フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« つかれたる 心   八木重吉 | トップページ | 耳嚢 巻之八 雄長老狂歌の由人の語りし事 »

2013/12/16

中島敦の南洋日記の欠落部補填のための昭和16(1941)年11月9日附中島たか宛書簡(詳細注附)

[やぶちゃん注:この間の十七日までの十日間の日記は現存しない。敦の日記はこの「南洋日記」(私の仮題)しか残されていないが、解題によればこれ以外にも、メモ書きの手帳類とは別の多くの日記が(本人によって?)焼却されたものらしい。この間をせめても補うものとして、十一月九日附の中島たか宛書簡を以下に示して消息を知る便(よすが)とする。なお、この間の書簡もこれ一通しか残存しない。

   *

〇十一月九日附(日附は「六日」としたものを「六」を抹消して「七」に訂したもの。単なる誤記とも、六日に一旦書き始めたが、喘息の発作が断続的に続いた(六日と七日の日記参照)ために中断して九日に再び筆を執ったものとも考え得る(先に掲げた父田人宛は六日附である)。消印パラオ郵便局一六・一一・九、世田谷一六・一一・一三。南洋群島パラオ島コロニール町南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島たか宛。封書。航空便。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一三九。太字は底本では傍点「ヽ」)

 久しぶりに歸つて見ると、さすがにパラオは、便利な所だな。今迄まはつて來た東の島々に比べればね。バナナもあるし、コーヒーもあるし。しかし、ラヂオが何處からも聞えて來ないのには駕いた。放送局まで出來たのに、こんな筈はないと思つて聞いて見たら、まだ受信(ジユシン)器、(つまり、ウチに備へとくラヂオさ)が少ししか(十ぐらゐしか)來てないんだとさ。南洋長官だとか内務部長とか、さういふ人の家にしか、ないんださうだ。それに、さういふ所でも、パラオは今、電燈が晝はつかないので、夜しか聞けない譯だ。パラオ放送局などと言つたつて、こんなアンバイぢや、シヨウがない。これぢや一月の春場所の相撲も聞けないかも知れない。パラオへ歸つたら、東京の夜の音樂放送も聞けると思つてゐたら、大違ひさ。今、そちらから送つて貰つた雜誌類をガツガツ(久しく餓ゑてゐたからね)讀んでゐる。これはお父さんが學校で、買つて來て下さつたものなんだらうが、お父さんへの手紙に、このお禮(レイ)を書くのを忘れたから、お前から宜しく、申上げておいてくれ。但し、之からは、「文藝」と「新潮」と「文學界」の三つだけで結構だ、、といふことも、ついでに。何しろ旅行中は、内閣が變つても、しばらく知らないでゐるんだから、暢氣なものさ。

 國民學校の、よみかたの卷四を見て、ムヅカツイのに驚いた。桓にも、書取(カキトリ)(字を讀む方はやさしいが、書くのはムヅカシイから)だけは毎日少しつつでいいから、シツカリ稽古(ケイコ)させなけれはいけないと思つた。これはおぢいちやんに、お賴みしておくれ。

 二重マブタになつたといふ格の顏(カホ)は一一寸想像できないな。イタヅラばかりしてるだらうな。やつぱりデブさんだらうね。この一月(ひとつき)以來、オレの生活の中に、一つの規則(キソク)をこしらへた。それは、「午後四時以後、子供のことを考へないこと」といふのだ。格や桓のことが頭に浮んでくると、大急ぎで、聲をだして本をよんだり、近所に、無駄話に出かけたり、して、そらして了ふんだ。オレが最近、身體の調子の良いのもこの規則のおかげかも知れない。だが、今は、まだ午前中(けふは日曜、十一月九日)だから、子供等のことを考へてもいゝし、ノチャの寫眞を見てもいいわけだ。

 この前、お前達のシャシンを送れ、と書いたが、あれは別に、いそがなくてもいいんだ。ヒマな時に、とつたのを、何時でもいいから、送つてくれればいい。いそがしいのに、無理にシャシン屋などへ出掛ける必要はない。

