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2013/12/19

北條九代記 伊賀判官光季討死 承久の乱【九】――承久三(一二二一)年五月十五日 承久の乱緒戦――伊賀光季、子寿王冠者とともに切腹

さる程に夜既に明けて、未(ま)だ卯刻計(ばかり)に、寄手(よせて)八百餘騎、判官が宿所京極の西の方(かた)高辻(たかつじ)の北、四方を取卷きて、鬨の聲を上げたり。高辻面(おもて)は小門なりけるが、寄手よじめは侮りて、ひたひたと詰掛けしが、内より射出す矢にあたりて、志賀〔の〕五郎、岩崎右馬允(うまのじよう)、同彌平太、高井兵衞〔の〕大夫、矢庭(やには)に射臥せられしかば、是に辟易して、攻口(せめくち)引退(ひきしりぞ)く。京極面は平門にて、扉を閉(とぢ)堅め、小門を開きたりけるを、寄手押掛けて、我劣らじと込(こみ)入りければ、判官が郎從共防ぐとはすれども、さすが大勢に攻立(せめたて)られ、痛手薄手負はぬ者はなし。皆討死しければ、寄手前後より火を懸けたり。判官父子は、今は是までとて、腹搔(はらかき)切りて、熖(ほのほ)の中に飛(とび)入りたり。寄手は勝鬨(かちどき)を作りて引返す。昨日よでは、鎌倉殿の御代官として、伊賀判官光季、都を守護してありしかば、世の覺時(おぼえ)の銛(きら)、肩を竝(ならぶ)る人もなく、めでたく榮えしに、一朝に滅亡して、忠義の道を表しける志(こゝろざし)こそ雄々(ゆゝ)しけれ。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【九】――承久三(一二二一)年五月十五日 承久の乱緒戦――伊賀光季、子寿王冠者とともに切腹す〉

「卯刻」午前六時頃。

「小門」後掲する「承久記」には『土門』とあるから、恐らくは埋門(うずみもん)であろう。築地や塀の下部を刳り抜いたようにして造られている門で主に裏門として用いられた小さな門である。

「平門」「ひらもん」とも「ひらかど」とも読む。左右に二本の柱を建て、棟の低い平たい屋根(横木)を載せた冠木門(かぶきもん)のこと。門柱に貫(ぬき:柱の間に通す水平材。)をかけた門で、本来は下層階級の門造であったが、江戸時代になると諸大名の外門などに用いられた。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号19から24のパート)の記載を示すが、「北條九代記」のあっさりした描写に対し、頗る詳細を極めてリアル、悲劇の寿王の姿をも余すところなく描いて、読む者の涙をいや誘う。長いので各パートごとに私の注を挿入した。

 

 判官ノ宿所ニ向辻子京極、高辻子ヨリハ北、京極ヨリハ西、京極面ハ棟門・平門ニテ大門也、高辻子面ハ土門ニテ小門也。賀田三郎申ケルハ、「大門・小門開テ、敵ヲ思樣二人テ打死セン」トゾ申ケル。同四郎ガ申ケルハ、「恐入候へドモ、此儀コソ可ㇾ然トモ存候ハネ。大勢思樣ニ入テハ、是程ノ小勢、弓ヲモ引、太刀ヲヌキアハセ可ㇾ候カ。手取ニ被ㇾ取候ナンズ。大門ヲバサシ、小門一方ヲ開テ、寄コン敵ノ或ハ物具ノ毛ニツキ、又ハ名對面ニ付テ、弓矢打物、思々ニ取持テ、打死ヲシテ名ヲ後代ニアゲントコソ存候へ」トゾ申ケル。此儀、尤可ㇾ然トテ、京極面二ノ門ヲバサヽセテ、高辻面ノ土門計ヲ開テゾ相待ケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:光季の屋敷は京の東西中央を通る四条大路の三筋下がった五条大路の一本北の高辻小路と平安京の最北の南北路である東京極大路の接する附近にあった。現在の河原町五条交差点の北附近。

●「手取」は「手捕り」で生け捕りのこと。]

 

