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2013/12/28

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 鵠沼総説

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より「鵠沼・逗子・金澤」の部

 

[やぶちゃん注:以下に電子化するのは明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊第百七十一号「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(表紙標題では「江島」が「名所圖會」と同ポイントで、「江島」の下にポイント落ちで「鵠沼」「逗子」「金澤」の三箇所が右から左に横に並ぶ。見開き目次標題では右に「江島、鵠沼、」が、左に「逗子、金澤」が二行で並んでポイントが大きい「名所圖會」が下に続く。本文開始大見出しもこれに同じである。向後は私の趣味で上記の標記を以って本書の標題を示すこととする)。発行所は、『東京神田區通新石町三番地』の東陽堂、『發行兼印刷人』は吾妻健三郎(社名の「東」は彼の姓をとったものと思われる)。

 「風俗画報」は、明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌で、大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特にこの「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言えよう。そのシリーズの一つとして、この百七十一号発行の遡ること一年前の、明治三〇(一八九七)年八月二十五日に、臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)というものを刊行していた。ところがこれは「江島」と名打っておきながら殆んど鎌倉のみを扱っており、僅かに江の島の本文は二頁強、稚児が淵と旅館金亀楼の図に小さな江の島神社の附図があるだけであった(他に口絵の「七里ヶ濵より江の嶋を望むの圖」に江の島が遠景で描かれている)。そこでその不備を補うために出されたのが、この「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」であった。

 挿絵の原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷、山本昇雲(明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年:本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に挿絵の追加公開をしたいと考えている。

 底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用い、視認してタイプした。読みについては振れると私が判断したもの以外は省略した。濁点や句点の脱落箇所が甚だ多いがママとした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。漢文漢詩の引用の部分は本文には訓点(底本では返り点のみ打たれている)を省略して白文で示し、後の注で我流の書き下しを示した。大項目及び小項目見出しのポイントの違いはブログ版では無視して総て同ポイントで示した。ポイント落ちの割注は〔 〕で本文と同ポイントで示した。傍点「●」はブログ版では太字で示した。今回は各段落ごとに注を附し、その後は一行空けとした。これらは私の鎌倉地誌の範疇に含まれない(特に鵠沼は殆んど歩いていない)のでとんでもない注を附すかも知れないので、誤りを見出された方は是非、ご連絡を戴けると幸いである。【ブログ始動:2013年12月28日】]

 

   ◎鵠沼地方の部

   〇鵠沼

鵠沼今之(いまこれ)をクゲヌマといふ。クヾヒヌマの略稱なり。風土記には正しく久久比奴末と訓(くん)せり。

[やぶちゃん注:以下、「多しといふ。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

因みに云。クヾヒ今之を白鳥といひ。又コブともいへり。秋冬田澤に多し。其の形雁より大(おほき)く。鵞鳥に似たり。全身白くして光り。頸甚た長く。喙の本額に近く。赤き瘤(こぶ)あり。喙は黑楬にして。脚(あし)は淡黑なり聲大く。脂極めて多しといふ。

此の鵠の字。俗人には讀みにくき故。旅館などにては大に困却し居るよし。然れども古き名なれは。俄かに改め難しといへり。

其の地は。相模國高座郡に屬し。江島より僅かに十二町にして村端に達す。砂濱に沿ふて行けは。小蟹郭索として健歩す。人之を逐へは。その疾(はや)きこと飛ぶがごとく。忽ち穴に入りて其の影を失ふ。亦一興なり。

[やぶちゃん注:「十二町」一・三キロメートル。これは江の島島内を起点とした距離と思われる。

「郭索」(かくさく)は正に蟹がカサカサと動くさまを示す語。何も鵠沼海岸が砂蟹の名所な訳でもなんでもない。この部分、書き出しで退屈させないように筆者が相当に気を使って書いている感じが歴然としている。]

 

