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2013/12/29

中島敦 南洋日記 十一月二十一日

        十一月二十一日(金) 晴

 波靜か、午後二時過、右舷に低きグワム/正面に高きロタの島影を見る。午後六時ロタ入港、すでに暗し。高原狀をなせる山塊と絶壁とのシルエット面白し。船上より見れば燈火點々。何か幻怪味を帶びたり、時に山上にも明滅す。支廳のランチ來る。宿舍の都合惡しとて、今一夜を船中に明す。夜十時頃より事務長、月田氏高柳氏等とポーカー、雜談、一時に到る。

[やぶちゃん注:「ロタ」現在のアメリカ合衆国自治領である北マリアナ諸島の島。北にテニアン島、南にはアメリカ合衆国準州であるグアム島がある。面積は八十五平方キロメートルで、参照したウィキの「ロタ島」によれば、『中央部がくびれた形をしており、それを境に東部は平坦な地形をしている。一方、西部はサバナ高原やタイピンゴット山など起伏に富んで』おり、『スコールが多いため、サバナ高原には地下水が溜まり、水質も良いことから飲料水として利用されている。日本統治時代、清らかな水と湿潤な気候という好条件に恵まれたサバナ高原の麓に醸造所が建設され、日本酒「南の誉」が生産されていた』。『太平洋戦争中、米軍の攻撃をあまり受けなかったため、サイパンやテニアンとは異なり、島全体に原生林が多く残』る、とある。第一次世界大戦中の一九一四年に、『大日本帝国軍が赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領したことにより支配権は日本に移り』、大正九(一九二〇)年には『国際連盟の委任統治領となる』。『ロタはサイパン、テニアンに比べ島の開拓が遅れ』、昭和九(一九三四)年当時でも在住する日本人はわずか千人余りであった。それでも翌年十二『に製糖工場が完成し、砂糖の生産が開始された。しかし、砂糖の生産はうまくいかず、製糖工場は3年余りで操業停止してしまう』。『太平洋戦争中は、ロタでは地上戦は行われず、周辺から孤立した状態に置かれた』が、昭和一九(一九四四)年になると『守備隊が増強され、最終的に海軍2000名(第五六警備派遣隊、設営隊、航空隊基地要員)、陸軍950名に至』った。『この阿部大尉が海軍部隊の指揮官となり、ロタは日本本土空襲に向かうB―29爆撃機の機数・方位を無線で警告する役目を担った』 という。『設営隊がいたため、大工、鍛冶屋、理髪、縫製などの専門家に事欠かず、演芸部も編成され、毎日のように空襲を受けながらも比較的平穏な日々が続いた』が、昭和二〇(一九四五)年九月二日、「ミズーリ」上『で行われた日本の降伏調印式より1時間遅れた午前11時、局地降伏調印式が行われ』ている。『戦後は国際連合によるアメリカ合衆国の信託統治領となり、1978年以降はアメリカ合衆国の自治領とな』ったとある。

 同日附中島たか宛書簡が残るので、以下に示す。

   *

〇十一月二十一日附(消印ロタ郵便局一六・一一・二四。パラオ島コロール町南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。)

 十一月十七日。今日から、第二の旅が始まる。午後一時半乘船。近頃は、般の出入の日日(ヒニチ)や時刻(コク)が中々はつきり知らせて貰(モラ)へないので困る。乘客(ジヨウキヤク)にさへ、二三日前までは、分らないのだから、實に不便(ベン)だ。何といふ船が、何日に出帆(パン)するといふだけの事(コト)さへ、葉書に書いてもいけないし、電報に打つてもいけないんだ。全部祕密(ヒミツ)にしなければいけないんだ。まるで戰時狀態だね。

 所で、僕の旅の出發は寂しいものだ。一人の見送もない。センの旅行の時は、谷口君といふ(課は違ふが)横濱からサイパン丸で同船室だつた靑年が荷物を持つて送つて來てくれたが、今度は、谷口君がチモールといふポルトガルの領地へ出張してゐるので、全くの見送なし。普通は誰でも旅行するとなれば、同じ課の者が澤山、荷物をもつたりして送つてくれるのだが、僕の場合は、そんな事をしてくれる者は一人もない。役所に於ける僕の不人氣は之でも分るだらう。僕も別に彼等の氣に入らうと務(つと)めもしない。誰もつきあふ者がなくても、却(カヘ)つて、うるさくない位に考へてゐる。しかし、かうハツキリと反感を示されると、さすがに一寸不愉快だね。全く役所つて、イヤな所さ。東京あたりの中央の役所はね、役人のタチが何といつても高級だから、話が分るんだがこちらの役人連と來たら、大抵は中學を出てから、直ぐつとめて、二十年も三十年もつとめ上げたといふ樣なのが多い。僕は別に學歷(レキ)の低いのを輕蔑(べつ)しはしないが、さういふ人達は、とかく、僕のやうに途中からはいつて來て、若いのに、自分達の上に坐る者に、どうしても反感を持つらしいんだ。(僕等は、こんどの南洋廳行を、ずゐぶん、ひどい低い小役人になりさがつたと思つてゐるのに――げんに、釘本なんか、はじめ此の話があつた時、高等官ぢやないから問題にならないと思つて、僕には、(はじめは)話さなかつた位だのに來て見ると、地方課の中では、課長の次に、僕がサラリーを澤山多く取つてるんだとさ。あきれちまつたな)そんな始末(シマツ)で、役所の中は、面白くない事だらけさ。それに今は編纂(ヘンサン)といふ仕事にも、全然(ゼンゼン)興味はなくなつたし、パラオは喘息に惡いし、僕が南洋廳にゐて良いことは一つもない。あゝ、不愉快! 旅に出てセイセイするよ。午後四時出帆。この山城(シロ)丸はパラオ丸にくらべると大分古くて設備(セツビ)も惡い。その代り船貸も安い。パラオの港は中々景色が良い。木の靑々と茂つた小島が澤山あつて丁度、松島のやうだ。山城丸はそのパラオの港を出てから暫くすると停(とま)つて了つた。とまつた儘(ママ)夜中までヂツとしてるんだといふ。之はね、この船は速力のノロイ船なのでヤップ迄一晝夜で行けないんだ。(サイパン丸やパラオ丸なら二十二時間位で行く)、それで、パラオを午後四時に出て行くとヤップ着が、明日の夜になつてしまふんだ。それではマヅイので、ここでしばらく休んで、明後日の朝ヤップに着くやうに、時間の加減(カゲン)をしてるんだよ。南洋の島の周圍(マハリ)には、珊瑚礁(サンゴセウ)がとりまいてゐて、るので、その珊瑚礁の割れ目をうまく通つて港にはいるのだから、夜では、あぶなくて入港できないんだよ。これは南洋の何處の島でも同じことだ。

