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2013/11/11

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第九章 大学の仕事 3 明治10年9月12日、モース、初めて東京大学にて授業をす

 博物館は大きな立派な二階建で、翼があり、階下の広間の一つは大きな図書室になっている。また、細長くて広い部室は、欧洲及び米国から持って来た教育に関する器具――現代式学校建築の雛型(ひながた)、机、絵、地図、模型、地球儀、石盤、黒板、インク入れ、その他の海外の学校で使用する道具の最もこまかい物――の、広汎で興味ある蒐集で充ちていた。これ等の品物はすべて私には見慣れたものであるに拘らず、これは最も興味の深い博物館で、我国の大きな都市にもある可き性質のものである。我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、何という聡明な思いつきであろう。ここに、毎年の予算の殆ど三分一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。二階には天産物の博物館があったが、これは魚を除くと、概して貧弱であった。然し魚は美事に仕上げて、立派な標本になっていた。この接待宴には、教員数名の夫人達を勘定に入れて、お客様が百人近くいた。いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部室へ導かれると、そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、果実その他の食品の御馳走があり、芽が出てから枯れる迄を通じて如何に植物を取扱うかを知っている、世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、賞讃に価するもので、この整頓した教育博物館で、手の込んだ昼飯その他の仕度を見た時、我々は面喰(めんくら)って立ちすくみ、「これが日本か?」と自ら問うのであった。

[やぶちゃん注:国立科学博物館公式サイト内の松浦啓一氏の「魚類コレクションの歴史と現状」に、当時、約五百点の魚類標本を保有していたことが記されている。]

 

 日本のお役人たちが、ドクタア・マレーその他手伝いを志願した人々と共に、いろいろな食物を給仕したが、日本人が貴婦人と紳士とが一緒に坐っている所へお皿を持って行って、先ず男の方へ差し出し、そこで教(おそわ)ったことを思い出して、即座に婦人へ出す様子は、まことに面白かった。我国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。馬車なり人力事なりに乗る時には、夫が妻に先立つ。道を歩く時には、妻は夫の、すくなくとも四、五フィートあとにしたがう。その他いろいろなことで、婦人が劣等な位置を占めていることに気がつく。海外から帰った日本人が、外国風にやろうと思っても、若し実際やれば、彼等の細君達は、きまりの悪い思いをする。それは恰度我国の婦人連が、衣服なり習慣なりで、ある進歩した考(例えば馬にまたがって乗ること)を認めはしても、目につくことを恐れて、旧式な方法を墨守するようなものである。この事実は、日本人の教授の一人が私に話して聞かせた。日本の婦人はこの状態を、大人しく受け入れている。これが、非常に長い間の習慣だからである。酌量としていうべき唯一のことは、日本の婦人が、他の東洋人種よりも、遙かに大なる自由を持っているということ丈である。

[やぶちゃん注:「墨守」自己の習慣や主張等を堅く守って変えないこと。中国の思想家墨子が宋の城を楚の攻撃から九度にわたって守ったという「墨子」の「公輸」の以下の故事に基づく。楚王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器雲梯(攻城用梯子)を用いて宋を併呑しようと画策したが、それを聞きつけた墨子は早速、楚に赴いて公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨子が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子がそれで守り切ったならば宋を攻めるのは白紙にしよう」と提案、机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃を尽く撃退し、しかも手駒にはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わずにおく」と意味深長な言葉を吐いたが、すかさず墨子が、「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということであろうが、すでに秘策を授けた弟子三百人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせる」と再び公輸盤をやりこめた。その遣り取りを見て感嘆した楚王は宋を攻めないことを墨子に誓った(以上の故事はウィキの「墨子」に拠った)。]

 


M221
図―221

 

 私が講義を始めた日、大学へ副綜理が私の召使いになる十四歳ばかりの男の子を連れて来た。すでに私は、彼が非常に役立つことを発見した。彼は実験室で瓶や見を洗うのを手伝い、毎朝私の黒板を奇麗にする。今日私は試験してやるつもりで、いろいろな貝のまざったのを選り別けさせた所が、彼は「属」や「種」をうまく分けた。また淡水貝のある物を取りにやったら、沢山採集して持って来た。彼は、数年前すでに学生の制服としての役目をつとめ終えた一種の紺の上衣(今は制服は着ない)に、縮んだ毛糸の股引をズボン代りにはき、頭は乾いて清潔な黒い頭髪の完全な雑巾帯(モップ)で被われている。写生する間、立っていろといったら、彼は吃驚してドギマギした(図221)。私が部屋へ入って行くと、彼は、私が真似をしたら吃度背骨が折れるだろうと思う位、丁寧なお辞儀をする。

[やぶちゃん注:「私が講義を始めた」日前注及び次の段落冒頭に記されている通り、明治一〇(一八七七)年九月十二日で水曜日であった。]

 

