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2013/10/28

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 1 日光街道点描1

 第四章 再び東京へ

 


M90


図―90

 

 二日間続けさまに雨が降って我々に手紙や旅行記を書く時間を充分与えて呉れた。朝の五時、我々は東京へ向けて出発した。人力車は旧式な二輪馬車みたいに幌をかけ、雨をふせぐ為に油紙を前方に結びつけた(図90)。我々は文字通り仕舞い込まれて了ったあげく、七台の人力車を一列につらねて景気よく出立した。車夫の半数は裸体で、半数はベラベラした上衣を背中にひっかけた丈である。確かに寒い日であったが、彼等は湯気を出して走った。時々雨がやむと幌を下させる。車夫たちは長休みもしないで、三十マイルを殆ど継続的に走った。急な傾斜のある場所では、溝に十フィート、あるいは十五フィート置きに堰(せき)が出来ていて、水流の勢を削ぎ、かくて水が勝手に流れ出るのを防ぐようになっているのに、気がついた。また立木は如何なる場合にでも斧で伐らず、鋸で引いて材木を節約する。時に大きな岩塊に、それを割ろうとした形跡のあるのを見たが、鑽孔は円形でなくて四角い。街道には変った人々がいた。我我がすれちがった一人の巡礼は、首にかけた小さな太鼓を時々たたき、口を開くことなしに、息を吹き出して了ったバッグパイプのような、一種間ののびた、つぶやくような曲節に似た、音を立てるのであった。この音は彼の祈禱で、巡礼中絶えず口にするものである。何百マイルも旅をして各所の神社仏閣に参詣するこれ等の人々の中には、大工や商人や百姓等などもいる。彼等はよく一銭も持たずに、たとえ家には充分金があっても、途中の食事と宿とは人人の施しを頼りにして、巡礼に出かけることがある。

[やぶちゃん注:「三十マイル」約48・3キロメートル。

「十フィート、あるいは十五フィート置き」3~4・6メートルおき。

「口を開くことなしに、息を吹き出して了ったバッグパイプのような、一種間ののびた、つぶやくような曲節に似た、音を立てるのであった」六根清浄か。]

 

 我々が昼飯をとるために休んだある場所では、一人の男が詩だか何だかを朗誦していたが、彼の声には非常に緊張した不自然な調子があった。彼は二つの長い木片を持っていて、適当な時間を置いては彼の話に勢をつける為に、それを叩き合せた。家の近所にいた人は誰も彼に注意を払わないので、我々は一銭ずつ出し合って、彼になおしばらく朗誦を続けさせた。我々が旅した街道には、前にも述べたような立派な松や杉が、塀のように立ち並んでいた。他所に於ると同様、ここでも燕が家の中に巣をつくり、最も善い部屋にまで入り込む。床がよごれるのを防ぐ為に棚が打ちつけてある。

[やぶちゃん注:「一人の男が詩だか何だかを朗誦していた」拍子木を持っている点では増上寺の七ツ坊主などとよく似ている(唱えるのは無論、念仏。但し、「七ツ坊主」は通常は複数による托鉢である)。托鉢僧と考えてよかろう。]

 

 街道には短い間隔をおいて標があり、次の場所までの距離が示してある。三十五マイル来た時、路が非常に悪くなり、また風も著しく勢を増したので、我々の車夫は疲れて了い、引き返し度いといい出した。そこで賃銀を貰った彼等は、四銭出して食事をした後、帰って行った。我々が通過した村のある物は貧しげに見え、村民たちも明らかに貧乏やつれしていた。外国人がめったにやって来ないので、我々が通ると家族全体が出て見送り、我々が止ると人の黒山があたりを取巻いた。人々は最下層に属し、粗野な顔をして、子供は恐ろしく不潔で、家産は貧弱であったが、然し彼等の顔には、我国の大都市の貧民窟で見受けるような、野獣性も悪性も、また憔悴(しょうすい)した絶望の表情も見えなかった。我々が昼食をしたある村では、お主婦(かみ)さんが我々の傍に膝をついて坐り込み、我々が何か口に入れるごとに、歯をむき出してニタワニタリと笑ったり、大声を立てて笑ったりした。そして最後にうるさくてたまらぬ程になったので、ドクタア・マレーが日本語で、何がほしいのだと叱るように質(たず)ねたら、彼女はその意味を悟って向うへ行った。この憐れむ可き女は何も知らず、そして極めて好奇心に富んでいるので、我々の顔色、服装、食物、動作、ナイフとフォーク、その他すべてのこまかいこと迄が全然新しく、見馴れぬものなのだった。彼女の態度は、たしかによくなかった。

