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2013/12/31

memento mori

中島敦 南洋日記 十一月二十三日

        十一月二十三日(日) 晴、

 朝六時半朝食、坂(酒)井氏來、茨木氏と同道タタッチョに赴かんと、南貿前に行くに、バス故障にて發せず。徒歩にて行く。坂井氏は自轉車。八時公學校着、チャムロ靑年團の訓練を見、國語練習所の授業を見る。チャモロはなべて、色の黑さ薄く、容貌の整へるもの多し、加特力教會を見る。茨木氏と道傍にて鰹一尾を購め、校長川村氏の臺所に持込む。一時晝食。午睡。三時十分過バスに乘りサヷナ高原に向ふ。海沿の坦々たる砂道を行く。枯椰子。蘇鐡。鐡木よりタンニンを取る工場。荒廢せる甘庶畑の趾。タルガ小學校のあたりより道漸く上りとなる。り、海の眺望、次第に開け行く。兩側に興發の廢棄せる甘庶畑通る。雜草。所々纖維をとるサイザル(?)栽培さる。運轉手は島民青靑年、車掌は邦人の娘。シナパールに着くに、沖繩縣人會とかにて、合歡の木蔭にて相撲をとり、それを人々集り見る。國民學校長に挨拶さる。道漸く高原に入り、冷氣を催す。猩々草の朱。晝顏の淡紅。戰場ケ原の如き風景あり。羊齒類多し。四時サバナ着。燐鑛發掘を見る暇なく、直ちにバスは歸途に着く。内地の秋の原野を行くが如き爽かさなり。白き斷崖に攀援植物まとひつき、南洋には珍しき風景。昨日と同じく、落日に照らされたるタタッチョ海岸の藍碧の波濤を見つゝ五時、ソンソンに歸る。郵船の人に明日の切符のことを賴む。五時半食事、ここにも、又、鰹あり。夜は郵便局迄葉書投函に行く。内地の田舍の街の夜の如し。床屋。浪花節の蓄音機。わびしげなる活動小屋に黑田誠忠錄。切符賣の女。その前にしやがんで、トーキーの音だけ聞く男二人。幟二本、海風にはためく。昨夜と同じく茨木氏宅にてラヂオを聞き八時半歸る。

[やぶちゃん注:「南貿」南洋貿易株式会社。九月二十九日に既注。

「チャムロ靑年團」と「チャモロ」の表記違いはママ。「十一月二十二日(土)」に注したように問題ない。

「サヷナ高原」サバナ高原はロタ島のほぼ中央部にある標高四九六メートルの本格的な高原地帯で、熱帯であるにも拘わらず一年を通して涼しい。ここには海辺に見られるような椰子の木などの典型的な熱帯植物は植生しておらず、松の木や薄の類などが生える。タロイモやホット・ペッパーなどの農作物が数多く栽培されて、ロタ島の野菜供給地でもある。現在、頂上は公園になっており、平和記念碑が建つ。参照した青梅市トライアスロン協会公式サイトの「ロタ島 ROTA(北マリアナ諸島)」によれば、この高原に上る道は二本あるが、『観光には飛行場側から上り、ソンソン村側へ下りる方が途中からの眺めが数段よい。但し、夜間はゲートが閉められ、立ち入り禁止となる』とあって、敦が下ったルートの美観が知れる(但し、引用元には二〇〇九年現在、ソンソン村側へ下る道は閉鎖されているとある)。

「鐡木」マメ科タイヘイヨウテツボク Intsia bijuga か。「全国木材チップ工業連合会」公式サイト内(上位ページはそこに繋がっている)の「ボゴール植物園で見られる樹木」の中に『小中高木、時に大高木になる。板根がある。樹皮は黄土色、皮目密。マングローブの後背林』を形成し、『葉は、羽状複葉、小葉は卵形』、『果は、豆状長楕円形』で、『材は、鮮黄色から赤褐色に変わる。緻密で耐久性があり、高級建築、家具、器具の柄、楽器などに使う』とあり、『マダガスカル、オーストラリア北部、熱帯アジア、太平洋諸島に分布。メルバウ、イピルなどと呼ばれる』とある。他に「鉄木」と称するものには、セイロンテツボク Mesua ferrea と ウリン(ボルネオテツボク) Eusideroxylon zwageri があるが、残念ながらいずれもタンニンが採れるという記載を発見出来ていない。識者の御教授を乞うものである。なお、セイロンテツボク Mesua ferreaは世界で最も重い木材として知られており、その比重は千百二十二キログラム毎立方メートルに達するという(この部分のみウィキ木」(但し、曖昧さ回避のページ)に拠る)。

「南發」は南洋開発の初期に製糖業を主導した南洋興発株式会社のことであろう。但し、当時は「南興」と約すのが一般的であったようだ。先の九月二十八日」の「南洋拓殖會社」南洋拓殖株式会社(南拓)の注参照されたい。

「サイザル」単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属サイザルアサ Agave sisalana。アサ(麻)の仲間ではないが、歴史的に最も使われてきた繊維である麻にちなんでサイザルアサと命名された。「サイザル」は以前よくこの繊維が船で積み出しされていたユカタン半島のサイザル港に因む。長さ一・五~二メートルの剣のような形の葉からなるロゼットを形成し、不稔性で分枝によって増殖する。若い葉の縁には細かい鋸歯があるが、成熟ともになくなる。サイザルアサは実をつけない雑種であるが、原種はよく分かっていない。原産地であると考えられているメキシコのチアパス州に固有の小規模農産物の調査結果によると、Agave angustifolia Agave kewensis の交雑種ではないかと考えられている。十九世紀にサイザルアサの栽培は世界中に広がった。現在ではフロリダからカリブ諸島、ブラジル、タンザニアを中心とするアフリカ各国、アジアなどで栽培され、中心的な繊維作物となっている。ダーツ(ハード・ダーツ)の的を造る材料としても知られる(以上はウィキサイザルアサ」に拠る)。

「猩々草」ショウジョウソウ Euphorbia cyathophora 十月十五日の同注参照。

「燐鑛」化学肥料の原料となるリンを多量に含むリン酸塩鉱物を主成分としたリン鉱石。ロタ島で採れるそれは珊瑚礁に海鳥の死骸・糞・餌の魚・卵の殻などが長期間(数千年から数万年)堆積して化石化したグアノ(guano)であろう。グアノの主要な産地は南米(チリ・ペルー・エクアドル)やオセアニア諸国(ナウル等)である。グアノの語源はケチュア語(ケチュアは旧インカ帝国(タワンティンスーユ)を興した民族)の「糞」でスペイン語経由で英語に入ったもの。グアノには窒素質グアノと燐酸質グアノの二種があり、前者は降雨量や湿度の低い乾燥地帯に形成されたもので、多くの窒素鉱物を含有する。後者は熱帯・亜熱帯など比較的降雨量・湿度の高い地域に形成され、長年の降雨によって窒素分が流出してリン酸分が濃縮されたものである。孰れも近代化学工業に於ける化学肥料には欠かせぬものであった。特に南洋の島嶼に多かった燐酸質グアノは、リン鉱石が発見されるまでは最も主要なリン資源であった。乱採掘によって資源が枯渇したこと、窒素肥料の原料が後にチリ硝石、更には二十世紀初頭のドイツで開発された化学的窒素固定法へと移って行ったことによって衰退した(ここまではウィキグアノ」に拠った)。当時のロタを含むリン鉱石については、「社団法人太平洋諸島地域研究所」公式サイトにある小川和美(かずよし)氏の「太平洋島嶼地域におけるリン鉱石採掘事業の歴史と現在」という論文に詳しい。

「攀援植物」九月十日の「攀援類」の注を参照。

「郵船」日本の大手三大海運会社の一つで、三菱商事とともに三菱財閥(現在の三菱グループ)の源流企業である日本郵船株式会社のことであろう。

「黑田誠忠錄」新日本映画研究所原作で衣笠貞之助監督になる松竹映画。昭和一三(一九三八)年公開。]

萩原朔太郎 短歌 六首 明治三六(一九〇三)年十二月

人の世のわが身なればか秋なればか夜ごろ哀歌(あいか)と聞く潮の聲

わが歌のわれとかぼそうなるを見てこころもとなく泣く夕べかな

人の身は問ふもうれたし己が身はかへり見するにえ堪へじよ秋

寂光(じやくくわう)や瞳さへぎるうすあかり情(なさけ)からせし秋のたはぶれ

黑髮(くろかみ)のながきが故の恨にて世をばせめにし吾ならなくに

草花にほそうそゝぎし涙さへ君が小袖に堪へざらましを

[やぶちゃん注:『白百合』第一巻第二号・明治三六(一九〇三)年十二月号の「哀歌」欄に「萩原美棹(前橋)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十七歳。
 『白百合』はこの年、『明星』にあきたらず新詩社を脱退して東京純文社を興した相馬御風・前田林外・岩野泡鳴らが発行した文芸誌。確かにこれらの短歌は『明星』のストレートで馬鹿正直な浪漫主義に一回捻りしたようなリズムと語彙を持っているように私には感じられる。
 「うれたし」は「慨し」。「心痛(うれいた)し」の音変化で、憎らしい、いまいましい、嘆かわしい、の意。]

石くれ  八木重吉

石くれを ひろつて

 

と視、こう視

 

哭(な)くばかり

 

ひとつの いしくれを みつめてありし

 

 

ややありて

 

こころ 躍(おど)れり

 

されど

 

やがて こころ おどらずなれり

泪  八木重吉

泪(なみだ)、泪(なみだ)

 

ちららしい

 

なみだの 出あひがしらに

 

 

もの 寂びた

 

哄(わらひ) が

 

ふつと なみだを さらつていつたぞ

鬼城句集 冬之部 來山忌

來山忌   殘菊や今宮草の古表紙

[やぶちゃん注:「來山忌」江戸時代の俳諧師小西来山(こにしらいざん 承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)の忌日で陰暦は享保元年十月三日(グレゴリオ暦一七一六年十一月十六日。通称は伊右衛門。満平・湛翁・湛々翁・十萬堂等の号を持つ。現在の大阪淡路町に薬種商の家に生まれ、父と親しかった西山宗因門の前川由平に学び、後に宗因門となった。延宝三(一六七五)年頃には宗匠として門弟をとっていたとされ、延宝六(一六七八)年に満平の号で井原西鶴編の俳諧撰集「物種集(ものだねしゅう)」に入集した。延宝八(一六八〇)年頃には来山に号を改めている。天和元・延宝九(一六八一)年に最初の撰集「大阪八五十韻」を刊行した。活動のピークであった元禄三(一六九〇)年頃は当時の大阪の宗匠の中でも代表的な俳人として活躍した。元禄五年には自身の独吟表六句を巻頭に配して知友門弟の句を所収した「俳諧三物(はいかいさんぶつ)」を刊行したが以後に自ら撰した集はない。この頃より雑俳点者となり元禄十年以降は彼の加点が加えられたもおが著しく増加しており、生前に刊行された雑俳書は約百三十部確認されているが、その内、来山点の載るものは五十部に及んでいる。俳諧から雑俳の流行へと移行する元禄前後の俳壇変動をそのままに体現した俳人と言える。「近世畸人伝」巻之三にその名が見え、浪華の南今宮村に住し、酒を好み、洒脱磊落な人柄であったとする。大晦日、門人より雑煮の具を送られたが、その日のうちに酒の肴にしてしまった折りの句、

 我が春は宵にしまふてのけにけり

が載る(以上はウィキ小西来山及び「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。晩年は、一説に「お奉行の名さへ覺えず年暮れぬ」の句で奉行を愚弄したとして大阪から追放され、今宮村(現在の大阪府大阪市浪速区恵美須附近か)に十萬堂という庵を建てて移り住んだという。本句の「今宮草」は正続二冊の彼の句集である。代表句は「俳句案内」の「小西来山」で小西山の句纏まって読める。「近世畸人伝」によれば、

 來山はうまれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし

を辞世とするとある。]

鬼城句集 冬之部 蕪村忌

蕪村忌   蕪村忌やさみしう挿して正木の實

 

[やぶちゃん注:蕪村忌は天明三年十二月二十五日で、グレゴリオ暦一七八四年一月十七日。享年六十九。「正木」はニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus。秋に果実が熟すと裂開して橙赤色の仮種皮に被われた種子があらわれる(ウィキマサキ」の「果実と種子(一月)」画像)。]

鬼城句集 冬之部 芭蕉忌 

芭蕉忌   芭蕉忌や弟子のはしなる二聾者

      芭蕉忌やとはに淋しき古俳諧


[やぶちゃん注:芭蕉忌は元禄七年十月十二日で、グレゴリオ暦一六九四年十一月二十八日。享年五十一。因みに鬼城は昭和一三(一九三八)年九月十七日没で享年七十四であった。]

鬼城句集 冬之部 維摩會

維摩會   維摩會にまゐりて俳諧尊者かな

 

      維摩會や默々としてはてしなき

 

[やぶちゃん注:「維摩會」は「ゆいまゑ(ゆいまえ)」と読み、維摩経を講ずる法会。十月十日から七日間、奈良の興福寺で行われる。維摩講。現在、この日程であるにも拘わらず(伝統的保守的な歳時記観では十月は三秋(晩秋)である)、歳時記では冬とし、「大辞泉」では本句を例文として掲げてある。興福寺は法相宗(ほっそうしゅう)の大本山である。法相宗は唯識宗・慈恩宗とも言い、中国十三宗及び日本南都六宗の一つ。「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」や「成唯識論(じょうゆいしきろん)」等を根本典籍とし、万有は識、即ち心の働きに拠るものとして、存在の「相」を究明することを目的とする。玄奘三蔵の弟子であった基(き)を初祖として本邦には白雉四(六五三)年に道昭が伝えた。平安時代までは貴族の強い支持を受けた宗派で、現在はこの奈良の興福寺と薬師寺を大本山としている。この「人事」の最初の部立、作者鬼城(曹洞宗)が「お命講」(日蓮宗)・「報恩講」(浄土真宗)・「十夜」(浄土宗)・維摩會」(法相宗)と四連発させて、さながら仏教博物誌の様相を呈しているは面白い。一句目の「俳諧尊者」の自身への皮肉もまた面白い。]

鬼城句集 冬之部 十夜

十夜    お机に金襴かけて十夜かな

 

      僧の子の僧を喜ぶ十夜かな

 

[やぶちゃん注:「十夜」は浄土宗で旧暦十月六日から十五日まで十日十夜行う別時念仏(念仏の行者が特別の時日・期間を定めて称名念仏をすること)のこと。十日十夜別時念仏(じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ)が正式な名称で、十夜法要とも言う。天台宗に於いて永享二(一四三〇)年に平貞経・貞国父子によって京都の真如堂(正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)。京都市左京区にある天台宗寺院)で始められたものが濫觴とされるが(現在でも真如堂では十一月五日から十五日まで十夜念仏が修せられている)、浄土宗では明応四(一四九五)年頃に、鎌倉の光明寺で観誉祐崇が初めて十夜法会を行ったのを始めとする。十夜は「無量寿経」巻下にある「此に於て善を修すること、十日十夜すれば、他方の諸仏の國土において善をなすこと、千歳するに勝れたり」という章句による(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。既に見た通り、鬼城は曹洞宗を宗旨としており、この前が日蓮宗の「お命講」と浄土真宗の「報恩講」であるから、これ以上、鬼城の宗教意識を殊更にディグすることには価値がないと判断する。]

鬼城句集 冬之部 報恩講

報恩講   道端の小便桶や報恩講

 

[やぶちゃん注:「報恩講」は浄土真宗の宗祖とされる親鸞の祥月命日の前後に宗祖に対する報恩謝徳のために営まれる法会。本願寺三世覚如が親鸞の三十三回忌に「報恩講私記(式)」を撰述したことを起源とするとされる。浄土真宗の僧侶門徒にとっては年中行事の中でも最も重要な法要で荘厳(しょうごん)も最も重い。各本山で営まれる法要は「御正忌報恩講」と呼ばれ、祥月命日を結願(最終日)として一週間に渡って営まれる。別院・各末寺・各一般寺院に於いては「お取越」若しくは「お引上」と呼ばれて「御正忌報恩講」とは日程を前後にずらして一~三、五日間で営まれ、門徒のお内仏(仏壇)でも所属寺院(お手次寺)の住職を招いて「お取越」「お引上」として営まれ、これは「門徒報恩講」とも呼ぶ。このように日付をずらすのは、総ての僧侶門徒は御正忌報恩講期間中に上山(本山参拝)するのが慣わしとされるためである。浄土真宗の宗派別の御正忌報恩講の日程は以下の通りである。

・浄土真宗本願寺派(お西)/真宗高田派

   一月  九日より十六日まで

・真宗浄興寺派

   十月二十五日より二十八日まで

・真宗大谷派(お東)/真宗佛光寺派/真宗興正派/真宗木辺派/真宗誠照寺派/真宗三門徒派/真宗山元派

  十一月二十一日より二十八日まで

・浄土真宗東本願寺派

  十一月二十三日より二十八日まで

・真宗出雲路派

  十二月二十一日より二十八日まで

このように各派によって日程が異なるのは、親鸞が入滅した弘長二年十一月二十八日(グレゴリオ暦では一二六三年一月十六日)を旧暦の日付のままに新暦の十一月二十八日の日付で行われる場合と、新暦に換算した一月十六日に営まれる場合とがあることによる(真宗出雲路派は月遅れの形を採っている。以上はウィキの「報恩講に拠った)。これらの日付を見ると、真宗浄興寺派以外は冬の季語として問題ないことが分かる。言っておくが、自由律俳句から始めた私は季語などどうでもいい人間であり、季語の不審を云々しているのは季語存在そのものへの根源的な不信感が存在するためである。本句の眼目は報恩講のために特に置かれたに違いない道端の小便桶の情景そのものにあるのであって、報恩講はホリゾントに過ぎぬ(前の注で示した通り、鬼城の、少なくとも村上家の宗旨は曹洞宗であって真宗ではない)。それを信仰の優しさと見るか――その場限りの仕儀に対する馬鹿げた滑稽と見るか――それとも、宗教の儚さに対し、厳として存在するところの、なみなみと金色(こんじき)の尿(すばり)を湛えた小便桶の実在の重量ととるか――それはひとそれぞれであってよい――。]

鬼城句集 冬之部 人事 お命講

  人事

お命講   お命講や立ち居つ拜む二法師

[やぶちゃん注:「お命講」は「御命講」で「おめいこう」と読み、御会式(おえしき)のこと(会式は法会の式の略)。日蓮宗及び同系統の寺院及び信徒によって宗祖日蓮の通夜に当たる十月十二日と忌日である十三日の両日に営まれる祖師報恩の法会を指す。十二日には信者は万灯をかざして太鼓を敲き、題目を唱えて参拝する。御影供(おめいく)。御命講は御影供(みえいく)を拝むという意の御影講(おえいこう)から転訛したものらしい。浄土真宗他の他宗での御会式はあるが、それを「お命講」とは普通は言わないと思われ、この句は鬼城が日蓮宗徒であったかのようにも思わせるのだが、少なくとも鬼城の墓は高崎市若松町の龍廣寺にあって同寺は曹洞宗である。しかも季語としては現在、歳時記や辞書には日蓮宗のそれに合わせて秋とするから、この部立はおかしい。師の虚子の墓は鎌倉の寿福寺にあって同寺は臨済宗であるから、宗教絡みの季語にはいい加減だったものか? 識者の御教授を乞う。]

鬼城句集 冬之部 枯野 / 冬野 / 水涸 / 山眠

枯野    烟るなり枯野のはての淺間山

 

      大鳥の空搏つて飛ぶ枯野かな

 

      一軒家天に烟らす枯野かな

 

冬野    積藁に朝日の出づる冬野かな

 

水涸    沼涸れて狼渡る月夜かな

 

山眠    石段に杉の實落ちて山眠る

2013/12/30

北條九代記 鎌倉軍勢上洛 承久の乱【十三】――幕府軍進発す

本年最後の、ハマったテクスト注釈となった。



      ○鎌倉軍勢上洛

さる程に、大名小名集まりて、軍の評定ありける所に、武蔵守泰時申されけるは、「是ほどの御大事、無勢にては如何あるべき。兩三日も延引せられ、片邊土(かたへんど)に居住する若黨冠者原(わかたうかんじやばら)をも、召倶し候らはばや」と申されければ、權〔の〕大夫義時申されけるは、「君の御爲に忠のみ存じて不義なし。人の讒(さかしら)に依つて、朝敵と仰せ下さるゝ上は、假令(たとひ)百千萬騎の勢を倶したりとも、天命に背く程にては、君に勝ち參(まゐら)すべきや。只運に任すべし。早疾(はやとく)上洛あるべきなり」と軍の手分をぞ定められける。明くれば五月二十一日、藤澤左衞門尉淸親(きよちか)が本(もと)に軍立(いくさだち)し、翌日未明(びめい)に打立ち給ふ。先陣は相模守時房、二陣は武蔵守泰時、三陣は足利武藏〔の〕前司義氏、四陣は三浦駿河守義村、五陣は千葉介胤綱とぞ聞ける。相隨ふ輩には、城(じやうの)入道、毛利(まうりの)蔵人入道、少輔(せうの)判官代、駿河〔の〕次郎、佐原(さはらの)次郎左衞門尉、同三郎左衞門尉、同又太郎、天野(あまのゝ)左衞門尉、狩野介(かのゝすけ)入道、後藤左衞門尉、小山新左衞門尉、中沼五郎、伊吹(いぶきの)七郎、宇都宮〔の〕四郎、筑後(ちくごの)太郎左衞門尉、葛西(かさいの)五郎兵衞尉、角田〔の〕太郎、同彌平次、相馬(さうまの)三郎父子三人、國分(こくぶの)三郎、大須賀(おほすかの)兵衞尉、佐野(さのゝ)小次郎入道、同七郎太郎、同八郎、伊佐大進(いさのたいしん)太郎、江戸〔の〕八郎、足立(あだちの)三郎、佐々目(さゝめの)太郎、階(はしの)太郎、早川平三郎、丹(たん)、兒玉(こだま)、猪俣(ゐのまた)、本間、澁谷、波多野(はだの)、松田、河村、飯田(いひだ)、土肥(どひ)、土屋、成田伊藤、宇佐美、奥津(おきつ)を始として、都合其勢十萬餘騎、東海道をぞ押上(おしのぼ)る。東山道の大將軍には、武田(たけだの)五郎父子八人、小笠原(をがさはらの)次郎父子七人、遠山左衞門尉、諏訪(すはの)小太郎、伊具右馬允(いぐのうまのじよう)入道を始めとして 、其勢都合五萬餘騎なり。式部丞朝時(しきぶのじようともとき)は四萬餘騎を率(そつ)して、北陸道より攻上(せめのぼ)る。鎌倉には大膳〔の〕大夫入道、宇都宮〔の〕入道、葛西壹岐(かさいいきの)入道、隼人(はやとの)入道、信濃(しなのゝ)民部大輔入道、隱岐(おきの)次郎左衞門尉是等を始として、御留主(おんるす)をぞ勤めける。親上(のぼ)れば、子は留(とゞま)り、子息上れば父殘り、兄弟までも引分けて、上留(のぼせとゞ)むる心あり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十三】――幕府軍進発す〉ここは各パートで分離して示す。

「片邊土に居住する若黨冠者原」関東の田舎に居住するところの若き壮士や元服したての若者ら。

「藤澤左衞門尉淸親が本に軍立し」清近とも書く(後掲する「吾妻鏡」参照)。奥州戦を戦った頼朝以来の重臣である。ここで泰時のみが彼の家に前日の二十一日夜に出陣し、翌二十二日未明に全軍の進発となっているのは、先鋒将軍である泰時が父義時に兵力増強のための進発延期の進言に対して怒り心頭に発し(後掲「承久記」で『大にいかりて』とある)、『時日を移すべきにや。早上れ、疾く打ち立て』(「承久記」)と、恐らくは泰時や他の幕閣にとっても想定外の性急な支持を出したため、出立を占った陰陽師(彼も困ったに違いない)によってなされた先鋒武将のみの方違えの応急措置と私は判断する。但し、後で検討するが「吾妻鏡」ではかなり違って、泰時は発言せず、進発を促すのは二人の温帯、大江広元と三善善信である。私は最終的にこれは「承久記」の作者の作話であると考えている。

「城入道」安達景盛。以下、これらの参戦した武士たちは「承久記」でも慈光寺本と極端に記載が異なり、また、「吾妻鏡」とも異同が多いので今回に限り、この「北條九代記」記載限定で、不詳の連打も厭わずに多くの資料を管見しながら、これはと思う同定者を施してみた。識者の御援助御協力を求むものである。

「毛利蔵人入道」毛利(大江)季光。大江広元四男。

「少輔判官代」大江佐房(すけふさ 生没年不詳)。京都守護大江親広の長男で広元の孫。父親広は後鳥羽上皇方に就いた。

「駿河次郎」三浦泰村。義村次男。

「佐原次郎左衞門尉」相模三浦氏三浦大介義明の末子十郎義連を祖とする佐原光盛。

「同三郎左衞門尉」佐原光盛の従兄弟佐原秀連か。

「同又太郎」佐原義連の秀泰か。

「天野(あまのゝ)左衞門尉」承久の乱で活躍した中に天野政景がいるが、左衛門尉ではない。

「狩野介入道」工藤茂光の子で頼朝側近であった狩野宗茂か。

「後藤左衞門尉」後藤信康。「吾妻鏡」の比企一族征討軍の中に出る。

「小山新左衞門尉」小山朝政の子小山朝長。

「中沼五郎」不詳。「承久記」慈光寺本の泰時配下に「中間五郎」という名があり、院宣の送付先にこの名が出、新日本文学大系の注には、『豊前国下毛郡の中間氏の人か』と注する。

「伊吹七郎」不詳。

「宇都宮四郎」宇都宮成綱の子鹽谷朝業(しおやともなり)を指すが、彼は実朝暗殺後、出家して信生と号し隠遁、法然の弟子証空に師事して京で暮らしたとウィキの「塩谷朝業」あるので不審。

「筑後太郎左衞門尉」筑後知重か。

「葛西五郎兵衞尉」頼朝直参の御家人葛西清重か。

「角田太郎」千葉介胤正の女婿角田胤親か。

「同彌平次」角田弥平次は上総介広常の弟相馬常清の子孫とされる。

「相馬三郎」不詳。

「國分三郎」不詳。

「大須賀兵衞尉」平良文流千葉氏の大須賀氏初代惣領大須賀胤信の子弟か。

「佐野小次郎入道、同七郎太郎、同八郎」不詳。新古典文学大系の慈光寺本に泰時配下に『佐野左衞門政景』の名を載せ、その注に、『藤原氏藤成流、下野国の佐野氏か。吾妻鏡に宇治橋合戦で負傷した人として、佐野七郎入道の名がある』とある。確かに「吾妻鏡」第二十五の承久三(一二二一)年六月十八日の条の、「宇治橋合戰に手負の人々」の十四日の条に、その「佐野七郎入道」という記録はある。

「伊佐大進太郎」伊佐為宗またはその子息。伊佐為宗は藤原北家山蔭流で伊達氏の祖とされる常陸入道念西の息子。常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)を本領とした。妹の大進局が源頼朝の妾となり、頼朝との間に男子(貞暁)を生んでいる。文治五(一一八九)年に源頼朝が藤原泰衡追討のために行った奥州征伐では弟の次郎為重・三郎資綱・四郎為家とともに従軍、八月八日に奥州方の最前線基地信夫郡石那坂の城砦を攻略、佐藤基治など敵十八人の首を取って阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという。この奥州合戦の戦功により、伊佐為宗の一族は頼朝から伊達郡を賜った。為宗は伊佐郡に留ったが、念西と為宗の弟などが伊達郡に下って「伊達」を称し、伊達氏の祖となった。以上、参照したウィキの「伊佐為宗」には、但し書きで、「吾妻鏡」の六月十四日の条にあるこの「大進太郎」の戦死記載を為宗本人とする説と、その子息であるとする説があるとする。「吾妻鏡」の当該記載によれば宇治川渡渉時の溺死である。

「江戸八郎」江戸長光か。

「足立三郎」不詳。かく称する人物は「吾妻鏡」に複数出るが、年代的にピンとこない。

「佐々目太郎」不詳。

「階(はしの)太郎」不詳(後の「承久記」の私の注を参照されたい)。

「早川平三郎」不詳。

「丹」丹党。武蔵七党の一つで、秩父から飯能を勢力範囲とした同族的武士集団。平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称する。丹氏・加治氏・勅使河原氏・阿保氏・大関氏・中山氏などを称した。以下、武蔵七党関連は主にウィキの「武蔵七党」に拠ったが、一部のはそこからさらに個別にリンクした記載も参考にしたが、その注記は略した。

「兒玉」児玉党。武蔵七党の一つで、武蔵国児玉郡(現在の埼玉県児玉郡)から秩父・大里・入間郡及び上野国南部周辺を勢力範囲とした一族。元々の本姓は有道氏。他に児玉氏・庄氏・本庄氏・塩谷氏・小代氏・四方田氏などを称した。本拠地を現在の本庄市に置いて、武蔵七党の中でも最大の勢力を誇った。

「猪俣」猪俣党。武蔵七党の一つである横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣姓を名乗った)。武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町)の猪俣館を中心として勢力を持った武士団。猪俣氏・人見氏・男衾氏・甘糟氏・岡部氏・蓮沼氏・横瀬氏・小前田氏・木部氏などを名乗る。保元の乱・平治の乱及び一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が知られる。

「本間」本間氏は武蔵七党の一つである横山党の海老名氏の流れを汲む一族。鎌倉時代から戦国時代まで佐渡国を支配した氏族で、名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来する。鎌倉時代初期に佐渡国守護となった執権北条氏の支流大佛氏の守護代として佐渡に入った本間能久より始まるとされる。雑太城を本拠として勢力を伸ばし、幾つかの分家に分かれた(ウィキの「本間氏」に拠った)。

「澁谷」渋谷氏は相模国高座郡渋谷荘に拠った一族。現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市一帯に勢力を持ち、現在の東京都渋谷区一帯も領地としており、後に分家が在住した(ウィキの「渋谷氏」に拠った)。

「波多野」ウィキの「波多野氏」によれば、平安末から鎌倉にかけて摂関家領であった相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした豪族。坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った。前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。経範の妻は藤原秀郷流藤原氏で、のちに波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称している。秦野盆地一帯に勢力を張り、河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。経範から五代目の子孫波多野義通は頼義の子孫である源義朝に仕え、その妹は義朝の側室となって二男朝長を産み、保元の乱・平治の乱でも義朝軍として従軍しているが、保元の頃に義朝の嫡男を廻る問題で不和となって京を去り、所領の波多野荘に下向したという。義通の子波多野義常は京武者として京の朝廷に出仕し、官位を得て相模国の有力者となる。義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、義常は頼朝と敵対し、討手を差し向けられて自害した。義通のもう一人の子である波多野義景、孫の波多野有常は許されて鎌倉幕府の御家人となっている。有常は松田郷を領して松田氏の祖となったとあり、この「波多野」はこの義景・有常らの子孫と思われる。

「松田」松田氏は相模国足柄上郡松田郷(現在の同郡松田町)に発祥した、前に注した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族。鎌倉時代には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられている(ウィキの「松田氏」に拠った)。

「河村」河村氏は相模国足柄郡河村郷(現在の足柄上郡山北町)に発祥した前の松田氏と同じ波多野氏一族の氏族。サイト「戦国大名研究」の「河村氏」によれば、『相模の武士波多野遠義の子秀高から始まる。秀高は父から同国足柄郡上河村郷などの所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称した。本宗の波多野氏は源氏に従っていたが、秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、本貫地を失い大庭景義の計らいで斬罪を免れた』。その後、『義秀の弟千鶴丸は十三歳であったが、文治元年(1185)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、同国阿津賀志山の戦に功をたて、頼朝の命で加々美長清を烏帽子親として元服し河村四郎秀清と名乗った』。『戦後の論功行賞で、秀清は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の三ヶ所に所領を賜った。秀清はこの三ヶ所の内どこに居を定めたかについてははっきりしないが、茂庭の地が中間地であることから、有力視されている。また、秀清は備中国川上郡の成羽の地に所領を得て鶴首城を築いたともいい、さらに斯波郡の大巻にも大巻城を築いたとも伝えられている』。『以後、河村氏は北条執権政治のもとでは本宗の波多野氏とともに北条氏に従い、秀清は「承久の乱」に武家方として功をたてるなど活躍をしていることから奥州の所領には長くとどまらなかったようだ。奥州には、その子や一族の時秀の子貞秀らが配置され、その子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に広まった。大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内の諸氏がそれである』とある。

「飯田」飯田氏は清和源氏の流れを汲むとする信濃国飯田荘を領した義基を祖とする姓。鎌倉時代の動静は不詳。「吾妻鏡」の承久の乱前後には飯田姓を見ない。

「土肥」相模国の土肥氏は中村荘司宗平次男実平が相模国土肥郷(現在の神奈川県湯河原町)を有したのが始まりとされる。実平は源頼朝の信任の厚い側近であったが、和田合戦に於いて和田方に就いたことから一時衰えていた。但し、このずっと後に実平の子孫土肥実綱が鎌倉将軍九条頼嗣や執権の北条時頼・時宗に仕えて活躍、土肥氏を再度興隆させている(以上はウィキの「土肥氏」に拠る)。

「土屋」土屋氏は坂東八平氏であった相模国中村荘司村岡宗平の子土屋宗遠が相模国中村荘((現在の小田原市中村原・中井町中村付近)において土屋郷司についた事に由来する。鎌倉時代には出雲国持田荘や出雲国大東荘、河内国茨田郡伊香賀郷の地頭を任官し、各地に勢力を伸張した(ウィキの「土屋氏」に拠る)。

「成田」成田氏出自には藤原氏説と武蔵七党の一つである横山党説がある。少なくとも鎌倉時代以前に武蔵国の北部に精力を張っていたとみられ、鎌倉時代には御家人になったと見られ、「吾妻鏡」では文治五(一一八九)年七月十九日の奥州藤原氏追討軍の「御伴の輩」の記載メンバーの最後の方に「成田七郎助綱」の名が見える。古文書からこの時の恩賞で成田氏は鹿角郡に所領を得たとされており、この承久の乱では宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が討死している(以上はウィキの「成田氏」を参照にし、「吾妻鏡」をも確認した)。

「伊藤」次に「宇佐美」氏が挙がっているのでこれは伊豆伊東氏か。

「宇佐美」サイト「戦国大名研究」の「宇佐美氏」によれば、『氏古代律令制のもとで、久寝郷と呼ばれたのちの伊東郷の北隣に宇佐美郷があった。いわゆる寄進地系荘園の一つで、開発領主は伊豆に栄えた工藤氏の一族であった。のちに久寝郷は南北に拡張され、宇佐美郷から河津郷まで含むようになったと思われる。それとともに、工藤氏の一族が分領するようになり、宇佐美郷には宇佐美氏、伊東郷には伊東氏、河津郷には河津氏が分領するようになった』。『宇佐美氏の初代は工藤祐経の弟とされる三郎祐茂で、鎌倉時代初期の武将であった。祐茂は、源頼朝に属して伊豆目代の山木兼隆を討ち、その後も多くの合戦に従って功労多く、頼朝二十五功臣の一人に数えられた。その後、頼朝に従って鎌倉へ入ると、そこに在住するようになり、頼朝に近仕した』。文治五(一一八九)年の『奥州征伐に加わり、翌六年には頼朝に従って上洛している。その子孫は『吾妻鑑』に多く散見し、『梅松論』や『太平記』にも登場するなど、かなり有力な在地武士であったことが知られる』とある。