新編相模國風土記に云ふ。小田原北條氏の頃は。岩本太郎左衛門知行す。役帳に岩本次郎左衛門七十三貫七百六十七文東郡鵠沼と載(のす)。今御料地延寶六年八月。成瀨(なるせ)五左衛門検地す。外に新田三所あり。其一は享保七年墾闢し。日野小左衛門改め。其の二は寶曆七年の墾闢にして志村多宮検地す。其餘(そのよ)は布施孫之進か采地にして、延寶七年十一月先祖孫兵衛検地し。其の後開墾の地あり。元文元年以來新田知行となる。村内空乘寺領九石交れり。空乘寺傳に。大橋重政采地の内を割(さい)て寺領を寄進すと云ふ。重修譜に據(よ)るに。重政が父長左衛門重保。元和(げんな)三年三月召出(めいいだ)され。後相模國高座郡にして采地五百石を賜ふと見ゆ。此地其頃は重保か知る所なり。東海道村の北境(ほくけう)を通ず〔幅四間〕村民農隙には魚獵(ぎよれう)を專らとす〔船役永錢を納む〕此邊松露初茸を産せり。海岸に砲術場あり。享保年中御用地となりしと云ふ。」

[やぶちゃん注:最後の『」』の始まりはない。

「岩本太郎左衛門」(生没年不詳。「衛」はママ)後北条家家臣で御馬廻衆の一人。相模東郡鵠沼の他、相模国三浦郡平佐久村(九十六貫六百文)・武蔵国川越郡須奈村(十六貫八百文)、鵠沼の分と合わせて計百八十七貫百六十七文を知行していた。彼については「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「岩本定次知行地」が詳しい。

「延寶六年」西暦一六七八年。

「享保七年」西暦一七二二年。

「新田三所」この新田開発については、やはり「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「初期新田開発」に詳しく、それによれば「新田」と言っても田圃であったわけではなく、特に『鵠沼新田の場合、砂丘間低湿地のように、よほど地形的に恵まれていない限り、水田開発は行われなかったと思われる。そのほとんどは麦類や雑穀、野菜類を栽培する普通の畑地だったに違いな』く、これは『保水力のない洪積台地の相模野や武蔵野の新田開発も同様である』と解説され、更に『17世紀後半から18世紀前半に至る鵠沼新田は、現在の鵠沼橘二丁目の旧小字新田に集落があり、耕地はおそらく現在の藤沢駅南部から鵠沼中学校あたりと思われ』、『新田を開発した人々は、鵠沼本村すなわち大庭御厨以来の伝統を守る皇大神宮の氏子集落からの出村ではなく、全く別の地域から集められたに違いない。』『なぜなら、名主=平本家をはじめ、滝澤、八木、杉浦(2軒)、関野、吉澤と、本村と共通する姓がないからである』と記しておられる。

「新田知行」という語は、前注の渡部瞭氏の解説から推すと、知行といっても耕作地はこれから開発しなければならず、恐らくは土地も痩せた荷厄介な知行地であることが分かる。

「空乘寺」藤沢市鵠沼に現存する真宗高田派の金堀山空乘寺。寺伝によれば延宝五(一六七七)年に入滅した僧了受が江戸初期に開山創建したと伝えられる。空乗寺の朱印地は鵠沼字石上にあったため、石上の渡し(石上から片瀬村字大源太岸への船渡し)は空乗寺が支配した(ウィキの「空乗寺」に拠る)。

