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2013/12/02

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 8 東京大学構内


M254
図―254

M255

図―255

[やぶちゃん注:赤のローマ数字はモースの原図に藪野が追加した数字。注を参照のこと。]

 

 図254は、大学に於る動物実験室の大略を写生したもので、私の特別学生達はここで勉強する。これは細長い部屋だが、私は廊下の向う側にもう二部屋持っている。図255は大学の主要建築の平面図である。道路に面した前面幅は、殆ど二百フィートに近いに相違ない。主要部建築から翼が三つ後につき出し、その間に一階建の長くて低い建物があり、これは狭い廊下で翼に連っているが、図236・237の男の子達の写生は、この廊下からしたものである。私はこれ等の長い建物の一つを占領している。1とした部屋は二階にある私の講義室で、その下に当る長さ二倍の広間は、私が博物館として将来使用しようとするものである。この建物の他に、独立した美事な会館や、図書館の建物や、採鉱、冶金の多くの建物や、学生その他の為の寄宿舎等があって、学生数百名、無数の事務員、小使、労働者等がいるので、それ等だけで一つの村落を構成している。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、当時の東京大学法理文三学部の校舎内の教室配置の記録は残っていないとあり、モースのこの部分や小倉謙編「東京帝国大学理学部植物学教室沿革」(一九四〇年刊)や谷津直秀「東京帝国大学理学部動物学教室の歴史」(一九三八年発行の雑誌『科学』連載)によって、配置推定図(同書一〇五頁)と解説が載る。それによれば、図255(この図では右方向が真北である)の「3・4・5」は動物学教場(当時は「教室」とは呼称していなかった。但し、モースの辞任後に動物学教場は左(南)翼の下の端の階下の内側――以下に述べる講義室()と実験室兼居室()――に移された。これらの翼は実際には中央に廊下があって図で言う左右に部屋があった)で、「3」が生徒の実験室(図254)、「4・5」がモースの居室兼研究室で、「1」の位置の二階部分が講義室(そうしたタッチがモースの図には残っている)、「1・2」を合わせた面積の一階部分が列品(標本室)であった(モースの「2」の列の様に並んでいるのはその陳列ケースのつもりであろう)。そしてモースの図には示されていないが、左(南)翼の方形の中庭の左辺に相当する箇所の外側部分(南側)が植物学教場、左(南)翼の下(東)の端の階下の内側に当たる部分に講義室()と実験室兼居室()であった。因みにモースは描いていないが、この左(南)翼の上の角の少し南西の位置(の左(南)直近)に前庭の北の終わり(上方のモースの言う「主要部建築」外上(西側)部分左右(南北)は正門から正面入り口正門へ続く横(南北)に細長い前庭となっていた)を挟んで「講堂」があり、東京大学に於けるモースの講演や特別講義はここで行われたとある。「6」は正面入口と思われる。

「二百フィート」60・97メートル。

「学生数百名」とあるのは、予備門四年と学部課程四年の東京大学法文理学部学生の総数を言っていると考えてよいであろう。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『この明治十年度(九月より)の理学部諸学科一年』(「化學科」・「数學物理學及星學」・「生物學科」・「工學科」・「地質學及び採鉱學科」・「佛語物理科」の六学科で「佛語物理科」は開成学校時代を引き継いだもので数年後に廃止された)『は一八名、生物学科は二名にすぎな』かったと記されておられる。]

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