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2013/10/24

中島敦 南洋日記 九月二十七日

        九月二十七日(土) ジャボール

 三時四十分起床、甲板に上りて見るに、既に近くヤルートの archipelago を見る。やがて近づくにつれて、帶と見えし一線の上に、椰子樹、家々、倉庫等を認むるを得たり、海は湖よりも靜か。

 五時半港、金子庶務課長及び松井氏の出迎を受け、ランチにて上陸、支廳に行き、宿舍に荷を置きて後、八時より、再びランチにのり、前田氏とヤルート環礁中の一島アジジェーンに向ふ。水の淸澄なること遙かに西部の島々に超えたり。九時半アジジェーン着。ジャボール公學校補習科二年生のコプラ採取作業に從ふを見る。島内一巡。途に一老婆、パンの實の頭に穴を穿ち、パンの葉を漏斗代りに、コプラの汁を絞りて流し込むを見る。斯くして石燒にするなりと。島中椰子、タコ密生、蠅多くして堪へがたし。十一時晝食、この島の女は凡て、良き衣服をつけたり。

 十二時半、ランチは、生徒等をのせ、コプラを載せし舟を曳きつゝ歸途に着く。海豚の一群、船と遊んで遊弋す。時に飛躍するものあり。面白し。二時過ジャボール歸着、四時、獨身宿舍食堂にて夕食、既に暗し。淀川の家に行く。

 林檎、コーヒー、パンの馳走に預かり、七時頃歸る。島はすでに深夜の如く、濤聲と椰子の葉摺の音を聞くのみ。

[やぶちゃん注:「ヤルート」ジャルート環礁(ヤルート環礁 Jaluit Atoll)は現在のマーシャル諸島共和国領の九十一もの島からなる環礁。陸地の面積は十一平方キロメートルしかないが、ラグーンは六九〇平方キロメートルに及ぶ。日本統治時代は南洋庁のヤルート支庁(後に東部支庁ヤルート出張所)に属し、同環礁のジャボール島(Jabor)はヤルート支庁の中心地で、環礁東に位置するイミエジ(Imiej)島には日本軍基地があった。現在の総人口は一六九九人(一九九九年現在。以上はウィキの「ジャルート環礁」に拠った)。

