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2013/10/25

中島敦 南洋日記 九月二十八日

        九月二十八日(日) ジャボール

 三時半起床、海岸を散歩す、ミレ村共同宿泊所エボン村共同宿泊所等と書ける家屋の傍に各島民の炊事せる樣面白し、一ケ所、かなり深く水を湛へたる巖陰あり、水殊に澄明にして群魚遊泳の狀、手にとるが如し。黑鯛程の大いさにて、太く鮮やかなる數本の黒きたて縞を有するもの最も多し、岩陰より出沒するを見れば、彼等の巣なるかに見ゆ。その他、淡水魚エンジェル・フィッシュそのまゝの小魚。透きとほらんばかりの、鮎に似たる細長き魚、濃綠色のリーフ魚。刷毛の一刷の如き尾を

有てる Bera_2 褐色の小怪魚。ひらめの如き幅廣き黑き魚。鯵の如きもの。殊に駕くべきは、想像し得る限りの最も明るき瑠璃色をなせる(リーフ魚の如き)小魚(長さ六七糎もあらんか)の群なり。朝日射し來る水中に、彼等の群れのヒラヒラと搖れ動くや、その鮮かなる琉璃色は、濃紺となり紫藍となり綠金となり玉蟲色となつて、目も眩むばかり。かゝる珍魚共、種類にして、二十、數にして千をも超えたるべし。奇觀、美その徴逐去來して嬉戲する美觀、奇觀、筆舌の能く盡す所に非ず。茫然として見惚るゝこと一時間餘、殆ど去る能はず。蓋し、この印象は、終生、忘るゝこと能はざるべし。 *黑き輪の紋を有する鼠色の海蛇の匐ふをも見たり。

 五時半、朝食、七時、飯田徹三氏を訪ふ。内海氏の弟子にして、ヤルート國民學校長なり。八時より島内を獨り歩き廻り、繪葉書を購めて歸る。松井氏來。旅館みどりの主人、頻りに我を招く由。北原氏の紹介ありしならむ。

 午後、桓あてに繪葉書を書きなどす。四時、夕食(ここのおかずは鰹ばかり)後、みどりへ行き、主人齋藤氏と語る。明、晝食より厄介になることとす。五時、月すでに明るし。七日、八日頃なれども、内地の滿月ほどの明るさなり。海岸のたまなの下のベンチに暫し憩うて涼む。微風あり。月明らかに星又、多く、靜かなる礁湖の面は、夜空の雲の影をも浮かべんとす。帆船共の檣、動かず、時に土民靑年のギターを彈じつゝ、道を過ぐるあり。微吟の聲又、所々に聞ゆ。概ね、南國艷詞の類なり。

 八時頃、海岸より歸つて、就寢。

[やぶちゃん注:意外に思われるかもしれないが、私は海産無脊椎動物は守備範囲乍ら、魚類は必ずしも詳しなく、その関心度や同定直感も無脊椎動物群へのそれに比すと頗る低下する。従ってここで敦が一期一会の絶景と称した映像の中に群泳する魚類に対しても自信はない。当初は投げ出して魚通の方から御教授戴けるのを待たせて頂こうとも思ったが、やはりここは暴虎馮河で行こうと決心した。同定の誤りへの御叱正を切に望むものである。

