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2013/10/03

耳嚢 巻之七 近藤石州英氣の事 (追加補注)

[やぶちゃん補注:なお、本話については、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、後世の識者がこの相手をした御番衆の人物を特定し、かなり詳細な注を頭書で追加している。以下に、恣意的に正字化の上、読みも歴史的仮名遣に直したものを、掲げて注し、現代語訳を附しておく。本文は底本では全体が二字下げである。

 

   下げ札

本文近藤石見守鎗術相手いたし候御番衆、姓名無之(これなき)由に付相糺(つきあひただし)候處、鈴木錠左衞門と申仁(まうすじん)右石見守組にて、當時致隱居(いんきよいたし)鈴木如雲と改名致し、右之者寶藏院流鎗術師範いたし、石見守には種田流にて、寛政七卯年大坂在番之節本文之通(とほり)石見守と於御小屋(おこやにおいて)仕合(しあひ)十本致し、錠左衞門勝利を石見守殊之外(ことのほか)賞美いたし、「武の御備(おんそなへ)にも可相成間(あひなるべきあひだ)、以來他流之無差別(しやべつなく)、毎月御番衆於御小屋に仕合致(いたし)候樣(やう)」、石見守被申渡(まうしわたされ)候よし。

但(ただし)、弓給(たまひ)候儀は別之年にて、同八辰年御番衆大的(おほまと)十本射(い)、頭見分有之(けんぶんこれあり)、十之者へ弓壱張づゝ頭より給候よし、如雲直咄(ぢきばなし)にて承(うけたまはり)候。 天保二卯年

 

□やぶちゃん注

●「下げ札」とは「下げ紙」「付け紙」で、本来は役所などに於いて上役が意見や理由などを書いて文書に貼りつける付箋をいう。この頭書が後に別紙に書かれて添付されたものであることを示すもの(本文と区別するために)であろう。

●「鈴木錠左衞門」ここの底本である岩波版長谷川氏注に『義輔(のりすけ)。寛政六年(一七九四)大番』とある。

●「種田流」江戸前期に相模甘繩藩士種田平馬正幸が大島流槍術を元に開いた素槍の有力流派の一つ。二間(約三・六メートル)から二間一尺(約四メートル)にも及ぶ長い素槍を遣い、その技は柔軟で細やかである。本流派では早期から他流試合を重んじており、江戸後期に至ると武術全般の再興の機運が高まって来、それに乗じて大いに流行して、特に幕末に素槍の使い易さが認められと、宝蔵院流に次ぐ隆盛を見たという。種田流の特徴は戦場での働きを重視する他の流派と異なり、剛健さを強調した高価な槍を用いたり、試合を重んじたり、究極的には一対一の対決を重視している点にあるという(以上は詳述を極めた「維新の嵐」の種田流槍術のページに拠った)。また同流には宝蔵院流の遣う十文字槍、その他、鍵槍を使う技が一部に含まれているとウィキにはあり、流派のポリシーや使用する槍の点からも、石見守が彼に挑もうとしたことが腑に落ちる。

●「寛政七年卯年」西暦一七九五年。

●「御小屋」岩波版長谷川氏注に『従者の住宅』とある。

●「大的」弓道に於いて歩射の正式の的であり、現在の尺二的(小的)が普及するまで一般に使用された。直径五尺二寸(約一五八センチメートル)。垂直に吊るして使用し、武家の新年の弓射儀礼である的始めなどで用られ、現在でも小笠原流の儀式で用いられている(以上はウィキ的(弓道)」に拠った)。

●「十之者」岩波版長谷川氏注に『十中の者。十矢とも当てた者』とある。

●「同八辰年」この槍試合の翌年、寛政八(一七九六)年。用和が駿府城代になる直前のことか。

●「天保二年」西暦一八三一年。「卷之七」の執筆推定下限文化三(一八〇六)年から二十五年後で、根岸鎭衞の(文化一二(一八一五)年)死から十六年の後の記載である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

   下げ紙による注

 本文の近藤石見守用和(もちかず)殿の槍術の相手を致いたと申す御番衆については、姓名が記されておらぬため、このことにつき、現在知り得る関係者に事実関係を質いたところが、鈴木錠左衛門(じょうざいえもん)と申す御仁が、かの石見守殿の組にあって、現在は既に隠居致いて、鈴木如雲と改名致いておらるることが判明した。この御仁は宝蔵院流槍術の師範であられる。

 なお、石見守殿に於かせられては種田流の遣い手であられた由。

 寛政七卯年のこと、大坂在番の節、本文の通り、石見守殿と御小屋(おこや)に於いて、都合、試合十本致いて錠左衞門が勝利致いたを、石見守殿、殊の外賞美なされて、

「武(ぶ)の備えにも相い成ろうほどに――以來、他流の差別なく、毎月御番衆はこの御小屋に於いて試合致し、精々出精致すように。」

と、石見守殿直々に申し渡しなされた、とのことにて御座った。

 但し、弓を賜われたと申す儀は、実際には別の年のことであり、これは同寛政八年辰年のこと、御番衆が大的(おおまと)十本射(い)、頭(かしら)見分がこれ御座った折りに、十射十中の者へ弓一張ずつ、頭より賜われて御座った由。

 以上は如雲殿御自身の直談にて、承って御座った。 天保二卯年記

 

この注記を記して呉れた御仁、何とも有り難い御仁ではないか。]

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