 群島を今迄歩いて見た所では、どうも、僕の喘息には、(全く困つたことに)パラオが一番惡いやうだ。セツカク、少し、ふとつて來たのに、又、痩(ヤ)せて來ては大變だから、いそいで、第二の旅行に出ることにしようと思ふ。まだ、確定(カクテイ)ではないが、大體次のやうになるだらう。十一月十八日山城(ヤマシロ)丸でパラオ出帆、二十二日にロタといふ島に下りる。ここで二日とまつて、二十四日にサイパン丸で、ここからサイパンに向ふ。二十六日サイパン着。サイパンには一週間滯在。十二月三日出帆の近江丸で、南へもどる。十二月八日、ヤップ着、ヤップに十八日程滯在して、群島でも一番、開(ひら)けない此處の土人を充分(ヂウブン)に見ようと思ふ。さて十二月二十六日ヤップ發、翌二十七日パラオ着といふことになるだらう。合計四十日。中でもヤップの十八日間は樂しいだらうと思ふ。

 さて、右のやうな豫定だから、十一月中にパラオ宛に、手紙や、物を送つてくれても駄目だ。送るのなら、十二月になつてから出すこと。十二月の十日か十二・三日頃迄に、出せば、大抵、僕の歸つてくる船(ヤップから乘込む、(又又(マタマタ))サイパン丸)で一緒に來るだらう。十二月二十七日に歸るなんて云へば、内地なら歳も押しせまつて大分、忙しい感じだが、こちらでは、年の暮なんて感じが出るか、どうか? タラタラトと汗を流しながら、「明けまして、おめでたう」ぢやずゐぶん、をかしなものだね。第一、ゾウニも喰へるか、どうか分らない。去年は、罐詰(カンヅメ)のゾウニだつたさうだが。しかし、決して、餅(モチ)なんぞ送るんぢやないよ。貰(モラ)つたつて燒く所が、あるわけぢやなし。却つて困るから。それにオレは、モチよりもパンの方が好きな位だからね。

 十二月といへば、うちのクリスマス・トリーを思出すね。どうした? あれ。資(スケ)さんの所へ置いて來たかい? 去年は格がこはがつて、そばへ寄らなかつたね。それとも、こはがつたのは、今年の五月人形だつたかな? 資さんといへば、二度ばかり手紙を呉れた。ウチのこと、喜んでゐたよ。

 ここの所、三日ばかり續けて飛行機が出る。今迄、たまってゐたのが一ぺんに動き出したからだ。オレは大抵、飛行機が出る度に手紙をやるつもりだけれど、お前までが、その、おつきあひをする必要はない。お前の方は、一月に一度か二度で結構。手紙を書く間だけでも身體を休めた方がいいぜ。お前のハタラキ過ぎるのを、オレは、一番心配する。オレを安心させたかつたら、なるべくなまけて呉れ。

 オレの留守(ルス)の間に來た(ズヰブン遲(オク)れて)お前の手紙、(八月十八日に出したヤツ。オレの病氣の手紙を讀んで、トテモ心配して書いた、長い長い手紙さ、お前一人で南洋へ來るつて云つてきた手紙)を讀んで、オレは、お前に心配させすぎたことを後悔してゐる。あのオレの病氣の手紙は、別に大ゲサに書いたわけでも何でもない。本當のことばかりだが(あとで、あれは大げさに書き過ぎたんだ、と言つてやつたのは、アレは、お前が本當に南洋にやつて來ては、いけないと考へたからだ。)しかし、あれ程お前の心をいためると知つたら、あんなにくはしく書くんぢやなかつた。

