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2013/12/24

北條九代記 院宣 付 推松使節 竝 二位禪尼評定 承久の乱【十二】――幕臣軍議の最中の尼将軍政子渾身の演説に幕臣悉く袖を絞って忠誠を誓う

院宣を奪(うばひ)取りて燒き捨てられ、北條義時、駿河守を相倶して、二位禪尼の御前にまゐり、「世の中既に亂れて候。去ぬる十五日、判官光季は、京都にして討たれたり。如何(いかで)御計(はからひ)候べき」とて、胤義が文と、院宣とを御前に差置れたり。武藏守泰時、相摸守時房、前大管領(さきのくわんれい)廣元以下參り集まりて評定あり、二位禪尼は、妻戸の間へ出でたまひ、御家人等を御簾(みす)の前に召寄(めしよせ)られ、御簾を半(なかば)に卷上(まきあげ)させ、御覽じ出して宣ひけるは、「日本一州の中に、女房のめでたき例(ためし)には、此尼をこそ申すなれど、尼程に物思(ものおもひ)したる者は世にあらじ、故殿賴朝公に逢初(あひそ)め參(まゐら)せし時は、世になき振舞(ふるまひ)するとて親にも疎み惡(にく)まれ、その後平家の軍初(はじま)りしかば、手を握り、心を碎き、六年(むとせ)が程は打暮し、平家亡びて世は治(おさま)るかと思ふ所に、大姫君に後(おく)れて、同じ道にと悲しく思ひながら、月日を重ねし間(あひだ)に故殿に後れ奉る。左衞門督(のかみ)未だ幼稚なれば、見立參(まゐら)せんとせしかども、又督殿にさへ後れて、誰を賴む方もなく、鎌倉中には恨(うらめ)しからぬ人もなく、思沈みしを、故右大臣實朝公、人となり、世も靜(しづか)に侍(はんべ)りしに、思(おもひ)の外の事ありて大臣殿失せ給ふ。是こそ浮世の限(かぎり)なれ、何に命の存命(ながら)へて、かゝる歎(なげき)に堪へぬらん、如何なる淵河(ふちかは)にも身を投げばやと思立ちしを、權(ごんの)大夫義時が、樣々申す事ありて、三代將軍の御跡を、誰かは弔ひ奉るべきと思ひし程に、今日まで空(むなし)く存命(ながら)へて、かゝる事を見聞くこそ悲しけれ。日本國の侍達(さぶらひたち)、昔は三年の大番(おほばん)とて、一期(ご)の大事と出立ち、郎從一族まで此所を晴(はれ)と上りしも、力盡きぬれば、下向には歩跳(かちはだし)にて歸りけるを、故殿燐み給ひ、六ヶ月に約(つゞめ)、分際(ぶんざい)に應じて諸人の助(たすけ)を計ひ置かせ給ひ、今は何(いづれ)も榮耀(えいえう)におはすらん。萬(よろづ)につけて、情深き御恩を忘れて、東方へ參られんとも、又留りて味方に奉公仕らんとも、只今確に申し切れしとぞ宣ひける。是を承る大名、小名、皆袖を絞りて申しけるは、「拙(つたな)き鳥獸までも人の恩をば忘れずとこそ承れ。况(まし)て代々御恩深く蒙りし我等、此度(このたび)罷(まかり)向ひ候ひて、都を枕とし、尸(かばね)を禁中に晒さんとこそ存じ候へ、誰々も一人として、この志を背く者は候はず。御心安く思召され候へ」とて御前を立ちて宿所々々に歸られけり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十二】――幕臣軍議の最中の尼将軍政子渾身の演説に幕臣悉く袖を絞って忠誠を誓う〉

『院宣を奪取りて燒き捨てられ、北條義時、駿河守を相倶して、二位禪尼の御前にまゐり、「世の中既に亂れて候。去ぬる十五日、判官光季は、京都にして討たれたり。如何御計候べき」とて、胤義が文と、院宣とを御前に差置れたり』この部分、おかしい。

