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2013/11/17

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 5 大森貝塚事始

 横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当の Kjoekkenmoedig(貝墟)であると知った。私はメイン州の海岸で、貝塚を沢山研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた。私は数ヶ月間誰かが私より先にそこへ行きはしないかということを、絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待っていた。私がこの堆横の性質を話したのは、文部省督学のドクタア・マレーただ一人である。今や大学に於る私の仕事が開始されたので、私は堆積を検査する準備にとりかかった。先ず私は鉄道の監理者から、その所有地に入り込む許可を受けなくてはならぬ。これは文部省を通じて手に入れた。間もなく鉄道の技師長から次のような手紙が来た。

 

 総ての線路工夫等等等へ

 この手紙の持参人(文部省教授の一人なり)及び同伴の学生に、本月十六日日曜日、線路にそうて歩き、彼等が希望する工事の検査を許可すべし。

 彼等は、列車を避け、且つすべての工事に干渉せざるべし。

     工部省鉄道局建築技師長

           エル・イングランド

[やぶちゃん注:「横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積がある」遂に大森貝塚発見の話がここに登場する。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の第十二章「大森貝塚の発掘」によれば、まずこの「横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った」日は六月十九日、未だ横浜に上陸して丸二日も経たない、それも車窓からの一瞬の嘱目を見逃さなかった発見であった(但し、ここに見るように発掘は初回が九月十六日、二回目が九月十八日か十九日で、九月二十九日にはモースの命を受けた佐々木忠二郎が探査に行き(注で後述)、十月九日から本格的な発掘が行われた。更に後で述べるように、実は「大森貝塚」はモースが最初の発見者では実はないようである)。モースが貝塚に興味を示すようになった痕跡は、一八六二年モース二十四歳の時、ポートランド博物学協会で行った“Excavation at Goose Id. Me., and occurrence of rare Helices beneath Indian deposits”(メーン州グーズ島に於ける発掘とインディアン堆積層下層からの珍しいカタツムリ類の発見)という報告の遡れるという。欧米で貝塚が古代人の塵捨て場の遺跡であると認められるようになったには一八五〇年前後で、モースは一八五九年からの二年余り、ハーバード大学のルイ・アガシー教授の学生助手を務めたが、その時、アメリカでの貝塚発掘と研究のパイオニアの一人であった同大のジェフリー・ワイスマン(Jeffries Wyman  一八一四年~一八七四年)の講義を聴き、ワイスマンが一八六七年の夏と秋に行ったメーン州とマサチューセッツ州での貝塚発掘にも同行している。一八六七年十月のボストン博物学会例会で「グース島貝塚が太古のものである証拠」という題の発表(後に同会報や雑誌“Canadian naturalist”に要約掲載)をしているのが、貝塚を主題としたモースの初報告で、そこでモースは貝塚からの出土品の中に石器が乏しいことが貝塚の古さを示すゲージであるとしており、この大森貝塚の年代推定にもそれが採用されている。モースが論文に発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見の報告文書には所在地を大森村と記していることから、当初の発掘地点については長い間、品川区説と大田区説の二説が存在した。しかし、その後昭和五九(一九八四)年までの複数の調査によって東京府が大井村字鹿島谷二千九百六十番(現在の品川区大井六丁目二十一番)の土地所有者桜井甚右衛門に調査補償金五十円を支払った文書が発見されたこと、現在、車窓から現認出来る記念碑が三百メートル程離れた位置に二つあるが、その一方の「大森貝塚」碑(昭和四(一九二九)年建立)周辺の再発掘で貝層が確認されたのに対し、「大森貝墟」碑(昭和五(一九三〇)年建立)周辺では見つからなかったことから、現在ではモースが調査したのは品川区側の線路に沿った貝塚部分(実は北西の台地部分には別な広範な貝塚が存在し、モースの報告書「大森貝塚」にも「線路の裏手九十五メートル地点に別の貝塚がある」と載る)であったことが分かっている。従って正確を期するとすれば「大森貝塚」ではなく、「大井貝塚」と称するべきであって、この名称の誤りについて磯野先生は、次の段落に記されているように、発掘の際には常に大森駅から歩いた、そこでモースが仲間内で「大森貝塚」と通称してしまったことが混乱の種となったとある(この所在地説についてはウィキの「大森貝塚」も参考にした)。