 全く、あんなに心配しちや、イノチがちぢまつちまふ。あんなに心配させて氣の毒だつたと思ふよ。實際、もう少し、加減(カゲン)して、何とか書くべきだつたんだ。しかし、あの時は、オレも、苦(くる)しくて苦しくて、讀む方の身になつて考へるだけの餘裕(ヨユウ)が無かつたんだ。(あの時の下痢(ゲリ)が、アミーバ赤痢だつたことが、最近、やつと、ハツキリわかつた。そのわけは書くと長くなるから略す)全く、心配させ過ぎて、惡かつたよ。しかし、もう、今は、身體の方は大丈夫。旅行に出る前、スツカリ(内地にゐる時よりもずつと)深(フカ)く落ちこんでゐたホツペたも、今では、大分ふくらんで來た。鏡を見ると自分でも良く分る。寫(シヤ)眞を送つてやりたいんだが、どうも、お前も知つてるとほり、僕は、寫(シヤ)眞屋といふヤツが大嫌ひでね、何でもいいから、こつちの好きな恰好(カツコウ)で撮(と)ればいいものを、ヤレ、アゴを引けの、も少し左を向けのと、馬鹿々々しいことばかり言ふからイヤなんだ。つい、行く氣にならなくなる。その中、同じ宿舍の人にとつてもらつて、送らう。話は、全然違(チガ)ふが、「燒のり」つて、高いものだねえ。今、こつちで賣つてる、餘り上等でないヤツでも一圓六十錢(罐(カン))ぐらゐだね。少し大事にして、たべようと思つたよ。旅行に出てゐて、手を付けなかつたのが、まだ二罐あるから、當分送つてくれなくてもいいや。

 お前のこしらへた、絹(キヌ)の腹卷(ハラマキ)は、とても暖(あたたか)いね。毎晩して、ねてるんだ。もう寢冷(ねびえ)の心配はない。さて、今度旅行して見て、土人の教科書編纂(サン)といふ仕事の、無意味さがはつきり判(ワカ)つて來た。土人を幸福にしてやるためには、もつともつと大事なことが澤山ある、教科書なんか、末(スエ)の末の、實に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるといふことは、今の時勢では、出來ないことなのだ。今の南洋の事情では、彼等に住居と食物とを十分與へることが、段々出來なくなつて行くんだ。さういふ時に、今更、教科書などを、ホンノ少し上等にして見た所で始まらないぢやないか。なまじつか教育をほどこすことが土人達を不幸にするかも知れないんだ。オレはもう、すつかり、編纂の仕事に熱が持てなくなつて了つた。土人が嫌(キラ)ひだからではない。土人を愛するからだよ。僕は島民(土人)がスキだよ。南洋に來てゐるガリガリの内地人より、どれだけ好きか知れない。單純で中々可愛い所がある。オトナでも大きな子供だと思へば間違ひがない。昔は、彼等も幸福だつたんだらうがねえ。パンのミ・ヤシ・バナナ・タロ芋は自然にみのり、働かないでも、さういふものさへ喰べてれば良かつたんだ。あとは、居眠り、と踊りと、おしやべり、とで、日が暮れて行つたものを、今は一日中こき使はれて、おまけに椰子(ヤシ)もパンの木(キ)も、ドンドン伐られて了ふ。全く可哀さうなものさ。(今の有樣については、くはしく書くことを禁じられてゐるから、これは、もう之で止める)

 身體は元氣になつたが、この暑さ、むし暑さでは、頭を働かせることは、殆ど不可能といつてもいい。夜だつて、とても、書きものなんか出來ない。實は、この十月一パイ迄に、オレは或る仕事をするつもりだつたんだが(内地を出發する時も、そのつもりで、原稿用紙などを持つて來たんだが)、はじめの七月・八月は病氣ばかり、それからは旅行となり、旅行に出る時もまだあきらめられないで、原稿紙を持つて行つたのだが、事實は一枚も書けなかつた。暑さのせゐにするのは卑怯(ヒケウ)かも知れないが、實際、この氣温ではオレには何一つ、仕事が出來ない。最近、ある統(トウ)計を見ると、たら、パラオの一年間の平均温度は東京の七月八月の平均温度よりも高く、濕(シツ)度と來たら東京の三倍か四倍ぐらゐなんだ。殘念ながら、オレはこの高温と濕度とに敵(カナ)はない。身體は或ひは慣れるかも知れないが、精神は次第(シダイ)々々にモウロウとなつて行くばかりだらう。南洋に長くゐる人は、たしかに頭の働きが鈍(ニブ)いね。これは本當だ。でも十月の終になつても、一枚も書けなかつた時は、さすがになさけなかつたなあ! 自分の不甲斐(フガヒ)なさに、口惜(クヤ)し涙が出たよ。だが、この涙は、誰にも分つてもらへない。お前のほかは。又、誰にも話すべきことでもあるまい。桓や格も、大きくなつて、(普通の役人や會社員で終る人間なら、それは、それでいいが)もし、學問や藝術に志ざす人間だつたら、たとへ餓死しようとも、自分の志ざす道から外(そ)れて、よその道に入るやうなことは、させ度くないなあ。オレの今、味はつてるやうなイヤななさけない思ひはさせたくないと、しみじみ考へるよ。

