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2013/10/28

日食する燕は明暗へ急ぐ 大手拓次

 日食する燕は明暗へ急ぐ

 

 このみちはほがらかにして無である。

 ゆるぎもなく、恍惚としてねむり、まさぐる指にものはなく、なお髣髴としてうかびいづるもののかたち。それは明暗のさかひに咲く無爲の世界である。はてしなく續きつづきゆく空(くう)である。

 それは、放たれる佛性の眼である。

 みづからのものをすてよ。

 みづからをすてよ。

 そこにかぎりない千年の眼はうつつとなく空靈の世界を通觀する。

 うごくもの

 ながれるもの、

 とどまるもの、

 そのいづれでもなく、いづれでもある繩繩たる大否定の世界にうつりすむのである。

 萬物は一如として光被され、すべては mortal immortal の境を撤しさるのである。

 あらゆる相對を離れた絶對無絶對空の世界にうつりすむのである。

 すべてをはなれて門に入るのである。

 なほ、この相對とまみえる絶對をもこえて、いやさらに不可測の、思惟のゆるされざる虛無のなかにうつりすむのである。

 みだれたる花のよびごゑである。客觀的統體として絶えざる轉位に向ふのである。

 それは靑面の破壞である。

 あらゆるものの否定である。

 あらゆるアプリオリとアポステリオリとの全的否定である。冥闇闇である。

 美そのものに對しての惡魔的挑戰である。わたしは私自身の有する律動を破壞して泥土に埋めてしまはうとするのである。

 破壞である。否定である。

 さらに破壞である。否定である。

 なほさらに、このふたつのものの果てしない持續は、靑色帶をなして未知へすすみゆくのである。

 無韻の雷鳴である。

 窻外の私語は、唯美主義の自縛を延長した風葬のさけびである。

 虛無の白い脚に飾られるガアタア勳章こそ階段をのぼる SOLLEN である。

 この néant の世界にあつて、私はみたされ、ひろげられ、微風のやうな香油に足を沒するのである。

 言葉の圓陣にわたしは空閒を虐殺して、遲遲とする。

 この表現の飛翔する危機をむすんで、逸し去らうとする魚は影の客である。

 かたちももとめず、

 かげももとめず、

 けはひももとめず、

 にほひももとめず、

 こゑももとめず、

 おもひももとめず、

 わたしは、みづからを寸斷にきりさいなみ、ふみにじり、やぶりすてて、うららかに消えうせ、

 ひとつの草となり、

 ひとつの花となり、

 ひとつの蟲となり、

 ひとつの光となり、

 ひとつの水となり、

 ひとつの土(つち)となり、

 ひとつの火となり、

 ひとつの風となり、

 ひとつの石となり、

 この必然の、しかも偶然の生長に對して、わたしは新しい生命をむさぼり得つつ流れゆくのである。

 螢のやうにひかる十二頭の蛇の眼がぢれぢれとする。

 わたしは、そこにはてしない森林をひろげる怪物料理をゆめみる。

 太陽のラムプが足をぶらさげてでてきたのである。

 靑狐は、はらわたをだしてべろべろとなめる。

 あたらしい DIABOLISME のこころよい花園である。

 ブレエクより、ビアヅレエより、モロオより、ロオトレエクより、ドオミエより、ベツクリンより、ゴヤより、クリンゲルより、ロツプスより、ホルバインより、ムンクより、カムペンドンクより、怪奇なる幻想のなまなまと血のしたたるクビンである。

 鬼火はうづまいて、鴉は連れ啼き、もろもろの首は、疾風のやうにおよいでゆき、水中に眼をむく角をもつ魚、死體の髮をねぶる異形なる軟體動物、熱帶林の怪相、蛇とたはむれる微笑の首は睡蓮の咲く池のうへに舞ひ、女體の頭部に鑿をうつ化物、寢室の女怪、のつぺりの淫戲、髑髏と接吻する夫人、昆蟲と狎れあそぶ巨人、空腹にみづからの腕をかむ乞食、酒のごとく香水を愛する襤褸の貴族、桃色大理石のやうな肌をもつ片眼の娘、あをい泡を鼻から吹きだす白馬の沈默、足におほきな梵鐘をひきずる男…………

 迷路に鳥はわたり、かすかな遠啼きのなかに心は蟬脱する。

 光はうちにやぶれ、闇はそとにひらき、ひたすらなる渾沌に沿うて風は木の實をうむのである。

 それら怪奇なる肉身の懊惱にぎらぎらと鱗(うろこ)を生やす心靈は、解體して、おぞおぞとし、わたしの足は地をつらぬき、わたしの手は天をつらぬき、わたしの身は空閒にみちあふれる。

 すべてはうしなはれるのである。

 すべてはきえさるのである。

 すべては虛無である。

 この虛無にうつりすむにあたり、はじめてわたしは生れるもののすがたにうつりゆくのである。ひろがりは、わたしにきたるのである。充たされも、わたしにきたるのである。まことの創造の世界にうつるのである。

 なにものかが、わたしの手をひくのである。なにものかが、わたしのなかにあふれるのである。それは不死の死である。不滅の滅である。永遠の瞬閒である。

 