「黑鯛程の大いさにて、太く鮮やかなる數本の黒きたて縞を有するもの」魚類学では縦縞は体幹に並行して走る紋を言うが、察するところ、敦は漁体の上から下へ縦に走っている横縞をかく表現しているように思われてならない(一般人が縦縞と横縞を誤っているケースは頗る多い)。そこで取り敢えず複数の(三本以上と考えてよかろう)太い横縞を持つと仮定し、しかも「黒鯛程の大」きさ(恐らく一般的なクロダイの大きさである三〇センチメートル前後の謂いであろうが、陸からの目視なのでそれよりも小さい可能性が高いように思われる)で、しかも群れを作り、「岩陰より出沒」し、そこを巣としているように見える、則ち、珊瑚の隙間に逃げ込む性質が顕著な魚種(ということはやはり三〇センチメートルより小さいと考える根拠でもある)という限定で考えると、スズキ目ベラ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科ミスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus aruanus 辺りが同定候補となるか? 全長八~一〇センチメートル程度の小型魚類であるが、先に述べた通り大きさは必ずしも確定条件たり得ないし、側扁した白地の体にまさに名前の由来となっている三本の黒い「横縞」を持っている点、インド太平洋の珊瑚礁に最も一般的な魚種である点、水深一〇メートルほどの浅海のリーフ内を生息域とし、珊瑚(特に枝状・テーブル状の花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目ミドリイシ科ミドリイシ属 Acropora)の隙間を外敵からの回避や休息に利用する点で敦の描写条件を満たすように思われる。グーグル画像検索Dascyllus aruanusを見て頂いても、眼に鮮やかで敦の稀有の総天然色のシークエンスの中心に配するに恥じない魚体であると私には思われる。縞の数が三本では気に入らない御仁には、尾鰭にも太い黒色横帯があること、黒色横帯が背鰭でつながらず、独立している点でミスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus aruanus と区別出来るヨスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus melanurus もいる(グーグル画像検索「Dascyllus melanurus)。

「エンジェル・フィッシュそのまゝの小魚」「そのまゝの小魚」というところが気になるが、これは形状の相似形であるチョウチョウウオ科ハタタテダイ Heniochus acuminatus 又はムレハタタテダイ Heniochus diphreutes 、または高い確率でそれらの稚魚ではなかろうか? 成魚は孰れも全長二五センチメートルほどになる。孰れも長く伸びた背鰭の棘条を特徴(これが白い旗を立てているように見えることが和名「旗立鯛」の由来)し、白地の体に二本の太い黒色帯が走る。背鰭の後半部・胸鰭・尾鰭は黄色を呈する。前者はペア又は数匹規模であまり大きな群れを作らないのに対し、ムレハタタテダイは大きな群れを形成する点では、敦のパラダイスには後者が相応しいように見えるが、この群れの形成(ウィキの「ハタタテダイ」に拠る)は成魚の場合と考えられ、そもそもこの二種は一般人には識別が出来ない(同ウィキに『研究者でないとわからないが、背びれの棘の数が12本の場合ムレハタタテダイで1本少ないのが本種である』とある)。グーグル画像検索Heniochus acuminatusHeniochus diphreutesを引いておく(但し、必ずしもそれぞれの種に限定された画像とは限らないので注意されたい。でもこうして見ているだけでも敦の感動の片鱗は味わえるように私には思われる)。

「透きとほらんばかりの、鮎に似たる細長き魚」何らかの魚の幼魚と思われるが同定不能。トウゴロウイワシ目トウゴロウイワシ科 Atherinidae の仲間の稚魚か? トウゴロウイワシ科三亜科一二属六〇種からなり、体長一〇センチメートル未満、インド太平洋に広く分布する。二基の背鰭は広く離れ、胸鰭は高い位置にある。体はしばしば半透明で銀色の縦縞を持つ。稚鮎と例えば一般的に知られるギンイソイワシ属のトウゴロウイワシ Hypoatherina valenciennei は画像で見る限り、似ているようには思われる。

「濃綠色のリーフ魚」スズキ目ベラ科クギベラ Gomphosus varius の♂か? 珊瑚礁の浅海に棲息し、成魚では吻が著しく長く伸びているが、これは幼魚かも知れない(幼魚は吻は突出しない)。本種は雌雄で色彩が異なり、雄は鮮やかな緑色で胸鰭基部の上方に横帯を有する。雌の体色は前半部が灰色がかって後半部は黒色っぽいが、背部はやはり緑色を呈し、体側に二本の縦帯を持つ。成魚の体長は二〇センチメートルを超える。