 九月十二日、私は最初の講義をした。講義室は建物の二階にある。そこには大きな黒板一枚と、引出しがいくつかついている机と、それから私が講義を説明するのに使用する物を入れておく、大きな箱が一つある。張子製で、各種の動物の消化機関を示した標本のいくつ、及び神経中枢の模型その他の道具は、この課目にうまく役立つだろう。私の学級は四十五人ずつの二組に分れているので、一つの講義を二度ずつしなくてはならず、これは多少疲労を感じさせる。私はもう学生達に惚れ込んで了った。これ程熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ。彼等の注意、礼儀、並に慇懃な態度は、まったく霊感的である。彼等の多くは合理主義者で、仏教信者もすこしはいるかも知れぬが、とにかく、かくの如き条件にあって、純然たるダーウィニズムを叙示することは愉快な体験であろうと、今から考えている。特に注目に価するのは、彼等が、私が黒板に描く色々な動物を、素速く認識することである。これ等の青年は、サムライの子息達で、大いに富裕な者も、貧乏な者もあるが、皆、お互に謙譲で丁寧であり、また非常に静かで注意深い。一人のこらず、真黒な頭髪、黒い眼、そして皆青味を帯びた色の着物を着ているが、ハカマが如何にも半分に割れたスカートに似ているので、まるで女の子の学級を受持ったような気がする。教授室と呼ばれる一つの大きな部屋には、さっぱりした藁の敷物が敷いてあり、椅子の外に大型の机が一つ、その上には横浜発行の朝刊新聞、雑誌若干並に例のヒバチがのせてある。ここで先生は、講義の時が来る迄、ひまをつぶすことが出来る。お昼前に小使が茶碗をのせたお盆と、とても上等なお茶を入れた土瓶とを持って来るが、このお茶は疲れをいやす。教授の連中はみな気持がいい。当大学の統合的の役員は、綜理一人、副綜理二人〔綜理心得〕、幹事、会計、書記であるが、いずれも極めて丁寧で注意が届き、私としては彼等と共にあること、並に、私が現に占めている位置よりも、気持のよいものはあり得ない。器具類に関して、私の欲しいと思うものは、即刻私の為に手に入れて呉れる。私が目下案を立てている箱類は、すぐ造らせてくれることになっている。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、対象生徒は予備門の四年生で、無論、講義は英語で通訳はなかった。当時、その講義を受けた、後の地球物理学者で東京帝国大学教授田中舘愛橘(たなかだて あいきつ 安政三(一八五六)年~昭和二七(一九五二):陸奥福岡(現在の二戸市)生。明治一五(一八八二)年東京大学理学部卒業。後、グラスゴー大学・ベルリン大学に留学し、帰国後に帝国大学理科学教授となり、日本物理学の草創期の純粋物理学をはじめとして重力・地磁気・測地学・度量衡・航空などの学問の基礎を築いた。日本式ローマ字の創始者でもある。)の残したノートによれば、『講義は原生動物に始まり、海綿、放射動物(イソギンチャク。サンゴ、クラゲ、クシクラゲ)、棘皮動物、軟体動物(貝、イカなど)の順で、思ったより詳しい。ノートはここまでしか残っていないが、』彼の『記載の回想では、さらに蠕虫(ぜんちゅう)(ゴカイなど)、甲殻類、昆虫、脊椎動物と続いたというから、動物分類学入門といったところである』とあって、この十二日後の『九月二四日、モースはこの講義のなかで初めて進化論に触れ、ついで十月六日、十五日、二十日に東大講堂で進化論の公開講演を行った』とある。同書はこの後、第二十一章の「進化論事始め」から第二十六章「進化論の受容」まで実に三十九頁に亙って本邦初のモースの進化論講義の齎した影響を語っておられ、実に興味深い。是非、原書をお読み戴きたく思う。それにしても……私は英語に暗いけれど……モース先生の生の講義に触れたかったと思う者である。……

「叙示」原文は“presenting”。叙述して示す、の謂いであるが、辞書には載らず、哲学用語の中に垣間見える、如何にも生硬な訳語という感じである。

「サムライ」原文も“samurai”。

「ハカマ]原文も“hakama”。

「例のヒバチ]原文は“the usual hibachi”。

「副綜理二人」底本では「二人」の下に『〔綜理心得〕』と石川氏の割注があるが、磯野先生の前掲書では『綜理補』とあり、『法理文三学部の綜理は加藤弘之、綜理補は浜尾新と服部一三(予備門主幹兼任)』とある。浜尾と加藤は直前で再注した。やはり既注である服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)は文部官僚で政治家、後に貴族院議員となった。これら加藤・浜尾・服部の三名が東京大学法理文三学部の最終決定権を掌握していた。]



明日、妻が甲府の病院に暫くリハビリ入院する。
荷物を運んで明後日に帰る。
随分、御機嫌よう。
――一本だけ――相応に力を入れた芭蕉をセットしてある。
御笑覧の程――

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