 院ノ御所ヨリ討手ノ大將ニハ、能登守秀康・平九郎判官胤義・少輔入道チカヒロ・山城守廣綱・佐々木ノ彌太郎判官高重・筑後入道有則・下總ノ前司盛網・肥後前司有俊・筑後太郎左衞門尉有長・間野左衞門尉時連、此等ヲ始トシテ八百餘騎ニテゾ向ケル。高辻面ニハ燒亡トテヨバハリケル。判官、是ヲ聞ツヽ、「ヨモ燒亡ニテハアラジ。敵ノ寄スル馬烟ニテゾ有覽」ト云モハテネバ、押ヨセテ、時ヲドツトツクル。一番ニ、黑皮威ノ鎧著テ葦毛ナル馬ニ乘クル武者一騎、「平九郎判官ノ手者、信濃國ノ住人志賀五郎」トテ、眞先カケテゾ寄タリケル。贄田三郎ガ放ツ矢ニ馬ノ腹ヰサセテノキニケリ。二番ニ、同手者、岩崎右馬允押寄、贄田右近ガ放矢ニ馬ノ股ヲイラレテノキニケリ。三番ニ、同手者、岩崎彌衞太トテ推寄タリ。小カヒナ被ㇾ射テ引退。四番ニ、一門ナリケル高井兵衞太郎トテヨセタリケルガ、餘リニシゲク被ㇾ射テ、馬ヲハナレ太刀ヲヌイテ額ニアテ、只一人打テ入。伊賀判官郎從等十四五人、下ニヲリ立テ、矢先ヲソロヘテ散々ニ射ル。餘リニキブク被ㇾ射テ、サツト引テゾアガリケル。緣ノ上ヨリサヽヘテ射ニ、弓手ノ股、馬手ノ小カイナ被ㇾ射テ、郎等ガ肩ニ懸テゾノキニケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:

●「キブク」は「苛(きぶ)い」という当時すでに起こっていた形容詞の口語活用の連用形。きびしい、はなはだ堪(こた)えるの意。]

 

 京極面ニ抑へクル寄手ノ中ニ申ケルハ、「イツ迄、角ハ守ランズルゾ。大門ヲ打ヤブレ」トノヽシル聲ノシケルヲ、判官是ヲ聞テ、「敵ニ破レン事コソ口惜ケレ。トテモ叶ハヌ物故ニ、治部次郎、門アケヨ」ト云ケレバ、「承ル」トテニノ門ヲ開キタレバ、京極面ニ數百騎ヒカヘタル兵共、馬ノ鼻ヲ雙ベテ我先ニト亂入。同威ノ鎧に白葦毛ナル馬ニ乘タル武者、「間野左衞門尉時連」ト名乘テ相近ク。「如何ニ、伊賀判官。軍ノ場へハ見へヌゾ」。「光季、爰ニアリ。近寄テトハヌカ。ヨルハ敵カ」トテ、相近ニサシヨリタル。判官ヨツ引テ放矢ニ、時連ガ引合セノブカニ射サセテ、ノキニケリ。其次ニ、「三浦平九郎判官胤義」トテ推寄テ、「如何ニ、伊賀判官。面ニ見へヌゾ。朝敵トナリ進ラスルハ、面目ニテコソアルニ、イツマデ籠ランゾ。出テ宣旨ノ趣ヲ承ハレカシ、キタナキ者カナ」トイヘバ、伊賀判官、「何卜云哉覽。ヲノレガ君ヲスヽメ奉テ世ヲ取ントスル事ハ、光季存知シタル物ヲ。近ク寄テトハヌカ。寄ハ敵カ」トテ、相近ニ推寄タリ。判官、「敵多ケレ共、取分、平九郎判官コソ、光季ガ存ル旨ノカタキニテアレ。相構テ射落セ」トテ、弓取テヨキ程ノ者共、矢前ヲソロへテ射ル。餘リニシゲク被ㇾ射テ、車ヤドリニ打入テゾ扣タル。伊賀判官能引テ放シケルニ、平九郎判官持タリケル弓ノ鳥打所ヲ、ハタト射削テ、弓手ノ方ニ竝ンデ扣タル播磨國住人原田右馬允ガ頸ノ骨ニ中リテ落ヌ。支テ射ル矢ニハアタラズ、ソバナル者ニ中リテ死ス。定業、力不ㇾ及トゾ見エシ。