 僕の隣の部星に月田一郎といふ映畫俳優がゐる。中々氣持のいい男だね。

 十一月十八日。一日中波は靜か。甲板(カンパン)の寢椅子にひつくりかへつて、萬葉集(マンエフシフ)(日本で一番古い和歌の本だよ。千年以上前)を讀んだ。その中には、妻に別れて遠く旅する(或ひは戰に行く)者の歌や、あとに殘つた妻のよんだ歌が大變多いので、身につまされるよ。千年前の歌とは、どうしても思へない。今、オレが、この山城丸の上で、詠(よ)んだといつても、それで通用(ツウヨウ)しさうな歌が澤山ある。

 十一月十九日。朝、ヤップ入港、ここは歸りに十八日間も滯在する所だが、今日は一寸上陸して、支應へ挨拶に行つただけ。全く、ここの土人だけは、はかの島とすつかり變つてゐるよ。

 オレの部屋は四人はいる室なんだが、今は二人で占領してゐる。相手の客は目方が丁度オレの倍ある請負(ウケオヒ)師だ。東京の人間で話が大變うまい。久保田万太郎の友達で、俳句をやるといふ。昨日も書いたが隣の部屋の月田といふ俳優は、全く感じの良い男だなあ。少しもすれた所がないぜ

 言葉や態(タイ)度もテイネイでね。但(タダ)し、僕は、日本の映畫を殆ど見てゐないので、彼が、映畫界で、どの程度の位置にゐるのか、知らない。彼の出る映畫を一つも見てゐないので、演技がうまいかどうかも、知らない。南洋へは、ロケーションに來たんださうだ。その映畫は三月頃封切になるだらうといふ。「南方の花海の花束(タバ)」とか何とかいふ題ださうだ。パラオ(といつてもコロールではなく、隣(トナリ)のパラオ本島)が出てくるそうだから、お前達、都合が出來たら、見てこいよ。もつとも、まだまださきの話だがね。はじめ封切の時なんか見に行つちや、こんでて大變だから、二・三週間たつて世田谷近くの、映書館にでも來た時、行つたら、いいだらう。格がゐるんだから、無理に行けといふわけぢやないが。

 十一月二十日。一日中海の上。海は相愛らず穩(オダヤ)か。時々スコールがあるだけ。麻雀・將棋・雜談・晝寢・それだけで一日暮れる。

 十一月二十二日。今日も昨日と同じ。たゞ、今日の夕方ロタにつく豫定。オレはロタで下りて、二日或ひは三日滯在して、次の船を待つんだ。ロタはね、アメリカ領のグワム島とほんの少ししか離れてゐないんだ。だから日米の間がイザとなれば、この邊は、あぶない所さ。(これまで午後一時)

(以下―→午後三時)今、船の右の方にグワム島が、船の正面にロタ島が見えて來た。二つの島は隨分近いなあ。あと三時間ぐらゐで、ロタの港に着くだらう。あとは。ロタの島で書く。

   *

 地方官吏気質への不満は、恰も「山月記」の李徴のそれを思い出させる。

「釘本」釘本久春(明治四二(一九〇八)年~昭和四三(一九六八)年)は国語国文学者。東京出身。東京帝国大学国文科卒。中央大学教授から文部省国語課長となり、戦後の国語改革や国立国語研究所の創設に参与した。昭和三五(一九六〇)年、東京外国語大学教授。在職中に死去した、とウィキの「釘本久春」にあるが、この大学の卒業年を昭和四(一九二九)年とするのは不審である。以前にも注したが、敦の一高時代の旧友で手紙にも書かれてあるように、この当時は文部省図書監修官であり、敦の南洋庁への就職は彼の斡旋によるものであった。

「月田一郎」既注。映画も含め、十一月十七日の私の注を参照のこと。]

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