「刷毛の一刷の如き尾を有てる褐色の小怪魚」これも同定困難であるが、「刷毛の一刷の如き尾を」もっているというのはスズキ目ベラ亜目ベラ科の魚種を想起させる。敦の選んだ語彙からはイトヒキベラ属ベニイトヒキベラ Cirrhilabrus rubrimarginatus などが浮かびはするが、「WEB魚図鑑」の「ベニイトヒキベラ」を見ると敦の描いた挿絵のようなずんぐりした魚体ではない。

「ひらめの如き幅廣き黑き魚」視認出来たということはリーフの底に見えたか、遊泳していたと考えられ、するとかなりの大型個体であったことが推定出来る。するともしこれが文字通りで底生型のヒラメにそっくりなものであったとすれば、一つの同定候補としてはカレイ目カレイ亜目ダルマガレイ科ホシダルマガレイ属モンダルマガレイ Bothus mancus を挙げてよいかと思われる。同種は眼と眼の間隔が極端に広く、体側中央部に大きな黒班が二つあること、成熟した雄の眼側の胸鰭は長く伸びるといった特徴を有し、ご多聞に洩れず、周囲の環境に合わせて体色を自在に変化させるので「黑」でも問題ない。

「鯵の如きもの」見た目の魚体が普通のスズキ亜目アジ科アジ亜科マアジ Trachurus japonicas に似ており、しかもリーフの内側にいる(リーフ・エッジや外縁にいるアジ類は結構多い)という点では内湾性で浅い所に多いアジ亜科ギンガメアジ Caranx sexfasciatus 辺りか。標準和名ギンガメアジは長崎での呼称に因み、銀色の体表が銀紙を張ったように見えることから銀紙鯵と表記する。

「想像し得る限りの最も明るき瑠璃色をなせる(リーフ魚の如き)小魚(長さ六七糎もあらんか)の群」魚類苦手の私の安直な発想で悪いが、スズキ目キンチャクダイ科アブラヤッコ属ルリヤッコ Centropyge bispinosus か? 体は楕円形に近く、体側には紫色の横帯を持つ。体色の基盤は明るいオレンジ色を基本とし、腹鰭は黄色っぽく、背鰭・臀鰭・尾鰭は青っぽく、魚体全体が青白く縁取られている。但し、地域や個体差が激しく、敦の言うような紫が強く、魚体全体が夕景の瑠璃色に見えるものもいる(後の画像を参照)。体長八~一〇センチメートルまでの小型魚である(グーグル画像検索「Centropyge bispinosus)。

「徴逐」は「ちょうちく」と読み、招いたり招かれたりすることの意。

「黑き輪の紋を有する鼠色の海蛇」この描写によく適合すると思われるのは有鱗目ヘビ亜目コブラ科ウミヘビ亜科エラブウミヘビ属アオマダラウミヘビ Laticauda colubrine であろう。グーグル画像検索「Laticauda colubrina」はこちら

「桓あてに繪葉書を書きなどす」以下に桓宛書簡三通及び同日附たか宛書簡一通を示す。

   *

〇九月二十八日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートで。ヤルート島海岸通りの絵葉書 旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号三八)

 きのふヤルートへつくと すぐ小さい船(ふね)(ボンボンボンといつて走るやつ)にのりかへて、べつの島に行きました。そのとちうで いるかが三十ぴきばかり、ぼくらの船をとりまいて、きようそうするやうに、およぎました。あたまを出したり、しつぽを出したりして およぎます。中には空中(くうちう)にとびあたがるのもあります。ぼくから十メートルくらゐ はなれた所で 三匹そろつて一どに、とびました。いるかは とても ふざけんぼ ですよ。
Iruka
   *

〇九月二十八日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートで。ヤルート島タコの樹と島民の絵葉書絵葉書 旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号三九)

 大きな タコの み が なつてゐるでせう。ほかの島のタコのみはまづいけれど、ここのは おいしさうです、南洋の中で ヤルートの土人が一番(ばん)おしやれ です。

 だから、ちやんと 服(ふく)を きて ゐるのです。

   *

〇九月二十八日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートで。ヤルート島珊瑚礁の絵葉書絵葉書 旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号四〇)

 こんな きれいな さんごせう が 水の上から 見えるのです。

 その間を いろんな おさかな が およいで行きます。

 かに が のそのそはつて行くのも見えます。なんとも いへないほど きれいです。

   *

〇九月二十八日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。パラオ丸にて。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書)

 たか助は、洗濯と掃除とで、働きすぎて、身體をこはさないやうに。

 桓は、もう少し、ふとれないものかな!

