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2013/11/29

中島敦 南洋日記 十月二十八日から十一月二日まで 又は 十一月一日の日記に禁断の恋人の面影が去来した瞬間を捉えた!

        十月二十八日(火) 晴

 朝授業二時間見學。ここの教員補は仲々しつかり者と見 ゆ。午後、コウイチなる島民(支廳のボーイ)を案内に、江の島に渡る。初めてカヌーに乘りたり。江の島一巡、アイヴォリ・ナット・パイナップル多し。眺望よし。島民に子安貝二個を貰ふ。教會あり。沖繩人の春島より移轉し來るに遭ふ。島民の家にて紅茶をよばれ、三時頃、月曜島に戻る。夜、校門前に椅子を出して涼む。月已に明るく、亭々たる椰子樹は楓々の音を立て、大いに快し。時に、白砂路を島民共通りかゝり、慇懃に頭を下げて、「コンバンハ」といふ。

[やぶちゃん注:「アイヴォリ」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科スズラン亜科ドラセナ属ドラセナ・コンシネ・アイボリー(ホワイト・アイボリー) Dracaena concinna のことかと思われる。ドラセナ属の原種及び分布はアフリカ全土・ギニア北部を中心とした亜熱帯地域で、リュウケツジュ(竜血樹)属ともいう。この属の植物の中には、葉が美しく観葉植物として栽培されるものが多くある(以上はウィキの「ドラセナ属」に拠った)。Dracaena concinna は細い幹の先に細長い葉が花火のような流線形で広がり、葉はやや褪せた明緑にアイボリーのラインが入っている(グーグ画像検索「Dracaena concinna)。

「月已に明るく」当日は九夜月で月齢七・五。]

 

        十月二十九日(水) 晴

 朝食後、前々日訪ねしツーペル女史が教會を越えて、彼方の砂濱迄散歩す。人通とて無き、白砂と珊瑚屑と椰子樹とのみの寂しき海岸なり、貝若干拾ひて歸る。桓と共に富岡の海岸に貝殼を拾ひしことを思出づ。校長瀧野氏に、昨年二月生れの男兒あり。雞を追ひかけ、芝生を歩き廻る。格のことを思ひて、堪へ難し。但し、ここの兒は格の如き種々の藝はなさざるが如し。十時伊達丸に乘船、十二時過夏島着。航空合社に聞けば、我が便乘豫定の飛行機は來月四日發となるべしと。山城丸に間に合はざれば、支廳に到り、地方課へ電報にての問合せ方を依賴す。偶然、南拓の島田氏、寺田屋にあり。ポナべに長逗留の後、又々此處にて飛行便を待ちつゝありと。月曜島のコウイチに貰ひし小型椰子果の水、頗る美味。

[やぶちゃん注:「富岡」現在の横浜市金沢区富岡にあった富岡海岸。かつては白砂青松の砂浜海岸で、明治初期には横浜居留地の外国人らが海水浴を楽しんだ日本初の海水浴場であった。昭和四十年代から五十年代にかけての高度成長期に大規模な埋立が行われ現在は見る影もない。

「南拓」南洋拓殖株式会社。九月二十八日の書簡注に既注。]

 

        十月三十日(木) 晴

 朝食後、椰子水二個分。コプラもうまし。床屋に行き、貝屋を素見(ひやか)し、堀君への禮物を購む。午後一時公學校に行き、諸訓導と夏島一周に出立つ。但し、クツワは前囘に行きたれば省く。總村長夏雄の二階屋。グラウンドあと。南拓農場の茄子苗。サルヴィヤ。葉雞頭。到る所、工事、工事、人夫、人夫、人夫小舍、レール、トロッコ、ハッパ、赤土崖、椰子の實は盡く無し。漸く、公學校生徒の家に憩うて、椰子水を飮む。アンペラ。卒業證書。

 南興水産を經て過ぐれば、日既に秋島の上に落ちんとす。海上の飛行機、數臺。帆船、汽艇。一望の下にあり。五時近く歸宅。

 道順――ラーラ、メセーラン、オソペイペイ、パータ、トロフ、ネーチャップ、ツン、ポレ(南興)、ヌクラ、ヌーカン、サブン、サボロン

[やぶちゃん注:「購む」「もとむ」と訓じているものと思われる。

「アンペラ」アンペラの茎を打って編んだ筵。アンペラはイネ目カヤツリグサ科アンペライ属 Machaerinaの多年草。湿地に生え、葉は退化して鱗片状をなし、高さは〇・五~二メートル。茎の繊維が強い。熱帯地方原産。アンペラ藺(い)。呼称はポルトガル語“ampero”又はマレー語“ampela”に由来する。