[やぶちゃん「承久記」語注:

●「引合せ」広義には鎧や腹巻・胴丸・具足の類の着脱するための胴の合わせ目を指すが、ここでは大鎧の右脇の間隙部分を指す。

●「ヲノレガ君ヲスヽメ奉テ世ヲ取ントスル事ハ、光季存知シタル物ヲ」「敵多ケレ共、取分、平九郎判官コソ、光季ガ存ル旨ノカタキニテアレ」という表現からこの時既に光季は三浦胤義を叛乱の非道の逆臣にして実質的な張本人として認識していたことが分かる。

●「扣タル」は「ひかへたる」と読む。控える。

●「鳥打所」慈光寺本は『取ヅカノ上』とある。弓の取柄で手で握る部分を指す。

●「定業、力不ㇾ及トゾ見エシ」この部分は光季の方にツキはなかったことをいっているように読めるのだが、慈光寺本ではこの部分では胤義が情けなくも、

 院ノ御軍ノ門出ニ、大將軍胤義一番ニ射落サレタリト云(いは)レンハ公私(おほやけわたくし)ノ爲惡シカリナン

とさっさと門外へと逃げ帰るさまが描かれており、そっちの方がより面白い。]

 

 爰ニ「佐々木ノ彌太郎判官高重」トテ寄タリ。壽王緣ニ立出テ申ケルハ、「人ハイクラモ寄サセ給候へ共、見知ネバハヅカシクテ物モ不ㇾ被ㇾ申。彌太郎判官殿ト承ル程ニ、壽王コソ是ニ候へ。兼テハ子ニセン親ニ成ント御約束候シ。ヨモ御忘候ハジ。是モ忘進ラセズ。給テ候シ矢ヲコソ未持テ候へ。恐候へ共、親ノ只今打死仕候最後ノ供ヲ仕候時、進ラセント存ズル」トテ能引テ放ケレバ、鎧ノツルバシリノ三ノ板マデ射ハシラカシタル。十二三ノ小冠者ナレバ、志ノユク程ハ引テ放トイヘドモ、サスガ裏カクマデハナカリケリ。彌太郎判官是ヲ見テ、ハゲタル矢ヲ差弛シテ引退ク。「人々、是御覽候ヘヤ。壽王ニ被ㇾ射テ候ゾ。現ニ子ニセン親ニ成ント約束シテ、シタシカラン爲ニ鳥帽子キセ聟ニ取ン迄約諾仕タリシゾカシ。云ヒツル言葉ノヲトナシサ、心中ノハヅカシサヨ。地體ハ王土ニ栖身程、悲カリケル物アラジ」トテ涙ヲ流シ、其日ハ軍モセザリケリ。見人ナサケ有ケリト感ジツヽ、皆涙ヲゾ流ケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:このシーン、私は頗る好きである。

●「見知ネバハヅカシクテ」見知らぬ御仁ばかりなので気が引けて。寿王の純真さがよく出ている。

●「兼テハ子ニセン親ニ成ント御約束候シ」慈光寺本のこの部分では、相手は佐々木高重ではなく、光季の盟友で、先に注した通り、同慈光寺本では前日まで光季を救おうとした、かの佐々木山城守広綱という設定になっており、その方が効果としては劇的である。兼ねては元服の際、私の烏帽子親となって下さり、また私は烏帽子子(ご)となって、烏帽子親子の誓いを約させて頂きました、の意。

