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2013/11/28

耳嚢 巻之八 堀越御所の事

耳嚢 巻之八

 

 堀越御所の事

 

 伊豆國下田より北二里半程隔(へだ)て、堀の内村あり。則(すなはち)堀越(ほりごえ)御所舊跡なり。御所跡は田畠になり、堀の内村かたはらに法本寺と云(いふ)寺ありて、堀越の御所追福供養を今以(もつて)年々時日を極(きは)め執行なすとかや。法官怠りぬれば疫病等流行なすと、土俗申習(まうしなはら)しける由。右堀越御所と申は足利將軍の氏族政知(まさとも)堀越の初代にて、其子義通は將軍を相續せしともいふ、其子茶々丸北條早雲に被追(おはれ)、堀の内村の紅花畠(べにばなばたけ)の内(に隱れし右紅の中)より鷄の飛(とび)出るを見て、北條の追手疑ひ茶々丸を尋(たづね)出し害せられたるによりて、今に右村にては鷄を不飼(かはず)、紅花を不作(つくらざる)由。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

但茶々丸は政知の子とも義通の子ともいふ。茶々丸は、代々名右の通りに名乘りし也。又は次男にても有(あり)し也(や)、中古治亂記といへる書には、茶々丸は北條の勢に追(おは)れて、山の本の寺にて自害すといへり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「耳嚢 巻之七」掉尾との連関はない。氏神信仰などでしばしば見られる禁忌譚で、そこが根岸の関心の主眼であったものと思われる。現在もこの禁忌が当地で行われているかどか、いささか興味深い。久々の歴史古跡検証物で、格調高く、巻首に配するにふさわしいものだが……鎌倉絡みとはいえ、また、以下殆んどが資料参照によるものの、いささか注するに疲れた、というのが本音ではあった。