「奥津(おきつ)」奥津(おくつ)氏は駿河国庵原(いはら)郡奥津(現在の静岡市清水区の一部と葵区及び富士市の富士川以西一帯)をルーツとする藤原南家流の一族。江戸期のこの清水にあった宿駅興津(おきつ)は、古くは「奥津(おくつ)」「息津(おきつ)」であったから、この読みは問題ない。

「武田五郎」甲斐武田氏第五代当主武田信光(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)。頼朝直参。当時の馬術・弓術に優れた弓馬四天王(他は小笠原長清・海野幸氏・望月重隆)の一人。

「小笠原次郎」やはり頼朝直参で弓馬四天王の一人であった小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。父子七人、遠山左衞門尉、諏訪(すはの)小太郎、伊具右馬允(いぐのうまのじよう)入道を始めとして 、其勢都合五萬餘騎なり。式部丞朝時」

「親上れば、子は留り、子息上れば父殘り、兄弟までも引分けて、上留むる心あり」武家の戦さに於ける一族滅亡を避けるための常套的な非情なる(「承久記」は『謀(はかりごと)こそ怖しけれ』と記す)戦略手段の一つであるが、それだけ、今回の戦いの勝敗の行方に対する深刻さが窺われると言える。

 

 以下、ここでは最初に元とした「承久記」(底本の編者番号30~33)を示し(直接話法部分を改行した)、その後に幕府サイドの「吾妻鏡」の記載を、承久の乱勃発から幕府軍進発まで、一気に纏めて眺めてみたい。まずは「承久記」から。

 

 明ル廿日ノトク、權大夫ノ許へ、又大名・小名衆リテ軍ノ會議評定有ケルニ、武藏守被ㇾ申ケルハ、

「是程ノ御大事、無勢ニテハ如何ガ有べカラン。兩三日ヲ延引セラレ候テ、片田舍ノ若黨・冠者原ヲモ召具候バヤ」

ト被ㇾ申ケレバ、權大夫、大ニイカリテ、

「不思議ノ俗ノ申樣哉。義時ハ、君ノ御爲ニ忠ノミ有テ不儀ナシ。人ノ讒言ニ依テ朝敵ノ由ヲ被仰下上ハ、百千萬騎ノ勢ヲ相具タリ共、天命ニ背奉ル程ニテハ君ニ勝進ラスべキカ。只果報ニ任スルニテコソアレ。一天ノ君ヲ敵ニウケ進ラセテ、時日ヲ可ㇾ移ニヤ。早上レ、疾打立」

ト宣ケレバ、其上ハ兎角申ニ不ㇾ及、各宿所々々ニ立歸リ、終夜用意シテ、明ル五月廿一日ニ由井ノ濱ニ有ケル藤澤左衞門尉清親ガ許へ門出シテ、同廿二日ニゾ被ㇾ立ケル。

 一陣ハ相模守時房、二陣武藏守泰時、三陣足利ノ武藏前司義氏、四陣三浦駿河守義村、五陣ハ千葉介胤網トゾ聞へシ。此人々ニ相具ラル一兵ニハ、城入道・毛利藏人入道・少輔判官代・駿河次郎・左原次郎左衞門尉・同三郎左衞門尉・同又太郎・天野左衞門尉・狩野介入道・後藤左衞門尉・小山新左衞門尉・中沼五郎・伊吹七郎・宇都宮四郎・筑後太郎左衞門尉・葛西五郎兵衞尉・角田太郎・同彌平次・相馬三郎父子三人・國分三郎・大須賀兵衞尉・佐野小次郎入道・同七郎太郎・同八郎・伊佐大進太郎・江戸八郎・足立三郎・佐々目太郎・階〔見〕太郎・早川平三郎、サテハ奧ノ嶽ノ島橘左衞門尉、丹・兒玉ヨリ以下猪俣、相模國ニハ本間・澁谷・波多野・松田・河村・飯田・成田・土肥・土屋、伊豆國ニハ伊藤左衞門尉・宇佐美五郎兵衞・同與一、駿河國ニハ奧津左衞門尉・蒲原五郎・屋氣九郎・宿屋次郎、是等ヲ始トシテ十萬餘騎ニテ上ケリ。

 東山道ノ大將軍ニハ武田五郎父子八人・小笠原次郎父子七人・遠山左衞門尉・諏方小太郎。伊具右馬允入道、軍ノケン見ニ被指添タリ。其勢五萬餘騎。式部丞朝時、四萬餘騎相具シテ北陸道へゾ向ケル。

 東海道十萬餘騎、東山道五萬餘騎、北陸道四萬餘騎、共ニ三ノ道ヨリ十九萬餘騎ゾ上セラレケル。

 鎌倉ニ留マル人々ニハ、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壹岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隱岐次郎左衞門尉、是等也。親上レバ子ハ留マリ、子上レバ親留マル。父子兄弟引分上々留ラルル謀コソ怖シケレ。

 

●「階〔見〕太郎」不詳。「北條九代記」はそのままで「階(はしの)太郎」と訓じているが、これは姓では「しな」とも読む。ネット上では岩手県岩手郡雫石町に多数みられるとある。新日本古典文学大系がこれを「階見」と補綴してあるのには何らかの根拠があるのだろうが、見当たらない。識者の御教授を乞う。なお「吾妻鏡」には人名索引を見ても「階見」は勿論、「階」で始まる姓も見当たらない。

●「ケン見」各種軍事作戦時の実地検分役としての検見(けみ)の謂いか。

 

 次に非常に長くなるが、承久の乱の勃発である伊賀光季の誅殺から幕府軍進発までの一部始終を「吾妻鏡」で見る。巻二十五の承久三年(一二二一)年五月の条々である。今回は長いので、日毎に分割、長い箇所では書き下し文の改行ごとに簡単な注を挿入し、その後は「▼」入りの一行空きとした。

 

□承久三(一二二一)年五月十九日

○原文

十九日壬寅。午刻。大夫尉光季去十五日飛脚下著關東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親廣入道昨日應勅喚。光季依聞右幕下〔公經。〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡死去十五日京都飛脚下著。申云。昨日〔十四日。〕。幕下。幷黄門〔實氏。〕仰二位法印尊長。被召籠弓場殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。關東分宣旨御使。今日同到著云々。仍相尋之處。自葛西谷山里殿邊召出之。稱押松丸〔秀康所從云々。〕。取所持宣旨幷大監物光行副狀。同東士交名註進狀等。於二品亭〔號御堂御所。〕披閲。亦同時廷尉胤義〔義村弟。〕。私書狀到著于駿河前司義村之許。是應勅定可誅右京兆。於勳功賞者可依請之由。被仰下之趣載之。義村不能返報。追返彼使者。持件書狀。行向右京兆之許云。義村不同心弟之叛逆。於御方可抽無二忠之由云々。其後招陰陽道親職。泰貞。宣賢。晴吉等。以午刻〔初飛脚到來時也。〕。有卜筮。關東可屬太平之由。一同占之。相州。武州。前大官令禪門。前武州以下群集。二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者。群參之士悉應命。且溺涙申返報不委。只輕命思酬恩。寔是忠臣見國危。此謂歟。武家背天氣之起。依舞女龜菊申狀。可停止攝津國長江。倉橋兩庄地頭職之由。二箇度被下宣旨之處。右京兆不諾申。是幕下將軍時募勳功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。晩鐘之程。於右京兆館。相州。武州。前大膳大夫入道。駿河前司。城介入道等凝評議。意見區分。所詮固關足柄。筥根兩方道路可相待之由云々。大官令覺阿云。群議之趣。一旦可然。但東士不一揆者。守關渉日之條。還可爲敗北之因歟。任運於天道。早可被發遣軍兵於京都者。右京兆以兩議。申二品之處。二品云。不上洛者。更難敗官軍歟。相待安保刑部丞實光以下武藏國勢。速可參洛者。就之。爲令上洛。今日遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。武藏。安房。上總。下總。常陸。信濃。上野。下野。陸奥。出羽等國々。飛脚京兆奉書。可相具一族等之由。所仰家々長也。其狀書樣。

 自京都可襲坂東之由。有其聞之間。相摸權守。武藏守相具御勢。

 所打立也。以式部丞差向北國。此趣早相觸一家人々。可向者也。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 十九日壬寅。午の刻、大夫尉光季が去ぬる十五日の飛脚關東へ下著し、申して云はく、

「此の間、院中に官軍を召し聚めらる。仍つて前民部少輔親廣入道、昨日、勅喚に應ず。光季は右幕下〔公經(きんつね)。〕の告げを聞くに依つて、障りを申すの間、勅勘を蒙るべきの形勢有り」

と云々。

[やぶちゃん注:「午の刻」午後零時前後。この飛脚も推松(押松)とそれに従った胤義の私信を持った使者と同程度に俊足であることが分かる。そればかりか、次の段の西園寺公経の飛脚も二時間後に到着している。これらから考えると、「北條九代記」や「承久記」が推松を驚くべき速さであると評するのはやや眉唾と言わざるを得ない。特に「承久記」の推松を描写する後の展開などを見ると、明らかにこの推松をトリック・スターとして話柄の面白さを狙った印象が強いように私は感じる。]

   ▼

 未の刻、右大將が家司主税頭長衡(ちからのかみながひら)が去ぬる十五日の京都飛脚下著し、申して云はく、

「昨日〔十四日。〕幕下幷びに黄門〔實氏。〕二位法印尊長に仰せて、弓場殿(ゆばどの)に召し籠めらる。十五日午の刻、官軍を遣はして伊賀廷尉(ていい)を誅せられ、則ち、按察使(あぜちの)光親卿に勅して、右京兆追討の宣旨を五畿七道に下さるに由。」

と云々。

「關東の分の宣旨の御使、今日同じく到著す。」

と云々。

[やぶちゃん注:「未の刻」午後二時前後。

「右大將」西園寺公経。

「黄門〔實氏。〕」公経の子、中納言西園寺実氏。

「伊賀廷尉」伊賀光季。

「五畿七道」律令制で定められた地方行政区画である五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)。日本全国の意。]

   ▼

 仍つて相ひ尋ぬるの處、葛西谷山里殿(かさいがやつやまざとどの)邊りより之を召し出づ。押松丸(おしまつまる)と稱す〔秀康が所從と云々。〕。

 持つ所の宣旨幷びに大監物(だいけんもつ)光行の副狀(そへじやう)、同じく東士(とうし)の交名(けうみやう)註進狀等を取りて、二品亭〔御堂御所と號す。〕に於いて披閲(ひえつ)す。亦、同時に廷尉胤義〔義村が弟。〕が私(わたくし)の書狀、駿河前司義村が許に到著す。是れ、

『勅定に應じ、右京兆を誅すべし。勳功の賞に於いては、請ふに依るべし。』

の由、仰せ下さるの趣き、之を載す。義村、返報に能はず、彼の使者を追ひ返し、件(くだん)の書狀を持ちて、右京兆が許に行き向ひて云はく、

「義村、弟の叛逆に同心せず。御方(みかた)に於いて無二の忠を抽(ぬき)んずべし。」の由と云々。

[やぶちゃん注:「葛西谷山里殿」先に「鎌倉攬勝考」から示した通り、これは葛西清重定蓮の屋敷の通称であろう。

「大監物光行」源光行(長寛元(一一六三)年~寛元二(一二四四)年)。「大監物」は中務省直属官で諸官庁の倉庫管理と出納事務監察官の長。ウィキの「源光行」によれば、寿永二(一一八三)年、木曽義仲が占拠していた京にあった光行は平家方に就いた父光季の謝罪と助命嘆願のために鎌倉に下向、頼朝にその才能を愛され、幕府成立後は政所初代別当となり、朝廷と幕府との関係を円滑に運ぶために鎌倉・京都間を往復したが、一方では朝廷からも河内守・大和守に任命され、この承久の乱の際には去就に迷った結果、後鳥羽上皇方に従ってしまった。但し、この時も乱後にその才を惜しんだ人々の助命嘆願によって重刑を免れている。歌人として、また「源氏物語」の研究家として注釈書「水原抄」や河内本の本文校訂で知られる。

「東士の交名註進狀」関東武士の内で、今回の乱で院方へ推参した者の名前を記した報告書。

「二品亭」「御堂御所」北条政子の屋敷。「御堂」と呼ばれた勝長寿院内にあった。]

   ▼

 其の後、陰陽道親職(ちかもと)・泰貞・宣賢(のぶかた)・晴吉(はるよし)等を招き、午の刻〔初めて飛脚到來の時なり。〕を以つて卜筮(ぼくぜい)有り。

「關東、太平に屬すべし。」

の由、一同、之を占ふ。相州・武州・前大官令禪門・前武州以下、群集す。二品、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛を以つて示し含めて曰く、

「皆、心を一にして、奉はるべし。是れ、最期の詞なり。故右大將軍が朝敵を征罰し、關東を草創してより以降(このかた)、官位と云ひ、俸祿と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志、淺からんや。而るに今、逆臣の讒りに依つて、非義の綸旨を下さる。名を惜むの族(やから)は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代將軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但し、院中に參らんと欲する者は、只今、申し切るべし。」

てへれば、群參の士、悉く命に應じ、且つは涙に溺(しづ)みて返報申すに委(くは)しからず。只だ、命を輕んじ、恩に報ぜんことを思ふ。寔(まこと)に是れ、『忠臣、國危きに見(あらは)る』とは、此の謂(いひ)か。武家、天氣に背くの起こりは、舞女龜菊(かめぎく)の申し狀に依つて、攝津國長江・倉橋兩庄の地頭職を停止(ちやうじ)すべきの由、二箇度、宣旨を下さるの處、右京兆、諾(だく)し申さず。是れ、幕下將軍の時、勳功の賞に募りて定補(ぢやうほ)せらるるの輩(ともがら)、指(さ)せる雜怠(ざふたい)無くして改め難き由、之を申す。仍つて逆鱗甚だしき故なりと云々。

[やぶちゃん注:「相州」北条時房。

「武州」北条泰時。

「前大官令禪門」大江広元。

「前武州」足利義氏(文治五(一一八九)年~建長六(一二五五)年)。母は北条時政の娘時子で、正室は泰時の娘。北条義時・泰時父子を補佐し、晩年は幕府長老として重きを成した。

「溟渤」大海。

「幕下將軍の時、勳功の賞に募りて定補せらるるの輩、指せる雜怠無くして改め難き由、之を申す」頼朝さま将軍の御時、『論功行賞によって領地を安堵された者どものその地位は、かくすべき相応の不正・過失がない限りは、それを変改することは許されない』とはっきり明言致いております。]

   ▼

 晩鐘の程、右京兆の館に於て、相州・武州・前大膳大夫入道・駿河前司・城介入道等、評議を凝らす。意見區分す。所詮、足柄・筥根の兩方の道路を固關(こげん)して相ひ待つべきの由と云々。

[やぶちゃん注:「固關」厳重に閉ざして。ただ、面白いのは、この「固関」という語が本来は、律令制に於いて天皇・上皇・皇后の崩御や天皇の譲位、摂関の薨去、謀反などの政変などの非常事態に際して、「三関」と呼ばれた伊勢国鈴鹿関・美濃国不破関・越前国愛発関(後に近江国の逢坂関)を封鎖して通行を禁じることをいう語であることである。参照したウィキの「固関」にも『権力の空白に乗じて、東国の反乱軍が畿内に攻め込むことや反対に畿内の反逆者が東国に逃れることを阻止するための措置である』から頗る皮肉な用法と言えよう。]

   ▼

大官令覺阿、云はく、

「群議の趣き、一旦は然るべし。但し、東士一揆せずんば、關を守りて日を渉(わた)るの條、還つて敗北の因とたるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都へ發遣せらるべし。」てへれば、右京兆、兩議を以つて、二品の處へ申す。二品、云はく、

「上洛せずんば、更に官軍を敗り難からんか。安保(あぶ)刑部丞實光以下の武藏國の勢を相ひ待ち、速かに參洛すべし。」

てへれば、之に就き、上洛せしめんが爲に、今日、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相摸・武藏・安房・上總・下總・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽等の國々に、京兆の奉書を飛脚し、一族等を相ひ具すべきの由、家々の長に仰する所なり。其の狀の書樣(かきざま)。

  京都より坂東を襲ふべきの由、其の聞へ有るの間、

  相摸權守・武藏守、御勢を相ひ具し、打ち立つ所なり。

  式部丞を以つて北國へ差し向く。此の趣き、

  早く、一家の人々に相ひ觸れ、向ふべき者なり。

[やぶちゃん注:「大官令覺阿」大江広元。

「群議の趣き、一旦は然るべし。但し、東士一揆せずんば、關を守りて日を渉るの條、還つて敗北の因とたるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都へ發遣せらるべし」この台詞、前に見た通り、「北條九代記」や元の「承久記」では、泰時が戦力の不安からビビって増兵確保のために進発延引を進言し(これ自体が実は泰時らしくないと私は思う)、怒り心頭に発した義時が叱咤直命する頗る芝居がかった台詞となっている(これもまた冷血無慚の策士義時らしくない)。私はどうも「吾妻鏡」の広元の冷徹な意見具申(延引して軍勢到着を待つというのは拙策であるというのは実はこの後にやはり広元発言として「吾妻鏡」に出るのである)。と、それを受けた冷たい顏の義時の即決、そしてそれを聴いてタッと立ち上がる壮士泰時という方が、自然でリアルな気がする。私は泰時贔屓である。

「京兆」義時。

「相摸權守」時房。

「武藏守」泰時。

「式部丞」北条義時次男で名越流北条氏の祖北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)。北条泰時の異母弟。参照したウィキの「北条朝時」によれば、和田の乱の前年の建暦二(一二一二)年五月七日、二十歳の時に将軍実朝の御台所信子に仕える官女佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向に靡かないことから、業を煮やした末、深夜に彼女の局に忍んで誘い出した事が露見、実朝の怒りを買って父義時から義絶され、駿河国富士郡に蟄居していたが、この和田の乱で鎌倉に呼び戻されて奮戦したとある。この後、御家人として幕府に復帰、父義時は承久の乱でも『大将軍として朝時を起用する一方、小侍所別当就任、国司任官はいずれも兄の朝時を差し置いて同母弟の重時を起用するなど、義時・朝時の父子関係は複雑なものがあり、良好ではなかったと見られ』、朝時は『得宗家の風下に甘んじ』ざるを得なかった。その後の『名越流は得宗家には常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動で度々謀反を企てている』とある。]

 

□五月二十日

○原文

廿日癸卯。可抽世上無爲懇祈之旨。示付莊嚴房律師。幷鶴岳別當法印定豪等。亦行三萬六千神祭。民部大夫康俊。左衞門尉淸定奉行之云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿日癸卯。世上無爲(ぶゐ)の懇祈(こんき)を抽(ぬき)んずべきの旨、莊嚴房(しやうごんばう)律師幷びに鶴岳別當法印定豪(ぢやうごう)等に示し付く。亦、 三萬六千神祭を行ふ。民部大夫康俊、左衞門尉淸定、之を奉行すと云々。

[やぶちゃん注:「世上無爲の懇祈を抽んずべき」世の無事を心から願う祈禱を一際、念を込めて行うよう。

「莊嚴房律師」退耕行勇。

「三萬六千神祭」神仙思想とごっちゃになった道教の影響下にある陰陽道では三万六千というとんでもない数の神がおり(「全訳吾妻鏡」の別巻の貴志正造氏の「用語注解」によれば、三万六千は陰暦の『百年の日数で、その日を支配する神を三万六千神という』とある)、それらを祀って災厄を祓うことを祈る祭儀。三日の潔斎の後、終夜奉祀を行う。]

 

□五月二十一日

○原文

廿一日甲辰。午刻。一條大夫賴氏自京都下著〔去十六日出京云々。〕。到二品亭。宰相中將〔信能。〕以下一族。多以雖候院中。獨不忘舊好。馳參云々。二品乍感悦。尋京都形勢。賴氏述委曲。自去月洛中不靜。人成恐怖之處。十四日晩景。召親廣入道。又被召籠右幕下父子。十五日朝。官軍競起。警衞高陽院殿門々。凡一千七百餘騎云々。内藏頭淸範著到之。次範茂卿爲御使。被奉迎新院。則御幸〔御布衣。〕。與彼卿同車也。次土御門院〔御烏帽子直垂。與彼卿二品御同車。〕。六條。冷泉等宮。各密々入御高陽院殿。同日。大夫尉惟信。山城守廣綱。廷尉胤義。高重等。奉勅定。引率八百餘騎官軍。襲光季高辻京極家合戰。縡火急而。光季并息男壽王冠者光綱自害。放火宿廬。南風烈吹。餘烟延至數十町〔姉小路東洞院。〕。申尅。行幸于高陽院殿。歩儀。攝政供奉。近衞將一兩人。公卿少々參。賢所同奉渡。同時。火起六角西洞院。欲及閑院皇居之間。所令避御也〔御讓位以後初度。〕。又於高陽院殿。被行御修法。仁和寺宮道助并良快僧正以下奉仕之。以寢殿御所爲壇所云々。」今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出來。令待武藏國軍勢之條。猶僻案也。於累日時者。雖武藏國衆漸廻案。定可有變心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之從竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信爲宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。關東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而發遣軍兵於京都事。尤遮幾之處。經日數之條。頗可謂懈緩。大將軍一人者先可被進發歟者。京兆云。兩議一揆。何非冥助乎。早可進發之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤澤左衞門尉淸親稻瀬河宅云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日甲辰。午刻、一條大夫賴氏、京都より下著し〔去ぬる十六日出京すと云々。〕、二品亭へ到る。宰相中將〔信能。〕以下の一族、多く以て院中に候ずと雖も、獨り舊好を忘れず、馳せ參ずと云々。

二品感悦し乍ら、京都の形勢を尋ぬ。賴氏、委曲を述ぶ。去ぬる月より洛中靜かならず。人、恐怖を成すの處、十四日の晩景、親廣入道を召す。又、右幕下父子を召し籠めらる。十五日の朝、官軍競ひ起こり、高陽院殿(かやのゐんどの)の門々を警衞す。凡そ一千七百餘騎と云々。

内藏頭淸範、之を著到(ちやくたう)す。次いで範茂卿、御使として、新院を迎へ奉らる。 則ち御幸す〔御布衣(おんほい)。〕。彼の卿と同車なり。次で土御門院〔御烏帽子直垂。彼の卿二品と御同車。〕、六條、冷泉等の宮、各々密々に高陽院殿に入御す。同じ日、大夫尉惟信、山城守廣綱、廷尉胤義、高重等、勅定を奉(うけたまは)り、八百餘騎の官軍を引率して、光季の高辻京極の家を襲ひて合戰す。縡(ここ)に、火急にして、光季幷びに息男壽王冠者光綱自害し、宿廬(しゆくろ)に火を放つ。南風烈しく吹き、餘烟數十町に延び至る〔姉小路東洞院。〕。申の尅、高陽院殿に行幸したまふ。歩儀(ほぎ)。攝政、供奉す。近衞の將一兩人、公卿少々參ず。賢所(かしこどころ)同じく渡し奉る。同時に、火、六角西洞院に起こり、閑院、皇居に及ばんと欲するの間、避けしめ御(たま)ふ所なり〔御讓位以後、初度〕。又、高陽院殿に於いて、御修法(みしゆはふ)を行はらる。仁和寺宮道助(だうじよ)幷びに良快僧正以下、之を奉仕す。寢殿を以つて御所の壇所(だんしよ)と爲すと云々。

[やぶちゃん注:「一條大夫賴氏」公卿一条頼氏(建久九(一一九八)年~宝治二(一二四八)年)は。一条高能三男。従二位皇后宮権大夫。ウィキの「一条頼氏」によれば、建保三(一二一五)年、叙爵(従五位下叙位)、建保五(一二一七)年、侍従に補せられた。後に北条時房の娘を室に迎え、この承久三(一二二一年)年には嫡男能基が誕生していた。承久の乱では叔父信能及びその兄弟であった尊長らが後鳥羽上皇に積極的に与したのに対し、彼は北条氏の縁者であることから身の危険を感じ、速やかに京都を脱出して鎌倉へ逃れたのであった。乱後、叔父らは処刑されたが、頼氏は貞応二(一二二三)年に右衛門権佐に任ぜられている。後は順調に昇進、嘉禎二(一二三七)年には従三位に叙せられて公卿に列した。暦仁元(一二三八)年に正三位皇后宮権大夫、仁治元(一二四〇)年には左兵衛督に任ぜられて宝治元(一二四七)年には従二位に叙せられた。二人の息子の室も北条氏から迎えて鎌倉幕府に出仕させ、貞応三(一二二四)年の伊賀氏の乱においても叔父一条実雅には加担せず、引き続き北条氏を支持することで家格の維持に務めた、とある。

「高陽院殿」桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の旧邸宅で平安京左京中御門の南、郁芳(ゆうほう)御門や冷泉院の東北にあった。現在の京都御所の東南直近の上京区京都府庁周辺に相当する。

「内藏頭淸範」藤原清範なる人物であるが、これは後鳥羽院の判官代で北面の武士から和歌所寄人に至った歌人で能書家であった藤原清範とは没年から別人で、詳細は不詳。

「新院」順徳院。

「布衣」平服。

「姉小路東洞院」光季の屋敷は京の東西中央を通る四条大路の三筋下がった五条大路の一本北の高辻小路と平安京の最北の南北路である東京極大路の接する附近、現在の河原町五条交差点の北附近であるから、姉小路東洞院(現在の地下鉄烏丸大池駅附近)までは直線距離で一・七キロメートルほどであるから、この「數十町」(十町は一〇〇九メートル)は誇大過ぎる。

「申の尅」午後四時前後。

「高陽院殿に行幸したまふ」「行幸」とあるから仲恭天皇。

「歩儀」徒歩。

「賢所」賢所は宮中で三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を祀る場所。ここは八咫鏡そのものを指す。

「六角西洞院」現在の中京区西洞院六角町附近で烏丸大池の直近であるから、先の延焼が再燃したものであろう。

「攝政」九条道家。

「御讓位以後、初度」皇居外に出て、里内裏に移ったのは初めてであったことを言う。]

   ▼

今日。天下重事(ちようじ)等、重ねて評議す。住所を離れて官軍に向ひ、左右(さう)無く上洛すこと、如何に思惟(しゆい)有るべきかの由、異議有るの故なり。前大膳大夫入道云はく、

「上洛を定める後、日を隔つに依つて、已に又、異議出來(しゆつたい)す。武藏國の軍勢を待たしむの條、猶ほ僻案(へきあん)なり。日時を累(かさ)ぬるに於いては、武藏國の衆と雖も、漸く案を廻らし、定めし變心有るべきなり。只だ、今夜中に、武州一身と雖も、鞭を揚げられば、東士、悉く雲の竜に從ふべきがごとく者なるべし。」

てへれば、京兆、殊に甘心す。但し、大夫属入道善信は宿老たり。此の程、老病危急の間、籠居す。二品之を招き示し合はすに、善信云はく、

「關東の安否、此の時に至り極り訖んぬ。 群議を廻らさんと擬すは、凡そ慮(りよ)の覃(およ)ぶ所なるも、軍兵を京都へ發遣する事は、尤も遮幾(しょき)するの處なり。日數を經るの條、頗る懈緩(けくわん)と謂ひつべし。大將軍一人は先づ進發せらるべきか。」てへれば、京兆云はく、

「兩議の一揆、何ぞ冥助に非るか。早く進發すべし。」

の由、武州に示し付く。仍つて武州、今夜、門出し、藤澤左衞門尉淸親が稻瀬河の宅に宿すと云々。

「大夫属入道善信」三善善信。

「藤澤左衞門尉淸親が稻瀬河の宅」先に見た通り、「承久記」では清親の居宅を「由比の濱」とするが稲瀬川は由比ヶ浜の内である。]

 

□五月二十二日

○原文

廿二日乙巳。陰。小雨常灑。卯の尅。武州進發京都。從軍十八騎也。所謂子息武藏太郎時氏・弟陸奥六郎有時・又北條五郎・尾藤左近將監〔平出弥三郎。綿貫次郎三郎相從。〕・關判官代・平三郎兵衞尉・南條七郎・安東藤内左衞門尉・伊具太郎・岳村次郎兵衞尉・佐久滿太郎・葛山小次郎・勅使河原小三郎・横溝五郎・安藤左近將監・塩河中務丞・内嶋三郎等也。京兆招此輩。皆與兵具。其後。相州。前武州。駿河前司。同次郎以下進發訖。式部丞爲北陸大將軍。首途云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿二日乙巳。陰(くも)る。小雨常に灑(そそ)ぐ。卯の尅、武州、京都へ進發す。從軍十八騎なり。所謂、子息武藏太郎時氏・弟陸奥六郎有時、又、北條五郎・尾藤左近將監〔平出弥三郎、綿貫次郎三郎を相ひ從ふ。〕・ 關判官代・平三郎兵衞尉・南條七郎・安東藤内左衞門尉・伊具太郎・岳村次郎兵衞尉・佐久滿太郎・葛山小次郎・勅使河原小三郎・横溝五郎・安藤左近將監・塩河中務丞・内嶋三郎等なり。京兆、此の輩を招き、皆に兵具を與へ、其の後、相州・前武州・駿河前司・同次郎以下。進發し訖んぬ。式部丞は北陸大將軍として、首途(かどで)すと云々。

[やぶちゃん注:人物同定をやり始めるとエンドレスになるので、ここでは姓名同定のみとし、同定には新人物往来社の貴志正造「全訳吾妻鏡」に補注するもののみに従った(以下同じ)。基本、表記が全く同じ場合は既出分は載せない。

「北條五郎」北条実義。

「尾藤左近將監」尾藤景綱。

「關判官代」堰実忠。

「平三郎兵衞尉」平盛綱。

「南條七郎」南条時員。

「伊具太郎」伊具盛重。

「佐久滿太郎」佐久家盛。

「勅使河原小三郎」勅使河原則直。

「横溝五郎」横溝資重。]

 

□五月二十三日

○原文

廿三日丙午。右京兆。前大膳大夫入道覺阿。駿河入道行阿。大夫屬入道善信。隱岐入道行西。壹岐入道。筑後入道。民部大夫行盛。加藤大夫判官入道覺蓮。小山左衞門尉朝政。宇都宮入道蓮生。隱岐左衞門尉入道行阿。善隼人入道善淸。大井入道。中條右衞門尉家長以下宿老不及上洛。各留鎌倉。且廻祈禱。且催遣勢云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿三日丙午。右京兆、前大膳大夫入道覺阿、駿河入道行阿、大夫屬入道善信、隱岐入道行西、壹岐入道、筑後入道、民部大夫行盛、加藤大夫判官入道覺蓮、 小山左衞門尉朝政、宇都宮入道蓮生、隱岐左衞門尉入道行阿、善隼人入道善淸、大井入道、中條右衞門尉家長以下の宿老、上洛に及ばず。各々鎌倉に留む。且は祈禱を廻らし、且は遣勢を催すと云々。

[やぶちゃん注:「駿河入道行阿」中原季時。

「隱岐入道行西」二階堂行村。

「壹岐入道」先に注した葛西三郎淸重定蓮。

「筑後入道」八田知家。

「民部大夫行盛」二階堂行盛。

「加藤大夫判官入道覺蓮」加藤景廉。

「宇都宮入道蓮生」宇都宮頼綱。

「隱岐左衞門尉入道行阿」二階堂基行。

「善隼人入道善淸」三善康清。]

 

□五月二十五日

○原文

廿五日戊申。自去廿二日。至今曉。於可然東士者。悉以上洛。於京兆所記置其交名也。各東海東山北陸分三道可上洛之由。定下之。軍士惣十九萬騎也。

 東海道大將軍〔從軍十万余騎云々。〕。

相州 武州 同太郎 武藏前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱

 東山道大將軍〔從軍五万余騎云々。〕。

武田五郎信光 小笠原次郎長淸 小山新左衞門尉朝長 結城左衞門尉朝光

 北陸道大將軍〔從軍四万余騎云々。〕。

式部丞朝時 結城七郎朝廣 佐々木太郎信實[やぶちゃん注:下略。]

○やぶちゃんの書き下し文

廿五日戊申。去ぬる廿二日より、今曉に至るまで、然るべき東士に於いては、悉く以つて上洛す。京兆に於いては其の交名(けうみやう)を記し置く所なり。各々東海・東山・北陸の三道に分ちて上洛すべきの由、之を定め下す。軍士、惣(すべ)て十九萬騎なり。

 東海道大將軍〔從軍十万余騎と云々。〕

相州 武州 同太郎 武藏前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱

 東山道大將軍〔從軍五万余騎と云々。〕

武田五郎信光 小笠原次郎長淸 小山新左衞門尉朝長  結城左衞門尉朝光

 北陸道大將軍〔從軍四万余騎と云々。〕

 式部丞朝時 結城七郎朝廣  佐々木太郎信實[やぶちゃん注:下略。]

[やぶちゃん注:「交名」将軍への上申や幕府への報告のための、戦役に参加した人名を連記した文書のこと。

「同太郎」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。北条泰時の長男。当時満十八歳。嫡子で泰時も期待していたが惜しくも病いのために早世した。

「武藏前司義氏」足利義氏。]

 

 以上を以って本「○鎌倉軍勢上洛」〈承久の乱【十三】――幕府軍進発す〉を終わるが、これら複数の資料を読み比べてみると、その叙述の視点の違いや作話のポイントに非常に面白いものが感じられて、まだまだ興味は尽きないが、今回の注釈はこの辺で。――

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 海水浴場

    ●海水浴場

近年鵠沼村の海濱を以て。海水浴場に充て。紅旗を樹て之を標せり。海は遠淺にして岩石なかえれば。游浴に適せり。故に朝より麥藁帽子をまぶかにいたゞき。單衣に兵兒帶をしめたる婦人各々旅館を出て相伴ふて此處に來る。背後より見れば。男子に異ならず。故に初游の客(かう)は輕しく。辭(ことば)をかけ。そのふりむくを見て始て婀娜(あな)たる顏(かんばせ)を拜(はい)し。一驚を喫することあり。此等の風俗は東京にては絶えて見ることを得ざるもの。こればかりにても來游の價値あり。

沙濱には。葭子(よしず)をかけて茶亭を搆(かま)へ。菓子幷にラムネ等を鬻ぐものあり。全く浴客(よくかく)の愛顧を待(まつ)て。其の日を送るなり。薄暮客散するの後。諸具を收めて去る。それより旭の富士山に映じて紫色を生するに至る間は。茶煙(ちやえん)影(かげ)なくして。全く群蟹の游戯場たり。