「南興水産」昭和六(一九三一)年に静岡県焼津の庵原市蔵氏が南方鰹鮪漁業を目的とする南洋水産企業組合を設立し、パラオのマラカル島に基地を設けて操業を開始したことに始まる南洋方面を主体とした水産会社。後に南洋興発の傘下に入り、昭和一〇(一九三五)年に鰹漁業・鰹節製造業・製氷冷蔵業を事業目的とした南興水産株式会社として設立された。パラオに本社を置き、サイパンついで翌昭和一一(一九三六)年にトラック島夏島、ポナペ島コロニアに営業所が開設された。事業の進展に伴って資本金の増加が必要となった際、南洋拓殖株式会社が増資新株式を引き受けることによって同社の経営権を取得した(以上は「社団法人 太平洋諸島地域研究所」公式サイト内の同研究所理事長小深田貞雄南洋群島時代の水産業の記載に拠った)。]

 

        十月三十一日(金) 晴

 朝食中瀨君より電話あり、本廳より「最近の飛行便にて一先づ歸任せられたし」の電報ありたりと。航空合社に問合すに、一日横濱發の豫定なれば、三日トラック發となるべしといふ。島田氏、餘程無聊に苦しむと見え、二度迄訪ね來る、今日は終日外出せず、夜、飛行士と將棋、月漸く明るし、怪しげなる洗濯石鹸を買ひ洗濯をなす。鰯臭くして堪へ難し。

[やぶちゃん注:「鰯臭く」イワシを搾って得たイワシ油を原料とした石鹸。]

 

        十一月一日(土)

 昨夜、月明の街路を人々右往左往するを聞く。今朝、聞けば、夜這が見付けられ、隣組の出動となりたるなり。しかも夜這は二件ありし由。飛行機は今日も横濱を出でざりし模樣。南洋は己に天候定まりたれど、小笠原邊に低氣壓あるものと見えたり。九時頃公學校へ行き稻氏と伊豆の温泉のことなど語り合ふ。同氏は御殿場在の人。曾て一夏を過せし御殿場二枚橋の勝又正平氏は同氏の親戚なりと。郵便局に寄り、宮野氏に、ポナペ割愛の電報を打つ。

 午後高橋氏方に行き林檎と椰子水の馳走に預かる。夜八時頃、島田氏とトラック神社迄散歩す。月明の下、港灣の艦船の燈、靜かに瞬くを見る。なり

 田島への手紙。

[やぶちゃん注:……この日、彼は間違いなく、禁断の恋の相手――教え子小宮山靜――との胸掻き毟る追懐に苦しんだと考えてよい。この公学校の稻校長が「御殿場在の人」であり、かつて昭和一〇(一九三五)年八月、敦が一夏を過した「御殿場二枚橋の勝又正平氏は同氏の親戚」だと聞いたからに他ならない。「一夏を過せし御殿場」には――小宮山靜との秘密の邂逅があった――と私は睨んでいるからである。この勝又正平所有の貸家(印象からは離れのようなコテージ・タイプのものと思われる)は、実は小宮山家の紹介によって敦が借りたものであること、この昭和十年八月の折り、小宮山静がそこに敦を訪ねた可能性が極めて高いこと、いや、同じ家でないにしても同じ御殿場の直ぐ近くに彼女も避暑で(いや、避暑を口実に敦と密会するために)滞在していたことを深く疑わせるからである。これらについては私の中島敦の禁断の恋の相手である女生徒を発見したを参照されたい。

「田島」呼び捨てにしているところから高い確率で敦の友人高橋(旧姓田島)晴貞氏かと思われる。底本の「來簡抄」の解題に『著者とは一高時代以來の親友で、音樂の才に長けてゐた。東大農學部を卒業後應召されて、それまでの頻繁な行き來が一時とだえることとなつた。が、著者のひとり言には何時も田島氏の名が擧げられて、「どうして僕ひとりを殘して行くのか」と呟くことが屢〻だつたといふ。書簡にも見えるやうに數年にわたる役人生活を經たのち、現在は足利工業大學教授として、經營經濟學を擔當して』おられる由の記載がある。同全集書簡類にはこの往信も田島氏からの来信も載らないが、この解題で述べている後の昭和一七(一九三二)年二月十七日附の心の籠った書簡が読める。後にここでも電子化する。]

 

 

        十一月二日(日)

 又々飛行機出發延期の由。朝七時半頃より島田氏來談。洗濯。九時より運動會を見に行く。狹き運動場に觀衆雜沓す、午後高橋氏の所に椰子水を飮みに行く、夕食は稻氏の招待。春島の渡邊氏と共に久しぶりの豚肉にありつく。夜九時半歸る、月良し。

[やぶちゃん注:「月良し」当日は小望月で月齢 一二・五.]

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