・「堀越御所」享徳三(一四五五)年十二月二十七日、第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を御所に招いて暗殺したことに端を発した享徳の乱は、室町幕府方と山内・扇谷両上杉方、更に鎌倉公方(古河公方)方が長期に亙る反目抗争と無数の合戦を繰り返し、これが関東地方一円に拡大して関東の戦国時代幕開けの遠因となったが、その幕府方の一方の雄がここに出る足利政知(永享七(一四三五)年~延徳三(一四九一)年)である。彼は室町幕府第六代将軍足利義教の次男で、第七代将軍義勝の異母弟で第八代将軍義政の異母兄であった。後の第十一代将軍足利義澄の父である(十一代以降の将軍はこの政知の家系から続いた)。彼は弟らの母が権勢を誇った日野家の出であったために兄であるにも拘わらず「弟扱い」とされ、幼少の頃より僧として天龍寺香厳院主となり清久(せいきゅう)と名乗っていたが、異母弟(一つ下)将軍義政の命によって還俗、長禄元(一四五七)年十二月二十四日に二十三歳で、幕府公認の鎌倉公方として鎌倉へ京を出立させられた(但し一旦、近江園城寺に留まり、実際には翌長禄二(一四五八)年の五月以降に改めて関東へ下向している)。ところが享徳の乱の真っただ中、この当時は幕府と敵対状態にあった足利成氏(但し、彼自身はこの二年前の康正元(一四五五)年六月十六日に幕府方今川範忠軍に敗北した際、下総古河(現在の茨城県古河市)に退去して古河公方を名乗っていた)の勢力が鎌倉御府周辺域に於いて強大であったために、鎌倉に入ることが出来ず(政知には山内上杉家の他に関東探題渋川義鏡(よしかね/よしみ)や上杉教朝(後に関東執事)などが配下として従っていたものの、実権は完全に幕府に握られていたため、当地周辺の関東武士団からの支持協力が全く得られなかったことが大きな理由の一つとされる)、六月か八月頃に伊豆堀越で足止めを食らい、結局ここに留まることとなった。これ以降、「堀越公方」「堀越御所」と呼ばれるようになった。義政は政知の派遣と前後して奥羽・甲斐・信濃など関東周辺の大名・国人衆に出陣を命令、政知を大将とする大規模な成氏討伐計画を進めていたが、関東出兵を命ぜられた越前・尾張・遠江守護斯波義敏が義政の命令に従わず、内紛(長禄合戦)の鎮圧のため越前に向かってしまい更迭されたために斯波波軍の出陣は中止となり、同年十月の太田庄の戦いでは関東の幕府軍が成氏軍に敗北してしまったため、成氏討伐計画が頓挫しただけでなく、幕府への諸大名の信用も失墜、政知は自前の軍事力がない中途半端な状態のまま伊豆に留め置かれることになった。この後、三つ巴の一進一退が延々と二十年も繰り返され、折しも幕府方は応仁の乱によって兵力の投入もままならず、両上杉家も長尾景春の乱による内紛を抱えてそれぞれの陣営が疲弊、膠着状態に陥った。結局、両上杉家が和睦を考えるようになり、成氏と幕府との和睦の仲介を約束して成氏と和睦、景春の反乱鎮圧後の文明一四(一四八三)年十一月に成氏と幕府の和睦が成立して享徳の乱はとりあえず終結した。結果、堀越公方は和睦で伊豆一国のみの支配者と決まり、政知はこの和睦に同調した関東執事上杉政憲(教朝の子)と伊豆国人衆に不満を抱くようになった。後、長男茶々丸を廃嫡、三男潤童子(じゅんどうじ)を後継者と定め、この廃嫡を諌めた政憲を自害させている。一連の動きは管領細川政元と連携して第十代将軍足利義材(よしき:後に義稙(よしたね)と改名)の廃立を目的とした計画の一環であって、これは自身の次男清晃を次期将軍に擁立し、潤童子を堀越公方にして、再度、成氏討伐を開始する狙いがあったが、延徳三(一四九一)年に自身が病いに倒れ、四月三日に伊豆で病死したことで頓挫した。墓所は静岡県三島市宝鏡院内の足利義詮塚の傍らにある。以上、主に参照にしたウィキの「足利政知」には最後に、彼の死から三ヵ月後、堀越公方の跡継ぎを巡って茶々丸と潤童子の間で内紛が勃発、茶々丸が潤童子を殺害して堀越公方になったが、二年後の明応二(一四九三)年には政元が明応の政変で義材を廃位して清晃を擁立、第十一代将軍として義澄と改名した清晃(よしとお)から茶々丸討伐を命じられた伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵入を招いた。茶々丸はやがて宗瑞に敗れて自害、堀越公方は僅か二代で終わったが、義澄の子孫は代々将軍を輩出していくことになった、とある。なお、迂遠な注になったが「堀越御所」跡と伝えられるものはウィキの「伝堀越御所跡」によれば、現在の静岡県伊豆の国市寺家に国指定の史跡として残る。字名にはないものの地元ではこの付近を「堀越(ほりごえ)」と呼んでいる。但し、発掘調査が徹底しておらず、かつて池の跡が認められたのみで、建物跡などは不明とあり、『「伝堀越御所」としているように、「ここが堀越御所であった」という確証は得られていないようで』、近くには、鎌倉得宗家滅亡後、北条高時の母覚海円成が一族の女性らとともに移り住んだという韮山の北条邸跡や、同尼が北条一族の菩提を弔うために建立した『円成寺跡があり、その関係も考えられないわけではない。とくに室町時代には円成寺が近接することになる』とある。ところが、これは現在の伊豆長岡駅の西直近であって、以下に出る「堀の内村」は本文にも「下田より北二里半」(約九・八キロメートル)とあり、これは下田市堀之内伊豆急行線稲梓(いなずさ)駅の東約一キロ地点に相当する。底本鈴木氏の注によれば、下田を『流れる稲生沢の中流。堀の内は一般に城郭のある所をいう地名。深根城址がある。『改訂豆州志橋』に、堀之内村の殿屋敷というのは、山上に古井が残って居り、土塁があり、二筋の小渓に挿まれた所。延徳年間』(一四八九年から一四九二年。政知の死の前後当たる)『ここに関戸播磨守吉信がいた。当時足利茶々丸が北条の堀越御所から逃れて、この城を頼ったが、攻められて落城して自殺したと。興聖寺というのに御所墓と称する墓があると』(下線やぶちゃん)と注されておられる。静岡県田方郡函南町塚本(長岡の御所跡から韮山を挟んだ北北西凡そ三キロの地点)に興聖寺という寺があるがこれか? さて、この深根城についてはヨシ坊氏の「深根城」に詳しいが、そこには延徳三 (一四九一) 年、伊勢新九郎(北条早雲)が堀越御所を襲ったが、一説に『関戸吉信は伊勢新九郎の軍勢襲来の際に新公方となった茶々丸を伴って御所を脱出所領地である深根城に籠ったと伝えられ』(下線やぶちゃん)、この深根城に早雲の軍勢が迫ったのは明応七(一四九八)年とあって、『二千の軍勢は西伊豆松崎に上陸、松崎街道を東進して深根城を襲った。早雲勢は付近の民家を壊して堀を埋め、城内に斬り込んだ』。『多勢に無勢、関戸吉信は自決した茶々丸の首を抱えて城を脱したが梨本(河津町)で自刃したという。吉信の妻尉奈の前(じょうなのまえ/上杉憲実の娘)も自刃して夫の後を追った。そして、城兵と城内にいた老若男女すべてが早雲勢によって殺され、その首は城の周囲に晒され、悲惨を極めた』という話を記されておられる。ともかくも以上の記述を綜合すると、どうもこの――「堀の内村」=「堀越御所」説という根岸の記載は地名の類似性から生じた誤伝なのではあるまいか――という疑いが生じてくるのである(但し、底本鈴木氏及び岩波版長谷川氏注ではこの「堀越御所」跡を韮山町四日町(韮山駅直近)とする)。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。