[やぶちゃん注:「三十五マイル」約56キロメートル。地図上で計測してみると、現在の下野市の小金井辺りになる。]

 


M91


図―91

 


M92


図―92

 

 このきたならしい町に於てですら、我我が立寄った旅籠屋を、ニューイングランドその他の我国の各所で私が見た宿屋と比較すると、面白いことが見出された。図91は我々の部屋の一面をざっと写生したものである。棚はざらざらした虫喰いの板、柱は自然のままの木の幹、それから簡単なかけもの。細部はしっかり建てられてあった。この部屋は美しい庭に面していて、庭には水をたたえた小さな木槽があった。その材木は海岸から持って来たのである。事実それは船材の一部分で、色は黒く、ふなくい虫が穴をあけたものである。その中には岩と水草と真鍮の蟹その他が入っていた(図92)。それは誠に美しく、我国にでもあったら、最も上等な部屋の装飾として、熱心に探し求められるであろうと思われた。この部最の壁にかけられた書き物は、翻訳を聞くと、古典の一部であることが判った。私は米国の同じような場所の壁を飾る物――拳闘、道化た競馬、又は裸の女を思い浮べ、我々はいずれも、日本人の方が風流の点では遠かに優れていることに同意した。この繊細な趣味のすべてが、最も貧しい寒村の一つにあったのである。そしてこの異教人の国で、芸術的の事物を鑑識することが、如何に一般的に行われているかを示している。

 

 此所で我々は、我々の人力車夫と喧嘩をした。彼等は我々が手も足も出ないような地位にあるのを見て、所謂文明国でよく行われるように、足もとにつけ込もうとしたのである。我々はステッキで彼等を威嚇した。すると彼等は大人しくなったが、事実彼等は悪人ではないので、事態は再び円滑になった。雨が絶間なくビショビショ降り、おまけに寒かったが、これ等の裸体の男共は、気にかける様子さえも示さなかった。日本人が雨に無関心なのは、不思議な位である。小さな赤坊を背中に負った子供達が、びしょ濡れになった儘、薄明の中に立っていたりする。段々暗くなるにつれて、人力車に乗って走ることが、退屈になって来た。低い葺き屋根の家々が暗く、煙っぽく見え、殆どすべての藁葺屋根から、まるで家が火事ででもあるかのように、煙が立ち登る。茶をのむ為に休んだ場所には、どこにも(最も貧し気に見える家にさえ)何かしら一寸した興味を引くものがあった。例えば縄、竹、又は南京玉のように糸を通した介殻さえも材料にした、簾(のれん)の器用なつくりようがそれである、これは戸の前に流蘇(ふさ)のように下っていて、風通しがよく、室内をかくし、そして人は邪魔物なしに通りぬけることが出来るという、誠にいい思いつきである。村の一軒の小さな家の屋根が、鮑(あわび)の大きな完全な介殻や、烏賊(いか)の甲で被われていたことを覚えている。これ等は食料として海から持って来もので、殻を屋根の上にのせたのである。

 


M93


図―93

 

 最後に人力車の旅の終点に着いた我々は、すべての旅館に共通である如く、下が全部開いた大きな家の前に下り立った。非常に暗く、雨は降り続いている。そして車夫たちが、長い間走ったので身体から湯気を立てながら、絵画的な集団をなして、お茶を――ラム酒でないことに御注意!――飲み、着色した提灯のあたたかい光が、彼等の後に陰影を投げて、彼等の褐色な身体を殆ど赤い色に見せている所は、気味が悪い程であった。彼等は野蛮人みたいに見えた。この家には一体何家族いるのか見当がつかなかったが、すくなくとも半ダースはいたし、女も多かった。図93は戸外から我々を見つめていた子供達の群である。一室に通された我々は、草疲(くたび)れ果てて床の上にねころがった。

 


M94


図―94

 

 天井には長い棒から蚕(かいこ)の卵をつけた紙片が何百枚となくぶら下っていた(図91)。これ等はフランスに輸出するばかりになっている。紙片は厚紙で長さ十四インチ、幅九インチ、一枚五ドルするということであった。いい紙片には卵が二万四千個から二万六千個までついている。紙片は背中合せにつるしてあって、いずれも背に持主の名前が書いてある。横浜の一会社が卵の値段を管制する。この会社は日本にある蚕卵をすべて買占め、ある年の如きは卵の値段をつり上げる為に、一定の数以上を全部破棄した。この家の持主らしい男は中々物わかりがよく、我々は通弁を通じていろいろと養蚕に関する知識を得た。彼には奇麗な小さな男の子がある。私は日本に来てから一月になり、子供は何百人も見たが、私が抱いて肩にのせさえした子供はこれが最初である。家の人達はニコニコして、うれしがっていることを示した。

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