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2014/01/31

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鹿

【和品】

海鹿 海參ノ類ナリ色黑シ切レハ鮮血多クイツ形ヨリ血多シ煮テ食ス味厚シ峻補ノ性アルヘシ。ウミジカハ是筑紫ノ方言ナリ伊豆ノ大島ニテハ。ウミヤウジト云漢名未詳

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】

海鹿(〔うみじか〕) 海參〔なまこ〕の類なり。色、黑シ。切れば鮮血、多くいづ。形より血、多し。煮て食す。味、厚し。峻補〔しゆんほ〕の性あるべし。「うみじか」は是れ、筑紫〔つくし〕の方言なり。伊豆の大島にては、「うにやうじ」と云ふ。漢名、未だ詳らかならず。

[やぶちゃん注:「ウミヤウジ」は底本では「ウニヤウジ」にしか見えないが、「ウ」の下に微かに「ミ」の一画点らしきものが認められることと、大島の方言ではアメフラシの頭部の角状に突出する外套膜部分を「楊枝」に擬えたものか、現在でもアメフラシのことを「海楊枝」と呼称している事実(例えば三須哲也氏の「harborclub homepage」のこの「アメフラシ」の記載)から「ウミヤウジ」とした。なお、国立国会図書館蔵の同じ宝永六(一七〇九)年版の本箇所には手書きと思われる以下の記載が頭書として【和品】の上に四行で記されてある。

 東奥未看有此物

「東奥には未だ此の物有るを看ず」と訓ずるのであろうが、これは不審。アメフラシ( Aplysia kurodai )は東北以北でも普通に棲息する。

 「海鹿」は軟体動物門腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目 Anaspidea に属するアメフラシの総称である。狭義にはアメフラシ科に属するアメフラシ、通称日本種アメフラシ Aplysia kurodai を指すが、我々がアメフラシと呼称した場合、広く前者の無楯類に属する種群を指していると考えた方がよい(生態や分類と多様な種群についてはウィキの「アメフラシ」を参照のこと)。なお他に私の電子テクスト栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」巻八海鼠 附録 雨虎(海鹿)」の「海鹿」の項をも参照されたい。

「形より血、多し」とはアメフラシを突いたり、握ったりして刺激を与えた際、紫汁腺とよばれる器官から粘りのある紫色(種によっては白色や赤色)の液体を出すが、これが海水中では雨雲の如く広がって本体を隠すほどになることを言っている。この液体については現在、外敵に襲われた際の煙幕効果を持つと同時に、摂餌する海藻類に由来する液成分に外敵にとっての忌避物質を含むため、それ以上襲われなくなるという防衛効果をも持っているのではないかと考えられている。

「煮て食す。味、厚し」「厚し」というのは磯臭い濃厚な味がするということか。アメフラシ食は現在一般的ではないが、食す地方は現存する。これについては以前にブログの隠岐日記4付録 ♪知夫里島のアメフラシの食べ方♪で隠岐での調理法を紹介してあるので参照されたい。

「峻補」とは漢方で、不足しているものを補う補法の一つで専門的には補益力の強い薬物を用いて気血大虚或いは陰陽暴脱を治療する方法を指す。要は滋養強壮効果ということか。ウィキの「アメフラシ」には、本箇所を載せてこれを、下痢に効く、と解釈している。

「筑紫」筑紫国。現在の福岡県の東部(豊前国)を除いた大部分に相当する。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 7 加賀屋敷――十年前との様変わり

 屋敷の内で、私の家から一ロッドもへだたっていない所に、井戸と石の碑とがある。後者は竹の垣根にかこまれ、廃頽して了っている。屋敷のあちらこちらには、垣根にかこまれた井戸や、以前は何等かの庭の美しい特色であった高い丘や、その他、昔加賀公が何千人という家来をつれて、毎年江戸の将軍を訪問した時の、大きな居住地の証跡がある。今から十年にもならぬ前には、将軍が権力を持っており、この屋敷を初め市中の多くの屋敷が、家来や工匠や下僕の住む家々で充ち、そして六時には誰しも、門の内にいなくてはならなかったのだ、ということは、容易に理解出来ない。外国人は江戸に住むことを許されなかった。また外国の政府の高官にあらずんば、江戸を訪れることも出来なかった。然るに今や我々は、この都会を、護衛もなしに歩き廻り、そして一向いじめられもしない。

[やぶちゃん注:「一ロッド」底本では直下に石川氏の『〔三間たらず〕』という割注がある。「ロッド」(rod)はポール(pole)・パーチ(perch)とともにヤード・ポンド法における長さの単位。かくも複数の名称があるがどれも同じ長さで16・5フィートである。イギリスではフィートとして国際フィート(正確に0.3048メートル)を用いるので、1ロッドは正確に 5.0292メートルである。これに対してアメリカでは、ロッドは公式には測量フィート(正確に1200/3937メートル=約0.305メートル)に基づく単位であるので、1ロッドは約5.02メートルである。ロッド・ポール・パーチはどれも元は竿や杖などの棒状のもので測量のために用いた棒(日本でいう「間竿(けんざお)」)の長さに由来する。かつては、4分の1チェーンの長さの金属製の棒が土地の測量に用いられていた。「ロッド」は、カヌーの分野では今でも用いられているが、これはカヌーの長さがほぼ1ロッドであるためである(以上はウィキの「ロッド(単位)に拠る)。

「今や我々は、この都会を、護衛もなしに歩き廻り」既注であるが、モースらお雇い外国人の特権であって、総ての外国人がそうであったわけではないことに注意。第八章 東京に於る生活 5 第一回内国勧業博覧会で(1)」及び第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 5 附江の島臨海実験所の同定などを参照のこと。]

中島敦 南洋日記 十二月二十日

        十二月二十日 (土)

 數日來喘息ずつと惡し、夜全然眠れず。世田谷に飛行便を出す。

[やぶちゃん注:この航空便書簡は残っていない。]

耳嚢 巻之八 田蟲呪の事

 田蟲呪の事

 

 たむしといへる出來物に、鴫(しぎ)といふ文字三邊書(かき)て墨にて塗(ぬり)、呪(まじな)ふに立所(たちどころ)に愈(いえ)しとかや。鴫は田の蟲を食ふものなる故や。呪(まじなひ)の類かゝる事多し。不思議なりと一笑なしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖しげな呪いシリーズ二連発。フレーザーの言う類感呪術であるが、まあ、プラシーボ(偽薬)効果としては全否定は出来まい。特にここでは墨で塗るという実行行為があって調べてみると墨に含まれる竜脳( borneol ・ボルネオール・ボルネオショウノウ)には痒みを抑える作用や防腐効果があるらしいことを見出したので、強ち田虫に墨、じゃあない、眉唾というわけでもない気もしてきた……IBS(過敏性大腸炎)の私も小学校の時、朝礼や学校帰りにうんこを何度も漏らしたが、優しい友人の芥川君は、「やぶ医者、掌に「うん」と指で書いて飲み込むんだヨ、それを三遍やれば平気だヨ。」と教えてくれたのを懐かしく思い出すな……ああ、でも結局やっても、だめだったんだけどね……。

・「田蟲」皮膚病で白癬の一種(原因菌は主に白癬菌(トリコフィトン)属 Trichophytonに属する白癬菌と呼ばれる一群の真菌)。皮膚に小さな丸い斑点が出来て周囲に円状に広がり、中央部の赤みが薄れて輪状の発疹となり、痒みが酷い。股間生ずるものを「いんきん(たむし)」・頑癬(がんせん)ともいう。ぜにたむし。ぜにむし。

・「鴫といふ文字」底本鈴木氏注に、『三村翁「此咒事は予も幼年の時に覚えあり」』と引く。

・「三辺書きて墨にて塗」患部に墨で三度鴫の字を書くのか、三度指で鴫の字をなぞった上から墨で患部を塗り潰すのか。私は私の遠い思い出が指で字を書いては飲み込むのであったから、後者で採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 田虫呪(まじな)いの事

 

 たむしと申す銭形をなす出来物には、その患部に鴫(しぎ)という文字(もんじ)を三遍、指でなぞって書いた上、その上を、これ、丁寧に墨で塗り潰し、田虫平癒と呪(まじの)うたならば、これ、たちどころに愈(いえ)るとか申す。

 これは――鴫は田の虫を食うもの――なるゆえか。

「……呪(まじな)いの類いと申すは、これまた、このような例(ためし)が頗る多御座る。……いやはや……不思議なことでは御座るのぅ……ハヽヽヽ……」

と、さる雑談にて一笑致いて御座った。

篠原鳳作句集 昭和五(一九三〇)年一月~三月

昭和五(一九三〇)年

 

凧くるわの空に唸り居り

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「凧」は「いかのぼり」と読む。]

 

宮裏の一樹はおそき紅葉哉

 

[やぶちゃん注:『天の川』(同年一月号)に最初に掲載された句。以上二句は一月の発表(前句は『京鹿子』初掲載句)。

 以下は二月の創作や発表作。]

 

園長の來て凍鶴に佇ちにけり

 

莖桶に立てかけてある箒かな

 

[やぶちゃん注:「茎桶」大根や蕪などを茎や葉と一緒に塩漬けにする茎漬けを造るための桶のこと。]

 

秋の蝶とぢてはひらく翅しづか

 

臺の日蔭の麥を踏みにけり

 

[やぶちゃん注:「燈臺」は底本では「灯台」。筑摩書房「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」に載る連作五句の前書「燈臺守よ」に拠った。

 

籾莚踏み處なくほされたり

 

麥門冬の實の紺靑や打ち伏せる

 

麥門冬の實の流れ來し筧かな

 

[やぶちゃん注:「麦門冬」は「ばくもんどう」と読み、本来は漢方薬に用いる日本薬局方に収録された生薬の一つで、単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科スズラン亜科ジャノヒゲ Ophiopogon japonicas の塊茎(ところどころ太くなった紡錘形を成す)を乾燥させたもののこと。強壮・解熱・鎮咳作用を持ち、気管支炎・気管支喘息・痰の切れにくい咳に効く麦門冬湯(ばくもんどうとう)、月経不順・更年期障害・足腰の冷えに効く温経湯(うんけいとう)、心臓神経症・動悸・息切れに効く炙甘草湯(しゃかんぞうとう)などに含まれている(主に講談社「漢方薬・生薬・栄養成分がわかる事典」に拠った)。但し、ここはその植物体ジャノヒゲそのものを指している。高さ十センチメートルほどで細い葉が多数出る。この葉が竜の髯・蛇の鬚に似ていることから、リュウノヒゲ・ジャノヒゲと呼ばれたとも言われるが、実はこれは「尉(じょう)の鬚」の意で、能面の老人の面「尉(じょう)」の鬚(あごひげ)にこの葉を見立てた「ジョウノヒゲ」が転訛し、「ジャノヒゲ」になったというのが真説らしい。夏に総状花序に淡紫色の小さい花をつけ、子房は種子を一個含むが、成熟前に破れて種子が露出し、青く熟し、鳳作はまさにこの状態を詠じている(以上はウィキの「ジャノヒゲ」を参照した)。]

 

横むいて種痘のメスを堪えにけり

 

[やぶちゃん注:因みに種痘は天然痘撲滅を受けて昭和五一(一九七六)年以降、本邦では一般には行われていないから、この光景も四十代より下の世代にはピンとこないであろう。]

 

草餠や辨財天の池ほとり

 

[やぶちゃん注:「餠」は底本は「餅」。実際にはこの「餠」という正字を使う小説家や俳人は少ないという事実だけは述べておく。確信犯である。私は「餅」という字というより「并」という字が生理的に嫌いなのである。これは「幷」と書くべきである。]

 

追儺豆闇をたばしり失せにけり

 

古利根や洲毎洲毎の花菜畑

 

[やぶちゃん注:「花菜畑」は「はななばた」であろう。回想吟か。無論、菜の花乍ら、この利根の光景は私には明治三九(一九〇六)年に「ホトトギス」に発表した伊藤左千夫「野菊の墓」の一場面のように見紛う――というより、その映画化された、昭和三〇(一九五五)年に公開された木下惠介監督作品「野菊の如き君なりき」(松竹)のプロローグとエピローグの笠智衆扮する政夫老人のシークエンスのように思われてならないのである。]

 

潰えたる朱ケの廂や乙鳥

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「乙鳥」は「つばくらめ」と読む。「朱ケの廂」(あけのひさし)というのは寺院か何かで、「朱」(しゅ)を塗った垂木を持った毀った廂部分のアップと、そこに巣食った喉赤き燕の動の景と私は詠む。一読即廃寺を私はイメージしたが、二句後の句が同時詠とすれば、これは外れということになる。]

 

火の山はうす霞せり花大根

 

[やぶちゃん注:これは恐らく桜島であろう。]

 

方丈の緣に干しあり蕗の薹

 

椽先にパナマ編みゐる良夜かな

 

[やぶちゃん注:「椽先」は縁先に同じい。「パナマ」パナマ帽。パナマ草の若葉を細く裂いて編んだ紐で作った夏帽子。パナマ草は単子葉植物綱ヤシ亜綱パナマソウ目パナマソウ科 Cyclanthaceae に属し、ヤシに似た葉を持つ。主に熱帯に産し、凡そ十二属百八十種を含む。この内のパナマソウ Carludovica palma がパナマ帽(この帽子の発祥は実はパナマではなくエクアドルで、「パナマ帽」の名称由来はパナマ運河であるとする説が強く、「オックスフォード英語辞典」では「一八三四年にセオドア・ルーズヴェルトがパナマ運河を訪問したときから一般に広まった」としている。ここはウィキの「パナマ帽」に拠る)の材料であったために同類総体の植物にも「パナマソウ」の名がついたという。自生種は熱帯アメリカと西インド諸島に分布し、高さ一~三メートルほど、大きな団扇状の葉が広がる。花はサトイモ科に似、果実は熟すと剥け落ちて朱赤色の果肉が現れる。葉を天日で乾燥させ、さらに煮沸した後に漂白したものをパナマ帽の材料とする(ここは「Weblio 辞書」の「植物図鑑」の「パナマソウ」に拠った)。後に宮古島に中学教師として赴任する鳳作は、そこでもパナマ編みを親しく見、盛んに作句している。この句も実は沖繩で詠まれたものではないかと、実は疑っている(実際に四句後には「首里城」の前書を持つ句が出現する。同句注も参照されたい)。私には鳳作といえば「パナマ」、それがまた彼の亜熱帯無季俳句(亜熱帯に所詮季語は通用しない。――この温暖化によって亜熱帯化し、人為によってテッテ的に自然のままの季節が破壊され尽くした感のある今の日本にも――である)のシンボルにもなっていると勝手に思っているのである。]

 

摘草の湯女とおぼしき一人かな

 

温室をかこむキヤベツの畠かな

 

古庭やほかと日のある木賊の莚

 

[やぶちゃん注:「木賊の莚」は「とくさのむしろ」では如何にもで、「とくさのえん」もいけない。私は敢えて木賊で編んだ莚、茣蓙で「ざ」と読みたくなるのだが。大方のご批判を俟つ。]

 

   首里城

城内に機音たかき遲日かな

 

[やぶちゃん注:鳳作の姉幸は那覇市の歯科医に嫁いでいた。即ち鳳作は宮古に赴任する以前に沖繩に親しんでいたのである。……ああ……タン、タン、という機音と……今はなき素朴な首里城の景観が幻視される……

 ここまで昭和五(一九三〇)年の一月から三月までの創作及び発表句。]

杉田久女句集 40 黍畑から吹く風に鳴る風鈴

風鈴に黍畠よりの夜風かな

 

孤り居に風鈴吊れば黍の風

 

[やぶちゃん注:この「黍」が真正の単子葉植物綱イネ目イネ科キビ Panicum miliaceum を指しているか、それともイネ科トウモロコシ Zea mays の別称であるか、判定出来ずにいる。当時の福岡ではキビ Panicum miliaceum など栽培していなかったという情報があれば情景は知られた玉蜀黍畑で落ち着くのだが。実は私はその室内での立ち位置から見て、キビではなくトウモロコシと読みたくなるのであるが。識者の御教授を乞うものである。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 荒るゝ關門 

 荒るゝ關門

 

機關止みふぶける船に艀を寄す

 

黑き舷船名もなく雪に繫る

 

[やぶちゃん注:「舷」はふなべり・ふなばたの謂いであるが、音で「ゲン」と詠んでいよう。私の恣意的正字化へ異義を持たれる方へお訊ねしたい。――この「繫る」(つながる)の「繫」の字は底本のママである。あなたはこの字を普段書きますか? いやさ、書けますか?――と――]

 

舷側の十字を紅く吹雪の中

 

雪の航水夫(かこ)垂直の階を攀づ

 

雪を航き朝餐のぬくきパンちぎる

 

[やぶちゃん注:「朝餐」は「あさげ」と訓じているか。]

 

航海燈かがやき雪の帆綱垂る

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

雪を航きひとりの船室(キヤビン)燈をともす

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。カタカナのルビの拗音表記の問題については、先行する句で本文「フレップ」を「フレツプ」と表記していることに鑑み、しばらく拗音化しないこととする。以下、この注は略す。]

新世紀の初に 萩原朔太郎

       ●新世紀の初に

 

 變化しつつあるものは何だらうか? 藝術でない。政治でない。我々の時代の家庭である。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「結婚と女性」より。底本校訂本文は標題の「初に」を「初めに」と言わずもがなの『訂正』をしている。私は採らない。本アフォリズムは「虚妄の正義」が初出である。実は朔太郎は、このアフォリズム自体を、この四十二章からなる「虚妄の正義」の序章の添書にも使っている。]

萩原朔太郎 短歌四首 大正二(一九一三)年五月

しののめのまだきに起きて人妻と汽車の窓よりみたるひるがほ

 

ふきあげの水のこぼれを命にてそよぎて咲けるひやしんすの花

 

たちわかれひとつひとつに葉柳のしづくに濡れて行く俥かな

 

きのふけふ心ひとつに咲くばかりろべりやばかりかなしきはなし

 

[やぶちゃん注:『朱欒』第三巻第五号(大正二(一九一三)年五月発行)の「靑き瞳」欄の「その二」に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十六歳。意識的なフローラ尽くしである。また何より一首目に出現する「人妻」によって、これが、そして先行し、かつこれに続く悲恋唱歌群のその殆んど総てが、やはり永遠の「エレナ」馬場ナカであることはほぼ間違いがないものと私は思うのである(因みに妹の友人であったナカとの出逢いは一説に朔太郎十三歳の時にまで遡るという)。「ろべりや」キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属 Lobeliaのロベリア・エリヌス Lobelia erinus、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種。歌群「ろべりや」に既注。]

つばねの 穗   八木重吉  (★附視覚的再現版)

    つばねヽ ヽ ヽの 穗

ふるへるのか
そんなに 白つぽく、さ

これは
つばねヽ ヽ ヽの ほうけた 穗

ほうけた 穗なのかい
わたしぢや なかつたのか、え

[やぶちゃん注:第一連二行目の「白つぽく、さ」の読点と次の間投助詞「さ」との間は今までのような有意な間隙がなく、半角も与えずに繋がっている感じで特異である。単なる植字上のミスの可能性が高いが、原本を視認した際、明らかに際立って目立つので特に指示しておく。ここで述べておくと、底本全体の文字組は、実は字間幅が普通より著しく広い(行間もやや広い)。それをも再現するとなると、本詩の場合は以下のような感じになる(あくまで感じであるが、なるべく近づけてみた。少々やり疲れたので再現を諦めたが題名のポイントも本文に比して有意に大きい)。

    つばねヽ ヽ ヽの 穗

ふ る へ る の か

そ ん な に  白つぽく、さ


こ れ は

つばねヽ ヽ ヽの  ほ う け た 穗


ほ う け た  穗 な の か い

わ た し ぢ や  な か つ た の か、 え

これは恰も聖書風の本詩集初版を手にした際に最も際立って感じられる視覚的奇異性(これは特異性というよりは「奇異」という語が相応しい)で、これこそが実は本詩集の最大の特長と言ってよいのであるが、ブログ版ではそこまで再現するのが煩瑣なので試みていない(この短い記事だけでも注記記載も含め、タグや不具合を補正するうち、たっぷり一時間は経過しているのである)。しかし、この字幅・行幅のサイト版を作る際にはそれも再現してみたい欲求に駈られてはいる。それほどに麻酔のような透明な白さが、この詩集のそれぞれのページの字背には漂っている、と言ってよいのである。
「つばねの穗」確認出来ないが、この「つばね」とは茅花つばな、単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ Imperata cylindrical の方言ではあるまいか。以下、ウィキの「チガヤ」によれば、チガヤは初夏に細長い円柱形のそれを出穂する。穂は葉よりも高く伸び上がってほぼ真っ直ぐに立ち上がり、分枝せず、真っ白の綿毛に包まれているためによく目立つ。『花穂は白い綿毛に包まれるが、この綿毛は小穂の基部から生じるものである。小穂は花序の主軸から伸びる短い柄の上に、2個ずつつく。長い柄のものと、短い柄のものとが対になっていて、それらが互いに寄り沿うようになっている』。小穂は長さが4ミリメートルほどで、『細い披針形をしている。小花は1個だけで、これは本来は2個であったものと考えられるが、第1小花はなく、その鱗片もかなり退化している。柱頭は細長く、紫に染まっていて、綿毛の間から伸び出すのでよく目立つ』。種子はこの綿毛に風を受けて遠くまで飛ぶ。本属は「世界最強の雑草」と呼ばれる如く、本邦でも古えより厄介な雑草であると同時にまた様々な利用も行われてきた。古名は「チ(茅)」で、花穂は「チバナ」または「ツバナ」とも呼ばれ、「古事記」や「万葉集」にもその名が出る。『この植物はサトウキビとも近縁で、植物体に糖分を蓄える性質がある。外に顔を出す前の若い穂は、噛むと甘く、子供がおやつ代わりに噛んでいた。地下茎の新芽も食用となったことがある』。「万葉集」にも『穂を噛む記述がある』。『茎葉は乾燥させて屋根を葺くのに使い、また成熟した穂を火口(ほくち)に使った。乾燥した茎葉を梱包材とした例もある』。『また、花穂を乾燥させたものは強壮剤、根茎は茅根(ぼうこん)と呼ばれて利尿剤にも使われる』。『他に、ちまき(粽)は現在ではササの葉などに包むのが普通であるが、本来はチガヤに巻いた「茅巻き」で、それが名の由来であるとの説がある』とある。]

鬼城句集 冬之部 蠣

蠣     蠣苞にうれしき冬のたよりかな

[やぶちゃん注:「蠣苞」は「かきづと」と読む。「苞」は「包む」と同語源で、藁などを束ねてその中に食品を包んだ藁苞(わらづと)の謂い。そこから転じて、それぞれの土地の産物、旅の土産の意となった。牡蠣を送ってくれた相手への挨拶句。]

2014/01/30

耳嚢 巻之八 油蟲呪の事

 油蟲呪の事

 

 木の葉草の葉にあぶら蟲生じきたなげなるを、人々忌み嫌ふは常なり。予が知れる石川氏のもとへ、植木屋を呼(よび)て植替抔せし時、彼(かの)油蟲の除方(のぞきかた)もあるべしと尋(たづね)しに、いとやすき事なり、前錢(まへせん)十六文と認(したため)建札(たてふだ)すれば、油蟲の愁(うれひ)なしといゝしゆゑ、滑稽にて申(まうす)や、かゝる事あるべくもなしと笑(わらひ)しに、左思召(さおぼしめ)さばまづ試(こころみ)に札を立(たて)給へと申(まうす)ゆゑ、召(めし)仕ふ者抔へ申付(まうしつけ)、可笑(をかしき)事ながら札建(たて)しに、絶へて油蟲の愁ひなし。物見柴居(ものみしばい)など、錢を不出(いださず)見物するを油蟲と諺(ことわざ)に云(いへ)るも、何ぞ子細やあらんと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。一つ前の「寐小便の呪法の事」と呪(まじな)いシリーズと、その馬鹿馬鹿しい程度に於いても直連関。

・「油蟲」昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科のアブラムシ科 Aphididae/カサアブラムシ科 Adelgidae/ネアブラムシ科 Phylloxeridae に属する昆虫の総称。アリマキ(蟻牧)とも呼ぶ。参照したウィキの「アリマキ」によれば、『植物の上でほとんど移動せず、集団で維管束に口針を突き刺して師管液を吸って生活する』。『アリと共生し、分泌物を与えるかわりに天敵から守ってもらう習性や、単為生殖によっても増え真社会性を持つことなどから、生態や進化の研究のモデル昆虫ともなっている』とある。栽培野菜などでは寄生されることで葉の色が黄色く変色したり、アブラムシが出す甘い汁によって見栄えが悪くなったりし、またモザイク病ウイルスも媒介することから防除される害虫扱いとなっている。現在は『有機リン系(マラチオン、MEP、アセフェート等)、合成ピレスロイド系(ピレトリン等)、クロロニコチル系(アセタミプリド等)などの多くの殺虫剤が有効である。しかし、最近の研究結果では、特に有機リン系や合成ピレスロイド系に対し、高い薬剤抵抗性を持つ傾向が顕著であるとの報告が多数ある。アブラムシは薬剤抵抗性を持ちやすいので、あまり同一の殺虫剤の散布を長期間繰り返すよりも、2-3種の系統の違うものを定期的に散布していく方法がある。また、最新の防除法として、アブラムシを捕食あるいは、アブラムシに寄生する、寄生バチ類、テントウムシ類、ヒラタアブ類などの天敵類を利用した生物的防除が、ハウス栽培野菜を中心に実施されつつある。但し、天敵類の多くは薬剤に対して抵抗性を持たず、農薬との併用による総合的病害虫管理 (IPM) を行う際には一考の余地がある』。『また、葉を巻いてその中に潜む種類や、はっきりした虫えいを形成するものもある。このようなものは虫体に殺虫剤が接触しにくいので、浸透移行性のある殺虫剤が効果的である』。『化学的なものを使用せずに除去する場合、脂肪分の多い牛乳を薄めたものを霧吹きで散布すると、牛乳が乾燥するときにアブラムシの気門を塞いで窒息死させるので有効であると言われたことがある』。また『同じ原理を利用し、濃度調整したでんぷんや食用油脂を主成分としたものが農薬として商品化されている』とある。流石にこの金のかからない「前錢十六文」立札法は記載されていない。

・「前錢」売買及び各種見世物や芝居小屋などに於いて、その代金や木戸銭を先に支払うことをいう。

・「柴居」底本では「柴」の右に『(芝)』と訂正注がある。

・「油蟲」には、知られたその体表面の印象からのゴキブリ(昆虫綱ゴキブリ目 Blattodea)の別名以外にも、人に付き纏ってただで遊興・飲食をするものを嘲って言ったり、また特に、遊郭での冷やかしの客を指しても言った。これらの俚諺は察するにやはりこの真正のアブラムシ(アリマキ)の群れたか習性から主に生じたもののように私には思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 油虫除けの呪(まじな)いの事

 

 木の葉や草の葉に油虫(蟻牧)が無暗に寄りたかって汚げに見ゆるは、人々の忌み嫌うところで御座る。

 以下は、私の知れる石川某氏の話で御座る。

 

 我らが屋敷元へ植木屋を呼んで庭の植木の植え替えなど致いた折り、かの油虫の駆除の仕方も、これあろうほどにと、直(じか)に訊ねてみたところが、

「へい、そりゃたいそう簡単なこって、

――前錢(まえせん)十六文

と認(したた)めた立て札をすりゃあ、これ、油虫の愁いなんざ、あっという間に雲散霧消でござんす。」

と申すゆえ、

「冗談で申すか、そのようなこと、これ、あろうはずも、ないわ!」

と笑(わろ)うたところが、

「そう思し召しになられるであれば、まず、試みに札をお立てなせえ!」

と申したによって、召し仕(つこ)う者なんどへ申し付け、馬鹿馬鹿しいことながらも、またどこか面白く思うた節もあったによって、かく

――前錢十六文

と黒々と墨書致いた札を建ててみたところが、――いや!――これ、絶えて油虫の害のこれなくなって御座った。……

……物見や芝居なんどで、木戸銭を出ださず見物致す不届き者を、俚諺にて『油蟲(あぶらむし)』と申すこと……これ何ぞ、子細・連関のあらんか?……」

 

と石川氏、真顔で語って御座ったよ。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 6 若者たち / 指物師たち

 私は下層民の間で、若い男達がお互の肩に手をかけて歩いているのに気がついた。女の子が、我国の子供達みたいに、小径をピョンピョン跳ねているのは、一度も見たことがない。事実、彼等の木造の履物を以てしては、これは不可能であるらしく思われる。下層民の街頭における一般的行為は、我国の同じ階叔の、すこし年の若い人々のと似ている。

