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2013/10/05

中島敦短歌拾遺(5) 「南洋日記」(昭和16(1941)年9月10日―昭和17(1942)年2月21日)より(2) 太平洋戦争勃発直後の長歌一首

鱶が栖む 南の海の 緑濃き 島山陰ゆ 山菅の やまず、しぬばゆ、あきつ島大和の國に 吾を待たむ 子等がおもかげ。桓はも さきくあらむか 格はも 如何にあらむと あかねさす 晝はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに、はしきやし 桓が姿 あからひくさ丹づらふ 格が頰の まなかひに 去らずかかりつ、うまじもの あべ橘の たををなる 枝見るごとに 時じくの かぐの木の實が 黄金なす 實を見るなべに みくだもの 喜び食さむ 子等が上、常し思ほゆ、椰子高き 荒磯(ありそ)の眞砂 檸檬咲く 丘邊を行けど、ぬばたまの 黑き壯漢(をのこ)が棹させるカヌーに乘れど、沖つ浪 八重の汐路を はろばろに 子等と離(さか)りて 草枕 旅にぬる身は不樂(さぶ)しさの 日に日に益(まさ)り 戀しさの 甚(いた)もすべなみ にはたづみ 流るゝ涙 とゞめかねつも、

反歌無し、     (於鎌倉丸一四二號船室)

 

[やぶちゃん注:以上の長歌は昭和十六(一九四一)年十二月十二日(金)のクレジットの日記本文の後に一行空けて記されているものである。底本では全体が一字下げとなっている。取消線は抹消部を示す。

 日附から分かるように、この特異な長歌(敦の正式な長歌形式の和歌は現存するものではこの一首のみと思われる)は、まさに太平洋戦争勃発直後に創られたものである。四日前の真珠湾攻撃当日である十二月八日の日記記事からこの長歌の直前までを以下に示す(太字「カラ」は底本では傍点「ヽ」)。

 

十二月八日(月) 曇、雨、後晴、  

 午前七時半タロホホ行のつもりにて支廳に行き始めて日米開戰のことを知る。朝床の中にて爆音を聞きしは、グワムに向ひしものなるべし。小田電機にて、其後のニュースを聞く。向ひなる陸戰隊本部は既に出動を開始。門前に、少女二人、新聞包の慰問品を持來れるあり。須臾にして、人員、道具類の搬出を終り、公會堂はカラとなりしものの如し。腕章をつけし新聞記者二人、號外を刷りて持來る。ラヂオの前に人々蝟集、正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆撃をも行へるものの如し。宣戰の大詔、首相の演説等を聞いて歸る。午後、島木健作の清洲紀行を讀む、面白し。蓋し、彼は現代の良心なるか。とこ屋に行く。ゲートルをつけ警防團のいでたちをなせる親方に頭髮を刈つて貰ふ。青年團、消防隊等の行進、モンペ姿の女等。夜の街は、すでに警戒管制に入れることとて、まつくら。

 

十二月九日(火) 晴  

 正午、はじめて空襲警報を聞く。事無し。三十分ばかりにして解除。午後小田電機にてラヂオを聞く。昨日のハワイ空襲は多大の戰果をあげたるものの如し。マレー半島上陸も大成功なりしと。御用船はパラオに行かず。山城丸も缺航か? 東京にては、さぞ心配せるなるべし。夜、市街闇黑にして、店舖の營業せるものを見ず。餘りに過度の緊張は、却つて、長續せざる所以に非ざるか?

 

十二月十日(水) 晴  

 午前十時、武德殿にて長官の訓示あり。急に、御用船鎌倉丸便乘と決る。高里氏は後に殘ることとなる。大急ぎで支度。三-スによれば、パラオ港外にて敵潛水艇一隻を撃沈せりと。この航海相當に危險ならんか? 午後四時乘船。流石に巨船なり。乘船後のニュースによれば、シンガポールにて、我が海軍機、敵戰艦二隻を撃沈せりと。又曰く、本日、敵飛行機十臺パラオ空襲、但し全部撃墜さると。

 甲板上に群がる鮮人人夫。女、幼兒、十二月の朝鮮より來りしものとて、皆厚着せり。板の上に死物の如く伸び横たはれる子持の女。

 

十二月十一日(木) 晴、  

 目さむれば、舶は依然昨日と同じくサイパン沖にあり。朝將棋、デッキ散歩、十一時過漸くテニアンに着く。上陸。西澤氏と街を歩き、ミルクを飮み、ようかんを食し、すしをくひ、落花生を買ふ。ひ薙貨店、食料品店をひやかす。ちなみに西澤(ニシザハ)氏は水産試驗所の技手にして毒魚の毒素について調査中の人なり。三時四十分歸舶。就寢迄には船未だ動かず、朝鮮人人夫多數下船、

 

十二月十二日(金) 曇、細雨、後晴  

 今朝未明に出帆せるものの如し。將棋。救命胴衣をつけて避難練習。午睡。三時のラヂオよく聞えず。讀書室のコスモポリタンを讀み、BUNRAKUの寫眞を見る。夜に至る迄潛水艦現れず。

