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2013/10/15

中島敦 南洋日記 九月廿一日

        九月廿一日(日)

 珍しく曇天、些か涼氣を覺ゆ。下痢・血便、面白からず、前數日に比し海もやや浪あり、興業師云ふ、前々夜トラックにて八百圓上げたりと。

[やぶちゃん注:「八百圓」単純に売上金であろうが、ネット上の自由質疑応答の相談サイトに、この前年の昭和一五(一九四〇)年当時の嫁入道具の会津桐柾目箪笥(現在は百万円ほど)は百円、鉄工所事務員をされていたこの女性の月給は三十五円、この方の夫が東京浅草に建てた新居の値段から言うと二千円で三階建てが建った、彼の好物だったカレーライスが十銭(百銭が一円)、映画館の入場料が五十銭とあるから、現在の貨幣価値の五千倍から一万倍、当時の八百円は現在の四百万から八百万円に相当する。

 この日附の妻たか宛書簡が残るので、以下に示す。

   *

〇九月二十一日附

[やぶちゃん注:旧全集「書簡Ⅰ」の書簡番号一二四。消印ポナペ郵便局一六・九・二三。パラオ丸にて。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。]

 

 

 九月廿一日。

 同封したのは、船中の今日(廿一日)の晝飯の獻立表。日によつて、色刷の紙の、形も模樣も色も、みんな變る。一日毎に印刷するんだから隨分、厄介な話だ。船中のこととて、大して材料もないだらうが、先づ、この程度のものを喰はせる。二番目のサーロインおしまひの菓子といふのは、大抵、プリンかアイスクリームの類。果物は、梨、リンゴ、ブダウ等、今日はスヰクワで閉口した。

 トラック島は昨日の午後出帆。今日は珍しく曇り日。パラオ出帆以來快晴でないのは今日だけだ。しかし海は別に荒れる氣色(ケシキ)もない。明朝早くボナペ着。ここでは上陸して、二晩陸で泊るつもりだ。この手紙も明朝ボナペで投凾(トウカン)することにならう。ボナペでは大分忙しいんだ。短い期間に方々へ行かなければならないんでね。

 さて、今日は日曜ださうだ。船の人にいはれて、はじめて氣が付いた。日曜も土曜もなく、唯、毎日、ブラブラしてる。船中で多少勉強するつもりでゐたんだが、麻雀のとても好きな坊さん(あまり聖僧ではないなー! よく、しやべる、心臟の強い坊主だ。昨日一緒にトラックに上陸して歩いてゐたら、土人の一人に向つて、「ニイヤ」と呼びかけたには驚いた。ニイヤといふのは支那語で「おい! お前」といふことだ。この坊主、人さへ支那にゐたことがあるとかで、南洋の土人に支那語で呼びかけるんだから驚く。それでも土人の方では、自分が呼ばれたと思つて、返事をするから面白い)がゐて、麻雀ばかり、させるので弱つてゐる。船中の一日は大體、次の如し。毎朝、五時半起床、(この邊の五時半が、東京の七時近くにあたるだらう)朝食八時半、これは、どうも遲すぎるんだ。日の高さから見れば十時近くに相當するんだからね。朝食までに大抵讀書をするが、讀んでる中に、何時の間にか、又寐て了ふ。實によく眠るよ。食事の前には、ボーイが、カハイイ音をする鐘を叩いて、時間をしらせにくる。朝食がすむと、上の喫煙室(中々しやれた部屋で、ラヂオ、蓄音器、碁、將棋、麻雀、など一通り備へてあり、又、小圖書室でもあり、又、傍に酒場(バー)まで、ついてゐる。)で、長椅子にねころびながら讀書。やがて、麻雀の誘ひがくる。麻雀が終る頃には、午飯(ヒルメシ)、(十二時半)午(ヒル)めしの後、又甲板を散歩したり、(輪投、デッキ・ゴルフをする人もある)雜談したり。甲板の寐椅子に横になつて本をよみながら、眠つて了つたり(この午睡(ひるね)が一番多い)してる中に、三時になつて、オヤツが出る。それから雜談してる中に四時の、僕の入浴時間。風呂から上つて、甲板でサイダーでも飮みながら、夕方の雲などを眺める。六時半夕食。夜は又、雜談、麻雀、將棋、讀書、ラヂオを聞くこと。床に就くのは十時過になる。之が、船の一日。ずゐ分、だらけた生活さ。僕は、こんな生活に、いい氣になつてゐやしない。之は、むしろ、惡い生活だ。たゞみんなの雜談を聞いてゐると、色々南洋に就いて教はる所が多いのは、有難い。

 船客の中には、南洋生活十年、二十年、といふ人があるので、話は中々面白い。仕事の關係で、ひどく、へんぴな離れ島へ行くを良く知つてゐる人が、食堂の同じ卓子(テーブル)にゐるが、その人の話など、特に面白い。島民が泡盛(アハモリ)(琉球(リウキウ)の酒)二本欲しさに、豚一匹抱へて、交換してくれといひにくるさうだ。鷄を森の中に飼ひつぱなしにしておいて、ほしい時には、ワナをかけて、とつてくるといふ。そんな話を何十となく聞いたよ。[やぶちゃん注:太字「へんぴ」は底本では傍点「ヽ」。]