 

 最近私は博物館の為に、陳列館の設計をしている。これは中央に直立した箱がある、二重式陳列箱なのだが、日本人の指物師が、それを了解することを、如何に困難に感じるかは、驚くばかりである。大学の建築技師が私の所へやって来て、私は通訳を通じて、断面や立面を説明するのであるが、最もこまかい細部を繰り返し繰り返し説明せねばならず、これをやり終ると、今度は箱をつくる男が来て、私はまたそれを全部くりかえさねばならぬ。我々がある事物を製図する方法は、日本人の方法とは全然違い、また我々がつくつて貰い度いと思う物は、彼等がかつて造った物や見た物の、どれとも似ていないのだから、彼等が我々の欲する物に就て面倒がり、そして思いまどうのも無理はない。

[やぶちゃん注:既注。上野の文部省教育博物館(現在の国立科学博物館の前身)。]

中島敦 南洋日記 十二月十九日

        十二月十九日(金)

 二日來の喘息、愈々面白からず、夜、土方氏方に到り、南方離島記の草稿を讀む、面白し。「プール島(人口二十に足らず)に、パラオより流刑に合ひし無賴の少年あり、奸譎、傲岸、プール島民を頤使す、已に半ばパラオ語を忘る。この少年の名をナポレオンといふと」「無人島へレン礁に海鳥群れ集へること。島に上れば、たちどころに數十羽を手摑みにすべしと。卵も又、とり放題。捕りし鳥共の毛をむしり、直ちに燒きて食するなり」

[やぶちゃん注:「南方離島記」は初版未詳で現在は「久功著作集」(三一書房)でしか読めないらしい。杉岡歩美氏の論文「中島敦にとっての〈南洋行〉――昭和初期南洋という「場」――」の注から孫引き(但し、恣意的に正字化し歴史的仮名遣に変えた)すると、「南方離島記」には以下のように書かれてある。

   *

此の遠いパラオの小ナポレオンが、只一人この樣な離島に居る理由が、また香ばしくないのであつて、この、まだ公學校も卒業しない少年が、警察の手にもおへない惡性の窃盗常習の故を以て、この二百哩も離れた、人口十八、九名の離島に流刑に處せられてゐるのである。(中略)他の人達には彼はワカラナイを連發しながらも兎も角日本語でやつてゐるのである。するとパラオ語を使はれると、ずっと氣樂になればプル語が口をついて出るらしい。それにしてもたつた二年ばかりの間に、生まれてから十年間もそれに親しみ、その中にのみ暮した自分達の言葉を、そんな風に忘れてしまふ――のではあるまいが、話しにくくなつてしまふと云ふことが有り得るだろうか。多分それは有り得るのだらう。

   *

「プル語」不詳。この不良少年ナポレオンの話は後に中島敦の「環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――」で「ナポレオン」という章題で小説化されている(当該作品は青空文庫ので読める)。また、原話と敦の創作との違いについては、洪瑟君氏の論文「ラフカディオ・ハーンの民俗学と中島敦」に詳しい。

「奸譎」「かんけつ/かんきつ」と読む。姦譎とも書き、邪(よこし)まで、心に偽りが多いこと。

「頤使」「いし」と読む。頤指とも書き、文字通り、頤(あご)で指図して思いのままに人を使うこと。

「へレン礁」現在、パラオの南西諸島ハトホベイ州に属するヘレン環礁。現地のトビ語ではホトサリヒエ環礁(Hotsarihie)と呼ばれる。パラオのマラカル港からは凡そ三百キロメートルも離れており、トビ島の東七五キロメートルの位置に存在する。環礁西南部に礁湖に入る水路が存在し、引き潮時にはここから水が流出する。一七六七年に「発見」された。凡そ島長二五キロ、幅一〇キロメートルm礁湖は一〇三平方キロ、浅い珊瑚礁を合わせると約一六三平方キロメートルの面積を持つ。満潮時にはその殆んどが水没するものの、北端の一部は長さ四〇〇メートルほどの細長い島になっており、ヤシも見られ、ここがヘレン島と呼ばれている。現在、ヘレン島は面積が〇・〇三平方キロメートルほどしかない無人島であるが美しい珊瑚礁とここに記されるような多様な海鳥の楽園としても知られ、珊瑚の密猟を取り締まるために警備隊の恒久的宿営地がある(以上は主にウィキの「ヘレン環礁」に拠った)。]

虛言への情熱家  萩原朔太郎

     ●虛言への情熱家 

 正直者とは、僞(うそ)をつかない人といふことではない。僞(うそ)でさへも、利己的な打算や懸引(かけひき)でなく、無邪氣な純一の心を以て、情熱から語る人を言ふのである。

 芸術の天才等は、氣質の正直さにかかはらず、概ね僞(うそ)つきの名人であり、虛言することに熱意を持つてる。

 [やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十月第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「著述と天才」掉尾。]

萩原朔太郎 短歌三首 大正二(一九一三)年四月

にを蒔くひめひぐるまの種を蒔く君を思へと涙してまく

 

なにごとも花あかしやの木影にて君まつ春の夜にしくはなし

 

うちわびてはこべを摘むも淡雪の消なまく人を思ふものゆゑ

 

[やぶちゃん注:『朱欒』第三巻第四号(大正二(一九一三)年四月発行)の「暮るる日の雪」欄の「その十一」に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十六歳。

 一首目は初出では「ひめひぐるま」が「ひめぐるま」となっている。校訂本文に準じて脱字と断じて訂した。「ひめひぐるま」の「ひぐるま」は「日車」でヒマワリの別称であるから、同属の観賞用小型品種を指すか。

 前の投稿から二年の空隙がある。但し、底本年譜にはこの間の大正元・明治四五(一九一二)年の十月に「峽灣」という歌群があることを記すが、そこには『未詳』とあり、これは底本全集編集時に未入手であることを指している。なお、老婆心乍ら、『朱欒』は「ザンボア」と読み、北原白秋編集になる文芸雑誌である。明治四四(一九一一)年十一月から大正二(一九一三)年五月まで十九冊を刊行、後期浪漫派の活躍の場となった(大正七年一月に発刊された改題誌『ザムボア』は短命で同年九月に廃刊している)。

 年譜を見ると、この年二月に大磯・小磯に遊び、また平塚の病院に人を訪ねた、と記す。その後に編者注として、平塚の佐々木病院に『昔知れる女友の病むときいて』訪ねたところ、同女は既に『此の世から消えてしまつたのである』という「ソライロノハナ」の『一九一一、二』のクレジットを持つ「二月の海」の平塚ノ海の冒頭の一節を引いている(年譜の引用には一部表記に問題があるので引用形態をとらなかった。なお、リンク先は私がオリジナルに作った電子テクストである)。ここには実際の朔太郎の永遠の恋人エレナのモデルとされる、朔太郎の妹ワカの友人で本名馬場ナカ(仲子とも 明治二三(一八九〇)年~大正六(一九一七)年五月五日享年二十八歳)の死との大きなタイム・ラグが存在する。これについて不学な私は現在、読者を納得させるべき知見を持たないが、人妻(明治四二(一九〇九)年に高崎在の医師(佐藤姓)に嫁している)であり、死病であった結核に罹患していたことを念頭におけば、そのトラウマが引き出したところの「永遠のエレナ」と「詩人萩原朔太郎」との物語の時間的齟齬は、不思議に感覚的には不審と思わないことを述べておきたい。同時にエレナについて詳しい識者のご教授を乞うものでもある。ただこの短歌群によって少なくとも、「ソライロノハナ」の創作的虚構的時間を遡ったように見受けられるエレナ/ナカへの詩人の感懐そのものは、決して虚構ではなかったことがはっきりと分かるのである。]

わが兒(こ)   八木重吉

わが兒と

すなを もり

砂を くづし

濱に あそぶ

つかれたれど

かなし けれど

うれひなき はつあきのひるさがり

 

[やぶちゃん注:八木重吉は本詩集を刊行した翌昭和元・大正一五(一九二六)年、結核の宣告を受け、茅ヶ崎で療養生活に入ったが翌昭和二(一九二七)年十月二十六日、二十九歳で逝去した。重吉と妻とみとの間には桃子・陽二という二人の子供がいたが、その二人も重吉と同じく結核によって昭和一二(一九三七)年に桃子、昭和一五(一九四〇)年には陽二も相次いで夭逝した。なお、未亡人とみ(登美子)夫人は、後に歌人吉野秀雄に再嫁され、平成一一(一九九九)年に亡くなられている(以上はウィキの「八木重吉」に拠る)。]

鬼城句集 冬之部 鴛鴦

鴛鴦     予若かりし時妻を失ひ二兒を抱いて泣くこ

       と十年たまたま三木雄來る乃ち賦して示す

       これ予が句を作る初めなり今こゝに添削を

       加へず

      美しきほど哀れなりはなれ鴛

[やぶちゃん注:「鴛」は「をし(おし)」と読む(言わずもがなながら、カモ目カモ科オシドリ Aix galericulata の雄を指す)。

 鬼城は満二十九の明治二二(一八八九)年にスミと結婚し二児をもうけたが、三年後の明治二五(一八九二)年、スミは二十七の若さで亡くなった(この年にはその前に実父も鬼籍に入っている)。なお、この「十年」とは「長い間」の意であるので注意。この句はスミの亡くなったその年の句である。「三木雄」は宗教家で俳諧宗匠三森幹雄(みもりみきお 文政一二(一八三〇)年~明治四三(一九一〇)年)。陸奥石川郡中谷(現在の福島県石川町)生まれで、本名は寛、別号は春秋庵(十一代を継ぐ)・静波・樹下子・笈月山人・不去庵など多数。江戸で志倉西馬(しくらさいば)に師事し、後に神道系新宗教教団神道十三派の一つ、神道大成教(しんとうたいせいきょう:幕末に外国奉行などを務めた平山省斎(せいさい)が組織し、明治一五(一八八二)年に一派として独立した教派神道。随神(かんながら)の道を目的としつつ、静座などの修行を重んじるとともに西洋の諸科学や実用主義を取り入れている。)に属して俳諧に拠る教化運動を図って明倫講社を結成、明治一三(一八八〇)年には『俳諧明倫雑誌』を創刊している。著作に「俳諧名誉談」などがあり、門弟は三千人に及んだという。俳人林桂氏の公式サイト『風の冠文庫』の「書評」の「『俳秀加舎白雄―江戸後期にみる俳句黎明―』金子晋著」に、『村上鬼城が俳句を始めたのは弟平次郎の影響からである。旧派俳人として活躍していた弟に勧められて、明治二十五年東京の偉い宗匠春秋庵幹雄(鬼城は三木雄と表記)に俳句を見て貰ったのが最初である。鬼城の句に旧派の面持ちがあるとすればそのためである。春秋庵の号は幹雄が白雄の系譜に連なることを示している。明治期の群馬の旧派地図は白雄の系譜に連なっていたらしいのである』とある。]

ブログ・カテゴリ「篠原鳳作」始動 / 篠原鳳作句集 昭和三(一九二八)年/昭和四(一九二九)年

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「篠原鳳作」を始動する。篠原鳳作(しのはらほうさく 明治三九(一九〇六)年~昭和一一(一九三六)年)は鹿児島市池之上町生。本名篠原國堅(くにかた)。東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、沖縄県立宮古中学校・鹿児島県立第二中学校で教師(公民・英語科担当)を勤める傍ら「ホトトギス」に投句、昭和八(一九三二)年には『天の川』同人となるとともに(この部分は講談社「日本人名大辞典」に拠るが、底本年譜では同人になった時期が明記されていない代わりに、『天の川』への投句は昭和四年には開始されていたこと、昭和五年には同誌の主催者である吉岡禅寺洞選への投句が開始されており、翌六年一月には鹿児島市に『天の川』支部を開設、十月には諸俳誌から遠ざかって禅寺洞の指導へ傾倒していったとあるので、やや不審ではある。無論、正式な同人になったのがその後ということなのであろうが、支部を作る人間が同人ではなかったというのはやはり私には解せない)、昭和八年九月には『天の川』同人らの『傘火(かさび)』に参加して新興俳句運動の旗手となって無季俳句を多く発表したが、昭和一一年九月十七日、三十歳で急逝した(直接の死因は公に心臓麻痺とされるが、前駆症状などからは脳腫瘍等の脳神経系の重篤な主因が疑われるように私は感じている)。

 私は既にサイト創生期の二〇〇五年七月に筑摩書房「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」一九六七年刊の「篠原鳳作集」を底本とした電子化を行っているが、ここでは無論、鳳作の全句の公開を目指す。底本は沖積舎平成一三(二〇〇一)年刊「篠原鳳作全句文集」を用いたが、例によって彼は戦前の作家であるからして、私の特に俳句のテクスト化ポリシー(この理由については俳句の場合、特に私には確信犯的意識がある。戦後の句集は新字採用のものもあるであろうが、それについては、私の「やぶちゃん版鈴木しづ子句集」の冒頭注で、私の拘りの考え方を示してある。疑義のある方は必ずお読み頂きたい)に従い、恣意的に漢字を正字化して示すこととした。但し、疑義のある部分については、先に電子化した選句集の表記その他を参照したので、完全に「恣意的」であるとは言い難い。なお、編集権を侵害しないために(また私にはあまり重要とは思われないが故に)各句の初出データは、注で出したものを除き、省略した。]

 

昭和三(一九二八)年

 

  病中

夜々白く厠の月のありにけり

 

[やぶちゃん注:底本で最も古い鳳作の句として冒頭に掲げられている。初出は同年二月刊行の『ホトトギス』で初入選句である。当初の俳号は未踏であったが、本句はその後に頻繁に用いた「篠原雲彦」を用いている。但し、両俳号はその後も併用した(底本年譜に拠る)。当時、鳳作二十二歳、東京帝国大学法学部政治学科二年。]

 

昭和四(一九二九)年

 

コスモスの日南の緣に織りにけり

 

[やぶちゃん注:「日南」は「ひなた」であろう。鳳作二十三歳、この四月に帝大を卒業して鹿児島に戻っているが、この時期は職に就いておらず(これは当時発生していた極端な就職難という外因によるものと思われる)、年譜上からは俳句へと急速に傾倒していった時代と読み取れる。彼の手帳メモによれば、当時の主な投句俳誌は『泉』『馬酔木』『天の川』『京鹿子』であった。]

 

慈善鍋キネマはてたる大通り

 

秋の蚊のぬりつく筆のほさきかな

 

ままごとの子等が忘れしぬかご哉

 

[やぶちゃん注:「ぬかご」は零余子(むかご)。植物の栄養繁殖器官の一つで、主として葉腋や花序などの地上部に生じるものを呼び、離脱後には新たな植物体となる。葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリなど、後者はヤマノイモ科などに見られるものである。両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる。いずれにせよ根茎の形に似る。ヤマノイモなどでは栽培に利用される。食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般にはヤマノイモ・ナガイモなど山芋類のむかごを指し、ここでもそれと考えてよい。灰色で球形から楕円形を成し、表面には少数の突起があって葉腋につく。塩茹でや煎り、また、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。零余子は仲秋の、零余子飯(むかごめし)は晩秋の季語である(以上はウィキの「ご」に拠った)。]

 

歸り咲く幹に張板もたせけり

 

[やぶちゃん注:同年十一月発表。帰り花は初冬の季語であるが、花は特定されない。梅か桜か。「張板」は和服地を洗って糊附けして張り板に張り、皺を伸ばして乾かす板張りのための板。字背に花と和服の色を隠した小春日の景で、なかなか憎い句柄である。]

 

凍て蜜柑少し焙りてむきにけり

 

懷ろ手して火の種を待ちにけり

 

山茶花の花屑少し掃きにけり

2014/01/29

明恵上人夢記 32

32

一、同月八日の夜、夢に云はく、緣智房(えんちばう)來りて告げて曰はく、「一々に留守を置き候はばや。今より御分に成るべく候也。僧都知るべからず候」と云々。

[やぶちゃん注:短いだけに、逆にシチュエーションが摑み難い。無論、訳には自信がない。

「同月八日」建永元(一二〇六)年六月八日。

「緣智房」不詳。「夢記」には既に「法智房」「鑑智房」という名が出、孰れも明恵と同行の修行僧である。

「僧都」不詳。但し、次の「33」の夢の冒頭に「又、眞惠僧都之許に到る」とあり、文脈からは同一人物であるようにとれるように書かれているとも私は思う。底本の注で「33」の「眞惠僧都」については『長良流の従五位下藤原宗隆男で東寺一長者となった大僧正法務真恵か』とある(但し、彼が東寺長者に補任されたのは明恵の没六年後の嘉禎四・暦仁元(一二三八)年九月である)。]

 

■やぶちゃん現代語訳

32

一、同月八日の夜、見た夢。

 縁智房が私のところへ来たって告げて言うのである。

「いちいちに――住持の留守の仮初の代理を置いておく――それで、よう御座るか? 最早、今よりあなたがその立場となるべきで御座ろう。そうしてそれは、ここにおらぬ僧都の知ったことでは御座るまいほどに。」と。……

栂尾明恵上人伝記 71 「無常を取り殺して、其の後にぞ我は死なんずる。無常にはとり殺さるまじ」

 或る時、上人語りて云はく、大聖文殊(だいしやうもんじゆ)に大智を乞ひて、佛法の玄旨(げんじ)を心の底に伺ひ演(の)ぶる處、併て二空の妙理なり。三世の諸佛の大道、一代諸教の本意なりと思へば、手を放ちて空々(くうくう)とのみ空めき居たれば空めき死(じに)にぞ死なんずらん。此の空の故には無常を取殺(とりころ)して、其の後にぞ我は死なんずる。無常には取り殺さるまじきなり」と戯れ給ふ。

[やぶちゃん注:最期の時が迫る中、「手放しで『何もかも総て、空じゃ! 空じゃ!』とばかり念じて、空のただ中におりさえすれば、空めいた死に振りもできようものであろうず。このすべての真理たらん空故にこそ、我らは無常をテッテ的にとり殺す。無常を取り殺した、その後で、我らは死のうと存ずるのじゃ。我らは決して――無常によってはとり殺されはせぬぞ!」と如何にもシブい冗談を述べる明恵――私にはその少年のようなつやつやとした素晴らしい笑顔が――見える……

「二空の妙理」講談社学術文庫の平泉氏の訳では、『物質と精神との二元論的存在を否定する不思議な道理』とある。

「三世」過去・現在・未来。

「一代諸教」釈迦がその生涯で説いた多くの教え。]

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十七】――大炊渡しの戦い

武田、川端に進めば、信濃國の住人千野(せんのゝ)五郎、川上〔の〕左近、馬を打入れて渡す所に、東方より黑革威(くろかはおどし)の鎧に月毛なる馬に乘り、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓持ちたる兵、河端に下りて、「只今岸を渡すは何者ぞ」と詞を掛けたり。「是は武田五郎殿の御手に屬せし信濃國の住人、千野六郎、河上左近」と名のりけり。この武者聞きて、「某も同國の住人に、夫妻(おほつまの)太郎兼澄と云ふ者ぞ、千野は我等が一門ぞかし、河上殿に申承らん」とて、能引(よつぴい)てひようと射るに、左近が引合(ひきあはせ)を篦深(のぶか)に射させて、倒(さかさま)に落ちて流れたり。千野六郎、續て渡す所を、又矢を番(つが)ひて、射たりければ、六郎が乘りたる馬の弓手の太腹を射させて、馬は平(ひら)に轉(ころ)びたり。千野六郎、太刀を拔きて逆茂木の上に飛上(とびあが)る。京方の陣より、武者六人馳寄(はせよ)りて、六郎をば打取りけり。是を初て常葉(ときはの)六郎、我妻(あづまの)太郎、内藤八續(つゞい)て渡しける所に、大妻太郎に射落されて、川に流れて死んだりけり。武田五郎、易からず思ひて打入り渡すを見て、舎兄惡三郎、舎弟六郎、同七郎、武藤〔の〕五郎、内藤七、新五、黑河、岩崎〔の〕五郎、以上九人ぞ渡しける。京勢、雨の降る如くに矢を放つに、少しも躊躇(ためら)ふ色はなし。小笠原〔の〕次郎百騎計(ばかり)にて押渡る。京勢河端に下向(おりむか)うて戰ふ。寄手の大勢、物ともせず、打入れ打入れ、雲霞の如く渡掛(わたしかけ)て、鬨の聲を作りて攻掛(せめかゝ)る。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十七】――大炊渡しの戦い〉

「千野五郎」諸本「六郎」の誤りとする。以下に見る通り、これは「承久記」の誤りであって筆者の咎ではない。

「塗籠籐」弓の束(つか)を籐で密に巻いた重籐(滋籐/繁籐:しげどう)の弓でも、その籐の部分を含め、全体を漆で塗り籠めた弓。単に塗籠とも呼んだ。

「引合」鎧や腹巻き・胴丸・具足の類に於いて着脱するための胴の合わせ目を指す語。この場面のような大鎧では前と後ろを引き合わせた右脇の間隙部分を指す。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号40の続きから43のパートの頭の部分まで)の記載。

 

 武田ガ手ノ者、信濃國住人千野五郎・河上左近二人打入テ渡ケルガ、向ノ岸二黑皮威ノ鎧ニ月毛ナル馬ニ乘テ、クロツハノ矢負テ、塗籠藤ノ弓持クリケルガ、河ノハタノ下ノダンニ打下テ、「向ノ岸ヲ渡ハ何者ゾ」。「是ハ武田小五郎殿ノ御手ニ、信濃國住人千野六郎・川上左近ト申者」ト名乘ケレ。「同國ノ住人大妻太郎兼澄也。眞ニ千野六郎ナラバ、我等一門ゾカシ。六郎ハ諏方大明神ニユルシ奉ル。川上殿ニ於テハ申承ン」トテ、ヨツ引テ丁ト射ル。左近ガ引合ヲ篦深ニ射サセテ、倒ニ落テ流レケルニ、千野六郎是ニモ不ㇾ臆、軈テ續テ渡シケレバ、「千野六郎ハ、元來、大明神ニユルシ奉ル。馬ニ於テハ申受ン」トテ、能引テ丁ト射ル。六郎ガ弓手ノ切付ノ後ロノ餘ヲ、篦深ニ射サセテ、馬倒ニコロビケレバ、太刀ヲ拔テ逆茂木ノ上へ飛タチ、カチ武者六人寄合テ、千野六郎ハ打取ニケリ。同手ノ者常葉六郎、其モ大妻太郎ニ鎧ノ草ズリノ餘ヲ射サセ、舟ノ中ニ落タリケルヲ、先ノ六人寄合テ打ニケリ。我妻太郎・内藤八、其モ被ㇾ射テ流レニケリ。

 内藤八ハ眞甲ノハヅレ射サセテ、血目へ流入ケレバ、後モ前モ不ㇾ見、馬ノ頭ヲ下リ樣ニアシク向テ、軈テ被卷沈ケルガ、究竟ノ水練成ケレバ、逆茂木ノ根ニ取付テ、心ヲ沈メ思ケルハ、是程ノ手ニテヨモ死ナジ、物具シテハ助ラジ、此鎧重代ノ物ナリ、餘生タラバ其時トレカシト思ヒテ、物ノ具ヌギ、上帶ヲ以テ逆茂木ノ根ヲ岩ノ立アガリタリケルニ纏ヒ著テ、向タル方へハイケル程ニ、可ㇾ然事ニヤ、渡瀨ヨリシモ、人モナキ所ニハヒアガリタリ。腰ヨリ上ハアガリテ後、底ニテ絶入ヌ。程へテ後、生アガリタリ。京方ノ者共、見付タリケレ共、死人流寄タリト思ヒテ目モ不ㇾ懸。其後、緣者尋來リテ助ケル。後ニ水練ヲ入テ、河底ナル鎧ヲ取タリケリ。

 武田小五郎、軈テ打入テ渡ケリ。伴フ輩ハタレタレゾ。兄ノ惡三郎・弟ノ六郎・同七郎、武藤五郎・新五郎、内藤七・黑河内次郎・岩崎五郎、以上九人、是等ヲ始トシテ百騎ニ足ヌ勢ニテゾ渡シケル。京勢ハナシケル矢、雨ノ足ノ如ナレバ、或ハ馬ヲ射サセ、或ハ物具ノスキヲ射サセテ河へ入。是ヲモ不ㇾ顧、乘越々々渡シケル。武田五郎、軈テ續ヒテ河端ニ打望テ、「小五郎、能コソ見ユレ。日來ノ言ニテ能ク振舞へ。敵ニ後ロヲ見セテ此方へ歸ラバ、人手ニ掛マジキゾ。只渡セ。其ニテ死ネ」トゾ下知シケル。小五郎、元來、敵ニ目ヲ懸テ思切タリケル上、父ガ目ノ前ニテ角下知シケレバ、面モ不ㇾ振戰ケル。小笠原次郎、被出拔ケルゾト思ニ、安カラズ思テ、打立テゾ渡シケル。

 京方、各河端ニ歩向テ散々ニ戰ケレ共、東山道ノ大勢如雲霞打人々々渡シケレバ、力不ㇾ及引退テ、上ノ段へ打上ル。

 

「承久記」の方がエピソードが仔細で臨場感に富み、遙かによく書かれている。

●「切付」は「きつつけ(きっつけ)」と読み、鎧ではなく、馬の下鞍(したぐら)の内で肌付(はだつけ)の上に重ねる馬具の名称。馬の背や両脇を保護するもの。]

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 苗蝦

【外】

苗蝦 漳州府志曰海物異名記謂之醬蝦細如針

芒海濱人醢以爲醬淡紅色今按ニ一寸許アル小ヱ

ヒナリ此マヽニテ大ニナラス備前筑後ナトノ泥海ニ多シ

海邊ノ潮入溝河ニアリ小毒アリ味ヨケレトモ性不好

ナシモノトシ又ホシテ遠方ニヲクル痔ト便血瘡疥ヲ發ス

此病アル人不可食

〇やぶちゃんの書き下し文

【外】

苗蝦(あみ) 「漳州府志」に曰く、『「海物異名記」は、「之を醬蝦〔しやうか〕と謂ふ。細なること、針芒〔しんばう〕のごとし。海濱の人、醢〔ししびしほ〕にして以つて醬と爲す。淡紅色。」と。』と。今、按ずるに一寸許りある小ゑびなり。此のまゝにて大きにならず。備前・筑後などの泥海に多し。海邊の潮の入る溝河〔こうが〕にあり。小毒あり。味、よけれども、性、好まれず。なしものとし、又、ほして遠方にをくる。痔と便血・瘡疥を發す此の病ひある人、食ふべからず。

[やぶちゃん注:現在、狭義には軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目アミ目 Mysida に属する小型甲殻類の総称であるが、ここで貝原が示すのは、それに含めて、《本当のエビ類の小型種》」であるところのアキアミ(ホンエビ上目十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目サクラエビ上科サクラエビ科アキアミ Acetes japonicas)であるとか、オキアミ(ホンエビ上目オキアミ目オキアミ科 Euphausiidae 及びソコオキアミ科 Bentheuphausiidae に属するオキアミ類)をも含んだ謂いである。前者の狭義のアミ類は、形状は見た目全く狭義のエビ類(真軟甲亜綱ホンエビ上目 Eucarida)にしか見えないが、分類学上は「アミ」は「エビ」ではないので注意されたい(私の教師時代の印象ではこの誤解は広く蔓延しているように感じる)。ウィキの「アミ」によれば、『エビ類と異なり、胸肢の先ははさみ状にならない。背甲は胸部前体を覆うが、背側との癒合は第三胸節までである。雌は腹部に育房を持つ。また、アミ目では』(この狭義の「アミ」に含まれる中層遊泳性で二百メートル以深の深い海に棲息するロフォガスター目 Lophogastrida は除く)、『尾肢内肢に一対の「平衡胞」と呼ばれる球状の器官を持つことで、他のグループと容易に識別できる』とある。ここにも『利用上、アキアミのような小型のエビ類やオキアミと区別されない場合がある』と明記されてある。一応、真正のアミ類について、同ウィキによって記載しておくと、体長は最小種で二ミリメートル程、最大種であるロフォガスター目オオベニアミ Gnathophausia ingens では三十五センチメートルを超えるがこれは例外で、一般には五~三〇ミリメートル前後の小型種が殆どで本文でも記載に積極性が認められないように、漁獲対象としては一般的ではない。本邦の江戸期から現在までのアミ漁は真正の「アミ」に属するアミ目アミ科イサザアミNeomysis intermedia(本種は汽水域というよりさらに塩分濃度の低い環境に適応した種の一つである)を対象とした霞ヶ浦のイサザアミ漁が知られており、ほかにも現在、本文の「筑後」とも地理的に一致する有明海、また、厚岸湖などでも漁獲されているとある。なお、他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海糠魚 あみ あめじやこ」も参照されたい。また、同巻では多くの箇所にアミ類と思しいものがエビ類と混載されてある。関心のある向きは同ページ内検索でそれこそ「アミ」をかけられたい。

