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2013/10/06

中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見した

 昨日、中島敦の事蹟をいろいろと調べるうちに、何のことはない、中島敦の愛した教え子が分かった。それも二十一年も前、平成四(一九九二)年に出た進藤純孝氏の「山月記の叫び」の中に記されていた。この本、情けないことに、出版された直後に買ったものの、直後に読んだ書評が敦を美化し過ぎているとして必ずしも芳しくなかったこと、文章が私が読むのにすこぶる苦手な敬体で綴られていたことなどから、第一章を読んだっきり、そのままうっちゃらかしていた(それでも押し入れに仕舞い込まずに中島敦全集の上にずっと鎮座させていたから不思議)本であった。

 その「第四章 耽美の妙」の中に――彼女は――いた。

 名を――小宮山静――という。

『――やはりな』

とは思った。先日来、中島敦全集に所収する複数の女生徒宛書簡を読む中で、どうにも何か敦のもの謂いが、妙に引っ掛かって響いてくる人物であったからである。

 同書で敦の妻たかの聞き書き(新有堂 一九八九年刊の田鍋幸信編「中島敦・光と影」所収の「思い出すことなど」で昭和五〇(一九七五)年から昭和五八年にかけて実に三十回に亙って田鍋氏が聴き取ったもの)が引用されているのだが、そこにこの小宮山静について、たかが、

   《引用開始》

主人は特別な気持ちを持っていたと考えます。写真をアルバムに貼り、手紙も大切に持っていました。そのお世話で過ごした御殿場から帰った時は、十日間ほど口をきいてくれませんでした

   《引用終了》

と述べている女性である。

 進藤氏は、小宮山静は

   《引用開始》

『敦の横浜高女で教えた子の一人(昭和十一年卒業)ですが、タカは「最初は田辺ミエ子さんという、良く出来た生徒さんが好きだったようです」とも語っており、敦の好きだった女の子は、まだ幾人も数えられます』

   《引用終了》

とあるから、一見、彼女と即座に断定することは憚られるようにも見えるのであるが、同じ箇所にやはりたかの聞き書きから、以下のように引用されているのが目に止まった。

   《引用開始》

――入院間際の時でしたか、「シズ、シズ」とうわ言を言うのを聞いたこともあります。私には派手な化粧の方のように思われましたが、正子(長女)が生まれてすぐ死亡した(昭和十二年一月)時のこと、尋ねて来られて私が玄関に出たところ、何も言わずに逃げ出すように帰られました。焼いた手紙も多くあったと思います。横浜出港の時(昭和十六年七月の南洋パラオへの赴任)、また葬儀の時も見えられませんでした。

と語り、「十年ほどのお付き合いと思われますが、私も子供さえいなければ別れたいと思ったこともあります」と、妻をないがしろにして、好きな女性とおおっぴらに付き合う敦への怨みを述べています。

   《引用終了》

 この妻たかの述懐は非常に重い。

 後で検証を示すが、この時(昭和十二年一月)、静は満十八歳前後であったと考えられる。

 この静の行動はまさに、

 

宵々の家になりはひ憎とふ君をし思へば心苦しも

 

という敦の短歌に浮かび上がる妬心に燃える乙女の映像と美事に一致するではないか?!

 私は先日、「中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(14) 最後の決定的な禁断の恋情の哀傷詩篇の注で、『――中島敦の秘かなる禁断の恋は――昭和十年よりも前であることを意味する。しかも彼にそうしたアバンチュールを許し得る状況があったのは――たかと結婚した昭和七年三月以降、妻子を呼び寄せて同居が始まる昭和八年十一月よりも前の一年七ヶ月の間が最も自然である。――しかもその出逢いが以前に示したように、その相手が横浜高等女学校生徒であったと仮定するならば――敦が同校に赴任した昭和八年四月以降同年十月までの約半年間の間(この間、四月二十八日には長男桓が出生している)のめぐり逢いではなかったろうか――と私は深く疑うものである』と述べた。

 小宮山静の卒業は進藤氏によって昭和一一(一九三六)年に横浜高等女学校を卒業している。すると、横浜高女が当時の法令に則った高等女学校であったとすれば終業年限は五年で彼女の入学は昭和六年四月入学となり、中島敦の同校奉職の年である昭和八年当時は高等女学校三年で、順当な入学なら満十四歳であった(卒業時は十七歳で現在の高等学校二年生に相当する)。

 さてそこで、もう一度最初に引用したたかの言葉の中の「そのお世話で過ごした御殿場」に着目して頂きたいのである。これについて、進藤氏は直後で『南洋から帰った昭和十七年の夏過ぎのことかも知れません』と推測なさっておられる。則ち、小宮山静との関係は死のその年まで続いていたことが疑われるのである。

 そもそもこの「御殿場」とは何か?