 ノチャスケは早く「おかあちやん」ぐらゐ言へるやうになれよ。

 

 桓をね、かういふ船旅に連れて來てやりたくつて堪らないんだよ。どんなに喜ぶだらうな。今日だつて、飛魚が盛んに飛ぶしね。

 

 不思議だな。僕の喘息は、旅行してる間は、起らない。隨分ゼイタクな病氣さ。

 

 海はベットリ油を流したやう。氣味が惡い位波が無い。今頃の南洋は、何時も斯(か)うなんだとさ。十一月に近づくと貿易風(ボウエキフウ)といふやつが吹き出すんだが。

 

  精肉 カレー ライス →こいつは毎日出てきてにくらしいから、喰はぬ。

 

 三食とも洋食だといいんだが、晝だけなんだよ。

 

 前に、お父さんに、「學校の廻覽雜誌の古いのを買つて送つて下さい。(或ひは得田さんにでも賴んで送つて貰つて下さい)」とお賴みしたんだが、最近は、文藝春秋や改造や中央公論は、南洋廳の方へ來ることになつた樣だから、さういふのはいらない。たゞ、「文學界」と「文藝」と「新潮」と(この中でも特に文學界がほしい)が送つて頂きたいとお父樣にお願ひしてくれ

 

  九月廿五日 木曜日 →この紙に書くと日附がいらないだらう?

 

 この日の日記は裏を見よ。*[やぶちゃん注:ここは底本ではアスタリスク三つを三角形に配したもの。次の段落の冒頭の「*」も同じ。従って次は二枚目ではなく、この便箋の裏である。]

 

 *眼がさめたら船は、もうクサイの港に入つてゐた。景色のいい所だよ。かなり高い山がつらなつて、その頂に霧のかかつてる所など、まるで内地の山みたいだ。船の人の話によると、その山の形が裸(ハダカ)の女の寐姿に似てるといふんだ。成程、さういはれて見れば、似てゐる。顏もあり、二つの乳房もあるんだが、どうもオヘソが出すぎてゐてマヅイ。ちやんと足の方まである。南洋だから、裸なんだね。

 上陸して公學校へ行き。商賣(オレも、をかしな商賣をするやうになり果てたなあ、)の方を濟ませてから、レロの遺跡(ヰセキ)といふ所へ行つて見た。獨りで。何百年か前に誰かが築いた城の址(アト)なんだが、どういふ人間共が作つたのか、今は判らない。今の土人の先祖でないことは確かだが、どういふ人種のものか、まるで謎なんだ。隨分廣く、大きいものだよ。城壁や石の道がすつかり荒れ果ててゐる上に、熱帶樹が一杯生ひ茂つてゐて、うす暗いくらゐ。近頃は誰も來ないと見えて、路に蜘蛛(クモ)の巣が一杯掛かつてゐるんだ。歩いて行くとゴソゴソと大きなトカゲが逃げて行く。段々奧へ行くに從つて、うすキミ惡くなつてくる。あんまり靜かで、あんまり植物が生ひ茂つてゐるので、白晝でも、却(かへ)つて、怖(こは)いやうだ。突然、ゴソリと足もとで音がするので、ギヨツとして、見るとね、大きな(甲羅(コウラ)だけでうちのカレーライスの皿ぐらゐな)蟹(かに)が逃出して、古い石の穴に隱れるんだ。暫く立つてゐたが、少々氣味が惡くなつて、歸つて來た。

 