「漳州府志」前項「蝦蛄」注参照。

「海物異名記」書名であることは分かったが、詳細不詳。識者のご教授を乞う。ところが、これを調べるうちに当の「海物異名記」のより正確と思われる記載を発見した(こちらの龔鵬程ブログ記載

   《引用開始》

塗苗 《海物異名記》:“謂之醬蝦,如針芒,海濱人鹹以為醬,不及南通州,出長樂港尾者佳,梅花所者不中食。”

   《引用終了》

後半部分は産地の良し悪し、最後は中毒しない旬を言っているか。

「針芒」針の先端。

「醢〔ししびしほ〕」塩辛。

「醬」所謂、魚醤(ぎょしょう・うおびしお)・塩魚汁(しょっつる)のことである。

「一寸」三・〇三センチメートル。

「性、好まれず」これはあまりに小さいために食用雑魚としても商品化出来ず、生では足が速くて嫌われたということか。

「なしもの」「鱁鮧」と書き、音で「チクイ」、訓じて「なしもの」。塩辛・魚醬(うおびしお)のこと。

「瘡疥」疥瘡で「はたけがさ」、所謂、皮膚病の「はたけ」であろう。主に小児の顔に硬貨大の円形の白い粉を噴いたような発疹が複数個所発する皮膚の炎症性角化症の一つ顔面単純性粃糠疹(ひこうしん)。ウィルス感染原因が疑われているが感染力はない。寧ろ、これを一種のアレルギー反応と見るならば、既にしてこの注意書きは知らずに激しい甲殻類アレルギーによる合併症の様態を示しているのだとも読めるような気もしてくるではないか。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(4) ツリガネムシ及びマラリア原虫の接合 /二 原始動物の接合~了

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[「つりがね蟲」の普通の一疋]

[止まつて待つ大きな一疋の處へ群體から離れて水中を游ぎ來つた小さな一疋が、將に接合せんとする狀] 

「ざうり蟲」でも夜光蟲でも、接合する二疋の蟲は外見上全く同樣で少しも區別がないが、原始動物の中には接合する二疋の形に明な相違の見えるものがある。池や沼の水草に澤山に附著して居る「つりがね蟲」はその一例であるが、この蟲は夜光蟲や「ざうり蟲」が遊離して居るのとは違ひ、長い柄を以て固著して居るから、恰も根の生えた植物の如くで、勝手にどこへでも動いて行くことは出來ぬ。始は一疋の蟲も分裂によつて段々殖えるが、皆同じ處に留まり、柄を以て互に繫がつて居るから、終には樹の枝のやうな形の群體を造るに至る。通常水草などに著いて居るのはかやうな姿のものである。所がこの蟲もときどき接合する必要があるが、それには系統の異なつた二疋の蟲が出遇はねばならず、そのためには必ず運動を要する。二疋ともに動くか、または一疋だけが動くか、いづれにしても全く動かずに居ては二疋が相接觸する機會はない。さて實際には「つりがね蟲」は如何にして接合するかといふに、その頃になると、分裂生殖よつて二種類の個體が出來、一種は身體が大きくて内に滋養分の顆粒を含み、群體の枝から離れずに居るが、他の一種は體が小さく有力な纖毛を具へ、自分の群體から離れて水中へ游ぎ出し、他の群體に達してそこに相手を求める。そして接合するときには小さい方の蟲は大きな方の體内に潜り込み、これと融合して全く一個の細胞となつてしまふ。かくの如く、「つりがね蟲」では接合する二疋の蟲が形も擧動も明に違ふが、その相違は高等動物の生殖細胞なる卵と精蟲との相違と全く同性質のもの故、大きな方を雌と名づけ小さな方を雄と名づけても決して無理ではなからう。接合を目的として二疋の虫が互に相慕ひ相求めることは、原始動物に普通に見る所であるが、この二疋の間に雌雄の相違の明に現れる場合は、「つりがね虫」の外にもなほ澤山ある。人間の血液内に寄生してマラリヤ病を起す微細な原始動物なども、普通には分裂によつて蕃殖する。患者が隔日に発熱するのは、この虫の分裂生殖が毎回四十八時間を要するからである。しかし蚊が患者の血液を吸ふと、病原蟲は蚊の體内で漸々変形し、大小二種の蟲が出來て互に接合するが、その形狀の相違は「つりがね蟲」などに於けるよりも遙に著しく、雌の方は球形で誰が見ても卵細胞と思はれ、雄の方は小さな頭から細長い尾が生えて、普通の精蟲と少しも違はぬ。

 

Mararasetugou
[(右)マラリヤ病原蟲が人の赤血球に寄生してゐる所]

[(左)同蟲の雄と雌との接合する所] 

[やぶちゃん注:「つりがね蟲」クロムアルベオラータ Chromalveolata 界アルベオラータ Alveolata 亜界繊毛虫門貧膜口綱周毛亜綱ツリガネムシ目ツリガネムシ科ツリガネムシ Vorticella nebulifera を代表種とするが、広義にはこの種が属するツリガネムシ科或いはツリガネムシ目に属する生物全体を示す。参照したウィキの「ツリガネムシ」によれば、『淡水に生息する単細胞生物で』、『主として用水路や水田、池など、止水に生息し、水中の水草や枯れ枝などに多数が群れをなして固着している。体は円錐形で、底面に当たる位置の周囲には繊毛列があり、これにより水流を作り、その端にある細胞口へ微粒子などを流しこんで摂取する。円錐の頂点に当たる部分からは長い柄が伸びて、基質上に固着する。何か刺激を受けると、細胞の繊毛部分は袋の口を縛るような形で縮み、同時に長い柄は螺旋状に収縮する。収縮は瞬間的に起こり、そっとしておけばゆっくりと体を延ばす』。『近縁の種には枝分かれした柄に多数の細胞体が付いて、群体を作るものや、ミジンコの体に固着するものなど、様々なものがある』とある。ハリガネムシの生態及び分裂動画は「NHK for School」の ツリガネムシ 不思議な水中生活が非常によい。このツリガネムシの卵子と精子に見紛う二体の異形という特異な接合様態は、ゾウリムシなどの接合が同形接合(isogamous conjugation)と呼ばれるのに対し、まさに異形接合(anisogamous conjugation)と呼ばれている。

「マラリヤ病を起す微細な原始動物」アルベオラータ Alveolata 亜界アピコンプレクサ Apicomplexa 門胞子虫綱コクシジウム目マラリア原虫 Plasmodium spp.。熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で高熱や頭痛・吐き気などの症状を呈し、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こして死亡するマラリア(麻剌利亜。「悪い空気」という意味の古いイタリア語:mal aria”を語源とするらしい。ドイツ語:Malaria・英語:malaria)の病原体。本邦に於いて平清盛の死因として知られる「瘧(おこり)」とは、概ねこのマラリアを指していると考えてよい。以下、参照したウィキマラリアより引用する。『ハマダラカ(Anopheles spp.)によって媒介され』、近年、『微細構造および分子系統解析からアルベオラータ』に分類されるようになったが、ここには既に本文にも登場してきた渦鞭毛藻類が含まれており、『近年マラリア原虫からも葉緑体の痕跡が発見された。そのため、その全てが寄生生物であるアピコンプレクサ類も祖先は渦鞭毛藻類と同じ光合成生物であったと考えられている。ヒトの病原体となるものはながらく熱帯熱マラリア原虫(P. falciparum)、三日熱マラリア原虫(P. vivax)、四日熱マラリア原虫(P. malariae)、卵形マラリア原虫(P. ovale)の4種類であったが、近年サルマラリア原虫(P. knowlesi)が5種目として大きな注目を集めている。サルマラリアは顕微鏡検査では P. vivaxと区別が難しいため従来ほとんど報告例はなかったが、近年の検査技術の発達によりPCR』(ポリメラーゼ連鎖反応(polymerase chain reaction)。DNAを増幅させる検査法)『で確実な判断ができるようになったため、多数症例が報告されるようになった。マレーシア サラワク州では今日のマラリア症例の70%がサルマラリアによるものであることも報告されている』。『タイでも報告例がでて』おり、『熱帯熱マラリア原虫によるマラリアは症状が重いことで知られるが、サルマラリアは24時間以下の周期で急激に原虫が増加し、他のマラリアとことなりほぼすべての赤血球に侵入するため症状は重篤になることが多く』、『これらの発見から当該地域でのマラリアコントロールは新たな手法による対応を迫られている』。『マラリア原虫は脊椎動物で無性生殖を、昆虫で有性生殖を行う。したがって、ヒトは終宿主ではなく中間宿主である。ハマダラカで有性生殖を行なって増殖した原虫は、スポロゾイト(胞子が殻の中で分裂して外に出たもの)として唾液腺に集まる性質を持つ。このため、この蚊に吸血される際に蚊の唾液と一緒に大量の原虫が体内に送り込まれることになる。血液中に入ると45分程度で肝細胞に取り付く。肝細胞中で1-3週間かけて成熟増殖し、分裂小体(メロゾイト)が数千個になった段階で肝細胞を破壊し赤血球に侵入する。赤血球内で8-32個に分裂すると赤血球を破壊して血液中に出る。分裂小体は新たな赤血球に侵入しこのサイクルを繰り返す』。『マラリアを発症すると、40度近くの激しい高熱に襲われるが、比較的短時間で熱は下がる。しかし、三日熱マラリアの場合48時間おきに、四日熱マラリアの場合72時間おきに、繰り返し激しい高熱に襲われることになる(これが三日熱、四日熱と呼ばれる所以である)。卵形マラリアは三日熱マラリアとほぼ同じで50時間おきに発熱する。熱帯熱マラリアの場合には周期性は薄い』。『熱帯熱マラリア以外で見られる周期性は原虫が赤血球内で発育する時間が関係しており、たとえば三日熱マラリアでは48時間ごとに原虫が血中に出るときに赤血球を破壊するため、それと同時に発熱が起こる。熱帯熱マラリアに周期性がないのは赤血球内での発育の同調性が良くないためである』。『いずれの場合も、一旦熱が下がることから油断しやすいが、すぐに治療を始めないとどんどん重篤な状態に陥ってしまう。一般的には、3度目の高熱を発症した時には大変危険な状態にあるといわれている』。『放置した場合、熱帯熱マラリア以外は慢性化する。慢性化すると発熱の間隔が延び、血中の原虫は減少する』。『三日熱マラリアと卵形マラリアは一部の原虫が肝細胞内で休眠型となり、長期間潜伏する事がある。この原虫は何らかの原因で分裂を再開し、再発の原因となる。四日熱マラリア原虫の成熟体は、血液中に数か月~数年間潜伏し発症させることがある』。『マラリア原虫へのワクチンはないが、抗マラリア剤はいくつかある。マラリアの治療薬としてはキニーネが知られている。他にはクロロキン、メフロキン、ファンシダール、プリマキン等がある。いずれも強い副作用が現れることがあり注意が必要。クロロキンは他の薬剤よりは副作用が少ないため、予防薬や治療の際最初に試す薬として使われることが多いが、クロロキンに耐性を示す原虫も存在する。通常は熱帯熱マラリア以外ではクロロキンとプリマキンを投与し、熱帯熱マラリアでは感染したと思われる地域での耐性マラリア多寡に基づいて治療を決定する。近年では、漢方薬を由来としたチンハオス系薬剤(アルテミシニン)が副作用、薬剤耐性が少ないとされ、マラリア治療の第一選択薬として広く使用されるようになった。これによりこれまで制圧が困難であった地域でも大きな成果をあげている一方、アジア、アフリカの一部ではすでに薬剤耐性が報告されるようになってきた。2010年以後、アルテミシニンはグローバルファンドの援助によって東南アジアのマラリア治療薬としてインドネシアの国境付近のような僻地であっても処方されるようになってきている』。『近年は殺虫剤に耐性を持つハマダラカや、薬剤に耐性のあるマラリア原虫が現れていることが問題になっている。また地球温暖化による亜熱帯域の拡大とともにマラリアの分布域が広がることも指摘されている。流行地で生まれ育ち、度々マラリアに罹患し免疫を獲得したヒトでは、発熱などの症状がほとんど診られないこともあるが、免疫が無ければ発症する』とある。……長々と引用したのには私の個人的な理由がある。友人マラリアっていからである。海外に行く機会の多い、そして近年ハマダラカの生息が東京で確認されている昨今、マラリアは決して対岸の火事ではないことを心に刻んでおく必要があるからである。] 

 以上述べた如き單細胞生物では、いづれも種族を永く繼續させるためには、ときどき系統を異にする蟲が二匹づつ接合して體質を相混ずることが必要であるが、二疋の蟲が出遇ふには運動をせねばならず、接合後速に分裂するには豫め滋養分を貯へて置かねばならぬ。しかるに、活潑に游ぐには成るべく身輕なことが便利であり、滋養分を貯へれば身體が重くなつて運動が妨げられる。それ故この二つの必要條件は、相接合すべき二疋で一方づつ分膽し、長い年月の間に各々それに適するやうに身體が變化したるものと推察せられるが、かく想像すると全く實際に見る所と一致する。即ち一方は體が次第に小さくなり、運動の裝置のみが發達して活發な雄となり、一方は滋養分を溜めて體が段段大きくなり、終に重い動かぬ雌となつたと考へねばならぬ。

耳嚢 巻之八 古人は遊惰の人ながら其氣性ある事

 古人は遊惰の人ながら其氣性ある事

 

 寶曆明和の頃まで、河東節(かとうぶし)の名人と世に口ずさみし原富五郎、後(のち)武太夫と云(いひ)しは、御家人にて專ら三味線の妙手故、貴賤の差別なく渠(かれ)が其音曲を聞(きか)ん事を望(のぞみ)し。尤(もつとも)壯年より遊人(あそびにん)にてありしが、短き大小をさすは彼(かの)者より初(はじま)りしとや。其子細は諸侯抔へ招かれぬる時、刀劍を禁ずるゆゑ、いかにも短きを帶し、門前にて取之(これをとり)て三味線箱の内へ入れしとや。人其事を尋(たづね)しに、我等遊惰(いうだ)のものにて、我(わが)行跡(ぎやうせき)あざける者あらん、されど心に武士を忘れざれば、いづ方にてもちいさき兩刀ははなさず、今の若輩者刀は宿におき往來を一本にてあるき、甚敷(はなはだしき)は無腰(むこし)なるも有(あり)と嘲りしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。音曲技芸譚。

・「寶曆明和」西暦一七五一年から一七七二年。

・「河東節」代表的な江戸浄瑠璃、古曲の一つ。現在、国の重要無形文化財。江戸半太夫(半太夫節の創始者)の門下である江戸太夫河東(天和四・貞享元(一六八四)年~享保一〇(一七二五)年)が、享保二(一七一七)年に十寸見河東(ますみかとう)と名乗って創始した。初期には半太夫節に式部節などを加味した語り口を持味にし、庶民からひろく支持された浄瑠璃であったが、後には豊後節や常磐津節によって人気を奪われ、このため豊後節禁止を幕府に働きかけるなどの策を弄したことでも知られる。江戸中期以降は人気、歌舞伎の伴奏音楽の地位をともに奪われ、主にお座敷での素浄瑠璃として富裕層に愛好された。特に吉原との関係が深く、二代目(?~享保一九(一七三四)年)、三代目(?~延享二(一七四五)年)の河東は吉原に暮らし、初代・二代・三代の蘭洲は妓楼の主であったといわれる。三味線は細棹を用い、語り口は豪気でさっぱりしていて「いなせ」である。後に山田流箏曲に影響を与えた(以上は主にウィキの「河東節」に拠った)。

・「原富五郎」底本の鈴木氏注には、『三村翁注「原武太夫、初名富次郎とあり、御先手与力の隠居。牛込清水町住、寛政四年二月二十二日九十五にて歿す、牛込感通寺に葬る』とあり、岩波版長谷川氏注には、『三味線の名手、随筆・狂歌の作がある。安永五年(一七七六)没、八十歳とも寛政四年(一七九二)没、九十六歳ともいう』とある。京扇子の店「京扇堂」公式サイト内の「せんすの話」の荘司賢太郎氏の執筆になる芳澤あやめには『元禄十年(1697)生まれで九十六才まで長生きした。寛政四年(1792)没。寛延二年(1749)生まれの蜀山人は十六、七の頃、和歌の師の内山椿山の所で武太夫と出会っている。(『一話一言』巻三十八)』とある。この引用元の荘司氏の記事には驚異的に詳細を極めた歌舞伎と河東節の歴史が語られてある。お好きな向きには必見である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古人は遊惰(ゆうだ)の者にえもその気性に気骨ある事

 

 宝暦明和の頃まで、河東節(かとうぶし)の名人として、広く世に知られ称された原富五郎なる者、後(のち)に武太夫と名乗ったは、もともとは御家人にて、專ら、三味線の妙手で御座った。貴賤の差別なく、かの者の弾き唄(うと)う音曲(おんぎょく)を聴かんものと、世人はこぞって望んだもので御座った。

 尤も、御家人とは申せ、その頃には所謂、遊び人という体(てい)で御座ったれど、一部の三味線弾きの内にて刀の短かき大小を差す者の今あるは、かの者より始まるとか申す。

 その子細は、諸侯などが方へ招かれた際、刀剣の持ち込みをば、これ、禁ずるがゆえ、如何にも短かき刀を佩き、かの諸侯が門前にてこれを外して、三味線箱の内へと入れ、おもむろに屋敷内へと入ったものの由。

 さる人、その仕儀につき、かの者に直接訊ねたところ、

「……我ら遊惰の者にて、我が行跡(ぎょうせき)を嘲けんとする者も御座るようなれど……心には常に武士たるを忘れずに御座ればこそ、何方(いづかた)へ参らんも、小さき両刀は、これ、放さざるを心掛けて御座る。……今の武士のうち……特に若輩者の中には、太刀を屋敷に置いたまま、往来を一本差しにて歩き、はなはだしきは、無腰(むこし)で平然と闊歩致す輩(やから)も……いやこれ、御座いますのう。……」

と、嘲りを含んで語ったとか申す。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 牛招島

    ●牛招島

海面に二個の小島あり。牛招島(うしまねきじま)と呼ぶ、往昔朱雀院の御宇、神の嶽山王權現の宮司、潮(うしほ)を汲みけるに、海中より美麗の童子、水牛に乘りてあらはれ、手を擧げて宮司を招き、近づけて一卷の絹を與へ、忽然水中に入れりと。

[やぶちゃん注:ネット上での記載は少ないが、「zusitto掲示板」の「久左衞門@西小路」氏の二〇〇七年六月二日の投稿「RE:Umidasuについて考えてケロ♪」に、現在の逗子市桜山九丁目にある浄水場の鐙摺側の角にある小島(岩礁)とあり、『伝説では、承平年間に神武寺山王権現の宮司が御神前に供える潮汲みのため、この島近くの浜辺に出たところ、海中から水牛に乗った美しい童子が現れ、宮司を手招きした。宮司が近付くと童子は一巻の巻物を手渡して、そのまま海中に隠れてしまった。その巻物には「大威徳明王」の尊像が描かれており、天下泰平の祈願が籠められたものとされる』。『現在、神武寺が所有し県指定重要文化財に指定されている「絹本着色大威徳明王図」が、其れであるとされる』という目から鱗の記事があった。写真も同じ掲示板の(上記記事も併催されてある)で同氏の撮影になる明瞭なものを見られる。

「朱雀院の御宇」延長八(九三〇)年~天慶九(九四六)年。

「神の嶽山王權現」先の引用から、当時、神武寺に付属した現在の山王神社であることが分かる。この神社以下に見るように分かりにくい場所にあるようであるが、PDFファイルの古代遺跡研究家泰山氏の「泰山の古代遺跡探訪記 神奈川の古代遺跡探訪記001 神武寺・鷹取山探訪記その2 神武寺境内は女人禁制地だった!」に詳しい地図と山王神社の画像が載る。サイト「逗子・葉山旅行 クチコミガイド」のドクターキムル氏の「神武寺(神奈川県逗子市)」にこの山王神社を探索する(結局行き当たられなかったのであるが)記が載るが、何よりこの冒頭の裏参道で出逢った人との不思議な出来事は頗るミステリアスで興味がそそられる。必読!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 5 歯医者のイタい看板

 私はすでに、英語で書いた、奇妙な看板について語った。それ等の多くは微笑を催させ、私が今迄に見た少数のものの中で、正確なのは殆ど皆無である。また日本人は看板に、実に莫迦げた絵をかく。ある歯医者の看板は、歯医者が患者の歯を抜く所を示していたが、患者のパクンとあけた口と、歯医者の断断乎たる顔とは、この上もなく怪奇に描かれてあった。

[やぶちゃん注:この歯医者の看板――見たイッツ!

「私はすでに、英語で書いた、奇妙な看板について語った」日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 10 帝都東京――看板あれこれを参照。]

萩原朔太郎 餘生

       餘生

 

 餘生とは? 自分の過去の仕事に關して、註釋を書くための生涯を言ふ。――如何にまた、餘生でさへも仕事を持つてゐる!

 

[やぶちゃん注:『四季』第二号・昭和九(一九三四)年十二月号に他六篇のアフォリズムとともに掲載されたもので、後に「絶望への逃走」(昭和一二年第一書房刊)に所収された。]

中島敦 南洋日記 注

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十二月十五日から十八日までの四日分の日記がない。次の十九日の冒頭に『二日來の喘息、愈々面白からず』とあるから、十五日の夜に激しい喘息発作が起こって、それが日記も記せぬほどに(仕事を休んで安静にしたために記載事項がなかったのかも知れない)持続したのかも知れない。同十五日附(十五日の昼に郵便局で認めて投函したもの)の父中島田人宛葉書が残るので以下に示す(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五二)。
   *
〇十二月十五日附(消印パラオ郵便局一六・一二・一五 世田谷一七・一・二四 南洋パラオ島コロール町南洋庁地方課 東京市世田谷区世田谷一丁目一二四 中島田人宛。葉書。航空便)
 無事パラオに歸任致しました 當地は極めて落ちついてをりますから、御安心下さい これから役所の外の仕事がいそがしくなります、こちらは今、大變な暑さです、
 郵便局でとりいそぎ
   *
これは恐らく、前掲の前日附たか宛書簡に記された『さて、明日(十五日)、又、三百圓送るつもり。これは、お前への年末(ねんまつ)のボーナス』の郵便為替を送った際に認めたものと思われる。開戦直後の父の心配を慮っての一筆である。]

杉田久女句集 39 夏祭髮を洗つて待ちにけり

夏祭髮を洗つて待ちにけり

杉田久女句集 38 夕涼み、遊び女の舟

玄海に連なる漁火や窓涼み

 

夕凪や釣舟去れば涼み舟

 

遊女らの涼める前を通りけり

 

遊船のさんざめきつゝすれ違ひ

 

灯せる遊船遠く現はれし

杉田久女句集 37 打ち水

打水に木蔭湿れる茶店かな

 

水打つて石涼しさや瓜をもむ

杉田久女句集 36 緣側に夏座布團をすゝめけり

緣側に夏座布團をすゝめけり

杉田久女句集 35 蚊帳の中の久女

蚊帳の中より朝の指圖や旅疲れ

 

蒼海の落日とゞく蚊帳かな

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 壁炉を焚く

 壁炉を焚く

 

壁炉(へきろ)もえ主(しゆ)のなき椅子の炉にむかひ

 

吾子とゐて父なきまどゐ壁炉もえ

 

壁炉照り吾子亡き父の椅子いゐる

 

吾子いねてより海鳴るを炉にきけり

 

夜の濤は地に轟けり壁炉もゆ

 

われのみの夜ぞ更けまさり炉火をつぐ

 

壁炉もえ白き寢臺(ベツド)に人を見ず

[やぶちゃん注:カタカナのルビの拗音表記の問題については、先行する句で「フレップ」を「フレツプ」と表記していることに鑑み、しばらく拗音化しないこととする。]
 

惜しみなく炉火焚かれたり雪降り來る

 

あさの炉がもえたり旅裝黑くゐる

 

[やぶちゃん注:これは夫亡き後の昭和一二(一九三七)年の暮れ、避寒した櫓山荘での吟と思われる。当時、彼らの四子はそれぞれ以下の年齢(満)であった。長女敦子十八、次女国子十六、三女啓子十四、四女美代子十三。]

萩原朔太郎 短歌 五首 明治四四(一九〇三)年四月

薄暗き酒場の隅に在るひとが我に教へし道ならぬ道

 

砂山の枯草の上を我が行けば蟲力なく足下に飛ぶ

 

悲しみて二月の海に來て見れば浪うち際を犬の歩ける

 

かのベンチ海を見て居りかのベンチ日毎悲しき人待ちて居り

 

縁端に疲れし顏の煙草吸ふ教師の家の庭のこすもす

 

[やぶちゃん注:『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)の「歌」欄その四」に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十四歳。当時の朔太郎は前年の初夏に岡山の六高を退学後、実家と東京を行き来して放浪、二月には比留間賢八の「マンドリン好楽会」に入門するなどしていた彷徨期であった。二首目の海は大磯海岸と考えてよい。底本筑摩版全集の年譜(伊藤信吉・佐藤房儀編)の明治四四年の二月項に、『同月8日 何となく東京を逃げだしたい氣持に驅られ、新橋ステーションから汽車に乘り大磯に行き、海を見る』とある。]

萩原朔太郎 短歌 五首 明治四四(一九〇三)年四月

薄暗き酒場の隅に在るひとが我に教へし道ならぬ道

 

砂山の枯草の上を我が行けば蟲力なく足下に飛ぶ

 

悲しみて二月の海に來て見れば浪うち際を犬の歩ける

 

かのベンチ海を見て居りかのベンチ日毎悲しき人待ちて居り

 

縁端に疲れし顏の煙草吸ふ教師の家の庭のこすもす

 

[やぶちゃん注:『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)の「歌」欄その四」に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十四歳。当時の朔太郎は前年の初夏に岡山の六高を退学後、実家と東京を行き来して放浪、二月には比留間賢八の「マンドリン好楽会」に入門するなどしていた彷徨期であった。二首目の海は大磯海岸と考えてよい。底本筑摩版全集の年譜(伊藤信吉・佐藤房儀編)の明治四四年の二月項に、『同月8日 何となく東京を逃げだしたい氣持に驅られ、新橋ステーションから汽車に乘り大磯に行き、海を見る』とある。]

夜の薔薇(そうび)   八木重吉

ああ

はるか

よるの

薔薇

 

[やぶちゃん注:「薔薇(そうび)」のルビはママ(正しくは「さうび」)。]

鬼城句集 冬之部 水鳥

水鳥    水鳥の胸突く浪の白さかな

      水鳥に吼立つ舟の小犬かな

2014/01/28

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦蛄

【外】

蝦蛄 漳州府志曰狀如蜈蚣而大尾如僧帽開元

遺事及草木子ニモ亦載之〇其形ヱヒニ似タリ海邊

斥地ニアリ蝦ノ如ク腹ニ足多シ手ナシ足モ殻モ色モ

味モ皆ヱヒノコトシ只首異リ煮レハ色紅シ食フヘシ其

色石南花ニ似タリ故ニシヤクナゲトモ云

〇やぶちゃんの書き下し文

【外】

蝦蛄(しやこ) 「漳州〔しようしふ〕府志」に曰く、『狀、蜈蚣〔むかで〕のごとくして大なり。尾は僧帽のごとし。』と。「開元遺事」及び「草木子(さうぼくし)」にも亦た、之を載す。其の形、ゑびに似たり。海邊の斥地(せき〔ち〕)にあり。蝦のごとく腹に足多し。手なし。足も殻も色も味も皆、ゑびのごとし。只だ、首、異なり。煮れば色、紅〔あか〕し。食ふべし。其の色、石南花(しやく〔なげ〕)に似たり、故にしやくなげとも云ふ。

[やぶちゃん注:甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria については、他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰕姑 しやこ しやくなげ」も参照されたい。特にここでは学名についてそこで記した私の愚昧なる記載を以下にほぼ転載する。――江戸期には「シャクナギ」とか「シャクナゲ」と呼称されていた。これはここに書かれたようにシャコを茹でた際、紫褐色に変わって、それが「石楠花」(後注参照)、シャクナゲの花の色に似ていたところから付けられ、それが短縮されてシャコと呼ばれるようになったとされる。