[やぶちゃん注:ウィキの「片瀬西浜・鵠沼海水浴場によれば、『明治中期までは海岸一帯は地曳き網の漁場があったのみで、無人地帯だった』とあり、これはE.S.モース「日本その日その日」にも挿絵入りで描かれている(これは明治一〇(一八七七)年の夏の情景である。リンク先は石川欣一訳の同書の「第七章 江ノ島に於る採集」の地引網見学の一コマ。私の評釈付きテクストであるので是非ご覧あれ)。これは『江戸時代、幕府の相州炮術調練場(鉄炮場)だったからである』。明治二〇(一八八七)年の鉄道開通を見越して、地元有力者の手で海岸の開発が企てられ、明治一九(一八八六)年七月十八日に早くも『腰越の漢方医三留栄三の提唱で「鵠沼海岸海水浴場」が開設される。ところが、海水浴場開きの当日、三留医師は飲酒後に海に入り、急死したという』。『海水浴客受け入れのために旅館「鵠沼館」が開業し、数年の間に「対江館」、「東屋」も開業した。また、鵠沼南部の農家の中には、貸別荘風の家作を建てるものも現れた』。明治三四(一九〇一)年の夏には、画家の『川合玉堂が対江館に来遊し、『清風涼波』の絵巻を制作し』ており、これによって『明治時代の海水浴の風俗を知ることができる。一方、この頃鵠沼で少女時代を送った小説家内藤千代子は、海水浴場の賑わいと「板子乗り」の楽しさを描いている』。明治三五(一九〇二)年九月一日、『江ノ島電氣鐵道が開通し、鵠沼海岸別荘地の開発が本格化すると共に、海水浴場へのアクセスも改善された。しかし、明治、大正期の海水浴は、旅館や別荘に滞在するのが一般的だった』。少しだけ先のことを述べておくと、大正一二(一九二三)年九月一日の『大正関東地震(関東大震災)による地盤の隆起は鵠沼海岸で約』九十センチメートル『と想定され、大幅な海退により砂浜の面積が拡がった』とある。現在もここは『日本最大の集客力を誇る海水浴場である』と冒頭にある。 「婀娜(あな)」はママ。「あた」「あだ」の誤植であろう。

「葭子(よしず)」のルビは「よんず」としか読めないが、流石にこれは訂した。]

中島敦 南洋日記 十一月二十二日

        十一月二十二日(土) 晴、

 快晴、稍風強く、藍碧の海色鮮か。七時半小川屬の出迎を受け上陸、直ちに支庶出張所に到り、所長に挨拶、小川氏と共にロタ神社に參拜、背後の鍾乳洞を見る。最近は防空壕として優に千數百名を容るべしと。巡査部長の空官舍に落着く。午睡。街に出て見る。廣く白き道。枯れ椰子。牛多し。山羊。鐡道。砂濱。濤。風爽か。今川燒も、すしも、バナナも買へず、歸る。晝食後(すぢ向ふの食卓にて)午睡。二時半、再び小川氏と共にタタッチョなるチャムロ部落に向ふ。徒歩。右側は白堊質の懸崖、左は峻嚴累々たる所謂ロタ松島の海。頗る快き散歩路なり。部落の入口の墓地。椰子葉葺、或はトタン葺の、木造チャムロ住宅、廣き砂濱道の左右に遊ぶ。公學校に行く。校長と語り、明日の打合をなし、四時半、トラックに乘せて貰つて歸る。落日海に沈まんとし、枯椰子の蕭條たるに、燃ゆるが如き橙紅の落輝を注ぐ。夜の食卓は雞のすき燒なり。パラオの食堂に優ること萬々。食後、國民學校訓導茨木(?)氏の宅に行きラヂオを聞き、オレンヂを喫す。

[やぶちゃん注:「チャムロ部落」チャモロ族(Chamorro)の村。チャムロとも表記するようだ。彼等はミクロネシアのマリアナ諸島の先住民で、チャモロはスペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉である。チャモロ以前は外部に対しては彼等は「タオタオ・タノ」(土地の人)と自称していた。本島には紀元前三千年から東南アジア系の移住民が住み着いたと考えられており、その人々が今日の先住民チャモロ人の祖先とされており、そのことを裏付ける遺跡がラッテ・ストーンである(ラッテ・ストーン (Latte stone)はグアム・サイパンなどマリアナ諸島に見られる珊瑚石で出来た石柱群で、九世紀から十七世紀にかけて作られたチャモロ人の古代チャモロ文化の遺跡。古代のマリアナ諸島の王「タガ」にちなみ、タガ・ストーン(Taga stone)と呼ばれることもある。北マリアナ諸島の旗にも描かれている)。スペイン人との接触がある十七世紀以前は四万人から六万人の人口を保持していたが、一七一〇年の人口調査ではグアム島とロタ島の人口は三五三九人に激減していた。人口激減の背景には、スペイン人による殺戮や、天然痘などの疫病があるとされている。労働者確保のためメキシコ人やフィリピン人を移住させる政策を積極的に採ったことにより、彼らとの混血化が進み、純粋なチャモロ族はすでに存在しないと言われているが、チャモロ語については、公用語の英語とともに広く使用されている(以上はウィキの「チャモロ人」及び「ラッテ・ストーン」を参照した)。

「白堊質」白亜。堆積岩の一種であるチョーク(chalk)。白色又は灰白色の軟らかい石灰岩で、珊瑚などの生物起源の炭酸カルシウムから成る。白亜紀の地層として知られ、ドーバー海峡の断崖の露頭が知られる。]

萩原朔太郎 短歌三首 明治三六(一九〇三)年十一月

はかなみて投げにし戀のおもかげの悲愁(ひしう)さそひて來るゆふべかな

かよわくて御國(みくに)はぐくむ歌もなし身は孤獨(ひとり)にてようる胸もなし

湧きむるもひとたび冷えし胸の血のゆらぎなればか詩はいたいたし

[やぶちゃん注:『明星』卯年第十一号・明治三六(一九〇三)年十一月号の「紗燈涼語」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。因みに朔太郎の誕生日は十一月一日である。]

秋の かなしみ  八木重吉

 

 

わがこころ

 

そこの そこより

 

わらひたき

 

あきの かなしみ

 

 

あきくれば

 

かなしみの

 

みなも おかしく

 

かくも なやまし

 

 

みみと めと

 

はなと くち

 

いちめんに

 

くすぐる あきのかなしみ

鬼城句集 冬之部 氷

氷     斧揮つて氷を碎く水車かな

      石段の氷を登るお山かな

2013/12/29

なにか知らねど 夢みるひと(萩原朔太郎)

 なにか知らねど

         夢みるひと

なにか知(し)らねど泣(な)きたさに
われはゆくゆく滊車(きしや)の窓(まど)
はるばると
きやべつ畑(ばたけ)は日(ひ)に光(ひか)り
風見(かざみ)ぐるま
きりやきりゝとめぐる日(ひ)に
われはゆくゆく滊車(きしや)の窓(まど)
なにか知らねど泣きたさに

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年九月三十日附『上毛新聞』に上記の筆名で発表された。萩原朔太郎満二十七歳。]

中島敦 南洋日記 十一月二十一日

        十一月二十一日(金) 晴

 波靜か、午後二時過、右舷に低きグワム/正面に高きロタの島影を見る。午後六時ロタ入港、すでに暗し。高原狀をなせる山塊と絶壁とのシルエット面白し。船上より見れば燈火點々。何か幻怪味を帶びたり、時に山上にも明滅す。支廳のランチ來る。宿舍の都合惡しとて、今一夜を船中に明す。夜十時頃より事務長、月田氏高柳氏等とポーカー、雜談、一時に到る。

[やぶちゃん注:「ロタ」現在のアメリカ合衆国自治領である北マリアナ諸島の島。北にテニアン島、南にはアメリカ合衆国準州であるグアム島がある。面積は八十五平方キロメートルで、参照したウィキの「ロタ島」によれば、『中央部がくびれた形をしており、それを境に東部は平坦な地形をしている。一方、西部はサバナ高原やタイピンゴット山など起伏に富んで』おり、『スコールが多いため、サバナ高原には地下水が溜まり、水質も良いことから飲料水として利用されている。日本統治時代、清らかな水と湿潤な気候という好条件に恵まれたサバナ高原の麓に醸造所が建設され、日本酒「南の誉」が生産されていた』。『太平洋戦争中、米軍の攻撃をあまり受けなかったため、サイパンやテニアンとは異なり、島全体に原生林が多く残』る、とある。第一次世界大戦中の一九一四年に、『大日本帝国軍が赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領したことにより支配権は日本に移り』、大正九(一九二〇)年には『国際連盟の委任統治領となる』。『ロタはサイパン、テニアンに比べ島の開拓が遅れ』、昭和九(一九三四)年当時でも在住する日本人はわずか千人余りであった。それでも翌年十二『に製糖工場が完成し、砂糖の生産が開始された。しかし、砂糖の生産はうまくいかず、製糖工場は3年余りで操業停止してしまう』。『太平洋戦争中は、ロタでは地上戦は行われず、周辺から孤立した状態に置かれた』が、昭和一九(一九四四)年になると『守備隊が増強され、最終的に海軍2000名(第五六警備派遣隊、設営隊、航空隊基地要員)、陸軍950名に至』った。『この阿部大尉が海軍部隊の指揮官となり、ロタは日本本土空襲に向かうB―29爆撃機の機数・方位を無線で警告する役目を担った』 という。『設営隊がいたため、大工、鍛冶屋、理髪、縫製などの専門家に事欠かず、演芸部も編成され、毎日のように空襲を受けながらも比較的平穏な日々が続いた』が、昭和二〇(一九四五)年九月二日、「ミズーリ」上『で行われた日本の降伏調印式より1時間遅れた午前11時、局地降伏調印式が行われ』ている。『戦後は国際連合によるアメリカ合衆国の信託統治領となり、1978年以降はアメリカ合衆国の自治領とな』ったとある。

 同日附中島たか宛書簡が残るので、以下に示す。

   *

〇十一月二十一日附(消印ロタ郵便局一六・一一・二四。パラオ島コロール町南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。)

 十一月十七日。今日から、第二の旅が始まる。午後一時半乘船。近頃は、般の出入の日日(ヒニチ)や時刻(コク)が中々はつきり知らせて貰(モラ)へないので困る。乘客(ジヨウキヤク)にさへ、二三日前までは、分らないのだから、實に不便(ベン)だ。何といふ船が、何日に出帆(パン)するといふだけの事(コト)さへ、葉書に書いてもいけないし、電報に打つてもいけないんだ。全部祕密(ヒミツ)にしなければいけないんだ。まるで戰時狀態だね。

 所で、僕の旅の出發は寂しいものだ。一人の見送もない。センの旅行の時は、谷口君といふ(課は違ふが)横濱からサイパン丸で同船室だつた靑年が荷物を持つて送つて來てくれたが、今度は、谷口君がチモールといふポルトガルの領地へ出張してゐるので、全くの見送なし。普通は誰でも旅行するとなれば、同じ課の者が澤山、荷物をもつたりして送つてくれるのだが、僕の場合は、そんな事をしてくれる者は一人もない。役所に於ける僕の不人氣は之でも分るだらう。僕も別に彼等の氣に入らうと務(つと)めもしない。誰もつきあふ者がなくても、却(カヘ)つて、うるさくない位に考へてゐる。しかし、かうハツキリと反感を示されると、さすがに一寸不愉快だね。全く役所つて、イヤな所さ。東京あたりの中央の役所はね、役人のタチが何といつても高級だから、話が分るんだがこちらの役人連と來たら、大抵は中學を出てから、直ぐつとめて、二十年も三十年もつとめ上げたといふ樣なのが多い。僕は別に學歷(レキ)の低いのを輕蔑(べつ)しはしないが、さういふ人達は、とかく、僕のやうに途中からはいつて來て、若いのに、自分達の上に坐る者に、どうしても反感を持つらしいんだ。(僕等は、こんどの南洋廳行を、ずゐぶん、ひどい低い小役人になりさがつたと思つてゐるのに――げんに、釘本なんか、はじめ此の話があつた時、高等官ぢやないから問題にならないと思つて、僕には、(はじめは)話さなかつた位だのに來て見ると、地方課の中では、課長の次に、僕がサラリーを澤山多く取つてるんだとさ。あきれちまつたな)そんな始末(シマツ)で、役所の中は、面白くない事だらけさ。それに今は編纂(ヘンサン)といふ仕事にも、全然(ゼンゼン)興味はなくなつたし、パラオは喘息に惡いし、僕が南洋廳にゐて良いことは一つもない。あゝ、不愉快! 旅に出てセイセイするよ。午後四時出帆。この山城(シロ)丸はパラオ丸にくらべると大分古くて設備(セツビ)も惡い。その代り船貸も安い。パラオの港は中々景色が良い。木の靑々と茂つた小島が澤山あつて丁度、松島のやうだ。山城丸はそのパラオの港を出てから暫くすると停(とま)つて了つた。とまつた儘(ママ)夜中までヂツとしてるんだといふ。之はね、この船は速力のノロイ船なのでヤップ迄一晝夜で行けないんだ。(サイパン丸やパラオ丸なら二十二時間位で行く)、それで、パラオを午後四時に出て行くとヤップ着が、明日の夜になつてしまふんだ。それではマヅイので、ここでしばらく休んで、明後日の朝ヤップに着くやうに、時間の加減(カゲン)をしてるんだよ。南洋の島の周圍(マハリ)には、珊瑚礁(サンゴセウ)がとりまいてゐて、るので、その珊瑚礁の割れ目をうまく通つて港にはいるのだから、夜では、あぶなくて入港できないんだよ。これは南洋の何處の島でも同じことだ。

 僕の隣の部星に月田一郎といふ映畫俳優がゐる。中々氣持のいい男だね。

 十一月十八日。一日中波は靜か。甲板(カンパン)の寢椅子にひつくりかへつて、萬葉集(マンエフシフ)(日本で一番古い和歌の本だよ。千年以上前)を讀んだ。その中には、妻に別れて遠く旅する(或ひは戰に行く)者の歌や、あとに殘つた妻のよんだ歌が大變多いので、身につまされるよ。千年前の歌とは、どうしても思へない。今、オレが、この山城丸の上で、詠(よ)んだといつても、それで通用(ツウヨウ)しさうな歌が澤山ある。

 十一月十九日。朝、ヤップ入港、ここは歸りに十八日間も滯在する所だが、今日は一寸上陸して、支應へ挨拶に行つただけ。全く、ここの土人だけは、はかの島とすつかり變つてゐるよ。

 オレの部屋は四人はいる室なんだが、今は二人で占領してゐる。相手の客は目方が丁度オレの倍ある請負(ウケオヒ)師だ。東京の人間で話が大變うまい。久保田万太郎の友達で、俳句をやるといふ。昨日も書いたが隣の部屋の月田といふ俳優は、全く感じの良い男だなあ。少しもすれた所がないぜ

 言葉や態(タイ)度もテイネイでね。但(タダ)し、僕は、日本の映畫を殆ど見てゐないので、彼が、映畫界で、どの程度の位置にゐるのか、知らない。彼の出る映畫を一つも見てゐないので、演技がうまいかどうかも、知らない。南洋へは、ロケーションに來たんださうだ。その映畫は三月頃封切になるだらうといふ。「南方の花海の花束(タバ)」とか何とかいふ題ださうだ。パラオ(といつてもコロールではなく、隣(トナリ)のパラオ本島)が出てくるそうだから、お前達、都合が出來たら、見てこいよ。もつとも、まだまださきの話だがね。はじめ封切の時なんか見に行つちや、こんでて大變だから、二・三週間たつて世田谷近くの、映書館にでも來た時、行つたら、いいだらう。格がゐるんだから、無理に行けといふわけぢやないが。

 十一月二十日。一日中海の上。海は相愛らず穩(オダヤ)か。時々スコールがあるだけ。麻雀・將棋・雜談・晝寢・それだけで一日暮れる。

 十一月二十二日。今日も昨日と同じ。たゞ、今日の夕方ロタにつく豫定。オレはロタで下りて、二日或ひは三日滯在して、次の船を待つんだ。ロタはね、アメリカ領のグワム島とほんの少ししか離れてゐないんだ。だから日米の間がイザとなれば、この邊は、あぶない所さ。(これまで午後一時)

(以下―→午後三時)今、船の右の方にグワム島が、船の正面にロタ島が見えて來た。二つの島は隨分近いなあ。あと三時間ぐらゐで、ロタの港に着くだらう。あとは。ロタの島で書く。

   *

 地方官吏気質への不満は、恰も「山月記」の李徴のそれを思い出させる。

「釘本」釘本久春(明治四二(一九〇八)年~昭和四三(一九六八)年)は国語国文学者。東京出身。東京帝国大学国文科卒。中央大学教授から文部省国語課長となり、戦後の国語改革や国立国語研究所の創設に参与した。昭和三五(一九六〇)年、東京外国語大学教授。在職中に死去した、とウィキの「釘本久春」にあるが、この大学の卒業年を昭和四(一九二九)年とするのは不審である。以前にも注したが、敦の一高時代の旧友で手紙にも書かれてあるように、この当時は文部省図書監修官であり、敦の南洋庁への就職は彼の斡旋によるものであった。

「月田一郎」既注。映画も含め、十一月十七日の私の注を参照のこと。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 37 貨幣計算器

 両替屋は、うまい仕掛で素速く銭を数える。彼は柄のついた盆を、細い条片(すじ)で各列に十個の区分のある十個の列の四角にわけた物を持っているが、条片の厚さは彼が勘定しようとする貨幣の厚さと同じであり、各種の貨幣に対して、それぞれ異った盆が使用される。一例として五ドルの金貨一つかみを盆の上に落し、それを巧みに振り動かすと、空所は即座に充され、貨幣は充された空所の上を、辷って空いた所へ入り込む。両替屋は貨幣を十ずつ数え、同時にそれ等を瞥見して、偽物があるか無いかを見る。この仕掛は銀行や両替事務所で使用される。

[やぶちゃん注:「木工教室探検隊」氏のブログのお金を数える道具に高知県馬路村で見たそれに類した道具の映像があるのを見つけた。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 引地川

    ●引地川

當郡の東上草柳村より出(いで)て。南流して福田、長後、上土棚等の諸村を經て。蓼川と合し。圓行村に入り、石川、大庭村等に係り東海道藤澤驛の西を横切きり。當地に至りて海に入る。川名は鵠沼の小名引地に係るを以て起るといふ。石川村の邊既にこの名を呼べり。夫(それ)より上流は長後川、土棚川、圓行川、抔各所の地名を以て名とすといふ。

[やぶちゃん注:河川全長は二一・三キロメートル。

「上草柳村」は「かみさうやぎむら(かみそうやぎむら)」と読む。現在の大和市上草柳。洪積台地である相模野台地中央部に位置し、ここの現在の泉の森公園が引地川の水源地(小田急線大和駅から北西へ約一・五キロメートルの位置)。

「福田」現在、大和市。

「長後」現在、藤沢市。

「上土棚」は「かみつちだななか」と読む。現在の綾瀬市上土棚中。引地川は現在の藤沢総合高等学校(私の最後の勤務校であった)の直近部分で、凡そ一五〇メートルだけ現在の綾瀬市内(ここで南西に少しだけ市域が藤沢市側に突出している)を通る。

「蓼川」は「たてかは(たてかわ)」と読む。

「圓行村」は「ゑんぎやうむら(えんぎょうむら)」と読む。現在の藤沢市円行。多摩大学湘南キャンパス附近(小田急線六会日大前駅の西北西約一キロメートル)。

「石川」円行村から数百メートル下流にあった村。現在の藤沢市石川。

「大庭村」現在の藤沢市大庭。小田急線善行駅の西南西約一キロメートル強の同所引地川沿いには現在、引地川親水公園が造られてある。

「川名は鵠沼の小名引地に係るを以て起るといふ」ウィキの「引地川」によれば、『河川名の由来には諸説があるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って河道を付け替えたことによるという説が有力である。かつては場所により長後川、大庭川、清水川、堀川などの名称で呼ばれていた』とあるから、これは地名の先行ではなく、人工的に砂丘を開鑿して、則ち、「地」面を「引」き割って河口を作った「川」という謂いになる。上流に行くに別名が古く残ることからも、この説は正しいと思われる。]

萩原朔太郎 短歌九首 明治三六(一九〇三)年十月

淋しさに歌はなりてきしかはあれど春の一人を戀ひむよしもなし

 

幾度か草に伏したる一人ぞや後よりかへせ馬頭觀音

 

君は去りぬ殘るは吾と小さき世の月も月かは花は花かは

 

朝の戸に倚ればかつ散る緋芍薬うしとも見たる雲のみだれや

 

天地に水ひと流れ舟にして我もありきと忘るべしや夢

 

み歌さらになつかしみしたひつゝ忘れかねては行く萩が原

 

大空の物の動きとめざめては秋ぞこの子をよみがへらする

 

さぼてんの花よりひくき夏の雲物憂と人にせまる無聊や

 

たゆたひし夢さへ遂に力なくたえむとあらば戀はうせぬべし

 

[やぶちゃん注:『文庫』第二十四巻第三号(明治三六(一九〇三)年十月発行)に「上毛 美棹」名義で掲載された九首。萩原朔太郎満十六歳。太字は底本では傍点「〇」、傍線は底本では傍点「ヽ」である。但し、これらは選者服部躬治(既注済)が附した圏点と考えられる。以下、初出に附された服部の選評を示す。

 三首目「君は去りぬ」は歌の後に、

  情念は可し、四五、駢儷、却て自ら弱む。

とある。「駢儷」は「べんれい」と読み、四六駢儷体、四六文のこと。本来は漢文の文体の一つで四字又は六字の句を基本として対句を多用して句調を整えるとともに各所に典故を配した華麗典雅な、六朝から唐にかけて流行した美文。本邦でも奈良・平安期の漢文に多く見られる。ここは単に構造上の対句表現の畳みかけを難じている。

 全字に圏点「〇」を附した五首目「天地に」の後には、

  意を展ぶる濶達、調を諧するに悠舒、感興の大なるなり。

とする。「悠舒」はゆったりとして伸びやかなさま。

 同じく全字に圏点「ヽ」を附した七首目の「大空の」には、

  巧緻なり、然れども巧緻弄せず。意趣油然たり。

と絶賛する。「油然」とは盛んにわき起こるさま、心に浮かぶさまをいう。個人的には「天地に」の方が確かに「巧緻」で上手いとは思うが、前者の青年らしい感傷の方が私には好ましい。他の評、圏点の違いからは服部も前者をより評価しているように私は思う(そもそも他の評にもあるように修辞的な巧緻性は服部には二の次であったように思われるからでもある。

 第八首「さぼてんの」には、

  上句風趣あり、下句興會なし。ありといへどもそれに伴ふ語と調となし。

と難ずる。「興會」とは聞き慣れぬ語であるが、「きようゑ」と読むか。興感、上句が醸成した感懐を下句の文字言辞に於いて引き出すところの共感的出逢いといったニュアンスであり、この評には大いに同感するところである。]

貫(つら)ぬく 光  八木重吉

 

 はじめに ひかりがありました

 

ひかりは 哀しかつたのです

 

 

ひかりは

 

ありと あらゆるものを

 

つらぬいて ながれました

 

あらゆるものに 息(いき)を あたへました

 

にんげんのこころも

 

ひかりのなかに うまれました

 

いつまでも いつまでも

 

かなしかれと 祝福(いわわ)れながら

 

[やぶちゃん注:「祝福(いわわ)れながら」のルビ「いわわ」はママ。]

鬼城句集 冬之部 冬川

冬川    冬川に靑々見ゆる水藻かな

 

      舟道の深く澄みけり冬の川

2013/12/28

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 鵠沼総説

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より「鵠沼・逗子・金澤」の部

 

[やぶちゃん注:以下に電子化するのは明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊第百七十一号「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(表紙標題では「江島」が「名所圖會」と同ポイントで、「江島」の下にポイント落ちで「鵠沼」「逗子」「金澤」の三箇所が右から左に横に並ぶ。見開き目次標題では右に「江島、鵠沼、」が、左に「逗子、金澤」が二行で並んでポイントが大きい「名所圖會」が下に続く。本文開始大見出しもこれに同じである。向後は私の趣味で上記の標記を以って本書の標題を示すこととする)。発行所は、『東京神田區通新石町三番地』の東陽堂、『發行兼印刷人』は吾妻健三郎(社名の「東」は彼の姓をとったものと思われる)。

 「風俗画報」は、明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌で、大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特にこの「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言えよう。そのシリーズの一つとして、この百七十一号発行の遡ること一年前の、明治三〇(一八九七)年八月二十五日に、臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)というものを刊行していた。ところがこれは「江島」と名打っておきながら殆んど鎌倉のみを扱っており、僅かに江の島の本文は二頁強、稚児が淵と旅館金亀楼の図に小さな江の島神社の附図があるだけであった(他に口絵の「七里ヶ濵より江の嶋を望むの圖」に江の島が遠景で描かれている)。そこでその不備を補うために出されたのが、この「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」であった。

 挿絵の原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷、山本昇雲(明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年:本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に挿絵の追加公開をしたいと考えている。

 底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用い、視認してタイプした。読みについては振れると私が判断したもの以外は省略した。濁点や句点の脱落箇所が甚だ多いがママとした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文漢詩の引用の部分は本文には訓点(底本では返り点のみ打たれている)を省略して白文で示し、後の注で我流の書き下しを示した。大項目及び小項目見出しのポイントの違いはブログ版では無視して総て同ポイントで示した。ポイント落ちの割注は〔 〕で本文と同ポイントで示した。傍点「●」はブログ版では太字で示した。今回は各段落ごとに注を附し、その後は一行空けとした。これらは私の鎌倉地誌の範疇に含まれない(特に鵠沼は殆んど歩いていない)のでとんでもない注を附すかも知れないので、誤りを見出された方は是非、ご連絡を戴けると幸いである。【ブログ始動:2013年12月28日】]

 

   ◎鵠沼地方の部

   〇鵠沼

鵠沼今之(いまこれ)をクゲヌマといふ。クヾヒヌマの略稱なり。風土記には正しく久久比奴末と訓(くん)せり。

[やぶちゃん注:以下、「多しといふ。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

因みに云。クヾヒ今之を白鳥といひ。又コブともいへり。秋冬田澤に多し。其の形雁より大(おほき)く。鵞鳥に似たり。全身白くして光り。頸甚た長く。喙の本額に近く。赤き瘤(こぶ)あり。喙は黑楬にして。脚(あし)は淡黑なり聲大く。脂極めて多しといふ。

此の鵠の字。俗人には讀みにくき故。旅館などにては大に困却し居るよし。然れども古き名なれは。俄かに改め難しといへり。

其の地は。相模國高座郡に屬し。江島より僅かに十二町にして村端に達す。砂濱に沿ふて行けは。小蟹郭索として健歩す。人之を逐へは。その疾(はや)きこと飛ぶがごとく。忽ち穴に入りて其の影を失ふ。亦一興なり。

[やぶちゃん注:「十二町」一・三キロメートル。これは江の島島内を起点とした距離と思われる。

「郭索」(かくさく)は正に蟹がカサカサと動くさまを示す語。何も鵠沼海岸が砂蟹の名所な訳でもなんでもない。この部分、書き出しで退屈させないように筆者が相当に気を使って書いている感じが歴然としている。]

 

新編相模國風土記に云ふ。小田原北條氏の頃は。岩本太郎左衛門知行す。役帳に岩本次郎左衛門七十三貫七百六十七文東郡鵠沼と載(のす)。今御料地延寶六年八月。成瀨(なるせ)五左衛門検地す。外に新田三所あり。其一は享保七年墾闢し。日野小左衛門改め。其の二は寶曆七年の墾闢にして志村多宮検地す。其餘(そのよ)は布施孫之進か采地にして、延寶七年十一月先祖孫兵衛検地し。其の後開墾の地あり。元文元年以來新田知行となる。村内空乘寺領九石交れり。空乘寺傳に。大橋重政采地の内を割(さい)て寺領を寄進すと云ふ。重修譜に據(よ)るに。重政が父長左衛門重保。元和(げんな)三年三月召出(めいいだ)され。後相模國高座郡にして采地五百石を賜ふと見ゆ。此地其頃は重保か知る所なり。東海道村の北境(ほくけう)を通ず〔幅四間〕村民農隙には魚獵(ぎよれう)を專らとす〔船役永錢を納む〕此邊松露初茸を産せり。海岸に砲術場あり。享保年中御用地となりしと云ふ。」

[やぶちゃん注:最後の『」』の始まりはない。

「岩本太郎左衛門」(生没年不詳。「衛」はママ)後北条家家臣で御馬廻衆の一人。相模東郡鵠沼の他、相模国三浦郡平佐久村(九十六貫六百文)・武蔵国川越郡須奈村(十六貫八百文)、鵠沼の分と合わせて計百八十七貫百六十七文を知行していた。彼については「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「岩本定次知行地」が詳しい。

「延寶六年」西暦一六七八年。

「享保七年」西暦一七二二年。

「新田三所」この新田開発については、やはり「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「初期新田開発」に詳しく、それによれば「新田」と言っても田圃であったわけではなく、特に『鵠沼新田の場合、砂丘間低湿地のように、よほど地形的に恵まれていない限り、水田開発は行われなかったと思われる。そのほとんどは麦類や雑穀、野菜類を栽培する普通の畑地だったに違いな』く、これは『保水力のない洪積台地の相模野や武蔵野の新田開発も同様である』と解説され、更に『17世紀後半から18世紀前半に至る鵠沼新田は、現在の鵠沼橘二丁目の旧小字新田に集落があり、耕地はおそらく現在の藤沢駅南部から鵠沼中学校あたりと思われ』、『新田を開発した人々は、鵠沼本村すなわち大庭御厨以来の伝統を守る皇大神宮の氏子集落からの出村ではなく、全く別の地域から集められたに違いない。』『なぜなら、名主=平本家をはじめ、滝澤、八木、杉浦(2軒)、関野、吉澤と、本村と共通する姓がないからである』と記しておられる。

「新田知行」という語は、前注の渡部瞭氏の解説から推すと、知行といっても耕作地はこれから開発しなければならず、恐らくは土地も痩せた荷厄介な知行地であることが分かる。

「空乘寺」藤沢市鵠沼に現存する真宗高田派の金堀山空乘寺。寺伝によれば延宝五(一六七七)年に入滅した僧了受が江戸初期に開山創建したと伝えられる。空乗寺の朱印地は鵠沼字石上にあったため、石上の渡し(石上から片瀬村字大源太岸への船渡し)は空乗寺が支配した(ウィキの「空乗寺」に拠る)。

「大橋重政」(元和四(一六一八)年~寛文一二(一六七二)年)は江戸前期の武士にして書家。大橋重保長男。通称は小三郎、長左衛門。書を父重保(次注参照)及び青蓮院尊純法親王に学び、大橋流として広めた。江戸牛込(またはこの鵠沼村)で生まれた。幼少時より、右筆であった父の重保に書を学び、十歳で将軍家光に御目見えし、十四歳で早くも家光の右筆となった。寛永一〇(一六三三)年に父重保が病により右筆を辞したため、翌寛永十一年に大橋家家督を継いで、同時に幕府の右筆吟味役となった。次期将軍の家綱の手本も書いている。手本に「菅丞相往来」など。重政の書については父の重保も一目置いており、光松山放生寺の縁起二巻を撰した際も書は重政に任せている。一方、重政も重保を深く慕っていたと思われ、龍慶寿像製作を発願、彫刻を藤原真信に依頼し、自らは撰文をしたためて、郷里の誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置した(この像は廃仏毀釈の際、三宅村(現在の大阪府松原市)の大橋家に戻され、後に松原市に寄贈されて現存する)。慶安二(一六四九)年には鵠沼の采地の内、石上付近の九石余りを空乗寺に寄進して将軍家光より御朱印を賜り、後にその労により賞を受けている。死後は龍性院殿道樹居士として空乗寺に葬られた。直後に所領は上知されて幕領となって大橋家と鵠沼の縁は終わったが、三十三回忌に墓所は二人の息子によって整備され、現在、藤沢市文化財史跡に指定されて現存する。彼は今日まで続く書道流派大橋流の創始者として慕われていると参照したウィキの「空乗寺」に書かれてある(以上の一部は講談社「日本人名大辞典」も参考にした)。

「重政が父長左衛門重保」武士にして書家。ウィキの「空乗寺」によれば、『江戸初期、布施家と鵠沼村を二分して知行地とした旗本大橋家は、幕府の右筆を務め、書道「大橋流」の始祖とされる』とあり(以下では一部は講談社「日本人名大辞典」も参考にした)、大橋重保(龍慶 天正一〇(一五八二)年~正保二(一六四五)年)は河内国志紀郡古室村(現在の大阪府藤井寺市)生。通称は長左衛門。父左兵衛重慶は豊臣秀次に仕えていたが、天正一二(一五八四)年の小牧・長久手の戦いで戦死、勝千代(大橋重保の幼名)は三歳で伯母に引き取られ、幼くして京都南禅寺に入り、金地院崇伝に禅僧流の書の教えを受けた。元服後、長左衛門重保を名乗り、片桐且元に従った後、三十一歳の時に豊臣秀頼の右筆となった。大坂の陣では徳川方についたものの負傷、大坂落城後は徳川秀忠の右筆、家光の御伽衆(おとぎしゅう)を勤めた。寛永一〇(一六三三)年に剃髪して法印となった。江戸で入寂。茶道は小堀遠州の弟子であった。豊臣氏滅亡により浪人した際に江戸に出、元和三(一六一七)年に秀忠に旗本に召し上げられたが、その際、鵠沼村・大庭村を合わせて采地五百石を賜っている。鵠沼村の村高は約六百石で、後にここを采地として賜った布施家が約三百石弱だから、大橋家采地の鵠沼村分は三百石強だったと考えられる。なお、新編相模國風土記稿や第二十四世慶龍は、永禄年間にこの空乗寺創建の際の開基とされるが、永禄は重保の誕生前で、龍慶が開基というのが事実なら、空乗寺の創建は一六三三年以降、一六四五年以前でなければならない。あるいは、空乗寺としては後に大橋家采地の内の九石を寺領として寄進された経緯から、出家した大橋龍慶に敬意を表したのではないだろうか、とウィキでは推測している。

「農隙」は「のうげき」と読む。農作業の合間。農事の暇(ひま)。農閑期。

「村民農隙には魚獵を專らとす」この漁業については、やはり「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「鵠沼浦の漁業」に詳しい。

「船役永錢」「ふなやくえいせん」と読むと思われる。「永錢」は穎銭で、穀物の代わりに税として納めた銭を指す。ここは漁師として儲けた金額から支払う就労税を言うものと思われる。