「大橋重政」(元和四(一六一八)年~寛文一二(一六七二)年)は江戸前期の武士にして書家。大橋重保長男。通称は小三郎、長左衛門。書を父重保(次注参照)及び青蓮院尊純法親王に学び、大橋流として広めた。江戸牛込(またはこの鵠沼村)で生まれた。幼少時より、右筆であった父の重保に書を学び、十歳で将軍家光に御目見えし、十四歳で早くも家光の右筆となった。寛永一〇(一六三三)年に父重保が病により右筆を辞したため、翌寛永十一年に大橋家家督を継いで、同時に幕府の右筆吟味役となった。次期将軍の家綱の手本も書いている。手本に「菅丞相往来」など。重政の書については父の重保も一目置いており、光松山放生寺の縁起二巻を撰した際も書は重政に任せている。一方、重政も重保を深く慕っていたと思われ、龍慶寿像製作を発願、彫刻を藤原真信に依頼し、自らは撰文をしたためて、郷里の誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置した(この像は廃仏毀釈の際、三宅村(現在の大阪府松原市)の大橋家に戻され、後に松原市に寄贈されて現存する)。慶安二(一六四九)年には鵠沼の采地の内、石上付近の九石余りを空乗寺に寄進して将軍家光より御朱印を賜り、後にその労により賞を受けている。死後は龍性院殿道樹居士として空乗寺に葬られた。直後に所領は上知されて幕領となって大橋家と鵠沼の縁は終わったが、三十三回忌に墓所は二人の息子によって整備され、現在、藤沢市文化財史跡に指定されて現存する。彼は今日まで続く書道流派大橋流の創始者として慕われていると参照したウィキの「空乗寺」に書かれてある(以上の一部は講談社「日本人名大辞典」も参考にした)。

「重政が父長左衛門重保」武士にして書家。ウィキの「空乗寺」によれば、『江戸初期、布施家と鵠沼村を二分して知行地とした旗本大橋家は、幕府の右筆を務め、書道「大橋流」の始祖とされる』とあり(以下では一部は講談社「日本人名大辞典」も参考にした)、大橋重保(龍慶 天正一〇(一五八二)年~正保二(一六四五)年)は河内国志紀郡古室村(現在の大阪府藤井寺市)生。通称は長左衛門。父左兵衛重慶は豊臣秀次に仕えていたが、天正一二(一五八四)年の小牧・長久手の戦いで戦死、勝千代(大橋重保の幼名)は三歳で伯母に引き取られ、幼くして京都南禅寺に入り、金地院崇伝に禅僧流の書の教えを受けた。元服後、長左衛門重保を名乗り、片桐且元に従った後、三十一歳の時に豊臣秀頼の右筆となった。大坂の陣では徳川方についたものの負傷、大坂落城後は徳川秀忠の右筆、家光の御伽衆(おとぎしゅう)を勤めた。寛永一〇(一六三三)年に剃髪して法印となった。江戸で入寂。茶道は小堀遠州の弟子であった。豊臣氏滅亡により浪人した際に江戸に出、元和三(一六一七)年に秀忠に旗本に召し上げられたが、その際、鵠沼村・大庭村を合わせて采地五百石を賜っている。鵠沼村の村高は約六百石で、後にここを采地として賜った布施家が約三百石弱だから、大橋家采地の鵠沼村分は三百石強だったと考えられる。なお、新編相模國風土記稿や第二十四世慶龍は、永禄年間にこの空乗寺創建の際の開基とされるが、永禄は重保の誕生前で、龍慶が開基というのが事実なら、空乗寺の創建は一六三三年以降、一六四五年以前でなければならない。あるいは、空乗寺としては後に大橋家采地の内の九石を寺領として寄進された経緯から、出家した大橋龍慶に敬意を表したのではないだろうか、とウィキでは推測している。

「農隙」は「のうげき」と読む。農作業の合間。農事の暇(ひま)。農閑期。

「村民農隙には魚獵を專らとす」この漁業については、やはり「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の「鵠沼浦の漁業」に詳しい。

「船役永錢」「ふなやくえいせん」と読むと思われる。「永錢」は穎銭で、穀物の代わりに税として納めた銭を指す。ここは漁師として儲けた金額から支払う就労税を言うものと思われる。

