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2013/11/27

中島敦 南洋日記 十月二十一日

        十月二十一日(火) 晴後雨

 已に熱去れるが如し。朝、高橋氏のボーイ椰子七箇持參。直ちに二箇喫す。後、公學校に到り、「過去の我が南洋」(長谷部言人)を借覽す。面白し。

 クバリイの傳記(小説的)を書き度しと思ふ。夜九時、本廳より電報あり。二十七日發の飛行便にてサイパンに赴き十一月四日發山城にて歸任せよ、と。ポナペ割愛は甚だ殘念なり。

[やぶちゃん注:『「過去の我が南洋」(長谷部言人)』長谷部言人(はせべことんど 明治一五(一八八二)年~昭和四四(一九六九)年)は東京生まれの人類学者・解剖学者。理学博士(東京大学にて学位論文は「石器時代日本犬」)。明治三九(一九〇六)年、東京帝国大学医科大学卒業後、京都帝国大学にて肉眼解剖学と人類学を専攻。新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)教授、大正四(一九一五)年、ミクロネシア文部省調査隊員として参加、大正九(一九二〇)年に東北帝国大学教授、昭和一三(一九三八)年、東京帝国大学理学部教授に就任すると人類学に理化学的研究法を導入して理学部に人類学科を創設した。昭和六(一九三一)年に考古学者直良信夫(なおらのぶお 明治三五(一九〇二)年~昭和六〇(一九八五)年)が兵庫県明石市西八木海岸で発見した左腰骨の石膏模型を後に研究、それを原人の骨として「明石原人」と命名した。また石器時代人日本人説を唱え、明治大正時代以来有力であったアイヌ人説を否定、昭和二(一九二七)年の『人類学雑誌』に発表した論文で『陸奥・羽後・北海道の石器時代遺跡から出土する円筒土器によって代表される文化の担い手を、短頭に近い頭形をもち、関東人に比べてやや高身長である現代奥羽人の祖先とみなし、石器時代人を同地域に居住する現代人の直接の先祖である』と断じた。人類学の碩学鈴木尚(すずきひさし 明治四五(一九一二)年~平成一六(二〇〇四)年)は彼の高弟である(以上は主にウィキ長谷部言人に拠った)。「過去の我南洋」は昭和七(一九三二)年岡書院刊。私は未見。

「クバリイ」ポナペ島(現在名はポンペイ島)のナン・マトール遺跡(Nan Madol)を調査したドイツの医官のことと思われる。ナン・マトール遺跡は十三世紀から十五世紀にかけて建造された巨石構築物群で、「ナン・マトール」とは「天と地の間」という意。総面積四十平方メートルの九十二もの人工島から構成されており、伝承によると行政・儀礼・埋葬などそれぞれの島で機能分担していたとされる。伝承や遺物の検証からは政治・宗教の拠点となった水上の城塞であったと考えられている。その中のナン・タワシ(ナン・ダワシ)と呼ばれる墓(宮殿)は、シャウテロール朝最後の王シャウティモイの王墓であると伝えられてきた。この遺跡については現在でも謎が多く、不明な点が多い。島には柱状の黒褐色玄武岩を縦横交互に積み重ねた囲壁が築かれている。玄武岩は付近のジョカージ島から運ばれたが、その玄武岩は自然に五角形または六角形に割れるため、加工が少なくて済む(遺跡部分はウィキナン・マトール遺跡に拠った)。「クバリイ」については、「神戸大学付属図書館」公式サイト内の「新聞記事文庫 東南アジア諸国」にある『時事新報』大正一〇(一九二一)年四月~六月の連載の伊藤生なる記者の記事南洋諸島の姿四十回)の「(十八) 戦争に生死せる時代相」の中に、本城塞(そこでは「ナンマタール大城塁」と表記)を『ナンマタールの古城は慥に一見の値はある。秀吉が大阪城を造るよりも大なる辛苦が、築城者に依って嘗められたことは疑いない。島の大きサと、人の智識と、材料難の三点から考えると、此古城は偉大であると言い得る。独逸のクバリイと云う医官は、熱心に此残塁を踏査して精巧なる縮図を引いた。外国人は一般に這んな事が好きだ、夫れは今も守備隊に備え付けてある』とあるのを根拠とした。

「山城」日本郵船の貨物船山城丸。南洋諸島方面の航路を受け持った。南洋諸島の範囲内のほかセレベス島マナドにも寄港し、諸島内の生活や開発に欠かせない航路となっていた。幾度かの航路の修正が行われたが、昭和一六(一九四一)年十二月八日の太平洋戦争勃発後は翌年に設立された船舶運営会に「山城丸」「近江丸」「サイパン丸」など使用船舶ともども移管され、運航は不定期になって輸送船団を構成することが義務付けられたものの、航路自体は従前どおり維持された(昭和一七(一九四二)年八月五日に「パラオ丸」が、十二月二十八日に姉妹船「近江丸」がそれぞれ戦渦により沈没している)。昭和一八(一九四三)年九月十六日、「山城丸」は横浜を出港して父島二見港に向かい、九月二十一日には輸送船「両徳丸」とともに三九一六船団を構成、特設掃海艇「第二文丸」の護衛で二見港を出港してサイパン島に向かった。しかし、二日後の九月二十三日朝、同船団はアメリカ海軍潜水艦トラウトの雷撃を受け、同日八時三十分、「両徳丸」(乗員百五十一名)の船尾にトラウトからの魚雷が命中、間もなく「山城丸」の中央部にも命中、両船は操舵困難となって一時は衝突しそうになった。「山城丸」は左に大きく傾いた後、八時四十八分、船尾から沈没していった。「山城丸」及び「両徳丸」の乗員は「第二文丸」や別の哨戒艇に大部分が救助され、サイパン島行きを希望した遭難者は「第二文丸」でサイパン島に向かい、残りは父島に戻った。山城丸の乗員は当直の機関士四名が殉職した以外は日本に全員生還した(以上はウィキ山城丸」に拠る)。]

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