●「進ラセズ」「進ラセン」はそれぞれ「たてまつらせず」「たてまつらせん」と訓じているものと思われる。

●「給テ候シ矢」慈光寺本では『元服ノ時給ハリタリシ矢奉返(かへしたてまつる)』とあって、その注に『元服の際烏帽子親が烏帽子子に矢を与える風習があったか』とする。

●「射ハシラカシタル」は「射走らかしたる」で、「射走らかす」とは矢を放たたせる、ある深さまで罅を入れさせて突き走らす、という謂いである。

●「ハゲタル矢」の「ハグ」は「矧(は)ぐ」で、通常は弓に矢を番える、取り付ける、塡(は)めるの意であるが、ここは特に刺さった寿王の矢である。

●「差弛シテ」は「さしはずして」と訓じているように思われる。慈光寺本では存分に引き絞った矢は『舅ノ山城守ノ鎧ノ袖ニ箆中(のなか)マデコソ射立(いたち)タレ』とし、門外に引き退いた広綱が『是ヲ見玉ヘ、殿原。十四に成判官次郎ガ射タル弓勢(ゆんぜい)ノハシタナサヨ』と述べて、鎧に刺さった矢を抜かずに、折ってそのままに残し置いたとある。この広綱の「はしたなさよ」は、「かの少年の――何という――恐ろしいまでの物凄い弓の引きの強さよ!」という深い感慨である。

●「地體ハ」本来は、もともとは。]

 

 寄手ハ亂入、城ノ中ハ小勢也。防戰トハイへ共、伊賀判官郎從等七八人有ケル者共、カリソメナル樣ニテ、乾ノ方ノ坂ヲノボリ越テゾ落行ケル。今ハ賀田三郎・同四郎計ゾ殘ケル。贄田三郎、三箇所ニ痛手負テ、太刀ヲ杖ニツキ、ヨロボヒヨロボヒ判官ノ前ニ參テ、「今ハ角罷成候程ニ、弓モ不ㇾ被ㇾ引、太刀モヽタゲラレ候ハネバ、御供仕覽トコソ存候へ共、敵ニ被ㇾ取テ犬死仕候ハンヨリハ、先立奉テ、死出ノ山ニテ待進ラセ可ㇾ候」トテ、サビタル太刀ヲ取直シ、鋒口ニ含ミ鐔本迄貫テゾ臥ニケル。宿所ニ火ハ懸リヌ。贄田四郎計ゾ、防矢ヲバ射ケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:

●「カリソメナル樣」ほんの一時生き永らえるだけのこと乍ら、といった意味であろう。

「乾」北西。この場合は平安京の北西であろうから、鷹峰(たかがみね)か高雄のことであろう北陸辞道や東山道・東海道は既に敵の防衛で塞がっていると考えたからであろう。]

 

 判官、嫡子壽王ヲ招テ、「時コソ能成タレ。自害セヨ。云ヒツル言ニヽテ、カマヘテ能振舞へ、壽王」ト云ケレバ、「自害ハ如何樣ニ仕候ヤラン」。「只腹ヲ切」トゾノタマヒケレバ、則腹卷ノ高ヒボ切テ推ノケ、直垂ノ紐トキクツロゲテ、赤木ノ柄ノ刀指タリケルヲ拔テ、柄ヲ取直シキリキリトシケルガ、流石ヲサナキ故ニヤ、無左右不ㇾ切ㇾ得。父光季、アハレ自害ヤ仕損ゼンズラント思テ、「如何ニ壽王。火コソヨケレ。火へ入カシ」トイヘバ、ツヒ立、刀持ナガラ、火ニ飛入ントシケルガ、度々焰ヲ顏ニ被吹懸、幾程ノガレントテ、走歸々々、二三度ガ程ハシタリケル。光季是ヲ見ルニ、目モクレヌ。「壽王、サラバ爰へ寄」トテ、左ノ方ニスヘテ、片手ヲバ取組、片手ヲバ膝ニヲキ、壽王ガ貌ヲツクヅクト守リ、「親トナリ子トナルモ、先世ノ盟リト云ナガラ、是程、光季ニチギリ深カリケル子ハアラジ。ヲサナケレバ、落テ跡ヲモ被ㇾ訪、世ニモアレカシト思へ共、供セント云フ上ハ、其コソ願フ所ノ幸ナレ。イケテ如何ナル孝養報恩ヲ營トモ、是ニ可ㇾ過トモ不ㇾ覺。死出ノ山ヲツレテ越ン事コソウレシケレ。人手ニカケジト思程ニ、我手ニカケンズルゾ、我ウラメシト思ナヨ」トテ、暫ク守リテ、敵ハ手イタクヨル、サリトテハト思ケレバ、ツカンデ引寄、首横切テ、首トムクロヲ後ロ樣ニ炎ノ中へ投入テ、二目共不ㇾ見、東へ向テ三度伏拜ミ奉リ、「南無歸命頂禮、鎌倉八幡大菩薩若宮三所。權大夫爲ニ命ヲ王城二捨置ヌ」ト祈誠シテ、又西二向テ三度伏ヲガミ、「南無西方極樂教主、彌陀如來。本願アヤマリ給ズハ、必ムカへ給へ」ト念佛高ラカニ三十返計申ケルガ、腹搔切テ、壽王ガヤケヽルニ飛加リ、打重テゾ燒ニケル。贄田四郎防矢射ガ、是ヲ見テ腹搔切リ、主ト同ク伏重テゾ燒ニケル。其後、防者ハナシ、寄手思樣ニ亂入、烟ノ隙ヨリ燒首少々取テゾ歸リケル。