(ここでやぶちゃん、ギャル風の装束で、何故か「羅和辞典」を持って登場。)

 それよか~! この学名、面白くない~? Oratosquilla oratoria の属名と種小名のぉ、“Orato”と“oratoria”って、これ、「オラトリオ」じゃ~ん?! “squilla”つーのはさ、“scilla”と同じでぇ、「葱」とか「蟹」の意味なわけ~! エビ・カニって言うぐらいなんだからさぁ、気にしない~! ラテン語で“oratio”ってえのはさぁ、「雄弁」とか「祈禱」、“oratorie”なら「演説風に」とか「雄弁に」だし~、“oratorium”ってなるとぉ、「祈禱室」「礼拝堂」なの! シャコが盛んに忙しそうに鋏脚やら歩脚を動かす動作から雄弁な「演説」? ノンノン! 頻りに礼を繰り返すみたいだから「祈禱」「礼拝」とかイメージしたのカモ~! わけわかんないなんとかつー中国の本にも「僧帽」(いやん、これマジ、良安ちゃんの絵、中国の歴史物の映画に出てくる、あのお坊さんの変テコな帽子に、クリソツ!〔今のやぶちゃん注:リンク先の絵をご覧あれ。〕)とかになぞらえてるし~! あとさ~あ、“oratus”っーのは、「乞い願うこと」って書いてあるわけ! これって、さあ、やっぱ、シャコちゃんがさあ、あのお辞儀するみたいな動きすんの、言ってんのかもよ~?! チョー面白いじゃ~ん!(退場。以下ずっと普通のやぶちゃん。)――我乍ら、面白いことを言っていると今、思う。

「漳州府志」清乾隆帝のに成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。

「蜈蚣」は節足動物門大顎亜門ムカデ(唇脚)綱 Chilopoda のムカデ類を指す。

「開元遺事」正しくは「開元天宝遺事」で、五代の王仁裕の編。四巻。仁裕は初め蜀に仕えて翰林学士となったが、蜀の滅亡後は長く長安に住み、民間に伝わる唐の玄宗のときの遺事記を辿って記した。史実と云うよりは小説に近いもの(以上の書誌は以下のページより)。

「草木子」明の葉子奇の随筆。元の諸制度や元末明初の事件風聞、北宋期の儒者邵雍(しょうよう)の自然思想に基づく天文・地理・生物などに関する記録などを載せる。

「斥地]干潟。

「石南花」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属無鱗片シャクナゲ亜属 Hymenanthes及び無鱗片シャクナゲ節(ホンシャクナゲ Rhododendron japonoheptamerum Kitam. var. hondoenseの仲間)に属する花卉。孰れも派手で大きな花を特徴とし、花の色は白或いは赤系統が多いが、シャコを茹でた色からすると、一般的には赤紫色か白のこのホンシャクナゲであろうか。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(3) 夜光虫の接合

Yakoutiyuusetugou
[「夜光蟲」の接合]

 

 海の表面に無數に浮んで夜間美しい光を放つ「夜光蟲」も單細胞生物であるが、これも常には分裂によつて蕃殖し、その間にときどき接合をする。夜光蟲の身體は恰も梨か林檎の如き球形で柄の根本に當る處に口があるが、二疋が接合する時にはこの部分を互に合せて身體を密接させ、始めは瓢簞の如き形となり、後には次第に融け合つて終には全く一個の球となつてしまふ。「ざうり蟲」では接合する二疋の蟲の身體は始終判然した境があり、たゞ一個處で一時癒著するだけに過ぎぬが、夜光蟲の方では、始め二疋の蟲が接合によつて全く一疋となり終り、同時にその核も相合して一個となる。そして接合の後には、この一疋となつた大きな蟲が續々分裂して蕃殖すること、恰も接合後の「ざうり蟲」などと同じである。

[やぶちゃん注:海産プランクトンである原生生物界渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ Noctiluca scintillans は動物分類学では古くは植物性鞭毛虫綱渦鞭毛虫目に分類し、最近では渦鞭毛虫門に配する。一般的な渦鞭毛藻とは異なり、葉緑体を持たず、専ら他の生物を捕食する従属栄養性生物である。昼間には赤潮として姿を見せ、赤潮の原因生物としては属名そのままの「ノクチルカ」と表記されることが多い。参照したウィキの「ヤコウチュウ」によれば、『海産で沿岸域に普通、代表的な赤潮形成種である。大発生時には海水を鉄錆色に変え、時にトマトジュースと形容されるほど濃く毒々しい赤茶色を呈する。春~夏の水温上昇期に大発生するが、海水中の栄養塩濃度との因果関係は小さく、ヤコウチュウの赤潮発生が即ち富栄養化を意味する訳ではない。比較的頻繁に見られるが、規模も小さく毒性もないため、被害はあまり問題にならないことが多い』。『ヤコウチュウは大型で軽く、海水面付近に多く分布する。そのため風の影響を受けやすく、湾や沿岸部に容易に吹き溜まる。この特徴が海水面の局所的な変色を促すと共に、夜間に見られる発光を強く美しいものにしている。発光は、細胞内に散在する脂質性の顆粒によるものであるが、なんらかの適応的意義が論じられたことはなく、単なる代謝産物とも言われる』。『原生生物としては非常に大きく、巨大な液胞(或いは水嚢; pusulen)で満たされた細胞は直径』1~2ミリメートルにまで達する。『外形はほぼ球形で、1ヶ所でくぼんだ部分がある。くぼんだ部分の近くには細胞質が集中していて、むしろそれ以外の丸い部分が細胞としては膨張した姿と見ていい。くぼんだ部分の細胞質からは、放射状に原形質の糸が伸び、網目状に周辺に広がるのが見える。くぼんだ部分からは1本の触手が伸びる。細胞内に共生藻として緑藻の仲間を保持している場合もあるが、緑藻の葉緑体は消滅しており、光合成産物の宿主への還流は無い。細胞は触手(tentacle)を備え、それを用いて他の原生生物や藻類を捕食する。触手とは別に、2本の鞭毛を持つが、目立たない』。『一般に渦鞭毛虫は体に縦と横の溝を持ち、縦溝には後方への鞭毛を、横溝にはそれに沿うように横鞭毛を這わせる』のが普通であるのに対し、『ヤコウチュウの場合、横溝は痕跡程度にまで退化し、横鞭毛もほぼ消失している。しかし、縦溝は触手のある中心部にあり、ここに鞭毛もちゃんと存在する。ただし、それ以外の細胞が大きく膨らんでいるため、これらの構造は目立たなくなってしまって』、『およそ渦鞭毛虫とは思えない姿』をしている。『特異な点としては、他の渦鞭毛藻と異なり、細胞核が渦鞭毛藻核ではない(間期に染色体が凝集しない)普通の真核であるとともに、通常の細胞は核相が2nである。複相の細胞が特徴的である一方、単相の細胞はごく一般的な渦鞭毛藻の形である』点である。『他の生物発光と同様、発光はルシフェリン-ルシフェラーゼ反応による。ヤコウチュウは物理的な刺激に応答して光る特徴があるため、波打ち際で特に明るく光る様子を見る事ができる。または、ヤコウチュウのいる水面に石を投げても発光を促すことが可能である』とある。ここで問題となる生活環については、『通常は二分裂による無性生殖を行う。有性生殖時には遊走細胞が放出されるが、これは一般的な渦鞭毛藻の形態をしており、核も渦鞭毛藻核である』とあって接合の記載はない。奈良教育大学の石田正樹教授の研究室公式サイトにある村万由子氏の夜光虫の培養法 Culture Method of Noctilukaの詳細なライフ・サイクルの解説を見ても、一九九三年の報告として成体と遊走子(説により遊走子と遊走子)の間での接合の記載はあるが、丘先生のいうような明らかな成体個体同士の接合に関する記載はどうも見当たらない。丘先生がここで「ときどき接合をする」と叙述する以上、それはおかしい。それともそもそもが丘先生が述べているのは、この現在、同型配偶子説と異型配偶子説の二つがあるところの、『遊走子形成から接合子形成に至る過程』によって『新たな成体』が生ずるという新知見(無論、丘先生の時代から見ての意である)のことを単純に成体同士の接合と言っているのかも知れない。専門の識者のご教授を乞うものである。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 養神亭

    ●養神亭

二階建宏壯の樓樹にして前に田越川あり、後は恰も海水浴場に當たれる灣口に望みて、碧波庭を洗ひ、風光絶美なるもの養神亭となす、鮮魚は食すべく海水浴すべし、養生旁々部屋を借切りにして、幾週日か止宿するものさへあり、避暑には實に屈竟の樓なるべし。

[やぶちゃん注:「逗子案内」に既注。タイアップ記事であるが江の島の恵比寿楼や岩本楼に比して分量が至って少ない(但し、他の項目解説の中での出現は多い)。広告料をケチったものか?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 4 モース先生、水星の日面通過を観測する

 五月七日。大学の望遠鏡で、水星の太陽面通過を見た。支那の公使並に彼の同僚を含む、多数の人人がいた。太陽の円盤の上に、小さな黒い点を見ることは興味が深かったし、またこれを見ることによって、人はこの遊星が太陽の周囲を回転していることを、更に明瞭に会得することが出来た。

[やぶちゃん注:ウィキ地動説」によれば、『徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。医者の麻田剛立が』宝暦一三(一七六三)年に、『世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ』、寛政九(一七九七)年には『月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ』、天保一五年・弘化元(一八四四)年に『寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた』とあるから、日本人の支配階級の知識人には既に地動説は知れ受け入れられていた。但し、キリスト教のようなファンダメンタリズムの強い志向はなかったし、圧倒的多数の江戸時代の庶民はもっとプラグマティックで、それによって現実生活が実際に脅かされないという点に於いて、地動説にも天動説にも関心は持たなかったものと考えてよいと思われる。

「大学の望遠鏡」現在の国立天文台の前身である東京大学理学部星学科観象台はこの明治一一(一八七八)年に現在の東京都文京区本郷の現東京大学構内に発足してはいる。明治一六(一八八三)年の参謀本部地図を見ると、まさにモースの官舎真裏(北)直近に「觀象臺」を見出せるが、ここでモースは「大学の望遠鏡」とのみ表現しており、また後に「私の家の後に、天文観測所が建てられつつある」と出るので、これはどうもここではない。

「水星の太陽面通過」水星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象である水星の日面(にちめん)通過。ウィキ太陽通過」によれば、『水星は太陽を横切っていく小さな黒い円盤のように見える。水星は太陽の東から太陽に近づき、太陽面を東から西へ横切っていく。日面通過の際の水星の見かけの大きさは太陽の1/150以下と小さく、太陽黒点と区別が付けにくいこともある。しかし、黒点が不規則な形なのに対し水星は完全な円でさらに黒点より暗く見えるので区別できる』とあり、『太陽面は極めて明るいため、肉眼で直接見ることは危険である。双眼鏡や望遠鏡で見ることはさらに危険で視力に恒久的な障害が残り、失明する可能性もある。水星の日面通過を観測するには望遠鏡を用いて太陽の像を投影版に投影したり、望遠鏡にフィルターを付けて太陽面を観察したりする方法がある』とある。この時の太陽の日面通過は協定世界時(UTCCoordinated Universal Time)で、

通過開始      :午後 3時16分

通過軌道中央位置通過:午後 5時00分

通過終了      :午後10時44分

で(この数字は英語ウィキ“Transit of Mercuryに拠る。日本語版には二十世紀以降しか載らない。こういうところが日本のウィキは徹底性に欠けてしょぼいと感じる)、日本標準時(JSTJapan Standard Time)は協定世界時より9時間進んでいるから、当時の東京でのそれは、

通過開始      :午前 0時16分(当時の本邦では観測不能)

通過軌道中央位置通過:午前 2時00分(当時の本邦では観測不能)

通過終了      :午前 7時44分

となる。明治一一(一八七八)年五月七日の日の出は5:03(私の御用達のサイトページ」の計算による)であるから、モースらの観察は実に早朝、凡そ二時間半余りの中で行われたことが分かる。]

耳嚢 巻之八 寐小便の呪法の事 附笑談の事

 寐小便の呪法の事 笑談の事

 

 小兒はさらなり、壯年に至りて、夜分此病ひ有(ある)もの世にすくなからず。或人の語りけるは、男女に限らず新葬の佛を厚く信じ、朝夕怠らず日數を極め祈りぬれば、彼(かの)やまひを除く事奇々妙々の由かたりぬ。埒なき事ながら、かたりし人我もためしつる事ありと申(まうし)ぬれば、こゝに記しぬ。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

附り 文化四年の春の頃、勤(つとめ)をなせしさる若人かの愁(うれひ)ありと。右呪(まじなひ)を人の教(おしへ)ぬるにまかせ、葬送を見懸(みかけ)その寺まで見屆(みとどけ)、翌日に至り新葬の墓所へ詣で、櫁(しきみ)などたてゝ彼(かの)病を念頃に祈り、それより日毎に詣で櫁をそなへ念頃に祈誓せしに、施主の男新らしき手向(たむけ)を寺よりなせし事と思ひて、納所に逢ふて厚く禮をなせしに、寺にては一向思ひよらざる事なるが、此頃若き侍日毎に來りて櫁を手向、念頃にとむらふ樣子を見しと語りければ、施主なるもの驚きて、夫(それ)はいかなる樣(さま)の人にや右亡者は我等娘にて二八(にはち)の年齡なれば、存生(ぞんじやう)の内にかゝる事ありしとは思ひ知らざりしが、申(まうし)かわせし人にやあらん。かくとしらば、せん樣(やう)も有(ある)べきと深く驚き、何とぞ彼(かの)人來(き)なば住所名前を聞(きき)てしらせ給ひてよと深く賴(たのみ)ければ、翌朝彼(かの)侍例の通(とほり)來りしを引留(ひきとめ)て、一寸(ちよつと)住僧逢度(あひたき)由を申(まうし)ける故、日々の勤遲くなりてはなりがたき迚いなみければ、無理に引留てありし譯語りけるにぞ、名住所もなのるべけれど、けふは急ぐ事あればと斷りて皈(かえ)りしが、かゝる事に墳墓に詣ふでぬると咄(はな)さんも面(おも)ぶせなれば、其後は參詣も思ひ留りしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間療法シリーズの夜尿症や尿漏れのための呪(まじな)い物であるが、専ら附けたりの笑話の面白さ故に採録したものである。

・「文化四年」西暦一八〇七年。「卷之八」の執筆推定下限は文化五年夏。

・「櫁」樒。梻。双子葉植物綱シキミ目シキミ科シキミ属 Illicium anisatum。かつてはモクレン科に分類されていた。仏事に用いるため寺院によく植えられるが、全木特に種子・果実にアニサチンなどの有毒物質を含み、食べれば死亡する可能性がある程度に有毒。参照したウィキの「シキミ」によれば『語源は、四季とおして美しいことから「しきみ しきび」となったと言う説、また実の形から「敷き実」、あるいは有毒なので「悪しき実」からともいわれる。日本特有の香木とされるが』、江戸中期の大阪真蔵院住職子登撰の「真俗仏事論」の二には供物の記載で、『「樒の実はもと天竺より来れり。本邦へは鑑真和上の請来なり。その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す」とあり、一説に鑑真がもたらしたとも言われる』とある。また、『シキミ(樒)は俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草という。弘法大師が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた。なにより年中継続して美しく、手に入れやすいので我が国では俗古来よりこの枝葉を仏前墓前に供えている。密教では葉を青蓮華の形にして六器に盛り、護摩の時は房花に用い、柄香呂としても用いる。葬儀には枕花として一本だけ供え、末期の水を供ずる時は一葉だけ使う。納棺に葉などを敷き臭気を消すために用いる。茎、葉、果実は共に一種の香気があり、我が国特有の香木として自生する樒を用いている。葉を乾燥させ粉末にして末香・線香・丸香としても使用する。樒の香気は豹狼等はこれを忌むので墓前に挿して獣が墓を暴くのを防ぐらしい。樒には毒気があるがその香気で悪しきを浄める力があるとする。インド・中国などには近縁種の唐樒(トウシキミ)があり実は薬とし請来されているが日本では自生していない。樒は唐樒の代用とも聞く。樒は密の字を用いるのは密教の修法・供養に特に用いられることに由来する』とある。

・「納所」納所坊主。狭義には禅宗寺院に於いて金銭や米穀などの出納を行う係の僧。転じて寺院一般で雑務を行う下級の僧をも指す。ここは後者。

・「面ぶせ」面伏せ。顔が上げられぬほどに面目ないこと。不名誉。「おもてぶせ」とも読める。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 寝小便の呪法の事 附けたり 笑い話の事

 

 小児は勿論のこと、壮年に至りても、夜分にこの尿漏れの病いを患(わずろ)う者は、これ、世に少なく御座らぬ。

 ある人の語ったことには、男女に限らず、新仏(にいぼとけ)の菩提を厚く弔い、朝夕怠らず、その祈誓の日数(ひかず)を決めて一心に祈ったならば、かの病いを除くこと、これ奇々妙々の由、語って御座った。

 埒もないことながら、語った御仁も、実はかの愁いのあって、

「……我らも試しみたことが御座って、信じられぬほどにすっかり快癒致いて御座る。」

と申されたによって、ここに記しおくことと致す。

 

根岸附記(そのことにつきて面白き話の御座ったればここにさらに記しおくことと致す。)

 文化四年の春の頃、御用勤めをなせる、さる若人(わこうど)、かの尿漏れの愁いが御座ったと申す。

 そこで、この呪(まじな)いを人が教え呉れたにまかせて、折よく、葬送を見かけたによって、その菩提寺までも見届けた上、翌日になって、かの新仏の墓所へと詣でて、櫁(しきみ)なんどを誠心に立て、一心にかの病いの平癒を祈り、それより毎日欠かさず、詣でては新しき櫁を供え、懇ろに祈誓致いて御座った。

 ところが、さてもその新仏施主の男、墓参りに出向いてみれば、新らしき手向(たむ)けのこれあればこそ、親切にも寺よりなし下されたことと思うて、納所(なっしょ)坊主に逢(お)うて厚く礼を述べたところが、

「……いや……寺にては一向にそのような仕儀は致いて御座らぬ……思いもよらぬことなれど……はて、そういえば……この頃、若きお侍が日ごとに来たっては櫁を手向け、懇ろに弔う様子……これ、遠目に見ては御座った……」

と語ったによって、施主なる者、大きに驚き、

「そ、それは如何なるご様子の御仁で、ご、御座ろうか!?……かの亡き者は我らが娘にて十六にての夭折……存生(ぞんじょう)の内に……その……い、いわくのあることなんどが御座ったとは思いもせず、知りも致さなんだが……もしや!……そ、それは……密かに申し交わして御座った、お人なのでは、御座るまいか!?……かくも、そうしたことを知ったとなれば……その御仁への、それなりの御礼やら仕儀をもなすが、これ、礼儀、また、死者成仏の救けとものならん!……」

と深く感じ入って驚き、

「……何とぞ、かのお人がまた参られたならば、どうか、お坊さまより、住所名前をお訊ね下され、きっと、我ら方へとお知らせ下さいませ!」

と懇ろに頼んで御座った。

 翌朝、寝小便祈願のため、かの侍、例の通り詣でたを、納所坊主の見かけて、既に施主の頼みを伝えて御座った住持に告げておいたによって、かの侍を引き留め、

「……ちよっと住持がお侍さまにお逢い致したき儀、これある由なればこそ。……」

と申しところ、何を聴かれんかと思わず慌てた侍、

「……い、いや……そ、その日々の、お、御用勤めにも遅くなりては、こ、これ、な、なりがたきことなれば……」

と辞さんと致いた。

 ところが施主の頼みもあったれば、住持自ら出でて参って、無理にも引き留め、

「……実は貴殿の日参なさるる新仏が施主より、かくかくのご依頼方、これ、御座ったによって……」

と切り出したところが、侍、なおも内心、吃驚仰天、小便をちびりそうになりながらも、落ち着きを装い、

「……か、かくなるお訊ねなればこそ……名や住所をも名乗るべきが道理なれど……今日は……これ御用の向き、よんどころなく……急ぐことの御座ればこそ、平に!……」

と断って、早々に帰って御座ったと申す。……

 ――かかる祈誓がために、かのうら若き娘子の新仏の墳墓に詣でて御座った――

 なんどと申さんは、これ、如何にも不名誉極まりなきことなれば、その後(のち)は、かの寺への参詣も、これ思い留まらざるを得なんだと申す。

……夜の尿(しと)の……あとのこと知りたや……

中島敦 南洋日記 十二月十四日

        十二月十四日 (日)

 朝來、我が機の低空飛行を見、漸く安堵す、十時頃アルモノグイの水道に入る。擬裝せる燈、アルマテン、綠の島々、時々スコールあり。十二時投錨。一時過下船、役所へ行く。喘息面白からず、夜、土方氏の家に行きコーヒーの馳走に預かる。パラオは案外靜かなり。未だ敵機の影を見ずといふ。

[やぶちゃん注:「アルモノグイ」パラオ島中央部西岸の入り江の北方の地名、当時はこの複雑に入り組んだ湾奥に大和村(現地名ガスパン)、その北に朝日村があった。

「アルマテン」湾の北アルモノグイの西に突き出た岬の突端部分の地名。この時にあったかどうかは不明であるが、現在も日本海軍の砲台が戦跡として残っている。

「土方氏」土方久功。冒頭のに既注。

 この日附で太平洋戦争勃発後最初の妻たか宛書簡が残る。以下に示す。

   *

〇十二月十四日(中島たか宛。封書。封筒なし。)

 いよいよ來るべきものが來たね。どうだい、日本の海軍機のすばらしさは。ラジオの自由に聞けるそちらがうらやましいな。

 所で、僕の豫定も急に變つて、いそいでパラオに歸ることになつた。普通の船は無いが、丁度十日(十二月)の日に軍の御用船が寄つたものだから、賴んでそれに乘せて貰ふことにした。御用船といつたつて、鎌倉丸(もとのちちぶ丸)しかも、その一等に乘つてるんだから、たいしたもんだよ。二人一室のかなり廣い洋室を僕一人で占領してゐる。この一室に電燈は五つもつくし、鏡は、むやみにたくさんついてるし、ちよつと、ホテルに泊つてるみたいだ。たゞね、お前もラヂオで聞いたらうけど、パラオ港外で敵の潛水艦が沈められたり、敵機十臺パラオを襲(オソ)うたが十臺とも落されたとか、一寸氣になるやうなニウスがはいつてゐるのでね、しかし、まあ大したこともあるまいとは思ふ。潛水艦が出やしないか、とビクビクしながら航海するのも面白い經驗かも知れない。とにかくこの船は、全く大きな船で、散歩なんかしてると道にまよつて部屋に歸れなくなりさうだ。今日なんて甲板(カンパン)で自轉(テン)車に乘つてた人がある。勿論エレヴェーターもついてゐる。かういふ船の豪奢(ゴウシヤ)な部屋にはいつて、一等の御馳走をたべて、船賃が、なんと、一日につき一圓三十錢とはウソみたいな話だらう? 實際の食費だけ、といふことになつてゐるが、陸に上つたら、この船の食事一食分だつて一圓三十錢では食べられやしない。餘りやすいんで、困る、こちらが氣がひける位だ。

◎昨日十二月分として二百圓送つた。受取つたらうと思ふ。お前は、サイパン支廰宛に飛行便を出しやしないかい? 出さなきやいいが、出したとすると、それを受取らないで、オレは、船にのつて了つたわけだ。いづれ、パラオに廻送はされるが、この際だから、一月や二月はかかるかもしれない。だから、もし、その手紙の中に大事なことでも書いてあるなら、それを(同じことを二度書いたつて構はない)もう一度書いてパラオ宛に出しておくれ。

 戰爭が始まつて、そちらでは、さぞ、南洋の方のことを心配してくれてゐることと思ふ。しかし、このサイパン・テニヤン地方は、全く平靜(へイセイ)だ。實際の所、グヮムは他愛(タアイ)なく、つぶれるし、この邊は空襲を受ける心配もまづ無いからね。パラオの方は、フィリッピンに近いので、幾分の危險があることは確かだが、それも、大したことはあるまい。

 さう心配してくれなくても大丈夫のやうだ。そりや戰爭のことだから、多少の危險があることは覺悟してゐるさ。しかし、むしろ、怖(コハ)いのは、喘息といふ病氣の方だよ。いづれパラオについたら、防空のために走りまはらなければなるまいが、そのたびに、喘息を起すのでは、ちよつと、やりきれない。これだけは、どうにも憂鬱(イウウツ)だな。この際、個人の病氣のことなど言出すのは、ゼイタクかも知れないが。

◎さて、今迄は少々強がりを言つてゐたが、實は、内心、本當にセンスヰカンが出やしないかと、夜なども、枕もとに、救命具(キュウメイ)(ウキ)を置(オ)いて寐(ネ)るしまつで、あまり良い氣持ぢやなかつたが、もう大丈夫だ。今朝は日本の飛行機が、迎へに來てくれて低空飛行をしてゐる。もう大丈夫。センスヰテイなんか、いくらでも出て來いだ。もうぢきパラオが見えてくるだらう。

 

◎無事パラオ着。パラオが案外おちついてゐるのでビックリした。空襲警報はあつたけれど、實際に敵機を見た者は誰もないし、爆彈の音を開いた者も無いらしい。パラオと一口にいつても、コロ-ルからは、ずつと離れた南の方の小さい島もあるんだが、どうやら、その邊(ヘン)に敵機が現れて、しかも直ぐ逃げて行つたらしいんだよ。この程度だから、まづく安心してくれ。

 たまにパラオに歸つてきて見ると、小雨が降つてゐて、むしあつい。敵機よりも雨と暑さの方がヨツポドゆううつだよ。當分、汽船は駄目かもしれないので、飛行便でばかり、通信することになるだらう。

 この前途つた二百圓の中、百五十圓は十二月分として、殘りの五十圓を(少いが、)みんなへのお年玉にしてくれ。おぢいちやんへも十圓、お前へも十圓、澄子へも十圓、桓へも十圓、格のチビへも十圓。おぢいちやんと格が同じぢや、をかしいけれども、とにかく、みんな十圓づつにしておくれ。

 さて、明日(十五日)、そち又、三百圓送るつもり。これは、お前への年末(ねんまつ)のボーナス。

 今度の出張では、たしかオレはフトツたよ。この前の時より、たしかだ。バナナとイモばかりたべてたせゐだね。とにかく、おしりに肉が出來てきたからヲカシクテ仕方がない。ホツペタも、もうゲソツと落ちてやしないぜ。

◎(パラオに歸つて直ぐ大急ぎで、書いた)

   *

太字「ちちぶ」「しり」は底本では傍点「ヽ」、下線「ヨツポド」は傍点「〇」。

「丁度十日(十二月)の日に軍の御用船が寄つたものだから」この抹消は検閲を危惧してのものと思われる。

「鎌倉丸(もとのちちぶ丸)」日本郵船の貨客船秩父丸(日本郵船の保有船大刷新の目玉である浅間丸型客船の一隻として昭和五(一九三〇)年に建造、当時の日本に数少ない本格的客船として北米航路に就航、「太平洋の女王」と称された)は昭和一四(一九三九)年に鎌倉丸(かまくらまる)と改名されていた(以上はウィキ秩父丸」に拠る)。

「澄子」は異母妹(田人の最初の後妻カツの子)。実家に同居していたものと思われる。

 妻の心配を払拭するためでもあろうが、開戦直後の戦地直近乍ら、頗るポジティヴな内容であるのは、敦自身にも戦況への期待に基づく楽観があったことが窺える。]

中島敦 南洋日記 十二月十三日

        十二月十三日(土) 晴、

 朝食後正午迄、又、睡る。甲板の散歩、讀書、無事、

杉田久女句集 34 母と寢てかごときくなり蚊帳の月

  上阪 一句

 

母と寢てかごときくなり蚊帳の月

 

[やぶちゃん注:「上阪」は小倉からの大阪行であろうが、久女の実家は東京であり不審(愛知県西加茂郡小原の義母杉田しげは大正二(一九一三)年に逝去している)。編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」からこの句は大正一四(一九二五)年の句であることが分かり、底本年譜の同年の三月と思しい部分に『実母を訪う』とある。しかし年譜上の記載からも大阪と実母さよの接点は見当たらない。「かごと」(託言。心が満たされずに不平を言う・愚痴をこぼす・嘆くの意の「かこつ」の名詞節「かこちごと」が元)という、(人のせいにしていう)恨み言・不平・愚痴という表現からは、大正九(一九二〇)年八月から腎臓病のために一年ほど東京上野桜木町の実家に戻った際、宇内との離婚問題が起こった(主に久女の実家側かららしい)ものの、翌年七月に小倉に帰っている。その際、実家で母さよから『子供のために辛抱して、夫が俳句を嫌うなら俳句をやめるように説得された』(久女長女石昌子さん編の年譜記載)とあるのは句柄と合致するが、やはり大阪ではないし、角川版の時系列とも齟齬する。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 寒夜 

