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2013/11/08

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 15 隅田川川開きのその夜起った火事の火事場実見録


M111


図―111

 

 上陸してから我々は、また景気よく人力車を走らせて帰宅した。日曜の夜の十一時というのに、店舗の殆ど全部は開いていた。私は夜中まで起きていて、ドクタア・マレーと日本人の態度に就て話し合った。いろいろな話題の中で我々は火事のことを論じたが、ドクタア・マレーは、それ迄に火事場へ行ったことは、一度も無いが、今度あったら一緒に行こうと約束された。やがて我々は寝ることにして、彼は二階へ行き、私は文字通り蚊で一杯になっている地階の部屋へ退いた。私は蚊を一匹も入れずに蚊帳の中にもぐり込んだが、プンプンいう声で眠つかれずにいると、間もなく警鐘が鳴った。警鐘は高い柱の上にあって梯子がかかっている(図111)。一人の男が梯子を登って行って、棒で区域の数を叩く。その音は粗硬で非音楽的であり、五百フィートの遠く迄も響くまいと思われる程莫迦(ばか)げて弱い。だが、このような鐘は、東京市中のいたる所に密接しているので、誰にでも聞える。私は即座に寝台を離れて、急いで衣服を身につけた。その時ドクタアが現われて、火事は遠くないといった。我々は屋敷を駆け出し、二人そろって一台の人力車に飛び乗った。そして半マイルも来ない内に、立木や日本人の群衆の顔を赤々と照らす、炎々たる火事の現場へ着いた。焼けていたのは、高い塀にかこまれた屋敷の、門のところに立ち並んだ、数軒の人家であった。私は日本に来てから、いろいろな奇抜なものを見たが、火事場で活躍している消防隊ほど奇抜なものはない。消火機械その物が、長さ二フィート半を越えぬ頑丈な木造の箱で、車輪なんぞは無く、二人の男がそれを担い上げ、上げ下げして水を揚げる長い柄を天秤棒の代りとして肩にかつぎ、何マイルも走ることが出来る位軽い代物なのである。写生図(図112)はその消火機械が、消防署の小屋みたいな建物の横側から出た二本の木釘にひっかかって、休息している所を示している。その下にかけてあるのは丈夫な竹でつくった梯子で、梯桟は木の小片をしっかり縛りつけたもの。軽くて強くて便利な梯子である。狭い往来をうまく舵が取れさえすれば、一人で安々とこれを持って走ることが出来る。蛇管は無い。長さ六フィートの木管が、消火機械の中心から垂直に出ている木管に接合しているのだが、その底部は、それが上下左右に動き得るような具合になって、くつ付いている。火を消すことを目的につくられたとしては莫迦気切った、そして最も赤坊じみたもののように思われた。我々が到着した時建物は物凄い勢で燃え、また重い屋根の瓦はショベルで掻き落されて、音を立てて地面に落ちていた。家屋の構造で焼けぬ物は瓦だけなのに、それを落すとは訳が判らなかった。地面には例の消火機械が二、三台置いてあり、柄の両端に一人ずつ――それ以上がつかまる余地がない――立ち、筒先き役は箱の上に立って、水流をあちらこちらに向けながら、片足で柄を動かす応援をし、これ等の三人は気が狂ったように柄を上下させ、水を揚げるのだが、柄を動かす度に機械が地面から飛び上る。投げられる水流の太さは鉛筆位、そして我国の手動ポンプにあるような空気筒がないので、独立した迸水(ほうすい)が連鎖してシュッシュッと出る。喞筒(ポンプ)は円筒形でなく四角であり、何週間か日のあたる所にかけてあったので、乾き切っている。それで、筒から放出されるより余程多量の水が、罅裂(すきま)から空中に噴き出し、筒先き役は即座にびしょ濡れになって了う。機械のある物は筒の接合点がうまく行かぬらしく、三台か四台ある中で只一台が、役に立つような水流を出していた(図113)。消防隊は私設で、各隊に標章持ちがいる。この標章は部厚い厚紙でいろいろの形の幾何的構造物をつくり、白く塗った上に黒く機械の番号を書いたもので、長い竿の上にのっている。標章持ちは出来るだけ火事に近く位置を占める。燃えつつある家の屋根に立つことさえある。標章持ちが証拠になった消防隊は、焼失をまぬかれた家の持主から金若干を貰う。

