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2013/10/26

中島敦 南洋日記 九月二十九日

         九月二十九日(月) ジャボール

 四時過起床、

 六時より公學校視察。本科一學年未だに通譯つきなり。コロールとは大差あり。發音上ハ行とア行との混同甚し。教師の日本語又、面白からず。二十九日(ニジウキュウニチ)、二十日(ニジウニチ)八日(ハチニチ)九日(クニチ)等。八時半頃より支廳長と語る。中々教育に意見ある人なり。九時過より小運動會を見る。彼等の應援歌巧みなる三部(?)合唱なり。

「みどり」にて晝食。後、竹内氏の東道にて、島内、島民部落見物。大酋長カブアを訪ふ。バンガロー風の瀟洒たる家なり。別に廚房あり。Kabe
 四面、皆格子風の作りなり。この酋長の家はアイリンラブとヤルートとの兩地方に跨る豪家の由。今、彼の父親はアイリンラブにて瀕死の重病といふ。家の入口に表札あり、曰く「八島嘉坊」。ヤシマカブアとの附(フリ)假名あり。はじめカブア不在。役場にありといふ。呼びにやる。美婦二人あり。カブアの妻と、その妹なりと。色は内地人程度にして、内地人に伍するもとして見るも、頗る美貌といふべし。(二人とも前南貿支店長野田某と島女との混血なりと)。やがて主人歸る。三十前後の大人しき靑年なり。この酋長の家、年收七萬近くありと。英語を能くするといふ。タコノ實、サイダー、椰子水の馳走になり、一時半頃辭去。直ちに公學校に急ぐ、約束の時間を遲るゝこと一時間。直ちに小座談會に移り、現行國語讀本の檢討を行ふ。三時半終る。四時半より、料亭「竹の家」に於て、歡迎宴あり、支廳長、庶務課長、竹内、松井兩氏、公學校教員、小學校長等出席、八時歸宅。

 今日半日、竹内虎三氏と語り、頗る愉快なり。南洋廳には珍しき氣骨ある男なり。

 島民經營に「樂しき熱意」を抱けるものの如し、く、ヤルート島民樂圈を率ゐ、諸離島を巡遊の豫定といふ。渠が曾遊の東の島々に於ける經驗を聞くに、宛として夢の國の物語の如し。終日の饗宴の準備の後、夕暮、歌ひつれつゝ花輪を手にせる少女等が饗宴場に來り、一人一人、渠の頭に眉に花輪を掛けるといふ。さて焚火。石燒、料理のかぐはしき數々、など、スティヴンスンやロティの世界の如し。かゝる島々に、黑き樂團をつれて旅するは、如何に樂しきことぞ! 遊意をそゝらるゝこと頻りなり。

[やぶちゃん注:太字「キュウ」は底本では傍点「〇」。この能天気な日記……しかし私は何か到る箇所に不快で何やらん厭な感じを抱かざるを得ないのである。……既にして当時の南洋植民地行政や教育の実態を知ってしまうと、である。……敦よ、そのお膳立てされた運動会の三部合唱の応援歌も勿論、日本語だったんだよねぇ?!……

「東道」は「とうだう(とうどう)」で、「東道の主(しゅ)」のこと。ホストとなって来客の案内や世話をする者のこと。東道の主人。「春秋左氏伝」の「僖公三十年」の東方へ赴く旅人をもてなす主人に基づく。

「八島嘉坊」創始改名を思い出して慄然とした。

「南貿」南洋貿易株式会社。同社の濫觴は明治二三(一八九〇)年に田口卯吉を船長に旧薩摩船「天佑丸」が南洋に向かって品川港を出帆したのに遡り、三年後の明治二六(一八九三)年にこの関係者らが資本金八千円で組合事業として南洋との貿易を開始した。明治二七(一八九四)年資本金一万二千円で合資会社を設立、社名を南洋貿易日置合資会社とし、自社船を以って南洋群島との交易を行った。大正九(一九二〇)年に南洋群島が国際連盟によって公式に日本統治領となる遙か以前から南洋貿易が盛んに行われていたことがこれで分かる。明治四一(一九〇八)年に南洋貿易株式会社に改組し、南洋群島各所に支店を開設、大正四(一九一五)年にはラバウル及びギルバート(現在のキリバス共和国)に支店を設置、海運・椰子・コーヒー・麻栽培の拓殖事業・真珠養殖事業・搾油事業等、経営の多角化を進めた。昭和一七(一九四二)年、太平洋戦争による戦時統制経済指導によって栗林徳一率いる国策会社南洋興発株式会社と合併(資本金五千万円)、鉱業(燐鉱・マンガン鉱)・農林業・製糖事業(サイパン・テニアン・マニラ・スラバヤ)を併せ、南洋方面に於いて各種事業を定着させ、地域特色のある総合事業会社に発展した。敗戦直後の昭和二〇(一九四五)年九月に南洋興発は在日占領軍総司令部指令による閉鎖機関指定を受けて解散したが、昭和二五(一九五〇)年に栗林商会グループの貿易会社として南洋貿易株式会社(資本金三百万円)を復活。丸の内ビルに本社を置き、現在に至る。以上は、現存する「南洋貿易株式会社」公式サイトの沿革」に拠った。この敦の記述を信じるなら、南洋貿易株式会社は近現代日本の南洋方面に於ける経済基盤拡張に尽力ばかりでなく、大和民族の血を拡散浸透混血させることに於いても『大いに尽力した』と言わねばなるまい。これも何か厭な感じの一員なのである。

「七萬円」現在の二六〇〇万から三〇〇〇万円程に相当すると思われる。

「竹内虎三」敦が南洋で意気投合した数少ない人物の一人であるが、詳しい事蹟は分からない。後掲する十月一日附中島たか宛書簡(旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三一)に敦が逢った当初の様子が詳しいが、岡谷公二「南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦」(冨山房)によれば、この人物は『敦がやってきたとき、ヤルート支庁の庶務課員で判任官五級だった』が(「判任官」明治憲法下の最下級官吏の等級。高等官(勅任官・奏任官)の下。当時の軍隊の下士官・現在の事務官に相当)、『昭和十八年の『南洋庁職員録』によると、ポナペ出張所に転勤し、同じ判任官の五級ながら、総務課の課長に出世している』とある。

「かゝる島々に、黑き樂團をつれて旅するは、如何に樂しきことぞ! 遊意をそゝらるゝこと頻りなり」敦はこの十一年も前、東京帝大二年生満二十二歳の八月のこと、浅草の踊り子を組織して台湾興行を企てようとした、という記載が旧全集の公式な年譜に記されてある。若き日の敦の思いが、この竹内の夢想に強く共鳴したことは想像に難くない。最後の部分で、私は何かちょっと微笑むことが出来たのである。
 最後に同日附の桓宛書簡を示しておく。
   *
〇九月二十九日附(ヤルートで。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四一)
 けふは、島民の子どもたちのうんどうくわいを見ました。
 まつくろな女の子たちが、
 「トントン、トンカラリト、トナリグミ」
 と歌ひながら、いうぎをしました。
 三年生ださうです。
 
   *
当時の桓は満八歳であるから、この子たちと同じ国民学校初等科三年であった(この昭和一六(一九四一)年三月一日に国民学校令が公布され、同四月一日の施行によって従来の小学校が改組され国民学校となっていた)。]

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