――北条義時殿は推松から院宣を奪い取って総てお焼き捨てになられた上で、駿河守三浦義村殿を伴って二人して、二位禅尼政子殿の御前に参り、

「世の中は既にして乱れて御座候う。去(いん)ぬる十五日、判官伊賀光季は、京都にて討たれて御座る。如何にご処置なされまするか?」

と、三浦胤義が義村に宛てた官軍への慫慂を勧めた私信と院宣とを尼御台の御前(おんまえ)にさし置きなさった。――

冒頭で、義時は軍議の前に院宣を焼き捨てたとしながら、その後、政子の前に院宣を差し出した、とあるのである。以下に見るように、「承久記」にはこの齟齬はない。しかしどうであろう、如何に自分を謀叛人とする内容だからと言って、評定の前に院宣を総て焼き捨てるものだろうか? 寧ろ、七通もあった院宣総てはいらないから、一通を除いて六通を焼き捨て、残したものを政子に披見させたとする方が自然である。ただその際、どの一通を残すかが問題にはなる。何故なら「承久記」によれば、七通は総て宛名人が明記されているからである(「武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西」の各武将)。これら七人が特に名指されたことは、この七氏が官軍方へ靡く可能性が高く、靡いた場合には関東のそれ以外の武士団を芋づる式に官軍に就かせることが可能な有力武将であると考えたからに他ならない。誰に出されたものかは、実は義時を始めとする幕閣にとっても公になってはまずい最高機密に属するものであったと考えてよい。しかし、この中で敢えて知れても構わない人物が一人だけいる。三浦義村である。彼は弟胤義の慫慂を蹴って、義時に内報をし、既に幕府への忠誠を義時本人に告げており、それを義時も完全に信用しているからである。寧ろ、義村が居る目の前で胤義の慫慂の文と義村宛院宣の二通を政子に示すことで、義村の忠誠が最終的に公的に認知されたとも言えるのである。「北條九代記」の作者も実は院宣が総て焼却されたとする「承久記」の記述に疑問を持ったに違いない。ただ「承久記」の記載自体は一応示した。しかし、その違和感がここで図らずも出てしまったというべきか。私はこの意味不通部分を、「北條九代記」筆者は、義村宛以外の院宣を焼き捨て、政子には胤義の義村宛私信と残した義村宛一通の院宣を示した、とする文脈で採りたい。大方の御批判を俟つものである。

「妻戸の間」平安期までは寝殿造りで出入り口として建物の端に設けた両開きの板戸の謂いであるが、ここは大倉幕府の両開きの戸を端に持った評定の間と採る。

「物思したる」想像を絶した苦悩を重ねた。

「世になき振舞する」流刑者と恋愛関係に陥るという世にあってはならないとんでもない振る舞いをする。

「六年」平家滅亡の文治元(一一八五)年三月であるから、六年前は治承三(一一七九)年である。この年十一月は清盛がクーデターを起こして後白河法皇の院政を停止させており、「平家の軍(いくさ)」たる源平合戦、所謂、治承・寿永の乱のプレの起点としては相応しい。但し、政子は頼朝と深い関係を持つに至ったのはそれよりももっと前の、安元二(一一七六)年前後であろう。何故なら翌治承元(一一七七)年に北條時政が伊豆目代山木兼隆と娘政子を婚姻させようとしたのは、時政が頼朝とのわりない関係(恐らくは大姫を懐妊していたと考えてよい)を知った結果であるからである(この当時、政子は丁度、満二十歳前後であった)。

「大姫」頼朝と政子の間に生まれた長女。治承二(一一七八)年に生まれ、建久八年七月十四日に亡くなっている。木曽義高との悲話とその死は、「北條九代記」の及び第二巻に詳しい。

「同じ道にと」もう、大姫と同じ死出の旅路を辿らんと。夫頼朝の無慈悲な謀殺に対する政子の深い失望と、大姫に対する強い母性愛と同情心(それは政子自身の頼朝への一途な体験に裏打ちされていることがこの叙述から明白)が窺える部分である。それは後掲する「承久記」の、頼朝が「一人死んだからってそんなに沈鬱になってどうする。」という台詞への、『必其ニナグサムトシモハ無ケレ共』(必ずしもそんな口先ばかりの言葉に慰められたなんどということはなかったけれど)という謂いにも、極めてよく表われていると言える。

「故殿」夫源頼朝。

「左衞門督」長男源頼家。彼は正二位左衛門督。

「大番」大番役。平安末期から鎌倉にかけて、内裏や院の御所及び京都市中の警固役に当たった御家人役の一つ。諸国の武士が交代制で勤めた。本承久の乱以後は鎌倉の将軍御所を警備する鎌倉大番役も新たに制度化された。

「一期の大事」一生涯の大仕事。

「榮耀(えいえう)」底本はルビが「え えう」(字空ママ)であるが、早稲田大学図書館蔵延宝三(一六七五)年梅村弥右衛門板行になる「北条九代記」で訂した。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号28の一文をダブらせて29まで)を示す。直接話法部分を改行した。なお、私は「北條九代記」の女性嫌悪傾向の甚だ強い筆者とは違って、政子が大好きである。この演説も、頗る附きで好きである。

 

院宣共奪取ガ如シテ、大ガヒバカリヨマセテ後ニ燒捨ラレヌ。

 角テ權大夫、駿河守ヲ相具シテ二位殿ニ參リ、

「世中コソ已ニ亂レテ候へ。去十五日ニ光季被ㇾ打テ候也。世上イカヾ御計ヒ可ㇾ候」

ト被ㇾ申ケレバ、二位殿、妻戸ノ間へ出給ヒ、御簾半計アゲサセ、御覽ジ出シテ宣ヒケルハ、

「日本國ニ女房ノ目出タメシニ、尼ヲコソ申ナレ共、尼程物思タル者世ニアラジ。故殿ニ相ソメ進ラセシ時ハ、世ニナキ振舞スルトテ、親ニモ疎カニ惡ミソネマル。其後、平家ノ軍始リシカバ、手ヲ捏り心ヲ碎キ、精進潔齋シテ佛神ニ祈精ヲ致シ、安カラヌ思ニテ六年ガ程ハ明シ暮シ候ニ、平家無ㇾ程亡シカバ、サテ世中ヲダシタトゾ思シニ、無幾程大姫君ニヲクレ進ラセテ、何事モ不ㇾ覺、同ジ道ニト悲ミシヲ、故殿、

