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« 中島敦 南洋日記 十月十八日 | トップページ | 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 7 上野東照宮神嘗祭を真直に見るⅡ »

2013/11/21

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 7 上野東照宮神嘗祭を真直に見るⅠ


M224
図―224

M225

図―225

 

 九月十七日(月曜日)は国祭日で、大学も休みだった。私はこの日の変った経験を、ベンと鉛筆とで記銀することが出来たら、どんなにかよいだろうと思う。私は学生達に、何か面白いことがあるのかと尋ねたが、はっきりしたことは何も確め得なかった。だが、私は、この日諸寺院で、ある種の重要な祭典が、音楽入りで挙行されるということを見出した。上野公園にある美しい寺院は、我々にその祭礼を目撃する機会を与えるだろうというので、我々は群衆にまざってぶらぶらしながら、人々を眺め、そして新奇な光景が沢山あるので、短気を起すことすら忘れていた。この大きなお寺の音楽は、十時に始った。ドクタア・マレー、チャプリン教授、及び日本人の通弁と一緒に、私は集って来た大群衆と共に赫々たる太陽をあびて立った。上野のお寺は日光のお寺に似ている。あれ程壮麗ではないが、極めて美しい。内部は日光同様な鍍金(めっき)と装飾とで光り輝いている。そしてあけはなしてあるので、内部でやっていることはすべて外から、明瞭に見える。私は自然、神官の神仕えよりも、音楽の方に興味を持っていたので、楽師たちが見える段々の上の方の端に、いい座席を占領した。私は学生から、お寺には各々教区、換言すれば教会の会員連があり、そしてその各々が寺院の一つに属する信仰を誓約しているということを聞いた。外廊はかかる信仰者の座席らしく、彼等はみな脚を身体の下に折り曲げて坐っていた。広々としたお寺の床は、神官達の奉仕や儀式のために留保してあったので、三、四十人集った信仰者達は、どっちかといえば我々の眼界を邪魔した。十時になると、大きな太鼓が鳴り始め、最初はゆっくりしていたが、段々速さが増すと、群衆は寺の前庭に群がり入り、広い階段の下で御祈禱をいい、両手をすり合わせ、そしてお寺の前に必ず置いてある大きな木の箱に、銭を投げ入れた。献金箱を廻すというようなことは、決して行われない。その代用をするものは、長さ四フィート、あるいはそれ以上の大きな箱で、廊下か地面に置かれ、角のある横木何本かが蓋になっているから、投げた銭は必ず箱の中にすべり込む。これが昼夜を通じて使用される。往来を行く人が、信心深い祈りをささげ、十フィート以上もはなれた所から銭を投げ、そして過ぎ去って行く。銭が常に入らぬこともよくあるので、価格の低い銅銭が、廊下の附近にちらばっているのが見られる。我々と同じ服装をした非常な老人が、日本人がお祈りをする時によくやるように、懇願的な態度で両手をすりあわせながら、熱心に祈禱している有様は奇妙だった。ドクタア・マレーは、通訳に一ドル持たせて寺の裏へやり、寺の当事者に我々を内側へ入れることを許させ得るかどうかをためして見た。彼は間もなく、入ってもいいという許を得て帰って来た。そこで我々は寺の後へまわり、靴をぬいで、反対側に楽師達が坐っている場所に相当する所へ通された。ここには教区の会員達でさえ来ていない。何百人という日本人が、このような場所に三人の野蛮人が、いやに目立って坐っているという新奇な光景を、好奇心深く外から見つめるのには面喰った。紫、緑、その他の縞の寛衣を清らかに着た、ハキハキした利口そうな神官達は、荘厳な儀式を行いつつあった。お寺の床は、磨いた黒漆塗りの板を敷きつめたもので、鏡のように光を反射していた。如何に熱心に私がありとあらゆることを注視したことよ! 楽師は、私に多大の興味を持たせた。横笛が一つ、小さな竹笛が一つ、それから、楕円形の底部から、何本かの竹管が、垂直に立っている不思議な形の楽器が二つあった。この楽器は「ショー」と呼ばれ、写生図にある通り、両手で持って横から息を吹き込む。別々に各々四本の支持物の上に立つ、大きな太鼓と、小さな太鼓と、枠に入った平べったい鐘とがあった。図224は楽師達を写生したものである。曲節も旋律も、呑み込むことが出来なかった。音楽は薄気味悪く、壮重に聞えた。室は、僅かに変化する継続的な音調(というよりも、むしろブーンブーンいう音)を立て続け、他の楽器は、時々それに入り込んだ。この寺院の平面図は、図225で示してある。それは主要な広間と、短い階段を下った所にある短い廊下と、この廊下の他端の、短い階段を上った所にある、内部の広間とから成っている。かかる非凡な寺院の内部の、彫刻や、手のこんだ装飾や、繊美な細部を記叙することは出来ない。私とても、それを試みようとは思わぬ。写生図で

