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« 鬼城句集 冬之部 年守 | トップページ | 鞦韆のさゆらぎ止まぬ我が庭の芭蕉卷葉に細し春雨 萩原朔太郎 »

2013/12/12

大和行   八木重吉

 

 

大和(やまと)の國の水は こころのようにながれ

 

はるばると 紀伊とのさかひの山山のつらなり、

 

ああ 黄金(きん)のほそいいとにひかつて

 

秋のこころが ふりそそぎます

 

 

さとうきびの一片をかじる

 

きたない子が 築地(ついぢ)からひよつくりとびだすのも 

                     うつくしい、

 

このちさく赤い花も うれしく

 

しんみりと むねへしみてゆきます

 

 

けふはからりと 天氣もいいんだし

 

わけもなく わたしは童話の世界をゆく、

 

日は うららうららと わづかに白い雲が わき

 

みかん畑には 少年の日の夢が ねむる

 

 

皇稜や、また みささぎのうへの しづかな雲や

 

追憶は はてしなく うつくしくうまれ、

 

志幾(しき)の宮の 舞殿(まひでん)にゆかをならして そでをふる

 

白衣(びやくえ)の 神女(みこ)は くちびるが 紅(あか)い

 

[やぶちゃん注:「皇稜」は「皇陵」の誤植であるがママとした。「舞殿」の「まひでん」のルビの「で」は私の底本ではカスレが生じて、右上方に「ゝ」のようなシミがあるのみであって「で」には見えないが、訂した。なお、「皇稜」であるが、これを私は重吉は「くわいりよう(こうりょう)」と読ませていると読む。本詩はかく読んでもらいたいと重吉が考えた訓読語や多少難読と思われる語彙に例外的に多くのルビが振られている。にも拘わらず、重吉がここに「みささぎ」とルビを振らなかったこと、しかもこの行では直下に「みささぎ」(皇陵)という当の和訓がそのまま出現していることから考えれば、重吉がこれを音読みで「くわうりやう」と読んでいることは言を俟たないからである。

「志幾(しき)の宮」これについては倭建命(死後、白鳥と変じたヤマトタケルは河内国『志幾』で白鳥陵(しらとりのみささぎ)として祀られたが、後に再び白鳥となって飛び去って別の地に落ち着いたとされ、現在、宮内庁は三重県亀山市能褒野(のぼの)王塚古墳と大阪府羽曳野市軽里大塚古墳の二つをその『志幾の宮』とも言うべき「白鳥陵」に比定しているが、これは神社ではなく神楽を催すような舞殿もなく、そもそも孰れも「大和」ではない)や雄略天皇(「古事記」は彼が構えていた宮殿を『斯鬼(しき)の宮』と呼んだことが記されてあるがこれは宮殿であって神社ではなく、そもそも場所が比定されていない……と後にここでこの探査をやめたのが大きな誤りであったことに気づいた)など、いろいろ調べては見たものの、腑に落ちる場所がない。検索ワードをいろいろと組み合わせてリファレンスしてもぴんとくる場所が出て来ない。本詩を注釈しているものも見当たらない(私は彼の詩の注釈本さえも所持していない)。いや、そもそもが如何せん、奈良・京都に不案内な迂闊な中年の私にはこれが限界であったのだ。ただ、暗愚な私にも分かることは、これは間違いなく重吉の嘱目したズームの実景で、大和に実在する神社の神楽舞の巫女を描いているということで、その神社と「志幾」という語が結びつく場所でなくてはならないということだけである。お手上げとなった昨日、古都を愛することでは教え子の中で右に出るものはあるまいと思う青年にこの神社の比定を依頼してみた。以下は昨夜、彼から送られてきたメールである。

   《引用開始》

先生

三輪山麓にある大神(おおみわ)神社がこの『志幾(しき)の宮』なのではないかと、私は想像します。以下理由を述べます。

初めてこの句に接したとき、私は遠い昔に憧れを抱きながら夢想する詩人の心の中のイメージなのだろうと、軽く素通りしておりました。しかし神女の紅いくちびるは実景であるという先生のご指摘には、大きく頷けるものがあります。

では『志幾の宮』はどこなのか……。かかる名を有する奈良県内の神社は、私も知りません。調べたところ、そもそもこれは雄略天皇の頃の宮の名で、河内地方にあったとされています。しかし、ここでいう『志幾の宮』は明らかに大和国の中です。恐らく『はるばると 紀伊とのさかひの山山のつらなり』が眺められる奈良盆地のどこかです……。

