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2013/10/03

耳嚢 巻之七 近藤石州英氣の事

 近藤石州英氣の事

 

 近藤石州は武人にて、人と違ひ候取斗(とりはからい)度々有(あり)し人也。大番頭にて在番の節、組子(くみこ)の藝術を見けるが、何某といへる男寶藏院の鎗を出精(しゆつせい)して、同士と鎗合(やりあはせ)等なして殊に勝れしを見て、石見守見て、我も相手に可成(なるべし)と望(のぞみ)ければ、頭(かしら)の事故幾重にも御免を願ふ由を被申(まうされ)ていなみければ、不苦敷(くるしからず)是非にと好みて立合けるが、此御番衆も至て氣丈成(なる)男にて、然らば御免あれと立合しが、何の苦もなく石見守を突臥(つきぶし)ければ石見守、只今のは如何に我まけ也と賞美して、定めて江戸表へ歸りても、我と仕合して勝ちたると人にも可咄(はなすべき)證據なくては不宜(よろしからず)とて、新木(あらき)の弓貮挺(ちよう)出し、是は我(わが)首をとりたるに、人にも吹聽(ふいちやう)なすべしとて、彼(かの)御番衆へ與へけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。映像が浮かんでくる如何にも爽快な武辺物である。

・「近藤石州」旗本遠江気賀近藤氏七代目石見守近藤用和(もちかず 寛延二(一七四九)年~?)。天明八(一七八八)年大番頭、寛政八(一七九六)年駿府城代。「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年当時は満五十七歳相当であるから存命であった可能性は高い。刀工としても知られた人物である由、ヨシ坊氏のサイト「史跡夜話」の「気賀近藤陣屋」にある。この出来事は後の補注によって寛政七(一七九五)年、用和四十六歳の折りの大阪城大番役の時の出来事であることが分かる。

・「組子」組頭配下にある者。組下。組衆。

・「寶藏院」宝蔵院流槍術。奈良の興福寺の僧宝蔵院覚禅房胤栄(?~慶長一二(一六〇七)年)が創始した十文字槍を遣う槍術(薙刀術も合わせて伝承していた)。初代宝蔵院覚禅房胤栄は柳生とも親交があったといわれる。また、福島正則の家臣で猛将として知られた笹の才蔵こと可児才蔵が初代胤栄に教えを請うたとも伝えられる。

・「出精」技芸鍛錬に精を出すこと。励み努めること。精励。

・「定めて江戸表へ歸りても」大番の警護する要地は江戸城以外に二条城及び大坂城があり、それぞれに二組が一年交代で在番した。

・「新木(あらき)」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『荒木』とし、長谷川氏は『加工せぬままの木で作った弓』とされている。「新」も発音が同じであるから同様の意味であろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 近藤石州用和(もちかず)殿の才気煥発なる事

 

 近藤石州用和殿はまっこと、武人にて、かなり人が吃驚するような取り計らいをたびたびなさるる御仁で御座る。

 大番頭として大阪城に在番の折りから、組子(くみこ)の者どもの槍剣の技芸をご覧になられたが、何某(なにがし)と申す一人の男、これ、宝蔵院流の鎗術に精励致いて御座って、同士の者と鎗り合わせなんど成して、これ殊に勝れて御座ったを、石見守殿ご覧ぜられ、

「――一つ、我らもお相手仕る!」

と御所望なさったところが、何分、頭(かしら)の御旗本のことゆえ、

「……そればかりは……幾重にも御免を願いまする。……」

由、申上げて固辞致いたものの、

「苦しゅうない! 是非に!」

と頻りにお好みになられたによって、是非に及ばず、かの者、立ち合い申上げたが、この御番衆も至って気丈なる男(おのこ)にて、

「――然らば! 御免あれ!」

と一切の手心を加えることなく、出精して立ち合い致いた。

――が

――これ

――何の苦もなく

――石見守殿

――一と突きに突き臥されて御座った。

 されば石見守殿、爽やかなる笑顔とともに、

「――ウムヽ! 只今のは如何にも我れらが負けなり!」

と頻りに賞美なされ、さらに、

「――定めて在番を終え、江戸表へ帰って後も、我らと試合致いて勝ったると、人にも話すに、これ、証拠なくしては宜しゅうないの!」

と仰せらるると、新木(あらき)の弓二挺(ちょう)を家臣に持って来させ、

「――これは――我が近藤用和が首――取った証しなると――人にも盛んに吹聴(ふいちょう)致すがよいぞ! ハヽヽヽヽ!!」

とて、かの御番衆へそれをお与えになったとのことで御座る。

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