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2013/11/01

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第四章 再び東京へ 9 町の名

 私が今迄に知り得た処では、この都会の町には、外国人がある一区画なり、橋なりの名をとって命名した、僅かな例を除いて、名前がない。最も広い大通りでもその通りである。主要な区画(多分すべての区画)には名があるが、町通りには決して無い。人はこれこれの区画に住んでいるので、その人を探す為には、その区画の四辺を――即ち四つの異った町なり露地なりを――歩き廻らねばならぬ。ドクタア・マレーは、私と一緒に、私が紹介状を貰って来た日本人を探しに出かけた。我々の人力車夫は、何度もくりかえしてその区画を質ねた後、さてそれが見つかると、今度は目的の家をさがし出す迄に四辺の三辺までを、家にはりつけた小さな木、又は紙の札を読み読み歩くのであった。これに関連して面白いのは、我国の職業的都市住所姓名簿製作人が名前を集める方法である。彼等は先ず一区画の一隅から始め、ありとあらゆる小路や入り込んだ場所に入りながら四辺を廻り、その一区画が済むと持っている地図でその区画を消し去って、新しい区画の一隅からまた仕事を始める。このようにして検査員は全都市を調査しつくす【*】。

 

* 気ぜわしない旅行家がよくやる、信用出来ぬ叙述の例として、東京の町々に名前がないという以上の間違った記事(私の日記から書き写したもの)は誠に適切である。当時私は日本語とては一言も話さなかったので、この間違いは、東京にかなりの間いた米国人の仲間から聞いたものに相違ない。『日本亜細亜協会会報』の第一巻にはドクタア・W・E・グリフィスの「江戸の町及び町名」という面白い通信が出ている。これは一八七二年に読まれ、一八七四年、即ち私が以上の記録を私の日記になした三年前、すでに発行されている。私はこの記事を熱心に推奨する。これを読むと町名はいくらでもあり、フロント(前)、パイン(松)、ウィロー(柳)、シーダー(杉)等我国のと同じのもあれば、また「ありあまる喜悦」、「墓の戸」、「一つの色」、「山のそよ風」、「指の谷」及びそれに類似した、極めめて奇妙な町名もある。

[やぶちゃん注:この注によってモースは基本、当時の自分の日記の記載の主内容をほぼそのまま訂正せずに載せているということ、この注ではその当時の記載内容が誤りであったことを訂しているということが分かる。ただ、この注の前の段落の内容はやや意味を汲み取りにくい部分(それは石川氏の訳し方にあるではなく原文の書き方にある)があるように私には感じられる。少なくとも私には何故、「四辺」でなく「四辺の三辺」なのかということ、「これに関連して……」以下の部分(“In this connection it is interesting to learn that in our country the professional city directory makers get every name by starting at one corner of a block and following around its four sides, up every alleyway and indentation, and when the block is completed crossing it off on the map they carry and starting again from the corner of a new block. In that way the canvassers cover the entire city. ”)を配した意味がよく分からないのである。識者の御教授を乞うものである。【二〇一三年十一月五日追記】教え子がフェイスブックのコメントで目から鱗の解説を施してくれた。感謝して全文を引用させて戴く。
   《引用開始》
問題の点は、日本では区画(block)に対して住所(たとえば三丁目)などが割り振られるので、実際にそこに赴いても区画をぐるりと回ってみるまで目的の家がどこにあるのか分からない、ということを言っているのだと思います。
対して「我が国(米国)」では、住所は通り(alley, street, avenueなど)に対して付けられるので、city directoryを作成するならば自動的にすべての通りに名前なり数字なりが割り振られる、よってその住所に直行すれば区画を一周するような必要はない、というわけです。
自分のおぼろげな考えでは、こうした違いは、ローマ帝国の造った道によって発展した西洋と、何よりも農地を広げてそこに定住してきた日本の国の成り立ちをそれぞれに強く反映したものだと思います。
   《引用終了》
最初の私の疑問もよく読んでみると「その区画を質ねた後、さてそれが見つかると、」(まずその時点で区画の四分の一辺を同時に探ってないとあれば、)「今度は目的の家をさがし出す迄に四辺の三辺まで」をも延々と探さねばならない、ということを言っているのであろう。
「ドクタア・W・E・グリフィス」日本学者ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis 一八四三年~一九二八年)。アメリカ出身の理系のお雇い外国人で、後に牧師となった。フィラデルフィア生。オランダ改革派教会系大学であるニュージャージー州のラトガース大学在学中、福井藩留学生日下部太郎と親交を結び、その縁で明治四(一八七一)年に来日、福井藩藩校明新館で同年三月七日から翌年一月二十日まで化学と物理を教えた。天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計したが、これは日本最初の米国式理科実験室であったという。明治四(一八七一)年七月の廃藩置県に伴い、契約者である福井藩が消失したが、翌年にはフルベッキや由利公正らの要請を受けて東京大学の前身である大学南校に移り、明治七(一八七四)年七月まで物理・化学・精神科学など教授した。明治八(一八七五)年の帰国後は牧師となったが、米国社会に日本を紹介する文筆・講演活動を続けた。一八七六年にアメリカで刊行した“The Mikado's Empire”(邦題「ミカドの帝国」「皇国」など)は第一部が日本通史、第二部が滞在記となっている(以上はウィキウィリアム・グリフィスに拠った)。

『「ありあまる喜悦」、「墓の戸」、「一つの色」、「山のそよ風」、「指の谷」』原文は“Abounding Gladness, Tomb Door, One Color, Mountain Breeze, Finger Valley,”。私の勝手な推測でしかないが、

Abounding Gladness”は「寿町」とか「高砂町」

Tomb Door”は「戸塚町」

One Color”は「一色町」

Mountain Breeze”は今一つ、ぴんとくるものがないが、例えば「山吹町」

 Finger Valley”は「指ヶ谷町」(東京都文京区白山京華通り沿いの地名で文京区立指ケ谷(さすがや)小学校などなどに今も残る。読みは「さしがや」という読みも併存する模様)

辺りか?]

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