・「法本寺」諸注、報本寺の誤りとする。臨済宗婆娑羅山報本寺は下田市加増野(下田市堀之内の深根城址の西直近)に現存する伊豆八十八ヶ所霊場四十八番札所(創建時は真言宗)。訳では訂した。位置から見ても、後記の「山の本の寺」も同寺を指すと考えてよい。

・「堀越の御所追福供養」これは以下に注する事蹟や位置から考えると、代々の堀越御所の「追福供養」を名目に、御霊になる条件を十全に備えた茶々丸の「追福供養」を指しているように思われる。

・「義通」諸本、義遐(よしとお)の誤りとする。これは政知の次男で先に出た清晃(よしとう)、幕府第十一代将軍足利義澄(文明一二(一四八一)年~永正八(一五一一)年)のこと。堀越公方足利政知の次男として伊豆に生まれたが、初め、長男茶々丸が後継者とされたために天竜寺香厳院の喝食として清晃と称したが、明応二(一四九三)年三月に将軍足利義稙が親裁権の強化を目指して河内出陣を強行したことから、細川政元はクーデターによって義稙を廃立(明応の政変)、清晃が足利家督に擁立された。直ちに還俗して義遐(後に義高から義澄と変えた)と改名、翌年末に将軍に任官した。しかし義澄は幕政を壟断する政元の傀儡に過ぎず、永正四(一五〇七)年六月に政元が暗殺されると幕政は再び混乱の呈をなし、翌年、義稙の再入洛により義澄は近江に逃亡、その三年後に近江九里城で病死した。細川氏の専制、つまり戦国大名化により圧迫された悲劇の将軍といえる(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。訳では訂した。

・「茶々丸」足利茶々丸(?~延徳三(一四九一)年/明応二(一四九三)年/明応七(一四九八)年とも)は足利政知長男。以下、ここまでの注との比較のためにウィキの「足利茶々丸」より引用しておく。『「茶々丸」は幼名で正式な元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされている』。『嫡男であったが素行不良の廉で父・政知の命により土牢に軟禁され、代わりに弟の潤童子が後嗣とされた。一説には、潤童子の実母(茶々丸にとっては継母)の円満院が政知に讒言したためであるという。執事の上杉政憲は政知による茶々丸の廃嫡を諌めたが聞き入れられず、自害させられたという』。延徳三(一四九一)年四月の政知の死後は継母円満院に虐待され、同年七月に『牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた潤童子と継母を殺して、事実上の公方となった』。『しかし、奸臣の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主の外山豊前守、秋山新蔵人などの重臣を誅するなどしたことから、旧臣の支持を失い、内紛は伊豆国内に波及』、明応二(一四九三)年十月、『興国寺城にいた伊勢宗瑞(北条早雲)が混乱に乗じて伊豆に攻め入ると、新将軍・義澄の母(円満院)を殺した反逆者と見なされ、求心力が低下した堀越公方はたちまちに滅亡した』。『従来説では、この時点で宗瑞に敵せず、伊豆韮山の願成就院において自刃したとされていたが、実際は、』明応四(一四九五)年に『宗瑞によって伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたことが近年の研究で明らかとなって』おり、明応七(一四九八)年八月に『甲斐国(伊豆深根城とも)で宗瑞に捕捉され、自害した』というのが定説のようである。本文「其子」というのは後記と文脈から見ると茶々丸を義遐の子と誤認した伝承を伝えるものと思われる。ここは伝承であり後記もあるので訂せず、そのまま示した。