 わたしは、白い蛙となつて水邊にうかぶ。

 雨はほそくけぶり、

 時はながれる。

 

 わたしの足は月かげのたむろである。

 わたしの足は靑蛇のぬけがらである。

 わたしの足は女の唾である。

 わたしの足は言葉のほとぼりである。

 わたしの足は思ひのたそがれである。

 わたしの足は接吻のほそいしのびねである。

 わたしの足は相對の河である。

 わたしの足はりんご色(いろ)の肌のいきれである。

 わたしの足はみほとけの群像である。

 わたしの足は飛ぶ鳥の糞(ふん)である。

 わたしの足はものおとのうへをすべる妖言である。

 わたしの足は嘴をもつ地獄の狂花である。

 わたしの足は陰性のもののすべてである。

 わたしの足をおまへの腕にうめて、もだえるくるしみは、つやめく疾患である。

 

 みしらぬ人人のために路をひらく。

 それは眞珠に飾られたみちである。

 夢を食む白い狼は風をきつてそばだち、すみれいろの卵をうみおとすのである。

 心はうしなはれ、からだはうしなはれ、思ひはうしなはれ、ひとりたたずむほとりに、動きはつたはりきたるのである。

 あだかも花のにほひのやうになかだちを越えて、いそいそとくるのである。

 たたずみはたふれる。

 すすみもたふれる。

 とどまりもたふれる。

 まつたき失ひのうちに、おほきなるもののみちあふれてくるのである。

 すがたは抽象をないがしろにして、いきいきとあらはれ、とぶがごとく楚楚として現じきたるのである。

 やすみなく光をむかへつつ、庭園のなかにほころびかける花である。

 たわわにみのる樹はゆれながら歩みをうつして、まどろむのである。

 その さやぐ葉のむらがりのなかにやどるすがたはもとほり、世にあらたなるさびしみを追ひたてるのである。

 花びらは顏を照らして、ひそみをあらはにし、たえざる薰風をそよがせるのである。

 あをいものは、さそはれることなく、みづからのうごきに生きて、さよさよとそだちゆくのである。

 かをりあるそよかぜは、とほくのみちに夢をひらかせ、ただよふ舟のなかに魂の土産をのこし、ひとびとのうしろかげに柑子色の言葉をはるばるとかざるのである。

 わたしは、ゆれゆれる風のなかに、風のとがりに、ふかぶかとゆめみるのである。

 

[やぶちゃん注:画家については、私が作品を思い浮かべることが出来なかった二人についてのみ注したので悪しからず。

「うごくもの」岩波版「大手拓次詩集」では最後に読点がある。脱字かとも思われるが、敢えてママとする。

「繩繩たる」久遠に続き絶えぬさま。

mortal immortal の境」特に特殊な意味合いを附加する気はしない。――「厳然たる死」と「永遠の不死」の境――の謂いと採る。

「撤しさる」その場から永久に除き去る。

「ガアタア勳章」(The Order of the Garter:正式には“The Most Noble Order of the Garter”という。)は一三四八年にエドワード三世によって創始されたイングランドの最高勲章の名称。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典において騎士団勲章(order)の最高位とされる。勲章にはそのモットー“Honi soit qui mal y pense”(イングランドの古語アングロ・ノルマン語で「思い邪なる者に災いあれ」の意)と刻印されてある。勲章の大綬の色がブルーであることから「ブルーリボン」とも呼ばれる(以上はウィキの「ガーター勲章」に拠る)。

SOLLEN」(ドイツ語)当為。ゾルレン。

「この néant の世界にあつて、私はみたされ、ひろげられ、微風のやうな香油に足を沒するのである。

 言葉の圓陣にわたしは空閒を虐殺して、遲遲とする。」以上の詩句は岩波版「大手拓次詩集」では、二つの行の間に一行空きが施されてある。底本では見開きの改頁であるが、組から考えて一行空きはない。また、私自身一行空きを求めない。従って、連続させた。

néant」(フランス語)無。虚無。空(くう)。

DIABOLISME」(英語)①魔術・妖術。②悪魔のような仕業。魔性。③悪魔主義。悪魔崇拝。私は③の「悪魔崇拝」の意で採る。

「クリンゲル」マックス・クリンガー(Max Klinger 一八五七年~一九二〇年)。ドイツの画家(グーグル画像検索「Max Klinger)。

「カムペンドンク」ハインリヒ・カンペンドンク(Heinrich Campendonk 一八八九年~一八五七年)。ドイツ(後にオランダに帰化)の画家(グーグル画像検索「Heinrich Campendonk)。

「なにものかが、わたしの手をひくのである。なにものかが、わたしのなかにあふれるのである。それは不死の死である。不滅の滅である。永遠の瞬閒である。

 

 わたしは、白い蛙となつて水邊にうかぶ。」この詩句は岩波版「大手拓次詩集」では、二つの行の間に一行空きはない。

「その さやぐ葉のむらがりのなかにやどるすがたはもとほり、……」の「その」の後の一字空けはママ。岩波版も同じ。]

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