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2013/11/04

編者の言葉

      編者の言葉

 

 一昨年の四月十八日、拓次危篤の報をうけて、南湖院に着いた時には、もう死室に移されてゐた。私は誰にともない腹立たしさで胸がいつぱいになりながら、やうやく死室に案内されたが、其處ではじめて彼が生前最も敬慕してゐた白秋氏にお目にかかることが出來た。それは全く思ひがけない、なによりも有難いことだつた。

 お通夜は近親の外には白秋氏夫妻と、私とだけで營まれたが、詩集發行の計畫はこのしめやかな雰圍氣のうちに胚胎したのである。その時の氏の暖い心情と、さびしくも明るい安堵の氣配とを忘れることが出來ない。そして私は編輯一切をなにげなくお引受けしたが、不馴な自分にはかなりの重荷に相違なかつた。さいはひ本人が大正十五年に詩集出版の計畫をたて、それまでの原稿を整理してあつたので、その後の分を輯めればよかつた。けれどもほとんど日記のやうに書き綴られた多數の詩篇を見て一時は迷つてしまつた。が彼自身編輯すれば多分この程度であらうと思はれるまでに多くの詩を割愛した。このきびしい態度も詩集にゆるみを見せたくなかつたためである。

 思へば今までに一册の詩集もなかつたのは、彼の性情による結果とはいへ、あまりにもさびしいことである。せめて生前この詩集を見せたかつた。あの大きな掌にのせて、無言のままほほゑむであらう彼の姿を見たかつた。

 この書のうち、宿命の雪(自序にかへて)及び孤獨の箱のなかから(おぼえがき)は、大正十五年に彼が書いたもので、そのまま用ひた。(おぼえがきのうち黄色い接吻以下の解説は私が追記した)

 散文詩は代表作といふよりも各年代をうかがへるやうに集めた。

 この外、數十篇の譯詩と、抒情小曲が澤山あり、日記、手紙にも面白いものが殘されてゐるが、これは他日私の手でまとめて、發行の豫定故ここに集めないこととした。

 裝幀は彼の日頃の意を汲んで皮表紙金刷とし、生前見たがつてゐた私の版畫「サボテンのある風景」の縮められたものを用ひて、彼への踐とした。

 又彼を偲ぶよすがにもと、彼の肖像・死顏・筆蹟を各一枚づつ插入しておいた。

 編輯にあたつて、北原白秋氏はその序文に見られる通りの、あのあたたかい心を常に私にも寄せられ、編輯上の御注意はもとより、徹夜までされて無理な執筆をして下すつた。

 また萩原朔太郎氏はその跋に見るごとく、もつともよき理解者の一人として、いろいろ御氣づきの顚點を話して下すつた。その話されるのを聞いてゐると、時々拓次に接してゐるやうな錯覺を起すことすらもあつた。

 彼の交遊はまことに狹かつたが、最も尊敬するふたりの詩人から、かくまで暖い心づかひをうけつつ死んで行つた彼もまた幸福な詩人であつたと思ふ。序と跋とは兩氏とも多忙を極められた時機にお願ひせねばならなかつたにもかかはらず、かくまで心のこもつたものを頂けたことは、編者として特に嬉しく誇らしいことである。玆に深く探く感謝致します。

 尚この面倒な出版をお引受け下すつた北原鐡雄氏、完成するまでにいろいろお骨折を願つた、アルスの中村正爾氏及び其他の方々、種々御便宜を與へられた大木惇夫氏、恩地孝四郎氏、絶えず熱意をもつて私をはげまされた、故人の令弟櫻井秀男氏とその令息達に厚く御禮申上げる次第であります。

                      (昭和十一年十二月十五日深夜・逸見 享)

 

[やぶちゃん注:「この外、數十篇の譯詩と、抒情小曲が澤山あり、日記、手紙にも面白いものが殘されてゐるが、これは他日私の手でまとめて、發行の豫定故ここに集めないこととした」後に逸見が編纂した詩画集「蛇の花嫁」(龍星閣昭和一五(一九四〇)年刊)・訳詩集「異国の香」(龍星閣昭和一六(一九四一)年刊)及び「詩日記と手紙」(龍星閣昭和一八(一九四三)年刊)を指す。但し、これらの作品(私は未見)について、原子朗氏は「定本大手拓次研究」(牧神社一九七八年刊)で、逸見の『拓次個人への友情の厚さや熱意』及び逸見の一連の拓次関連書刊行への『努力には私も素直に敬意を表したい』としながらも、逸見は『文学のヂレッタントであり、しろうとであった。拓次の詩をどの程度理解していたか疑わしい』と述べ、本詩集は勿論、これら「蛇の花嫁」や「詩日記と手紙」などは、『どちらかといえば俗受けをねらった編集、改竄ぶりは甚だしい』と、手厳しく批判されておられる。

「踐」「セン」と音読みしているか。この語には先人の行跡に従う、(約束を)履行するといった意味はあるが、どうも「彼への踐とした」という謂いとは馴染まない。私の勝手な憶測であるが、これは「餞」の誤植で、「はなむけ」と読んで――彼(の死出の旅路)への餞とした――という謂いではあるまいか?

「北原鐡雄」(明治二〇(一八八七)年~昭和三二(一九五七)年)は写真・文学を専門とする出版社「アルス」を設立し、代表を務めた人物で、北原白秋の弟(三男)に当たる(ウィキの「北原鉄雄」に拠る)。

「中村正爾」(なかむらしょうじ 明治三〇(一八九七)年~昭和三九(一九六四)年は歌人で編集者。新潟生。新潟師範学校卒業後、小学校教員を経て、大正一一(一九二二)年北原白秋を頼って上京、出版社「アルス」に入社、昭和一〇(一九三五)年に白秋が創刊した『多磨』に参加して終刊まで編集に当たった。昭和二八(一九五三)年には『中央線』を創刊して主宰となった(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「恩地孝四郎」(明治二四(一八九一)年~昭和三〇(一九五五)年)版画家・詩人。東京生。東京美術学校中退。竹久夢二に私淑してドイツ表現派・ムンク・カンディンスキーの影響を受ける。大正三(一九一四)年に詩と版画の同人誌『月映(つくはえ)』を創刊、同誌上に抽象木版画を発表して以来、日本の抽象絵画の先駆者として活躍した。大正六(一九一七)年に刊行された萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の挿絵・装丁を手掛けて以後、多数の装本をも生業とし、昭和五(一九三〇)年のアルス社版「北原白秋全集」の装幀によって装本家の地位を確立した。日本創作版画協会や日本版画協会の創立に参加、大正・昭和期を通じて日本の近代版画の確立と普及、版画家の育成と国際美術展への参加等、版画界の発展に尽力した(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

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