archipelago」英語で群島・多島海の意。語源はイタリア語で「主要な海」の意を示し、特にギリシャ付近の多島海であるエーゲ海の古称であった。

「アジジェーン」ジャルート島の北に離れてある環礁の北辺近くに“Agidyen”という地名を確認出来る。ここであろう。

「公學校」主に日本統治時代の台湾における義務教育機関の呼称であるが、それを南洋庁は踏襲したのであろう。台湾に於ける公学校は明治三一(一八九八)年の成立で、台湾総督府は当時の台湾の現状を考慮し、日本人学童を対象とした小学校及び原住民を対象とした蕃人公学校を別に設置した。明治二八(一八九五)年の日本による台湾統治が開始された翌年の六月に台湾総督府は日本語の普及を目的に「国語伝習所規則」を、同年九月には「国語学校規則」を発布し、台湾全土に十四ヶ所の国語伝習所が設置された。総督府は国語伝習所が成功したことを確認すると、この一八九八年八月十六日に「台湾公立公学校規則」「台灣公立公学校官制」及び「公学校令」を発布し、中央又は地方が経費を負担して公学校を設置し、八歳以上十四歳未満の台湾籍学童に対して六年間の義務教育を実施するという内容であった。またそれには科目(修身・作文・読書・習字・算術・唱歌・体操)や教師資格及び休日等の実務規則も明文化されていた。明治四三(一九一〇)年二月には「公学校規則」が修正され義務教育化がなされ、大正一二(一九二三)年までに「公学校規則」が修正されて日本内地と同様の教育課程が採用されている(後の昭和一六(一九四一)年三月に台湾教育令を修正して公学校・小学校・蕃人公学校を統合して国民学校が改編されているが、これは敦のこの後の十月十日の記載などから見る限り、南洋庁管轄地域では施設や教員配置その他の問題でうまく移行が行われていなかったことが分かる)。台湾公学校については、参照したウィキの「公学校」によれば、公学校義務教育実施して後の昭和一九(一九四四)年までの間、台湾籍児童数は八十七万六千人に達し、就学率は七一%も越えて、当時の先進国並みの水準となっていた。台湾人は日本語教育を通じて知識・技術を習得、『後の台湾発展の基礎となった点では台湾国内でも高く評価されている』。『公学校設立の目的は台湾人に対し徳教を施し、実学を授け、日本国民として養成すると同時に日本語の普及を図るというものであった。公学校は日本語教育を通じて台湾人にさまざまな知識を普及させ、台湾発展の基礎を築いた』とは、ある。南洋庁管轄地もこれをもとにある程度は想像出来よう。南洋庁の公学校についてのデータは他にもあろうかとは思われるが、一つだけ、そのおぞましい公民化教育と軍国主義化を伝えるものとして、琉球大学附属図書館公式サイト内の法文学部教授仲程昌徳(なかほどまさのり)氏の『南洋庁発行「国語読本」の中の「白銀堂」』は必読である。そこにはまさにこの年の昭和十六(一九四一)年六月十七日に石川達三が訪問した、まさしく敦が官吏としてその学校運営に関わっていたところのパラオ公学校を参観しているが、『公学校は「島民の子弟を教育する国民学校で(中略)南洋庁規定の教科書によって内地と同じような小学校教育が、全部日本語で教えられ」ていた。石川を迎えた公学校の校長は、その時間を「唱歌の時間」にしたといい、高等科の女生徒たちを唱歌室に集める。校長自身がオルガンを弾き、少女たちが歌い始める』。それを聴いた『石川は、「それが立派な日本語であったことに、私は裏切られたような気持ちがした」という。そして「少女たちは愛国行進曲をうたい、軍神広瀬中佐をうたい、児島高徳の歌をうたった。日本の伝統を感じ得ないこのカナカの娘たちにとって、八紘一宇の精神や一死報国の観念が理解される筈はないのだ。美しい鸚鵡の合唱であった。しかも少女たちは懸命に声を張りあげてうたっていた。歌をうたうことの生理的な喜びに満足していたのではなかろうか。私は少女たちのいじらしさに胸が詰まった。これがもしも彼女たちの日本人になろうとする努力の表現であるとすれば、その憐れさはひとしほである」と書いている』とあり(カナカ族(Kanaka)とは、ミクロネシア・マーシャル諸島・パラオ等の島々の住民を一般的に呼ぶ俗称で、ポリネシア語で「人」或いは「男」を意味する「タガタ」が音韻変化によりカナカとなったと、ウィキの「カナカ族」にはある)、しかも『軍歌のあと、校長はオルガンを離れて立ち上がり、「最後にひとつ校歌をうたおう」という。石川は、そのあとに起こったことを、次のように書いている』。『生徒たちは唱歌帳の頁をめくった。校長は 白墨を握りながら拍子をとった。私は生徒の唱歌帳をのぞいて見た。五線紙におたまじゃくしを書いてその下に片仮名の歌詞をつらねてあった。コーラスははじまった』。以下、その校歌の歌詞とともに石川の感懐が記されている。

   《引用開始》(一部の空欄を詰めた。以下同じ)

    みいつかしこきすめらぎの、深き恵みの露うけて、

    椰子の葉そよぐこの丘に、そ丶りて立てるまなびやは、

    日毎に集う我等の庭ぞ、あな嬉しやな、嬉しやな。

私は悲しくなって来た。元気なコーラスはますます元気に、楽しげに第二節に移った。

    天恵うすきこの島に、盲人のごと産れきて、

    西も東も知らざりし、我等が眼にも日はさしぬ。

    みなまなびやの賜ぞ、あな嬉しやな、楽しやな。

 この歌を作った人が誰であるか、私は知らない。ただ、その作者の支配階級意識に驚嘆 した。そしてこの歌を嬉々として歌う少女たちを涙なくして考えることはできなかった。 天恵うすき島に盲人のごとく生まれて、西も東も知らなかった、この民族の悲劇は、スペインに占領されドイツに譲渡され、さらに日本の統治を受けていま、この事実だ。しかし 私は疑う、この少女達にかくも悲惨な民族の悲劇を教え自覚させる必要があるだろうか。 こういう侮蔑的な歌をうたわせて恩に着せる必要がどこにあろう。

   《引用終了》

 次に仲程氏は先立つ昭和十五(一九四〇)年二月二十八日にサイパン公学校を見学に行った農民作家で日本プロレタリア作家同盟、戦後の日本農民文学会に加わった丸山義二(まるやま よしじ 明治三六(一九〇三)年~昭和五四(一九七九)年)はそこで学芸会を見学するがそれは、視察に来た彼らのためにセットされたものであって本科一年生の男子によってなされた「歓迎の辞」について、

   《引用開始》

 アクセントは少々訛るがハッキリした日本の標準語で、「東京のお客さま、お客さま方には・・・」と、その男の子が気をつけの姿勢でいい出した時、私は顔をあげていることができなかった。耳をふさぎたいような気がし、私は顔を伏せた。何が「お客さま」だと思った。私たちの方こそ「お邪魔」にあがったのであり、まことに相済まぬという態度で、かれらがいかに教科をきき、いかに教科を理解するかを傍から静かに見学するのがほんとうなのだ。かれらの好意は廊下での私たちへの挨拶で十分すぎるくらいである。先生は自分の可愛い生徒たちに何という卑屈な言葉をいわせるのであろう!「東京のみなさん」ならまだしも、「東京のお客さん」とは、言語道断だと思った。せめて教育だけなりと、一日も早く、この種の態度を改めてほしいものである。