 寒夜

 

駅に降(お)り北風(きた)にむかひて家に歸る

 

北風つよく抗(あらが)ひ來るに身をかばひ

 

寒(かん)の星昴(すばる)けぶるに眼をこらす

 

北風吹けり夜天あきらかに雲をゆかす

 

枯木鳴り耀く星座かかげたる

 

星天は嚴(いつ)しく霜の地を照らす

萩原朔太郎 短歌三首 明治四四(一九〇三)年三月

欄に寄り酒をふくめば盃の底にも秋の愁ただよふ

 

赤城山鹿の子まだらに雪ふれば故郷びとも門松を立つ

 

町内の屋臺を引きし赤だすき十四の夏が戀の幕あき

 

[やぶちゃん注:『スバル』第三年第三号(明治四四(一九〇三)年三月発行)に「萩原咲三」名義で掲載された(「咲二」の誤りで校正漏れか誤植)。朔太郎満二十四歳。

 二首目はこの年の医師で従兄萩原栄次(彼の短歌の指導者で、かの詩集「月に吠える」は彼に捧げられている)宛年賀状に初出する。以下に示す(筑摩版全集書簡番号一二。消印一月五日前橋。「大坂府河内郡三木本村字南木本 萩原榮次樣」宛。)。

   *

 昨年中の御無沙汰平に御海容被下度願上候

              まへばしニテ

                     朔太郎

 

賀正

 赤城山かのこまだらに雪ふれば 故郷びとも門松を立つ、

   *

なお編者注には、夕暮れの山村風景を描いた版画の絵葉書で「松川」の印がある、とある。無沙汰の挨拶は表書きの下、後半の年賀と短歌はその版画の余白に記されてある。]

蒼白い きりぎし   八木重吉

蒼白い きりぎしをゆく

その きりぎしの あやうさは

ひとの子の あやうさに似る、

まぼろしは 暴風(はやて)めく

黄に 病みて むしばまれゆく 薰香

 

惱ましい まあぶるの しづけさ

たひらかな そのしずけさの おもわに

あまりにもつよく うつりてなげく

悔恨の 白い おもひで

 

みよ、悔いを むしばむ

その 悔いのおぞましさ

聖榮のひろやかさよ

おお 人の子よ

おまへは それを はぢらうのか

 

[やぶちゃん注:太字「まあぶる」は底本では傍点「ヽ」。]

鬼城句集 冬之部 寒鮒

寒鮒    寒鮒を突いてひねもす波の上

2014/01/27

萩原朔太郎 短歌六首 明治四三(一九〇二)年六月

淸元の神田祭のメロデイに似たる戀しぬたちばなの花

 

行く春の淡き悲しみいそつぷの蛙のはらの破れたる音

 

忘られず活動寫眞の幕切れにパリの大路を横ぎりしひと

 

しかれども悲劇の中の道化役の一人として我は生くべき

 

わが妹初戀すとは面白しオーケストラの若き笛ふき

 

日まはりの雄々しき花も此の國の人はかなしく捨てたまふ哉

 

[やぶちゃん注:『創作』第一巻第四号・明治四三(一九〇二)年六月号に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。二首目の太字「いそつぷ」は底本では傍点「ヽ」。『創作』は同年三月に若山牧水(当時満二十五歳)が編集者として創刊した文芸総合雑誌で、当時、全文壇の注目を集めたが、版元との意見が合わず翌年九月に廃刊となった。]

中島敦 南洋日記 十二月十二日

       十二月十二日(金) 曇、細雨、後晴

 今朝未明に出帆せるものの如し。將棋。救命胴衣をつけて避難練習。午睡。三時のラヂオよく聞えず。讀書室のコスモポリタンを讀み、BUNRAEUの寫眞を見る。夜に至る迄潛水艦現れず。

 Everything is hunky-dory. とは Everything is all right. の意なり。この slang は横濱の本町通が分れば、船に歸る路が判り、即ち all right なりとて、米國水夫の言ひ慣はしより起りしものとぞ。ホンチョウドホリがハンキイ・ドーリとなりしものなり。

[やぶちゃん注:以下一行空けで、底本では長歌は全体が一字下げ。]

 

鱶が栖む 南の海の 綠濃き 島山陰ゆ 山菅の やまず、しぬばゆ、あきつ島大和の國に 吾を待たむ 子等がおもかげ。桓はも さきくあらむか 格はも 如何にあらむと あかねさす 晝はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに、はしきやし 桓が姿 あからひくさ丹づらふ 格が頰の まなかひに 去らずかかりつ、うまじもの あべ橘の たををなる 枝見るごとに 時じくの かぐの木の實が 黄金なす 實を見るなべに みくだもの 喜び食(を)さむ 子等が上、常し思ほゆ、椰子高き 荒磯(ありそ)の眞砂 檸檬咲く 丘邊を行けど、ぬばたまの 黑き壯漢(をのこ)が 棹させるカヌーに乘れど、沖つ浪 八重の汐路を はろばろに 子等と離(さか)りて 草枕 旅にぬる身は不樂(さぶ)しさの 日(ひ)に日(ひ)に益(まさ)り 戀しさの 甚(いた)もすべなみ にはたづみ 流るゝ涙 とゞめかねつも、

反歌無し、     (於鎌倉丸一四二號船室)

[やぶちゃん注:敦の正式な長歌形式の和歌は現存するものではこの一首のみと思われる。以下、一部は屋上屋であるが、私のやぶちゃん版中島敦短歌全集 附やぶちゃん注の本長歌について注した内容をほぼ転載して注に代える。

hunky-dory」はアメリカ口語の形容詞で「すばらしい」「最高の」の意で、この単語自体が“Everything is OK”・“excellent”、則ち総てに於いて申し分がない、すべてついて満足の謂いを持つ。ここで敦が語る語源説は眉唾と思われる方もあろうかと思うが、個人ブログ「Jackと英語の木」の「横浜はOkey-dokeyでHunky-doryだよ。英語になった横浜本町通り。」を読むと、どうして、十分に信じ得る語源説であることが分かる。敦はここまでの日記本文では大戦の勃発直後ながら、一見、泰然自若とまではいかないまでも、意識的に平常の生活をしようと心掛けているように思われるが、この異例の山上憶良ばりの長歌の作歌には、単なる妻子や故国への思慕憧憬以上に、この今始まったばかりの戦争が意味するところの「相當に危險ならんか」(十二月十日附日記)という不吉な危惧が通奏低音のように流れているように思われてならない。

「山菅の」「やま」と同音で「止まず」にかかる枕詞。

「桓」は「たけし」で敦の長男。当時満八歳。

「格」は「のぼる」で敦の次男。当時未だ満一歳と十ヶ月程。

「しみらに」副詞。一日中断え間なく。絶えずひっきりなしに。

「はしきやし」は「愛しきやし」で形容詞「愛(は)し」の連体形に間投助詞「やし」がついたもの。愛おしい、懐かしいの意。

「あからひく」は「赤ら引く」明るく照り映える。また、この意から「日」「朝」にかかる枕詞であり、二男の名格(のぼる)のそれ(昇る朝日)に準じさせようとしたものか。

「さ丹づらふ」(「つらふ」は「頬(つら)」の動詞化とされる)赤く照り映える意で、通常は「色」「黄葉(もみぢ)」「君」「妹」などの枕詞であるが、ここはその原義を生かした。

「うまじもの」は「うましもの」の誤り。美味しいものの意から「阿部橘」に掛かる枕詞。「馬じもの」では馬のようなさまをして、となってしまう。

「阿部橘」柑橘類。

「時じくの かぐの木の實」「非時の香の菓」で橘の実のこと。夏から早春まで永く枝にあって香りが消えないことに由来する。

「みくだもの」「実果物」か、果物に美称の接頭語を附したものか。私は後者で採る。

「不樂(さぶ)しさ」淋(さぶ)しさ。心が楽しくなく晴れないこと。「不樂」で「さぶし」と訓ずるのは「万葉集」の上代特殊仮名遣である。

「甚(いた)もすべなみ」「甚もすべ無み」で、「甚も」は上代の副詞(形容詞「いたし」の語幹+係助詞「も」)で甚だしくも・大変の意、「すべなみ」(「なみ」は上代語で形容詞「なし」の語幹+原因理由の意を表す接尾語「み」)は「術無み」で仕方がないので、の意。「思ひあまり甚もすべ無み玉たすき畝傍の山にわれは標結ふ」(「万葉集」巻之七・一三三五番歌・作者不詳)など上代歌謡にしばしば見られる語法。

「にはたづみ」「潦」で原義は雨が降って地上に溜って流れる水。そのさまから「流る」「すまぬ」「行方しらぬ」等に掛かる枕詞となったもの。]

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海蝦

読みと注に不満があったのでリロードする。



海蝦 本草載曰有小毒此ヱヒ伊勢ヨリ多ク來ル故

伊勢蝦ト號ス江戸ニハ鎌倉ヨリ來ル故鎌倉ヱヒト稱

ス諸州ニモ往々有之此ヱヒ最大ニシテ味ヨシ歷久タルハ

有毒不可食國俗春盤用之

〇やぶちゃんの書き下し文

海蝦(イセヱビ) 「本草」に載せて曰く、『小毒有り。』と。此のゑび、伊勢より多く來たる故、伊勢蝦と號す。江戸には鎌倉より來たる故、鎌倉ゑびと稱す。諸州にも往々之有り。此のゑび、最も大にして味よし。久しきを歷(へ)たるは毒有り、食ふべからず。國の俗、春盤(しゆんばん)に之を用ふ。

[やぶちゃん注:抱卵(エビ)亜目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ Panulirus japonicas。他に私の電子テクストである寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(蟹類を含む「巻第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」ではないので要注意)の「紅鰕 いせゑび かまくらゑび」も参照されたい。

「海蝦」の「イセヱビ」というルビは底本では左ルビである。

「本草」「本草綱目」。鱗之部四「海蝦」に『氣味。甘、平、有小毒。時珍曰同豬肉食、令人多唾』(氣味、甘にして平、小毒有り。時珍曰く、豬肉と同じうして食すれば、人をして多唾せしむ)とある。

「伊勢蝦」ウィキの「イセエビ」の文化の項によれば、伊勢海老の名称がはじめて記された文献は永禄九(一五六六)年の「言継卿記」(ときつぎきょうき:戦国期の公家山科言継の大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の間の約五十年に渡る日記。)であると考えられているとある。

「鎌倉鰕」例外を注記するならば、カマクラエビは関東に於いてイセエビを指すが、和歌山南部ではイセエビ下目セミエビ科ゾウリエビ Pariibacus japonicas を指すと「串本高田食品株式会社」の以下のページにある。

「春盤」民間に於いて、知己に立春の挨拶として贈る祝い物で、生菜などを盤の上に載せたものという(私は見たことがない)。ウィキの「イセエビ」の文化の項によれば、江戸時代には井原西鶴が貞享五・元禄元(一六八八)年の「日本永代蔵」四の「伊勢ゑびの高値」や元禄五(一六九二)年の「世間胸算用」に於いて江戸・大阪で諸大名などが初春のご祝儀とするために伊勢海老が極めて高値で商われていた話を書いているとあり、元禄一〇(一六九七)年の「本朝食鑑」(医師人見必大(ひとみひつだい)が元禄五(一六九二)年に著した遺稿を子である人見元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成を受けて五年後に刊行した食物本草書)には『伊勢蝦鎌倉蝦は海蝦の大なるもの也』と記されており、海老が正月飾りに欠かせないものであるとも紹介しているとした後にこの「大和本草」の記載を紹介している。以下、『イセエビという名の語源としては、伊勢がイセエビの主産地のひとつとされていたことに加え、磯に多くいることから「イソエビ」からイセエビになったという説がある。また、兜の前頭部に位置する前立(まえだて)にイセエビを模したものがあるように、イセエビが太く長い触角を振り立てる様や姿形が鎧をまとった勇猛果敢な武士を連想させ、「威勢がいい」を意味する縁起物として武家に好まれており、語呂合わせから定着していったとも考えられている』とあって、さらに『イセエビを正月飾りとして用いる風習は現在も残っており、地方によっては正月の鏡餅の上に載せるなど、祝い事の飾りつけのほか、神饌としても用いられている』と記す。]

ブログ・アクセス540000突破記念 サイト完全版大手拓次詩集「藍色の蟇」(やぶちゃん注附初版再現版)+縦書版

ブログ・アクセス540000突破記念としてサイト完全版・大手拓次詩集「藍色の蟇」(やぶちゃん注附初版再現版)+縦書版を「心朽窩 新館」に公開した。ブログ版をルビ化し、細部をブラッシュ・アップして、少なくとも現在、出版されているもの及びネット上に存在するところの、大手拓次詩集「藍色の蟇」を標ぼうするものの中では、最も原本に忠実なテクストである自信はある。豪華な装幀も詩と一緒にご覧あれ。

本日

昨夜半よりちょっと大きなテクスト編集に入っている。今日は夕刻に妻の新しい杖を受け取りに行かねばならぬが、それまでに公開したいと考えている。――と書いた途端に先方の手違いで受け取りが延期になったので確実に公開出来る、乞うご期待。

杉田久女句集 33 古日傘と蚊帳

照り降りにさして色なし古日傘

 

麻蚊帳に足うつくしく重ね病む

 

稻妻に面をうたす蚊帳かな

 

母の帶卷きつゝ語る蚊帳の外

 

コレラ怖ぢ蚊帳吊りて喰ふ晝餉かな

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年の作。この二年前の大正五(一九一六)年の夏、本邦ではコレラが流行、死者七千四百八十二人を数えた。これは呪(まじな)いではなく、れっきとしたコレラ感染予防の蠅対策で、小児の昼寝の際などには奨励された。]

 

蚊帳の中團扇しきりに動きけり

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 忌籠り

 忌籠り

 

忌に籠り野(ぬ)の曼珠沙華ここに咲けり

 

曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 

曼珠沙華あしたは白き露が凝る

 

露のあさ忌にゐてをみなは髮を梳く

 

露のあさ帶も眞黑く喪の衣(きぬ)なり

 

曼珠沙華けふ衰へぬ花をこぞり

こころ 暗き日   八木重吉

やまぶきの 花

つばきのはな

 

こころくらきけふ しきりにみたし

やまぶきのはな

つばきのはな

鬼城句集 冬之部 鷹

鷹     鷹老いてあはれ烏と飼はれけり

      老鷹のむさぼり食へる生餌かな

      老鷹の芋で飼はれて死ゝけり

      椋鳥や大樹を落つる鷹の聲

2014/01/26

栂尾明恵上人伝記 70

 同四〔壬辰〕正月上旬の比より所勞次第重く成りて憑(たのみ)なき體(てい)なり。病中に常に結跏趺坐(けつかふざ)して入定(にふぢやう)、其の間彌勒の帳(とばり)の前に安置する處の土砂、忽ちに紺靑(こんじやう)色の如くにして、光焰(くわうえん)相具して其の室に散在せるを見る。入定の隙には法門を説いて、諸衆を誠め、沒後(もつご)の行事を定め給ふ。

[やぶちゃん注:「同四〔壬辰〕正月」寛喜四(一二三二)年一月。この年は四月二日に貞永元年に改元されている。この一月十九日に明恵は示寂する。

「入定」は広義の真言密教に於ける究極的修行の呼称で、一切の妄想を捨て去り、弥勒出世の時まで衆生救済を唯一の使命とする絶対安定の精神状態に入ることを指すが、ここでは最早、原義としての生死の境を超越して悟りを得ることと同義的なニュアンスである。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 海水浴場

    ●海水浴場

富士見橋を西に渡りて新宿に出で、養神亭と呼減る旅館の下を左りに沿うふて來れば、波の音と名もいと高き逗子の海濱、廣漠としたる海水浴場に出づ。

逗子停車場より此處まで僅々十町足らずの行程、海濱弓形を爲して、西には豆相翠巒煙の如く、富岳の雲表(うんへう)に聳ゆるを仰ぎ右には鎌倉の海濱、遠く大磯小磯打ち越して、小田原に連なるを望むべく、江の島は呼べば應ふるの間近に浮びて、靑松白砂の磯つゞき、干潟三町許(ばかり)、浪(なみ)平穩(おだやか)にしてそこは一面の眞砂(まさご)白く波の洗ふにまかせつ。

濱邊に葭簀(よしず)繞(めぐ)らしたる小屋あり、浴客(よくかく)は此内に衣物懸け置くを例となせり。

偖(さ)て男となく女となく、悉(み)な麥藁笠(むぎわらかさ)を被り、白き肌着を身にまとひて、折りかへる波を避くるもあれば、足を空にして碎くる波を蹴りゆくもあり、水沫(みづあは)を飛ばし合ひて、泳ぎ競べするは、何れかの學生なるべく、板(いたこ)を前にして辛(から)うして泳げるは某華族の姫君にもやあらむ、斯く海士が子のさまを學ぶも、身を健康に保たんと樂(ねが)へばこそ、父は蟹を捕へて持ち來れば、小兒は砂地に池を堀り山を作りて傍目(わきめ)もふらず、時々潮來りて築きし山を洗ひ去れは、小兒はあれよあれよと呼ぶ。

[やぶちゃん注:「十町足らず」凡そ一キロメートル。この冒頭の記述のような迂回路では無理だが、事実現在、最短コースをとれば横須賀線逗子駅から約一キロメートルで逗子海岸に出られる。

「三町許」三二八メートル前後。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合(2) ゾウリムシ~本文追加リロード

昨日公開した部分が、切れ目が上手くないことに気付いたので、本文を追補し、挿絵の位置も変更した。

Zourimusibunnretu

[「ざうり蟲」の分裂]

 

 花瓶内の古い水を一滴取つてこれを顯微鏡で調べて見ると、その中に長楕圓形で全身に纖毛を被つた蟲が活潑に泳ぎ廻つて居るが、これは「ざうり蟲」と名づける一種の原始動物である。體の前端に近い方の腹側に漏斗狀の凹みがあるが、これはこの蟲の口であつて、黴菌や藻類の破片などの微細な食物が絶えずこゝから體内へ食ひ入れられる。常に忙しさうに泳ぎ廻つて食物を探し求め、砂粒などに衝き當ればこれを避けて迂廻し、更にあちらこちらと游ぐ樣子を顯微鏡で覗いて居ると、如何にも運動も活潑、感覺も鋭敏であるやうに思はれ、まるで鼠か「モルモット」でも見て居るやうな心持がする。かく絶えず食物を求めてこれを食ひ、漸々生長して一定の度に達すると體が二つに分れて二疋となるが、その際にはまづ核が縊れて二つとなり、一個は體の前方に一個は體の後方に移り、次に身體が横に縊れて恰も瓢簞の如き形になり、終に切れて二疋の離れた蟲となつてしまふ。「ざうり蟲」の蕃殖法は通常はかやうな簡單な分裂法によるが、しかしこの方法のみによつていつまでも繁殖し續けることは出來ぬらしい。或る人の實驗によると、以下に食物を十分に與へ生活に差支のないやうに注意して飼うても、分裂生殖を何度も繰り返して行うて居ると、蟲が段々弱つて來て、身體も小さくなり勢も衰へ、二百目か三百代目にもなると、終には自然に悉く死に絶える。しからば「ざうり蟲」が實際種切れにならずに、どこにも盛に生活して居るのは何故であるかといふに、これは分裂生殖を續ける間に折々系統を異にする蟲が二疋づつ寄つて接合するからである。接合によつて二疋の蟲が體質を混じ合せると、一旦衰へかゝつた體力を囘復し勢が盛んになつて、更に分裂によつて繁殖し續け得るやうになるのである。

[やぶちゃん注:「ざうり蟲」クロムアルベオラータ界 Chromalveolata アルベオラータ Alveolata 亜界繊毛虫門貧膜口(梁口)綱ゾウリムシ目ゾウリムシ科ゾウリムシ Paramecium 属。ウィキの「ゾウリムシ」によれば、『水田や沼や池など淡水の止水域に分布する。細胞表面の繊毛により遊泳するため、単細胞生物としては移動力が大きい。障害物などに接触すると、繊毛逆転により遊泳方向を反転する(後退遊泳)』。細胞の長さは 90~150マイクロメートル、幅は40マイクロメートル程度で、『名前は平たい印象を与えるが実際には円筒形に近く、中腹には細胞口というくぼみがややねじれるように入っている。細胞表面には約3500本の繊毛を持っており、ゾウリムシはその繊毛を使って泳ぐ。繊毛は体表の繊毛列にそって生えている。ゾウリムシの繊毛は細胞全体にほぼ均一に生えているが、細胞口の奥の部分では細胞咽頭に向けて特殊な配置と動きが見られる。細胞口の奥には細胞内へ餌を取り込む細胞咽口があり、餌はここを通って食胞に取り込まれる。食胞内で消化が行われ、有用な成分は細胞内へ吸収されながら、食胞は細胞内をぐるっと回るように移動する。排泄物は細胞後方の細胞肛門から放出される』。『細胞の前後には、大きな星形もしくは花に見える放射状の細胞器官がある。これを収縮胞と言い、細胞内の浸透圧調節を担っている。収縮胞は中央の円形の部分と、周囲に花びらのように並ぶ涙滴型の部分からなる。水の排出時にはまず涙滴型の部分に水が集まり、ここから中央の円形の部分に水が移され、細胞外に水が放出される』。『細胞内には大小2つの細胞核があり、それぞれ大核と小核と呼ばれる。大核は普段の活動に関わる。小核は生殖核とも呼ばれ、有性生殖に関して働くとされる。細胞内に機能的に分化した核を持つのは繊毛虫類の特徴である』。『ゾウリムシは主に細菌類を餌とする。ただし近似種のミドリゾウリムシ(Paramecium bursaria)は、体内に緑藻であるクロレラを共生させており、光合成産物の還流を受けて生活することも可能である。逆にゾウリムシの捕食者は大型のアメーバや、ディディニウム(Didinium、シオカメウズムシ)といった他の繊毛虫である。ディディニウムは細胞前端の口吻部にエクストルソーム(extrusome)と呼ばれる射出器官を持っている。捕食時にはこれをゾウリムシに打ち込んで動きを止め、細胞全体を飲み込んで消化する』。『無性生殖は分裂による。他の繊毛虫同様、体軸方向の前後の部分に分かれるようにして分裂する。有性生殖としては細胞の接合が行われるが、その方法はやや特殊である。接合に先立ち、大核が消失するとともに生殖核である小核が減数分裂を行い、4つの核に分かれる。この内3つは消失し、残った一つがさらに2つに分裂し、この内の1つの核を互いに交換する。その後それぞれの細胞内の2核が融合することで接合は完了する。この間、2個体のゾウリムシは互いに同一方向を向いて寄り添うが、細胞間に連絡を持つだけで細胞そのものの融合は行われない。なお接合後、大核は小核を元にして改めて形成される』とある。]

Zourimusisetugou

[「ざうり蟲」の接合]

 

 かやうに二匹の「ざうり蟲」が接合する所を見るに、まづ腹と腹とを合せ、口と口とで吸ひ附き、互に出來るだけ身體を身體を密接せしめ、次に腹面の一部が癒合し、身體の物質が相混ずる。この際最も著しいのは核が複雜な變化をすることであるが、結局いずれの蟲も核が二分し、一半はその蟲の體内に留まり、一半は相手の蟲の體内に移り行いてその内にある核と結び付き、兩方ともに新たな核が出來る。これだけのことが濟むと、今まで相密接して居た二疋の蟲は再び離れて、各々勝手な方へ游いで行き、さらに盛に分裂する。そしてかく接合するのは必ず血緣の稍々遠いもの同志であつて、同一の蟲から分裂によつて蕃殖したばかりのものは決して互に接合せぬ。それ故一疋の「ざうり蟲」を他と隔離して飼うて置くと、たゞ分裂して蟲の數が殖えるだけで、一度も接合が行なわれず、後には漸々體質が弱って來る。そこへ別の器に飼うてあつた別の「ざう川蟲」の子孫を入れてやると、非常に待ち焦れて居たかの如く、悉く相手を求めて同時に接合する。これから考へて見ると、接合とは幾分か體質の違つたものが二疋寄つてその體質を混じ合ふことで、體質の全く相同じものの間にはこれを行つてもなんの功もなく、また實際に行はれることのないものらしい。繪の具でも、紅と靑とを混ぜれば紫といふ別の色となるから、混ぜた甲斐があるが、同じ紅と紅とを混ぜても何の役にも立たぬのと恐らく同じ理窟であらう。

[やぶちゃん注:「移り行いて」はママ。講談社学術文庫版はこのままで「移り行(ゆ)いて」とルビするが、「ゆきて」のイ音便としても一般的な表現ではなく、徹頭徹尾いじくってしまっている講談社版が、わざわざこれをそのまま採るというのは如何にも私には不審である。]

耳嚢 巻之八 口中妙藥の事

 口中妙藥の事
 昆布を煎じて口中を洗(あらひ)、西瓜の上の皮を黑燒にして附(つけ)れば奇々妙々治す。舌疽を愁(うれひ)し人に施せしに立所(たちどころ)に治せしと、官位長嶋某密(ひそか)に傳之(これをつたふ)。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。
・「昆布」昆布自体の黒焼きが口内炎に効果があるという記載がネット上には散見される。口臭予防薬としての効能も挙げられてある。
・「西瓜の上の皮」ネット上の記載には西瓜の皮を焦がして粉にして口に含むと口内炎に効くとあり、また現在の漢方では西瓜の皮は重要な薬の原料でコレステロール減少効果や血管拡張作用を持つともある。
普通、私たちは、果肉だけを食べて皮は捨ててしまいますが、中国では皮を漬け物にしたり、前菜料理に使ったり、フルに利用されています。
皮の部分に、栄養が多いことを考えれば、実に合理的なムダのない利用法といえます。
・「官位」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『官医』とする。底本の鈴木氏注に、『長島家は瑞得が半井驢庵の門人で綱吉に仕え、五世の孫秀門(ヒデユキ)は、名を元説といい、天明五』(一七八五)『年番医となった』とある。番医は番医師で若年寄支配、営中の表方にあって医療を受け持ち、また、桔梗の間に宿直して不時の際の治療に当たった官医のこと。
■やぶちゃん現代語訳
 口内炎の妙薬の事
 昆布を煎じたもので口の中を洗浄した後、西瓜の一番上の部分の皮を黒焼きにしてつければ、信じ難いほどに即効で治る。
「舌に出来た腫れ物を愁えていた患者にこの処方を施したところ、立ち所に治癒致いた。」
と御番医師の長嶋某殿、こっそりとこの処方を私に伝えて下された。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 3 市中嘱目2

M303
図―303
 

 私は一人の男が紙に艶(つや)を出しているのを見た。竹竿の一端にすべっこい、凸円の磁器の円盤がついていて、他の一端は天井に固着してあるのだが、天井が床を去ること七フィート半なのに、竹竿は十フィートもあるから、竿は大いに攣曲している。その結果磨滑常に大きな力が加わり、人は只竹の端を紙の上で前後に引張りさえすればよい(図303)。いろいろな仕事をやる仕掛が、我々のと非常に違うので、すぐに注意を引く。彼等は紙に艶を出す装置のように、竹の弾力によって力を利用する。また私は二人の小さな男の子が、ある種の堅果か樹皮かを、刻むのを見た。刻み庖丁は、丸い刃を木片にくっつけた物で、この木片から二本の柄が出ていて、柄の間には重い石がある(図304)。子供達は向きあって坐り、単に刻み庖丁を、前後にゴロゴロさせるだけであった。

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図―304

[やぶちゃん注:ここに現れた二種の器具について(後者は薬研のそれに錘が附いているもののようには見える)知らない。識者のご教授を乞う。

「七フィート半」約2メートル29センチ。

「十フィート」約3メートル。]

中島敦 南洋日記 十二月十一日

        十二月十一日(木) 晴、

 目さむれば、船は依然昨日と同じくサイパン沖にあり。朝將棋、デッキ散歩、十一時過漸くテニアンに着く。

 上陸。西澤氏と街を歩き、ミルクを飮み、ようかんを食し、すしをくひ、落花生を買ふ。ひ雜貨店、食料品店をひやかす。ちなみに西澤氏は水産試驗所の技手にして毒魚の毒素について調査中の人なり。三時四十分歸船。就寢迄には船未だ動かず、朝鮮人人夫多數下船、

[やぶちゃん注:個人的にこの「西澤氏は水産試驗所の技手にして毒魚の毒素について調査中の人」に興味が湧く。ネット上で検索しても見当たらない。魚毒専門家の御教授を乞う。]

杉田久女句集 32 水色うちわ

四季の句のことに水色うちわかな

 

[やぶちゃん注:「水色うちわ」(「うちわ」はママ)は高級品の奈良団扇と思われる。「大呂俳句会」公式サイトの「季語散策3 団扇」に『淡い水色やほんのりとした鳥子(とりのこ)色が特徴で、奈良の風物である鹿や、正倉院に伝わる文様などが切り絵にされて貼ってある』とある(他に両面に漆を塗った岐阜特産の岐阜団扇の一種に、「水団扇」といって透けるように薄い雁皮紙にニスを塗って作られた団扇がある。耐水性が高いために水で濡らして煽ぐことで涼味を楽しむものらしいが、採らない)。季語そのものを詠唱の対象とした面白い一句である。]

 

なつかしき水色うちわ師の句かな

 

[やぶちゃん注:「水色うちわ」はママ。現在のところ、虚子の句に「水色うちわ」を詠んだ句を発見出来ない。識者のご教授を乞う。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 月光と菊

 月光と菊

 

颱風過しづかに寢(い)ねて死にちかき

 

死に近き面(も)寄り月の光(て)るをいひぬ

 

月光にいのち死にゆくひとと寢る

 

月光は美し吾は死に侍りぬ

 

夫(つま)うづむ眞白き菊をちぎりたり

 

菊白く死の髮豐かなりかなし

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年、一月に小倉の櫓山荘へ一家で避寒したが、その帰阪後に夫豊次郎は発病、同年九月三十日に享年五十歳で逝去した。底本の堀内薫氏の年譜によれば、『療養していた数か月間、多佳子は、病弱の夫に付ききり、妻、秘書、看護婦、母と、虚弱な一身に数役を背負うて大任を果す。豊次郎は生前に墓を作り、自分と多佳子との戒名を刻み、年月日を入れればよいようにしておいた。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく』とある。]

萩原朔太郎 短歌四首 明治四三(一九〇二)年四月

民はみなかちどきあげぬ美しき捕虜(とりこ)の馬車のまづ見えしとき
寒き風吹くと思ひぬ故郷の赤城の牧の古榎より
幼き日パン買ひに行きし店先の額のイエスをいまも忘れず
二月や笛の稽古に通ひたる故郷の町の橋のうす雪
[やぶちゃん注:『スバル』第二年第四号(明治四三(一九〇二)年四月発行)に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。第一首はキリストの捕縛後の情景か。「馬車」というのが私には解せないのであるが。]

空が 凝視(み)てゐる   八木重吉

空が 凝視(み)てゐる

ああ おほぞらが わたしを みつめてゐる

おそろしく むねおどるかなしい 瞳

ひとみ! ひとみ!