「松露」菌界ディカリア亜界 Dikarya 担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ Rhizopogon roseolus。以下、ウィキの「ショウロ」によれば、『子実体は歪んだ塊状をなし、ひげ根状の菌糸束が表面にまといつく。初めは白色であるが成熟に伴って次第に黄褐色を呈し、地上に掘り出したり傷つけたりすると淡紅色に変わる。外皮は剥げにくく、内部は薄い隔壁に囲まれた微細な空隙を生じてスポンジ状を呈し、幼時は純白色で弾力に富むが、成熟するに従って次第に黄褐色ないし黒褐色に変色するとともに弾力を失い、最後には粘液状に液化する』。『胞子は楕円形で薄壁・平滑、成熟時には暗褐色を呈し、しばしば』一、二個の『さな油滴を含む。担子器はこん棒状をなし、無色かつ薄壁、先端には角状の小柄を欠き』小、六~八個の胞子を生ずる。『子実体の外皮層の菌糸は淡褐色で薄壁ないしいくぶん厚壁、通常はかすがい連結を欠いている。子実体内部の隔壁(Tramal Plate)の実質部の菌糸は無色・薄壁、時にかすがい連結を有することがある』。『子実体は春および秋に、二針葉マツ属の樹林で見出される。通常は地中に浅く埋もれた状態で発生するが、半ば地上に現れることも多い。マツ属の樹木の細根に典型的な外生菌根を形成して生活する。先駆植物に類似した性格を持ち、強度の攪乱を受けた場所に典型的な先駆植物であるクロマツやアカマツが定着するのに伴って出現することが多い。既存のマツ林などにおける新たな林道開設などで撹乱された場所に発生することもある』。『安全かつ美味な食用菌の一つで、古くから珍重されたが、発見が容易でないため希少価値が高い。現代では、マツ林の管理不足による環境悪化に伴い、産出量が激減し、市場には出回ることは非常に少なくなっている。栽培の試みもあるが、まだ商業的成功には至っていない』。食材としての松露は『未熟で内部がまだ純白色を保っているものを最上とし、これを俗にコメショウロ(米松露)と称する。薄い食塩水できれいに洗って砂粒などを除去した後、吸い物の実・塩焼き・茶碗蒸しの具などとして食用に供するのが一般的である。成熟とともに内部が黄褐色を帯びたものはムギショウロ(麦松露)と呼ばれ、食材としての評価はやや劣るとされる。さらに成熟が進んだものは弾力を失い、色調も黒褐色となり、一種の悪臭を発するために食用としては利用されない』とある。

「初茸」担子菌門真正担子菌綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属ハツタケ Lactarius lividatus(シノニム Lactarius hatsudake )。ウィキの「ハツタケ」によれば、夏の終わりから秋の初めにかけて海岸のクロマツ林や里山のアカマツを交えた雑木林に発生する。傘の径は五~十センチメートルで、その表面は湿っている際には多少の粘りを生じる。色は淡紅褐色・淡黄赤褐色などを呈して濃色の環紋を持つ。傘下の襞は淡黄色でワインのような紅色を帯びる。柄は長さ二~五センチメートルで、表面は傘とほぼ同色。傘に傷がつくと緑青(ろくしょう)のような色に変色することから、緑青初茸とも呼ばれる(変色した個体でも食味には問題はない)。古くから食用とされており、「重修本草綱目啓蒙」にも記述がみられる。「守貞漫稿」によると、主として関東地方で食されたが、近畿地方での人気は高くなかった。「続江戸砂子」によると、現在の千葉県松戸市付近が名産地であったとする。炊き込みご飯の具や天ぷらなどの調理法があるが、良い出汁が出るため、すまし汁の実としての使用が最良とされる、とある。

「海岸に砲術場あり」相州炮術(ほうじゅつ)調練場。現在の神奈川県藤沢市及び茅ヶ崎市の海岸にあった江戸幕府の銃術鍛練場。天正一八(一五九〇)年に現在の藤沢市及び茅ヶ崎市の海岸線一帯が天領となって藤沢宿代官が管理することとなり、享保一三(一七二八)年(年)の享保の改革の一環によって幕府鉄炮方の井上左太夫貞高が鉄炮方役人の銃術鍛練の場として柳島村(相模川河口)から片瀬村までの海岸に相州炮術調練場を設置したのが始まりである。この頃、三浦郡・鎌倉郡・高座郡の村々では演習の時期になると役人の宿泊接待・力役労働・警備・伝馬などの夫役を負担させられた上、通常から戸塚宿・藤沢宿・平塚宿の助郷をも命じられて生活が困窮していたため、この炮術調練場の賦役は大きな負担となっていた。明治元(一八六八)年に鉄炮場は廃止され、跡地は一部が横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となったが、境川河口から引地川に挟まれた鵠沼村の南東部(二十五万坪余)は、大給松平家(後の大給子爵家)近道が入手、鉄道開通を機に日本初の別荘分譲地(鵠沼海岸別荘地)として開発された(以上はウィキの「相州炮術調練場」に拠る)。

「享保年中御用地となりしと云ふ」「享保年中」は西暦一七一六年から一七三五年。サイト「鵠沼を語る会」の「鵠沼地区総合年表」に「藤沢市史」第二巻に載る「御鉄炮御用宿賄帳扣」(「扣」は「ひかへ(ひかえ)」で「控」に同じい)なる記録に享保一八(一七三三)年六月十七日から七月六日まで鵠沼村他に逗留して鉄炮の試射演習が行われた旨の記事が、またその後の享和二八(一八〇二)年の項には、「藤沢市史年表」に「為取替証文之事」なる記録に、鵠沼村と大庭・稲荷・折戸・羽鳥村との間に鉄炮場御用宿賄い金滞納を巡って論争があったという記事が載る。]

 

右に記せる松露初茸は。今も尚ほ此地の名産たり。砂濱より數十間以内は。一丈ほどの小松叢生して。翠色を連(つらぬれ)れは。むかしより松露等を發生せるならむ。

[やぶちゃん注:前にも出したサイト「鵠沼を語る会」の渡部瞭氏の「鵠沼の生き物あれこれ―ゆかりの生物と外来生物―」の記載に、会誌『鵠沼』第三号に川上清康氏が寄せた「私と鵠沼」の中の一節を引かれ、関東大震災前の『頃の海は、真に椅麗で片瀬迄は砂丘と松林が続き、辻堂に近い方では防風が一ぱい採れたものである。又松林には松露を採りに行き、到る処撫子や月見草が咲き、赤い蟹が庭先や台所口をはい廻っていた』(「椅麗」はママ)とあり、渡部氏自身の記憶として、昭和二五(一九五〇)年『までは採集できた記憶がある。この年に東京に一時転居し、3年半後に戻ったら消えていた。湘南砂丘地帯の特産物として、辻堂駅の開業当時、ハマボウフウ(学名:Glehnia littoralis)と共にホームで売られたと聞く。ハマボウフウも一時姿を消し、1979(昭和54)年4月17日に伊藤節堂会員が鵠沼海岸のサイクリング道路で再発見したことが『鵠沼』9号に紹介されている。現在、辻堂の愛好者団体「湘南みちくさクラブ」が復活に熱心に取り組み、成果を得ている。藤沢宿の老舗和菓子店「豊島屋本店」では、銘菓「浜防風」が参勤交代の土産として有名で、ショウロの香りを生かした「松露羊羹」は、1914(大正3)年の大正博覧会や1922(大正11)年の平和博覧会などで金牌を獲得、葉山御用邸御用達となった。これらは現在でも製造販売されている(「浜防風」は注文生産) 』とあり。更に続けてハツタケについて、『鵠沼のクロマツ林に生える食用キノコとしては、ハツタケ(学名: Lactarius hatsudake)、アカハツ(学名: Lactarius akahatsu)も記録されているが、筆者は認識していない。マツタケ(学名:Tricholoma matsutakeS.Ito et Imai Sing.)は主にアカマツ林に生えるため、残念ながら鵠沼にはない』と記されておられる。残念ながら、現在では松露も初茸も最早、鵠沼には自生しないようである。

「數十間」一間は凡そ一・八二メートルであるから、九〇~一〇九メートル内。

「一丈]約三メートル。]

 

此地眺望最も佳絶にして。江島は手に取るばかりに見え。大磯小磯は歷々指點(してん)すべく。高麗寺山。大山、足柄、箱根、天城の諸嶺重疊して秀を競ひ奇を呈する處。富士の峯獨り高く聳えて。悠然たるの景實(じつ)にたぐひなく。千秋の積雪近くして掬(きく)すべきに似たり。

[やぶちゃん注:「小磯」現在、神奈川県中郡大磯町の大磯駅(駅の住所は大磯町東小磯)及びその西方に東小磯・西小磯の地名がある。その先が現在の大磯ロングビーチであるから、この「小磯」は大磯の手前の海岸線(大磯港及びその西部)を指すと考えてよいか。

「歷々指點すべく」はっきりと指差して示すことが出来。

「高麗寺山」平塚市と大磯町に跨る高麗山(こまやま)のこと。大磯丘陵の東端にあり、標高は一六八メートル。地元では高麗寺山とも呼ばれ、江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった(現在は廃寺)。この寺は七世紀に滅亡した高句麗から亡命してきた高麗若光なる人物を祀ったものであったとされ、寺名も山名も、そうした渡来人がこの山の近くに定住したことに由来すると伝えている。]

 

太田道灌の

  わが庵はまつはらつゝき海ちかく

       富士のたかねを軒端にぞ見る

の詠は。恰も此の鵠沼の爲めに賦したるものゝごとし。

[やぶちゃん注:本歌は例えば「江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸」では、『道灌は江戸城を築きましたが、精勝軒と呼ばれる櫓も作りました。この櫓は、現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります』として、この一首を掲げ、『この句からも、当時海岸の松原が精勝軒のすぐそばまでせまっていたことが分かります。その海岸とは、言うまでもなく日比谷入江の海岸です。そして、一望のもとに富士の雄姿が眺められる絶景の地だったことも確かなようです』と解説されてあり、他のデータでも江戸城での眺望とするものが殆んどである。まあ、筆者は「ものゝごとし」と言っている訳で、重箱の隅をほじくる必要はあるまい。]

 

南は相模灘を扣(ひか)えて。潮汐雪を捲(まい)て砂濱を洗ひ。漁船䌫を解き白帆風を孕む時。款乃(かんたい)の一聲亦聞くに堪(たへ)たり。

[やぶちゃん注:「䌫」は「ともづな」と読む。船尾にあって船を陸に繋ぎ止める綱。舫(もや)い綱。

「款乃(かんたい)」ルビは「あいない」又は「あいだい」とするのが正しい。舟唄。舟を漕ぐ櫓(ろ)の音のことである。そもそも「款」は「欸」の字の誤用による慣用表記で(「款」の字音には「アイ」はない)、「欸乃」が正しく、その読みは「あいだい・あいあい・あいない」で、「廣漢和辞典」によれば、舟に棹差して相い応ずる声、また、櫓のきしる音。転じて舟唄。また、漁師の歌や木樵りの歌、とある。ここは「一聲」とあるから舟唄で採るのがシークエンスとしては心地よい。]

 

東は片瀬。七里ケ濱。鎌倉に連り。天氣晴朗の日には。遠く房總の諸山を寸眸の内に收め得べし。

[やぶちゃん注:「片瀬」の「瀬」はママ。]

 

明治二十四年。大隈伯爵が一たひ暑を此地に避けられしより。鵠沼の名は漸く江湖に傳はりて。遊客(いうかく)毎年踵を接して來る。方今は蜂須賀、高崎、田中、伊東等諸家の別莊十四五ケ所あり。皆茅屋にして間雅(かんが)愛すべし。

[やぶちゃん注:「大隈伯爵」大隈重信。

「蜂須賀」本誌発行の明治三一(一八九八)年当時の蜂須賀家当主は枢密顧問官であった侯爵蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)。以下もその時間で推定。

「高崎」元薩摩藩士で元老院議官や東京府知事等を勤めた男爵高崎五六の長男で、宮内省式部官から貴族院議員となった男爵高崎安彦辺りか。

「田中」武官で海軍軍医学校学校長であった田中肥後太郎か。「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の明治末の別荘に「常住」とある。

「伊東」公爵伊藤博文か。

「間雅」ママ。閑雅の誤植であろう。]

こころの 海(うな)づら  八木重吉

 

 

照らされし こころの 海(うな)づら

 

しづみゆくは なにの 夕陽

 

 

しらみゆく ああ その 帆かげ

 

日は うすれゆけど

 

明けてゆく 白き ふなうた

鬼城句集 冬之部 地理 冬山

  地理

 

冬山    冬山の日當るところ人家かな

 

      冬山へ高く飛立つ雀かな

 

      冬山を伐つて日當墓二つ

 

      冬山に住んで葛の根搗きにけり

2013/12/27

ブログ・アクセス530000突破記念 珊瑚礁 火野葦平

[やぶちゃん注:本テクストは「河童曼陀羅」完全テクスト化プロジェクトの一つであると同時に(ここのところ更新を怠っていた)、ブログ・アクセス530000突破記念テクストとしても公開した。なお、この前に「煙草の害について」というチェーホフの作品をインスパイアした一篇があるが、この電子化には注釈を附したいと考えているので後日に回すこととするので、悪しからず。藪野直史【二〇一三年十二月二十七日】]

   珊瑚礁   火野葦平

 むかし、勤勉な河童があつて南に行つた。太陽はあかるくまぶしくきらきらと、うすもやのかかつてゐる南方の空氣のなかにみなぎりあふれ、光のいとが無數の金粉のやうにもつれて、おはらかな潮のかをりのなかにしみこんでゐるやうな場所では、どこか深い海のそこで、いくつもの海洋からながれこんで來る海流がふれあつて立てる音がおどろおどろしくひびくのである。あつさにも馴れて來ると、絢爛(けんらん)たる南の花々の美しさが眼に映りはじめた。すべて大づくりなゆるやかさをもつて、地面にまでその重たい花びらをたらしてゐる、早口でいへば舌を嚙むやうなめづらしい植物の名前をおぼえるのに、勤勉ではあるが暗愚な河童はひと苦勞した。さうしてあまりにきびしさのない水のあたたかさに、すこし心がゆるんで來たことを自分でも氣づいたときには、蓄積の想念にたいするかすかな疑念がわきはじめてゐたのである。
 南方へ移住して來たのは河童だけではなかつた。花々の誘惑をうけて多くの蜂のむれが蜜をあつめるためにやつて來た。おびただしい花々のなかに豐富な蜜があつた。蜂はよろこんだ。精勵なる作業がはじまつた。河童はきらめく光のなかを、まひあがる花粉のごとく、多くの蜂たちが蜜を蒐集してゐるすがたを、晝となく夜となく見た。河童は自分の棲みかをさだめるために、縹渺(へうべう)とした果からまつ青な水をうちよせて來る海濱に出て、珊瑚礁のあひだに沈んだ。眞紅の枝はりめぐらしてゐる珊瑚の林を縫うて、黄いろい縞のある平べつたい魚や、口ばかり大きくて尻尾のない長い魚や、顏ぢゆう眼ばかりのやうな丸い魚などがしきりに遊弋(いうよく)し、鬪志をもつたとげのするどい魚類がときをり珊瑚の森林のなかではげしくたたかつた。勤勉な河童は魚の骨をたくはへはじめた。
 どこかのあたたかい海の底にも寒流が通つてゐるところもあるといふ。その音が聞えるともいふ。耳をすましてその音を聞かうとしてゐるときに、ある日、河童はふしぎな羽音を聞いた。それは聞きなれぬ音ではなく、かれが海底に來るまへに、花々の咲きみだれてゐるあかるい高原で、晝となく夜となく聞いた音であつた。蜂が海へ來たのであらうか。蜂が海へ來たのであつた。あたかも潮がひいてゐた。靑い水面におほくの珊瑚が眞紅の美しい花のやうにひらき、それにふりかかる花粉のやうに、蜂のむれがゆるやかな、しかしあきらかに焦躁にかられた羽音をたてて降りて來るのであつた。珊瑚の枝に蜂のむれはとまつた。日が暮れはじめ、暮れた。潮が滿ちて來で、珊瑚礁は海底にしづんだ。蜂もともにしづんだ。
 毎日おなじことがくりかへされるにいたつて、河童はこの悽愴(せいさう)な勇氣に慄然としはじめた。かれはおどろいたときにする癖の背の甲羅を鳴らした。蓄積の想念に生じた疑念の小ささが、おもひがけぬあたらしい勇氣に還元されてゆくのを意識しつつ、海面に浮く蜂の屍をながめた。南方には花が多すぎたのだ。花のいのちの美しさは、吹くときすでに散ることの運命をふくんでゐるからにちがかない。散るときを惜しんで吹いてゐるあひだをいつくしむ心に、生きてゆくいのちの美しさもやどされるものであらう。蜂たちは散るときをおそれ、花のなくなる季節のために、花のあひだに精勵の作業をつづけたのである。花のなくなる季節がないといふことはなんといふたよりないことであらう。蜂は信念をうしなつた。つねに花があり、つねに蜜があるものをなんのために蓄積をする必要があらう。蜂は花の美しさにうたがひが生じ、生きることに倦怠のこころが湧いた。河童が海にしづんだのはこのときである。
 しかし、蜂たちはあたらしい花園を發見した。靑い波のうへに眞紅の花々が壯麗に吹きいでてゐることを知つたときに、蜂たちはすべてをわすれた。花粉のごとく蜂たちは珊瑚礁にむらがり降り、滿潮とともにその生を終つた。
 太陽はあかるくまぶしくきらきらとうすもやのかかつてゐる南方の空氣のなかにみなぎりあふれ、光のいとが無數の花粉のやうにもつれて、おほらかな潮のかをりのなかにしみこんでゐるやうな場所をながれてゆく蜂たちのすがたを、珊瑚礁の底に端坐した河童は感歎するまなざしをもつて眺めずには居られない。かれのこころにふたたび海底を出でようといふ意志がうごいて來たときに、潮がかきはじめ、壯麗な珊瑚の花々が水面にうかびはじめ、天の一角から蜂たちのゆるやかな弱音がおこつて來るのである。

530000アクセス突破

只今2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来のアクセス数530205アクセス。
もうそろそろとは昨日辺りは思っていたが、今日の10~11時に恐らく単独で200を超えるアクセスをなさった方がいて、知らないうちに超えていた。
記念テクストは……用意が実は全くない……しばしお待ちを。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 22 龍口寺 / 龍口明神社~『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」江の島の部 完遂

    ●龍口明神社

龍口明神社は。同所山上に在り。津村腰越兩村の鎭守なり。傳へいふ、欽明天皇十三年。江島神女の靈感にりて降伏せし深澤の毒龍(どくりう)を祀れりと。例祭は九月九日なり。

[やぶちゃん注:現在はかなり離れた(直線距離で一・八キロメートル)、龍口寺の背後の山を越えた、湘南モノレール西鎌倉駅から東北東へ徒歩約五分ほどの場所に遷宮している(かなり立派な造りである)。鎌倉市腰越「龍口寺」公式サイトの境内案内によれば、境内の仁王門の左手の岡の上に「元 龍口明神社」とあり、『この地には、目の前の江ノ島に住む弁財天に恋をした五頭龍伝承が残る。山に姿を変えた五頭龍の口にあたる部分にだから、「龍口」との名前が付いたという。その五頭龍を祀ったのが、龍口明神社。昭和53年に、遷宮されている』とあって、「龍口明神社」の公式ウェブサイトがリンクされてある。神仏分離令を経てもなお、昭和五三(一九七八)年まで龍口寺境内の一画にあった(というか、驚くべきことに多くの地図類には今も跡地に神社記号があってしかも元と冠さずに「龍口明神社」と明記されてある)という、これについては「龍口明神社」公式サイトによれば、

   《引用開始》

鎌倉時代には龍口山にほど近いところが刑場として使用された時期もあり、村人たちは祟りを恐れていたといいます。

また、昭和二十二年(一九四七年)には、龍口山が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われ、大正十二年 (一九二三年)には、関東大震災により全壊、昭和八年 (一九三三年)に龍口の在のままで改築しました。

太平洋戦争後のめざましい復興により、交通事情も悪くなり、神輿渡御も難しく、氏子の里へ昭和五三年(一九七八年)に村人達の総意により江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転しました。

なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、社殿・鳥居なども、移転前の姿で残されています。

   《引用終了》

という記述でやっと納得し得た。祭神は神武天皇母で海神族の祖先として龍神として崇められた玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、この地に伝わる五頭龍と弁財天伝説に登場する一身五頭の龍神五頭龍大神(ごずりゅうおおかみ)でこの話については、

   《引用開始》

その昔、武蔵国と相模国の国境付近の長大な湖に五頭龍が棲んでいました。国土を荒らし、暴悪を働き、人々を苦しめ、遂には津村の湊に出て子供を食べるようになりました。

そんなある時、天地雷鳴し大地震が国土を揺るがし、江の島が湧き出し、空から十五童子従えた弁財天が降臨されました。弁財天の美しさにひかれ、思いをよせた五頭龍であったが、弁財天に戒められ、その後は行いを改めよく人々を助け慈悲の徳を施すようになりました。

その後、弁財天と誓いを(結婚)なして山と化し、人々を災害から守り、国家安泰の神「五頭龍大神」となりました。

   《引用終了》

とある。この弁天と毒龍の話は、「新編鎌倉志卷之六」の江の島の項の冒頭部分にも、

   *

緣起あり。其略に云く、「此所、景行天皇の御宇に、龍の暴惡熾(さか)んなり。安康天皇の御宇に、龍鬼あり。圓(つぶら)の大臣に託して暴惡をなす。是れ人に託して煩はしむる始めなり。武烈天皇の御宇に、龍鬼又金村(かなむら)大臣に託して惱ます。此時五頭の龍、始めて津村(つむら)の湊(みなと)に出入して人の兒(ちご)を喰ふ。時に長者あり。子十六人ありけるに、皆毒龍の爲に呑まれぬ。西の里にうづむ。長者が塚(つか)と云ふ。欽明天皇十三、壬申の年四月十二日より、廿三日に至て、大地震動して、天女雲上にあらはる。其後海上に忽ち一島をなせり。是を江の島と云ふ。十二の鸕鶿(う)、島の上に降る。故に鸕鶿(う)來(き)島(しま)とも云ふ。此島の上に天女降り居し給へり。遂に毒龍と夫婦となれり。

   *

と記す。具体な神社創建の由緒は同公式サイトに以下のようにある。

   《引用開始》

欽明十三年(五五二年)、村人達は山となった五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口に当たるところに社を建て、子死方明神や白髭明神と言いました。これが龍口明神社の発祥と伝えられています。

養老七年(七二三年)三月より九月まで江の島岩窟中にて、泰澄大師が神行修行中夢枕に現れた神々を彫刻し、弁財天は江島明神へ、玉依姫命(長さ五寸(約15cm))と五頭龍大神(同一尺(約30cm))の御木像を白鬚明神へ納めたといわれています(これが御神体です)。この時、龍口明神社と名付けられたと伝えられています。

また、弘安五年(一二八二年)に一遍が龍の口にて念仏勧化を行った様子が、国宝『一遍聖絵』に描かれ、北条時政は江の島に参籠して、奇瑞を蒙り、龍の三つ鱗を授けられ、それを家紋としました(当社・江島神社の社紋も三つ鱗)。

いつの頃より六十年毎に還暦巳年祭が行われるようになり、近年では昭和四年・平成元年に賑々しく斎行されました。また、平成十三年には御鎮座千四百五十年祭が斎行され、この時と還暦巳年祭に限り五頭龍大神の御神体が御開帳され江島弁財天と共に江島神社中津宮に安置されます。

龍口明神社は昭和五十三年、龍の胴に当たる現在の地に御遷座され、日本三大弁財天として名高い江島神社と夫婦神社として人々に崇敬されています。

   《引用終了》

「新編鎌倉志卷之六」の龍口明神の項には、

   *

龍口明神 寺の東、山の上にあり。注畫讚に云く、「欽明天皇十三年四月十二日、此土に天女降り居す。是辨才天女の應作なり。此の湖水の惡龍、遙に天女の美質を見、竊(ひそか)に感じて天女の所に至る。天女不快にして曰く、『我に本誓あり、普く群生を救ふ、汝(なんぢ)慈憐なくして生命を斷つ。何ぞ好逑(こうきう)ならん』と。龍曰く、『我(われ)教命に任(まか)せん、自今以後、物のために毒をせずして哀憐を埀れん』と。天女、則ち諾(だく)す。龍又誓ひを立て、南に向て山をなす。龍口山、是也。此の事【江の島の縁起】にも見へたり。江の島は此寺の南の海中にあり。

   *

とある。「好逑」は良き連れ合い、理想的な配偶者の意である。ただ、遷宮している新しい神社の方には前の道は何度も通ったものの、私は未だ参ったことはない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 36 虫下し 附 やぶちゃんのポキールの思い出


M288


図―288

 

 歩いている内に我々は、広いカラッとした場所へ出た。ここには竹竿を組合せ、布の帳をひっかけた安っぽい仮小屋が沢山あり、妙な絵をかいた旗が竹竿からゆらゆらしていた。図288はこのような仮小屋を示している。これ等の粗末な小屋は、ありとあらゆる安物を売る、あらゆる種類の行商人が占領していた。ある男は彩色した手の図表を持っていて、運命判断をやるといい、ある男は自分の前に板を置き、その上にピカピカに磨いた、奇麗な蛤貝を積み上げていた。これ等は大きな土製の器に入れた、褐色がかった物質を入れる箱として使用される。男は私に、この物を味って見ろとすすめたが、私は丁寧に拒絶した。彼の卓の上には、変な図面が何枚かあり、私はそれ等を研究して、彼が何を売るのか判じて見ようと思った。図面の一つは、粗雑な方法で、人体の解剖図を見せていたが、それは古代の世界地図が正確である程度に、正確なものであった。その他の数葉は、いくら見ても見当がつかないので、私はまさに立去ろうとしたが、その時ふと長い虫の図があるのに気がついて、万事氷解した。彼は私に、彼の駆虫剤をなめて見ろとすすめたのであった! ある仮小屋は、五十人も入れる位大きく、そこでは物語人(ストーリー・テラー)が前に書いたように、法螺(ほら)貝から唸り声を出し、木の片で机をカチカチたたき、聞きほれる聴衆を前に、演技していた。これは我々にも興味はあったが、いう迄もなく我々には一言も判らないので、聞きほれる訳には行かなかった。この演芸は、明かに下層民を目的としたものらしく、聴衆は男と男の子とに限られていた。

[やぶちゃん注:「駆虫剤」原文は“worm medicine”。本邦での人に感染する線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱蟯虫目蟯虫科ヒトギョウチュウ Enterobius vermicularis や旋尾線虫亜綱回虫目回虫上科回虫科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ Ascaris lumbricoides 、扁形動物門条虫綱Cestodaの単節条虫亜綱 Cestodaria 及び多節条虫亜綱 Eucestoda に属する条虫、通称サナダムシ類などの寄生虫駆虫薬(虫下し)としては、古くからセンダンなどの植物やマクリなどの紅藻が利用されてきた。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach は西南アジア原産の落葉樹木。生薬名を苦楝皮(クレンピ)といい、本種の樹皮を乾燥したものを薬用とする。成分はトウセンダニン・センダニン・メリアノン・マルゴシン・アスカロール・バニリン酸・クマリン誘導体などで駆虫・抗真菌作用を持つ。センダン・エキスは多量に用いると顔面紅潮や眠気などの軽い副作用を持つ。漢方では専ら回虫・条虫の駆虫剤に配合される。なお、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」のセンダンはビャクダン目ビャクダン科ビャクダン(白檀)Santalum albumを指し、本種とは全く異なるので要注意(この部分は「金澤 中屋彦十郎藥局」の「苦楝皮」の記載を参照した)。また、アーケプラスチダ Archaeplastida 界(藻類の一種で、二枚の膜に囲まれた細胞内共生したシアノバクテリアから直接派生したと考えられるプラスチドを持つ一群)紅色植物門紅色植物亜門真正紅藻綱イギス目フジマツモ科マクリ Digenea simplex (一属一種)で、別名「カイニンソウ(海人草)」とも言う(これは海底に立つ藻体が人の形に見えるからではないかと私は昔から思っている)。暖流流域(本邦では和歌山県以南の暖海域)広く分布し、海底や珊瑚礁に生育する。生時は塩辛くて強い海藻臭と粘り気を持つ。マクリという名は「捲(まく)る」(追い払う)に由来し、古く新生児の胎毒を下す薬として用いられたことから、「胎毒を捲る」の意であるとされる。「和漢三才図会」には以下のように載っている(引用は私の電子テクスト「和漢三才図会 巻九十七 藻類 苔類」の掉尾より。詳細注を附してあるので参照されたい)。

   *

まくり  俗に末久利と云ふ。

海人草

 

△按ずるに、海人草(かいにんさう)は、琉球の海邊に生ずる藻花なり。多く薩州より出でて四方に販(ひさ)ぐ。黄色。微(かすか)に黯(くろみ)を帶ぶ。長さ一~二寸、岐有り。根髭無くして微(すこ)し毛茸(もうじよう)有り。輕虛。味、甘く、微鹹。能く胎毒を瀉す【一夜浸水し、土砂を去る。】。小兒初生、三日の中、先の海人草・甘草(かんざう)、二味を用ふ【或は蕗の根を加ふ。】。帛(きぬ)に包み、湯に浸して之を吃(の)ましむ。呼んで甜物(あまもの)と曰ふ。此の方、何れの時より始めると云ふことを知らず[やぶちゃん字注:「云」は送り仮名にある。]。本朝、通俗〔の〕必用の藥なり。之を呑みて、兒、涎-沫〔(よだれ)〕を吐く。之を「穢-汁(きたなげ)を吐(は)く」と謂ふ。以て膈上〔の〕胎毒を去るべし。既に乳を吃むに及ばば、則ち吐かず。加味五香湯を用ひて下すべし。

   *

これによって、かなり古い時代から乳児の胎毒を去るのに使用してきたことが窺える。ではこれが虫下しの薬として一般化したのはいつかと調べてみると、「ウチダ漢方和薬株式会社」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「【マクリ】」(同社情報誌『ウチダの和漢薬情報』の平成9年03月15日号より転載されたもの)に、私のように「和漢三才図会」を引用した上で、以下のようにあるのが見つかった。

   《引用開始》

 一方、マクリは「鷓鴣菜」の名でも知られますが、鷓鴣菜の名が最初に現れるのは歴代の本草書ではなく、福建省の地方誌である『閩書南産誌』だとされています。そこには「鷓鴣菜は海石の上に生え、(中略)色わずかに黒く、小児の腹中蟲病に炒って食すると能く癒す」とあり、駆虫薬としての効果が記されています。

 わが国におけるマクリ薬用の歴史は古いようですが、駆虫薬としての利用はこの『閩書南産誌』に依るものと考えられ、江戸時代の『大和本草』には、それを引いて「小児の腹中に虫がいるときは少しく(炒っての間違い)食すれば能く癒す」とあります。しかし、引き続いて、「また甘草と一緒に煎じたものを用いれば小児の虫を殺し、さらに初生時にも用いる」とあり、この甘草と一緒に用いるというのは『閩書南産誌』にはないので、この記事は古来わが国で利用されてきた方法が融合したものではないかと考えられます。

   《引用終了》

「大和本草」の記載は「卷之八 草之四」「海草類」の「マクリ、かいにんそう」で、「中倉学園」公式サイトの「貝原益軒アーカイブ」のPDF版で原典画像(42コマ目)が見られる。以下に私の読みで書き下して電子化しておく。但し、前の引用の内の『少しく(炒っての間違い)』という指摘を受けてその部分は訂しておいた。

   *

鷓鴣菜(マクリ) 閩書に曰く、海石の上に生じて、散碎。色、微黑。小兒腹中に蟲病有らば、炒りて食へば能く癒ゆ。〇甘草と同煎し用ゆれば、小兒腹中の蟲を殺す。初生にも用ゆ。

   *

この「散碎」(さんさい)というのは恐らく藻体が細かく分岐していることを言うものと思われる。さて、ここに出る「閩書南産誌」は何喬遠撰の明代の作で、貝原益軒の「大和本草」の刊行は宝永六(一七〇九)年であるから、江戸時代前期の終わりぐらいには既に虫下しとしても使用されていたものと考えてよいだろう。薬理成分はアミノ酸の一種であるカイニン酸(昭和二八(一九五三)年に竹本常松らによって古くから虫下しとして用いられていた紅藻のマクリから単離命名された。カイニン酸はカイチュウやギョウチュウの運動をまず興奮させた後に麻痺させる効果を持つ。この作用は、ドウモイ酸同様にカイニン酸がアゴニスト(Agonist:生体内受容体分子に働きかけて神経伝達物質やホルモンなどと同様の機能を示すような作動薬を言う。)としてグルタミン酸受容体に強く結合し、神経を過剰に興奮させることによって起こることが分かっている。このため、現在はカイニン酸は神経科学分野、特に神経細胞死の研究のために天然抽出物及び合成品が使用されているという(ここはウィキの「カイニン酸」その他を参照した)。モースの見たものがこの孰れであったかはよく分からないが、褐色のゼリー状のもの(ハマグリの殻に入れてあるという点で粘性が高いと考えられる)という点では、マクリっぽい感じがするが、わざと行商人がモースに舐めてみろと言っているところは強い苦みを持ったムクロジを調合した油薬のようなものである可能性も否定は出来ない(但し、マクリも特有の臭いがあり、味も不快であると漢方系資料にはある。……小学校時代、チョコレートのように加工して甘みで誤魔化した物がポキールによる回虫検査で卵が見つかった者に配られていたのを鮮明に思い出す。……何故なら、私はあのチョコレートのような奴が欲しくてたまらなかったから。そのために秘かにポキールをする時には(リンク先はグーグル画像検索「ポキール」!……懐かしいぞう!!)、回虫の卵がありますようにと願ったものだった。……遂にその願いは叶わなかったから、私は今も、あのマクリ・チョコレートの味を知らないのである。……

「物語人(ストーリー・テラー)が前に書いたように」第八章 江の島採集」図185の挿絵及び解説を参照。第七章 漁村生活」図164も参考になろう。モースが意味は分からないながらも、こうした祭文語り風のものや講談浪曲の雰囲気が決して嫌いではなかったことが窺える。]

萩原朔太郎 短歌二首 明治三六(一九〇三)年九月

さだかにはおどろき薊もわかちえず闇にただ啼く夕ほとゝぎす

幸ありて御手のひと鞭たまはらば花のごとくも散りや往ぬべき

[やぶちゃん注:『明星』卯年第九号・明治三六(一九〇三)年九月号の「紗燈涼語」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。]

玉(たま)   八木重吉

 

わたしは

 

玉に ならうかしら

 

 

わたしには

 

何(なん)にも 玉にすることはできまいゆえ

鬼城句集 冬之部 冬空 / 冬の雨

冬空    冬空を塞いで高し榛名山

 

冬の雨   大木の表ぬれけり冬の雨

 

      冬雨や蔓竿靑き竹の庵

 

[やぶちゃん注:これは群馬県高崎市鞘町(さやちょう)にあった鬼城庵の景か。同庵は昭和二(一九二七)年、鬼城六十四歳の時に全焼してしまい、翌年、師高浜虚子などの俳人たちの助力で高崎並榎町(なみえまち)に新居が完成、当時は裾野が広がる榛名山と向かい合った、遠く浅間や妙義の峰々も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになった。ここを「並榎村舎」と称して俳句活動の拠点とし、後進の指導に当たった(ここは現在、村上鬼城記念館(リンク先は同公式サイト)として公開されている。以上は前にも掲げた「高崎新聞」公式サイトの「近代高崎150年の精神 高崎人物風土記」にある「村上鬼城」に拠った)。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(35) 江の島稚児が淵 釈万庵 / 21 先哲の詩 了

  江島小兒淵   釋萬菴

信夫毳士鍛金腸。(信夫毳士鍛金膓)

翔雲鐡錫掛瀟湘。

江中孤嶼撫靈境。(江中孤島撫靈境)

天女祠前蘋草香。

路逢綽約少年子。

顏色耀然如桃李。

搖蕩禪心似亂雲。

慇懃攪手誓生死。(慇懃攬手誓生死)

少人睇眄意經營。

慘憺靑翰舫裡情。

百揆千桃伸欵曲。(百揆千桃伸款曲)

低頭不語涙如霙。

誤託風塵爲窈窕。

丹丘縹渺瑤臺沓。

徒因容質累他人。

繚繞宿心憂悄悄。(繚繞宿心憂悄々)