 しかし、まあ、旅行前にくらべて、身體だけでも良くなつたことは喜んでくれ。精神的なことは、これは、オレが自分で何とかするさ。お前の心配すべきことではない。せんに、オレに萬(マン)一のことがあつたら、あのバスケットの中の原稿の中、和歌だけ氷上にやつて、あとは燃(モ)しちまへといつたね。あの言葉を少々訂正(テイセイ)しておく。燒かないでもいい。氷上にやらないでもいい。オレが死んだらね、三好に賴んで深田氏にあづけてあるものを持つて來て貰ふんだ。さうして、それ等をあのバスケットの中の原稿と一緒に包んで、しまつて置け。さうして桓が二十歳にもなつて、文學をやらうとする人間(或は、文學を非常に愛好(アイコウ)する靑年)だつたら、それを桓に渡してくれ。桓がさういふ人間でなかつたら、格が大きくなるのを待つてくれ。格も又、駄目なら、仕方がない。その時始めてみんな燃しちまつてくれ。

 旅行中、ヤルートでは五時の朝飯、ポナペでは六時、トラックでは六時半の朝飯といふ工合に時間が色々ちがふので、こちらへ着いてからも時間の工合が何だかへンで仕方がない。ここでは大體七時から七時半に朝飯をくふ。ヤルートとは大變な違ひさ。

○今、かへるがしきりにギヨロギヨロないてゐる。バナナ畑の下の濕(シツ)地で鳴いてるんだ。本郷町のダンダンの下の洗ひ場で、よく鳴いてゐたつけな。

○留守(ルス)中に來てたビスケットを少し、土(ひぢ)方さんに上げたら、とても喜んでたよ。あの人も僕と同樣、パンやミルクや紅茶やビスケットが無くては、ゐられない人なんだ。土方さんの所には、何時もミルクや紅茶やコーヒーがある、時々飮ませてもらふんだ。

○僕のゐない間に、地方課には大分人がふえた。たゞ僕の助手だけが來ない。繪をかく人もゐないし、一體、どうする氣なんだらうなあ。

○飛行機は、實に搖(ユ)れの少いものだが、しかし、やつぱり汽船の旅の方がラクだね。といふのは、腰かけたきりで、横になれないから。

 しかし、窓から、雲の變化を眺めてゐると、あきないねえ。

   *

「お父さんへの手紙」前掲の十一月六日附の中島田人宛書簡と思われる。

「何しろ旅行中は、内閣が變つても、しばらく知らないでゐるんだから、暢氣なものさ」昭和一六(一九四一)年十月十八日に第三次近衛内閣から東條内閣へ変わったことを指す。この時、トラック島に滞在していた敦は翌十月十九日の日記に、『政變の噂を始めて聞く。すでに二三日前のことの由。浮世離れしたるものかな』と記している。

「資さん」高橋資雄。「九月廿一日」の注を参照。不詳の人物ながら、クリスマス・ツリーを譲って(保管?)いるところや、この文面を見ると、親族ではないにしても、かなり親しくしていた人物であることが分かる。