1は内部の広間で、そこにある机には食物の奉納品を置き、2は二列にならんだ神官の位置を示し、3は我我の位置で、4は楽師、5は御維新までは偉い大名であった神官の首領の子息を表し、外廊の小さな点は儀式につらなる会員達を示している。楽師達が長い間努めた後、今まで坐っていた神官の列が立ち上り、一番位の高いのが二人、厳かな足取りで内部の寺院へ入り、別の二人が短い階段を下りて通路に立ち(6)、更に二人が今迄神官が坐っていた所に、また別の二人が我々の背後に立った。彼等が頭にいただく物には、二種類あった。一つは儀式用の、黒い綿でつくった袋に似た品で、両側が平であって、これは位の低い老がかぶり(図226)、他は(図227)大名がかぶった儀式用の品である。これは横側に平べったくした、黒い漆塗りのもので、後の方をつき出してかぶる。儀式というのは、死んだ将軍のために、食物のお供物をのせたお盆を運び入れるのであった。入れる前に、神官は白い紙の帯を鼻と口との上にむすんで、お供物に息がかからぬようにする。お盆は、いう迄もないが、色を塗らぬ軽い木で出来ていて、浅く、四隅を削り落した四角形である。これ等は釉薬をかけぬ、淡赤色の陶器の台の上にのっている。食品のお供物は、米をひらたい球にしたもの二つを重ねたもの、魚、野菜、煎餅その他から成っていた。これはお盆を支える台と同じ陶器の洗い皿に入っている。台の高さは六インチか八インチ位である(図228)。これ等は以下のようにして運び入れられる――先ず広間の神官の一人が、両手でそれを持って来て、他の神官に近づくと、この神官は非常に低くお辞儀をしてから、それを受取る。すると最初の神官はそこで同じ様なお辞儀をする。次に第二の神官がそれを第三の神官へ持って行くと、彼は同様に恭々しくお辞儀をし、それを受取ると交互にお辞儀をする。第四の神官は受取ると、ゆっくりした、整然たる歩調で、階段を下りて通路へ行き、そこに立っている神官に、他の人々と同じような鹿爪らしいお辞儀をして、それを渡す。で、最後の神官は階段を上って、内陣の机に近くいる神官に渡すと、この神官はそこにいる別の神官に渡し、この神官に至って、ようやく御供物を机の上に或る位置で置く。神官の最後の二人は、以前は大名であった。お供物はすくなくとも二十あり、それに一々同じ様な厳かで恭々しい会釈(えしゃく)が伴うのだから、この儀式は、徹頭徹尾、興味はあったが、長い時間を要した。その間中、楽師達は気味の悪い神秘的な音楽をつづけ、外にいる群衆は、儀式と、好奇心に富んだ然し熱心な野蛮人とに、注意をふり分けるらしく思われた。

M226_227

図―226[やぶちゃん注:上の図。]