◎淀川君は特別三等の室にゐるので、一等の甲板に上つて來られない。だから、まだ、餘り、話をしてゐない。何時迄たつても、一人前の娘らしくならないやうだ。(向ふは、女ばかりの部屋なので、此方から、はいつて行くわけにも行かない。)それでも、ヤルートへ着いたら、パン(パンがヤルートにあるのは、不思ギだが)と卵を御馳走します、と言つてたよ。

 一等の客は僕を入れて、十人と少ししかゐない。(トラックで大分減(へ)つた)それが船の眞中の廣い所を占めてゐて、三等の百何十人が、船の隅(スミ)の、下の方の、空氣の良くない所に、入れられてるのだから、考へて見れば、ひどいやうなものだ。一等の運賃は三等の三倍だが、待遇は五倍も十倍もして貰つてるやうだ。(これからも、僕の出張は、一等でなければできないだらう。三等の室は、臭くて、暑くて、とても堪らないから。)

 格にはソロソロ蓄音機をかけておやり。耳の訓練だ。

 トラックから、高橋資(スケ)さんに葉書を出した。あの所番地を書いてると妙な氣がして來た。自分の家へ手紙を書いてるやうな氣がしてね。

 同じ一等船客に、やはり南洋廳の若い役人で、出張の途中の人があるが、(この人は東京の人で、若いが、中々上品な紳士だ)この人の話に、自分も、はじめ、一人で赴任(ふにん)して來て、半年ほど樣子を見てから妻(二歳になる女の兒)を呼ぶつもりでゐたのだけれども、どうにも淋しさに堪らなくなつて、着いてから二日目に(二日目だぜ)、妻子を呼び寄せる電報を打つて了つたといふ。全くね、夕方などに、格や桓のことなど思出す時程、辛いことはないなあ! 理性なんてものは、何の役にも立たない。[やぶちゃん注:「妻子」の太字とした「子」は底本では傍点、しかも「◎」の傍点がこの「子」にだけついている。]

 格の今度の散歩路は何處だい? 庭には、色んな障碍(シヤウガイ)物が多過ぎて、困るね。もう歩き方も達者になつたらうねえ。

○船の故航と、飛行機の飛ぶ時日の決まらないのとで、十月以後の僕の豫定は全然立たない。或ひは、本當に、トラックに、二(フタ)月も滯在することになるかもしれぬ。さうするとパラオには、お正月近くに、歸ることになる。

 

底本には同封された草花の絵を透かし込んだ、パラオ丸の印刷された洒落た献立表が画像で掲げられている。荒い画像なので殆ど判読出来ないが以下に電子化しておく(□は判読不能。なお、右下にはパラオ丸の船標と思しい印刷されたマークが入っている)。

 

      御晝食獻立
澄 スープ
□ー□ サーロイン ビーフ
ポーク ソーセヂ キヤベヂ添
精肉 カレー ライス
サラダ
御菓子
果實
  珈琲  紅茶
        昭和十六年 九月廿一日 日曜日
 

「ニイヤ」中国語に堪能な教え子に聴いたところ、「你呀!」である。「ヤ」は意思を押しつけて一呼吸置く感じ、「お前ヨゥ!」といったニュアンスとのことでああった。ネット検索では相手が理解しなかったり、やり損なったりした結果生ずる痛惜・恨み・不満などの感情を表現するときによく使われるとあり、かなり粗暴な掛け声であることが窺われる。

「淀川君」九月十五日の日記及び九月十九日の私の注に引いた一二〇書簡に出る妻たかも知る知人女性。

「トラックから、高橋資(スケ)さんに葉書を出した。あの所番地を書いてると妙な氣がして來た。自分の家へ手紙を書いてるやうな氣がしてね」人物は不詳ながら、昭和十六年の手帳の住所録に、

高橋資雄 中區竹ノ丸二三

とあり、これは横浜市で、敦一家の横浜の家は「中區本郷町三ノ二四七」であった。

 次に恐らくはこのたか宛書簡に同封されたと思われる桓宛書簡二通を示す(旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号三〇及び三一。太字は底本では傍点「ヽ」)。

〇九月二十日附(パラオ丸で)

 甲板(かんぱん)から見てるとね、船から五十メートルぐらゐはなれた所(ところ)で、さかながしきりにピヨンピヨン水の上にはねあがつてゐる。

 とびうをぢやないんだよ。あんなにとほくまでとぶんぢやなくて、ちよつととびあがるだけ。

 きつと、大きなさかなに追(お)はれて、たまらなくなつて、水のそとににげ出すんだね。

 しばらくするとね、こんどはかもめがたくさん空からおりて、そのとびあがるさかなをとりにきた。サアーツとおりてきて、水をかすめたと思(おも)ふと、もう足(あし)かくちばしかで、さかなをとつてゐるんだよ。

 かもめは、二三百ゐたらうね。さかなはずゐぶんたべられたらしい。

 船がどんどん走つて行くので、そのうちに見えなくなつちやつた。

〇九月二十一日附(パラオ丸で。)

 この船に、さるをつれて來てゐる人があります。そのさるはかなり大きなさるで、いろいろなげいをします。竹馬(たけうま)にものります。さるしばゐにも出るのださうです。

 おととひ、トラックの夏島で、このさるさるしばゐをしたといふことです。ぼくは見ませんでしたが、島民たちがよろこんで見たことでせう。

 さるでも、船にのるにはお金(かね)がいるのですよ。

この桓宛書簡によって、日記本文の八百円も売り上げた興行師のメインが猿回しであったことが分かる。]

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