九月廿六日、金曜日夜、甲板で土人の踊を見る。島民人夫が七人ばかり船に乘つてゐるんだ。彼等に部屋は與へられない。甲板にテントを張つて、そこで寐てるんだが、その島民達に踊らせた譯だ。色んな踊をやつたが、坐つてやるのが多い。兩手でしきりに膝(ヒザ)や胸や肩をピシヤピシヤ叩きながら、掛聲をかけて「エイ」とか「ヤア」とか言ふので、なんのことはない、日本の「トウ八ケン」みたいだ、右手で強く左の腕と胸の間を叩くと、ボンボンと太鼓みたいな、いい音がする。僕等が眞似しても駄目だ、場所が場所だし、月も明るくないし(月は出たと思つたら直(ぢ)き沈んぢまつた、三日月が)酒(アルコオル)もはいつてないので、(島民に酒を與(アタ)へてはいけないことになつてゐる)彼等も、あまり乘氣になれないんだ。中には、てれ臭さうに笑つてばかりゐる奴もゐる。島にゐると、月のいい晩なんか、夜通し踊つてるんださうだがね。

○夕方、南拓(ナンタク)(南洋拓殖會社)の重役と甲板で芝居の話をしてゐる中に、このお爺さんが、古賀(山村聰)のフアン(?)であることがわかつた。フアンといふのは少しをかしいが、とにかく、非常に山村聰の演技をほめるんだよ。(水谷八重子の相手をして、決して押されないと迄、言ふんだ。)古賀が一高から帝大を出た話をしたら、大變面白がつて聞いてゐたよ。

 

 明日はヤルート。思へば遠く、お前達から離れたものだなあ、

 

 船の中で、文藝春秋の九月號(パラオではまだ見られなかつた)を見たら土屋(朝日新聞にゐる男さ。何時か話したらう?)が、座談會に出て、しやべつてゐる。

 前月(八月)競の座談會には吉田(精一)が出てゐる。皆さん、お賑(ニギ)やかなことだよ。もつとも、吉田の方は、久松先生なんかと同席の會だからザコのトトマジリで餘り口を出してはゐないが。

   *

以下、簡単な注を附す。

・「南洋拓殖會社」南洋拓殖株式会社。通称、南拓。昭和一〇(一九三五)年に拓務省によって立案された『南洋群島開発十ヵ年計画』に基づき翌年発令された南洋拓殖株式会社令(昭和一一(一九三六)年勅令第二二八号)に従って設立された大日本帝国の特殊国策会社。本社はパラオ諸島コロール島、東京事務所を東京都麹町区丸ノ内の日本興業銀行ビルに置いた。南洋群島開発十ヵ年計画ではそれまで南洋興発株式会社(南興)によって主導され製糖業に偏っていた産業構造を見直し、外南洋への経済発展・移民拓殖事業の推進・熱帯産業の実験地としての南洋群島の活用を掲げており、南拓はそれらの事業の担い手として期待され設立された。経営は拓務大臣(大東亜省への吸収以降は大東亜大臣)の管轄下に置かれ、社長は拓務大臣が任命したが、経営には海軍軍人・国会議員も加わっていた。業務としては「燐鉱探掘・事業海運・土地経営・拓殖移民・資金供給・定期預リ金」を掲げ、主たる事業として拓殖事業の促進・南洋進出企業への資金供与・拓殖や移民事業への支援を通じての外南洋への進出促進が挙げられる。移民事業においては南洋庁の指定する植民区画地及び自社事業への移民の導入・南方開拓地の農業指導者養成のための埼玉県北足立郡与野町(現在の埼玉県さいたま市中央区)の「農民講道館」及びヤップ島の「南拓挺身隊道場」での教育及び実地訓練が挙げられ、拓殖事業においては南洋庁が経営していた燐鉱石・ボーキサイトの採鉱事業を継承する形で採鉱を行っている。「資金供給・定期預リ金」に関する事業として金融事業を行い、南洋群島唯一の日本銀行代理店としての機能も果たした。また、現地において農業・鉱工業・水産業・運輸業・新聞社への投資及び子会社の設立も行っている。太平洋戦争開戦以後は軍の特殊事業(軍事施設建設等)への協力を要請され、またオランダ領東インド(セレベス島・メナド等)やニューブリテン島(ラバウル等)における軍からの受託業務が中心になっていった(以上はウィキ南洋拓殖に拠る)。