Kjoekkenmoedig(貝墟)」貝塚。現代英語では“kitchen midden”(単に“midden”とも)。ドイツ語“Køkkenmøddinger”、デンマーク語“Køkkenmødding”で、考古学用語がスカンジナビアの言語の影響を受けた中世英語から選んだ結果らしいが、現代の辞書には見出せない特殊な綴りの英語で、そもそもどう見ても英語には見えない。なお、二〇一二年度早稲田大学国際教養学部入試日本史の「Ⅲ」では「モースの滞在記録(英文史料)」(恐らくは本書)が出題されており、まさにこの奇体な熟語を含む部分から出題されているようである。

「私は数ヶ月間誰かが私より先にそこへ行きはしないかということを、絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待っていた。私がこの堆横の性質を話したのは、文部省督学のドクタア・マレーただ一人である」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、九月二十九日にモースの命を受けた佐々木忠二郎が探査に行った際、佐々木は大森貝塚で何と、モースと同じ御雇い外国人教師でドイツ人の、金石学及び地質学担当である理学部教授ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~一九二七年)と逢った。帰った佐々木から『その報告を受けたモースは先をこされるのを心配したらしい』とあって、更に『モースが知っていたかどうか不明だが、フイリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子、ハインリッヒ(ヘンリー)・フォン・シーボルトもこの頃大森貝塚の発掘を計画していたことが、ボン大学日本学研究所長のヨーゼフ・クライナー教授の最近の研究で明らかになっている。なにしろ、線路脇の目立つところにある貝塚のこと、それまで誰も発掘していなかったのが不思議なくらいである』と続く。則ち、「大森貝塚」を現認していた人物としてはモース以前にこのハインリッヒ・フォン・シーボルトいた可能性があり、ナウマンもモース以前に既に存在は知っていた可能性があるということになる。あくまで最初の発掘者がモースであったということになるが、そこでは実はモースの意外な一面にとしての、したたかな速攻戦略術が展開されたものと見ていいだろう。その証拠に磯野先生は続けて、『ともかく、モースは大学当局を動かし、十月一日付で東京大学から東京府に対する発掘願を出してもらった。松浦佐用彦がそれを東京府に持参したが、その発掘願のなかに』(以下、引用文を正字化して示す)

「古生物發見ノ義ハ全クモース氏ヲ以テ初メトシ候事ユヘ、若シ右傳聞他ニ掘採スルモノ有之候而バ、自物品散佚年代徴考ノ便ヲ失ヒ候ニ付、掘採許可之義ハ暫ク本部限リ、他ヨリ願出候而モ御聞届無之樣致シ度候」

『と他者の発掘を認めぬように要請しているのである』と記されておられるのである。文部学監のマレーが同じアメリカ人で、モースとウマが合った(日光旅行もマレーの誘いであった)ことなども陰に陽にプラスに作用しているようにも思われる。なお、以前にも注した通り、ナウマンとはここでライバル関係に立ってしまい、学際的に被る部分が多くあったにも関わらず、全くと言っていい程、交流がなかったようである。

「等等等」は「とうとうとう」と音読みしているものと思われる。原文は“&c., &c., &c.”で、“&c.”は“etc.”と同じく、ラテン語由来の“et cetera”の略語。

「工部省鉄道局建築技師長/エル・イングランド」原文は“L. England”(改行で以下右インデントで)“Principal Eng. Sec, I.G.C.”。名前の頭文字や肩書などで齟齬があるが、これはイギリス人のお雇い外国人技師ジョン・イングランド(John England ?~一八七七年)のことであろう。明治三(一八七〇)年四月から五ヶ年の契約で建築副役として来日し、同年四月に新橋~横浜間の、七月には大阪~神戸間の鉄道測量を行い、明治七(一八七四)年からは神戸建築課の業務を主管、翌八年八月には再度、新橋~横浜間に戻って木橋改修や複線化工事を監督、明治一九(一八八六)年二月に建築師長となっている。]

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