 丸山は、東京に帰ってからそのことを知人に話すと、「センチメンタル」だと一蹴されるが、「妥協できない」といい、「日本人になりたい」というチャモロの切実な訴えや「新附の民たるがゆえの情けなさ」に思い及ぶ。さらには南洋群島文化協会野口正章が「チャモロは何を求むるか」で指摘している「一般在住内地人のかれらに対するいわれもない差別待遇ないしは蔑視的な態度」について触れた一文を引用したあとで、「ゆうべの島民の家の『良家の子女』といい、今またこの公学校の学芸会といい、私の胸は鉛をのまされたように重かった。かれらにこの屈辱をあたえているものは何か。その何かのうちに私自身がまじっているのだと思うと、私は、自分で自分がいやらしかった」と書いている。

   《引用終了》

とその義憤を綴っている。「チャモロ」族 “Chamorro”とはミクロネシアのマリアナ諸島の先住民を指す呼称で、元はスペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉を語源とするという(ここはウィキチャモロに拠った)。

 仲程氏は、『石川や丸山は、多分少数派であったが、軍歌や、校歌として「侮蔑的な歌をうたわせ」恬として恥じない教育、さらには「卑屈な言葉をいわせる」教育、そのような教育がなされていることに対し、いち早くそれを「島民社会の特殊性に対する考慮の不足」だと喝破したのに矢内原忠雄がいた。彼は次のように書いている』として当時の、ファシズムを批判し続けた経済学者(戦後に東大総長)矢内原の鋭い批判を記されておられる。

   《引用開始》

 公学校の教科目は修身、国語、算術、地理、理科、図画、唱歌、体操、手工、農業、及び家事(女)であり、その大要は、小学校に準ずるものであるが、右の中最も力を注いで居るのは国語であって、本科各学年に於いて毎週授業時間の約二分の一(十二時間宛)、補習科に於いては約三分の一(十一時間乃至十時間)を国語に当てるのみならず、凡ての学科の教授用語にもすべて日本語を用い、助教員たる島民が授業を担当する場合にも島民語を用いしめない。国語中心の教育の効果として数えられる点は、(1)各主要島群毎に言語を異にする島民に対して共通語を与うること、(2)官庁及び日本人の事業若くは家庭に雇用せられ、又は商人との取引上実益を得ること、(3)日本語を通じて近代文化を吸収する機会を得ること等にあるが、かくの如き国語普及政策はひとり南洋群島のみならず、我国の諸植民地に共通せる教育方針であって、根本に於いては同化主義政策の表現と解しなければならない。又小学校(日本人児童)と公学校(島民児童)との間に教員の転任を自由に行うことは、一応は日本人教育と島民教育とを一視同仁するの趣旨を現すものではあるが、往々島民の風習や思想について理解浅き教育を施すの弊害を招くことなしとせず、前述の徹底せる国語教育方針と相待って、島民社会の特殊性に対する考慮の不足を感ぜしめる。[やぶちゃん注:ここまでが矢内原の引用。]

 矢内原は、そのように「公学校の教科目」で、もっとも重要視されているのが「国語」であるとして、南洋庁が何故にその「国語」に力を注ぐのか、その意図を明快に解説している。矢内原が南洋群島調査を行ったのは昭和八(一九三三)年。当時用いられていた南洋庁発行になる「国語読本」を矢内原は持ち帰っている。

 矢内原の持ち帰った「国語読本」が、本学附属図書館内に開設されている「矢内原文庫」に収められていることは、あまり知られてないのではないかと思うが、本稿で触れたかったのは、実は、その「国語読本」と関わることであった。

 矢内原が持ち帰った「南洋群島国語読本」は、本科用巻一から巻六及び補習科用巻一、巻二の計八冊であるが、補習科用巻二の最後「四十七」に、「手が出る時にわ意地を去れ。意地が出る時にわ手を去れ」(いじぬいじらーてーひき、てーぬいじらーいじひき)ということわざを基にした伝承「白銀堂」の話が収録されていた。補習科用巻二は公学校用最終の国語読本だと思うが、その最後の最後に沖縄の伝承を収録したのは、何故なのだろうか。