[やぶちゃん語「承久記」語注:ここのクライマックスは凄絶である。

●「高ヒボ」高紐(たかひも)に同じ。右脇の下の下方で鎧の前胴上部(右胸中央右部分)と後胴の端を繋ぐ紐のこと。近世では「相引の緒(あいびきのお)」と呼んだ。

●「盟リ」「ちぎり」と訓じていよう。

●「南無歸命頂禮、鎌倉八幡大菩薩若宮三所」「南無歸命頂禮」は仏教で仏を礼拝する際の頭を地につけて恭しく礼拝致しますという呪言(その意味は後述)で、後の「鎌倉八幡大菩薩若宮」の部分は鎌倉の鶴岡八幡宮及びその元の祭社であった由比の若宮を指すものだが、それらは元を辿れば、康平六(一〇六三)年八月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏二代目であった源頼義(頼朝祖父)が、前九年の役の戦勝祈願のために京の石清水八幡宮護国寺(或いは河内源氏氏神の壺井八幡宮)の祭神を鎌倉の由比の郷鶴岡に鶴岡若宮(現在の材木座一丁目に元八幡として残る)として勧請したのが始まりで、石清水八幡宮本宮本殿の中殿には誉田別命(ほんだわけのみこと)が、西殿には比咩大神(ひめのおおかみ)が、東殿は息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)が祀られて、この三座を総称して八幡三所大神というから、これは総ての八幡神への祈請なのであるが、而して同時に当時は神仏習合の鶴岡八幡宮寺であったから、その本地垂迹説によって八幡三所大神を祈ることは、同時に本地である阿弥陀・観音・勢至を礼拝することに他ならない考えられていたのである。

●「權大夫」右京権大夫北条義時。]

 

 光季、昨日迄ハ鎌倉殿ノ御代官トシテ、都ヲ守護シテ有シカバ、世ノ覺へ、時ノキラ、肩ヲ雙ル人モナシ。宿所モ宮殿・樓閣ト見ヱシカドモ、今日ハ燒野ト見ヱワタリ、空キ名ヲノミ、殘シケル。行衞ヲ聞コソ哀レナレ。討手ノ使共、賀陽院御所へ歸參テ、事ノ由申入ケレバ、一院御感不ㇾ斜、ハヤ、クワンジヤウ可ㇾ被ㇾ行旨被ㇾ仰ケルヲ、胤義申ケルハ、「何條、是程ノ事ニ勸賞被ㇾ行可ㇾ候。御大事ヲ被ㇾ遂テ後ニコソ」ト申ケレバ、「イシクモ申タリ」ト感ジ被ㇾ仰。サテモ伊賀判官朝敵トナリシハ奇怪ナレドモ、一引モ不ㇾ引打死ス。「アハレ勇勇シカリケル兵哉」ト、上一人ヨリ下萬民迄、ホメ惜マヌ者ゾ無リケル。

[やぶちゃん「承久記」語注:

●「キラ」綺羅。

●「クワンジヤウ」後に出るように「勸賞」で「けんしやう(けんしょう)」「けじやう(けじょう)」とも読み、功労を賞して官位や物品・土地などを授けることを言う。]

 

 承久の乱をコンパクトに展開させるための分量の問題からとは思われるが、この寿王のエピソードの終わりを「北條九代記」の作者が割愛したのは如何にも惜しい。]

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