「オレの病氣の手紙」と敦のいう当該書簡は底本の「書簡Ⅰ」には見出せないが、八月十七日附の父中島田人宛の書簡(旧全集書簡番号一〇九)で、七月六日にパラオ到着からの凡そ一ヶ月の間、『殆ど病氣ばかり、喘息が少しよくなる急性大腸カタルで八日ばかり寐込んで了ひ、、それが、今以て、すつかり治つてはをりませぬ。發病以來二十日になりますので、或ひは、慢性にして了つたのかとも思はれます。何しろ食物の調節とか加減などまるで出來ない土地で、』『營養など考へてゐる餘裕はございません、腹に良からうと惡からうと、バナナでも喰つて、補ひをつけるより外ありません。こんな譯で大腸カタルも治らないのでせう』とあり、次に載る書簡番号一一〇の同じく田人宛八月二十二日附書簡の冒頭には、『十八日附の飛行便、たゞ今拜見致しました。色々と御心配を頂きまして、誠に申し譯ございません。實は、たかに宛てました此の前の手紙は、幾分大袈裟に過ぎはしなかつたかと後悔をしてゐる次第で、慚愧堪えへません、』(改行)『病中感傷の所爲とお嗤ひ願ひます、現在では、もはや、ずつと元氣になつておりますし、喘息の方も極めて良好とはいへませぬが、内地の冬のことを考へますと、遙かに樂にすごしております』として、ここで敦が言う、たかの示した南洋への渡航の希望に就いて、以下のように強くたしなめる内容が記されてある(太字は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

 たかは、南洋へ來たいやうなことを申してをりますが、とんでもない話で、こちらの様子が一向内地に知られてをらず、ぬために(又、知らせないことになつてゐるのでせう)そんなことを考へるのでせうが、これは凡そ、問題にならぬ話です、こちらから婦女子が引揚げこそすれ、こちらへ來るやうな時ではありません、絶對に。

 詳しく書くことが許されてをりませんので、困るのですが、爆死と餓死とを將來の非常な危険を豫想しないでは、此方へ來ることは出來ないやうな有樣です、たかによくよくお言ひ含めの程、願ひます、あれはたゞ、父上にお仕へすることゝ、二兒の世話とに、つとめてくれゝば、それで僕は滿足である旨、お云ひきけ願ひます、

   《引用終了》

このことから、たかへの体調不良をかなり深刻に記した手紙及び、それへのたかの南洋への渡航を望んだ返信は、田人宛書簡の送られた八月十七日以降、八月二十二日以前の凡そ六日間に前者を敦が出し(田人宛書簡と同日発信と思われる)、それに答えてパラオの敦の手元に届いていた(閉区間が短いことから速達便であった可能性が高いか)ことが分かる。そして、この田人宛と同日の八月二十二日附で以下のたかへの詫びの葉書が送られている。以下に全文を示す。

   *

〇八月二十二日附(消印パラオ郵便局一六・八・二二、横浜一六・八・二五。南洋パラオ島コロニール町南洋庁地方課。横浜市中区本郷町二ノ二四七 中島たか宛。はがき。航空便。旧全集「書簡Ⅰ」書簡番号一一一)

 病気の手紙で、すつかり心配をかけてすまなかつた。あれは、もう廿日も一月も前の手紙なんだ。今は、もう、すつかり元気だから、安心すべし。お前なんぞ來る必要はない。大丈夫だよ。桓も格も元氣らしい樣子で、まづ安心。俺の手紙は少し大ゲサすぎたんだ。今はもう大したことはない。天氣も次第に、良くなつてきたし、もう何も心配することはない。

