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2013/10/29

綠色の馬に乘つて 大手拓次

 綠色の馬に乘つて

 

 彼には空にとどく眼があつた。生成のまへのものに觸れる指と齅覺とを持つてゐた。フランソア・ギヨンの漾ふ姿は繫縛のうちに動き、羽ばたき、生きのびる帆のひらめきを教へる。

 卵はいろづいて凡てを魅了する。

 影のなかにある影の芽、未生の世界に泳ぐ大噴水塔の鴉は木の葉の黄昏に呼吸をしたたらしてゐる。門柱の鐘を鳴らす一人の訪客は、その歩道のかたはらに莟をもつてわらひかける微風の毛を意識してゐるけれど、その足は限りなくしばられてゐるのである。あの夜の虹の私語にしばられてゐるのである。

 ひそかに、しかも渾身の力の動きに押しすすめられてゆく路は、昏迷の落日の丘ではないか。大旋風の滿開の薔薇のごとく咲きみだれてゐる眞鍮製の圓錐體である。そこに盲目の手をいだして闇の砲彈をさぐりあて、全身のうつろに植ゑこみ、蓮華の花祭のやうに童貞を點火するのである。あらゆる無意識は機構の深淵に溺れて死に瀕しつつ綠色光を放つて世界をこえる。手負の魂は白い假面をかぶつて路の側にたたずみ、泥濘の皿に朝の髯をきつてゐる。幻想のなかに浮ぶ靑い耳はおそはれる火のもとである。それは廢滅の武器ではなく、盛りあがる愛の花束の散歩ではないか。

 MARIA UHDEN の奇怪なる繪を見よ。ひとつの心の心靈現象のやうなゆがめられた人間のあへぎが、べつとりと血をはいてゐる。十六本の指に電光をともして蛙の小徑をゆけ。悲しみの繁吹は軟風にたはむれる馬と馬とのひろがりをとつて、その生成の水のうへにそそりたつのである。

 掌を彌縫する雷鳴はしきりに曉の舌をだして、連翹の笑ひをしてゐる。この癡笑の糞は裸形の香炎をふみつぶして焦燥する一羽の白鳥である。逆行する空間に蠱惑の螢をとばし、念念として凝固し、雲散霧消する。この未發の風景に遠吠する消息は靑い牢獄である。表現からかくされた存在の胎動に味到し、屈伸自在の埒外にひるがへるもの、黑布をつけた群盲の永遠の音なき葬列である。

 いつさいは暗くとどろき、ひれふして、將に發せんとするものの危機を持續するのである。

 わたしは自らを俎上にのせ、昏昏として胚珠のごとく靜觀する。震動體の月光を織り紡いで吹く彼の佛蘭西象徴派のひとむれと、水に浮く百合の花をこもごもに取りあひ、華麗なる臥床にゆらめく影をくゆらせたのである。しかしながら、いま私は不思議なる門扉のまへにたつ。怖ろしい地鳴は悉く直立の白刄を私に擬してゐる。そしてわたしの背後に啼きつづける蒼白の「抒情の鳥」を刺し殺さうとしてゐる。この陰慘にして快適なる風景の脚は破れざる殼をつけたるまま、黑と金との宗教の庭園に漫歩する不行跡をあへてする。

 盲目こそ境を絶したる透徹の明である。

 やぶれざる前の破れこそ聲である。

 うごかざる前の動きこそ行ひである。

 波動の全圓に影はせまりきて、ひたりしづみ、觸れえざる生身の肌に恍惚としておよがせる魚の姿である。

 

[やぶちゃん注:「MARIA UHDEN」マリア・アーデン(一八九二年~一九一八年)。ドイツの女流版画家(グーグル画像検索「Maria Uhden)。

「繁吹」は「しぶき」と読む。飛沫。水滴。

「彌縫」は「びほう」と読む。(一般には失敗や欠点を一時的に)とりつくろうことをいう。

「味到」は「みたう(みとう)」と読み、内容を十分に味わい知ることをいう。

「盲目こそ境を絶したる透徹の明である。」の「明」は思潮社版「大手拓次詩集」では「卵」である。誤植とも思われるがママとした。「盲目」と「明」は寧ろ、詩句としてしっくりくるからである。]

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