ひろやかな ひとみ、ふかぶかと

かぎりない ひとみのうなばら

ああ、その つよさ

まさびしさ さやけさ

 

[やぶちゃん注:「凝視(み)てゐる」の「み」のルビは「凝視」の二字に対して附されてある。]

鬼城句集 冬之部 寒雀

寒雀    枯枝に足踏みかへぬ寒雀

2014/01/25

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 六代御前墓 

    ●六代御前墓

田越川邊小名柳作に在り、塚の高さ五間、上に槻樹あり、圍二丈餘、樹陰に碑を建(たて)、六代御前墓と銘す、近き頃水戸の士齋藤仁左門の建る所なり、側に五輪の舊碑ありしも今は破壞す、六代は小松三位中將維盛の嫡男なり、文治元年十一月二十一日北條時政に虜(りよ)せられ、已に誅せらるべきを、文覺上人師弟の昵みある由を以て、再三請ふ是に依(よつ)て暫く宥められ、則上人に預けらる、是より高雄山に居住剃髮して、三位禪師と號し、法名妙覺と云、文覺流罪の後又た召捕られ、當所にて誅せらる事は平家物語に詳なり。但異本平家物語には〔中院本〕鎌倉六浦坂(むつらさか)にて誅せらると云、保曆間記には芝と云ふ所なりと記す。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げでポイント落ち。]

平家物語曰、六代御前は三位禪師とて、高雄の奥に行すまして御座しけるを、鎌倉殿さる人の子なり、さる人の弟子なり、假令頭を剃玉ふとも、心をば剃り玉はずとて、召捕ふて失ふべき由、公家へ奏聞申されたりけれは、頓て判官助兼に仰て、召捕ふて關東へそ下されける、駿河國の住人岡部權守安綱に仰て、相摸國田越川の端にて、遂に切られにけり。十二の年より三十に餘るまで保ちたるは、偏に初瀨の觀音の利生とそ聞へし。平家物語中院本曰、六代御前の事、右大將も御かくれありぬ、又文覺も流され給て後、鎌倉に其沙汰ありて、平家の正統なり、文覺坊もなし、打捨て難しとて、官人助高に仰て搦取て、駿河國の住人岡部三郎太夫か手にかけて、鎌倉の六浦坂にて、二十九の年終に斬られ給ひぬ、十二の年より二十九まで活けるは、長谷寺の觀音の御計ひにそ覺えたる、夫よりしてぞ、平家の子孫は、斷えにける、保曆間記に曰、正治元年四月、高雄文覺坊土佐の國へ流さる彼聖に預置れし六代殿、出家して山々寺々修行せられけるを、世の末になる事も有べしやとて、尋ね出し鎌倉へ下し進じで、芝と云ふ所にて被誅畢りぬ。按ずるに當所墳墓あるは。平家物語に記す所是なるべし。

[やぶちゃん注:「六代御前」は平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年)。平重盛嫡男維盛の嫡男で平清盛曾孫。六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名。「平家物語」の「六代斬られ」等、「平六代」で記載されることが殆どである。寿永二(一一八三)年の都落ちの際、維盛は妻子を京に残した。平氏滅亡後、文治元(一一八五)年十二月、母とともに.嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜伏しているところを北条時政の探索方によって捕縛された。清盛直系であることから鎌倉に護送・斬首となるはずであったが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて文覚預りとなった。文治五(一一八九)年に剃髪、妙覚と号し、建久五(一一九四)年には大江広元を通じて頼朝と謁見、二心無き旨を伝えた。その後は回国行脚に勤しんだが、頼朝の死後、庇護者文覚が建久十(一一九九)年に起こった三左衛門事件(反幕派の後鳥羽院院別当たる土御門通親暗殺の謀議疑惑)で隠岐に流罪となるや、六代も捕らえられて鎌倉へ移送、この田越川河畔で処刑された。享年二十七歳であった。没年は建久九(一一九八)年又は元久二(一二〇五)年とも言われ、斬首の場所も「平家」諸本で異なっている(以上は主にウィキの「平高清」を参照した)。彼及び御最期川(現在の田越川)については「新編鎌倉志卷之七」の「多古江河〔附御最後川〕」及び「六代御前塚」の条と私の注を参照されたい。

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十六】――幕府軍、尾張一の宮に着き布陣、武田・佐々木両将の元へ官軍への参入を求める院宣を持参した院使来訪するも殺傷す。武田、武藤新五に命じ、大炊の渡しの瀬踏みをさせる

東海道の先陣相模守時房は、六月五日の辰刻に、尾張國一の宮に著陣して、軍の手分をせられけり。東山道より押上る大將は、武田五郎父子八人を初として、其勢五萬餘騎何も聞ゆる勇士共なり。武田既に本國を出る日は、十死一生とて極(きはめ)たる惡日なり。「如何あるべき。只明日軍立(いくさだち)し給へかし」と申す者多かりけり。武田五郎いひけるは、「何條さる事のあるべき。侍の軍に向ふ程にては命生きて歸るべしとは覺えず。是こそ吉日なれ」とて勇進みて上りしが、既に市原に陣を取る。かゝる所へ院宣の御使とて、武田五郎、小笠原次郎兩人が中へ三人までぞ下されける。「一天の君の思召し立ち給ふ此度の御大事に、爭(いかで)か御敵と成りて内侍所に向ひ奉り、矢を發つべき道なし。只とく東方に參りて朝敵を討ちて奉れ」とありければ、小笠原即ち武田が方へ使を以て、「如何御計ひ候」と云はするに「只切りて捨て給へ」と云ふ。「信光もさこそ思へ」とて三使の中に、二人は首を刎ねて、一人は追放(おひはな)ちて京都にぞ歸しける。武田五郎が郎等に、武藤新五と云ふ者あり。水練の達者なり。「大炊渡(おほひのわたり)瀨蹈(せぶみ)して見よ」と云ひければ「畏(かしこま)り候」とて渡の瀨蹈仕果(しおほ)せて歸り乗る。「河の西の岸極て高く、輒(たやす)く馬を扱ひ難く、水底(すゐてい)七八段(たん)に菱を種(うゑ)流し、亂株逆茂木(らんぐひさかもぎ)を打ちて候を、馬四五疋を上げ候程菱を取捨て亂株を払捨て、驗(しるし)を立てて置きたり」と申す。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十六】――幕府軍、尾張一の宮に着き布陣、武田・佐々木両将の元へ官軍への参入を求める院宣を持参した院使来訪するも殺傷す。武田、武藤新五に命じ、大炊の渡しの瀬踏みをさせる〉

「武田五郎」武田信光(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)。既注であるが再掲する。甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。

「十死一生とて極たる惡日」現在の暦注にも残る十死日(じっしび)のこと。陰陽道で、総てに大凶とする日で、特に戦闘・嫁取り・葬送に悪いとする。

「小笠原次郎」小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。甲斐源氏の一族加賀美遠光次男。信濃守護家小笠原氏の、また特に弓馬術礼法小笠原流の祖として知られる。先の武田信光とともに弓馬四天王の一人。

「七八段」「段」は「反」と同じで距離単位。一段(反)は六間(約十一メートル)であるから、七十七~八十八メートル。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号38~40のパート)の記載。

 

 六月五日辰時ニ、尾張ノ一宮ニ著テ、軍ノ手分ヲセラレケリ。大炊ノ渡へハ東山道ノ手向ハンズレバトテ、鵜沼ノ渡へハ毛利藏人入道、板橋へハ狩野介入道、氣ガ瀨へハ足利武藏守前司、大豆ノ渡へハ相模守時房、墨俣へハ武藏守・駿河守殿被レ向ケル。

 東山道ニ懸テ上ケル大將、武田五郎父子八人・小笠原次郎親子七人・遠山左衞門尉・諏方小太郎・伊具右馬人道・南具太郎・淺利太郎・平井三郎・同五郎・秋山太郎兄弟三人・二宮太郎・星名次郎親子三人・突井次郎・河野源次・小柳三郎・西寺三郎・有賀四郎親子四人・南部太郎・逸見入道・轟木次郎・布施中務丞・甕中三・望月小四郎・同三郎・兩津三郎・矢原太郎・鹽川三郎・小山田太郎・千野六郎・黒田刑部丞・大籬六郎・海野左衞門尉、是等ヲ始トシテ五萬餘騎、各關ノ太郎ヲ馳越テ陣ヲトル。

 其中に武田五郎、國ヲ立家ヲ出ル日、十死一生卜云フ惡日也。跡ニ留ル妻子ヲ始トシテ有ト有物、「今日計ハ留ラセ給ヒテ、明日立セ給へカシ」ト申ケレ共、武田五郎、「何條サル事ノ可レ有ゾ。タトヘバ十死一生トハ、多ク出テ少ク歸ルトゴサンナレ。軍ニ出ルヨリシテ、再ビ可ㇾ歸トハ不ㇾ覺。是コリ吉日ナレ」トテ、軈テ打立ケル。

 市原ニ陣ヲトル時ニ、武田・小笠原兩人ガ許へ、院宣ノ御使三人迄被ㇾ下タリケリ。京方へ參卜也。小笠原次郎、武田ガ方へ使者ヲ立テ、「如何ガ御計ヒ候ゾ。長淸、此使切ントコソ存候へ」。「信光モサコソ存候へ」トテ、三人ガ中二人ハ切テ、一人ハ、「此樣ヲ申セ」トテ追出ケリ。武田五郎、子共ノ中ニ憑タリケル小五郎ヲ招テ、「軍ノ習ヒ親子ヲモ不ㇾ顧、マシテ一門・他人ハ申ニヤ及。一人拔出テ前ヲカケ、我高名セント思フガ習ナリ。汝、小笠原ノ人共ニ不ㇾ被ㇾ知シテヌケ出テ、大炊ノ渡ノ先陣ヲセヨト思ハ如何ニ」。「誰モサコソ存候へ」トテ、一二町拔出テ、野ヲフムヤウニテ、其勢廿騎計河バタヘゾ進ケル。武田小五郎ガ郎等、武藤新五郎卜云者アリ。童名荒武者トゾ申ケル。勝レタル水練ノ達者也。是ヲ呼デ、「大炊ノ渡、瀨蹈シテ、敵ノ有樣能見ヨ」トテ指遣ス。新五郎、瀬ブミシヲホセテ歸來テ、「瀬蹈コソ仕テ候へ。但、河ノ西方岸高シテ、輙ク馬ヲアツカヒ難シ。向ノ岸渡瀨七八段ガ程、菱ヲ種流シ、河中ニ亂株打、ツナハヘ、逆茂木引テ流懸、四五段ガ程、菱拔捨テ流シヌ。綱キリ逆茂木切テ、馬ノアゲ所ニハシルシヲ立テ、其ヲ守へテ渡サセ給へ」トゾ申ケル。武田小五郎、先ザマニ存知シタリケレバ、河ノハタへ進ム。]

栂尾明恵上人伝記 69 我が死なんずることは、今日に明日を繼ぐに異ならず

 同三年十月〔辛寅〕より所勞の氣(け)ありて不食(ふじき)に成り給ふ。上人語りて云はく、我が身に於いて、今は世間出世に付きて所作なし。存命(ながらへ)て久しくあらば、還て諸人の諍(あらそひ)を增すべし。云ふ所の法門は一々に人に似ず。佛説は三科・薀(うん)・處(しよ)・界(かい)の法門も人我無生の理を顯して、凡夫の我執(がしう)を翻せんが爲なれども、是を習ひながらますます我見を增長す。大乘無相(むさう)・無生(みしやう)の妙理、五法三性(しやう)の法門、又越(おつ)百六十心生廣大功德(しんしやうくわうだいくどく)と説き、本初不生阿字(ほんしよふしやうあじ)の密行(みつぎやう)、本尊の瑜伽(ゆが)も、徒に名相妄想(めいさうまうぞう)の塵(ちり)に埋もれて、空しく名利の棘(いばら)に隱れたり。聞くと聞く處佛法を囀(さへづ)るに似たれども、併(しかしなが)ら邊に住し邪に止りて、正慧(しやうゑ)の門戸(もんこ)開けたる詞(ことば)を聞かず。是を制して捨てしめば、名字の教法猶皆絶えぬべし。是を依止(えし)して尋ねんとすれば、佛道の直路(ぢきろ)すべて入門を知らず。佛道入り難く知識あひ難しと云ふこと、誠なるかなや悲しむべし、若し證果(しやうくわ)の聖者たらば、今は彼の阿難尊者の、若人生百歳不見衰老鶴(にやくにんしやうひやくさいふけんすゐらうかく)の偈(げ)を聞いて、入滅せしが如くに、入滅してまし。倩(つらつ)ら此の如き事を思へば、彼の法炬陀羅尼經(ほふこだらにきやう)の中に、過去十四億の如來に親近(しんごん)し奉ると云へ雖も、法を得ざる菩薩ありと説ける、誠に理(ことわり)なりと覺ゆ。何れの世何れの生にか佛法の大意を得、如來の本意を知るべきや。十惡(じふあく)國に充ちて、賢者世を捨つる時は、山河併て其の濁(にごり)に染(そ)みて、國も國にあらず。然れば今は佛法も佛法にあらず、世法も世法にあらず。見るにつけ聞くに觸れても心留るべきに非ざれば、死せん程はよき期也。我が死なんずることは、今日に明日を繼ぐに異ならず。又人の大きなる所知庄園を得て出立する樣に覺ゆ。生處分明(しやうしよぶんみやう)なり。聖教の値遇、聞法の益、決定(けつぢやう)して疑なし。豈又千聖(せんしやう)の遊履(いうり)し給ふ處、知らざるにあらんやと云々。

[やぶちゃん注:ここにあるのは当時の(そしてより今の)仏教界宗教界のみならず現実世界への痛烈な指弾であると同時に、明恵の「あるべきやうは」というゾルレンの思想基づく、確信犯としての来世の還想回向の期待に満ち満ちてている。そしてそれがこの「我が死なんずることは、今日に明日を繼ぐに異ならず」という覚悟の確信の言葉となって出現しているのである。

「同三年」寛喜三(一二三一)年。明恵満五十八歳、入滅の前年。

「世間出世に付きても所作なし」俗世間の問題についても、また、現状の仏教界に於いても、やらねばならぬことは最早、なくなった。

「一々に人に似ず」それを聴いた人毎にその受け取り様はみな違っている。

「三科・薀・處・界」。「三科」は、以下の仏教に於ける一切法(この世に存在する一切のもの。この世界を世界たらしめているシステム)を分類した五蘊・十二処・十八界の三範疇を指す。五薀は色(しき)蘊(本来は人間の肉体を意味したが後に総ての物質の存在様態を包括する謂いとなった)・受蘊(感受作用)・想蘊(表象作用)・行蘊(意志作用)・識蘊(認識作用)を指し、十二処は感覚器官の認識作用で、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)意(い)の「六根」に、どの「六根」の対象(前項に順に対置する)であるところの色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)の「六境」を加えたものを指す。十八界は、この「十二処」に認識作用としての「六識」(やはり前掲に順次対置)眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を加えたものをいう。]

耳嚢 巻之八 廻文章句の事

 廻文章句の事

 

 文化の頃、俳諧の點者に得器といゝて滑稽の頓才なる有(あり)しが、田舍渡(わたり)せしころ、奉納の額に梅を畫て、お德女の面をかきしを出して、是一讀せよと申けるゆゑ、一通りにては面白からじと、即興に廻文(くわいぶん)の發句せし。

  めんのみかしろしにしろしかみのむめ

 達才の取廻しともいふべきか。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌技芸譚から俳諧技芸譚へ。

・「文化の頃」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏。因みに文化は十五年(一八一八)年までで同年に文政に改元している。

・「廻文」回文。和歌や俳諧などで上から読んでも下から逆に読んでも同じ音になるように作ってある文句。かいもん。

・「得器」方円庵得器。神田お玉ヶ池在住の江戸座の中の談林派俳諧に属した宗匠島得器。底本鈴木氏の注に『寛政ごろ活躍』したとある。

・「田舍渡」俳諧師の営業法の一つで、岩波版長谷川氏注には『田舎をまわり、揮毫や俳諧の指導などをし歩くこと』とある。

・「お德女の面」底本鈴木氏の注に、『原本には、本ノママと傍書あり(三村翁)。尊経閣本「お福女の面とある』とあるから、所謂、お多福の面である。

・「めんのみかしろしにしろしかみのむめ」は、

 面のみか白しに白し神の梅

である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 回文(かいもん)章句の事

 

 文化の頃、俳諧の点者にて方円庵得器(ほうえんあんとっき)と申し、滑稽の頓才が御座ったが、田舎渡りを致いて御座った頃のこと、とある地方の社(やしろ)にて、奉納の額にて、梅を描いたものにお多福の面を添え書きしたものを出だされて、

「これに一句詠まれよ。」

と申しつけられたによって、

「――これ――ただ一通りの発句にては、面白う御座るまい。」

と、即興に回文(かいもん)の発句をものしたと申す。

  めんのみかしろしにしろしかみのむめ

 いや、なかなかに達者なる才気の執り成しともいうべきものにて御座ろうか。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 2 市中嘱目1

M299
図―299

 

 今日、五月五日には、男の子の祭礼がある。この一事に就ては既に述べた。私は空中に漂う魚を急いで写生した。風が胴体をふくらませ、魚は同時に、まるで急流をさかのぼっているかの如く、前後にゆれる。一年以内に男の子が生れた家族は、この魚をあげることを許される(図299)。

[やぶちゃん注:「この一事に就ては既に述べた」『「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 13 鯉の滝登りの絵 / 端午の節句とこいのぼり』を参照されたい。]

M300

図―230

 

 男が小さな荷物を頸のまわりにむすびつけ、背中にのせたり、顎の下にぶら下げたりしているのは奇妙である(図300)。彼等は必ず、我国の古風なバンダナ〔更紗染手巾〕か、包ハンケチに似た四角い布を持っていて、それに包み得る物はすべてひっくるむ。私は一人の男が、彼の衣服のひだから、長さlフィートの包を引き出すのを見た。

[やぶちゃん注:「バンダナ」“bandanna”。底本では直下に石川氏の『〔更紗染手巾〕』という割注が入る。失礼乍ら今や最早、化石のような割注である。

「lフィート」三〇・四八 センチメートル]

 

  去年の六月に私が来た時と、今(五月)とは、景色がまるで違う。稲の田は黒いが、あちらこちらにに咲く菜種のあざやかな黄色の花に対して、よい背地をなしている。菜種からは菜種油をとる。桜と李が沢山あって、そして美しいことは驚くばかりであるが、而もこれ等の花の盛りは、すべて過ぎたのだそうである。我国の林檎の木ほどの大きさのある椿の木には、花が一面についていて、その花の一つ一つが、我国の温室にあるものの如く大きくて完全である。小さな赤い葉をつけた矮生の楓樹は、庭園の美しい装飾である。葉は緑になる迄、長い間赤いままである。野や畑は、色とりどりの絨氈のように見える。何から何までが新鮮で、横浜、東京間の往復に際して景色を眺めることは、絶間なきよろこびである。

 

 日本人がいろいろに子供の頭を剃ることは、我々がいろいろに我々の顔を剃る――髭(くちひげ)だけで鬚(あごひげ)が無かったり、鬚だけで髭が無かったり、両方の頰髭(ひげ)を残して顎を剃ったり、顎だけに小さな鬚(ひげ)をはやしたり、物凄く見せかける積りで、頰髭を両方から持って来て、髭を連結させようとしたりする――ことが、彼等に奇妙に思われると同様、我々には奇妙に思われる。莫迦(ばか)げている点では、どっちも大差はない。

M301

図―301

 

 図301は大工の長い鉋(かんな)で、傾斜をなして地面に置かれ、他端は木製の脚立にのっている。鉋をかけらるべき木は、鉋の上を前後に動かされるのだが、常に大工の方に向って引張られる。旅行家が非常に屢々口にする、物事を逆に行うことの一例がこれである。鉋の代りに木を動かし、押す代りに手前へ引き、鉋それ自身はひっくり返っている。

[やぶちゃん注:私はどう考えてもモースは誤解していると思うのだが……こんな置いて用いる巨大な据え付け型鉋が存在するというのはちょっとわつぃは聴いたことがないのである。識者のご教授を乞う。]

M302

図―302

 

 先日私が見た抽斗(ひきだし)が四つある漆塗の箱は、抽斗に取手がまるで無いという、変な物であった。抽斗がぴったりとはまり込んだ無装飾の、黒くみがき上げた表面があるだけなのだが、抽斗の一つを開けるには、開け度いと思う分の上か下かの抽斗を押すと、それが出て来る。抽斗の背後に槓杆仕掛(てこじかけ)があって、それによって抽斗はどれでも出て来ることが出来るのである(図302)。

[やぶちゃん注:「槓杆仕掛(てこじかけ)」原文“A lever device”。所謂、「からくり箪笥」と呼ばれるもの。同ワードで検索をかけるとなかなかに面白いものが陸続と出ますぞ!]

中島敦 南洋日記 十二月十日

        十二月十日(水) 晴

 午前十時、武德殿にて長官の訓示あり。急に、御用船鎌倉丸便乘と決る。高里氏は後に殘ることとなる。大急ぎで支度。ニュースによれば、パラオ港外にて敵潛水艇一隻を撃沈せりと。この航海相當に危險ならんか? 午後四時乘船。流石に巨船なり。乘船後のニュースによれば、シンガポールにて、我が海軍機、敵戰艦二隻を撃沈せりと。又曰く、本日、敵飛行機十パラオ空襲、但し全部撃墜さると。

 甲板上に群がる鮮人人夫。女、幼兒、十二月の朝鮮より來りしものとて、皆厚着せり。板の上に死物の如く伸び横たはれる子持の女。

[やぶちゃん注:「十二月の朝鮮より來りしもの」当時、朝鮮は日韓併合によって朝鮮総督府の統治下に置かれていたが、この頃の日本政府は未開発である朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出、これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し、日本本土への流入も抑えて本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとしていた(この部分、ウィキの「日本統治時代の朝鮮」の「概要」を参照した)。この南洋にやってきた朝鮮人の人々は日中戦争による治安の悪化を避けるためとも思われるが、いわばそうした本土外移民の積極政策の一環であったともとれるように思われる。]

杉田久女句集 31 洗ひ髮かわく間月の籐椅子に

洗ひ髮かわく間月の籐椅子に

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 天神祭

 天神祭

 

渡御まちぬ夕の赤光河にながれ

 

渡御の舟みあかしくらくすぎませる

 

[やぶちゃん注:大阪天満宮の天神祭であろう。同宵宮は七月二十四日、本宮は七月二十五日であるが、船渡御(ふなとぎょ)の景であるからこれらの句は昭和一二(一九三七)年七月二十五日に特定出来る。]

萩原朔太郎 短歌八首 明治四三(一九〇二)年一月

ばらばらとせまき路次より女どもはしりかかりぬにぐるひまなし 蒼、修、賢

 

たのしされどやや足らはぬよ譬ふれば序樂をきかぬオペラみるごと 

 

夕さればそぞろありきす銃機屋のまへに立ちてはピストルをみる 

 

死なんとて蹈切近く來しときに汽車の煙をみて逃げ出しき 

 

始めての床に女を抱く如きものめづらしき怖れなるかな 萬、賢

 

春の夜は芝居の下座のすりがねを叩く男もうらやましけれ 蒼、蕭、萬、晶、賢

 

祭の日寢あかぬ床に寺寺の鐘きく如きもののたのしさ 晶、萬、蒼、啄

 

ひるすぎの HOTEL の窓に COCOA のみくづれし崖のあかつちをみる 萬、修、修、賢

 

[やぶちゃん注:『スバル』第二年第一号(明治四三(一九〇二)年一月発行)に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。底本筑摩版全集の編者注によれば、各首の下は選者の略称で、『蒼(大井蒼梧)・修(平出修)・賢(川上賢三)・蕭(茅野蕭々)・萬(平野萬里)・晶(與謝野晶子)・啄(石川啄木)』とある。複数個は秀逸点か。以下、選者歌人のデータを示す。

・大井蒼梧(明治一二(一八七九)年?~昭和一二(一九三七)年)

・平出修(ひらいでしゅう 明治一一(一八七八)年~大正三(一九一四)年):弁護士で小説家・歌人。大逆事件の弁護人として知られる。

・川上賢三:明星以来の同人か。モ—パッサン「農夫の妻」の訳などがあるから仏文出身である。

・茅野蕭々(ちのしょうしょう 明治一六(一八八三)年~昭和二一(一九四六)年):ドイツ文学者で歌人。長野県生で本名儀太郎、初号は暮雨。東京帝大卒。明星派新進歌人として注目された。『明星』廃刊後は白秋・啄木らと『スバル』に作品を発表した。三高・慶応大学・日本女子大学教授を勤めた。著作に「ゲョエテ研究」「独逸浪漫主義」、訳書に「リルケ詩抄」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・平野萬里(ひらのばんり 明治一八(一八八五)年~昭和二二(一九四七)年)は歌人・詩人。埼玉県生。明治三四(一九〇一)年、郁文館中学卒業の年に新詩社入社、翌年九月に一高へ入学、明治三十八年、東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。『明星』に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。明治四〇(一九〇七)年に歌集「わかき日」を刊行、翌年に大学を卒業後は横浜でサラリーマンとなり、明治四十三年には満鉄中央試験所技師として大連に赴任した。その間、『明星』廃刊を受けた『スバル』創刊に尽力、同誌にも小説・戯曲を発表している。大正の初めには三年ほどドイツに留学して帰国後には農商務省技師となり、昭和一三(一九三八)年に商工省を退官するまで勤めた。大正前期に作歌を一時中断したが、大正一〇(一九二一)年の第二次『明星』創刊の参画から与謝野夫妻の没するまで鉄幹・晶子と相い伴うように協力同行して作品を発表し続けた(以上はウィキの「平野里」に拠る)。