無路乘鸞躡綵烟。(無路乘鸞躡綠烟)

翻然抱石墜蛟涎。

道人求跡號天哭。

偕沒巖潭赴九泉。

浩渺慾河誰盡底。

濫觸須識無眞宰。

波間纖月曲如鉤。

萬古秋風吹渤海。

 

[やぶちゃん注:釈万庵(寛文六(一六六六)年~元文四(一七三九)年)は江戸中期の芝(東京都港区高輪)の臨済宗妙心寺派佛日山東禅寺の僧で、名は原資、荻生徂徠の門下。詩作は盛唐を範とし、閑と興さえあれば詩を作っていたと伝える。著作「万庵集」(「大東文化大學文學部《中國學科》中林研究室之中國學的家頁(黄虎洞)」内の「管説日本漢文學史略」(江戸前期)に拠った)。表記に問題が多いので、ここでは上に国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」を示し、下に底本の表記を示した。訓読では基本的に前者を用いたが、「慇懃攪手誓生死。(慇懃攬手誓生死)」の箇所だけは「攪」では意味が通じないので、底本の表記を採った。また「百揆千桃伸欵曲。(百揆千桃伸款曲)」の「欵」は「款」の俗字なのでここもやはり底本を採った。

 

  江の島小兒(ちご)が淵(ふち)   釋萬菴

信夫(しんぶ)の毳士(ぜいし) 金腸を鍛へ

翔雲 鐡錫 瀟湘に掛く

江中 孤嶼(こしよ) 靈境を撫(ぶ)し

天女 祠前 蘋草(ひんさう) 香(かん)ばし

路(みち)に綽約(しやくやく)たる少年子に逢ふ

顏色 耀然 桃李のごとし

搖蕩(ようたう)たる禪心 亂雲に似

慇懃に手を攬(と)りて生死を誓ふ

少人 睇眄(ていべん)して 意 經營(けいめい)

慘憺たる靑翰(せいかん) 舫裡(ばうり)の情

百揆 千桃 款曲(くわんきよく)を伸ぶるも

低頭 不語 涙 霙(みぞれ)のごとし

誤りて風塵に託すに窈窕(えうてう)たり

丹丘(たんきゆう) 縹渺として 瑤臺(えうだい)の沓(たふ)

徒(いたづ)らに容質よりて他人を累(わづら)す

繚繞(りようじよう)たる宿心 憂ひ 悄悄(せうせう)

無路なれば鸞(らん)に乘りて綵烟(さいえん)を躡(のぼ)り

翻然として石を抱きて蛟涎(かうぜん)に墜つ

道人 跡を求め 天に號して哭し

偕(とも)に 巖潭に沒して九泉に赴く

浩渺たる慾河 誰(たれ)か底を盡くさんや

濫(みだ)りに觸るること 須らく識るべし 眞宰に無きことを

波間(なみま)の纖月(せんげつ) 曲ること 鉤のごとく

萬古 秋風 渤海を吹く

 

「信夫」信士。信義に厚い人。

「毳士」不詳。毳衣(ぜいい)という真言宗で着る僧服があるが、稚児が淵伝承の自休和尚は建長寺で臨済宗の僧であるからおかしい。

「金腸」「腸」は腸(はらわた)から転じた心の意で、堅固な信心の謂いであろう。

「瀟湘」もとは湖南省長沙一帯の地域の景勝地の呼称で、特に洞庭湖とそこに流れ入る瀟水と湘江の合流する附近を指す。中国では古くから風光明媚な水郷地帯として知られ、「瀟湘八景」と称して中国山水画の伝統的な画題となった。この画題の流行が本邦にも及び、金沢八景や、ここでの意の湘南の語を生んだ。

「撫」巡る。

「蘋草」これは弁天を祀った社前の池塘に浮く単子葉植物綱サトイモ目ウキクサ科 Lemnaceae のウキクサ類(現在の種としての和名ウキクサは Spirodela polyrhiza を指す)又は水に浮く水草全般を指している。なお、「蘋蘩」(ヒンバン)という語があり、これは浮草と白艾(しろよもぎ)で、別に神仏に捧げる粗末な供え物の謂いもあるから、描写としては相応しい。

「綽約」姿がしなやかで優しいさま。嫋(たお)やかなさま。

「搖蕩」ゆれうごく。ゆすりうごかす。

「攪」手を執る。

「睇眄」流し目で見る。

「經營」物事の準備や人の接待などに勤め励むことをいうが、別に、急ぎ慌てることの意もあり、ここは両意を合わせてとって問題あるまい。

「靑翰」大修館書店の「新漢和辞典」に、「青翰」を、『鳥の形をきざみ青い色を塗った舟の名』とある。当初、私は同じ大修館の「廣漢和辭典」で「青翰」がないため、書籍の意味の「青簡」と同義と採り、仏教の教学の勉励も空しくなり、の謂いで採っていたが、ここが自休と白菊の乗る「舫」小舟の実景であるならば、実に妖艶ではある。

「百揆」多くのはかりごと。

「千桃」不詳。私の直感であるが、これは「千桃」ではなく、「千挑」ではなかろうか? 「挑」には、しかける、そそのかす、気を引いて誘う、という意味があり、ここに頗る相応しいのだが。

「款曲」①いりくんだ事柄。委曲。②うちとけて交わること。懇ろに親しむこと。という両意があるが、下の「伸」が、そうした手練手管を労した籠絡の網を広げ伸ばそうとする、の謂いの他に、述べるに通ずるので、両意を含んでとってよかろう。

「誤」謝るの意であろう。

「窈窕」美しくしとやかなさま。上品で奥ゆかしいさま。

「丹丘」「瑤臺」ともに固有名詞で仙人が住むとされる場所。無論、江の島に擬えたもの。後者は辞書には、殷の紂王の作った台の名に由来する、玉で飾った美しい高殿とあり、これはこれで実景をイメージ出来るが、一句の中の見立ての対句性から考えれば、李白「清平調詩三首其一」の結句「會向瑤臺月下逢」(會(かなら)ず瑤臺月下に向ひて逢はん)などの用語例としての、仙境「瑤臺」にある「高楼」でよい。

「沓」これは一応、「タフ(トウ)」と音読みして原義であるところの「流暢に喋る」の謂い、から自休と白菊の楼台での楽しげな二人の会話と採ってはおくが、この「沓」には「犯す」の謂いをも含ませたものとして第一義的には採る。第一義的には――実は私は当初、これを国訓である「くつ」と読み(但し、中国語に靴の意味はない)――高殿の――ころがり落ちた白菊の「沓」(アップ)――というショットだと思った。大方の御叱正を俟つ。

「繚繞」纏わり巡ること、くねくねと湾曲すること。自休と白菊の「宿心」、秘かな思いの柵とも、幻想の中の二人の肉体の絡み合いともとれ、しかも江の島の高台へとむかう羊腸たる小道の実景もダブってくる。

「無路」最早、それぞれ元の自分の心へ立ち還るすべはない、現実社会に帰るべき道は失われたことを意味していよう。万事休す、カタストロフへの序曲である。

「鸞」は神霊の精が鳥と化したものとされ、「鸞」は雄、雌は「和」と呼ぶ。鳳凰が歳を経て鸞になるとも、君主が仁政を行っている奇瑞として現れるとも言われる想像上の鳥。

「綵烟を躡(のぼ)り」「綵烟」は美しい霞や靄、「躡」は①踏む。②履く。③登る。④到る。⑤追う。従う。⑥速い。といった意味があり、概ね、どれでも解釈は可能であるが、奥津の宮の先の虚空の断崖まで「登り」つめた印象でとった。実は「沓」を「くつ」と読んだトンデモ解釈人の私は秘かにここは――裸足の白菊が「綵烟」を穿いている――ととりたい思いを截ち斬れないでいる。なお、ここは底本の「綠」(生い茂る高い緑樹の上をさして飛ぶように行く白菊の白い素足のイメージ)でも意味は通るように思われる。

「蛟涎」「蛟」は水に住む龍の一種のみずち、その涎(よだ)れであるから、海のことであろう。

「九泉」幾重にも重なった地の底の意で、死後の世界。黄泉。黄泉路。あの世。

「慾河」欲海に同じい。情慾の広く深いさま。ここと次の句は辛気臭いが、自休と同じ臨在僧で、しかも盛唐の詩風を範とした作者ならば、長詩のここにこのような説教染みた詩句を配するのはごく自然であると言える。

「眞宰」真実主宰の略で仏法を護持する諸天・善神を指す。

「纖月」繊維のように細い月。三日月や二日月の異称。

「渤海」「渤」は水の激しく湧き起こるさまやその音。稚児が淵の詠唱時(秋の初旬)の実景を以って詩を締め括る。

   *

 この詩を以って『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より「江の島の部」の「先哲の詩」の全パート四十二首が終了する。訓読するのには底本の返り点のみが手掛かりで、ネット上には(幾つかの詩句を検索した感触では)恐らくは一首として訓読や解釈は載らず、実にこのパートをやり遂げるのに(少々、面倒臭くて忌避していた時期もあった)半年も懸ってしまったが、通読していみると、圧倒的に江の島を蓬莱山のような仙界として意識している人々が多い(というより四十二総ての詩がそうであると言っても過言ではない)ことが分かる。掉尾に稚児が淵の悲恋の七言古詩を配したのも洒落ている(但し、「相模國風土記」の「文部卷八 も実これで終ってはいる)。尾崎放哉が初恋の相手で従妹であった澤芳衛と一夜の宿をとったのも江の島であった……私の父母が初めてデートしたのも江の島であった……私にとっても江の島は青春の甘酸っぱい味がする忘れられない場所である……]

阿波根宏夫「涙」エンディング

 ただ僕はこの大きな停滞の中に溶け込んだ一つの物象になりさがるわけには行かないのだった。青年の力の前に屈服する自堕落な姿を、この僕が見るわけには行かなかった。僕は最後の力を絞りだした。
 と、はじけ飛ぶように青年の両手が離れた。僕の中にどよめきが起った。青年に勝ったと言う気持よりも、僕の存在感が保障されたのだという安心感であった。青年はホルマリンに負けたのだ。ホルマリンが青年を「物」にするのだ、決して僕自身が青年を「物」にするのではない、僕はただ仲介者に過ぎなかったのだ――だが僕は無性にうれしかった。僕はやっとのことで支配者の地位を確保できたと信じ続けた。これからもそう信じてホルマリン注入をやるだろう。そうして「物」をなにげなく造って行くに違いない。
 青年は「物」になる寸前の、すさまじい痙攣を起して、こんじきいろの輝きを放ちながら、しかし、むなしく鷲手で虚空を摑んでいた。
 と、突然、青年のかたくなに閉じた右の瞼を押しのけて、一筋の涙が頰を滑った。その涙がふたすじに分れる前に、左眼の瞼もじっとりと濡れそぼり、しだいに溢れ、ヒクヒクふるえながら流れ落ちていった。

(阿波根宏夫作品集「涙・街」(1979年構想社刊)の「涙」の掉尾である――「涙」は昭和38(1963)年第一回日本大学新聞社懸賞小説入選、総長賞受賞作品である――審査委員は進藤純孝・野間宏・埴谷雄高・安岡章太郎の四人であった――応募作品総数141篇中、「涙」はずば抜けているとして満場一致で決まったという――選考座談会の記録。――埴谷「大江君と、倉橋君とは一篇目はわからなかった。遜色ない」――進藤「作者の心がけが高い」――野間「本当に文学の味がします」――安岡「これぐらいしっかりしたものは、やはりチャンスがなければ書けません」(以上は同書巻末の浜田豊氏の手になる年譜に拠った)――僕がこの新刊本を読んだのは教師になったその年の夏であった――僕はこの小説と、特に「二重体(ダブル・モンスター)」に激しい衝撃を受けた――「涙」は僕に、脆弱で似非哲学を開陳した如何にもな猥雑な死体小説たる大江健三郎の「死者の奢り」なんぞよりも遙かに鮮烈凄絶な、恐るべきリアリズムの衝撃を齎した――作者は医師であった――昭和53(1978)年にガス・ストーブの不完全燃焼による不慮の事故により三十九歳で亡くなっている――遺体の青年は僕である――僕は献体している――僕はいつか、阿波根宏夫論を書かねばならないと思っている――…………)

2013/12/26

きさまへ

恐ろしく下劣なことは、死者を弔う気持ちもなく「死者を弔う」と称して、しかも人間を喰らう食人鬼であることを、聊かも自覚していないモーロック以下の存在であることを、全く自覚してしないという事実である。



「人間を喰らう食人鬼」とは何か、とな?!

福島第二原発の事故による放射線被害の甚大さを隠蔽し、その恐るべきDNA損傷と将来発生する深刻な遺伝子異常を全く無視し、それらによって現に失われ、未来に亙って失われてゆく無数の人間のことを何も考えず、次期東京オリンピックを被災地復興オリンピックだなどと称するマヤカシをほざいて平然としていられるということは、知性を失った未来人“Morlocks”(H・G・ウェルズ『タイム・マシン』“The Time Machine”(1895年刊)「以下の存在である」ところの――きさま――のことだ!

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(34) 安脩作四篇

  妙音宮  安脩

珠樹映玲瓊。

妙音天女宮。

人傳名月夜。

皷瑟響淸風。

 

[やぶちゃん注:底本には作者名はない。補った。以下、「蟾蜍石」まで同じであるので、この注は略す。

 

  妙音宮  安脩

珠樹 映じて 玲瓊(れいけい)

妙音 天女の宮

人 傳ふ 名月の夜

皷瑟(こしつ) 淸風に響くを

 

「玲瓊」の「玲」は、本来は玉や貴金属が触れ合って美しく鳴る音を表したものであるが、転じて、宝玉の透き通るような美しさを示す。「瓊」も既に示した通り、宝玉のような美しさを示す。

「皷瑟」鼓(つづみ)と琴の音。]

 

  古碑   安脩

斷碑風雨剝。

千歳字纔存。

拂拭龍蛇動。

忽看雲靄屯。

 

[やぶちゃん注:これはもう間違いなく、先に川義豹の「月夜宿江島」の私の注で示した、俗に当時、屏風石と呼ばれた「新編鎌倉志卷六」の江の島の項の「碑石」のことである。

  古碑   安脩

斷碑 風雨に剝げ

千歳 字 纔かに存す

拂拭す 龍蛇の動

忽ち看る 雲靄(うんあい)の屯(とん)

 

「屯」は集まり守ることをいうが、リンク先の同碑の図「碑石圖」をご覧頂く分かるように(現在はもっと摩耗が進み、こんなに鮮明には見えない)、碑の上部に二頭の龍とそれを取り巻く「雲靄」が彫られてある。]

 

  石牀〔在龍湫上〕   安脩

湛水碧如藍。

開樽石牀上。

忽欲窺龍眠。

半酣神氣王。

 

[やぶちゃん注:

 

  石牀〔龍湫の上(ほと)りに在り。〕   安脩

湛水 碧にして 藍のごとく

樽を開く 石牀(せきしやう)の上

忽ち龍の眠るを窺はんと欲するに

半ば酣(たけなは) 神氣 王たり

 

「石牀」「せきしやう(せきしょう)」。これは思うに魚板石のことであろう。本文解説にも、『窟を出れは。前に平坦なる巨岩あり。其の幅七八間之を魚板石といふ其形魚板(ぎよはん)に似たるを以て名づく。竚立(ちよりつ)すれは風光の美なる兒が淵に優り(まされ)り。人をして轉〻歸るを忘れしむ。但激浪常に來りて岩角(いはかど)を齧めは。或は全身飛沫を蒙ることあり。此邊に潜夫群居して。遊客の爲めに身を逆にし海水に沒入し鮑若しくは海老、榮螺等を捕へ來る。又錢貨を投すれは。兒童水底に入りて之を探り。或は身を水上に飜轉(ほんてん)して。遊客の笑觀に供す。亦一興といふへし。』とあったが、他の資料を見ると、ここでは承句の如く酒食も供された。

「龍湫」既注。龍窟の前部にある龍潭。

「半ば酣 神氣 王たり」全くの直感でしかないが、

――酒に酔うて――さても気分はもう、龍をも御する龍顔の天子さま――

と私は読んだ。大方の御批判を俟つ。]

 

  龍窟   安脩

懸崖萬丈餘。

下有驥龍窟。

欲奪千金珠。

波瀾俄驚沸。

 

[やぶちゃん注:

 

  龍窟   安脩

懸崖 萬丈(ばんぢやう)餘

下に驥龍(きりゆう)の窟 有り

千金の珠を奪はんと欲するに

波瀾 俄かに驚沸(きやうふつ)せり

 

「驥龍窟」「驥」は本来は一日に千里を走ることの出来る良馬を指すが、ここは神獣である龍への尊称として被せたものであろう。江の島の岩屋を驥龍窟とは呼ばない(少なくとも私の知る資料には見当たらない)。]

 

  蟾蜍石   安脩

蟾蜍何歳化。

巨石挂淸池。

寒影浮波動。

尚思説法時。

 

[やぶちゃん注:先に先に川義豹の「月夜宿江の私の注で示した「蟾石」こと蟇石(がまいし)のこと。

 

  蟾蜍石   安脩

蟾蜍(せんじよ) 何歳にして化すや

巨石 淸池に挂(か)かる

寒影 波に浮びて動き

尚ほ思ふ 説法の時

 

「蟾蜍石」漢詩であるから音読みなら「せんじよせき(せんじょせき)」。この題名ぐらいは通称の「がまいし」で読みたい気もしないでもない。

「説法の時」大蟇を良真が法力によって石化させた折りのことを、退治としてではなく、説法によって教導した結果、往生して石なったと作者は解釈しているのであろう。また、私もそう思いたい口の人間である。]

萩原朔太郎 短歌二首 明治三六(一九〇三)年九月

鳥なきぬ小椿水にながるると山居の日記の一人興(きよう)なし

浦づたひ讚へむすべを又知らず赤人の富士は眞白き (田子の浦にて)

[やぶちゃん注:『明星』卯年第九号・明治三六(一九〇三)年九月号の「香草」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。
後者は無論、「万葉集」巻第三の山部赤人の知られた長歌と短歌(三一七及び三一八番歌)に基づく。以下に示しておく。

   山部宿禰(すくね)赤人、不盡山(ふじのやま)を望める歌一首幷せて短歌
天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隱(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り繼ぎ 言ひ繼ぎゆかむ 富士の高嶺は
    反歌
田子(たご)の浦ゆ打ち出でて見れば眞白にぞ不盡(ふじ)の高嶺に雪は降りける

反歌は「新古今集」や「百人一首」などでは、

田子の浦にうち出でて見れば白妙(しろたへ)の富士の高嶺に雪は降りつつ

であるが、私はこの『改悪』を好まない。というより、赤人がかくしたのでない以上、『改悪』などという生易しいものではない。短歌嫌いの私に言わせれば、これは立派な犯罪であり、これを赤人の歌として披露して恥じぬ後代の者どもは皆、剽窃(本歌取りとは訳が違う)を確信犯とする救い難い共同正犯――厚顔無恥の鉄面皮(おたんちん)としか思わないと述べておく。]

鬼城句集 冬之部 時雨

時雨    振り立つる大萬燈に時雨かな

[やぶちゃん注:これが何処の万燈会若しくは祭事の嘱目か同定出来る方の御教授を乞うものである。感触であるが、初句の「振り立つる」にヒントはないか?]

心 よ   八木重吉

こころよ

 

では いつておいで

 

 

しかし

 

また もどつておいでね

 

 

やつぱり

 

ここが いいのだに

 

 

こころよ

 

では 行つておいで

アトム第一話に2コマだけ大人のアトムの顔が現われること(シナリオ化再現)

……ネタバレになるので以下に至るストーリーは述べずにおく。それほどに端緒から意外性をもって構成されている。従って下の採録シナリオも少しアトムを知っているが原話を知らない方には〈非常に奇異に〉感じられる部分があるはずである。そういう方は、是が非でも、手塚先生の当該作アトム誕生の第一作を、是非お読みに戴きたく存ずる……



(ケン一の「ロボットに誠意なんかないだろう!」という言葉にアトムが差し出したアトム自身の首が、アトムの心にうたれた宇宙移民団のケン一から返されて来る。)

【最終コマより2コマ前】
(タマオが箱を覗くと、もう一つの首が入っていて、それを箱から取り出そうとするタマオ。その右手で自分の首をセットしつつ、もう一つの首を見ているアトム。タマオの持つその首の総角(あげまき)型の髪はアトムであるが、右斜め下からのアオリで描かれた顔は鼻が尖った凛々しい大人のそれである。なお、首切断面は箱で隠されている。私はこういうところに手塚先生の優しさを感ずる。)

(タマオ)
 
おや? もうひとつ
 
へんなおとなの
 
顔が
 
はいってら

【最終コマより1コマ前】
(背景に移民団の宇宙船に向かって手を振るなどして見上げて見送る人々。遠景に四人(子供一人)、近景のアトムとタマオの後ろの建物屋上(科学省と思われる)のサーチライトの前一人。それは以下の手紙の吹き出しで眼から上の部分しか見えないが『ケン一』である。手前に手紙を開いてそれを音読するタマオ、その右手に自分の大人の顔の首を持ったアトム。アトムはその手紙の朗読を聴きつつ、大人の自分の首を眺めつつ、しきりに涙を迸らせている。)

(ケン一の手紙)
 
アトムくん
きみの顔を参考に
して大人の顔をつく
りました
きみもいつまでも少年
ではいけない 今度会
ときはおとな同士で
会おう さようなら

……因みに……最終コマでは、宇宙移民団の宇宙船(七機)が上昇する背景の手前で、近景右に手紙を右手で振り上げて見送るタマオと右下角に方から上の笑顔で見上げるアトムの左横顔。

(タマオ)
ぼくも
今度は
おとなに
なってるよ!
さよなら…



以上、初出誌は昭和27(1952)年3月号「少年」(光文社刊)。採録シナリオの底本としたのは講談社手塚治虫漫画全集221「鉄腕アトム①」。なお、当該作品(昭和26年4月からの全12回連載)の題は「鉄腕アトム」でも「鉄腕アトム アトム大使の巻」(底本目次ではかく標記されてある)でもなく、

アトム大使

という表題であった。最終回は副題に、「科学冒険マンガ」とあるが、この副題は第1回にはなく、第2回では「科学冒険漫画」、第3回と第4回では「長篇科学漫画」とした上で「アトム大使」の上に英語で「CAPTAIN ATOM」と書かれてある(第5回以降はこの英文は消える。また第7回では「長篇」の表記が「長編」となる)。第10回で再び副題が「科学冒険漫画」に戻るが、第11回では「冒険まんが」とだけで、最初に示した通り、最終回は

科学冒険マンガ アトム大使

である。



……アトム……君は無垢の少年の心のまま……僕らの前から消えていった……僕は大人の君を知らないよ……僕は実はね……今のこの世を見ているとね……実はケンちゃんの言葉はハズレだったんだんだ、と……しみじみ思うんだよ…………

2013/12/25

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(33)

  遊畫島値雨  岳融

浮洲神女殿。

蒼壁鏡中開。

蜃氣巖廟合。

龍蟠石岸廻。

星査凌蚌月。

鼈頸踐梯苔。

嶽雪藏空盡。

天風扇海來。

雲張鵬翼起。

水撒浪花摧。

自改麻姑眼。

誰銜欒子抔。

傾盆急雨過。

覆島濺連臺。

已有高唐色。

慚無宋玉才。

 

[やぶちゃん注:岳融は既出(但し、詳細不詳)。「欒子抔」は底本「欒子抔」、「覆島」は底本「履島」であるが、誤植と見て、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  畫(ゑ)の島に遊び、雨に値(あ)ふ  岳融

浮洲 神女殿

蒼壁 鏡中 開き

蜃氣 巖廟 合す

龍蟠 石岸の廻(くわい)

星査(せいさ) 蚌月に凌(の)り

鼈首(べつしゆ) 梯苔(ていたい)を踐(ふ)む

嶽雪 空を藏(かく)して盡き

天風 海を扇(あふ)ぎて來たる

雲は鵬翼(ほうよく)を張りて起き

水は浪花(らうくわ)を撒(ま)きて摧(くだ)くる

自(おのづ)から改む 麻姑(まこ)の眼(がん)

誰か銜(くは)へん 欒子(らんし)の杯(はい)

傾盆の急雨 過ぐるに

覆島して 連臺に濺(そそ)ぐ

已に 高唐の色 有り

慚(は)づ 宋玉の才 無し

 

「値」逢う。

「慚」恥じる。

「星査」星槎。遙か遠くを航行する舟。星槎は本来は、中国太古の伝承で、光を放つ巨大ない槎=筏(いかだ)で天を一周した、若しくは筏に乗って海と繋がっていると考えられていた天の川に辿り着いたという故事に基づく語。そこから、遊仙思想として俗世間を離れるといった意味でも用いられる。

「蚌月」不明。ただ、「蚌」には「漁父の利」で知られた淡水産のドブガイの他に、大蛤の謂いがあり、これは蜃気楼を現出させるものと信じられていたことと何か関係がありそうに思われる。識者の御教授を乞う。

「梯苔」苔蒸した階梯の道。

「麻姑」は仙女の名。西晋・東晋時代の葛洪の書「神仙伝」の巻二「王遠」及び巻七「麻姑」などに記載があり、その容姿は歳の頃十八、九の若く美しい娘で、鳥のように長い爪をしているという。サイト「中国故事街」の「仙人のお話 麻姑~爪の長い仙女」に詳しいエピソードが載るが、どうもこの「自改麻姑眼」に意が腑に落ちない。識者の御教授を乞う。

「欒子」は双子の意。前句との対句性から考えると神仙絡みの故事に基づくものであろうが、不勉強な私には前句とともに最早、全く以ってお手上げである。識者の御教授を乞う。。

「已に 高唐の色 有り/慚づ 宋玉の才 無し」は、男女の堅い契りを意味する「朝雲暮雨」の元となった戦国時代の宋玉の詠じた名作「高唐賦」を素材にしたもの。楚の懐王が高唐(楼台の名)に遊び、昼寝をした際、夢に神女と交わったが、神女は去り際に、自分は巫山に住む者で、朝(あした)には朝雲となり、暮には驟雨となって、朝な夕なあなたの楼台の元へと参りましょう。」と言ったが、まさにその言う通りであった(最後の部分の原文は「旦爲朝雲、暮爲行雨、朝朝暮暮、陽臺之下、旦朝視之如言」)という、賦の中に古譚として挿入される有名な話柄である。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(32)

  雪後遊畫島   安脩

鼈頭山現畫圖中。

萬仭驚看天造工。

雪滿懸崖埀玉樹。

雲晴斜日財瑤宮。

凌波神女羅裙冷。

賀鶴仙人素影空。

借問秦年汎楂客。

寧知此地十洲通。

 

[やぶちゃん注:底本には作者名はない。補った。前の七言絶句に続く、雪後の彼の七言律詩。

 

  雪後、畫(ゑ)の島に遊ぶ   安脩

鼈頭の山 現はれり 畫圖の中(うち)

萬仭 驚き看る 天造の工

雪 懸崖に滿ちて 玉樹に埀り

雲 晴れ 斜めに日さして 瑤宮を財(たから)となす

凌波の神女 羅裙(らくん) 冷たく

賀鶴の仙人 素影(そえい) 空(むな)し

借りに問ふ 秦年(しんねん) 楂(いかだ)を汎(うか)べし客(かく)

寧ろ知る 此の地 十洲に通ずるを

 

「凌波」波に載ってそれを自在に操るの謂いか。

「羅裙」薄物の裳(も)。

「賀鶴」めでたき鶴といった美称か。

「素影」月の光。

「秦年」秦の頃の謂いか。

「楂を汎べし客」前の注が正しいとすれば、これは全くの直感に過ぎないが、これは秦の始皇帝に東方の三神山(仙山である蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)を指す)に長生不老(不老不死)の霊薬があると具申し、始皇帝の命を受けて三千人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持って東方に船出して、平原広沢の地を得、そこの王となって戻らなかったという方士徐福のことではあるまいか?]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(31)

  畫(ゑ)の島の晴雪(せいせつ)   安脩(あんしう)
神山 高く泛び 海溟 孤なり
登りて眺むるに 乾坤 書畫に似たり
萬里の潮風 杖履(ぢやうり)を吹き
千巖(せんがん)の氷雪 肌膚に映ず
瑤林(えうりん)瓊樹(けいじゆ) 花 晶瑩(しやうえい)し
金闕(きんけつ)銀宮(ぎんぐう) 影 有る無し
夕べに向ひて 忽ち聽く 仙樂の起こるを
槎(いかだ)に乘りて 直ちに訝る 蓬壺に到らんかと

 雪後の晴天の江の島という比較的珍しい景観を詠む。私も嘗て大豪雪の翌日に無人の江の島を友と彷徨した忘れ難い思い出があるだけに、この詩の感懐は頗る分かると言っておきたい。
「瑤林瓊樹」「瑤」「瓊」孰れも美しい宝玉で、美しい樹林を指す。
「晶瑩」「晶」はきらきらと輝くこと、「瑩」は訓で「瑩(やう)ず(ようず)」と読み、宝玉などを貝で磨いて光沢を出すことをいうから、ここは凍(こご)った雪を持って花が美しく輝いているという意味であろう。
「闕」本来は古代中国の宮殿・祠廟・陵墓などの門前の両脇に、張り出した形で左右対称に設けられた望楼を言った。中間部分が何もない(「闕」は「欠」で欠けるの意)ことに基づく。ここは単に楼台の意。
「槎」仙人が仙界との行き来に常用するという筏。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(30)

  畫島遇雪   高惟馨

蓬壺海上雪漫々。

玉女臺高玉樹寒。

欲向潮流迷暗穴。

明珠別自照龍蟠。

 

[やぶちゃん注:高惟馨は前出

 

  畫(ゑ)の島にて雪に遇ふ   高惟馨

蓬壺(ほうこ) 海上 雪 漫々

玉女臺 高くして 玉樹 寒し

潮流に向ひ 暗穴に迷はんと欲せしも

明珠 別して 自(おのづ)から龍蟠(りゆうばん)を照らせり

 

「蓬壺」既に注したが、島の形が壺に似ているところから蓬莱山の異称。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(29)

  月夜宿江島僧院   平賀周藏

洞口雲晴孤島頭。

良宵投宿倚香樓。

諸天月傍龍宮動。

千仭珠當鮫室浮。

幽梵爾時心地靜。

妙音何處帝妃遊。

更闌坐訝傳淸怨。

波響夜驕湘水秋。

 

[やぶちゃん注:作者は既出

 

  月夜、江の島の僧院に宿す   平賀周藏

洞口 雲晴れて 孤島の頭(たう)

良宵 投宿して 香樓に倚る

諸天 月 龍宮に傍らして動き

千仭の珠 當に鮫室(かうしつ)たるべく浮く

幽梵 爾時 心地 靜かなり

妙音 何處にか 帝妃 遊ぶ

更(こう)闌(た)けて 坐すに訝る 淸怨(せいゑん)を傳ふるを

波響 夜(よ)は驕(おご)る 湘水の秋

 

・「鮫室」既注であるが再掲する。鮫人(中国で南海に棲むという人魚に似た想像上の異人。常に機を織り、しばしば泣くが、その涙が落ちると玉になるという)の水中の居室。

・「幽梵」この世ならぬ神妙なる梵鐘の音。

・「淸怨」沁み通るようなある侘しさ。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(28)

  舟泊繪島   平賀周藏〔字子英〕
淡靄輕煙路渺漫。
海風不便上潮難。
平沙維艇收漁網。
斷岸燃燈下釣竿。
虛郭三聲暮笛響。
孤蓬一夜疎鐘寒。
榜人鳴櫂天將曙。
唯有還家片夢殘。

[やぶちゃん注:平賀周蔵(延享二(一七四五)年~享和四・文化元(一八〇四)年)は江戸中後期の広島出身の漢詩人。号は蕉斎・白山園・独醒庵・白山。著書に「独醒庵集」「白山集」「蕉斎筆録」。

  舟にて繪の島に泊る   平賀周藏〔字は子英。〕
淡靄(たんあい) 輕煙 路(みち) 渺漫(べうまん)
海風 便(びん)なく 潮を上ぐることも難し
平沙 艇を維(つな)ぎて 漁網を收め
斷岸 燈を燃して 釣竿(てうかん)を下(おろ)す
虛郭 三聲 暮笛 響き
孤蓬 一夜 疎鐘(そしよう) 寒(さび)し
榜人(ばうじん) 櫂を鳴らし 天は將に曙(あけぼの)とならんとするに
唯だ 還家片夢の殘のみ有り

「渺漫」渺渺や渺茫と同じい。果てしなく広がっているさま。
「榜人」この「榜」は舵や櫂を指し、船頭、舟人のこと。
「還家片夢」望郷の念を宿した儚い夢を言うか。]



うっかりしてアップするのを落した一篇があったので挿入する。これは本来ならば、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩の、

(23)と(24)の間にあるべき詩

である。ここに挿入して訂正する。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(27)

  月夜宿江島   川義豹

孤島玲瓏天女樓。

投來一夜入淸遊。

陰波偏映陽波起。

巖月遙兼海月浮。

雲表龍碑金蘚色。

階前蟾石桂花秋。

飄然坐覺人間遠。

欲向重溟問十洲。

 

[やぶちゃん注:川義豹は不詳。

 

  月夜、江の島に宿す   川義豹

孤島 玲瓏 天女の樓

投來 一夜 淸遊に入る

陰波 偏へに陽波を映して起き

巖月 遙かに海月を兼ねて浮く

雲表の龍碑 金蘚の色(しよく)

階前の蟾石(せんせき) 桂花の秋

飄然として坐し 覺ゆ 人間の遠きを

重溟(ちようめい)に向ひて十洲を問はんと欲す

 

・「陰波 偏へに陽波を映して起き/巖月 遙かに海月を兼ねて浮く」と頷聯を訓読しては見たものの、正直、よく意味が分からない。識者の御教授を乞うものである。

・「金蘚」苔生した旧碑を蔽う美しい苔。

・「碑雲表の龍碑」俗に当時は屏風石と呼んだ碑のことと思われる。「新編鎌倉志卷之六」の江の島の項の「碑石」の条に、

碑石(ひせき) 宮の南の方に立たり。高さ五尺ばかり、廣さ二尺七寸、厚さ四寸。但し上へ幷びに兩縁は別の石なり。座石有るべき物なり。歳古りて紛失したる歟。今は土中へ掘り埋(うづ)めて建たり。碑文の所、中より折れて、續(つ)ぎ合せて建てたり。俗に、江の島の屏風石と云ふ。相傳ふ、此の碑石は、土御門帝の御宇に、慈悲上人の宋國に至り、慶仁禪師に見へて、此碑石を傳へて歸朝すと。篆額は、小篆文にて、粗(ほぼ)大篆を兼ねたり。大日本國、江島靈迹、建寺之記と三行にあり。記の字の所、石(いし)損じて見へがたし。僅(はつ)かに言偏を得て記の字なる事を知る。四傍に雲龍を彫(え)り付け、極めて奇物なり。碑の文は、剥缺して分明ならず。普く好事に搜索すれども、曾て知る人なし。但(ただ)十界の二字、性の字、人の字、成の字など、所々に見へたり。字は楷書なり。碑石の圖左のごとし。