 これは進藤氏の叙述や敦の書簡記載(後の引用を参照)などを見る限り、小宮山静の実家所縁の貸間か貸家か貸別荘であることが分かる。しかも驚くべきことに中島敦は静が在学中(四年生十五歳)の昭和十年八月に、恐らくはこの御殿場の家(但し、書簡から見ると一軒ではなく二軒以上複数の貸屋か貸別荘で、小宮山の家が相当に裕福な大家であったことが窺われる)に一ヶ月に渡って滞在していることが判明するのである。

 実は「そのお世話で過ごした御殿場」というのがこの時のことを指すか、それとも進藤氏が推測されているように南洋から帰還した折りの再訪――年譜にはその記載はなく、そうした事実があったかどうかは現在の私には確認出来ないが――の時のことを指すかは判然としない――しないが、しかし私は、中島敦にあれほど私淑する進藤氏がわざわざかく書いているという事実から推して南洋帰還後の御殿場療養――小宮山静もそこには確かにいた――は確かにあったと考えている。それは進藤氏も引用している昭和十七年八月二十七日附の小宮山静宛書簡(旧全集書簡番号一七四。データに『八月二十七日 東京市世田谷區世田谷一の一二四から静岡縣御殿場町上町 小宮山靜宛(繪はがき―土方久功版畫、南洋風景)』とある)が、その事実を容易に類推させるからである(なお、これに先立つ同年七月八日附静宛書簡旧全集書簡番号一六八では渋谷で落ち逢えないかというデートへの誘いが書かれており、また当時の満二十三歳前後になっていたと思われる静が洋裁学校に通っていたことも判明する)。

   《引用開始》

 御手紙拜見、

 御殿場での生活は樂しさうで、羨ましいな、

 何時頃迄そちらにゐるんですか? 東京へ歸つたら、一度ぜひ、ウチへ來て下さい、

 君の今ゐるのは、いつか、僕も一度寄つたことのある、あの活版屋さんの家ですか? いつかの勝又さんの所みたいに長く置いてくれる所があつたら僕も仕事をしに行きたいものですね

   《引用終了》

 この「勝又さんの所」が昭和十年八月に滞在した貸家(印象からは離れのようなコテージ・タイプのものではなかろうか)で、そこも小宮山の家の紹介によって敦が借りたということ、その昭和十年八月の折りにも、小宮山静がそこに敦を訪ねた可能性が極めて高いこと、いや、同じ家でないにしても同じ御殿場の直ぐ近くに彼女も滞在していたことを深く疑わせるのである。

……そして――御殿場――である。富士である。駿河である。……

 

せむすべをしらに富士嶺をろがみつ心極まり涙あふれ來

 

丘行けば富士ケ嶺見えつする河野の朝を仰ぎて君と見し山

 

するが野の八月の朝はつゆしげみ君がす足はぬれにけるかも

 

そして――八月である。花火である。浴衣である。十六歳の少女である。……

 

かの宵の松葉花火の火の如く我は沿えなむ今はたへねば

 

かの宵の君が浴衣の花模樣まなかひにしてもとな忘れず忘らへぬかも

 

以上は私の「中島敦短歌拾遺(4) 昭和12(1937)年手帳歌稿草稿群より(4) 中島敦の謎めいた恋愛悲傷歌群」から引いた。そしてそこの注にも示したが、この昭和十一年の手帳(近々電子化注釈を公開予定)には次の詩が終わりの方に突如、出現するのである(取消線は抹消を示す)。……

 

  はかなしや 空に消え行く

  花火見し 宵のいくとき

  花模樣 君がゆかたに

  うちは風 涼しかりしか

 かの宵の君がまなざし、やはらかきそともれし君が吐息や

 一夏のたゞかりそめと、忘れ得ぬ我やしれ人

 

  別るゝと かねて知りせば

  なかなかに 逢はざらましを

 

  なにしかも 君がゆかた

  花模樣 忘れかねつる

  まなかひに 浮ぶよ。びつゝ もとな

  歩みつる 野遽の草花

  そをつみし 君が白き手

  一夏の たゞかりそめを

  かりそめの たゞ一夏を忘れ得ぬ

  得思はぬ われは痴人 吾よしれびと

 

