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2013/12/14

中島敦 南洋日記 十一月六日

        十一月六日(木)

 トラックに比べてパラオの暑きに閉口す。昨夜より、直ちに、(久しく忘れをりし)喘息の發作あり。パラオはよくよく我が身體に適せぬ所と見えたり。留守中に來りし、手紙、葉書、雜誌の雜を讀むに忙し、中に八月十八日出のたかの手翰あり。我が病狀を憂へ悲しみ悶ゆる狀、眼前に見るが如く、今更、餘りに正直に病氣のことを告げやりし己の輕率に後悔せらる。

 送り來りしビスケットを食ふ。

[やぶちゃん注:「雜を讀む」はママ。「類」の誤字。

この日附で父田人宛書簡が残るので、以下に示す。

   *

〇十一月六日附(中島田人宛。封書。封筒欠)

 昨日午後二時飛行機にて無事パラオに着きました。途中の健康も上乘、却つて出發前より元氣でをります故、御安心願ひます

 たゞ、教科書編纂者としての收穫が頗る乏しかつたことは、殘念に思つてをります 現下の時局では、土民教育など殆ど問題にされてをらず、土民は勞働者として、使ひつぶして差支へなしといふのが爲政者の方針らしく見えます、之で、今迄多少は持つてゐた・此の仕事への熱意も、すつかり失せ果てました。もつとも、個人の旅行者としては、多少得る所があつたやうに思ひます、今月中に又、第二の旅に出るつもりでをりますが、とりあへず、安着のおしらせまで

    十一月六日        敦

  父上樣

 

 一日も早く今の職をやめないと、身體も頭腦も駄目になつて了ふと思つて、焦つてをりますが、今の所一寸拔けられさうもありません。パラオに落ちつかないで、いつも旅行にばかり出してゐてくれゝば喘息のためには良いのですが、何しろ、不斷のこの暑熱では、頭の方がもちません、記憶力の減退には我ながら呆れるばかりです、

 或ひは東京出張所勤務に廻して貰ふ手も考へてゐます。さうなると月給は本俸だけで今の半分以下になりますが、身體にはかへられません、喘息が起らないとしても、南洋は、身體に極めて惡い所と思はれます。その上、食物の品種が不充分なので自然、結核が多くなるわけです。何もしないでヂツとしてゐても、何時の間にか身體がグツタリ疲れてゐるのです、之は誇張でも何でもなく、熱帶に一・二年も暮した人なら誰でも知つてゐることです。もし氷上にでも何處か高等學校か專門學校の教師の口を探して貰つて、この四月からでも、かはれたら代りたいのですが、公學校教科書の方の仕事を途中ではふり出して、やめて了つていいものかどうか、(勿論、人間としては良くないに極つてゐますが、私のいふのは、さういふのが官吏として普通行はれてゐることか、どうか、といふのです)もし、よければ、本當にさうしたいものと、色々迷つてゐます。勿論、まだ誰にも賴んではゐません。とにかく、今のパラオのやうな生活を一年も一年半もつゞけたら、身體はこはれ、頭はぼけ、氣は狂つて了ひさうです。こんな事は父上に御心配をおかけする筋のことではないのですが、つい愚痴になつて恐縮です。勿論獨りで何とか解決はしませう。僕だつて何も、氣が狂つたり、身體をこはしたり、し度くはないので、何とか自衞の手段をとる必要があるのですが、たゞ、それが周圍の人に迷惑をかけたり、又自分を餘り厚顏なものにしたくないので、色々と氣を遣ふ譯です、

 或は、突然ポツンとやめて歸つて行くかもしれないので、タカにも多少貯金をさせておく必要があるのですが(當分遊ぶものと見て)中々思ふやうに送れないで困ります。

   *

「今迄多少は持つてゐた・此の仕事への熱意も、すつかり失せ果てました」(「・」はママ)現在の南洋での官吏としての仕事への深い失意と焦燥が滲む。と同時に、かなり都合のいい父への甘えも看てとれる手紙である。敦は同昭和一六(一九四一)年三月末、横浜高等女学校を急に休職(一ヶ年の復帰猶予が与えられていたが、これが事実上の退職となった)した際にも、当時六十七歳であった父田人はこの四月より彼の代わりとして同校に勤務、世田谷から通勤していた。この一ヶ年の復帰猶予附であることを考えると、この手紙の内容は不審とも言える。敦はどうみても横浜高等女学校に復帰する意志がなかったとしか思われない。それは何故か? 同校の校長が田人の教え子であったからといって(というより教え子なら逆に身体を労わってこんなことはさせないと私は思う)老体の田人が何故わざわざ世田谷くんだりから通勤しなくてはならなかったのか? そこには田人の側に同校に対して老体を押しても敦の代わりに勤務しなければならぬ「借り」があったからではなかったのか?――そこにこそ私は小宮揉み消スキャンダルが影を落としているんではないか――と思われてならないのである。]

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