ここで思い当たるのが、発音が同じ現在の奈良県磯城(しき)郡です。磯城というのは、奈良盆地の中東部から南部にかけての由緒ある地名です。現在の磯城郡の範囲は田原本町、三宅町、川西町に限られており、詩人がわざわざ訪れるような由緒ある古い神社はこの範囲になかなか見出せません。しかし詩人が散策したであろう大正末期、磯城郡は、三輪、初瀬、多武峰をも含む広い地域を含んでいた。つまり、大神神社、長谷寺、談山神社をもその中に包摂していたのです。

大神神社のある三輪山麓のややせりあがった傾斜地からは、遠く紀伊との境の山々である金剛山系も見はるかすことが出来ます。そして大神神社の巫女さんの美しさは、知る人ぞ知る……なのです。私は小学四年生の頃に同級生四人で訪れた時の大神神社の清清しい印象を今でも忘れることが出来ません。

   《引用終了》

平凡社の「世界大百科事典」に、磯城(しき)は奈良盆地中東部一帯を指す地名で師木・志貴などにも書くとあり、「日本書紀」神武即位前紀には磯城邑(しきむら)が見え、ここには兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)という有力豪族があって後に弟磯城が磯城県主となったとある。磯城県は四~五世紀頃の成立とみられるが、その地域が中心となって奈良時代の城上(しきのかみ)郡・城下(しきのしも)郡が出来、崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや)・垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)・景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや)・欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれたことが「日本書紀」に見えるとし、この地域は磐余(いわれ)地域とともに狭義のヤマトの主要部分を占めており、古代の政治・文化の中心であった、と記す。因みに私が探索をやめてしまった雄略天皇の宮である「斯鬼の宮」の比定地の一つに大和の磯城(しき)とする説がある(個人サイト内の『「斯鬼宮」を雄略天皇の宮としてよいだろうか』などを参照した)。

いや――何より彼のメールの目から鱗であったのは、検索で八木重吉の本詩と三輪明神(=大神神社)の酒祭りの巫女の舞姿の画像を探し当てながら、根拠が書かれていないことから等閑にしていた、個人のブログ文殊氏の「硯水亭歳時記Ⅱ」の「三輪明神の酒祭りのページこそが――ズバリそれであった――という事実であった。なお、この写真を拝見すると、巫女の舞が行われているのは恐らく拝殿の周囲の廻廊と思われるが、静御前の舞が行われたのが鶴岡八幡宮本殿の周囲にある廻廊であった如く、神社の廻廊とは同時に神に奉ずるための神楽舞の舞殿でもあった。従って重吉の「舞殿」の語彙には何らの問題もない。

ウィキの「大神神社」によれば、ここは日本で最古の神社の一つとされ、三輪山自体を御神体としており、本殿を持たず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されているとし、例年十一月十四日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わったとある。そして先に示した「硯水亭歳時記Ⅱ」の「三輪明神の酒祭り」で文殊氏はそのブログで『清純な巫女達の、清楚な舞が続く。まるで一緒に大神さまに面対しているような錯覚がする』と語っておられ、それにコメントを寄せた道草氏が本詩を全文引用、さらにそれに文殊氏が『八木重吉先生の詩は、大和の雰囲気を伝えてあまりありますねぇ』と感慨を漏らされておられるのだった。……とっくに私にヒントは与えられていたのに……愚鈍な私は愚かにも具体的根拠事実という下らぬ拘りからこれを無視していたことに忸怩たるものを感じざるを得ない。これを暗愚と言わずして何を暗愚と言おう……。なお、この巫女の舞は大神神社公式イトの「今月・来月のお祭り」「一年のお祭り」を見ると、この「酒まつり」以外にも、毎月朔日に拝殿に於いて行われる「月次祭(つきなみさい)」、「卯の日祭(うのひさい)」など、それぞれの祭りの解説の脇には美しい巫女の舞い姿が載っている。

いや――しかし私は思うのだ――何よりも私の心に腑に落ちたのは愛する教え子の最後の一文、『私は小学四年生の頃に同級生四人で訪れた時の大神神社の清清しい印象を今でも忘れることが出来ません』――これに優る同定の確信はなかった。……『大神神社の巫女さんの美しさは、知る人ぞ知る……なのです』……三輪明神、三輪神社とも呼ばれる大神神社の巫女の舞いを知る人は誰もが「具体的根拠」など不要で、この詩がここのものと分かっていたのだ。……私は教えてくれた教え子といつか、この巫女の舞いを見に行こう……]

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