 Everything is hunky-dory. とは Everything is all right. の意なり。この slang は横濱の本町通が分れば、船に歸る路が判り、即ち all right なりとて、米國水夫の言ひ慣はしより起りしものとぞ。ホンチョウドホリがハンキイ・ドーリとなりしものなり。

 

とあって、一行空けで本長歌が記されて同日の日記は終わっている。

 引用日記については、向後の電子化の際に詳細な注を附したいと思っているが、幾つかだけ簡単に補注すると、まず、敦はまさにこの日記の始まる九月十日以降、当時、植民地域となっていたミクロネシアの島々への巡検出張に従事するようになっていた。これについて彼は「實にイヤでイヤで堪らぬ官吏生活(蠟を嚙むどころではございませぬ。こんなあぢきない生活は始めてです)の中で唯一の息拔きの出張旅行」と告解する楽しみでもあった(引用は底本の旧全集第三巻「書簡Ⅰ」の昭和十六年九月十三日附の実父中島田人宛書簡(同全集書簡番号一一七)より)。このテニアン行もその一環である。「御用船」というのは戦時に政府や軍が徴発して軍事目的に使用した民間の船舶のことを指し、ここで敦が乗船している「鎌倉丸」はかつてサンフランシスコ航路の客船であったものを海軍が徴用していた日本郵船所属のそれを指すものと思われる(同船はこの二年後の昭和一八(一九四三)年四月十八日に将兵及び民間人多数を乗せてボルネオ島東岸のマッカサル海峡に面したパリクパパンへ向かう途中、米潜水艦からの魚雷攻撃を受けて沈没していることがこちらのページで確認出来た)。開戦直後であることから、安全を考慮してテニアン行の船便が海軍徴用船鎌倉丸に変更されたものかと思われる。にまた、「hunky-dory」はアメリカ口語の形容詞で「すばらしい」「最高の」の意で、この単語自体が“Everything is OK”・“excellent”、則ち総てに於いて申し分がない、すべてついて満足の謂いを持つ。ここで敦が語る語源説は眉唾と思われる方もあろうかと思うが、個人ブログ「Jackと英語の木」の「横浜はOkey-dokeyでHunky-doryだよ。英語になった横浜本町通り。」を読むと、どうして、十分に信じ得る語源説であることが分かる。

 敦は日記本文では大戦の勃発直後ながら、一見、泰然自若とまではいかないまでも、意識的に平常の生活をしようと心掛けているように思われるが(この十日にはイギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦でも日本海軍は大勝利を収めている)、しかし、この異例の山上憶良ばりの長歌の作歌には、単なる妻子や故国への思慕憧憬以上に、この今始まったばかりの戦争が意味するところの「相當に危險ならんか」という不吉な危惧が通奏低音のように流れているように思われてならない。以下、長歌の語釈を示す。

「山菅の」「やま」と同音で「止まず」にかかる枕詞。

「桓」は「たけし」で敦の長男。当時満八歳。

「格」は「のぼる」で敦の次男。当時未だ満一歳と十ヶ月程。

「しみらに」副詞。一日中断え間なく。絶えずひっきりなしに。

「はしきやし」は「愛しきやし」で形容詞「愛(は)し」の連体形に間投助詞「やし」がついたもの。愛おしい、懐かしいの意。

「あからひく」は「赤ら引く」明るく照り映える。また、この意から「日」「朝」にかかる枕詞であり、「格(のぼる)」のそれ(昇る朝日)に準じさせようとしたものか。

「さ丹づらふ」(「つらふ」は「頬(つら)」の動詞化とされる)赤く照り映える意で、通常は「色」「黄葉(もみぢ)」「君」「妹」などの枕詞であるが、ここはその原義を生かした。

「うまじもの」は「うましもの」の誤り。美味しいものの意から「阿部橘」に掛かる枕詞。「馬じもの」では馬のようなさまをして、となってしまう。

「阿部橘」柑橘類。

「時じくの かぐの木の實」「非時の香の菓」で橘の実のこと。夏から早春まで永く枝にあって香りが消えないことに由来する。

「みくだもの」「実果物」か、果物に美称の接頭語を附したものか。私は後者で採る。

「不樂(さぶ)しさ」淋(さぶ)しさ。心が楽しくなく晴れないこと。「不樂」で「さぶし」と訓ずるのは「万葉集」の上代特殊仮名遣である。

「甚(いた)もすべなみ」「甚もすべ無み」で「甚も」は上代の副詞(形容詞「いたし」の語幹+係助詞「も」)で甚だしくも、大変の意、「すべなみ」(「なみ」は上代語で形容詞「なし」の語幹+原因理由の意を表す接尾語「み」)は「術無み」で仕方がないので、の意。「思ひあまり甚もすべ無み玉たすき畝傍の山にわれは標結ふ」(「万葉集」巻之七・一三三五番歌・作者不詳)など上代歌謡にしばしば見られる語法。

「にはたづみ」「潦」で原義は雨が降って地上に溜って流れる水。そのさまから「流る」「すまぬ」「行方しらぬ」等に掛かる枕詞となったもの。]

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