・「北條早雲」(永享四(一四三二)年~永正一六(一五一九)年)は小田原北条氏(後北条氏)初代。早雲は庵号で、北条を称したことはなく、一般にいうこの呼称は俗称である。正しくは伊勢を氏、新九郎を通称とし、入道の後は自ら早雲庵宗瑞と記している。文明八(一四七六)年に駿河守護今川義忠の家督相続を巡って、その子氏親を支持し、相手方の小鹿範満を支持する太田道灌と共に事態の収拾に当たったというのが正確な資料の初見とされる。道灌の没した年の翌長享元(一四八七)年、早雲は範満を討って氏親を名実ともに今川家の家督とし、この功により駿河の富士下方十二郷を与えられ、興国寺城主となった。 延徳三(一四九一)年には伊豆に侵攻してこれを平定、韮山城に拠った。大森藤頼の小田原城を攻略、関東進出の第一歩を印したのは明応四(一四九五)年九月のことであった。山内上杉・扇谷上杉両氏の抗争を巧みに利用しながら支配地を拡大、永正三(一五〇六)年には既に小田原付近で検地を実施、新しい基準による貫高(かんだか:中世の土地の面積表示の方法。その土地から徴収できる年貢の量を貫文(銭)で表したもの。)の採用など、新たな領国支配体制の基礎が固められている。同七年頃からは相模の征服を開始、同九年八月には三浦義同(よしあつ)の岡崎城を陥して住吉城に敗走させ、初めて鎌倉の土を踏んでいる。同年には玉縄城(今の私の正面に展開する山城)を築き、翌十年には義同の反撃を退けて、さらに新井城まで追い詰め、同十三年七月、その子義意(よしおき)とともに討ち滅ぼして相模を征服した。同十五年には家督を子氏綱に譲ったとみられ、翌年に韮山城で死去した。平生から「太平記」を愛読、倹約家であったことでも有名である。道灌の器量を見抜いて一目置いており、戦国大名北条氏発展の基礎を築いた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「(に隱れし右紅の中)」底本にはこの( )部分は尊経閣本によって補った旨の右注がある。

・「中古治亂記」は正しくは「中古日本治乱記」。雑史。百巻。山中長俊著。慶長七(一六〇二)年序(岩波版長谷川氏注に拠る)。訳では訂した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 堀越御所の事

 

 伊豆国下田より北へ二里半ほど隔てて、堀の内村というところがある。

 これが則ち、堀越(ほりごえ)御所旧跡とのことである。

 御所跡は田畠となり、堀の内村の傍(そば)に報本寺と申す寺が御座って、堀越の御所追福供養を、今以って年々時日を決め、執行致いておるとか申す。

 僧がうっかり供養儀式など、怠ったりすることがあれば、たちどころに疫病なんどが流行(はや)ると土俗にては言い伝えておる由。

 この堀越御所と申すは、足利将軍の氏族で御座った政知(まさとも)を堀越の初代として、その子義遐(よしとお)は将軍を相続したと史書に伝える。

 その義遐の子茶々丸は北条早雲に追われ、堀の内村の紅花畠の内に隠れたが、驚いた鶏がその紅花の中より飛び出だいたを見て、北条の追手は疑いを持ち、そこに潜んでおった茶々丸は捜し出だされてしまい、そのままそこで殺害されたと申す。

 されば、今にこの村にては、鶏を飼わず、また、紅花を作らざる由。

   *  *  *

【後記】

  但し、茶々丸は政知の子とも義遐の子とも伝える。

  茶々丸は、古来より名を右の通りに呼ばわってお

  るとのことである。または彼は政知の次男ででも

  あったものか。「中古日本治乱記」と申す書には、

  茶々丸は北条の軍勢に追われて、山の麓の寺にて

  自害したと記されてある。

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