「松露」菌界ディカリア亜界 Dikarya 担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ Rhizopogon roseolus。以下、ウィキの「ショウロ」によれば、『子実体は歪んだ塊状をなし、ひげ根状の菌糸束が表面にまといつく。初めは白色であるが成熟に伴って次第に黄褐色を呈し、地上に掘り出したり傷つけたりすると淡紅色に変わる。外皮は剥げにくく、内部は薄い隔壁に囲まれた微細な空隙を生じてスポンジ状を呈し、幼時は純白色で弾力に富むが、成熟するに従って次第に黄褐色ないし黒褐色に変色するとともに弾力を失い、最後には粘液状に液化する』。『胞子は楕円形で薄壁・平滑、成熟時には暗褐色を呈し、しばしば』一、二個の『さな油滴を含む。担子器はこん棒状をなし、無色かつ薄壁、先端には角状の小柄を欠き』小、六~八個の胞子を生ずる。『子実体の外皮層の菌糸は淡褐色で薄壁ないしいくぶん厚壁、通常はかすがい連結を欠いている。子実体内部の隔壁(Tramal Plate)の実質部の菌糸は無色・薄壁、時にかすがい連結を有することがある』。『子実体は春および秋に、二針葉マツ属の樹林で見出される。通常は地中に浅く埋もれた状態で発生するが、半ば地上に現れることも多い。マツ属の樹木の細根に典型的な外生菌根を形成して生活する。先駆植物に類似した性格を持ち、強度の攪乱を受けた場所に典型的な先駆植物であるクロマツやアカマツが定着するのに伴って出現することが多い。既存のマツ林などにおける新たな林道開設などで撹乱された場所に発生することもある』。『安全かつ美味な食用菌の一つで、古くから珍重されたが、発見が容易でないため希少価値が高い。現代では、マツ林の管理不足による環境悪化に伴い、産出量が激減し、市場には出回ることは非常に少なくなっている。栽培の試みもあるが、まだ商業的成功には至っていない』。食材としての松露は『未熟で内部がまだ純白色を保っているものを最上とし、これを俗にコメショウロ(米松露)と称する。薄い食塩水できれいに洗って砂粒などを除去した後、吸い物の実・塩焼き・茶碗蒸しの具などとして食用に供するのが一般的である。成熟とともに内部が黄褐色を帯びたものはムギショウロ(麦松露)と呼ばれ、食材としての評価はやや劣るとされる。さらに成熟が進んだものは弾力を失い、色調も黒褐色となり、一種の悪臭を発するために食用としては利用されない』とある。

「初茸」担子菌門真正担子菌綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属ハツタケ Lactarius lividatus(シノニム Lactarius hatsudake )。ウィキの「ハツタケ」によれば、夏の終わりから秋の初めにかけて海岸のクロマツ林や里山のアカマツを交えた雑木林に発生する。傘の径は五~十センチメートルで、その表面は湿っている際には多少の粘りを生じる。色は淡紅褐色・淡黄赤褐色などを呈して濃色の環紋を持つ。傘下の襞は淡黄色でワインのような紅色を帯びる。柄は長さ二~五センチメートルで、表面は傘とほぼ同色。傘に傷がつくと緑青(ろくしょう)のような色に変色することから、緑青初茸とも呼ばれる(変色した個体でも食味には問題はない)。古くから食用とされており、「重修本草綱目啓蒙」にも記述がみられる。「守貞漫稿」によると、主として関東地方で食されたが、近畿地方での人気は高くなかった。「続江戸砂子」によると、現在の千葉県松戸市付近が名産地であったとする。炊き込みご飯の具や天ぷらなどの調理法があるが、良い出汁が出るため、すまし汁の実としての使用が最良とされる、とある。

「海岸に砲術場あり」相州炮術(ほうじゅつ)調練場。現在の神奈川県藤沢市及び茅ヶ崎市の海岸にあった江戸幕府の銃術鍛練場。天正一八(一五九〇)年に現在の藤沢市及び茅ヶ崎市の海岸線一帯が天領となって藤沢宿代官が管理することとなり、享保一三(一七二八)年(年)の享保の改革の一環によって幕府鉄炮方の井上左太夫貞高が鉄炮方役人の銃術鍛練の場として柳島村(相模川河口)から片瀬村までの海岸に相州炮術調練場を設置したのが始まりである。この頃、三浦郡・鎌倉郡・高座郡の村々では演習の時期になると役人の宿泊接待・力役労働・警備・伝馬などの夫役を負担させられた上、通常から戸塚宿・藤沢宿・平塚宿の助郷をも命じられて生活が困窮していたため、この炮術調練場の賦役は大きな負担となっていた。明治元(一八六八)年に鉄炮場は廃止され、跡地は一部が横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となったが、境川河口から引地川に挟まれた鵠沼村の南東部(二十五万坪余)は、大給松平家(後の大給子爵家)近道が入手、鉄道開通を機に日本初の別荘分譲地(鵠沼海岸別荘地)として開発された(以上はウィキの「相州炮術調練場」に拠る)。