・與謝野晶子(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年):この時、『スバル』発刊(明治四二(一九〇九)年。終刊は大正二(一九一三)年)の翌年で、当時満三十二歳。

・石川啄木(明治一九(一八八六)年~明治四五(一九一二)年):当時は『東京朝日新聞』校正係をする傍ら、『スバル』創刊発行名義人として尽力した他、前年の初旬に終えた「二葉亭全集」の校正以後、同全集の出版事務全般をも受け持っていた。この年の八月下旬には評論「時代閉塞の現状」を執筆している。当時満二十四歳。]

霧が ふる   八木重吉

霧が ふる

きりが ふる

あさが しづもる

きりがふる

鬼城句集 冬之部 海鼠

海鼠    市の灯に寒き海鼠のぬめりかな

[やぶちゃん注:海鼠フリークの私からすると世にある海鼠の句の中では秀逸の一句と存ずる。]

2014/01/24

ブログ・アクセス540000記念 濁流   火野葦平

たった今(540000アクセスは2014年1月24日PM8:50)、ブログは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、遂に540000アクセスに達した(ライヴ記述)。アクセス者は

2014/01/24 20:54:58

のユニーク・アクセス

「Blog鬼火~日々の迷走: 「相棒」season9第8話「ボーダーライン」という救い難い悲哀」

を見に来たあなた。どうか、幸いあれ。

合わせて記念テクストを以下に配す。


   濁流   火野葦平

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。本テキストは僕のブログのアクセス540000突破記念として公開した。藪野直史【2014年1月24日】]

 

 すさまじい雨のあと、裸山をすべりだした水は各所からその矛先をあつめると、あふれたつ濁流となつて、いたるところの堤防を決潰(けつくわい)した。大地の坤吟(しんぎん)するやうな轟音(がうおん)が渦卷く流れの底に鳴りはためいて、田も畑も家も林も埋沒されるころには、人間も動物もつねに悲劇がその構成の要素として來た自然の法則をもはや怒ることも笑ふこともできなくなつてゐたのである。家は根こそぎ持ちあげられて、松茸の笠のやうな屋根がぶかぶかと幾つも浮いて流れ、疊や、板戸や、金盥(かなだらひ)や、鍋蓋や、洗面器や、簞笥のひきだしや、帽子や、下駄や、襖や、表札や、手紙や、新聞紙や、腰卷や、林木や、樹木や、花びらや、茄子や、蓮の葉や、そして、人間やが、濁流の緩漫にしたがつて、あるところでは自動車の早さで流れ、あるところでは動くともないゆるやかさで流れ、あるところではさういふものが廻り燈籠のやうにくるくると渦を卷いてゐた。境防を洗ふ奔流はしだいにやはらかい土を削りとつて、新な決潰口をつくり、なほも山間からあふれて來る水量を加へ、和紙のうへに亂暴に落した水滴がしみひろがつてゆくやうに、その領域を擴張してやまないのであつた。水とたたかふ人々の努力はつづけられたが、不幸の度合はこれと反比例した。堤防や、丘のうへにはいたるところに俄づくりの部落ができて、塵や襖や簞笥や茣蓙(ござ)などで周圍をかこまれた無天井の家家には、やうやく難をのがれた人々の呆けたやうな顏があつた。これらのドノゴオ・トンカには黄金の夢はもとよりのこと、いかなる種類のよろこびも望みもなかつたことは勿論である。洪水とともにおこつた阿鼻叫喚の聲はとだえたが、その靜(せいひつ)謐の方がさらに陰慘で、魂を拔かれた人間たちの活氣をうしなつた靑い顏はいまは絶望の色で濃く塗られてゐた。夜になると月が出た。晝間はいくらか元氣のあつた人々もたそがれとともに暗い顏色になつて、聲も音もとだえる。暖をとるために水上の屋根でたくかすかな火が狐火のやうに點々とのぞまれる。そして、馬鹿々々しいことに水に追はれた人々がときに水上に火災をおこしたが、その焰のうらさびしさはいひやうもなかつた。また夜になると、ひそひそとかたらふ聲とともに、あやしげな行爲を、浮かんだ屋根の上でする者もあつた。そのうすぎたなさと悲しさはいひやうもなかつた。かくて、人間世界はこの絶望のなかで終るものかとも思はれた。しかしながら、これが錯覺であつたとはあまり時間を置かずして證明された。人間がいかなる場合にもその天性の活氣を顯現するものたることは、まことに歷史的な事實なのであつた。

 洪水によつて當惑し、かつ活氣を失つたのは、むしろこの川一帶に棲息してゐた河童たちであつた。河童は濁水を好まない。またけたたましい流れをも、氣ちがひじみた激流をも好まない。もともと、ときどき角力をとることぐらゐのほかはおふむね荒々しいことからは遠ざかつてゐた河童は、つねはゆるやかな淸流のなかにあつて、肌の美しい魚たちと暮し、かはせみよしきりが鳴いて飛ぶ眞菰(まこも)のなかにしやがんでゐて、雲のゆくへを見たり、水紋の亂舞をながめたり、葦の葉で舟をつくつて幾つも幾つも下流にむかつて流してみたりするのが好きである。馬の蹄(ひづめ)あとの水たまりにも三千匹は樂に棲める河童は、自分のつくつた葦舟に乘つてくだることも容易である。風流は河童の顯著な資性の一つであつた。潔癖な河童たちは漁師たちが網を入れたり、さすまたで蟹をつきに來たりして水底をにごすのさへ氣に入らず、すぐに澄むちよつとの濁りにも、避難したりする。さういふ河童たちが思ひがけぬ川の氾濫(はんらん)と濁流の奔騰(ほんとう)に辟易(へきえき)したことはいふまでもあるまい。かれらは人間たちの不幸などは考へるいとまもないほど、自分たちの不幸のために歎き悲しんだ。しかしながら、ひとたび涙を流せばたらまち靑苔の液體となつて、身體が溶解してしまふきぴしい傳説の掟をおそれて、涙を胸の底にのんだ。數ははつきりわからないけれども、古老の話によれば、この川にゐた河童の数は百匹をくだるまいといふことである。別に頭目も親分も居ず、仲よく暮してゐたこれらの河童たちは、濁流をながめながらただ呆然とためいきばかりついてゐた。あまりに洪水の範圍がひろくて、移住する場所が見つからず、名案はさらに浮かばず、途方に暮れるばかりである。

 もともと暗愚な河童であるから、かれらの才覺のなさを笑つてもよいけれども、かれらが新な天地へ輕々しく轉任し得なかつた理由も考へてやらねばならない。それは故郷たるこの川への愛著にほかならなかつた。狡猾(かうくわつ)に愼重に思案すれば他に場所がないわけでもなかつたが、やはり生まれて育つたこの川を捨てきれなかつた。さうして、おたがひに妙に深刻な目つきでうなづきあひ、この川の澄む日を待つことにした。しかしながら、滔(たう)々たるこの眞赤な濁水が昔の淸澄さにかへるのはいつの日のことであらうか。水かさは減るどころか、床まで來てゐた場所も、疊がつかり、佛壇がつかり、しだいに天井まで濡れてゆくのであつた。河童たちは自分たちの不幸のなかに、たよりないながらも若干の方針がたつと、人間たちの樣子にも眼がとまるやうになり、自分たちと人間たちとどちらが不幸であらうかなどと比較してみる餘裕もできて來た。さうして、自分たちも不幸であるが、人間達の不幸もほぼこれに匹敵するものであることをうなづくことができた。しかしながら、やがて河童たちは人間の活躍に眼をみはりはじめたのである。なかなか氣力の快復せぬ自分たちにくらべて、茫漠たる濁流に浮かぶ人間世界がただならぬ活況を呈して來たからであつた。

 河童たらは日とともに空腹をおばえて來たが、これまでのやうに水中に餌をとる術はなかつた。糞尿をもあはせ流す異樣な臭氣と味のある濁水のなかにゐることができなくて、人氣のない堤防のかげや、根だふしになつて頭だけ水面に出しておる樹木の枝や、浮いてゐる屋根のうへなどに、ちよこんと瘦せた膝を抱いてうづくまつてゐたのであるが、好物の蝦や目高を得る望みはなく、わづかに流れて來る茄子や胡瓜をひろつては露命をつなぐほかはなかつた。實は大好物の尻子玉(しりこだま)が眼前にうるさいほどちらつく。多くの人間たちの屍骸が流され、また底に沈んでゐる。その肛圓から尻子玉を拔くことはきはめて容易で、しばしば食指がうごいたのであるが、決行を躊躇させるなにものかがあつた。それは不幸へのおそれとはにかみ、感情の潔癖、兩者の不幸の鏡が照應しあつたのである。また嗜好としても死人の尻子玉は腐つた蛸(たこ)に似た異臭があり、味も落ちる。そこで河童たちは眼前に尻子玉を見ながらそれに手をつけなかつた。さうして、たまに流れて來る野菜類で空腹をしのいでゐたのであるが、日が經つにつれて、自分たちの不幸と人間たちとの不幸の均衡(きんかう)へしだいに疑惑の心が兆(きざ)して來た。

 いかなる活氣であらうか。濁流のうへは騷然として來た。堤防のドノゴオ・トンカから水上の屋根々々へ幾隻もの小舟が往還しはじめた。食糧がはこばれる模樣である。また水上の家から荷物がはこびだされる。屋根のうへに蒲團を敷いて暮してゐる人間が舟を呼ぶ。舟は濁水の湖の上を右往左往する。モーターボートまで走る。メガホンでどなつたり、笛を鳴らしたり、鉦(かね)をたたいたりしてゐる。屋根にとりのこされてゐた人間たちに生色がよみがへつて、舟が來て去つたあとは、けたたましくなにか喚(わめ)きながらもぐもぐ口を動かしてゐる。月光の下で、湖上の夜の燈もにはかにあかあかと篝火のやうに燃えたつた。夜もなにごとか休みない蠢動(しゆんどう)がつづけられてゐる。

 かういふ樣子を見てゐて、河童たちは羨望の念にたへなくなつて來た。もはや人間の不幸が自分たちとはぼ同等と考へるわけにはいかなくなつた。救援の手がさしのべられて、人間はあきらかに不幸と訣別しはじめたと思はれた。そのことはいつか孤獨の寂寥をさそひ、ただ、いつ引きいつ澄むとも知れぬ赤い流れを見て歎息するばかりである。

 ところが、河童たちは不思議なものを見つけた。舟は晝夜の別なく茫洋たる濁水の湖に、出沒したが、人間たちは奇妙なことをしてゐた。軒までつかつてゐる家の屋根の下をつたひながら行く傳馬船のなかは、いつかきまざまな荷物で一杯になる。眼のするどい數人の屈強の男が乘つてゐた。また屋根だけしか出てゐない家に舟をつけると、男たちは褌(ふんどし)ひとつになる。姿が水中に消える。しばらくするといろいろな品物をたづさへて浮きあがつて來、舟に乘る。濡れた百圓紙幣を一枚一枚ひろげて舟の舳(へさき)や艫(とも)の板張にならべることもある。乾かすのであらう。河童たちはあきれた。自分たちでさへ忌(い)みきらつて入ることを好まない濁水にもぐるとは、いかなる性の者であらうか。彼等が自家の品をとりだしてゐるのでないことは、ところきらはず誰もゐない家々ばかりを狙ふのでわかる。彼等の一人はいつも見張りに立つてゐて、危險を知らせる。水中にぼつんと浮かんでゐる屋根に人間が殘つてゐる。堤防から來た救護船が避難所へ案内しようといつても動かない。荷物の番をしてゐるのだといふ。その荷物は無論屋根から下の水中にあるのである。水賊たちはさういふ場所も遠慮しない。彼等の手にはたいてい短刀か拳銃かがある。一人が張り番の男をしばりあげ、他の連中が水中にもぐつて荷物を盜みだす。水賊船同志が掠奪戰を演じるときもある。また大勢が屋根や二階に殘つてゐるところへは食糧船が行く。罹災者が欲しいものを賣つて金を拂はうとすると、値段をいはない。おぼしめしで結構といふ。少い金を出すと品物を持つてかへるといひ、法外の代金をまきあげる。水上を往き來するものは舟だけではない。筏(いかだ)に盥。これが交通機關である。亂雜に丸太を五六本組んだ筏、これも速製の筏屋がべらぼうな値で賣りつけてゐる模樣。これらの逞(たくま)しい人物どもはさらに河童をおどろかせた。流れて來る土左衞門も彼等からのがれることはできなかつた。屍骸を舟に引きあげて、その懷をさぐり、着物をはがせると、また水のなかに投げこんだ。或る者は口をくだいて金齒をとることもあり、美しい女の裸體に奇妙なしぐさをしてゐることもあつた。

 かういふ状況を見てゐて、すこしづつその意味を理解しはじめると、河童たちはしだいに怒りに燃えて來た。怒りといつてはあたらないかも知れない。河童がなにもつねに正義人道の信奉者であつたこともなければ、罪惡を仇敵硯する修身の先生であつたこともない。河童の感じたのはまづ自分たちのお人よしから來る照れくささ、はにかみ、情なさ、はぐらかされた反撥、不幸と不幸との照應といつたんはうなづいたひとりよがりな自己陶醉への自嘲、おさへにおさへてゐた生理の反射作用、活氣の傳染――いはばさういふ内面の葛藤(かつとう)がいつか怒りのやうな(裏がへせば復讐のよろこびともなるやうな)荒々しい感情となつて、河童たちに生氣をふきこんだのである。沈滯してゐた河童たちは突如として氣ほひたつと、果敢な行動にうつつた。とはいへ、つまりはこれらの水賊や闇屋たちを得意の角力で投げたふして、その生きた尻子玉にありつかうといふ魂膽にほかならない。

 河童は水賊のかくれがにしてゐる堤防のかげに姿をあらはした。そこには水門があつたのであるが、はるか水の下になつて、いくつも卷貝のやうにほげた渦卷がはげしい速度で廻轉してゐた。ぎよろりと眼の光る赤ら顏の、手の大きな人間はおつといふやうな顏をした。それから河童の角力の申し入れをきくと、鷹揚にうなづいて、では一番といつてお辭儀をした。河童はおどろいた。閉口した。傳説の掟のきびしさは氷もただならぬ冷徹さである。いかなる結果を生ずるともその掟にそむくことはできない。人間がお辭儀をすればこちらもそれにならはなくてはならない。それは禮儀ではない。規律である。河童は苦痛の面持で頭を下げた。傾いた頭の皿から水がこぼれ落ちた。皿の水は河童の力の根源である。水の半(なかば)を失つた河童は力の半を喪失した。肩のあたりの筋肉がゆるみ、ふんばつた膝頭が浮き、腰がゆらめくのを感じた。取り組むと同時に、人間からしたたかに投げとばされ、甲羅にひびが入ると、腦震蕩(なうしんたう)をおこして人事不省となつた。そのまま濁流に落ちたが、死んだ河童が溶けたので、赤かつた卷貝模樣の渦がしだいに靑味を帶びて來た。

 つぎつぎに河童たらは人間に角力をいどんだ。さうしてつぎつぎに先陣の河童と同じ運命に落らた。或る者は皿の水は失はなかつたが、手を引き拔かれて敗けた。河童の手は右左つづいてゐるので、どちらかを強く引くと拔けてしまふのである。河童が案山子(かかし)と親戚であることは古典が證明してゐる。古事記に書かれた多くの神々のうち、五穀を司つてゐた山田の曾富騰(そほと)こそ河童の祖先なのであつて、その子孫に心がけの惡い者があつたため、山に追はれては山姥となり、川にくだつては河童になり、田にのこつては案山子となつたことは天下周知のことである。手を拔かれては勝負にならない。また或る者は唾をはかれて眼がつぶれ、赤褌をされて力が拔け、相手に佛飯を食べて來られて腰がくじけた。河童たちの最初の計畫はかくしてことごとく畫餅(ぐわべい)に歸していつたのであるが、それにしてもこの不覺はいかなる理由によるものか。河童の敵が人間の唾であり、赤褌であり、佛飯であるといふことを、つまりさういふ祕密な傳説の掟をどうして人間たちが知つてゐるのであらうか。河童の挑戰を知つた人間どもがさういふことを研究したのであらうか。それとも偶然の一致なのだらうか。不幸をも無視し、惡徳の逞しい實踐者となつたこれらのえせニヒリストたちは、また傳説をも乘り超える兇惡無殘さを持つてゐるのであらうか。まこと彼等の醜惡さはかぎりがない。

 しかしながら、河童たちはかういふ活氣にあふれた人間たちの尻子玉の味のよさもよく知つてゐるのである。鯉の卵のやうに脂ぎり、齒ぎれもよく、こくがあつて、一個食べれば優に一ケ月は保つのである。河童たちは死力をつくして、これを得るためにたたかつた。さすれば河童たちの賤しさも醜惡さも、これらの人物たちと大した逕庭(けいてい)もないといふべきか。ともあれ、いまは戰ひが、つまりどちらが勝つかといふ問題があるだけであつた。さうして河童たちはその悲壯な決意と努力とにもかかはらず、ことごとく人間からうち敗かされて、あへない最期をとげたのである。水賊と闇屋たちとはなほも晝夜の別なく、悠々として濁水の湖を跳梁跋扈(ていりやうばつこ)した。殘る河童たちはなんとかして所期の目的をはたさんと、きらに盡力するところがあつたが、最期には彼等に近づくことすらできなかつた。敵が戰慄すべき呪文(じゆもん)をとなへるやうになつたからである。

 ――いにしへの約束せしを忘るなよ、川絶ち男氏(うぢ)は菅原。

それは彼等の祕密はすべて洩れてゐる。その昔、菅原道眞が築紫へ流される折、さやうなやんごとなき人とは知らぬ仲間の一匹が、いたづらをしかけて取りひしがれ、そのとき以來、菅公の名をいはれれば近づくことのできぬ掟ができた。かくて敵どもがことごとく調伏の呪文を知つてゐるとすれば、河童どもの手段はここに盡きたのである。かくと悟つて河童たちは無念さに泣いた。その無念さは單に人間どもの絢爛(けんらん)たる尻子玉を得ることができなかつたことばかりではなく、傳説の掟のあまりのきびしさ、冷たさ、そしてその恐しさに泣いたのである。泣くことはまた禁令の一つである。濁水に棲息する場所を失つて、あやふく外部に洩らしさうになつた涙を胸のうちにのんだ河童も、いまはすでにその忍耐をうしなつた。いかなる忍耐にも限度がある。がんじがらめの掟づく、掟があまり嚴としてゐる故に、最期の犧牲者は實直な河童にほかならなかつた。

 河童たちは泣いた。その慟哭(どうこく)のこころよさに、いまは掟の存在もうち忘れた。そして、法則にしたがつて、靑いどろどろの液體となつて溶けて果てた。その前に戰ひやぶれた河童も、後に悲しみで溶けた河童も、おなじく液體となつて濁水のなかに混じた。河童の體液は色名帳のなかにもない色、強ひていへば河童色といふほかはない、濃綠の、媚茶(こびちや)まじりの、胡粉が浮いた、色素の厚いものであつて、普通の場所で溶けたならば、その土は腐り、作物も死し、その色とにほにひとが永く消えないのであるが、滿々たる濁流の水量のなかではものの數ではなかつた。幾つかの山々から流れだして來て、大河を氾濫させたすさまじく赤い水のなかにたらまち吸收されて、その色さへも明らかではなかつた。そして、ほんのこころもち靑昧を帶びた濁流は、なほも雨を含んでたれ下つた黑雲の下に音たててひろがり、人間界を包んでゐた。その夜は月も見えなかつた。

 

[やぶちゃん注:この一篇は河童生態学の視点からも頗る興味深い。

「ドノゴオ・トンカ」ドノゴー=トンカ(Donogoo-Tonka)とは「未だ嘗て地上に存在したことない幻の理想郷」「新たなる未知の世界」を意味する造語らしく(フランス語で“tonka”は熱帯アメリカ産のトンカ豆を指すが関係ありやなしやは知らず)、これはフランスの作家で詩人のジュール・ロマン(Jules Romains 一八八五年~一九七二年)が一九三〇年に発表、初演された戯曲の題名に基づくものと思われる(私は未読なれば確かなことは言えない)。なお、同名のモダニズム系の文芸雑誌『ドノゴトンカ』なる雑誌が一九二八年から一九三〇年にかけて岩佐東一郎や西山文雄によって刊行されているから、それもこの火野の用辞には何かの影響があるのかも知れない。

「ほげた」「ほげる」は福岡方言で「穴があく」の意。

「山田の曾富騰(そほと)」古事記にみえる神久延毘古の異名とされる。歩けないが、天下のことをことごとく知る神とされた。これは「崩え彦」「壞え彦」、で「壊れた男」の意ともされ、案山子(かかし)の表象かともされる。

「その色とにほにひとが永く消えない」(最終段落内)は底本では「その色とはほひとが永く消えない」であるが誤植と断じて訂した。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 田越川

    ●田越川

源(みなもと)を田越村沼間の谷間より發し西に流れ、櫻山(さくらやま)に至て海に入る、此(この)川凡(をよそ)四名あり、水源にては矢の根川、櫻山に入て烏川 小名逗子の界(さかい)を流れて淸水川と稱す、小坪の界に至て始て田越川の名を得、東鑑には多古江川と書し、承久記は手越川(たごえがわ)に作る。建久五年八月鎌倉將軍河邊遊覽の事あり。

[やぶちゃん注:以下「吾妻鏡」の引用の一行は、底本では一字下げでポイント落ち。]

東鑑曰八月廿六日將軍家御不例減氣等次逍遙多古江河邊給云々

文覺流罪の後、六代午前此川邊にて害せられし事、平家物語に見ゆ、此故に古は御最後川(ごさいごかは)ろも唱へしなり。

承久の亂に三浦平九郎胤義勤王し、軍敗るゝの後、胤義が幼兒を此河原にて誅せらる。

[やぶちゃん注:以下「承久記」の引用は、底本では全体がポイント落ち一字下げ。]

承久記曰平九郎判官胤義が子供五人あり。十一、九、七、五、三なり、うばの尼の養て、三浦の屋部と云所にありける。彼の子供、皆切らるべきに定めらる。伯父駿河守義村承て、郎等小河十郎、屋部に向て此由申ければ、十一になる孫一人止て、九、七、五、三なる子供を出しけり。鎌倉へは入るべからずとて、手越ノの河端に下し置きたれば、九、七、五は乳母に取付て、切らんとすると心得て泣悲む、三の子は何心もなく、乳母の乳ぶさに取付て、すさみしてぞ居たりける。目も當てられぬ有樣なり。日既に暮れたれば、さて有べき事ならずとて、四の首を取て參りぬ。

嗚呼何等の悲慘ぞや、嘉祿元年九月辨僧正定豪して、河原に許多の石塔を建てしめられし事所見あり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡脱漏」の引用は、底本では全体がポイント落ち一字下げ。]

東鑑脱漏曰多胡江河原爲立八萬四千基石塔辨僧正弟等具之武州駿州三浦駿河前司以下行向之被沙汰

末流灣頭に注ぐの邊、風光絶美なり、河畔を逍遙せよ、晴天波穩やかなるの日、河心白扇の倒まに懸るを見るべし、田越川の逆富士(さかさふじ)と稱す、橋あり富士見橋と呼ぶ。

[やぶちゃん注:最初の「吾妻鏡」の引用は前掲「逗子案内」の注で私が引用した部分であるが、脱落があるので必ず比較されたい。

次の「承久記」の引用も途中を端折ってある(が、却って読み易くはなっている)。これは「承久記」の流布本である古活字本系統の「下」の殆ど終わりの部分である。岩波新古典文学大系の「承久記」に資料として所載する同本の当該部分(編者による段落通し番号106相当部)を恣意的に正字化して示しておく。承久の乱(承久三(一二二一)年)の戦後処分(七月以降)の下りである。

   *

其外、東國ニモ哀レナル事多キ中ニ、平九郎判官胤義ガ子共五人アリ。十一・九・七・五・三也。ウバノ尼ノ養ヒテ、三浦ノ屋部卜云所ニゾ有ケル。胤義其罪重シトテ、彼ノ子共、皆可ㇾ被ㇾ切ニ定メラル。叔父駿河守義村、是ヲ奉テ、郎等小河十郎ニ申ケルハ、「屋部へ參テ申サンズル樣ハ、「力不ㇾ及、胤義御敵ニ成候シ間、其子孫一人モ助カリガタク候。其ニ物共、出サセ可ㇾ給ㇾ由、可ㇾ申」トテ遣ス。十郎、屋部ニ向フテ此由申ケレバ、力不ㇾ及、十一ニナル孫一人ヲバ留メテ、九・七・五・三ニナル子共ヲ出シケリ。小河十郎、「如何ニ、ヲトナシクヲハシマス豐玉殿ヲバ出シ給ハヌ哉覽」ト申ケレバ、尼上、「餘ニムザンナレバ、助ケント思フゾ。其代リニハ尼ガ首ヲトレ」ト宣ケレバ、ゲニハ奉公ノ駿河守ニモ母也、御敵胤義ニモ母也、ニクウモイト惜モ有間、力不ㇾ及、四人計ヲ輿ニノセテ返リニケリ。鎌倉中へハ不ㇾ可ㇾ入トテ、手越ノ河端ニヲロシ置誰バ、九・七・五ハ乳母乳母ニ取付テ、切ントスルト心得テ泣悲ム。三子ハ何心モナク、乳母ノ乳房ニ取付、手ズサミミシテゾ居クリケル。何レモ目モアテラレヌ有樣也。日已ニ暮行バ、サテアルベキ事ナラネバ、腰ノ刀ヲ技テ搔切々々四ノ首ヲ取テ參リヌ。四人ノ乳母共、空キカラヲカヽヘテ、聲々ニ呼キ叫有樣、譬テ云ン方モナシ。ムクロ共輿ニノセ、屋部へ歸リテ孝養シケリ。祖母ノ尼、此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ、各云シ言ノ葉ノ末モワスラレズ、今ハトテ出シ面影モ身ニ添心地シテ、絶入給ゾ理ナル。

   *

最後の「此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ」の部分、意味が取れない、識者のご教授を乞うものである。

「旅行記 こだわりの 旅 紀行」の「鎌倉のかくれ里」にある
『「神々の坐す里」桜山・逗子編』によれば、現在の東逗子駅の近くにある田越川河畔の荒神社、通称「ニコー様」はこの屋部の尼を祭ったもので、これはこの辺りの豪家であった蓮沼矢部家の屋敷神であり、同矢部家の先祖はまさにこの時に助命された豊玉殿であったと伝承されているらしい(このリンク先及び一連の同シリーズのPDF資料は恐らく他に例を見ない詳述された逗子郷土資料と思われ、他の名所旧跡についてもまことに詳しく、必見必読である)。

「吾妻鏡脱漏」の引用部分も引用し直して、書き下しておく。これは嘉禄元(一二二五)年九月八日の記事である。

〇原文

八日丙寅。於多胡江河原。爲立八萬四千基石塔。辨僧正門弟等相具之。武州・駿州・三浦駿河前司以下被行向之。被沙汰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日丙寅。多胡江(たこえ)河原に於いて、八萬四千基の石塔(しやくたふ)を立てんが爲に、辨僧正が門弟等、之を相ひ具す。武州・駿州・三浦駿河前司以下、之に行き向はれて、沙せらると云々。

「八萬四千基の石塔」の数字は釈尊の説いた経の数とされるもの。

「武州」北条泰時。この供養の主催者である。

「駿州」北条義時三男で泰時の弟重時。当時は幕府小侍所別当。

「三浦駿河前司」義村。]

耳嚢 巻之八 爲家千首和歌の事

 爲家千首和歌の事

 

 爲家卿は俊成の孫定家の子なりしが、壯年のころ數多(あまた)歌よみ給ひしに、父定家かくはあらじとて、幾度見給へど稱譽もなくて過(すぎ)しが、我心にも詠(よみ)得たると思はざれば、歌は詠(よま)じとて述懷ありしを、慈鎭聞(きき)て、父租の業(わざ)を捨(すて)給はんは本意(ほい)なし、よく味(あじは)ひ讀(よみ)なば其道も得給はんと異見ありし故、夫(それ)より寐食をわすれて此道を修行なし、五日の内に千首までよまれしを、慈鎭と西行評して點なせしを、千首の家の集とて今も好人(すきびと)のとりなやむなり。物は積進によりて、其業を成就なすと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、和歌技芸譚だが鎌倉時代と恐ろしく古く、歌道の故実考証譚の一種と考えてよかろう。