・「古賀(山村聰)」俳優山村聡(やまむらそう 明治四三(一九一〇)年二月二十四日~平成(二〇〇〇)年)。本名、古賀寛定(こがひろさだ)。彼は一高を経て同じく東京帝国大学文学部を卒業しており、敦(明治四二(一九〇九)年五月生)とは恐らくは敦と同期で、知った仲でもあったものと思われる(敦は一高二年生の昭和二(一九二七)年春に肋膜炎に罹患して一年間休学しているが山村の履歴が不明なのではっきりとは言えない)。

・「吉田(精一)」国文学者吉田精一(よしだ せいいち、明治四一(一九〇八)年~昭和五九(一九八四)年)は昭和元(一九二六)年第一高等学校入学(但し、丙類でフランス語)で敦(甲類)と同期で、前注に示した如く敦は一年休学したので、一年早い昭和七(一九三二)年にやはり同じ東京帝国大学国文科を卒業しており、旧知であった(底本の「來簡抄」には吉田精一からの昭和六(一九三一)年のもの二通、昭和八年と十年のものが一通づつ、計四通が載る)。昭和一五(一九四〇)年の処女論文「近代日本浪漫主義研究」で頭角を現わし、戦後の日本近代文学会をリードした(私の教師時代の恩師猪瀬先生の中央大学文学部卒業時の卒論梶井基次郎論の担当は吉田精一で達郎先生は彼から大学に残って研究を続けないかと水を向けられたそうである)。リンク先は私の校訂になる猪瀬先生の句集)中心となる当時は拓殖大学教授。但し、この「ザコのトトマジリ」という謂いには、敦が新々気鋭の近現代文学研究者(近現代文学の専攻自体が当時として極めて異色であった)としての彼をそれほど評価していなかったのではあるまいかという印象を受ける。因みに中島敦の卒業論文も、荷風や潤一郎を採り上げた当時としては珍しい「耽美派の研究」という近代文学論だったのである。

・「久松先生」契沖研究に始まり、国学や「万葉集」を始めとする和歌など古典文学一般の基礎的研究を行った国文学の碩学で歌人でもあった久松潜一(明治二七(一八九四)年~昭和五一(一九七六)年)。実は前の注に示した敦の卒業論文「耽美派の研究」の主任審査を担当したのは、何を隠そう、当時帝大国文学科助教授であった久松潜一であった。

   *

 最後に。このクレジットを有する書簡を二通紹介しておく。一通目は敦の横浜高等女学校時代の初期の教え子、諸節登志子宛書簡である。

   *

〇九月二十八日(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートにて。横浜市中区初音町三ノ六一 諸節登志子宛。絵葉書『南洋マーシャル群島ヤルート島「現代の少女」』。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一二九)

 元町の学校の生徒達より多少、上等のやうですな、もつとも、こんなのは、少し外人の血がまじつてゐるんだが。中濱君に小田原から手紙を貰つたが、宛名所書が判らないから、君から宜しく言つてくれ給へ、

   *

「中濱君」というのはやはり教え子で諸節氏の知り合いであろう。

 次に同じく初期の教え子の小宮山静書簡。

   *

〇九月二十八日(消印ヤルート郵便局16・9・30。ヤルートにて。東京市王子区豊島三ノ二一 小宮山静宛。絵葉書『南洋マーシャル群島ヤルート島「島民部落の家」』旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一二八)

 パラオで二ケ月程、色んな病氣に苦しんだ後、病後保養の意味で、少しゼイタクな旅に出ました。九月中頃に出たのですが、パラオへ歸るのは十二月近くになりませう、途中飛行機を使ふ所もあります。こゝは、日本の東南の果。夜明は午前三時、日没は午後四時。晝御飯は午前十時です。海水の澄んでゐることは、無類。魚のおよいでゐるのがすっかり見えてまるで水族館のやうです。

   *

小宮山静――彼女こそが――中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見したで私が同定した女生徒である。……]

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