M112

図―112

[やぶちゃん注:「警鐘」半鐘。「区域の数を叩く」という部分にやや疑問を感じたが、ウィキの「半鐘」によれば、『地域毎に鐘の打ち方が定められ、火災の大まかな場所や災害の種類が分かるようになっていた』とあるから、モースの謂いは正しいと言える。ただ、この四年前(明治六(一八七三)年)からに滞日しているマレーが即座に「火事は遠くない」と言っている点、「半マイルも来ない内」(加賀屋敷から800メートル圏内)に火事場に着いた点では、これはその打ち方が摺半(すりばん)の類いか連点打(以下に示した表を参照)であった可能性が高いようにも思われる。打ち方についてウィキには、『火災現場すぐ近くの半鐘は火元であることを知らせる半鐘を連打して続けざまに鳴らす。この鳴らし方を擦半鐘(すりばんしょう)、略してスリバンと呼ぶ。また、鎮火の際は2点連打がされるが、この2点連打を「おじゃん」といい、転じて今までやって来た事が全て無駄になることを指し「おじゃんになる」というようになったという説もある』とする。また同ウィキには、『打ち鳴らし方は各府県令によって定められたが、たとえば東京市と東京府における警鐘による信号は次のとおりであった』として表が示されてある。特に「東京市内(明治三六年十月訓令第四十一号)」とあるものが一応、参考にはなるか。

「粗硬」は粗剛とも書き、「そこう」と読む。あらくてかたいこと。

「五百フィート」152・4メートル。但し、東北大震災関連の資料を見ると、青銅製半鐘の場合、聴こえる範囲は約300~400メートルあるとあり、モースの推測は低く見積もり過ぎである。因みに震災による津浪被害以後、半鐘は見直されている。防災無線は設置に1億5000万+維持管理に500万円もかかり、しかも停電時に使用不能となるのに対し、半鐘設置費用は1600万程度に抑えられ、比較的規模の小さい地域ではハイテク機器を凌駕する成果を期待出来るという。

「長さ二フィート半を越えぬ頑丈な木造の箱」「二フィート半」は約76センチメートル。所謂、龍吐水である。消火用具の一つで雲竜水とも言い、箱に入れた水を手押しポンプで噴出させる散水装置。享保年間(一七一六年~一七三六年)にオランダから渡来したとも長崎で発明されたとも伝えられる。東京では実際に明治中頃まで使用された。竜が水を吐くさまに見立てた呼称である(グーグル画像検索「竜土水」)。

「梯桟」「ていさん」と音読みしているか、若しくは「はしごさん」と訓じているか。格(こ)又は段と呼ぶのが一般的。前の「梯子」もここも原文は“ladder”(梯子)である。

「蛇管」原文“hose”。「じゃかん」「だかん」と読む。ホース。

「六フィート」約1・8メートル。

「家屋の構造で焼けぬ物は瓦だけなのに、それを落すとは訳が判らなかった」とあるが、この時まだモースは、瓦ちうものが屋根に置かれているだけのもので、屋根に接合されているものではないことを知らなかったのであろう。ネット上でもよく分からず、勝手な私の想像であるが、そのままにしておくと屋根上での消火活動の際に足場が不安定になるし、そもそもが当時の建物では瓦の重みによって燃えている家屋が早々と潰れてしまい、内部に残っている逃げ遅れた者や貴重品が死傷・全損壊してしまうのを防ぐためではあるまいか? また、寧ろ早く単一の家屋を燃え易くしてしまって延焼を逆に防ぐ目的もあるかも知れない。後の原注にもある通り、実はこの時モースが見たのは燃えている家屋の瓦落しではなく、火元の風下にある家屋の、延焼を食い止めるための人為的破壊での一場面であったのかも知れない(その可能性が強い)。識者の御教授を乞うものである。

