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2013/11/05

うは風に音なき麥を枕もと 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)

      夏の部

 

 

 

   うは風に音なき麥を枕もと

 

 嵯峨の田舍に、雅因を訪ねた時の句である。一面の麥畑に圍まれた田舍の家で、夏の日の午睡をして居ると、麥の穗を渡つた風が、枕許に吹き入れて來たといふ意であるが、表現の技巧が非常に複雜して居て、情趣の深いイメージを含蓄させてる。この句を讀むと、田舍の閑寂な空氣や、夏の眞晝の靜寂さや、ひつそりとした田舍家の室内や、その部屋の窓から見晴しになつてるところの、廣茫たる一面の麥畑や、またその麥畑が、上風に吹かれて浪のやうに動いて居る有樣やが、詩の縹渺するイメーヂの影で浮き出して來る。かうした效果の修辭的重心となつてるものは、主として二句の「音なき」といふ語にかかつて居る。これが夏の眞晝の沈默や、田舍の靜寂さやを、麥の穗の動きにかけて、一語の重復した表象をして居るのである。また「上風に」の、「音なき麥を」のをが、てにをはとしての重要な働きをして、句の内容する象景を畫いてることは言ふ迄もない。

 俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雜な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豐富な聯想性とによるのであつて、世界に類なき特異な國語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な缺點と相殺される。それ故に詩を作る人々は、過去においても未來に於いても、新しい詩においても古い詩に於いても、必須的に先づ俳句や和歌を學び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未來の如何なる「新しい詩」に於いても、和歌や俳句のレトリツクする規範を離れて、日本語の詩が有り得るとは考へられない。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年第一書房刊「郷愁の詩人與謝蕪村」の「夏の部」の巻頭。「重復」はママ。太字部分は底本では傍点「ヽ」。原句には、

  嵯峨の雅因が閑を訪て

と前書がある(「閑を訪て」は「かんをとひて」)。「雅因」は興津雅因(がいん ?~安永六(一七七六)年)。京都島原の妓楼吉文字屋(きちもんじや)の主人の俳号。孫作。山口羅人(らじん)門下で初号は牙院(がいん)。西山院士とも号し、晩年は市中に住んだ。嵐山にあった望楼のある彼の別荘宛在楼(えんざいろう)での挨拶句と思われる。]

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