   *

しかしながら実は必ずしも敦の体調はこの時点では快方に向かっていなかったことが、次の三日後の八月二十五日附の横浜女学校時代の教え子川口直江宛書簡(旧全集書簡番号一一二)で分かる。そこで敦は、寄せられた多くの教え子の手紙にそれぞれ返信したいが、『目下、僕は三十九度ぐらゐの熱で臥床中で、到底一人々々にあてゝ書くだけの體力がない』ため、『居間僕の机の上に重ねてある皆さんの手紙の一番上に(偶然)川口君のがのつてゐ』たことから、あなた『あてに書くことにした譯で』、『明日、船が出るので、どうしても今晩中に書かなければならないのです』とし(この船は郵便を載せる船便のことである)、『どうも気候が僕の身體に合はぬらしく、次から次へと病氣をして困つてゐます。今、やつてゐるのはデング熱といふ(ハシカとマラリヤを一緒にしたやうな)風土病です、熱は高いが、生命に別條はないさうですから御安心下さい。たゞ、七月の末から八月の始にかけて急性大腸カタルをした時には全く辛く思ひました。内地の腹下しなどとは、まるで、違ふ、殆ど赤痢のやうな症狀で、實に猛烈なものです。しかし、誰も知つてる人はなし、腹痛と下痢との中にまる三日間、炎熱にあへぎながら、のまず食はずで、はふりつぱなしにされてゐた時は全く弱りました、その時は、實際、内地が――横濱が――一番ハツキリいへば女房が――しみじみと戀しくなりましたよ。全く。』(改行)『その烈しい下痢も、まだすつかり治りきらず、どうやら慢性にこじらせて了つたらしい所へ、又、このデング熱ですつかり腐つてゐます、早く、島から島への旅行に出かけたいのですが、中々思ふやうに行きません』『又、身體の關節がズキくいたんで來たから、この邊で、やめさせて貰ひます』とまで記しており、症状は寧ろ悪化していたことが分かる。病状を偽って空元気まで示したたかへの思いやりが痛々しい。人によっては一方で教え子に事実を告白しているところに、敦の甘えを感じられるかも知れないが、実は『本郷町の家族は、この手紙が着く頃には、もう引越して了つてゐるでせう、世田谷の僕の父の所に』と川口宛書簡に記されている通り、この書簡の日本到着前に中島たかは義父田人のいる世田谷へ転居している。横浜在住の者が多かったであろう敦の教え子からデング熱云々の話がたかに洩れる可能性は低く、さればこそせめて可愛い教え子には甘えてみたかったという気持ちは分かる。また書簡から事実、この後にデング熱特有の発疹が出現したことが記されてあることから、そもそもこの十一月九日附たか宛書簡内で、敦がこの時の病気をアミーバ赤痢だけと断定して言っていること自体が嘘である。則ち、重病ではないもののデング熱という奇体な名前の病気にその後に罹患していた事実をあくまで敦は隠したのである。ここにも敦のたかへの心配りが働いていると私には思われるのである。

「燒のり」「一圓六十錢(一罐(カン))ぐらゐ」というのは当時としては法外な金額である。信頼出来るデータによれば、昭和十六年当時の一円は現在の五千円から一万円に相当するからで、低く見積もっても七、八千円相当である。

「今度旅行して見て、土人の教科書編纂といふ仕事の、無意味さがはつきり判つて來た。土人を幸福にしてやるためには、もつともつと大事なことが澤山ある、教科書なんか、末の末の、實に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるといふことは、今の時勢では、出來ないことなのだ」以下の敦の述懐には苦渋が滲む。南洋文化のアイデンティティを守ろうとする極めて良心的文官であった彼の思いが髣髴としてくるではないか。

「身體は元氣になつたが、この暑さ、むし暑さでは、頭を働かせることは、殆ど不可能といつてもいい。夜だつて、とても、書きものなんか出來ない」以下の部分はまるで「山月記」の李徴の苦悩がオーバ・ラップしてこないだろうか?(なお、「口惜(クヤ)し涙」の「クヤ」は「口惜」のルビである)……「頭を働かせることは、殆ど不可能」……「夜だつて、とても、書きものなんか出來ない」……「オレは或る仕事をするつもりだつたんだが」「事實は一枚も書けなかつた」……「卑怯かも知れないが」……「オレには何一つ、仕事が出來ない」……「殘念ながら、オレはこの高温と濕度とに敵はない」……「身體は或ひは慣れるかも知れないが、精神は次第々々にモウロウとなつて行くばかりだ」……「南洋に長くゐる人は、たしかに頭の働きが鈍い」……「一枚も書けなかつた時は、さすがになさけなかつた」!……「自分の不甲斐なさに、口惜し涙が出た」……「だが、この涙は、誰にも分つてもらへない。お前のほかは」……「又、誰にも話すべきことでもあるまい」……「普通の役人」で「終る人間なら、それは、それでいいが」「もし、學問や藝術に志ざす人間だつたら、たとへ餓死しようとも、自分の志ざす道から外れて、よその道に入るやうなことは、させ度くない」……「オレの今、味はつてるやうなイヤななさけない思ひはさせたくないと、しみじみ考へ」るのだ……。――いや――これはもう李徴そのものである。私は読みながら慄然とした――。