「柄の両端に一人ずつ――それ以上がつかまる余地がない――立ち」しかし図113の中央の龍吐水にははっきりと二人ずつ描かれている。

「迸水(ほうすい)」ほとばしる、勢いよく飛び散るの意「迸」は音「ホウ・ヒョウ」。

「消防隊は私設」このもととなった江戸時代の町火消(まちびけし)は第八代将軍吉宗の時代、南町奉行大岡忠相によって創始された町人による火消で、財政の安定化を目標の一つとした享保の改革に於いて火災による幕府財政への影響を避けることを目的として作られた江戸市中の消防制度の一つ。町火消は町奉行の指揮下におかれたが、その費用は各町が負担すると定められていた。享保五(一七二〇)年には地域割りが修正され、約二十町を一組とし、隅田川から西を担当する「いろは組」四十七組と東の本所・深川を担当する十六組の町火消が設けられた。同時に混乱する火事場での目印とするために各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせた。後に「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わって「いろは四八組」となり、本所深川の十六組は北組・中組・南組の三組に分けて統括された。元文三(一七三八)年当時の定員は一万六百四十二人であった。町火消の出動範囲は当初、町人地に限定されていたが、実状に即して武家屋敷や幕府の付帯施設(米蔵・金座・橋梁)及び神社などの消防も行うようになり、延享四(一七四七)年の江戸城二の丸火災(全焼)に於いては、初めて旗本の定火消及び大名の課役であった大名火消に混じって町火消が江戸城内まで出動している。幕末には定火消が一組のみに改組されるなど武家火消が大幅に削減されて江戸の消防は完全に町火消へと委ねられた。さらに町火消の活動は消防のみに留まらず、黒船来航時の市中警備・戊辰戦争時の治安維持なども行なった。また元治元(一八六四)年の長州征討では長州藩江戸藩邸の破壊が町火消に命ぜられており、鳥羽・伏見の戦に敗れた後は町火消への兵事訓練を行なうなどして衰退する幕府に兵力として組み込もうとする動きもあった。この町火消は本記載に先立つ明治五(一八七二)年に新政府によって消防組三十九組へと改組された。モースは「私設」と言っているが、各地の消防組織(現在の消防団)はこの江戸の町火消の組織をそのまま継承しているものの、運営母体は地域によってばらつきがあって市町村による公設組織と地域住民有志による私設組織が混在する時代が長く続いた。名称も「消防組」「火消組」「水火防組」などまちまちであった。但し、モースが最後に述べている鎮火後に金を支払うという組織は私設の感じではある。]

 


M113


図―113

 

 この写生図で、私は水の洩る機械、水を運んでいる二人の男、異教の歩に立っている標章持ち等の概念を示そうと努めたのであるが、実際の火事場にはこんな機械が数台あり、その殆ど全部が洩り、人々が水を運搬し、梯子や、消火用の棒や杖を持って、叩いたり撲ったりして建物を引き倒し、すべての人が怒鳴り、十中八、九までが灯のついた提灯を持っている。そこはよろしく御想像下さい。前にもいったように、蛇管というような物が無いので、機械は火焰の極く近く迄引き寄せねばならず、従って裸体か、裸体に近い消防夫は、火傷をしはしまいかと思われる【*】。

 

 

* 其後知った所によると、消防夫は厚い刺し子でつくつた制帽や甲やその他すべてを持っている。そして火事の進行を阻止するために風下の家を取りこわし、機械は焰に水をかけるのでなく、この仕事をする消防夫達に水をかけ、かくの如き小さな迸水装置は、迅速に取り上げて火事の現場へ持って行くことが出来る。提灯は暗い狭い町通りで消防夫達を助ける――と、こう聞くと日本の消防隊も、そんなに莫迦気た真似ばかりやっているのでもない。マサチューセッツ州セーラムのピーボディー・ミュージアムには、消防夫の身支度の立派な蒐集が陳列してある。

[やぶちゃん注:「刺し子」綿布を重ね合わせて細かく刺し縫いにすること、また、そのように縫ったもの。柔道着・剣道着などは刺し子である。火消半纏(ひけしばんてん)は背紋をの入った刺子半纏であった(グーグル画像検索「火消半纏」)。]

 

 

 勇気と活気の点で、また熱と煙とに対する抵抗力に於て、彼等は我国の消防夫に比して決して劣ってはいないが、それ以外の点ではアメリカの少年達の方が遠かにうまくやりそうに思われ、彼等の間に立っていた私は、彼等の途法もないやり方に、何度も何度も腹をかかえて笑った。木造建築の薄っぺらな火を引きやすい性質が原因して、一年か二年ごとにこの都会の広い区域が焼け落ち、多額の財産はいうに及ばず、時に生命さえも亡ぼされるのに、何の不思議はない。日本人が建築法を変更して、薄い木片の羽目板を使用することを禁止し、そしてもっと役に立つ消火機械を持ち、ちゃんとした消防隊を組織しなくては、火災による大損害はいつ迄もあとを絶たぬであろう。

 

 一時、火事場から家路についた時、何か商売がありはしまいかと思って開けている店が五、六軒あった。店といえば、その多くが晩の十時、或はその以後までも開いているのに気がつく。夜になると店全体が往来に溢れ出るらしく、何にしても往来の両側の建物の近くには(歩道がないので)木製品、金属製品、陶器、漆器、団扇、玩具、菓子その他を積み上げた莚がびっしり並び、それ等のすべては紙の燈心を持つ粗末な脂蠟から石油洋燈(ランプ)にいたる、各種の燈火で照らされている。人口の大部分は、商売と交易とばかりを職業としているらしく思われる。店の多くは背後に部屋があり、そこを住居として使用する。

[やぶちゃん注:「脂蠟」原文“a rude dip”。粗製蠟燭。]

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