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2013/11/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 6 大森貝塚最初の調査

 当日朝早く、私は松村氏及び特別学生二人と共に出発した。手紙の文句で、線路上でシャベルや鶴嘴を使用することは許さぬことを知ったので、我々は小さな籠を二つ持った丈で、発掘道具は持参しなかった。我々は東京から六マイルの大森まで汽車に乗り、それから築堤までの半マイルは、線路を歩いて行った。途中私は学生達に向って、我々が古代の手製陶器、細工をした骨、それから恐らく、粗末な石器を僅か発見するであろうことを語り、次にステーンストラップが、バルティック沿岸で貝塚を発見したことや、ニューイングランド及びフロリダの貝塚に就て、簡単に話して聞かせた。最後に現場に到達するや否や、我々は古代陶器の素晴しい破片を拾い始め、学生達は私が以前ここへ来たに違いないといい張った。私はうれしさの余りまったく夢中になって了ったが、学生達も私の熱中に仲間入りした。我我は手で掘って、ころがり出した砕岩を検査し、そして珍奇な形の陶器を沢山と、細工をした骨片を三個と、不思議な焼いた粘土の小牌(タブレット)一枚とを採集した。この国の原住民の性状は、前から大なる興味の中心になっていたし、またこの問題はかつて研究されていないので、これは大切な発見だとされている。私は一般的な記事を『月刊通俗科学雑誌』【*】へ書き、次にもっと注意深い報告書【**】をつくり上げることにしよう。

 

 

* その後『月刊通俗科学雑誌』(Popular Science Monthly)の一八七九年一月号で発表。

** その後東京帝国大学から発表された。

[やぶちゃん注:明治一〇(一八七七)年九月十六日の最初の調査の記録である。

「松村氏及び特別学生二人」江の島臨界実験所での有能な助手であった松村任三と、松浦佐用彦(まつらさよひこ)と佐々木忠次郎(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の本書の訳の引用の割注(但し、三種の訳文を合成したもので私の底本とは以下に一例示すように訳や割注がかなり異なる)を参考にした)である。この二人は記念すべき東京大学理学部生物学科第一回生で佐々木忠次郎は後に昆虫学者となり、近代養蚕学・製糸学の開拓者となった人物。後に夭折してモースが哀傷した松浦については「第七章 江ノ島に於る採集 24 ホイスト・ゲーム/松浦佐用彦のこと」に詳注してあるので是非ご覧頂きたい。

「六マイル」9・66キロメートル。現在のJRの走行距離で東京―大森間は11・4キロメートル。発掘場所は現在の大森駅中心から530メートル戻った位置にあった。

「ステーンストラップ」デンマークの動物学者ヤペトゥス・ステーンストロップ(Johannes Japetus Smith Steenstrup 一八一三年~一八九七年)。一八四五年からコペンハーゲン大学の動物学の教授を務め、頭足類を含む多くの分野の研究を行い、遺伝学の分野も研究、寄生虫の世代交代の原理を一八四二年に発見、同年にはまた、後氷期の半化石の研究から気候変動や植生の変動を推定出来る可能性があることをも発見している(以上はウィキヤペトゥス・ステーンストロップに拠った)。

「不思議な焼いた粘土の小牌(タブレット)」原文は“a curious baked-clay tablet”。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の本書の訳の引用(一一六頁)では、『粘土を焼成した小さな板[土板]』とある。如何なるものであるか語られていないのが残念であるが、明らかにモースは土器片と区別して、まさに不思議な印象を与える、焼成された粘土の板状小片であると述べている点から推理すると、これは次の「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚」の「図―250」の最下段左に示されている、本文で『奇妙な粘土製の扁片』とある、同心円状(左手ではその二本が波のようになっている)の紋の周囲に複雑な摺ったような紋が沢山入ったプレート状(右下部が欠損)の遺物を指しているように思われる。

「*」Vol.14, p.257-266(1879)。同誌はアメリカの一般向け科学雑誌で、標題は「日本に於ける古代民族の形跡」であった。この標題からも分かる通り、実はモースは大森貝塚人はアイヌ以前の先住民族、所謂、プレ・アイヌ(アイヌがホップから日本にやって来る以前に住んでいた民族)、原日本人説を採っていた。なお現在、大森貝塚人はプレ・アイヌでもアイヌでもなく、我々の直接の祖先である原日本人であることに落ち着いている(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る。この辺りの論争部分を磯野先生は特に第十四章「プレ・アイヌ説をめぐって」と特に一章分設けて語っておられ、非常に面白い。是非、ご一読をお薦めする)。

「**」明治一二(一八七九)年七月十六日附の序文を持つ大森貝塚の報告書“Shell Mounds of Omori”(英文の紀要“Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan”(「日本・東京大学・理学部紀要」)の第一部第一巻)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠れば、紀要とはいうものの、それだけで一冊に纏まった単行本のようなもので、『序文二頁、目次一頁、本文三六頁、それに土器を主体とした図版一八枚がついた立派な』ものである。モースが離日する(九月三日)直前に刊行されたものであった。]

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