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2013/10/16

耳嚢 巻之七 名器は知る者に依て價ひを增事

 名器は知る者に依て價ひを增事

 

 仙石某の家に蕎麥□といふ茶碗壹ツ有(あり)しが、主人は茶事(ちやじ)にも心なかりければ、珍重もなさで遣ひしに、文化三年三月の大火に仙石の家は火災は遁れけるが、家財は凡(およそ)片付(かたづくる)とて右茶碗の箱を渡(わたす)者取(とり)なやむとて取落しぬる事有しが、火事靜(しづま)りて右の箱をあけてみれば七ツ八ツに割れけるを、ある目利者(めきき)見て、可惜(をしむべし)、此茶碗手をつがせ金粉抔にてつくろひなば、金壹枚には我直(ぢき)にとゝのへべし。不割(わらざる)以前ならば、三五十兩の價なるべしと長歎せしとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、二つ前の「正路の德自然の事」の文化の大火で強く連関する。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、アップ・トゥ・デイトな話柄。

・「蕎麥□」底本では「□」の右に『(借)カ』とあり、鈴木氏は注されて、『蕎麦は朝鮮茶碗の一種。地肌色合が蕎麦に似ているというところから命名されたとも、井戸の側という意味の秀句ともいう』とあるが、この最後の部分の秀句というのがよく分からない。後掲するようにこの茶器が井戸に似ていることを誰かが発句で譬えて表現したということか?(しかし、だったらその句が伝わっていなくては語源説としては眉唾であろう) 識者の御教授を乞うものである。また、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『蕎麦漕』とあり、これを長谷川氏は傍注で「蕎麦糟(そばかす)」に訂した上、『朝鮮茶碗の一種に蕎麦というものがある。それに付けた名』と注されておられる。表記としては「蕎麦借」(「そばしゃく」と読むのであろう)も「蕎麦糟」もあり得よう(訳では鈴木氏に敬意を表して「蕎麦借」とさせて貰った)。茶道のサイトを見ると、高麗茶碗の一種である蕎麦茶碗(そばちゃわん)があり、約して蕎麦とも言うこと、この呼称は江戸中期以降とされること、その由来は地肌や色合いが蕎麦の色に似ているからとする説、雀斑(そばかす)のような黒斑があるからとする説、作行き(茶道や陶磁器鑑賞の用語で、焼き物の出来映えの意。土・釉・色・模様・形などを総合的に評価して表現することをいう)が井戸(井戸側(いどがわ)のことか?)に似ているので「井戸の側(そば)」と呼んだとする諸説があって判然としないとする。僅かに鉄分を含んだ薄茶の砂まじりの素地に、淡い青灰色の釉が総体に薄く掛かったものが多いが、時には酸化して淡い黄褐色となったものもあるとし、全体の形は平らな傾向が強く、高台は大きく低め、高台から腰の部分が張り出して段になり、口縁にかけてゆったりと大らかに開く姿を示す。轆轤目があって口は広く、見込み(茶席で茶碗拝見の際、まず内部を覗き込むところから茶碗の内部の底の附近を指す)が大きく鏡落ちがあり(茶碗の見込が丸く凹んで落ちている形状を鏡又は鏡落ちという)、その部分が外側の腰の部分の張り出しになっている。鏡のなかに目跡が残るものもある(以上は主に「茶道入門」の蕎麦茶碗」に拠った)。グーグル画像検索「蕎麦茶碗」は

・「文化三年三月の大火」文化三年三月四日の文化の大火。二つ前の「正路の德自然の事」の私の注を参照。

・「金一枚」岩波版の長谷川氏注によれば、これは一両小判ではなく、七両二分相当の大判(おおばん)とある。大判は広義には十六世紀以降の日本に於いて生産された延金(のしきん/のべきん:槌やローラーで薄く広げた金塊)の内で楕円形で大型のものをいう。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し、大判は特に「黄金」と呼ばれ、大判金(おおばんきん)ともいう。金貨として規格化された「大判」は、天正一六(一五八八)年に豊臣秀吉の命で後藤四郎兵衛家(京金工)が製造したのが始まりとされ、以後時の権力者の命により文久二(一八六二)年まで後藤家(京都、後に江戸)が製造し続けた。量目(質量)は、万延年間(一八六〇年)以降に製造されたものを除き、京目十両(四十四匁、約一六五グラム)と一貫しているが、品位(純金含有量)は時代により変化している。幣価は「金一枚」であり、小判の通貨単位「両」とは異なり、小判との交換比率は純金量を参考に大判相場が決められた(江戸時代の一時期のみは公定価格が存在した)と参照したウィキ大判」にある。

・「目利者(めきき)」岩波版では長谷川氏は「めききしや」とルビする。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 名器は知る者によって価いを増すという事

 

 仙石某(ぼう)の家に、蕎麥借(そばしゃく)という茶碗が一つあったが、今の主人は茶事(ちゃじ)にもとんと興味もなければこそ、殊更に珍重するということもこれなく、普段から平気で使って御座ったと申す。

 さても先だっての文化三年三月の大火の折り、この仙石殿の御屋敷、類焼は免れたものの、延焼が進むに従って、万一に備え、家財は凡そ土蔵へ片付くる必要これありとて、上へ下への騒ぎと相い成って御座ったと申す。

 その際、この茶碗を入れた箱を渡いた者が、うっかり取り損なって落してしまうという沮喪がこれあった由。

 火事が治まった後、主人が火事場見舞いに訪れたさる客をもてなさんと、たまたま手元近くに戻しおいてあったものが、かの蕎麦借の箱であったがため、何気に開けて見たところが、これ、七つにも八つにも、すっかり割れてしもうておったと申す。

 ところがこの客人、茶器には相応の目利(めきき)なる御仁で御座って、それを一目見るなり、

「――惜しいことじゃ!……この茶碗、割れた箇所を綺麗に接がせ、金粉等を以って接いだ箇所を繕いなど致されたならば――そうさ、我ら、黄金一枚にてよろしいとなら直ちに買い上げましょうぞ!……いやはや!……これ、割れる以前の無傷なるものであったならば……三十、いや、四十、いやいや! 五十両払うだけの価値は御座ったにのう!……」

と長歎息致いたとか申すことで御座った。

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