『一人無レバトテ、サノミ思ヒ沈事ヤハアル。ナキ者ノ爲ニモ罪深事ニコソナン。』

ト被ㇾ仰シカバ、必其ニナグサムトシモハ無ケレ共、明ヌ暮ヌトセシ程ニ、二度ウセサセ給シカバ、此時コソ限ナリケレト思シヲ、左衞門脅殿未ヲサナクマシマシシカバ、故殿ニヲクレ進ラセテ、如何ガセント存候ダニモセンカタモ候ハヌニ、

『一度ニ二人ニヲクレン事ヨ。』

ト餘リニ被ㇾ仰シカバ、ゲニ又、難見捨思進ラセテ有シ程ニ、又、督殿被ㇾ失給シカバ、誰ヲ可ㇾ賴方モナク成ハテヽ、鎌倉中ニ恨メシカラヌ者モナク思沈シカ共、故大臣殿ノ、

『今ハ賴シキ方モナク、獨子ト成テ候ヲ、爭デカ御覽ジ捨ラㇾ可ㇾ候。何レカ御子ニテ候ハヌ』

ト、ヲトナシク嘆キ被ㇾ仰シカバ、現ニイタハシクテ空ク明シクラシ候ニ、大臣殿失サセ給シカバ、是コソ限ナレ、何ニ命ノ存へテ、カヽル浮身ノムクヒニ兼テ物ヲ嘆ラン、如何ナル淵河ニ身ヲナゲ空ク成ント思立シニ、權大夫、

『カクシテ空クナラセ給ナバ、鎌倉ハカセギノ栖カト成果シテ亡ビナンズ。三代將軍ノ後生ヲモ、誰カ訪ヒ進可ㇾ候。眞思召立テ給テ、先、義時、御前ニテ自害ヲシ御供可ㇾ仕カ。』

ト、夜晝立モ不ㇾ去、樣々ニ嘆カセ給シ間、實ニ代々將軍ノ後生ヲモ誰カ訪ヒ奉ルべキト思シ程ニ、今日迄ツレナク存へテ、カヽルウキ事ヲモ見聞事コソ悲ケレ。日本國ノ侍共、昔ハ三年ノ大番トテ、一期ノ大事ト出立、郎從・眷屬ニ至迄、是ヲ晴トテ上リシカ共、力盡テ下シ時、手ヅカラ身ヅカラ蓑笠ヲ首ニ掛、カチハダシニテ下リシヲ、故殿ノアハレマセ給テ、三年ヲ六月ニツヾメ、分々ニ隨テ支配セラレ、諸人タスカル樣ニ御計ヒ有テ、是程御情深クワタラセ給シ御志ヲ忘ㇾ進ラセテ、京方へ參ン共、又留テ御方ニ候テ奉公仕ラン共、只今タシカニ申切。」

トゾ宣ヒケル。是ヲ奉テ、有トアル大名・小名、皆袖ヲヲホヒ涙ヲ流テ申ケルハ、

「無ㇾ心鳥類・獸迄モ人ノ恩アル事ヲ不ㇾ忘トコソ承レ。マシテ申候ハンヤ、代々御恩ヲ罷蒙ヌル上ハ、被ㇾ向候ハン所迄ハ相向ヒ、如何ナラン野ノ末、道ノ邊マデモ、都ヲバ枕トシ關東ヲバ跡ニシテ、尸ヲサラス身トコソ罷成候ハンズラメ。爭デカ僞ヲ可ㇾ申。」

トテ各歸ヌ。

 

●「一度ニ二人ニヲクレン事ヨ」一遍に父母に先立たれるなんて。青年将軍頼家(未だ満十七歳)の台詞。

●「存へテ」「ながらへて」と読む。

●「カセギ」鹿の異名の「かせぎ」であろう。鹿の跋扈する荒れ果てた野となると言うのであろう。

●「夜晝立モ」「立モ」は「たっても」で、夜昼を分かたず、ずっと、の謂いと思われる。

●「ツレナク」「つれなし」には、例えば、「何食わぬ顔をして」「厚顔無恥にも」「平然として」「何の変りもなく無事に」「自分の意志のままにならずに」「これといった転変もなく」といった意味があり、そのどれをもこの場合は重層させてよいと思われる。

●「分々ニ隨テ支配セラレ」命ぜられた侍のそれぞれの身分や地位、生活・氏族の状況に応じて臨機応変に差配なされて。]

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