「享保年中御用地となりしと云ふ」「享保年中」は西暦一七一六年から一七三五年。サイト「鵠沼を語る会」の「鵠沼地区総合年表」に「藤沢市史」第二巻に載る「御鉄炮御用宿賄帳扣」(「扣」は「ひかへ(ひかえ)」で「控」に同じい)なる記録に享保一八(一七三三)年六月十七日から七月六日まで鵠沼村他に逗留して鉄炮の試射演習が行われた旨の記事が、またその後の享和二八(一八〇二)年の項には、「藤沢市史年表」に「為取替証文之事」なる記録に、鵠沼村と大庭・稲荷・折戸・羽鳥村との間に鉄炮場御用宿賄い金滞納を巡って論争があったという記事が載る。]

 

右に記せる松露初茸は。今も尚ほ此地の名産たり。砂濱より數十間以内は。一丈ほどの小松叢生して。翠色を連(つらぬれ)れは。むかしより松露等を發生せるならむ。

[やぶちゃん注:前にも出したサイト「鵠沼を語る会」の渡部瞭氏の「鵠沼の生き物あれこれ―ゆかりの生物と外来生物―」の記載に、会誌『鵠沼』第三号に川上清康氏が寄せた「私と鵠沼」の中の一節を引かれ、関東大震災前の『頃の海は、真に椅麗で片瀬迄は砂丘と松林が続き、辻堂に近い方では防風が一ぱい採れたものである。又松林には松露を採りに行き、到る処撫子や月見草が咲き、赤い蟹が庭先や台所口をはい廻っていた』(「椅麗」はママ)とあり、渡部氏自身の記憶として、昭和二五(一九五〇)年『までは採集できた記憶がある。この年に東京に一時転居し、3年半後に戻ったら消えていた。湘南砂丘地帯の特産物として、辻堂駅の開業当時、ハマボウフウ(学名:Glehnia littoralis)と共にホームで売られたと聞く。ハマボウフウも一時姿を消し、1979(昭和54)年4月17日に伊藤節堂会員が鵠沼海岸のサイクリング道路で再発見したことが『鵠沼』9号に紹介されている。現在、辻堂の愛好者団体「湘南みちくさクラブ」が復活に熱心に取り組み、成果を得ている。藤沢宿の老舗和菓子店「豊島屋本店」では、銘菓「浜防風」が参勤交代の土産として有名で、ショウロの香りを生かした「松露羊羹」は、1914(大正3)年の大正博覧会や1922(大正11)年の平和博覧会などで金牌を獲得、葉山御用邸御用達となった。これらは現在でも製造販売されている(「浜防風」は注文生産) 』とあり。更に続けてハツタケについて、『鵠沼のクロマツ林に生える食用キノコとしては、ハツタケ(学名: Lactarius hatsudake)、アカハツ(学名: Lactarius akahatsu)も記録されているが、筆者は認識していない。マツタケ(学名:Tricholoma matsutakeS.Ito et Imai Sing.)は主にアカマツ林に生えるため、残念ながら鵠沼にはない』と記されておられる。残念ながら、現在では松露も初茸も最早、鵠沼には自生しないようである。

「數十間」一間は凡そ一・八二メートルであるから、九〇~一〇九メートル内。

「一丈]約三メートル。]

 

此地眺望最も佳絶にして。江島は手に取るばかりに見え。大磯小磯は歷々指點(してん)すべく。高麗寺山。大山、足柄、箱根、天城の諸嶺重疊して秀を競ひ奇を呈する處。富士の峯獨り高く聳えて。悠然たるの景實(じつ)にたぐひなく。千秋の積雪近くして掬(きく)すべきに似たり。