……さて、私が二年ほど前にアカデミックな筋から聴いた情報は、

   *

――中島敦が、当時勤務していた横浜高等女学校の現役の女生徒との間である問題を起こした

(その具体な内容は知らない。それが本当に驚天動地のスキャンダラスなものであったものか、いや寧ろ、今聴けば頭を傾げる程度のものであったものかも不明である。一方的なセクハラまがいのものであったのか、それとも同意のもとにあったことなのかも不明である。但し、ここは現役であることがポイントである。卒業した教え子との場合であったなら、寧ろ当時にあっては現在と違って逆にスキャンダルたり得ない可能性の方が大きいと思われる)

――が、内部でうまく揉み消されてしまった

(これは仮にその事実があったとして、私立女学校としての体面や同校の校長が敦の実父田人の教え子であったこと――当校への就職自体もその縁故による――から考えて、寧ろ当時としてはすこぶる自然で当然な処理であったと考えられる)

――従ってそのことは誰にも知られず、現在の資料や記録にも何も残ってはいない……

   *

という公的な事件や記録としては残っていない――女学校教師中島敦の秘密の事件――としての、如何にも都市伝説にはもってこいの話ではあった。

 しかし私はどうもこれは事実であったようにおもわれてならないのである。そしてその当事者こそ、この小宮山静という女生徒であったのではなかろうか?

 

 中島敦の女性癖について、進藤氏は同書で、敦の教え子の女性の言葉として、誰もが『優しかった先生』『お宅にお伺いしてお部屋でいろいろお話したり御馳走になり、帰りに御門の所迄送っていただいた』と述べるのを引き、『なぞという文句に、敦が通り一遍の女学校教師ではなかったことが、滲み出てい』ると、何だかちょいとヘンな言い方をし、また、敦が女学校教諭となったことについて、父と校長との縁を語りながらも、『なによりも女の子が好きだったという事情が、敦にその職を選ばせたのだと思われ』ると、これまた、一見意味深且つヘンな評言をなさっておられる(孰れも同書一五〇頁)。これは母性愛欠損を前提とした謂いではあるが、それでもやはりヘンに意味深である。また、別な箇所ではまさに昭和十一年頃に親しく接するようになった「日本百名山」の登山家にして作家深田久彌の妻北畠八穂が敦を『大変な教養人』であったと評価しながらも、『ただ女性関係でちょっと忠告したことがありました』と敦への追悼文で『その「女性関係」のだらしなさを指差してい』るとも述べている。さらに附言しておくと、敦は就職した当時、自身が結婚していることを生徒はおろか、同僚にも黙っていた事実がある。どこで読んだものか失念して、引用もとを示せないのであるが、死後のことであるが、元同僚の女教師が――彼に奥さんや男の子までいるというのをかなり後になってから聴いて吃驚した、およそそんなふうには見えなかった――といった内容を述懐しているのを読んだことがある。長男の誕生は赴任した四月の二十八日である。この女教師が吃驚しているのを考えると、例えば最低でもその年の末位まで(この十一月に妻子が上京して中区山下町の同潤会アパートでの一人暮らしから目黒区緑ヶ丘での同居に入っている)、敦は周囲に対して未婚を詐称、という語に語弊があるなら――若き独身男性の香気を意識的にぷんぷんさせていた――と考えられるのである(因みに、進藤氏の「山月記の叫び」にはそれ以前の敦の大学時代のパン子――その女性の通称固有名詞である――なる女性との遍歴などがかなり赤裸々に、しかも妻たかの口を通して――『一週間目に』『抱かれました』『私はパン子さんと主人の関係を知ってい』ました、事実二人が『ベッドの上で抱き合っているのを見ていたのです』といった感じで――叙述されている)。

……ともかくも

 

中島敦の最も愛した女生徒は――小宮山静――という女生徒であった――

 

という事実、そしてそれが恐らく私が二年前に聴いた、

 

中島敦のゴシップ「揉み消された事件」相手も――彼女であった――

 

という可能性がすこぶる高いということを、ここで再確認しておこうと思うのである。

……そうして、そうそう、今回、すこぶる貴重な情報を齎して呉れたところの……うっちゃらかしたまんまであった進藤純孝氏の「山月記の叫び」、……これ、遅まきながら精読させて頂こうと存ずる。――

――なお、最後に。
――私はこれで鬼の首を取ったように敦を指弾しているのでは、毛頭ない。
――私は今、逆に激しく中島敦という人間に「共感」しているのだということをどうしてもここに告白しておかねばならないのである。]

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