としてかなりクリアーな図を掲げている(私が携帯電話のカメラで接写した見難い写真もリンク先には掲げてあるので参照されたい。なお、その注で詳細を記してあるが、ここに書かれた本碑の宋国伝来説というのは怪しく、信じ難い)。

・「蟾石」現在の江島神社辺津宮の階段下鳥居の左手(エスカー乗り場の右手)の無熱池の上の崖にある蟇石(がまいし)のこと。慈悲上人良真が江の島で修業した際、巨大な蟇がその邪魔をしたため、良真が法力を以って石に化したとされる。

・「重溟」海。

・「十洲」は本来は中国から海を隔てた八方の海中にあるとした仙界を含む十大州のこと。ここが現実の人間(じんかん)を超絶した仙界の謂いであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(26)

  月夜宿江島   鵜孟一

孤島崔嵬石徑通。

躋攀神女妙音宮。

棲頭人倚諸天月。

洞口龍吟半夜風。

鐘度淸霜凄滿地。

珠搖滄海皎連空。

更闌不寐聽波響。

疑和琵琶入曲中。

 

[やぶちゃん注:鵜殿士寧(うどのしねい 宝永七(一七一〇)年~安永三(一七七四)年)は江戸中期の漢詩人。江戸生。本姓は村尾で孟一は名、士寧は字、通称は左膳。本荘・桃花園と号した。弱冠にして長沼流兵学を学び、武芸の修練を積む。また、服部南郭門に入って詩人としても名を馳せた。幕臣鵜殿長周の養子となり、長周の娘を妻とした。禄高六百五十石。詩は典型的な古文辞風で、擬古主義の類型的な措辞が多い。幕臣とあって南郭門下に於いて重きをなしたが,それ故の評判の悪さも「先哲叢談後編」などに伝えられている。歌人として有名な鵜殿余野子は実の妹。著作に「桃花園遺稿」(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。「鐘度」は底本「風度」であるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  月夜、江の島に宿す   鵜 孟一

孤島 崔嵬 石徑 通ず

躋攀(せいはん) 神女 妙音の宮

棲頭 人 倚れり 諸天の月

洞口 龍 吟ず 半夜の風

鐘は度(わた)つて 淸霜は凄(せい)として 地に滿ち

珠は搖れて 滄海は皎(かう)として 空に連なる

更(こう)闌(た)けて寐ねず 波の響を聽くに

疑ふらくはこれ 琵琶に和して曲中に入らんかと

 

・「崔嵬」既出。山が岩や石でごろごろしていて険しいさま。また、堂塔などが高く聳えているさま。ここでもまず、江の島の危崖を前者で述べ、後者を次の句に利かせている。

・「躋攀」畳語で「躋」も「攀」と同じく「のぼる」と訓じる。高いところに登ること。

・「棲頭」不詳。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」もこうあるが、不遜ながら、これは「樓頭」の誤りではなかろうか? 識者の御教授を乞う。

・「凄」これは冷たいという意よりも、穢れなき清く美しい霜の、他から遙かにかけ離れている凄絶にして現実離れした清浄感を示すものと読む。

・「皎」清く白く明るく輝くこと。

・尾聯はあたかも波濤の音を仙界で奏でられる天上の音楽に聴き紛うているのであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(25)

  中秋遊畫島賞月   高惟馨

鼈嶼東南縮地開。

海天秋色抱蓬萊。

探珠月湧驪龍窟。

懸鏡潮明玉女臺。

有客欲攀仙桂去。

何人更汎斗槎囘。

今宵獨坐鼉磯上。

萬里觀濤酒一杯。

 

[やぶちゃん注:高惟馨は前出。「仙桂」は底本「仙柱」であるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  中秋、畫(ゑ)の島に遊に月を賞(め)づ   高惟馨

鼈嶼(べつしよ)の東南 縮地 開き

海天 秋色 蓬萊を抱く

珠を探して 月 湧けり 驪龍(りりよう)の窟(くつ)

鏡を懸げて 潮 明たり 玉女の臺

客有り 仙桂(せんけい)に攀ぢんと欲して去り

何人ぞ 更に斗槎を汎(うか)べて囘(かへ)らん

今宵(こよひ) 獨坐す 鼉磯(だき)の上

萬里 觀濤 酒一杯

 

「仙桂」仙界にあるという月桂の樹。仙界の象徴。

「斗槎」仙人が仙界と行き来するための筏。「斗」は小さいという意か。

「鼉磯」「鼉」はワニの一種若しくは水棲する想像上の怪物鼉龍(だりょう)で、それらの硬い甲を磯の岩に喩えたものと思われる。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(24)

  遊畫島宿山寺   山村良由〔字君裕 號蘇門〕

金龜島秀彩雲間。

求寺羊腸薄暮攀。

窓外波濤千里外。

巖頭樓閣萬尋山。

月觀鷗鳥心偏靜。

耳伴松風夢亦閑。

一夜自疑天上住。

何堪明日向人寰。

 

[やぶちゃん注:底本では「山田良由」とあるが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。山村蘇門(寛保二(一七四二)年~文政六 (一八二三)年)は江戸時代中後期の武士。通称は甚兵衛。尾張名古屋藩木曾代官第九代。天明の飢饉を乗り切って天明八(一七八八)年に家老となった。学芸を好み、先に出た大内熊耳に師事、詩・書画に優れた。名の良由は「たかよし」と読む。著書に「忘形集」(共著)・「清音楼集」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

  畫(ゑ)の島に遊び山寺に宿る   山村良由〔字は君裕、號は蘇門。〕

金龜島 秀(しう)たり 彩雲の間

寺を求む 羊腸 薄暮の攀(はん)

窓外 波濤 千里の外(そと)

巖頭 樓閣 萬尋の山

月 鷗鳥(おうてふ)を觀(み)て 心 偏へに靜かなり

耳 松風(しようふう)を伴ひて 夢 亦た閑かなり

一夜 自(おのづ)から疑ふ 天上の住(ぢゆう)たらんかと

何ぞ堪へん 明日 人寰(じんくわん)に向ふを

 

「萬尋」万仞に同じい。1(ひろ:本邦の慣習的な長さの単位で、両手を左右に伸ばした際の指先から指先までの長さを基準とし、一尋は五尺(約一・五一五メートル)乃至は六尺(約一・八一六メートル)。縄・釣糸の長さや水深に用いることが多く、水深の場合には六尺と既定する。)の一万倍(約一万八千メートル相当)。転じて、非常に高い(深い)ことを指す。

「月觀鷗鳥心偏靜」は月(=明鏡=作者の心)が飛ぶ鷗を「觀(み)」て月(=明鏡=作者の心)が只管に澄み渡って静かなという心象であろう。

「人寰」人間界。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(23)

  宿江島妙音閣   餘承裕〔字子綽 號熊耳〕
雲晴海嶠宿岩嶢。
月朗龍宮照寂寥。
只有梵音驚客夢。
通宵不寐坐聞潮。

[やぶちゃん注:作者は江戸中期の漢学者大内熊耳(おおうちようじ 元禄一〇(一六九七)年~安永五(一七七六)年)。陸奥国(現在の福島県)三春の人。熊耳は号で、承裕は名、子綽は字、通称は忠太夫。百済王族の後裔の出と伝えることから余氏を名乗った(父弥五右衛門は熊耳村の村長)。十七歳で江戸に出、秋元澹園に師事、後に上方を経て九州に至り、長崎に遊学、ここで中国明代古文辞学の名著「李滄溟集」を見、自らの文章を磨いた。長崎に居ること十年余の後、江戸に戻って肥前(現在の佐賀県)唐津藩の儒員となった。文名高く、当時の代表的文人として重きをなした。書家としても知られたという。著作に「熊耳先生文集」(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

  江の島妙音閣に宿す   餘 承裕〔字は子綽、號は熊耳。〕
雲 晴れて 海嶠(かいけう)は岩嶢(がんげう)に宿す
月 朗(ほがら)にして 龍宮が寂寥を照らす
只だ有る 梵音 驚客(きやうかく)の夢
通宵(つうせう) 寐ねず 坐して潮を聞く

「海嶠」海中に聳え立つ島。
「岩嶢」高く険しい岩山。彼が宿泊した可能性がある岩本楼に引っかけた謂いかも知れない。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(22)

  夜宿畫島   高惟馨

潮廻孤島繫扁舟。

夜半偏憐海上秋。

不爲驚濤能破夢。

那知明月照龍湫。

 

[やぶちゃん注:高惟馨は高野蘭亭。既注。

 

  夜宿畫(ゑ)の島   高惟馨

潮廻れる孤島 扁舟を繫ぐ

夜半 偏へに憐れむ 海上(かいしよう)の秋

驚濤をして能く夢を破らしめず

知る 明月 龍湫を照らすを

 

「那」語勢調える置字と採る。「なんぞ」とも読めるが、今一つ、後とのつながりが悪い。

「龍湫」現在の浙江省温州市にある景勝地雁蕩山の景勝地域(桃花流水氏(日本人の方と思われる)のサイト「Panorama飛騨」の中国名山雁蕩山に詳しい。画像有り)。また、その中で「大龍湫」と称するのは中国の四大名瀑の一つとされ、別名を大瀑布とも言う瀧である(リンク先は中文ウィキ)。夜半の波濤の砕ける音が夢に入ってこの見たこともない名瀑に懸る明月を夢想させたという意味か。]

倦みては人かわきては人よりも來よ詩はよろこびの溢れぬる酒 萩原朔太郎

倦みては人かわきては人よりも來よ詩はよろこびの溢れぬる酒

[やぶちゃん注:『明星』卯年第八号・明治三六(一九〇三)年八月号の「星夜」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。]

甕  八木重吉

    甕(かめ)

甕 を いくつしみたい、
この日 ああ
甕よ、 こころのしづけさにうかぶ その甕

なんにもない
おまへの うつろよ

甕よ、 わたしの むねは
『甕よ!』と おまへを よびながら
あやしくも ふるへる

[やぶちゃん注:現行テクストでは一行目末には読点はない。私の底本は幽かに掠れて汚れのようにも見えるが、位置と形及び他の詩の句末読点とを検討して読点と判じた。]

鬼城句集 冬之部 北風

北風     詠馬

      北風に鼻づら強(こは)き雄姿かな

      北風にうなじ伏せたる荷牛かな

ヒッキリッコ

 夏近くなると、ほこりのまみれた道ばたのオオバコは、花茎がぐんぐんのびて細長い小さな白い花を密集して咲かせます。それがネズミの尾のように風にゆらいで見えるので、子どもたちはこの花茎を引き抜くと。「ネズミだぞ!」などと、いいながら、チュウチュウと友だちの衿くびや頰を撫でて、いたずらをしました。そんなとき、きっとだれかがヒッキリッコしよう! といいだすと、どの子もどの子も花茎を両手一パイに引き抜いてきて、木陰の道ばたで遊びはじめます。ヒッキリッコとは子どもたちがお互いに花茎をU字型に曲げて、相手のU字型に引っかけて引き合いごっこする遊びです。そしてどちらかが切れると負になりますが、この勝負(かちまけ)をきめることが相撲をとるようだから、オオバコをスモートリグサ(千葉県、静岡県、奈良県、新潟県、長崎県)、スモートリバナ(長崎県)またはトリコパコ(秋田)、ビッキリコー(長野)などと遊び名がそのまま草の名になっているところもあります。また変わったところでは、ひっぱるというよりも左右交互に手を引きあい、ズイコン、ズイコンといいながら遊ぶところが長野県にあります。福島県の檜枝岐(ひのえまた)では同じ遊びをズイコ、メーコ、ズイコ、メーコといいますが、山形県庄内ではズッコン、メッコンと少し変わります。どちらの遊びも遊び言葉も、木樵(きこり)が鋸(のこぎり)で丸太を挽くところを連想したもので、とくにオオバコの花茎の莟(つぼみ)がパラパラと落ちるところは、鋸屑(おがくず)と同じように見えるので、遊びをますます面白くしました。ところが同じ遊びでも土地が変わると遊びの連想も異なるもので、長野県では、

  イスス(石臼(いしうす))ゴーゴー金(かね)ゴーゴー

とうたいながら交互に引きあって遊びます。イススとは粉を挽く石臼のことで、父母親たち二人が石臼に繩をかけて、左右に繩を交互に引いて臼が半回転してはもどり、粉を挽く有様に良く似ているからです。新潟県の六日町ではこの遊び唄に、

  臼ひきザンゴー 米かみザンゴー
    山に米がたくさんで
  となりの爺さまみな嚙(か)んだ
    ザンゴー ザンゴー

と子どもたち二人が向かいあい、この唄をうたいながらどちらの花茎が早くすり切れるか、遊びをしました。
(中田幸平「野の民俗―草と子どもたち―」社会思想社現代教養文庫998・1980年刊)

2013/12/24

北條九代記 院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定 承久の乱【十二】――幕臣軍議の最中の尼将軍政子渾身の演説に幕臣悉く袖を絞って忠誠を誓う

院宣を奪(うばひ)取りて燒き捨てられ、北條義時、駿河守を相倶して、二位禪尼の御前にまゐり、「世の中既に亂れて候。去ぬる十五日、判官光季は、京都にして討たれたり。如何(いかで)御計(はからひ)候べき」とて、胤義が文と、院宣とを御前に差置れたり。武藏守泰時、相摸守時房、前大管領(さきのくわんれい)廣元以下參り集まりて評定あり、二位禪尼は、妻戸の間へ出でたまひ、御家人等を御簾(みす)の前に召寄(めしよせ)られ、御簾を半(なかば)に卷上(まきあげ)させ、御覽じ出して宣ひけるは、「日本一州の中に、女房のめでたき例(ためし)には、此尼をこそ申すなれど、尼程に物思(ものおもひ)したる者は世にあらじ、故殿賴朝公に逢初(あひそ)め參(まゐら)せし時は、世になき振舞(ふるまひ)するとて親にも疎み惡(にく)まれ、その後平家の軍初(はじま)りしかば、手を握り、心を碎き、六年(むとせ)が程は打暮し、平家亡びて世は治(おさま)るかと思ふ所に、大姫君に後(おく)れて、同じ道にと悲しく思ひながら、月日を重ねし間(あひだ)に故殿に後れ奉る。左衞門督(のかみ)未だ幼稚なれば、見立參(まゐら)せんとせしかども、又督殿にさへ後れて、誰を賴む方もなく、鎌倉中には恨(うらめ)しからぬ人もなく、思沈みしを、故右大臣實朝公、人となり、世も靜(しづか)に侍(はんべ)りしに、思(おもひ)の外の事ありて大臣殿失せ給ふ。是こそ浮世の限(かぎり)なれ、何に命の存命(ながら)へて、かゝる歎(なげき)に堪へぬらん、如何なる淵河(ふちかは)にも身を投げばやと思立ちしを、權(ごんの)大夫義時が、樣々申す事ありて、三代將軍の御跡を、誰かは弔ひ奉るべきと思ひし程に、今日まで空(むなし)く存命(ながら)へて、かゝる事を見聞くこそ悲しけれ。日本國の侍達(さぶらひたち)、昔は三年の大番(おほばん)とて、一期(ご)の大事と出立ち、郎從一族まで此所を晴(はれ)と上りしも、力盡きぬれば、下向には歩跳(かちはだし)にて歸りけるを、故殿燐み給ひ、六ヶ月に約(つゞめ)、分際(ぶんざい)に應じて諸人の助(たすけ)を計ひ置かせ給ひ、今は何(いづれ)も榮耀(えいえう)におはすらん。萬(よろづ)につけて、情深き御恩を忘れて、東方へ參られんとも、又留りて味方に奉公仕らんとも、只今確に申し切れしとぞ宣ひける。是を承る大名、小名、皆袖を絞りて申しけるは、「拙(つたな)き鳥獸までも人の恩をば忘れずとこそ承れ。况(まし)て代々御恩深く蒙りし我等、此度(このたび)罷(まかり)向ひ候ひて、都を枕とし、尸(かばね)を禁中に晒さんとこそ存じ候へ、誰々も一人として、この志を背く者は候はず。御心安く思召され候へ」とて御前を立ちて宿所々々に歸られけり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十二】――幕臣軍議の最中の尼将軍政子渾身の演説に幕臣悉く袖を絞って忠誠を誓う〉

『院宣を奪取りて燒き捨てられ、北條義時、駿河守を相倶して、二位禪尼の御前にまゐり、「世の中既に亂れて候。去ぬる十五日、判官光季は、京都にして討たれたり。如何御計候べき」とて、胤義が文と、院宣とを御前に差置れたり』この部分、おかしい。

――北条義時殿は推松から院宣を奪い取って総てお焼き捨てになられた上で、駿河守三浦義村殿を伴って二人して、二位禅尼政子殿の御前に参り、

「世の中は既にして乱れて御座候う。去(いん)ぬる十五日、判官伊賀光季は、京都にて討たれて御座る。如何にご処置なされまするか?」

と、三浦胤義が義村に宛てた官軍への慫慂を勧めた私信と院宣とを尼御台の御前(おんまえ)にさし置きなさった。――

冒頭で、義時は軍議の前に院宣を焼き捨てたとしながら、その後、政子の前に院宣を差し出した、とあるのである。以下に見るように、「承久記」にはこの齟齬はない。しかしどうであろう、如何に自分を謀叛人とする内容だからと言って、評定の前に院宣を総て焼き捨てるものだろうか? 寧ろ、七通もあった院宣総てはいらないから、一通を除いて六通を焼き捨て、残したものを政子に披見させたとする方が自然である。ただその際、どの一通を残すかが問題にはなる。何故なら「承久記」によれば、七通は総て宛名人が明記されているからである(「武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西」の各武将)。これら七人が特に名指されたことは、この七氏が官軍方へ靡く可能性が高く、靡いた場合には関東のそれ以外の武士団を芋づる式に官軍に就かせることが可能な有力武将であると考えたからに他ならない。誰に出されたものかは、実は義時を始めとする幕閣にとっても公になってはまずい最高機密に属するものであったと考えてよい。しかし、この中で敢えて知れても構わない人物が一人だけいる。三浦義村である。彼は弟胤義の慫慂を蹴って、義時に内報をし、既に幕府への忠誠を義時本人に告げており、それを義時も完全に信用しているからである。寧ろ、義村が居る目の前で胤義の慫慂の文と義村宛院宣の二通を政子に示すことで、義村の忠誠が最終的に公的に認知されたとも言えるのである。「北條九代記」の作者も実は院宣が総て焼却されたとする「承久記」の記述に疑問を持ったに違いない。ただ「承久記」の記載自体は一応示した。しかし、その違和感がここで図らずも出てしまったというべきか。私はこの意味不通部分を、「北條九代記」筆者は、義村宛以外の院宣を焼き捨て、政子には胤義の義村宛私信と残した義村宛一通の院宣を示した、とする文脈で採りたい。大方の御批判を俟つものである。

「妻戸の間」平安期までは寝殿造りで出入り口として建物の端に設けた両開きの板戸の謂いであるが、ここは大倉幕府の両開きの戸を端に持った評定の間と採る。

「物思したる」想像を絶した苦悩を重ねた。

「世になき振舞する」流刑者と恋愛関係に陥るという世にあってはならないとんでもない振る舞いをする。

「六年」平家滅亡の文治元(一一八五)年三月であるから、六年前は治承三(一一七九)年である。この年十一月は清盛がクーデターを起こして後白河法皇の院政を停止させており、「平家の軍(いくさ)」たる源平合戦、所謂、治承・寿永の乱のプレの起点としては相応しい。但し、政子は頼朝と深い関係を持つに至ったのはそれよりももっと前の、安元二(一一七六)年前後であろう。何故なら翌治承元(一一七七)年に北條時政が伊豆目代山木兼隆と娘政子を婚姻させようとしたのは、時政が頼朝とのわりない関係(恐らくは大姫を懐妊していたと考えてよい)を知った結果であるからである(この当時、政子は丁度、満二十歳前後であった)。

「大姫」頼朝と政子の間に生まれた長女。治承二(一一七八)年に生まれ、建久八年七月十四日に亡くなっている。木曽義高との悲話とその死は、「北條九代記」の及び第二巻に詳しい。

「同じ道にと」もう、大姫と同じ死出の旅路を辿らんと。夫頼朝の無慈悲な謀殺に対する政子の深い失望と、大姫に対する強い母性愛と同情心(それは政子自身の頼朝への一途な体験に裏打ちされていることがこの叙述から明白)が窺える部分である。それは後掲する「承久記」の、頼朝が「一人死んだからってそんなに沈鬱になってどうする。」という台詞への、『必其ニナグサムトシモハ無ケレ共』(必ずしもそんな口先ばかりの言葉に慰められたなんどということはなかったけれど)という謂いにも、極めてよく表われていると言える。

「故殿」夫源頼朝。

「左衞門督」長男源頼家。彼は正二位左衛門督。

「大番」大番役。平安末期から鎌倉にかけて、内裏や院の御所及び京都市中の警固役に当たった御家人役の一つ。諸国の武士が交代制で勤めた。本承久の乱以後は鎌倉の将軍御所を警備する鎌倉大番役も新たに制度化された。

「一期の大事」一生涯の大仕事。

「榮耀(えいえう)」底本はルビが「え えう」(字空ママ)であるが、早稲田大学図書館蔵延宝三(一六七五)年梅村弥右衛門板行になる「北条九代記」で訂した。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号28の一文をダブらせて29まで)を示す。直接話法部分を改行した。なお、私は「北條九代記」の女性嫌悪傾向の甚だ強い筆者とは違って、政子が大好きである。この演説も、頗る附きで好きである。

 

院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ。

 角テ權大夫、駿河守ヲ相具シテ二位殿ニ參リ、

「世中コソ已ニ亂レテ候へ。去十五日ニ光季被ㇾ打テ候也。世上イカヾ御計ヒ可ㇾ候」

ト被ㇾ申ケレバ、二位殿、妻戸ノ間へ出給ヒ、御簾半計アゲサセ、御覽ジ出シテ宣ヒケルハ、

「日本國ニ女房ノ目出タメシニ、尼ヲコソ申ナレ共、尼程物思タル者世ニアラジ。故殿ニ相ソメ進ラセシ時ハ、世ニナキ振舞スルトテ、親ニモ疎カニ惡ミソネマル。其後、平家ノ軍始リシカバ、手ヲ捏り心ヲ碎キ、精進潔齋シテ佛神ニ祈精ヲ致シ、安カラヌ思ニテ六年ガ程ハ明シ暮シ候ニ、平家無ㇾ程亡シカバ、サテ世中ヲダシタトゾ思シニ、無幾程大姫君ニヲクレ進ラセテ、何事モ不ㇾ覺、同ジ道ニト悲ミシヲ、故殿、

『一人無レバトテ、サノミ思ヒ沈事ヤハアル。ナキ者ノ爲ニモ罪深事ニコソナン。』

ト被ㇾ仰シカバ、必其ニナグサムトシモハ無ケレ共、明ヌ暮ヌトセシ程ニ、二度ウセサセ給シカバ、此時コソ限ナリケレト思シヲ、左衞門脅殿未ヲサナクマシマシシカバ、故殿ニヲクレ進ラセテ、如何ガセント存候ダニモセンカタモ候ハヌニ、

『一度ニ二人ニヲクレン事ヨ。』

ト餘リニ被ㇾ仰シカバ、ゲニ又、難見捨思進ラセテ有シ程ニ、又、督殿被ㇾ失給シカバ、誰ヲ可ㇾ賴方モナク成ハテヽ、鎌倉中ニ恨メシカラヌ者モナク思沈シカ共、故大臣殿ノ、

『今ハ賴シキ方モナク、獨子ト成テ候ヲ、爭デカ御覽ジ捨ラㇾ可ㇾ候。何レカ御子ニテ候ハヌ』

ト、ヲトナシク嘆キ被ㇾ仰シカバ、現ニイタハシクテ空ク明シクラシ候ニ、大臣殿失サセ給シカバ、是コソ限ナレ、何ニ命ノ存へテ、カヽル浮身ノムクヒニ兼テ物ヲ嘆ラン、如何ナル淵河ニ身ヲナゲ空ク成ント思立シニ、權大夫、

『カクシテ空クナラセ給ナバ、鎌倉ハカセギノ栖カト成果シテ亡ビナンズ。三代將軍ノ後生ヲモ、誰カ訪ヒ進可ㇾ候。眞思召立テ給テ、先、義時、御前ニテ自害ヲシ御供可ㇾ仕カ。』

ト、夜晝立モ不ㇾ去、樣々ニ嘆カセ給シ間、實ニ代々將軍ノ後生ヲモ誰カ訪ヒ奉ルべキト思シ程ニ、今日迄ツレナク存へテ、カヽルウキ事ヲモ見聞事コソ悲ケレ。日本國ノ侍共、昔ハ三年ノ大番トテ、一期ノ大事ト出立、郎從・眷屬ニ至迄、是ヲ晴トテ上リシカ共、力盡テ下シ時、手ヅカラ身ヅカラ蓑笠ヲ首ニ掛、カチハダシニテ下リシヲ、故殿ノアハレマセ給テ、三年ヲ六月ニツヾメ、分々ニ隨テ支配セラレ、諸人タスカル樣ニ御計ヒ有テ、是程御情深クワタラセ給シ御志ヲ忘ㇾ進ラセテ、京方へ參ン共、又留テ御方ニ候テ奉公仕ラン共、只今タシカニ申切。」

トゾ宣ヒケル。是ヲ奉テ、有トアル大名・小名、皆袖ヲヲホヒ涙ヲ流テ申ケルハ、

「無ㇾ心鳥類・獸迄モ人ノ恩アル事ヲ不ㇾ忘トコソ承レ。マシテ申候ハンヤ、代々御恩ヲ罷蒙ヌル上ハ、被ㇾ向候ハン所迄ハ相向ヒ、如何ナラン野ノ末、道ノ邊マデモ、都ヲバ枕トシ關東ヲバ跡ニシテ、尸ヲサラス身トコソ罷成候ハンズラメ。爭デカ僞ヲ可ㇾ申。」

トテ各歸ヌ。

 

●「一度ニ二人ニヲクレン事ヨ」一遍に父母に先立たれるなんて。青年将軍頼家(未だ満十七歳)の台詞。

●「存へテ」「ながらへて」と読む。

●「カセギ」鹿の異名の「かせぎ」であろう。鹿の跋扈する荒れ果てた野となると言うのであろう。

●「夜晝立モ」「立モ」は「たっても」で、夜昼を分かたず、ずっと、の謂いと思われる。

●「ツレナク」「つれなし」には、例えば、「何食わぬ顔をして」「厚顔無恥にも」「平然として」「何の変りもなく無事に」「自分の意志のままにならずに」「これといった転変もなく」といった意味があり、そのどれをもこの場合は重層させてよいと思われる。

●「分々ニ隨テ支配セラレ」命ぜられた侍のそれぞれの身分や地位、生活・氏族の状況に応じて臨機応変に差配なされて。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 35 砂絵師


M287
図―287

 

 街頭に於る興味の深い誘惑物は、砂絵師である(図287)。彼はつぎだらけの着物を着た老人であった。彼が両膝をつき、片手で地面の平な場所を払った時、私には彼が何を始めようとするのか、見当がつかなかったが、集って来た少数の大人と子供達は、何が起るかを明かに知っているらしく見えた。充分な広さの場所を掃うと、彼は箱から赤味を帯びた砂を一握取り出し、手を閉じた儘それを指の間から流し出すと共に、手を動かして顔の輪郭をつくった。彼は指と指との隙間から砂を流して、美事な複線をつくった。白い砂の入った箱も、使用された。彼は器用な絵を描き、群衆が小銭若干を投げたのに向って、頭を下げた。

[やぶちゃん注:私は日本でこうした砂絵師を実見した記憶はない。バルセロナでそれらしいものを見たような記憶があるようなないような(確かではない)。ネットを見ても、ここに出るような大道芸人の砂絵師の具体的な詳細記載は見当たらない(まさに砂の絵のように過去に消え去ったものか)。ただ、芥川龍之介の大正七(一九一八)年の俳句に、

 

日傘人見る砂文字の異花奇鳥

 

という句があり(別稿に「日傘人見る砂文字の異花奇禽」)、中田雅敏は編著の蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文で、砂文字は大道芸の一つで、色の付いた砂で絵を描いて見せたとあり、浅草辺りの嘱目吟であろうと推定しておられるのを辛うじて思い出すばかりである(私のやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺を参照)。

 川嶋信雄氏のブログ「ノボ村長の開拓日誌」の「江戸のアーティスト」のページに杉浦日向子「江戸アルキ帖」に(私は所持しない)、以下のようにあるとある。孫引きさせて戴く。

   《引用開始》

安永七年九月十四日(晴れ)

蔵前牛頭天王社(くらまえごずてんのうしゃ)

 牛頭天王の社で、砂絵師を見た。

 白い砂を握り、湿った黒い土の上に、小指のすきまから、サラサラと落とす。そうやって、いういろな絵を描く。仕上ると、地面をなでさすって消し、また別の絵を描く。美女が、菩薩が、馬が、舟が、現われては消える。

 一瞬を生きるか、氷遠を生きるか。天に鳥、地に蟻。

 砂絵師の手元が大きく動くと、楼閣は散って、黒い土になった。

   《引用終了》

当該ブログには杉浦氏の絵も貼られてあるが、絵師の背中の二箇所のツギや奥の見物人の配置やポーズまで全く同じで、この絵は明らかにここのモースのデッサンから起こしたものであることが分かる(敢えて当該ブログの画像を以下に示しておく。但し、私は剽窃という批判的なニュアンスからかくするものではないことを断わっておく。亡き日奈ちゃんを……私は寧ろ、愛していたぐらいだ……)。

20120924154128

 なお、現代の砂絵師としてはウクライナのクセニア・シモノヴァ(Ксенія Симонова)の砂絵を是非、紹介しておきたい。]

 

 

* 私はロンドンでも歩道に、群衆から銭を受けるという同じ目的で、同様な方法で絵が描れるのを見た。合衆国人類学部の出版物によると、西部インディアンのある種族は、宗教的儀式に関連して、いろいろな色彩の砂を使用し、こみ入った模様を描くそうである。

[やぶちゃん注:サイト『立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点――障老病異と共に暮らす世界へ』のにそうしたナバホ族の砂絵師にして最後の呪医であったハスティーン・クラーについて書かれた、フランク・ニューカム著鈴木幸子訳「ハスティーン・クラー――ナバホ最高のメディスンマン・砂絵師の物語」生活書院二〇〇八年刊(Newcomb, Franc J. 1980Hosteen Klah: Navaho Medicine Man and Sand Painter”)の簡単な解説がある(私は未読)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 34 道路工事点描2 よいとまけの唄


M286
図―286

 

 図286は、街路工夫が、掘りかえした町の部分を、叩いてならしている所を示す。家産の礎石も同様にして叩き下げる。叩く間、労働者達は、私には真似することも記述することも出来ない、一種の異様な歌を歌い続ける。

[やぶちゃん注:この「よいとまけ」の仕儀と唄については来日早々にも人間杭打機と称して記録しており、モースはその仕組みと掛け声に非常に惹かれたらしい。因みに、「よいとまけ」とは、本来の地固めに用いたリンクした第一章にある絵の滑車の綱を引っ張る際の、「ヨイ! っと! 巻け!」という掛け声を語源とするという。]

ウクライナのクセニア・シモノヴァ(Ксенія Симонова)の砂絵

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(21)

  夜宿畫島   岡崎信好〔字師古 號盧門〕

雲水渺茫相海中。

金龜島霽興何窮。

潮聲近湧龍蛇窟。

月影高輝神女宮。

七里漁濱砂似玉。

千帆商舶葉隨風。

擧杯勝景堪相賞。

一夜閑吟旅思空。

 

[やぶちゃん注:岡崎信好(享保一九(一七三四)年~天明七(一七八七)年)は江戸中期の漢詩人。京都生。群書に精通し、文章に優れたが、病弱なために仕官せずに生涯を終えた。著作に「廬門詩集」「平安風雅」、編著に「扶桑鐘銘集」などがある(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

  夜、畫(ゑ)の島に宿る   岡崎信好〔字は師古、號は盧門。〕

雲水 渺茫(べうばう) 相海の中(うち)

金龜の島 霽れ 興(きよう) 何ぞ窮せんや

潮聲 近く湧く 龍蛇の窟

月影 高く輝く 神女の宮

七里の漁濱(れふひん) 砂 玉に似

千帆の商舶 葉 風に隨ふ

杯を擧ぐるに 勝景 相ひ賞するに堪へ

一夜 閑吟す 旅思の空

 

「相海」相模の海(相模湾)の謂いであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(20)

  和子遷先生題江島石壁之作   越智正珪〔字君瑞 號雲夢〕

碧海祠檀捧玉盤。

金龜山上夏雲寒。

知君試賦觀濤色。

不讓枚乘八月看。

 

[やぶちゃん注:越智正珪(貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)は江戸中期の医師で儒者。曲直瀬(まなせ)平庵の子で、父の跡を継ぎ、養安院と称して幕府医官として出仕し、後に法眼となった。荻生徂徠に古文辞を学んだ。別号に神門叟、雪翁。著作に「懐仙楼集」「神門余筆」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 

  子遷先生の「江島石壁」と題するの作に和す   越智正珪〔字は君瑞、號は雲夢。〕

碧海の祠檀(しだん) 玉盤を捧ぐ

金龜山上 夏雲(かうん)寒(さび)し

知る君 試みに賦す 觀濤(かんたう)の色(しよく)

枚乘(ばいじよう)に讓らず 八月の看(かん)

 

「和子遷先生題江島石壁之作」の「子遷先生」は服部南郭の号で、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」を見ると、この詩の直前に「題江島石壁」と題する服部南郭の詩が載る。以下に示す(例によって訓読は私の勝手なものである)。

 

  題江島石壁

風濤石岸鬪鳴雷。

直撼樓臺萬犬廻。

被髮釣鼈滄海客。

三山到處蹴波開。

 

   江の島石壁に題す

  風濤の石岸 鳴雷と鬪(あらそ)ふ

  直撼(ちよくかん)す 樓臺 萬犬(ばんけん)の廻(くわい)

  被髮(ひはつ)して 鼈(べつ)を釣る 滄海の客

  三山 到る處 波を蹴つて開く

 

承句は波濤旋風の廻る音を無数の犬の吠え声に喩えたものか。「被髮」はざんばら髮で、映像は神仙のイメージである。

「枚乘」前漢の詩人。既注。

「看」は見守る、観察するの謂いで、詩に十全に詠じたことを言うか。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 21 先哲の詩(19)

  遊畫島風雨波惡不能探窟   川榮壽

孤島人間外。

綵雲千里連。

窟臨滄海上。

宮秀碧山巓。

風雨來搖樹。

波濤起蹴天。

明珠探不得。

何處驪龍眠。

 

[やぶちゃん注:川栄寿なる人物は明治一九(一八八六)年刊松村精一郎編「江山勝概」上冊の巻頭に漢文の「遊日光山紀行」なるものをものしており、同書目次には作者名『川 榮壽』の下に割注を入れ、『字萬年 江戸人』とある。底本では二句目の「綵雲」が「緣雲」となっているが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの「相模國風土記」の「藝文部」で訂した。

 

  畫(ゑ)の島に遊ぶも、風雨・波(なみ)惡しくして、窟を探る能はず  川榮壽

孤島 人間(じんかん)の外(がい)

綵雲(さいうん) 千里に連なる

窟 臨む 滄海の上(しやう)