  すでに紙幅が尽きようとしていて、この興味ある課題についての検討はおあずけということになるが、そのことを考えていく上で、忘れていけないのが「在住邦人の本籍別人口を見るに、昭和八年四月一日現在邦人人口三〇、六七〇人中、沖縄県人は一七、五九八人であって、五割七分を占める」(矢内原『南洋群島の研究』)ということ、そして「島民にいわせるとその(人種・引用者注)序列は、内地人、島民、沖縄県人ということになるらしい」(梅棹忠夫「第四部 紀行」『ポナペ島 生態学的研究』今西錦司編著所収)というように、沖縄が見られていたという問題である。

 島の人口の半分以上を占めながら、「人種序列」として最下位に見られていた沖縄、そのことをまず押さえることから「白銀堂」物語収録の謎ときは始まっていくのではないかと思われるが、委任統治下にあった南洋の「教科書問題」を見ていく上においても、まず「矢内原文庫」に収められた数多くの南洋資料の閲覧に通う必要がありそうである。(ちょっと宣伝めくが)附属図書館には中々のものが収められているのである。

   《引用終了》

以上の引用は、実際の仲程氏の当該記事を殆んど引用させて戴く結果となったが、これは一つは、仲程氏の言わんとされるところが南洋に於ける公民化政策とそこで平然と行われていた差別(若しくは差別教育)が、ダイレクトに日本の戦前戦後の沖縄に於ける公教育の問題点を炙り出すことにあることを示したかったからであるが(それが仲程氏への私の最低限の礼儀と心得たのである)、それ以上に、以上の諸人の義憤がそのまま官吏教科書編集掛(国語編集書記三級)として南洋庁内務部地方課勤務であった『官吏としての中島敦』への批判的視点をも自動的に惹起させるものであるからである。敦はまさに石川や丸山が受けたような『歓迎』をそれこそ毎回受けていたに違いないにも拘わらず、しかもそれについての彼の、石川や丸山が感じたような複雑な感懐や矢内原が指弾する観点がこの日記には今のところ見当たらないのは何故か、ということを重く受け止めねばならないという問題提起という点に於いて必要であると考えたからである。私は敦が救い難い軍国主義者であったとも思わないし、土方久功が南洋の人々に深い共感を持っていたが故にこそ敦は南洋に於ける盟友として彼を選んだのだとも硬く信ずるものではあるが、しかし、同時に『官吏としての敦』がそうした批判的視座に対して麻痺してしまっていたかも知れないという可能性(それは最早、自身の命運への諦観に影響されたものででもあったかも知れない)への批判を看過させるものではあるまい。

 最後に同二十七日附のたか・桓宛書簡を以下に示す。

   *

〇九月二十七日附(ヤルートにて。中島たか宛。封書。封筒なし。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一二七)。

 九月二十七日、三時半に起きて(もう、とつくに明るいんだ)甲板へ出て見ると、遠くに棒を横たへたやうな一線が見える。それがヤルートの島なんだ。恐ろしく低い、細長い島さ。一番高い所(土地)で、海面より五尺とは高くないんだからね。たゞ、一面の椰子の樹しか、遠くからは見えない。役所からの出迎がある。六時上陸。狹い島さ。上陸して二十歩あるくと、もう役所だ。挨拶(僕も役人になつてから、挨拶(オレの大嫌ひな)と名刺の交換ばかりさせられるんで閉口さ)がすんでから、丁度、別の島へ出る便があるといふので急いで、ポンポン蒸氣に乘つて、環礁(クワンシヨウ)の中へのり出す。珊瑚礁の島が澤山あつまつて、丸く輪を作つてゐる。直径十何里の輪だ。ヤルートはさういふ島だ。◌ それを環礁といふ。その中の海は、湖みたいな譯だ。別の島へ渡つてから、コプラの採集を見て、歸つて來た。午後、宿舍(官舍のあいてゐるのに、はいるんだ。八疊二間に六疊の家を僕一人で占領)に落ちつく。食事は近くの、獨身宿舍の食堂。(又々、食事がガタ落チ。短い期間だから、いいさ。)

 夜、淀川の家へ行く。雜賃商だ。淀川のお父さんに始めて合ふ。もう、この島に二十年だ、といふ。僕が船の上で、ヤルートへ着いたら、パンとコーヒーがほしいと、一寸言つたもんだから、淀川が、用意しておいてくれた。パラオになくて、ヤルートにパンが出來るのには驚いた。

   *

〇九月二十七日附(消印ヤルート郵便局16・9・29。ヤルートで。ヤルート島の夕陽の絵葉書。旧全集「書簡Ⅱ」書簡番号三五)

   *

 今朝(けさ)ヤルートにつきました。低(ひく)い、ほそ長(なか)い島です。大きななみが來たら、島中(ぢう)水をかぶつてしまひさうな氣(き)がします。けれども このへんは なみがとてもしづかなので、そんな しんぱい は ありません。]

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