が背よりも高く細長い風呂敷包みを背負い込んで古風な貸本屋が、我々の家へも回って来たのは明治十五、六年まで。悠々と茶の間へ坐りこんで面白おかしくお家騒動や仇討物の荒筋を説明、お約束の封切と称する新刊物を始め、相手のお好みを狙って草双紙や読み本を、二、三種ずつ置いて行く。これが舟板べいの妾宅や花柳界、大店の奥向など当時の有閑マダムを上得意にしてちょっとオツな商売。

 稗史小説も追い追い明治物が新刊され、幼稚な石版画のボール表紙も目新しく、安物の兎屋本を始め、大川屋、辻岡、文永閣、共隆社、鶴声堂あたりの出版元から発兌(はつた)の新板小説がようやく流行、洋紙本の荷も重く、同時に草双紙や読み本のお好みも減って、背取りの貸本屋はボツボツ引退、代って居付きの貸本店が殖え、三十年前後まで市中諸所に貸本の看板、まだ大衆娯楽の少なかった時代、退屈凌ぎはこれに限ると一時は貸本大当り。

 明治になって合巻風の草双紙を初めて活版本にしたのは高畠藍泉の『巷説児手柏』、十二年に 京橋弥左衛門町の文永閣から出版、以来続々活版本の新刊、貸本屋向きは通俗の講談速記や探偵実話などで、五寸釘寅吉やピストル強盗の類に人気集中、薄汚れた厚紙の上表紙をつけたこれらの貸本は引っ張りだこで借りて行く。

 当時上野以外に図書館もない、随って学術参考書専門の貸本店も、神田本郷には数軒あった。学生相手に教科書や参考書、あらかじめ若干の保証金をいれておいて、返せば借覧料を差し引いてくれる便利な簡易図書館、名は忘れたが小川町五十稲荷の後ろにあった貸本屋は、この種の大店ですこぶる繁昌、二十二、三年頃には我々も足繁く通ったものだ。

   《引用終了》

とある。少し語注する。

・「双子」は「ふたこ」と読み、二本の単糸を撚り合わせた双子糸(諸糸(もろいと)・諸撚り糸とも)を用いて平織りにした綿織物。双糸(そうし)織りともいう。

・「兎屋」明治十年代から二十年代かけて新聞を利用した派手な出版広告と安売りで名を馳せた投機的な出版社で、明治二十年代になると地方出張販売も行っている(千代田図書館・大妻女子学国文会主催の大妻女子学文部日本科准教授木戸雄一氏による二〇一一年十月~十二月に千代田図書館の企画展示「書物と読者をつないだ明治期の販売目録―願クハ購求アランコトヲ―」のネット上データに拠った)

・「大川屋」浅草蔵前にあった赤本(明治時代の少年向きの講談本で口絵・表紙が赤を主とした極彩色のものが多かったことによる)屋の老舗である大川屋書店(店主大川錠吉)。参照した小川菊松「出版興亡五十年」(昭和二十八年刊。但し参照引用はよくお世話になっている甲南女子大学教授菊池真一氏の「講談資料」にあるものをコピー・ペースト)『「岩見重太郎」、「幡随院長兵衛」などの講談本や、黒岩涙香の「玉手箱」などを何百種も発行していた。私か大洋堂に丁稚奉公に入つた二、三日目から、この大川屋に毎日箱車を挽いて、この講談本を仕入に行かせられたものであるから、私にとつては一層感慨が深い。この大川屋は全国の貸本屋や絵草子屋等が華客で、地方からの注文も、一冊々々の書名を注文するのでなく、仇討物何種何冊とか、侠客もの何種何冊とかいう注文が多かったから、取揃えて刷つておくにも楽だつたそうである』。『さて、その当時の赤本即ち講談本等は、いくら位であつたかというと、菊判三色刷表紙三百頁近くのもので、一冊の卸値は僅に六、七銭であつた。これでは三銭の電車も何十冊分かの利益に当るわけだから、大川老人のテク主義も無理はないと思つたが、こんな零細な商いでも、全国を相手にこなすカズが大きかつたから、大川屋はウンと産を作つた。その頃の赤本屋仲間で聞えたのは春江屋、山口屋、日吉堂、今古堂、淡海堂、綱島等で、山口屋は「花井お梅」などの新講談に手を染め、今古堂は田山花袋の自然派小説「縁」などを発行したが、この面では成功しなかつた』。『赤本屋の大華客たる貸本屋も、明治時代には沢山あつて、横丁の奥にまで散在し、全国の都市でも、これを専業として成り立つていた。小説、講談、落語類が主で、新しい所では「不如帰」や浪六もの等の、紙表紙ものが多く、評判の高い小説は、布綴ものでも扱うようになつた。華客は近処の隠居、おかみ、理髪床、髪結さん、待合、芸者達、遊廓の花魁等で、いわば町の簡易図書館であつた』。『この貸本屋で一番大きくて名高かつたのは、神田駿河台下にあつた「いろは屋」で、ここには相当高級のものまで仕入れてあつたし、古い時代ものも沢山あつたから、小説作家はここへ材料探しに来たともいわれていた』。ここで山本笑月も小川菊松もともに全く同じ「簡易図書館」という語を用いている点、ここでのモースの謂い(原文“a circulating library”)と石川氏の「巡回図書館」という訳語が如何に的確であるかが分かる。

・「共隆社」明治十七(一八八四)年開業の東京橋区銀座二丁目六番地にあった出版元。

・「発兌」(通常は「はつだ」)書籍・新聞などを発行すること。この場合の「兌」は替えるの謂いではなく、通る、通ずるで「発行」の同義と思われる。

 また、三谷一馬「江戸商売図絵」(中央公論社一九九五年刊)の「貸本屋」には、江戸時代のそれは『「本屋さんは今日は休みか後ろ帯」の川柳があるように、荷物を背負うので、帯は後ろではむすばなかったらしい』とある。]

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