宮 秀(ひい)づ 碧山の巓(てん)

風雨 來つて 樹を搖らし

波濤 起つて 天を蹴る

明珠 探るを得ず

何處(いづく)にか 驪龍(りりよう) 眠らん

 

「綵雲」彩雲。

「驪龍」黒龍(こくりゅう)のこと。全身の鱗が黒い。特に驪竜 (りりょう) と呼ばれた場合は、顎の下に貴重な珠を持っているとされる。光を苦手とし、普段は深い海底に一匹で棲息し、光のない新月の夜にのみ、その姿を海底から現わすとされることから、海又は闇を司る存在として、魚を乱獲する者を海底に引きずり込むなど、一般には災厄を齎すものとして形象されることが多いが、水墨画との相性の良さから黒龍はしばしば画題ともなる(ウィキ竜」の記載を参考にした)。]

くろんぼ踊り 萩原朔太郎 (未発表詩篇)

 くろんぼ踊り

 

くろんぼ踊りのすさまじさ

肉慾淫樂踊りのすさまじさ

くつつく

ひつつく

ひつかく、つめる、

くすぐる、だきつく、

お禮に接吻

足に接吻

指に接吻

くるめくトニイのはだかの肉體

くろんぼ女の淫慾強烈

もつとも猛烈

トニイの體が血だらけとなり

トニイが倒れて叫ぶの息が絶えるまで

くんろぼの女の淫慾やまずすます、

舌とさきすつぽり齒の隱間にうかち入り

そうして息が絶えるまで

くろんぼ女の淫慾やすまず

ますますやすまず、

くろんぼ同志が肉體摩際のはげしきさ遊戲に、

くろんぼ炎日白日炎炎赤道炎々くるめくくるめく天は白金、熱體地方のことなればひるひかな、

くろんぼ踊りのすさまじさ、

肉慾踊りのすさまじさ、

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集第三巻「未發表詩篇」より。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。幾つかの誤字と思われるものもそのまま写した。底本改訂本文では以下のようになっている。

 

 くろんぼ踊り

 

くろんぼ踊りのすさまじさ

淫樂踊りのすさまじさ

くつつく

ひつつく

ひつかく、つめる

くすぐる、だきつく

お禮に接吻

足に接吻

指に接吻

くるめくトニイのはだかの肉體

くろんぼ女の淫慾強烈

もつとも猛烈

トニイの體が血だらけとなり

トニイの息が絶えるまで

くろんぼ女の淫慾やすまず

舌さきすつぽり齒の隙間にうがち入り

さうして息が絶えるまで

くろんぼ女の淫慾やすまず

ますますやすまず

くろんぼ同士が肉體摩擦のはげしき遊戲に

くるめくくるめく天は白金、熱帶地方のひるひなか

くろんぼ踊りのすさまじさ。

 

と句読点から何から何まで御説御尤もな完膚無きまでの『訂正』が施されて、実に美々しい優等生の装いとなっている。これはまさに写真館で撮ったお澄ましの余所行きの出で立ちだ。何度も申し上げるが、私は筑摩版全集の『訂正』本文なるものを、詩人の全集の定本本文と素直に認めることに頗る躊躇を感じているものである。

 なお、私は本詩は特に「トニイ」という固有名詞から、何らかの活動写真(映画)を素材としているように思われる。ふと浮かんだのは Josephine Baker なのだが。識者の御教授を乞うものである。]

萩原朔太郎 短歌五首 明治三六(一九〇三)年八月

野より今うまれける魂をさなくて一人しなれば神もあはれめ

沁(し)みにしは無花果(いちじく)の葉の乳(ちゝ)のごと淸らにあまきおもひなりける

あめつちを歌にたたへし昨日(きのふ)けふは薊の精(せい)戀ふる人

おくつきは大(おほ)あめつちの一つ石と笑みも入らばや寢ばやそのした

もとめわび信(しん)のろひて歸れるに心はうつろ身はもぬけがら

[やぶちゃん注:『明星』卯年第八号・明治三六(一九〇三)年八月号の「無花果」欄に「萩原美棹」の名義で掲載された。萩原朔太郎満十六歳。この五首、短歌嫌いの私が何故か、ひどく気に入ってしまったことを告白しておく。]

唯正しく考へ正しく語ることに努めなければならない。決して他の人々を己の趣味の思想に從はせようとしたはならない。これは餘りにも大それた企である。(ラ・ブリュイエール)

唯正しく考へ正しく語ることに努めなければならない。決して他の人々を己の趣味(このみ)の思想(かんがへ)に從はせようとしたはならない。これは餘りにも大それた企である。

(ラ・ブリュイエール「カラクテール 上 又の名 當世風俗誌」関根秀雄訳(岩波文庫1952年刊)より「第一章 文學上の著作について」の「二」)

花と咲け  八木重吉

鳴く 蟲よ、 花 と 咲 け

地 に おつる

この 秋陽(あきび)、 花 と 咲 け、

ああ さやかにも

この こころ、 咲けよ 花と 咲けよ

鬼城句集 冬之部 冬の雲

冬の雲   冬雲を破りて峯にさす日かな

 

       過關原

 

      冬雲の降りてひろごる野づらかな

 

[やぶちゃん注:本「鬼城句集」の場合、前書を持つものは非常に少ない。それらは皆、鬼城が句理解のためにあるべきものと配慮して附されたものと見て間違いなく、この場合も、そうしたより効果的な映像効果を齎すためのものと考えられ、とすれば「過關原」は最も知られたかの岐阜県の「關ヶ原を過ぐ」以外には考えられず、「過」ぐとするところからは東海道本線の車窓詠としてよいであろう。殆んど高崎から出ることのなかった鬼城の句の中では珍しい羈旅吟である(但し、既に注した通り、高崎は彼の郷里ではない。再掲しておくと、鬼城は慶応元(一八六五)年に鳥取藩士小原平之進の長男として江戸に生まれたが、八歳(明治五(一八七二)年)の時に群馬県高崎市に移り住んだ(十一歳で母方の村上家の村上源兵衛の養子となって村上姓を名乗る)。後に高崎裁判所司法代書人となって以後は亡くなるまでの一生を殆んど高崎で過ごしている。ただ、この事蹟については未だ私には多くの不審がある。の私の注をお読み戴きたい)。]

      冬雲の凝然として日暮るゝ

2013/12/23

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 ゴカイの横分裂



Bunretugokai2

[「ごかい」類の分裂]

 

 海に住む「ごかい」の類には盛に分裂によつて蕃殖するものがある。但し前後同じ大きさの兩半に切れるのではなく、體の後端に近い處に縊れが生じ、始め小さな後半が次第に大きくなつて終に完全な一疋となるのであるから、分裂と芽生との中間の生殖法である。その上二疋が離れぬ間に兩方とも更に何囘も同樣な生殖法を繰り返すから、終には大小さまざまの個體が鎖の如くに竝んで臨時の群體が出來る。しかし各個體が生長するに隨つて、舊く縊れた處から順々に切り離れる。こゝに掲げたのは先年房州館山灣で捕れた「ごかい」類の寫生圖であるが、大小數疋の個體が恰も汽車の客車の如くに前後に連續して居る具合は、分裂生殖の見本として最も宜しからう。

 



Bunretugokai1

[館山灣で捕れた「ごかい」類(約四倍大)[やぶちゃん注:この拡大率は原典のもの。]]

 

[やぶちゃん注:「ごかい」狭義の「ゴカイ」はかつては Hediste japonica の和名として当てられていたが、近年、この狭義の「ゴカイ」類は、

環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属 Hediste

に属する以下の三種に分類されるようになり(一九九九年から二〇〇〇年にかけての乳酸脱水素酵素などアロザイム及び疣足・剛毛の形態比較分析の結果、形態的に良く似た複数種が混同されている事実が明らかとなったため)、生物学上の単一種としてのゴカイという標準和名は消失した(詳しくは「公益社団法人日本動物学会」のトピックスにある佐藤正典氏の「博物館の標本のありがたさ―「ゴカイ」の研究からわかったこと―」を参照されたい)。

 ヤマトカワゴカイ Hediste diadroma

 ヒメヤマトカワゴカイ Hediste atoka

 アリアケカワゴカイ Hediste japonica(旧和名「ゴカイ」)

但し、「ごかい」は現在でも、日本での記載種は千種を超えるところの、

 広義の多毛綱全体の総称

或いは、

 多毛類の中の一つの科であるゴカイ科に属する多毛類の総称

としてもごく当たり前に使われる。一般には釣りの餌で知られる海中を自由遊泳をする遊在性の上記の三種や同じくゴカイ科のイトメ Tylorrhynchus heterochaetusなどを「ゴカイ」としてイメージし易いが、実際には棲管を形成し固着して動かないケヤリムシ目ケヤリムシ科 Sabellidae のケヤリムシ Sabellastarte japonica や同科のエラコ Pseudopotamilla occelata のような定在性多毛類(かつて一九六〇年代頃まで多毛綱はこの固着性の定在目と自由生活をする遊在目の二目に分類されていたが、これは従来から安易な実体観察に基づく多分に非生物学的な分類であるとする疑義があり、分類の見直しが進んだ現在はあまり用いられない)をやはり普通に「ゴカイの仲間」と呼んでいる。ここで丘先生が言っている「ごかい」は、所謂、前者の広義の「ゴカイ」=多毛類の使用例である(ゴカイ科以外でも分裂生殖を行う多毛類は多い)。

 かつて、この部分を読んだ時に私が真っ先に思い出したのは、生殖時期になると大量の生殖型個体が出現して群泳する多毛綱イソメ目イソメ上科イソメ科 Eunicidae に属する Palola siciliensis (通称・太平洋パロロ)であった。熱帯域のサンゴ礁に棲息し、サモア・フィジー・ギルバート諸島などでは毎年十月と十一月の満月から八日目或いは九日目の日の出前の一~二時間に限って海面の直下に浮上して来て、生殖のために驚くべき量の生殖個体が群泳をする。泳ぎだす部分は体の後方の三分の四程度で、泳ぎながら生殖が行われのである(この部分は今島実氏の「環形動物多毛類」(生物研究社一九九六年刊)に拠るが、「工房"もちゃむら"の何でも研究室」のドラえまん・柴田康平氏のサイト「ミミズあれこれ」の中の「(3)月とミミズ 月の満ち欠けでミミズが出現するメカニズムを考える」に引用されたものの孫引きである)。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「イソメ」にも、以下のように記されてある(ピリオド・コンマを句読点に代えた。「バロロビリテス」の「バ」には荒俣氏の附したママ注記代わりの傍点「・」が上に附されてある)。

   《引用開始》

 鈴木経勲〈南洋探検実記〉によれば、フィジー島では毎年1回、11月15日になると、〈バロロビリテス〉という海生の奇虫が海の表面に一群となって浮び上がる。現地人はこぞって船を駆って海に出て、この虫を捕獲する。それらを塩漬にして蓄え、祝典用の料理にするという。これはイソメ科の1種パロロ Palola siciliensis である。正確にいえば、毎年2回、早朝に体の後半部が切り離され泳ぎだしたパロロが、水中で生殖を行なうときの奇観である。ちなみに、これを食べた経勲は、淡白で塩味と磯の香りを合わせもったその味はナマコのようで、酒の肴(さかな)などにすれば絶好の珍味であろう、と報告している。なお、この切り離された部分のみをパロロとよぶこともある。

 日本でも日本パロロ(英名 Japanese palolo)の遊泳が見られるが、こちらはイトメ Tylorrhynchus heterochetus の生殖時浮上であり、イソメのなかまではなくゴカイ科 Nereidae に属する生物の活動である。

   《引用終了》

とある。因みに鈴木経勲(つねのり(けいくん) 嘉永六(一八五四)年~昭和一三(一九三八)年)は南方探検家で、「南洋探検実記」は明治二五(一八九二)年博文館刊で、国立国会図書館のデジタル化資料で閲覧出来ることが分かったので近日中にこの部分を電子化して追加したく思っている。なお、私はこのパロロについて三十年ほど前に、南洋関連書を渉猟して、十数頁に及ぶ覚書を作ったことがあるのだが、どう探しても見つからない。発見した際にはやはりここに追加したい。なお、このパロロ料理については例えば、個人ブログ「~最後の楽園 サモアの国へ~青年海外協力隊」の「サモアの珍味“パロロ”解禁!」をお読みあれ。そこには『バターで炒めるのが定番らしい。海水の塩味が効いていて意外とうまい』とある。また、このパロロ食を含め、ゴカイ食については、私は既に「博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE  “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!」で比較的長い論考をものしている。ご興味のあられる方は是非、お読み戴きたい。

 なお、ここで丘先生の示す分裂がイメージ出来にくい向きには、私の御用達のブログ「世界仰天生物日記」の『どんどん増える!ゴカイの仲間「カキモトシリス」』の画像をお勧めする。この美しいゴカイ超科シリス科Syllidae Myrianida 属カキモトシリス Myrianida pachycera は体長一・五~三センチメートルで、本州中部以南の岩礁性海岸や転石海岸の低潮線付近に棲息し、オーストラリアにも分布。淡い紫色の体色と、太くてやや平たい感触手や触鬚を持つ。写真ように尾部に嬢個体を数多く附加して、無性的に増殖することを通常の生殖法とする(データ部分は西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」(保育社)に拠った)。

 もう既にお分かりのことと思うが、私は実は何故かゴカイ類がすこぶる附きで好きなんである。もっと注したいところが、ここは一先ず、ストイックにここまでを以って我慢することと致そう。]

明恵上人夢記 30

30

一、同六月一日の夜、夢に云はく、在田郡に故鎌倉大將殿居られて、既に將(まさ)に出で去らむとすと云々。又、宮原の尼御前等、將に出で去らむとすと云々。又、兵衞尉之許より一通の消息を得たり。彼の中を開きて之を見るに、銅を以て之を造れる寶具也。即ち、是花嚴宗(けごんしう)目錄也。傍に湯淺の尼公有りて云はく、「本は得てむ」と。心に思はく、此の兵衞尉、花嚴經書寫の大願有り。是、尋ね得て寫したる本也。數人の中に於いて之を見ると云々。

[やぶちゃん注:後半部、披見している対象がどのようなものであるか、今一つ、私には定かでない。薄い銅版を彫琢して出来た珍しい経巻と私はとったが、大方の御批判を俟つものである。

「同六月一日」建永元(一二〇六)年六月一日。

「故鎌倉大將殿」この呼称は源頼朝とその子頼家が相当するが、ここは頼朝と考えて差し支えあるまい。底本の注でも『文覚との関係が深い頼朝か』とある。無論とっくの昔(建久一〇(一一九九)年)に亡くなっている。

「宮原の尼午前」底本注に、『明恵は紀州の宮原光重と親交があった。その妻を指すか』とあるのみで詳細不詳。「宮原」から連想すると、明恵の出生地に近い、現在の有田市宮原町があり、ここは「15」で見たように明恵の隠棲地の近くでもある。

「兵衞尉」不詳。

「湯淺の尼公」底本注に、『湯浅宗光の妻か』とある。明恵の保護者であった湯浅宗光は14で既注。彼は紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を領していた。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

30

一、同六月一日の夜、見た夢。

「私の故郷在田郡(さいたのこおり)に故鎌倉右大将頼朝殿が居られたが、今まさにそこを出立なされようとするところであった。……

……また、その夢の中では別に、宮原の尼御前らが、やはり今まさに出郷なさろうとするところも見た。……

……また、兵衛尉殿のもとより一通の消息が送られてくる。その分厚い書簡を開いて、この中を見てみると、そこにあったのは銅を以って鋳造された宝具であった。そしてそれは則ち、何と、銅で造られたところの華厳経の経典目録なのであった。私の傍には湯浅の尼君が坐っておられ、私に、

「――あの本はかくも得ることが出来ましたよ。」

と仰せられた。

 私は心の中で

『……ああ! かの兵衛尉殿は確か、華厳経全巻を書写せんとの大願を持っておられた。……そうか! これはそのために探し尋ねて得、それをかくも荘厳に写した本なのだなぁ!……』

と、とてもありがたい気持ちに包まれながら、他にも数人の人々が取り巻く中に於いて、その華厳経の銅で出来た経巻を厳かに私は披見しているのであった。……

栂尾明恵上人伝記 66

 又云はく、人の非あることを、或は聞き、或は見て、謗(ぼう)ずること、穴賢(あなかしこ)あるべからず。學道の者に三機あり。上機の人は、心に人我(にんが)の相(さう)なければ、更に心にかゝることなし。中機の人は一念浮べども、人我なき理を存ずる故、二念と相續きて思ふことなし。下機の人は、無相(むさう)の理まで辨へねども、人を傷ましめざらんことを思ふ慈悲ある故に、敢て心にも思はず、口にもいふことなきのみならず、人のいふをも切に制し宥(なだ)むる、これありがたき人なり、而るを此の三機の外に必ず墮地獄の心ある怖しき罪人あり。人の非を心に思ひ口に云つて、人の生涯を失はんことを顧みず、人の耻辱たるべき事を顯はす。是れ何の料(れう)ぞや。人の非あらば、其の人の非なるべし。然るを傍にていへばやがて我が罪と成るなり。詮なきことなり。人の恨を蒙りぬれば、又怨を結びて如何なる難にも値はせらるべし。返す返すも斟酌あるべきなり。若し世の爲、法の爲ならば、諸佛諸神世にまします、其の誠(いまし)めに任すべし。敢て我と心を發(おこ)して云ふことなかるべし。心紛々として押へ難く、口むくめきて云ひたくとも、深く閉ぢ、深く押へて、少しきも他に云ふことあるべからず。若し聞くべきならば、其の人に向ひては教訓をも成すべし。
[やぶちゃん注:「穴賢」副詞で下に禁止の表現を伴って、「決して~(するな)」「ゆめ(ゆめ)~(してはならない)」の意。
「人我」我執。執着心。]

栂尾明恵上人伝記 65

 或る人の云はく、佛法いまだ渡らざる先は、震旦・本朝に壽福共に豐かなる人、何の力に依れるにやと云々。是の問(とひ)、答へんとするに足らず。我が朝に未だ佛法なかりし時は、震旦に盛なり。震旦にいまだ無かりし時は、天竺にあり。天竺に無かりし時は西方にもあり、東方にもあり。無始より佛々出世(しゆつせ)し、無量の世界に佛・菩薩みちみちて佛法を弘通(ぐつう)せずと云ふことなし。彼の國の衆生は此の國に生れ、此の國の衆生は彼所に生ず。されば佛法の渡らざりし所なればとて、佛法を修したる人の生れざるべき理あらんや。かりそめのことまでも、佛法の恩に非ずと云ふことなし。かく厚く深く佛法の恩を蒙つて、人界に生を受け福祿に飽ける者、一々に佛法の恩といふことを知らずして、佛法に向ひて愚なる振舞を致し、庄園・田畠を惜しみ、珍財をなげず、伽藍をも興せず、法理をも明めずして、一生空しくして過すこと、大愚痴(だいぐち)、はかなくも哀にもあさましくも覺えたり。さらば諫むるに聞くべきをば直に教訓し、諫むるに聞かざるをば方便を廻らすべし。俗家は福を增長せんが爲に、好んて施を行ぜんことを勵むべし。僧侶は罪を怖畏(ふゐ)するが故に、強(しひ)て受けざらんことをなすべし。况や僧として寺領・三寶物財の爲に、祕計を廻らすことあらんや。さるに付きては彌〻在家の誹謗を受け、三寶を輕(かろ)しめて、一所轉變(てんぺん)するのみにあらず、二所三所に及びて悉く伽藍荒廢の地と成るべし。是れ俗家の咎はさることにて、皆僧の不當なるに依りてなり。見(み)及び聞(きゝ)及びもしたまふらん。高辨ほどの無德の法師なれども、物のほしき心のなき故にやらん、物たばんと申す人は、貴賤につきて多けれども、老僧が物掠(かす)め取らんとする人更になし。人の寄進するまゝに許さんには、此の山中に千僧も任しぬべし。人のたぶまゝにて取らば、此の寺内に數十の庫(くら)をも立つべし。されども、旁(かたがた)存する子細ありて、我が受用聊かの外は受くることなし。是れ末代なりといへども此(かく)の如し。其の所の寺領の相違し違亂するは、其寺の住僧の失(しつ)なるべし。我が方を顧みて恥ぢたまふべし。人を恨み人を嗔(いか)ることあるべからずと云々。
[やぶちゃん注:「震旦」中国。
「無始」原義は、万象は因縁で成り立っており、その因を幾ら遡っても果てしがなく、始めがないということ。転じて、無限に遠い過去、大昔の意。
「弘通」「ぐずう」とも読む。仏教が広く世に行われること。
「福祿」俸禄。現実世界に於いて具体に与えられるあらゆるものを指す。後文から所謂、社会的な給与である知行・扶持・切米などを指すことが分かる。
「此の寺」栂尾高山寺。]

耳嚢 巻之八 剛氣朴質の人氣性の事

 剛氣朴質の人氣性の事

 

 太田志摩守は吉田彌五左衞門弟子、一刀流を好みしが、彼(かの)譜代家來笠原伊左衞門忰(せがれ)與市といへる者は、吉田一帆齋が門弟にて飽(あく)まで出精なせしが、彌五左衞門は一帆齋兄なれども、流儀同樣の内、遣ひ方には銘々工夫ありて小異ありしが、或時志摩守與市にむかひ、爾(なんぢ)が師の一帆齋が弟子に我(わが)組のものもあれど、遣ひ方小手前(こてまへ)にて、我(われ)彌五左衞門に習ひしとは大きに違ひあり、彌五左衞門弟子の家來もあれば、爾が太刀筋をくらべ見べし、品(しな)により我も相手にならんとありけるゆゑ、彼(かの)彌五左衞門弟子と立合(たちあひ)けるに、四五人與市にかのふ者なし。さらば我(われ)立合(たちあは)んとありしを、たつて辭退なし、親も出で、忰がいらざる劍術の出(で)かし達(だて)と佗(わび)けれど、無我なる氣性の太田故、くるしからずとて立合しが、何の苦もなく志摩守負ける故、忰を師範いたすべきとありしが、是は彌五左衞門かたの風と同流なれば、學びしかるべし、御相手はいたすべきと、達(たつ)て辭退して、其通りに成(なり)しとなり。朴突の武人成(なり)しが不幸にして若死せしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一刀流吉田一帆斎(前話注を参照)談話で直連関。清涼感のある武辺譚である。

・「太田志摩守」底本の鈴木氏注に、『資同(スケアツ)。天明六年(二十四歳)家督。三千石。御使番、御先鉄砲頭などを経て、寛政六年日光奉行、八年御小性組番頭、十年西城御書院番頭』とある。天明六年は西暦一七八六年であるから、生年は宝暦十三(一七六三)年である。「『鬼平犯科帳』Who's Who」の「太田運八郎資同」によれば、彼は太田道灌の直系で、火付盗賊改方長谷川平蔵宣以(のぶため 延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)、所謂、鬼平の助役を務めたとある。

・「吉田彌五左衞門」清水礫洲著「ありやなしや」に『浜松水野家(遠江浜松水野越前守)の浪人吉田弥五右衛門』とある。

・「小手前」岩波の長谷川氏注に、『小ぢんまりしたさま』とある。

・「出かし達(だて)」「達(だて)」は底本のルビ。「出来(でか)し立(だ)て」で、「してやったり!」と得意そうにふるまうことを言う。

・「學びしかるべし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、『御学び知るべし』で意味がよく通る。そちらを採用した。

・「朴突の武人成しが不幸にして若死せしとなり」の「朴突」は底本では右に『(朴訥)』と訂正注がある。さてもこの主語は誰なのか、やや疑問ではある。単に話柄の展開から見るならば、太田志摩守の豪放磊落な個性(そのために呵々大笑させた)がかく称賛するに相応しい感じにも見えるが、根岸が志摩守クラスの者をかくも名指して称揚するというのは非礼であるし、彼は肩書を見るに若死にしている感じではない。そもそも太田は結構お喋りで『朴訥』という語はやや合わない気がする。さすればやはりここで、朴訥の武人にして残念なことに若死にした、というのは笠原与一を指すと考えずばなるまい。これは次に続く与市の話柄から見ても正しいものと私は考えている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛毅朴訥の人の気性の事

 

 太田志摩守資同(すけあつ)殿は吉田弥五左衛門に師事なされ、一刀流を好まれたが、この御仁の譜代の家来の内の、笠原伊左衛門が倅(せがれ)与市と申す者は、吉田一帆斎の門弟にして、その剣術精進たるや、すこぶる附きと知られて御座った。

 大田殿が師の弥五左衛門はこの一帆斎の兄であったが、流儀同様乍ら、その太刀遣いには、それぞれに工夫が御座って微妙に違いが御座ったと申す。

 ある時、志摩守殿が与市に向かい、

「……汝が師である一帆斎の弟子が我が組内におれど、その遣い方はやや小ぢんまりと致いて見え、我らが師弥五左衛門殿に習(なろ)うたそれとは、これ、大きに違いがあるとみた。……拙者の家来の内にも弥五左衛門殿が弟子の家来もこれ、ある。……されば、汝が太刀筋と見較べてみとう思う。また、その様子によっては、我らも相手になろうぞ。」

との仰せで御座った。

 されば与市、その名指された弥五左衛門の弟子なる家士らと立ち合(お)うたところが、四、五人が向かったものの、この与市に敵(かな)う者、これ、一人も御座ない。

 すると、太田殿、

「……さらば、我ら、立ち合わんとするぞ!」

との仰せであった。

 流石のことに与市、

「……そればかりは……どうか御勘弁を!……」

とたって辞退なし、親の伊左衛門までが出でて参って、

「……倅のいらざる剣術の出来(でか)し立(だ)て……どうか、切に御許し下されい!……」

と平身低頭、詫びを入れた。

 ところが、太田殿、これ、如何にも我意なき御気性であられたによって、

「いやいや、苦しゅうない。全くの素直なる我らが望みじゃ。一つ、立ち合(お)うて呉れい。」

と、笑みを浮かべて仰せられたによって、仕方のぅ、与市は立ち合(お)うた。

――と

――与一

――何の苦もなく

――殿の刃先を跳ね飛ばし

――一瞬にして

――志摩守殿の負けと相い成った。……

 されば、志摩守殿はその場にて、

「伊左衛門! この倅、我が師範と致すぞ!」

との仰せであった。

 しかし、伊左衛門と与市は、

「……この者の太刀筋は、これ、殿の師たる弥五左衛門殿が一刀流と同流なればこそ……殿は既にして、その太刀筋の極意を学び知っておられますればこそ……そうさ、ただ、不肖の倅乍ら、稽古の御相手ほどならば、これ、勤まりましょうほどに。……」

とやはり、たって辞退をなしたによって、太田殿は、

「そうか! ハッ! ハッ! ハッ! ハッ!」

と呵々大笑なされ、その通りになされたと申す。

 

 この笠原与市と申す者――如何にも清々しき朴訥の武人――で御座ったれど、惜しいかな、不幸にして若死致いたとのことで御座った。

萩原朔太郎 短歌七首 明治三六(一九〇三)年八月

紅梅に二十年を倦みし人の如おのづからなる才ふけにけり

 

よれば戸に夢たゆげたげの香ひあり泣きたる人の宵にありきや

 

相見ざる幾年へぬる君ならむ肱細うして泣くにえたえぬ

 

いささかは我れと興ぜし花も見き今寂寞たえぬ野の道

 

はらからが小唱になりし我が戀にあたたまるべき水流れゆく

 

魂は人にむくろは我に露ながら夏野の夢のなごり碎くる

 

名なし小草はかな小草の霜ばしら春の名殘とふまむ人か

 

[やぶちゃん注:『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首。第三首及び四首の「たえぬ」はママ。萩原朔太郎満十六歳。

 初出では三首目が、選者服部躬治(既注済)によって、

 

相見ざる幾年へぬる君ならむ肱細うして寄るにえたえぬ

 

と朱をいれられて載る。但し、直後に、

  原作の五句、「泣くにえたへぬ」。

という注記を附して斧正であることが示されてもある(太字「泣く」は底本では傍点「△」)。

六首目「魂は人にむくろは我に露ながら夏野の夢のなごり碎くる」の歌の後に、

  悲思哀調。

  又云。原作の三句「歸りきて」「太古さながら」とありき。

と、選者服部躬治の選評がある。この記載に基づいて別稿を復元しておく。

 

魂は人にむくろは我に歸りきて夏野の夢のなごり碎くる

 

魂は人にむくろは我に太古さながら夏野の夢のなごり碎くる

 

私は個人的は「歸りきて」が好みである。

『文庫』は明治二八(一八九五)年九月創刊の投稿文芸雑誌(明治四三(一九一〇)年八月終刊。通巻二四四冊)。明治二一(一八八八)年創刊の『少年園』から分かれた『少年文庫』が前身だが、小説・評論・詩・短歌・俳句などの新人育成の場として勢力を持つようになり、特に詩人や歌人にはこの雑誌を登龍門として後に一家をなした者の数は夥しい。『文庫派』の別称を持つ河井酔茗・伊良子清白・横瀬夜雨・塚原山百合(後の島木赤彦)らを初めとして北原白秋・窪田空穂・三木露風・川路柳虹らの大家を輩出した雑誌であった(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

キリスト教の祕密 萩原朔太郎

  キリスト教の祕密

 

「お父さんなぜお酒を飮むの?」

と、いつも晩酌の時に子供が言ふ。この女の兒は、生れつき少し痴呆で、低能兒の居る特殊學校に入園し、メソヂストのキリスト教を信仰してゐる。それで酒を飮むことが、神の教に背いた惡事だと教へられてる。子供は泣きながら私の手から盃を奪つて言ふ。

「お父さん。なぜお酒を飮むの?」

 心の中で泣きながら、私もそれに答へて言ふ。

「それはね。僕にはいろいろな惱みがあるからさ。」

「ではなぜお祈りをしないの。マリア樣にお祈りなさいね。お父さん!」

 この子供の言葉を聞く毎に、私はキリスト教といふ不思議な宗教の、眞の祕密なエスプリに觸れた思ひがする。大道の救世軍が、太鼓を叩いて禁酒運動の説教をするのを聞いて、私はいつもキリスト教といふ宗教が、いかに馬鹿馬鹿しいものかといふことを考へる。酒を飮むといふことが、何故神の道に背いた惡事なのか、いかにしても私の理性には了解できないことなのである。だがその同じ言葉が、白痴の子供の口から出る時、初めてよく了解されたやうに思ふ。

 キリスト教といふ宗教は、ヒユーマニチイの最も純潔なイデーを求めて、絶えず葛藤し續けてる宗教なのだ。それは白百合の潔白さにも、童貞の美しさにも、處女の純潔さにも譬へられる。だがもつと本願的に祕奧のものは、白痴の子供に聖靈されてるエスプリなのだ。ドストイエフスキイもそれを書いたし、辻野久憲もそれを言つたし、山岸外史もそれを見たし、ヱルレーヌやボードレエルも、抒情詩の韻律でそれを歌つた。

 キリスト教に對比して、私はいつも佛教のことを考へる。教理の深遠さから言へば、この二つの宗教は比較にならない。ショーペンハウエルが揶揄したやうに、キリスト教でもつて佛教の教理に當らうと考へるのは、卵を岩石に投げるやうなものである。新井白石が、葡萄牙人の傳道師に面接し、初めてキリスト教の概念を聞いた時、その神話の荒唐無稽さと、その教理の非論理極まる馬鹿馬鹿しさに啞然とし、これがかの大智識と大科學を所有するところの、地球第一の理性人たる西歐人の宗教とは、いかにしても考へることができないと言つて不思議がつた。佛教の教理は、すくなくとも或る本質の點に於て、今日最高の發達をした科學や哲學と矛盾なくして對抗し得る。だが今日の常識から見ても、キリスト教は素朴な子供臭いお伽話にしかすぎないのである。

 だがそれにもかかはらず、キリスト教には不思議に深遠祕密なエスプリがある。それは大乘佛教の全哲學系統を以てしても、解決のできないユニイクの不思議である。たしかにキリスト教は、宗教の本質點に於て佛教とちがつて居る。だれにも直覺的に解ることは、佛教が「苦勞人の宗教」なのに對し、キリスト教が無垢な「青年の宗教」だといふことである。人生の多くの經驗と苦勞を味ひ、煩惱地獄と業火を經た中年者に取つて、釋迦の教はこの上もない救ひを與へる。だがキリスト教は、童貞處女の純潔さを持つた無垢の靑年にのみ、眞實の信仰が會得される。そこでキリスト教の純のイデーは、結局ムイシユキン公爵や、ヱルレーヌのやうな人人、魂の蕊から無垢で、全然世俗の常識を缺いた白痴(永遠の子供)に歸するといふことになるのだらう。反對に佛教の墮落した象徴は、苦勞人の世俗的な功利性になるかも知れない。キリスト教徒の純潔さに比して、佛教の墜落した僧侶等が、著るしく卑俗的に見えるのも當然である。マルチン・ルーテルの宗教革命は、羅馬教會の僧侶たちが、功利的に世俗化し、あまりに苦勞人化したことに對する反撃だつた。そしてその時には、事實上にキリスト教が佛教化してゐたのである。日本に來たヂエスイツト派のカトリツク教は、その爲に或る時期まで、巧みに佛教としてカモフラーヂし得た。

 

[やぶちゃん注:『こをとろ』昭和一四(一九三九)年四月号に掲載された。初出形は誤植が多く、本文は筑摩書房版全集第十一巻の校訂本文に拠った。本文中には「痴呆」「低能兒」「特殊學校」「白痴の兒」等の幾つかの現在は用いるべきでない差別的言辞が用られているので、そうした意識への批判的視点を忘れずにお読み戴きたい。

「女の兒」次女明子(あきらこ)。ウィキ萩原朔太郎」に『最初の離婚にまつわる家庭内のいざこざが原因で次女に知的障害が残』ったとする。

「メソヂスト」“Methodists”はプロテスタントの一派。一七二八年にウェスリーらがオックスフォードで組織したホーリー・クラブによる信仰覚醒運動に始まる。一七九五年には正式にイギリス国教会から分立、米国を中心として全世界に広まった。明治六(一八七三)年に日本に伝来した。同派の特徴的傾向である几帳面な生活様式や禁酒禁煙は創立者ウェスリーの厳格なピューリタン的性格に基づく部分が大きい。

「辻野久憲」(明治四二(一九〇九)年~昭和一二(一九三七)年)は翻訳家・評論家。福井県舞鶴生。第三高等学校から東京帝国大学仏文科卒。『詩・現実』に参加した。昭和五(一九三〇)年から翌年にかけて伊藤整・永松定とジョイスの「ユリシーズ」を共訳した人物として知られる。第一書房『セルパン』編集長、第二次『四季』同人。受洗して二十七歳で死去した(以上はウィキ辻野久憲」に拠った)。

「ヂエスイツト派」“Jesuit”はイエズス会(Society of Jesus)のこと。一五三四年にスペインのイグナティウス=デ=ロヨラが六名の同志と結成、一五四〇年に教皇の認可を受けたカトリック男子修道会。清貧・貞潔・同志的結合を重んじて布教・教育に力を注ぎ、同会士フランシスコ・ザビエルが天文一八(一五四九)年に日本に初めてキリスト教を伝えた。耶蘇会。]