「氷上」氷上英廣。十一月十五日の私の注を参照。

「深田氏」登山家で作家の深田久彌(明治三六(一九〇三)年~昭和四六(一九七一)年)。敦(彼は深田より六歳下)の一高時代の旧友釘本久春(この当時、文部省図書監修官で敦の南洋庁への就職も彼の斡旋になるものであった)の紹介で昭和一〇(一九三五)年四月に知り合って急速に親しくなった三好四郎を介し、遅くとも翌昭和一一年六月頃までに、敦が深田を初めて訪ねていることが分かっており(三好の住んでいた鎌倉の同じ町内に深田が住んでおり、三好が入っていた大仏次郎が世話役であった写真同好会の同人仲間でもあったことによる、と進藤純孝「山月記の叫び」(六興出版平成四(一九九二)年刊)に拠る)、その後、深田との深い交友が始まったが、敦はこの昭和一六年六月、南洋行が決定した直後に深田を訪ねている。その時、深田は不在であったが、「ツシタラの死」(後の発表時に敦が深田の意向を受けて一部削除を加え、「光と風と夢」と改題された)・「古譚」四篇(「狐憑」・「木乃伊」・「山月記」・「文字禍」)・「過去帳」二篇(「かめれおん日記」・「狼疾記」)の原稿を託した(これらが書簡中の「深田氏にあづけてあるもの」である)。大事なことは、敦はこの書簡のたかへの遺言めいた言葉の通り、これらの現在知られた敦の代表作を公表する意志がなかった点である。ところが、敦が帰日(昭和一七(一九四二)年三月十七日)する一月前の二月一日発行の『文学界』二月号に「山月記」と「文字禍」を発表してしまう(五月末には敦が手を加えて「光と風と夢――五河荘日記抄」が『文学界』五月号に発表される)。これが敦の実質上の文壇デビュー作となってしまったのである。残された時間がなかった(同年十二月四日逝去)敦のことを考えると、結果としてはこの深田の仕儀は正しかったと思われるが、進藤は、これを遅きに失したものと意識し、寧ろ、世間で通用しているようには深田との関係を親しいものとは敦自身は思っていなかった、否、『深田久彌に作家を感じず、敦の法で最初から殆んど当てにしていなかったのだ』とまで断じている。実際、そうした深田の中島敦に与えたマイナス要因を指摘した批判は他の評者からも挙がっており、ここでの「持つて來て貰ふんだ」という物言いからも、私は首肯出来る気がする。

「土方」土方久功。九月十日の日記の注を参照。

「繪をかく人」とは何だろう。南洋諸島用の国語教科書用に挿絵を描く画家のことだろうか? 橋本正志氏「旧南洋群島における国語読本第5次編纂の諸問題――その未完の実務的要因を中心に――」の論文(PDF版)はまさに敦が南洋で関わった実務を詳細に考察した非常に優れた論文であるが、その中に結果として頓挫した第5次国語読本の図を見ると、本科用巻一の十八「ウオ/ヒレ/ウオ ノ ヒレ」にはマグロ(スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis であろう)とサメ(所謂、人食い鮫、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ Carcharodon carcharias かと思われる)と明らかな熱帯域の海水魚(特徴的な側扁した白地の体に三本の黒い横縞があり、しかも尾鰭後縁に四本目の黒縞を持っているから、スズキ目ベラ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科ミスジリュウキュウスズメダイ属ヨスジリュウキュウスズメダイ Dascyllus melanurus と同定してよいであろう)が描かれており、補習科用巻四の第七課「トラック島便り」には海岸と椰子の木が描かれている。なお、この挿絵については、「此の絵にトラックの特徴なし、環礁の地図必要」との指摘がなされている旨の記載があるとし、『教科書に記載された叙述(挿絵を含む)と,実際の南洋群島の風土や「島民」児童の生活習慣との相違を見出し,修正の対象としている箇所が数多くある。この点は,南洋群島における国語読本第5次編纂の際立った特徴として挙げることができる』橋本氏は述べておられる。これから考えるに、やはり敦は教科書の挿絵画家の不在を言っていると考えてよいように思われる。]

« つかれたる 心   八木重吉 | トップページ | 耳嚢 巻之八 雄長老狂歌の由人の語りし事 »