図―227[やぶちゃん注:下の図。]

M228

図―228

 

[やぶちゃん注:「九月十七日(月曜日)は国祭日で、大学も休みだった」これは戦前の神嘗祭(かんなめさい)の祝祭日。明治六(一八七一)年十月十四日に太政官布告三三四号によって施行された(実際の休日になったのは以下のウィキのデータでは翌年からか)。神嘗祭は他に「かんなめのまつり」「かんにえのまつり」とも読む。宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が行われる。かつては旧暦九月十一日に勅使に御酒と神饌を授け、旧暦九月十七日に奉納した。明治五(一八七二)年以降は新暦の九月十七日に実施となったものの、新暦では稲穂の生育が不十分な時期に当ってしまうために明治一二(一八七九)年以降、十月十七日に実施されるようになった。古来より神嘗祭には皇室から伊勢神宮で儀式へ幣帛使が派遣されたが、応仁の乱以降は中断も多かった。しかし、正保四(一六四七)年に幣帛使発遣が復活して以降は中断なく派遣が行われている。明治四(一八七一)年以降は皇居の賢所でも神嘗祭の儀式が行われた。神嘗祭の儀式に先立って、天皇は宮中三殿の神嘉殿南庇で神宮を遥拝する。明治四一(一九〇八)年九月に制定された「皇室祭祀令」では大祭に指定された。同法は昭和二二(一九四七)年五月に廃されたが、以降、現在も宮中および伊勢神宮では従来通りの神嘗祭が行われている。「神嘗」は「神の饗(あえ)」が変化したものと言われ、「饗え」は食べ物でもてなす意。伊勢神宮ではこの時を以って御装束・祭器具を一新することから、神宮の正月ともいわれる。神宮の式年遷宮は大規模な神嘗祭とも言われ、式年遷宮後最初の神嘗祭を大神嘗祭とも呼ぶ。また「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、明治七(一八七四)年から昭和二二(一九四七)年までは同名の祝祭日(休日)であった(以上はウィキの「神嘗祭」に拠った)。

「上野公園にある美しい寺院」現在の東京都台東区上野恩賜公園内の徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る上野東照宮。

「チャプリン教授」ウィンフィールド・チャップリン(Winfield Scott Chaplin 一八四七年~一九一八年)。アメリカ人の土木工学者。メーン州生。ウエスト・ポイントの陸軍士官学校を卒業後に鉄道技師となり、メーン州立大学の機械工学教授となる。明治一〇(一八七七)年に東京開成学校でやはりお雇い外国人教師であったワッソンの後を受けて、土木工学を担当、同校が東京大学に昇格後も継続して雇われ、明治一五(一八八二)年まで在職した。日本に初めて微積分学を紹介、富士山の標高を測定し、観象台(天文台)の建設を指導するなど功績は大きい。また地震に関する論文も発表している。明治十五年の帰国後はアメリカの大学教授に戻って、ワシントン大学総長を務めた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」ではセカンド・ネームの頭文字が“F”であるが、英文ウィキを見ても“Scott”である)。

「お寺には各々教区、換言すれば教会の会員連」氏子のことであるが、東照宮は維新後に明治政府に摂取されているから、通常の寺院に氏子とは異なり、東照宮はその祭神から氏子は徳川家ということになる。ここに列席する者もこの時代ならでは、実際の徳川家の縁者であったと考えてよいであろう。

「十フィート」約3メートル。

「一つは儀式用の、黒い綿でつくった袋に似た品で、両側が平であって、これは位の低い老がかぶり(図226)、他は(図227)大名がかぶった儀式用の品である」図226は立烏帽子、図227は正式な冠(かんむり)であるが、後者の図は不完全で、後ろに高く聳える「巾子(こじ)」やそこから後ろに長く垂れる薄布の「纓(えい)」が描かれていないのが不審である。

「六インチか八インチ位」凡そ15~20センチメートル程度。]

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