赤ん坊が わらふ  八木重吉

赤んぼが わらふ

あかんぼが わらふ

わたしだつて わらふ

あかんぼが わらふ

鬼城句集 冬之部 霙

霙     樫の木に雀の這入る霙かな

[やぶちゃん注:「霙」みぞれ。雨と雪が混ざって降る気象現象。以下、ウィキの「霙」によれば、地上の気温が摂氏零度以上であり、且つ、上空一五〇〇メートルがマイナス六度以上マイナス三度未満の時に降ってくることが多い。雨が雪に変わる時及びその逆の時によく見られる。なお、霙は気象観測の分類上は「雪」と同じ扱いとして記録される。例えば雪より先に霙が初めて降ったときは、それが「初雪」となる。但し、雨が凍ったり、雪が一部溶けて再び凍ったりするなどして生じた霰(あられ)は、「雪」と異なるものとして扱われる。従って、霰が降っている際には雨と雪が降っていても天気記録は「霰」となる。昭和五二(一九七七)年二月十七日に久米島(気象庁沖縄気象台久米島測候所)で霙を観測しており、これは沖縄県で史上唯一となる公式の雪の記録である。私がウィキが大好きなのはこういう痒いところというより、気持ちいいところを撫ぜてくれるからである。]

大槻文彦「言海」の「猫」の項 + 芥川龍之介の同項を批評したアフォリズム「猫」

ねこ(名)【猫】

[「ねこま」下略。「寐高麗」ノ義ナドニテ、韓國渡來ノモノカ。上略シテ、「こま」トモイヒシガ如シ。或云、「寐子」ノ義、「ま」ハ助語ナリト。或ハ如虎(ニヨコ)ノ音轉ナドイフハ、アラジ。]

古ク、「ネコマ」。人家ニ畜フ小サキ獸。人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ、竊盜ノ性アリ。形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル。毛色、白、黑、黄、駁等、種種ナリ。其睛、朝ハ圓ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ。陰處ニテハ常ニ圓シ。

〇ねこノ目。屢、變ジテ着落(トリトメ)ナキコト。

[やぶちゃん注:大槻文彦「言海」(明治二二(一八八九)年六合館刊)より。但し、一部の表示不能の表記や句読点・記号の一部を変更追加し、読み易くするために二箇所に改行を入れた。「蓄フ」は「かふ」、「駁」は「ぶち」、「睛」は「ひとみ」と読む。「(ニヨコ)」「(トリトメ」はともにルビ。]

   *

       猫

 これは「言海」の猫の説明である。

 「ねこ、(中略)人家二畜フ小サキ獸。人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ竊盗ノ性アリ。形虎二似テ二尺ニ足ラズ。(下略)」

 成程猫は膳の上の刺身を盜んだりするのに違ひはない。が、これをしも「竊盜ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壞亂の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性あり、蝶は浮浪の性あり、鮫は殺人の性ありと云つても差支へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦先生は少くとも鳥獸魚貝に對する誹毀の性を具へた老學者である。

[やぶちゃん注:大正十二(一九二三)年十一月発行の雑誌『随筆』創刊号及び翌十三年三月発行の同誌第二巻第二号に掲載された「雜筆」より。これらは後に『百艸』に「澄江堂雜記」として所収された。僕のテクストより引用した。]

2013/12/22

耳嚢 巻之八 一刀齋知見の事

 一刀齋知見の事

 

 一刀齋右流儀の始祖にて、諸國を遍歷して修行なし其名宇内に隱れなく、公儀にても入御聽に(おききにいり)可被召出(めしいださるべき)の御沙汰なりしが、未(いまだ)近國の殘りも有、志願不遂(とげざる)故恩免(おんめん)を願ひ、弟子の内(うち)神子典膳其術我におとらじ迚吹擧(すいきよ)なし、則(すなはち)典膳名苗字とも改(あらため)、小野治郎左衞門と名乘(なのり)、御旗本に被召出(めしいだされ)し也。然るに典膳は一刀齋一二の弟子たれども、典膳より先きに一刀齋に附添(つきそひ)廻國までなせし全龜(ぜんき)といへるありしが、彼(かれ)を除(のけ)て典膳を吹擧せし由。右全龜は元淀川の船頭にて飽(あく)までの強力(ごうりき)者にて、典膳より先に門下たる者なり。其始を尋ぬるに、一刀齋長き刀をさして淀舟に乘(のり)しを彼(かの)船頭見及びて、劍術遣ひにも有(ある)べし、長刀(ちやうたう)こわくなしなど嘲り笑ひ、いかなる者にても我(わが)力量に勝るべき覺(おぼえ)なし、いで力を見せんと、乘合の好(よしみ)に任せあたりに繫(つなぐ)舟を片手に傾け、水一盃入れて又右の船を打返し水をこぼして元の如くなしけるゆゑ、一座膽(きも)を潰し一刀齋も驚歎(きやうたん)せしが、兎角勝負を望(のぞみ)れば一刀齋いわく、かかる力量、我(われ)勝(かつ)べきと覺へざれども、勝負なさば我も死までも可立合(たちあふべし)とて、右船頭倶々(ともども)船より上(あが)りければ、乘合其外往來の者も、見物事(みものごと)なり、あはや彼(かの)侍は打ちころされなんと、どよみ見物せしに、船頭は櫂(かい)を引提(ひつさげ)、一刀齋は刀を拔(ぬき)放ち立向ふと見へしが、船頭輕々と櫂をふり上(あげ)て拜み打(うち)にうちしを、引はづしてむ手(て)にて襟元を押へしに、櫂は大地にあくまで打込(うちこみ)、拔(ぬか)んとすれども拔(ぬけ)ず。襟元を一刀齋押(おさへ)つけて、汝力量勝れたりとも、我手に懸け只今切害(せつがい)なすは眼前なり、右の心底を改め我に隨(したがひ)、刀劍の術修行なさば其功少(すくな)からずと諭しければ、先非を悔(くひ)、誤り入(いり)て一刀齋の門人となり諸國を供して遍歷せしに、右の恨(うらみ)を殘せしや、生質(せいしつ)の惡心にや、一刀齋が太刀筋習ひ覺(おぼえ)けれど、或は一刀齋が寢息を伺ひ、又は一刀齋が油斷あるべき所を伺ひし事度々ありしが、大量奇術の一刀齋ゆゑ諸國武者修行に召連れ、多分は右の者にまづ仕合(しあひ)をなさしむるに力量拔群故不勝(かたず)といふ事なく、彌(いよいよ)一刀齋は手を下(くだ)さずして其名いよいよ高し。然るに前に記せし典膳を吹擧の節、全龜大きに憤り、我は師に功もあり、典膳よりは先きに門入(もんいり)して隨身(ずいじん)なせしを、舊(ふる)きを捨て新ら敷(しき)を吹擧ある事、鬱憤なりと恨(うらみ)しかば、一刀齋曰(いはく)、汝が其昔を考(かんがふ)べし、淀舟の船頭なり、典膳は初(はじめ)より刀を差す浪士なり、扨又汝は一旦伏從(ふくじゆう)なすといへども、師恩を忘れ我に刃向ふ事、知るまじと思ふべけれど、あまたゝびなり、とく可殺(ころすべき)を是迄救置(すくひおき)しは我(わが)仁慈なり、かゝる無道の者を、公(おほやけ)へ吹擧なるべきやと申(まうし)ければ、全龜も一言なく閉口せしが、我等は典膳に後(おく)れ活(いく)べき所存なし、哀れ典膳と勝負を願(ねがひ)、我(われ)勝(かち)なば我を吹擧なし給へと云。典膳是を聞(きき)て、某(それがし)非力なれば全龜に殺されんは治定(ぢじやう)なれども、殺されなば我(わが)名目を以(もつて)、全龜を吹擧なし給へと兩人願ふゆへ其意に任せしに、兩人立(たち)わかれ、全龜は己(おの)が力を以(もつて)、典膳を一刀に打殺(うちころ)さんと拜み打(うち)にうちしに、典膳は一刀齋が傳授の極祕(ごくひ)拂(ほつ)といへる太刀にて、股(もも)よりすくひ切(きり)返す太刀の早業にて、肩より兩手へかけて切りければ、全龜は一刀四段となりしとかや。今小野治郎左衞門家にて、龜割(かめわり)といへる刀は、彼全龜を切りし刀の由、一帆齋かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。……根岸先生……これ、「耳嚢 巻之一」の「小野次郎右衞門出身の事 附 伊藤一刀斎齋が事」と殆ど同じでげしょう! うまくありませんなぁ……。偽装騒ぎの昨今、千話に偽りありと叩かれますぜ!……

・「伊藤一刀齋」(生没年不詳 「伊東」とも)一刀流剣術の祖でもある。底本の鈴木棠三氏の補注によれば、彼は寛永九(一六三二)年の家光の御前試合に召されたが、既に伊藤一刀斎は九十歳を越えていたとする。以下、注も「耳嚢 巻之一」の「小野次郎右衞門出身の事 附 伊藤一刀斎齋が事」の私のそれをほぼ援用するが、追加もしてある。また、現代語訳は第一巻の私の古い訳は敢えて読み返さずに全く新たに書き下ろした。

・「入御聽に(おききにいり)」読みの「に」は本文に出ている。

・「近國の殘り」意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『廻国の残り』とある。そちらを採る。

・「神子典膳」「小野治郎左衞門」小野次郎右衞門こと小野忠明(永禄一二(一五六九)年又は永禄八(一五六五)年~寛永五(一六二八)年)の誤り(訳では訂した)。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後にここに登場する兄弟子善鬼(本文の「全龜」)を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、二文禄二(一五九三)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上(みこがみ)典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。但し、底本の鈴木氏の「耳嚢 巻之一」の「小野次郎右衞門出身の事 附 伊藤一刀斎齋が事」の方の補注では、この記事の小野次郎右衛門・伊東一刀斎・将軍の人物には齟齬があることを指摘されており、この伊東一刀斎を召し出そうとした将軍が『家光を指すのであれば、家光に仕えたのは忠明の子忠常(寛文五年没)で』あるとし、更に、本文にあるように『小野家が千石を領した事実は、子孫にいたるまで』見られないとする。おまけに『忠常は家光の御前でしばしば剣技をお目にかけたが、その剣術は父から学』んだものであって、小野忠常自身は『一刀斎の門人ではない』と記された上、『この種の武勇譚では』、話者も読者も話柄の武勇談自体の力学が肝心なのであって、『史実と矛盾する点はあっても看過され不問に付されることが多い』といった主旨の注釈を施しておられる。

・「全龜」底本の本話の注で鈴木氏は、『三村翁注、「下総国相馬郡善鬼の塚あり、土人善鬼松といふ。」善鬼とも書く。典膳と小金原で雌雄を決したとき、善鬼が甕の後に隠れたのを、典膳は甕もろとも斬り下げた、その刀を瓶割刀と名づけ、小野家の宝刀としたと記した書も多い。善鬼と書くところを見ると、大峯の善鬼、日光古峯ケ原の善鬼と関係ある山伏系の者かという説もある』と記されておられる。ウィキの「伊東一刀斎」によれば、「一刀流口傳書」及び「撃剣叢談」によれば、一刀斎が弟子の善鬼と神子上典膳に勝負させたのは、下総国小金原(現在の千葉県松戸市小金原付近。なお「雜話筆記」では濃州桔梗ガ原(乗鞍岳の北)とする)であったとする。訳ではこの決闘場所を少し加味させた。なお、同記載の方では、典膳は後に一刀斎によって徳川家康へ推薦され、文禄二(一五九三)年に徳川秀忠に二百石で仕えたとする説を載せる。とすれば、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年であるから、この話、実に二百十五年も前のこととなる。伝説化するに十分過ぎる昔々のその昔の話ではある。

・「とよみ」「響(どよ)む」(平安中頃までは「とよむ」と清音であった)で、多くの人が大声をあげて騒ぐ。どよめく。

・「船頭輕々と櫂をふり上(あげ)て拜み打にうちしを、引はづしてむ手にて襟元を押へしに、櫂は大地にあくまで打込(うちこみ)、拔(ぬか)んとすれども拔(ぬけ)ず。襟元を一刀齋押つけて」の「む手」は「無手」で、手に何も持っていないこと、素手の意だが、この部分、私が馬鹿なのか、どうもシチュエーションが理解出来ない。諸本はここに一切注しないのであるが、私はここは錯文ではないかと疑っている。特に「襟元を押へしに」の箇所と、直後の一刀斎が「襟元を」「押つけて」という箇所の描写が妙にダブついているように思われる。ここは実は例えば、

……船頭輕々と櫂をふり上げて拜み打ちにうちしを、櫂は大地にあくまで打ち込み、拔かんとすれども拔けず。引はづしてむ手の彼(かの)者の襟元を一刀齋押へつけて……

といった文脈ではなかったろうか? この例で現代語訳した。大方の御批判を俟つ。

・「生質(せいしつ)」生まれつきの気質の謂いとしてかく読んでおいたが、「きしつ」かも知れない。

・「大量」心が広く度量が大きいこと。

・「奇術」神妙なる剣術の技。

・「拂(ほつ)」は底本のルビ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『払捨刀』(ルビなし)とある。

・「一刀四段」一刀のもとに両腕を切断する(左右の腕で「二」)と同時に腹部で胴も完全に截ち斬って(上半身と下半身で「二」)四断ということらしいが、どうすればそうなるかはちょっと想像し難い。ただ、一刀斎が修業時代に異様に長い太刀を持っていたと前にあり、典膳が彼から伝授された秘伝の太刀『払捨刀』というのがそれであるとするならば、棹のように長尺の、すこぶるしなりのよいものであって、例えば、打ち込んでくる全亀の両腕をまず切り落とし――「股」よりというのは、向かって来る全亀の右足を前に出した左下方向から「すくひ」上げて両腕を「切通す」の意で採り――、その直後に両腕を返して向かって左上から全亀の右肩から胴部にかけてを袈裟掛けに一気に『払捨』てる――といったことが可能な、恐るべき魔刀ともいうべきものででもあったのかも知れない。

・「一帆齋」ブログ「無双神伝英信流 大石神影流 渋川一流 ・・・ 道標(みちしるべ)」の「広島の剣術流派 3」で、「一帆斎流」を挙げ、『天明~寛政期に吉田一帆斎という浪人が広島城下で剣・槍・長刀を教え、時の藩主、浅野重晟もその業前を見たという』という「広島県史 近世2」からの引用がある。次の「剛氣朴質の人氣性の事」に「吉田一帆齋」の名が出るので彼であろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一刀斎の鋭き知見の事

 

 一刀斎は一刀流の始祖にして、諸國を遍歴して修行をなし、その名は天下に隠れなく、御公儀におかせられても、その技量の噂がお耳に入り、召し出ださんとの御沙汰で御座ったが、

「――未だ回国の修行をもし残し、とてものことに将軍家御出仕の志願を、これ、遂ぐるに足る技(わざ)を修めては御座らねばこそ――平に御許しあれかし――」

と辞去を願い出たが、その上で、

「――弟子の内、神子典膳なる者、これ、その術、我らに劣らざればこそ、将軍家御稽古の御相手の一人とは、これ、なりましょう。――」

と推挙し申し上げた。

 そこで典膳は名・苗字ともに改め、小野次郎左衛門と名乗り、御旗本として召し出だされたと申す。

 然るに、典膳は確かに一刀斎の一、二を争う凄腕の弟子にては御座ったれど、この典膳より先に、一刀斎に附き添うて、その廻国修行までもともに致いたところの、全亀(ぜんき)と申す高弟が御座った。

 その彼をさしおいて、二番弟子の典膳を推挙致いたということで御座った。

 さて、この全亀なる者は、元は淀川の船頭の出で、比類なき強力(ごうりき)者にして、確かに典膳より遙か先に門下となった者では御座った。

 その謂われを尋ぬるに…………

 

……かつて一刀斎、廻国修行の途次、恐ろしく長き刀を挿して、淀川の渡し舟に乗ったところ、かの船頭――後の全亀――がこれを見とがめ、

「――ワレ! 剣術遣いにてもあるかいノゥ? そないに長い刀――ヘッ! 怖くも何ともないワイ!」

なんどと無体に嘲(あざけ)り笑い、

「――どないな者(もん)でもナ! 我(わい)のこの力量(リキ)に、これ、勝てようはずも、ないワイナ!……オゥ! どないヤ?! 我(わい)の力(リキ)見したろかッ?!」

と申す始末。

 一刀斎、しかと致いて黙っておると、

「……まんずヨ! 我(わい)の舟に乗り合わせた好(よし)みっちゅうもんヤデ!」

と、ますます勝手に合点致いて、近くの川端に繋いで御座った同じほどの相応に大きなる空の渡し舟を、これ、片手だけで傾けると、淀の流れに軽々と沈めて、その舟内(ふなうち)に水を一杯に入れる。

 ところが――その、凡そ数人がかりにても持ち上がろうはずもない水舟を――これ、いとも簡単に――しかも、またしても片手で――軽々とひっくり返し――水をすっかり空けて、これまた元の如くに川面に浮かべおいた。

 されば、その渡し舟に乗り合わせた一座の者どもは、これ皆々、肝を潰し、一刀斎もまた、その怪力には驚嘆致いて御座ったと申す。

 するとかの船頭はなおも、

「――ワレ! ともかくもヨゥ! 我(わい)と、勝負せえヤ!」

と望んできかぬ。

 されば、一刀斎曰く、

「――かかる力量の持主となれば――我ら、勝つとも、これ、よう思わざれど――勝負を致す上は――我らも死するまで――立ち合い申そうぞ。」

と、その船頭ともども、舟より上がったと申す。

 乗り合わせた旅客その他、往来を行く者どもまでも、

「……こりゃ、見物(みもの)やで!……」

「……あ、あかん!……あのお侍は……き、きっとあの怪力なれば……打ち殺されてしもうでぇ!……」

と、大騒ぎとなって、皆、固唾を呑んで取り巻いて御座った。

 船頭は持ち舟の大きく長い櫂(かい)を引っ提げ、一刀斎はといえば、かの長い刀を抜き放って立ち向う。

――一瞬

――時が止まったかのように

――皆々

――息を潜めた…………

――と!

――船頭が軽々と重い櫂をふり上げた!

――かと思うと!

バッツ!

と!

――拝み打ちに一刀斎の真っ向に振り下ろした!

――次の瞬間!

ドスッツ!

と!

――櫂は

――空しく大地に

――深(ふこ)う打ち込まれて御座った。

……船頭、如何に抜かんとすれども

……いっかな抜けぬ!

……仕方のぅ、船頭は櫂から手を放した。…………

……と!

……素手の船頭のその襟元を

ザッツ!

と! 一刀斎、押さえつけ!

船頭に向かって、

「――汝、力量これ勝れたりと雖も――只今――我ら手に懸け、切り殺すは最早、目前なり。……どうじゃ? 一つ、ここにて心底を改め、我らに随い、刀剣の術を修行なさば――その功は少なからずあろうとは存ずるが――如何(いかん)?!」

と諭した。

 されば船頭は、すぐさまそこで先非を悔い、謝りいって、そのまま即座に一刀斎が門人となって、諸国を供して遍歷致いたと申す。…………

 

 されど……その折りの恨みを後々までも残したものか……はたまた、生まれつきの気質が、これ、悪しき心にてもあったものか……一刀斎の太刀筋を美事、習い覚えはしたものの……時に一刀斎が寝息を伺い……またある時は一刀斎の油断致いておろう所を伺うようなことも……これ、しばしば御座ったと申す。…………

 

 しかし、大いなる力量と神技に等しき剣術の持主で御座った一刀斎ゆえに、このような邪心を隠した男なれど、諸国武者修行に親しく召し連れ歩き、多くの他流試合にては、この者をまず組ませて戦わせた。

 すると、その力量や技は、これ、恐ろしく抜きん出て御座ったゆえに、どのような折りにても、これ、勝たぬということは御座らなんだと申す。…………

 

 されば、いよいよ一刀斎は手を下さずして、全亀の働きによって、一刀流の名は、これ、またいよよ高まって御座ったと申す。…………

 

 然るに、前に記したところの典膳を、これ、御公儀へ推挙致いた砌り、これを知った全亀は大きに憤って、

「……我は師に対し、一刀流を広めたる功もあり、典膳よりは先に入門致いて随身(ずいじん)仕ったに……まさに古き舎弟を捨てて、新らしき典膳如きを推挙あるとは……これ、我ら、鬱憤義憤を感ぜずんばならず!……」

と、痛く恨みを抱いて御座った。

 するとそれを察した一刀斎は、

「――汝がその昔をよう考えてみるがよいぞ。――汝は、もと淀の舟の船頭であったが、典膳は、その初めより、刀を挿す浪人であった。――さてもまた、汝は一旦、服従なすと雖も――師弟の恩をも忘れ、我らに刃(やいば)を向け刃向わんとすること――

……さぁて、これは、汝、我らがまるで知らぬと思うておったろうが、の……

……これ、総てお見通しであったわ……

――数多たびあった、での。

早(はよ)うに――『命をとらんに若かず』――と思うたを、これまで救いおいたは、これ、我が仁慈ゆえじゃ。――かかる無道の者を公(おおやけ)へ推挙など致そうはずが、これ、あろうものか!」

と叱咤致いたれば、全亀、一言もなく閉口致いて、その場は退いて御座ったと申す。

 しかし、じきに、

「……やはり……我らは典膳に先を越されて……生きてゆく気持ちは――これ、ない。……どうか、お師匠さま! 典膳と勝負を願おう!……しかして我らが勝ったれば、我を推挙し直して下されよ!……」

と訴えて御座った。

 また、典膳もこれを聞くと、

「……某(それがし)は非力なれば、全亀に殺されんは必定なれども……殺されたならば――我らの面目のためにこそ――全亀を推挙して下されよ。」

と両人、雁首揃えて師に願い出て参ったによって、一刀斎は遂にその意に任せ、真剣勝負を致いて、勝った方には御公儀への推挙と一刀流免許相伝を約すことと相い成って御座った。…………

 

 果し合いの場所は下総国小金原――

 両人、

――すっ

――立ち別れる……。

――全亀は己(おの)が力をためにため!

――典膳を一刀両断に!

――うち押し斬って殺さんものと!

――拝み打ちに!

――その太刀を!

――振り下ろさんとした!

が!

――典膳は

――前夜、秘かに一刀斎から伝授された秘伝の『拂(ほつ)』と申す恐ろしく長い太刀を以って、全亀の股の方より!

バラリ!

と!

――掬うように両の腕を切り落す!

――して!

――返す刀の早業!

ズン!

――と!

――全亀の右肩より左胴へと斬り下ろす!

……さても

……全亀の肉は

……実に一瞬にして

……一刀四断と

……なって御座ったと……申す…………

 

……今、小野治郎左衛門家にある伝家の宝刀「亀割(かめわり)」と称する刀は、その折り、かの全亀を切り裂いた刀であると、吉田一帆斎殿が、直かに私に語って下さった話で御座った。

北條九代記 院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定 承久の乱【十一】――三浦義村、院方の弟胤義の同盟を慫慂する私信を拒絶し、北条義時に報告、義時、院宣使推松を探索の上、捕縛す

平九郎判官胤義が、私(わたくし)の使を相副へて、同五月十五日都を出でて、同じき十九日鎌倉に著きて、駿河守にかくと告げたりければ、文を披見して、使をば追出し、駿河守義村は、權〔の〕大夫義時の許へ行きて、胤義が文を見せまみらせ、「世の中こそ亂れて候へ。去ぬる十五日、伊賀判官光季は打たれて候。義村に於いては、故右大將家平氏御追罸(つゐばつ)よりこの方度々の軍に忠義を致し、一度も不忠を存ぜす候。今より後も疎略を存すべからず」とて、誓言(せいごん)を以て、申し入れたり。義時打笑ひて、「さては心安く候、今まで此事の出來候はぬこそ不思議なれ。是は豫(かね)てより存知したることなり、今は院宣の御使推松も、鎌倉に入りぬらん」とて、尋ね搜されしに、笠井谷(かさいがやつ)より捕へて來りぬ。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十一】――三浦義村、院方の弟胤義の同盟を慫慂する私信を拒絶し、北条義時に報告、義時、院宣使推松を探索の上、捕縛す〉

「平九郎判官胤義が、私の使を相副へて」推松とは別にもう一人、プライベートな使者を兄三浦義村に立てたのである。胤義は先に見たように、秀康との謀叛謀議の初めから、「一天の君の思召立せ給はんに、何條叶はぬやうの候はん。日本國重代の侍共勅を承らんには誰か背き奉るべきや。」というとんでもなくお目出度い楽観論を述べた直後に、「拙者の兄にて御座る三浦駿河守義村などと申す輩は、これ、極めつけの愚昧の者にて御座る。こいつを味方に招じ入れて、『そなたを日本国の総追捕使にしておじゃる』などと仰せられて、鼻薬を嗅がせてやったれば、喜んで御味方に推参仕ること、これ必定で御座る。胤義も内密に奴(きゃつ)申し遣しておきましょうぞ。さあさ! 早う謀議の秘計をお廻らしなさいませ!」などと言っていた。これが具体なそれである。ただ、恐らくは謀議の間にもそれとなく義村への暗示的な慫慂は波状的にかけていたものと私は推理する。三浦義村という男は実朝暗殺後に於ける乳母子公暁誅殺伺などの一件を見ても分かるように、一筋縄ではいかないポーカー・フェイスの策士でもあった。逆にそれに気づかなかった胤義こそがいい面の皮、「極て嗚呼の者」だったのである。

「笠井谷」後に東勝寺が建立された葛西ヶ谷の誤り(後に載せる「吾妻鏡」巻二十五の承久三年(一二二一)年五月十九日の条にかくある)。「鎌倉攬勝考卷之一」に、
葛西ケ谷 大倉辻寶戒寺のうしろにて、此寺の境内となれり。傳へいふ、治承以來、葛西三郎淸重に給ひし地ゆへ葛西ケ谷とは號せりとぞ。
とある。「葛西三郎淸重」(応保元(一一六一)年?~暦仁元(一二三八)年?)は頼朝挙兵直後から付き従った武将で、幕府初期の重臣の一人。文治五(一一八九)年の奥州藤原氏討伐では父清元とともに抜け駆けの先陣を果たして奮戦、讃えられた。頼朝没後は北条氏に近い立場をとって信頼を勝ち取り、建暦三(一二一三)年の和田合戦でも武功を挙げている。この頃は出家して壹岐守入道定蓮と名乗っていた。前に引用した古活字本「承久記」では院宣を下したとする七名の最後に名が挙がっているから、この捕縛場所は自然である。そもそも慈光寺本では『壱岐ノ入道ノ宿所ヨリ、押松尋出(たづねいだ)シテ』とある。

 以下、「承久記」(底本の編者番号27のパート半ばから28)を示す。直接話法部分を改行した。

 

 平九郎判官、私ノ使ヲ相添テ、承久三年五月十五日ノ酉刻ニ都ヲ出テ、劣ラジ負ジト下ケル程ニ、同十九日ノ午刻ニ、鎌倉近ウ片瀨ト云所ニ走付タリ。

 平九郎判官ノ使ハ案内者ニテ、先ニ鎌倉へ走入テ駿河守ニ文ヲ付タレバ、披見シテ、

「返事申ベケレドモ、道ノ程モハヾカラ敷間、態ト申サヌナリ」

トテ追出シヌ。

 駿河守、此文ヲカイ卷テ、權大夫ノ許へ持向へ、

「已ニ世中コソ亂テ候へ。去十五日光季被ㇾ打ヌ。胤義ガ私ノ文、御覽候へ」

トテ、權大夫義時、折節、諸人對面ノ前ニ引ヒロゲテ差置タリ。

權大夫、

「サテハ御邊ノ手ニコソ懸リ進ラセ候ハンズラメ」。

三浦駿河守打退テ、

「是コソ、エ存候へドモ、平家追討ヨリ以來、度々ノ戰ニ忠節ヲ致シ、一度モ不忠ノ儀候ハズ。自今以後モ又疎略ヲ不ㇾ可ㇾ存。若僞申事候ハヾ、遠クハ熊野ノ山嶽、近クハ伊豆・筥根、別シテハ若宮三所・足柄・松童、殊更奉ㇾ賴三浦十二天・栗濱・森山、惣ジテハ日本國中ノ大小ノ神祀・冥道、チケンシ給へ。御後ロメタナキ事不ㇾ候」トゾ申ケル。

 權大夫打笑テ、「サテハ心安候。今迄、此事ノ出來候ハヌコソ、不思議ニ候へ。是ハ兼テヨリ存タル事也。今ハ推松モ鎌倉へ入ンズラン。尋ヨ」トテ被ㇾ尋ケリ。推松、人ノ氣色替リ、何トナク騷ギケレバ、アル者ノ許ニ隱ㇾ居クリケルヲ、一々ニ鎌倉中ヲサガシケレバ、笠井ノ谷ヨリ尋出シ、引ハリ先ニ立テゾ參ケル。院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ。

 

●「返事申ベケレドモ、道ノ程モハヾカラ敷間、態ト申サヌナリ」は、

「胤義儀へ返答を致すべきところではあるが、京への道中、誰何(すいか)検問なども憚らるるにつき、わざと返事は致さぬぞ。」

という謂い。慈光寺本は、

「關々(せきぜき)ノキビシキケレバ、返事ハセヌゾ。平九郎ニハ、サ聞(きき)ツト許(ばかり)云ヘヨ。」トテ、弟ノ使ヲ上(のぼせ)ラル。

と、義村の狡猾な深謀遠慮がその玉虫色の発言により感じられて分かり易い。「上(のぼ)ラル」は京へ返させた、の意。

●「松童」は「まつだう(まつどう)」と読む。八幡に付随する社。新編鎌倉一」の鶴岡八幡宮の「松童・天神・源太夫(げんたいふ)・夷(エビス)三郎の社」の項に、

 天照大神の西にあり。四神同社也。松童(マツドウ)は、【八幡宮記】に、八幡の牛飼(ウシカヒ)也とあり。

と記す。

●「三浦十二天」鎌倉市十二所にある十二所神社の平安期からの古称。明治初期の頃まで三浦十二天又は十二天明神と呼ばれた。祭祀年代については不明であるが、現在の大楠小学校門前に城山と言われている台地があり、そこに義村の祖父義明の弟三郎為清の鎮守として祭られたとも言われており、三浦氏所縁の社であったことが窺われる。

●「栗濱」栗浜大明神、現在の久里浜市にある住吉神社のことかと思われる。同社の由緒によれば、三浦一族の水軍の船霊として信仰された社で、治承四(一一八〇)年に義村の父義澄が衣笠城落城の前夜に一族郎党を引き連れてここに祈願し、山頂の松に幟を立てて(「旗掛けの松」と呼ぶ)、頼朝と共に房州に渡った(祖父は独り城を守って討死した)。因縁の社であったことから、三浦氏だけでなく源氏や北条氏の尊崇も厚かった。

●「森山」三浦郡葉山町一色にある森山神社のことと思われる。「新編鎌倉志卷七」の「佐賀岡」の項に、

〇佐賀岡〔附世計の明神〕 佐賀〔或作下(或は下(さが)に作る)。〕は、心無村(しんなしむら)の南なり。是より三崎へ行く也。【東鑑】に、治承五年六月、賴朝、三浦に渡御給ふ。上總の介廣常、佐賀岡の濵に參會すとあるは此の濵也。此の所に佐賀岡の明神と云あり。守山大明神と號す。逗子村延命院の末寺、玉藏院の持分なり。里俗、世計(よばかり)の明神と云ふ。毎年霜月十五日、酒を作り置き、翌年正月十五日に、明神へ供す。酒の善惡に依て、戌の豐凶を計り知る。故に世計の明神と云ふ。昔し此の神、海上に出現す。其座石とて社前にあり。良辨僧正の勸請と云ふ。社領三石の御朱印あり。

とある。以下、私の附した注を引用しておく。『森山神社として葉山に現存する。正式名称は森山社といい、社伝による祭神は奇稲田姫命、創建は天平勝宝(七四九) 年に東大寺開山の華厳僧良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年~宝亀四(七七四)年)によって勧請されたとする(彼は鎌倉生ともされる)。往古は「守山大明神」「佐賀岡明神」と呼ばれ、現在の三ヶ岡大峰山(森山神社の西北に位置する山)にあった。察するに、これを「佐賀岡」と古称したらしい。すると先の「心無」に記述する「心無山」とは同地異称か、若しくは「三ヶ岡」という呼称から推測すると、この三ヶ岡大峰山は三つのピークがあり、その最も海岸寄りにあったものを心無山と呼んだのかも知れない。以下、参照した「森山神社例大祭 葉山町一色の森山社(通称・森山神社)例大祭実行委員会の広報」のブログに依れば、この森山社に合祀されている(南方熊楠が憤然と反対した悪名高い明治末の一村一社合祀令によるもの)吾妻社について、祭神は東征伝説所縁の日本武尊、その祠の右側には井戸があり、『日本武尊が東征の途次、こんこんと霊水が湧き出たる、この地で休憩され、走水から上総国へ向かわれたと伝えられて』おり、現在の森山神社の「世計り神事」では『この霊水を汲み上げて持ち帰った水に、麦麹を入れて神殿内に一年間納め、翌年これを検して吉凶を占』うとある。本記載の神事は今も健在であることが分かる』。位置的にもやはり三浦氏所縁の社である。

●「チケン」知見・智見。仏語で事物に対する正しい認識、知識によって得た見解を指す。正智見。

●「引ハリ先ニ立テゾ參ケル」縄で縛って強引に先に追い立てて連行したことを言う。慈光寺本では修飾が入って、『押松尋出(たづねいだ)シテ、天ニモ付(つけ)ズ地ニモ付ズ、琰魔王(えんまわう)の使ノ如(ごとく)シテ參リタリ』

――押松(=推松)を捜し出して、殆んど地面に足をつけさせず、宙天に吊るさんばかりにして、恰も閻魔王の獄卒である牛頭馬頭(ごずめず)が亡者を引っ立てるようにして連行した――

と、まさに情景が目に浮かぶように描かれてある。

●「院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ」この部分は「北條九代記」では次のパートの頭に移されているのであるが、「承久記」及び「北條九代記」の叙述にはやや問題があるように思われる。その考察は次のパートの注で施すこととする。ともかくも何と、推松を捕縛した直後に義時は、

――七通の院宣総てとその他の所持品を総て毟りとるように推松から奪い、院宣の内容について係りの者にその梗概を読み上げさせた後に、総て焼き捨て遊ばされてしまった。――

と述べていることをご記憶頂きたい。]

生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 五 分裂 イトミミズは「ムカデ人間」だった!

     五 分裂

 

 普通の「みみず」でも身體を二つに切つた位ではなかなか死なぬが、溝のなかに澤山居る「いとみみず」などは、一疋を二つに切ると兩半とも長く生活し、頭のない方には新しい頭が生じ、頭のない方には新しい尾が生じて、二疋の完全な蟲になる。さればかやうな動物は切られたために却つて蕃殖することになるが、實際「絲みみず」の類には分裂によって個體の數を增すことを普通の生殖法として居るものが幾らもある。「ものあら貝」に吸ひ著いて居る小さな「いとみみず」の類を取って廓大して見ると、必ず身體の中央に縊れがあつて、後半の前端の處に既に頭が出來掛つて居るものが多い。即ちこの蟲では體が切れて二片となる前に、既に前半には尾端が出來、後半には頭部が生じ、そのまゝなほ繫がつて居るのである。普通の「い