[やぶちゃん注:「小磯」現在、神奈川県中郡大磯町の大磯駅(駅の住所は大磯町東小磯)及びその西方に東小磯・西小磯の地名がある。その先が現在の大磯ロングビーチであるから、この「小磯」は大磯の手前の海岸線(大磯港及びその西部)を指すと考えてよいか。

「歷々指點すべく」はっきりと指差して示すことが出来。

「高麗寺山」平塚市と大磯町に跨る高麗山(こまやま)のこと。大磯丘陵の東端にあり、標高は一六八メートル。地元では高麗寺山とも呼ばれ、江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった(現在は廃寺)。この寺は七世紀に滅亡した高句麗から亡命してきた高麗若光なる人物を祀ったものであったとされ、寺名も山名も、そうした渡来人がこの山の近くに定住したことに由来すると伝えている。]

 

太田道灌の

  わが庵はまつはらつゝき海ちかく

       富士のたかねを軒端にぞ見る

の詠は。恰も此の鵠沼の爲めに賦したるものゝごとし。

[やぶちゃん注:本歌は例えば「江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸」では、『道灌は江戸城を築きましたが、精勝軒と呼ばれる櫓も作りました。この櫓は、現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります』として、この一首を掲げ、『この句からも、当時海岸の松原が精勝軒のすぐそばまでせまっていたことが分かります。その海岸とは、言うまでもなく日比谷入江の海岸です。そして、一望のもとに富士の雄姿が眺められる絶景の地だったことも確かなようです』と解説されてあり、他のデータでも江戸城での眺望とするものが殆んどである。まあ、筆者は「ものゝごとし」と言っている訳で、重箱の隅をほじくる必要はあるまい。]

 

南は相模灘を扣(ひか)えて。潮汐雪を捲(まい)て砂濱を洗ひ。漁船䌫を解き白帆風を孕む時。款乃(かんたい)の一聲亦聞くに堪(たへ)たり。

[やぶちゃん注:「䌫」は「ともづな」と読む。船尾にあって船を陸に繋ぎ止める綱。舫(もや)い綱。

「款乃(かんたい)」ルビは「あいない」又は「あいだい」とするのが正しい。舟唄。舟を漕ぐ櫓(ろ)の音のことである。そもそも「款」は「欸」の字の誤用による慣用表記で(「款」の字音には「アイ」はない)、「欸乃」が正しく、その読みは「あいだい・あいあい・あいない」で、「廣漢和辞典」によれば、舟に棹差して相い応ずる声、また、櫓のきしる音。転じて舟唄。また、漁師の歌や木樵りの歌、とある。ここは「一聲」とあるから舟唄で採るのがシークエンスとしては心地よい。]

 

東は片瀬。七里ケ濱。鎌倉に連り。天氣晴朗の日には。遠く房總の諸山を寸眸の内に收め得べし。

[やぶちゃん注:「片瀬」の「瀬」はママ。]

 

明治二十四年。大隈伯爵が一たひ暑を此地に避けられしより。鵠沼の名は漸く江湖に傳はりて。遊客(いうかく)毎年踵を接して來る。方今は蜂須賀、高崎、田中、伊東等諸家の別莊十四五ケ所あり。皆茅屋にして間雅(かんが)愛すべし。

[やぶちゃん注:「大隈伯爵」大隈重信。

「蜂須賀」本誌発行の明治三一(一八九八)年当時の蜂須賀家当主は枢密顧問官であった侯爵蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)。以下もその時間で推定。

「高崎」元薩摩藩士で元老院議官や東京府知事等を勤めた男爵高崎五六の長男で、宮内省式部官から貴族院議員となった男爵高崎安彦辺りか。

「田中」武官で海軍軍医学校学校長であった田中肥後太郎か。「黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の渡部瞭氏の明治末の別荘に「常住」とある。

「伊東」公爵伊藤博文か。

「間雅」ママ。閑雅の誤植であろう。]

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