・「爲家千首和歌」藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年:定家と内大臣藤原実宗娘の子。法名は融覚。早くに後鳥羽上皇次に順徳天皇に近仕したが歌道よりも蹴鞠に熱中して父定家を嘆かせた。承久の乱後は作歌活動も本格化し、後嵯峨院歌壇の中心的存在として「続後撰和歌集」を単独で選進、また「続古今和歌集」の選者にも名を連ねた。晩年は後妻阿仏尼との間にもうけた冷泉為相を溺愛し、二条・京極・冷泉の歌道三家分立の因を残した。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)が貞応元(一二二二)年、満二十四歳の時に日吉(ひえ)神社に詣でて献じた「為家卿千首」。千首和歌は和歌の修練などを目的として一人或いは数人で和歌一千首を続けて詠んだものであるが、本作は現在最古といわれるものである。岩波の長谷川氏注には、『歌人としての前途を悲観し出家しようとし、慈円に諌められ思い止まり五日間で詠んだもの』とあり、底本の鈴木氏注には、『これに定家が朱点を、慈円(西行は誤り)が黒点を加えた。為家の代表作』とある。

・「述懷」ここでは、一般的な思いや過去の出来事や思い出などを想起して述べるというフラットな用法ではなく、「恨み言を述べること・愚痴や不平を言うこと」の意である。

・「慈鎭」慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は天台僧。没後十三年して慈鎮と諡(おくりな)された。「愚管抄」の著者で歌人としても知られる。父は摂政関白藤原忠通。永万元(一一六五)年に十歳で延暦寺青蓮院に入り、翌々年に鳥羽天皇第七皇子覚快法親王の下で出家して道快と名乗った後、養和元(一一八一)年に慈円と改めた。混乱の続く貴族社会の中にあって関東の武家との協調を図る同母兄兼実の庇護の下で活動し、建久三(一一九二)年には天台座主、建仁三(一二〇三)年には大僧正に任ぜられて後鳥羽上皇の護持僧にもなったが、政局の推移につれて天台座主の辞退と復帰を繰り返し、補任は四度に及んでいる。源頼朝死後、後鳥羽上皇の周囲が討幕に傾いていく中、公武協調派であった兼実と同じ立場に立っていた彼が自身のゾルレンとしての史観に基づいて記したものが「愚管抄」であった。なお、後鳥羽上皇は西行のそれを慕った慈円の平明な歌風を高く評価しており、「新古今和歌集」には西行の九十四首に次ぐ九十一首もの歌が収められた。家集に「拾玉集」(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。底本の鈴木氏注によれば、為家が自身の歌才に絶望して出家を決意し、『慈鎮に諌止されたことは『井蛙抄』に出ている』とある。「井蛙抄(せいあしょう)」は正平一五・延文五(一三六〇)年〜正平一九・貞治三(一三六四)年頃の成立になる頓阿著の歌論書。

・「とりなやむ」小学館「日本国語大辞典」に、「とりなやむ」(取悩・他動詞マ行四段活用・「とり」は接頭語、「なやむ」は扱う意)として「取り扱う」「扱う」とする。そこに出る例文は近世以降のものであり、「なやむ」を「扱う」とする記載も同じ。

・「積進」底本には右に『(精進)』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「為家千首和歌」の事

 

 為家卿は俊成卿の孫であらるる定家卿の御子息に当たらるるが、壮年の頃、あまた、和歌を詠んでみられたにも拘わらず、これ、父君定家卿は、

「……こげな代物にては……全く話に、ならぬわ。」

とけんもほろろに突き返され、幾度ご覧じにならるるも、一言一句の褒め言葉さえ、これ、御座なく、ただただ無為に過ごしておられたところが、遂には、

「……我らも会心の詠みを得たると思うこと、これ、一度たりとも御座らなんだによって……かくなる上は……歌は――詠むまい。」

とお嘆き遊ばされ、出家を決意、歌人としても名高き知れる慈鎮殿が元へ参って、かく告解致いたところが、それを聴かるるや、慈鎮殿、

「――父租伝来の業(わざ)を捨て給わんは本意(ほい)なきことじゃ!――よぅく味おうて詠みあげたならば――必ずや、その道を得らるること、これ、間違い御座らぬぞ!」

と、強ぅに異見なさったゆえ、それより一念発起なされた為家卿は、寝食を忘れて和歌の道の修行を、まずはなさんと、五日の内に、たったお独りで、一気に千首までもお詠みあそばされたを、慈鎮殿とかの西行法師さまがこれを点評なされたを、これ、「千首の家の集」とて、今も和歌の道を志す好き人は頻りに教導の歌集として大いに奉じ扱うとのこと。

 物は精進によって、その技(わざ)を成就致すことこれあり、とは、さる御仁の語りで御座った。

中島敦 南洋日記 十二月九日

        十二月九日(火) 晴

 正午、はじめて空襲警報を聞く。事無し。三十分ばかりにして解除。午後小田電機にてラヂオを聞く。昨日のハワイ空襲は多大の戰果をあげたるものの如し。マレー半島上陸も大成功なりしと。御用船はパラオに行かず。山城丸も缺航か? 東京にては、さぞ心配せるなるべし。夜、市街闇黑にして、店舖の營業せるものを見ず。餘りに過度の緊張は、却つて、長續せざる所以に非ざるか?

[やぶちゃん注:「マレー半島上陸も大成功」マレー作戦(日本側作戦名「E作戦」)は太平洋戦争序盤に於ける日本軍のイギリス領マレー及びシンガポールへの進攻作戦で、日本の対英米開戦後最初の作戦であった。当時、大本営はこのマレー上陸とアメリカ属領ハワイに対する真珠湾攻撃との関係に苦慮していた。何故なら、陸軍はマレー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件としたのに対し、海軍も真珠湾での奇襲に絶大なる期待をかけていたためであったが、これは、もし一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなることを意味していたからである。マレーとハワイとでは約六時間の時差があることから、双方を辛くも両立させ得るのが、マレーの深夜、ハワイの早朝、という作戦開始のタイミングなのであった。十二月八日の日本時間午前一時三十分、陸軍第十八師団支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。これは真珠湾攻撃日本時間三時十九分(現地時間七時四十九分)、に先立つこと一時間二十分で、所謂、太平洋戦争は実はまさにこの時間に開始されたのであった。世界史的見解に於いては本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大したとされる。一九四一(昭和一六)年十二月八日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍はイギリス軍と戦闘を交えながら五十五日間で約千百キロを進撃、翌年の一月三十一日に半島南端のジョホール・バル市に突入した(これは世界戦史上稀に見る快進撃であるとする)。作戦は大本営の期待を上回る成功を収めて日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った(以上はウィキの「マレー作戦」に拠る)。

「御用船」戦時に軍が徴発して軍事目的に転用した民間船舶。ここで敦が乗船している「鎌倉丸」はかつてサンフランシスコ航路の客船であったものを海軍が徴用していた日本郵船所属のそれを指すものと思われる(同船はこの二年後の昭和一八(一九四三)年四月十八日に将兵及び民間人多数を乗せてボルネオ島東岸のマッカサル海峡に面したパリクパパンへ向かう途中、米潜水艦からの魚雷攻撃を受けて沈没していることがこちらの頁で確認出来た)。開戦直後であることから、安全を考慮してテニアン行の船便が海軍徴用船鎌倉丸に変更されたものかと思われる。

「山城丸」十月二十一日に既注。]

生きてゐる耶蘇  萩原朔太郎

     生きてゐる耶蘇

 

 耶蘇が生きてゐたら、彼の多くの宗派に對して、悉く皆意義を唱へたらう。「それは私の宗派ではない。」と。それからして異端とされ、すべての宗派から火刑にされる。一般に後繼者等は、單なる偶像としての禮拜の外、決してその開祖を許容しない。生きてゐる開祖は、常に至るところで邪魔にされる。

 

[やぶちゃん注:『作品』第二巻第九号・昭和六(一九三一)年九月号に他十四篇のアフォリズムとともに掲載されたもので、後に「絶望への逃走」(昭和一二年第一書房刊)に所収された。太字「生きてゐる開祖」は底本では傍点「ヽ」。私はこのアフォリズムが頗る附きで好きである。]

萩原朔太郎 短歌二首 明治四十二(一九〇九)年十一月

心臟に匕首たてよシヤンパアニユ栓拔くごとき音のしつべし

 

拳もて石の扉を打つごとき愚(おろか)もあへて君ゆゑにする

 

[やぶちゃん注:『スバル』第一年第十一号(明治四十二(一九〇九)年十一月発行)の「昴詠草」欄に「萩原咲二」名義で掲載された。朔太郎満二十三歳。

杉田久女句集 30 後妻の姑の若さや藍ゆかた

後妻(うはなり)の姑の若さや藍ゆかた

 

[やぶちゃん注:笑顔の久女の見る目はいたって穏やかだが、その眼底に、何かどきっとする一閃が、私には感じられる。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 向日葵

 向日葵

 

向日葵に天よりあつき光來る

 

向日葵の萼たくましく日に向へり

 

向日葵は火照(ほて)りはげしく昏れてゐる

 

向日葵に夜の髮垂りてしづくせる

 

[やぶちゃん注:この四句、凝っと見ていると、何かドキッとする。それは詠唱する主体たる観察者の姿が全く消失して描写客体即主体即多佳子と読めるように、これらは確信犯で創られてあるからであると思う。……即ち――向日葵に――多佳子の身に「天よりあつき光」が「來る」のであり――多佳子の肉体の「萼」が「たくましく日に向」っているのであり――多佳子「は火照りはげしく」「昏れ」た宵闇の中にその肉身を佇立させ「てゐる」のであり――多佳子の「夜の」ほの白き身に、夜の闇たる「髮」が静かに「垂」れて来、そしてそのしっとりとした「しづく」が髪から落ちるからであろう……これはもうタルコフスキイではないか!……]

そらの はるけさ   八木重吉

こころ

そらの はるけさを かけりゆけば

豁然と ものありて 湧くにも 似たり

ああ こころは かきわけのぼる

しづけき くりすたらいんの 高原

 

[やぶちゃん注:「くりすたらいん」“crystalline”は形容詞で、「水晶のような・水晶から成る」及び物理化学に於ける「結晶(質)の・結晶体から成る」、「透明な」の意。なお、辞書を見ると、“crystalline heaven”(=crystalline sphere)という単語がある。これはその他の記載などと読み比べてみると、古代ギリシアのプトレマイオスの天動説に於いて考えられた宇宙を構成する二つの球体の一つで、天の外圏である球体(天球“celestial spheres”)と恒星界との間にあると想像された球体(但し、プトレマイオスは「恒星は天球に張りついているか若しくは天球に空いた穴である」と述べているから、この球体は殆ど天球内側に密着する球体ということになるように思われる)の謂いらしい。無関係かもしれないが“heaven”は気になる(重吉がこの単語を見知っていればなおのことである)、イメージを膨らませるにはよいと思われたのでここに記しおくこととした。]

鬼城句集 冬之部 鮟鱇

鮟鱇    鮟鱇の愚にして咎はなかりけり

2014/01/23

中島敦 南洋日記 十二月八日――真珠湾攻撃当日――

        十二月八日(月) 曇、雨、後晴、

 午前七時半タロホホ行のつもりにて支廰に行き始めて日米開戰のことを知る。朝床の中にて爆音を聞きしは、グワムに向ひしものなるべし。小田電機にて、其後のニュースを聞く。向ひなる陸戰隊本部は既に出動を開始。門前に、少女二人、新聞包の慰問品を持來れるあり。須臾にして、人員、道具類の搬出を終り、公會堂はカラとなりしものの如し。腕章をつけし新聞記者二人、號外を刷りて持來る。ラヂオの前に人々蝟集、正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆擊をも行へるものの如し。宣戰の大詔、首相の演説等を聞いて歸る。午後、島木健作の滿洲紀行を讀む、面白し。蓋し、彼は現代の良心なるか。とこ屋に行く。ゲートルをつけ警防團のいでたちをなせる親方に頭髮を刈つて貰ふ。靑年團、消防隊等の行進、モンペ姿の女等。夜の街は、すでに警戒管制に入れることとて、まつくら。

[やぶちゃん注:太字「カラ」は底本では傍点「ヽ」。

「島木健作の滿洲紀行」「滿州紀行」は作家島木健作が昭和一四(一九三九)年に満州を旅行、翌年に創元社から出版したルポルタージュ。私は未読であるが、ネット上の情報によれば、国策文学の代表的作品とされ、島木が満州開拓団を訪問、その苦労話を聴取し、彼らの『前向きな開拓者』の姿が前面に押し出されているという。但し、島木はさりげなく「五族協和」という理想的なスローガンと現地の実態とが乖離していることをも書き込んでおり、日本が満州を支配するために掲げていた口当たりのいい『タテマエ』に対して、現地に於ける日本人の振る舞いの中にある傲慢さをも語っているらしい。そこで島木はあくまでも日本の掲げた『理想』を推し進めるべきだという論調をとることで国策に協力しながらも、その「理想」が現実とは異なることを、読者の中でも解る人には解るように書いてあるという。孰れにせよ、かの特異点の時空間の直近の、非日常のただ中にあった敦になってみよう。

 

……僕は朝の寝床の中で夢うつつに航空機の「爆音」を聴いて、眠い目を擦りながら飛び起きた……

「遂におっ始(ぱじ)まったか……」

……表へ出ると、とりあえず近くの「電機」屋の店先へと向かうと、「ニュースを聞」いてみた……

……そこで何気なく振り返ってみると、その電気屋の向いにあった「陸戰隊本部」が、殺気立って「出動を開始」しているのが見えた……

……その「陸戰隊本部」の門前には。呆けた顔の少女が二人、「新聞包の慰問品を持」ってぼんやり立っていた……

……瞬く間に、「人員、道具類の搬出を終り、公會堂は」嘘のように「カラとな」っていた……

……そこへ腕章をつけた「新聞記者二人」が、早くも威勢のいい声を挙げながら、「号外!号外!」と未だインク臭い刷りのそれを持ち来たっては、盛んにばらまいている……

……その頃にはもう、「電気」屋の「ラヂオの前に」は人々が雲霞の如く「蝟集」していた……

……暫く経って、報じられた「正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆擊をも行へる」という電光石火の戦況を伝えていた……

……それから……ラジオから流れたのは……「宣戰の大詔」……「首相の演説」……あれやこれや……

……僕はとぼとぼと宿舎へと帰っていった……

……帰った僕は……

……この……世界が恐るべき修羅場と化したただ中にあって……

……自室に寝っ転がって……

……「午後は」ゆっくり「島木健作の滿洲紀行を讀」み耽った……

「……面白いね。畢竟、島木は『現代の良心』ではあるだろうがなぁ……」

……と呟いた……

……それからぶらりと出て、床屋に行った……

……仰々しく「ゲートルをつけ警防團のいでたちを」した親方に「頭髮を刈つて貰」ってすっきりした……

……帰り道、「靑年團、消防隊等の行進、モンペ姿の女」なんどが行き過ぎてゆくのを……僕は……ぼんやり眺めていた……

……夜になった……

……「夜の街は、すでに警戒管制に入」っていて、すっかり……

……「まつくら」……なのであった……

 

敦がまさに自身の日常を平々凡々と『死守』し、戦争という獣的な非日常の軋轢に何とか抗おうとしているさまが見てとれるではないか……(注:間違ってもらっては困る。私が言いたいのは――人間は非日常が日常と化すことへの自己防備として『仮想の日常』を『死守』しようとする頗る生物学的な意味での生き物だ――ということ一点なのである。……あの3・11後の粗方の日本人のようにである。……)

 

 ウィキの「真珠湾攻撃」の「トラ・トラトラ」より引用する。――『ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間8日午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した』。『7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。7時55分(同3時25分)翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した』。『7時58分(同3時28分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。戦艦「アリゾナ」では7時55分頃に空襲警報が発令された。8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1,177名の将兵と共に大破沈没した。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった』。同「第二波攻撃」。『ハワイ時間午前8時54分(日本時間4時24分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。奇襲から立ち直った米軍は各陣地から猛烈な対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとした』。『第二波攻撃隊は、米軍の防御砲火を突破する強襲を行い、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行った。第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きく、「加賀」攻撃隊(零戦9機、艦爆26機)だけでも零戦2機、艦爆6機を失い、19機が被弾した』。『また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳 一飛曹)は』『ニイハウ島に不時着、12月13日のニイハウ島事件で死亡した』(最後の部分はウィキのニイハウ島事件を参照されたい)。同「特殊潜航艇による攻撃」より。『機動部隊とは別に特殊潜航艇の甲標的を搭載した伊号潜水艦5隻は下記の編成で11月18~19日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃し、12月7日オアフ島沖5.3~12.6海里まで接近した。特殊潜航艇はハワイ時間午前0時42分(日本時間20時12分)から約30分間隔で順次真珠湾に向かって出撃した』。『攻撃は5隻全艇が湾内に潜入することに成功し、3隻が魚雷攻撃を行った。しかし4隻が撃沈、1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わった』。『その後、行方不明であった特殊潜航艇が発見され、魚雷は未発射であったことから魚雷攻撃を行ったのは2隻とされている』。『近年までは、中村秀樹のように成果なしと評価するものがあったが』、『特殊潜航艇によって戦艦ウェストバージニアと戦艦オクラホマへの雷撃が行われており、このうちオクラホマは特殊潜航艇による雷撃が転覆をもたらしたとするアメリカ側からの評価がなされている』。最後に「帰投」の項。『日本時間午前8時30分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。午前9時頃、日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた』。――

 

日本。

12月8日朝7時丁度のラジオの臨時ニュース。

日本放送協会館野守男アナウンサー「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本營陸海軍部午前六時發表。帝國陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋に於いて亞米利加・英吉利軍と戰鬪狀態に入れり。」…………]

画像検索のエクスタシー

Ernst Haeckel:Kunstformen der Natur

日本語訳は「自然の造形」、成立刊行は1899年から1904年。ヘッケルは「個体発生は系統発生を反復する」の言葉で有名なドイツの生物学者。

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 二 原始動物の接合 (1) 原生生物群

    二 原始動物の接合

Midorimusi

[みどり蟲]

[(イ)口 (ロ)收細胞 (ハ)核]

 

 普通の動植物の身體を成せる細胞は、各々その專門の役目を務めるに適するやうに變化して居るから、種類の異なつたものが多數に相集まつて、初めて完全な生活を營むことが出來る。もしも一つづつに離して互に相助けることを妨げたならば、各細胞は到底長く生活することは出來ず、暫時の後には必ず死んでしまふ。例へば胃の細胞は胃液を出して蛋白質を消化する働はあるが、呼吸も出來ず運動も出來ぬから獨立しては生きては居られぬ。また肺の細胞は酸素を吸ひ入れ炭酸瓦斯を排出して呼吸する性質を具へて居るが、食ふ力も消化する力もないから、血液と離れては命を保つことは出來ぬ。しかるに廣く生物界を見渡すと、かやうなものの外に細胞が一つ一つで長く生活して居るものがある。これは即ち單細胞生物と名づける顯微鏡的の極めて小さな生物で、その中植物らしいものを原始植物、動物らしいものを原始動物と名づける。高等の動物と植物とではその間の相違が著しいから誰も間違へるものはないが、顯微鏡で見るやうな下等の動植物になると、その間の區別が頗る曖昧で到底判然した境界は定められぬ。それ故ある種類の單細胞生物は、動物學の書物には動物として掲げてあり、また植物學の書物には植物として掲げてある。例へば「みどり蟲」や「蟲藻」の類は皆かやうな仲間に屬する。單細胞の生物は全身が單一の細胞から成るが、この一つの細胞を以て、運動もすれば消化もし、呼吸もすれば感覺もする。そして生殖するに當つては、通常は簡單な分裂法よつて二疋づつに分れるが、多くの種類ではなほその外にときどき二疋づつ相接合して身體の物質を混ぜ合はすことが行はれる。これは高等生物の雌雄生殖によく似たことで、確にその起原とも見做すべき極めて面白い現象であるから、次に少しく詳細に述べて置かう。

Musimo

[蟲藻]

 

[やぶちゃん注:「原始植物」「原始動物」これらの多くを現在、合わせて界として独立させて原生生物(原生生物。プロチスト。“Protist”。後述)界(プロチスタ。Protista)と呼称している。その内訳は褐藻類・紅藻類といった総ての真核藻類、鞭毛を持つ卵菌類・ミズカビ類などの菌類的生物、粘菌・細胞性粘菌などの旧変形菌門に所属していた生物、そしてアメーバやゾウリムシなどの原生動物から成る。

「みどり蟲」エクスカバータ Excavata 界ユーグレナ門 Euglenida ユーグレナ藻綱ユーグレナ(ミドリムシ)目ユーグレナ(ミドリムシ)科ミドリムシ属 Euglena の総称。参照したウィキの「ミドリムシ」及びそのリンク先によれば、『鞭毛運動をする動物的性質をもちながら、同時に植物として葉緑体を持ち光合成を行うため、「単細胞生物は動物/植物の区別が難しい」という話の好例として挙げられることが多い。これはミドリムシ植物がボド類のような原生動物と緑色藻類との真核共生により成立した生物群であるためである。それゆえミドリムシ植物には Peranema 属のように葉緑体を持たず捕食生活を行う生物群も現存する』(「ボド類」はキネトプラスト類(kinetoplastid)の一種。キネトプラスト(多くのミトコンドリアDNAのコピーを含む巨大なミトコンドリアが集合した円盤状顆粒のこと。この類にのみ存在し、通常は鞭毛基部に隣接している)を持つ鞭毛虫の一群。人間や家畜に深刻な感染症を引き起こす寄生虫のリーシュマニアやトリパノソーマを含むことで有名であるが、それ以外に自由生活性のものも土壌などから見出される)。かつては『原生動物門鞭毛虫綱の植物鞭毛虫などとして扱われた』。ミドリムシは『淡水ではごく普通に見られる生物で』、『止水、特に浅いたまり水に多く、春から夏にかけて水田ではごく頻繁に発生する。水温が上がるなどして生育に適さない環境条件になると、細胞が丸くなってシスト様の状態となり、水面が緑色の粉を吹いたように見える』。〇・一ミリメートル以下の『単細胞生物で、おおよそ紡錘形である。二本の鞭毛を持つが、一本は非常に短く細胞前端の陥入部の中に収まっている為、しばしば単鞭毛であると誤記述される。もう一方の長鞭毛を進行方向へ伸ばし、その先端をくねらせるように動かしてゆっくりと進む。細胞自体は全体に伸び縮みしたり、くねったりという独特のユーグレナ運動(すじりもじり運動)を行う。この運動は、細胞外皮であるペリクルの構造により実現されている。ペリクルは螺旋状に走る多数の帯状部で構成されており、一般的な光学顕微鏡観察においても各々の接着部分が線条として観察される』。『鞭毛の付け根には、ユーグレナという名の由来でもある真っ赤な眼点があるが、これは感光点ではない。感光点は眼点に近接した鞭毛基部の膨らみに局在する光活性化アデニル酸シクラーゼ (PAC) の準結晶様構造体である。真っ赤な眼点の役目は、特定方向からの光線の進入を遮り、感光点の光認識に指向性を持たせる事である』。『細胞内には楕円形の葉緑体がある。葉緑体は三重膜構造となっており、二次共生した緑藻に由来する。従って緑藻同様、光合成色素として』クロロフィルa及びクロロフィルbを持つ。『ミドリムシでありながらオレンジ色や赤色を呈する種もあるが、これは細胞内に蓄積されたカロテノイドやキサントフィルによるものである』とある。ミドリムシは近年、『バイオ燃料の研究や医療技術の転用、環境改善、豊富な栄養素を持つことから食用としての研究が進んで』おり、脚光を浴びている生物群でもある。

「蟲藻」クロムアルベオラータ界 Chromalveolata アルベオラータ亜界 Alveolata 渦鞭毛植物門渦鞭毛藻綱ペリディニウム目ペリディニウム属 Peridinium の仲間(標準種 Peridinium cinctum)である。筑波大学のプロジェクト・ページ原生生物図鑑「霞ヶ浦のプロチスタ」(“Protista”は「原生生物(界)」でエルンスト・ヘッケルによる一八六六年の命名)のペリディニウム属 Peridiniumによれば、単細胞自由遊泳性で光独立栄養性。世界中の淡水・止水域に広く生育するプランクトンで、細胞形態は菱形・球形などを呈する。大きさは10~70µm(マイクロメートル)。細胞前端や後端(縦溝両脇)がときに突出する。細胞は縦溝と横溝を持ち、細胞腹面中央付近から生じる縦鞭毛と横鞭毛が付随している。普通、厚い鎧板があり、細長い橙褐色の葉緑体を多数持つ。二分裂法によって増殖するが、幾つかの種で同型配偶子(通常は栄養細胞と同形)接合による有性生殖が知られている。非常に大きな属で多数の種を含むが、未だ詳しい調査がなされていない種が多数存在する。ダム湖などで大増殖することがある、とある。リンク先の顕微鏡写真では似ても似つかぬと思われるであろうが、以下に掲げるヘッケル「自然の造形」に載る “Alveolata”群の図譜(Ernst HaeckelKunstformen der Natu, 1899-1904)の右中央の「7」を見て戴ければ、これがこの渦鞭毛虫であることがお分かり戴けるはずである。

Peridinea_ernst_haeckel

……しかし……なんと美しいことだろう……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 1 モース、再来日す

 第十一章 六ケ月後の東京 

 一八七八年五月一日

 再びこの日記を、以前記録の殆ど全部を書いた同じ家で始めることが、何と不思議に思われることよ! 米国大陸を横断する旅行は愉快であった。私は、平原地方では停車場でインディアンの群を研究し、彼等の間に日本人に似たある特徴が認められるのに興味をもった。これ等の類似が日本人との何等かの人類学的関係を示しているかどうかは、長い、注意深い研究をした上でなくては判らぬ。黒い頭髪、へこんだ鼻骨等の外観上の類似点、及び他の相似からして、日本人と米国インディアンとが同じ先祖から来ているのだと考える人もある。

 * これ等の類似の一例として以下の事実がある。一八八四年フィラデルフィアに於て、私はオマハ・インディアンのフレッシ氏を菊池教授に紹介した所が、同教授はただちに日本語で話しかけ、そして私が彼に、君はオマハ・インディアンに話しをしているのだといったら、大きに驚いた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースはエレン夫人、十三歳の娘イーディスと七歳の息子ジョンを伴って一八七八(明治一一)年四月一日にサンフランシスコから出帆、風のために難航してやや遅れて四月二十三日、横浜に着いた。この時、後にモースの助教として親しく近似することになる高嶺秀夫と同船し、親交を結んでいる。高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後,女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「インディアン」「の間に日本人に似たある特徴が認められる」ウィキの「インディアン」の「人種」の項には、『人種的にはモンゴロイドの系列にあり古モンゴロイドに分別される(イヌイットとエスキモーなどを除く)。アラスカ、カナダ、アメリカ合衆国北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっており鷲鼻である人が多い。一方、アメリカ合衆国南部、中南米においては東南アジア人に似た部族も存在する等、一様ではない。日本人と似た外見の者も多い。また、ヨーロッパ人(コーカソイド)との混血、アフリカ黒人(ネグロイド)との混血が進んだ部族も存在する。純血の民族はメキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、ペルー、ボリビアなどに多く存在する。しかしブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどのスペイン人と激烈な戦いを繰り広げた地域では、純血な先住民はスペイン人の暴虐な侵略でほぼ絶えている』とある。

「菊池教授」菊池大麓(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵・当時、東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。]

耳嚢 巻之八 篠原團子の事 

 篠原團子の事

 

 江戸市中に篠原團子とて賞翫(しやうかん)す。加賀の篠原にゆえんあるや、また齋藤實盛に由緣あるや、篠原團子、或はさねもり團子など看板出し口ずさみぬるが、みな附會の説にて、篠原團子は江州(がうしう)姥(うば)が餅など商ふ最寄に、篠原村といふあり、至(いたつ)て米性(こめしやう)よきゆゑ、右米にて拵(こしらへ)る故其味ひも佳なりとて、篠原團子ともてはやすと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:旧蹟由来検証譚から品名由来検証譚で連関。但し、この名の江戸前の団子は現在は知られていないようである。

・「賞翫(しやうかん)」「しょうかん」で近世までは清音であった。

・「加賀の篠原」石川県加賀市篠原新町。斉藤別当実盛が討死した場所と伝えられ、篠原古戦場実盛塚がある(但し、地図で見る限りでは現在はここだけが篠原町として陥入している。また、底本の鈴木氏注によれば、これは後の時宗の歴代の遊行上人が巡化(じゅんげ:僧が諸国を巡り歩いて説法し教化(きょうけ)すること。)の際、必ずこの塚の前で念仏供養することを仕来りとするようになり、時宗の唱導家らによって実盛の墓と言い習わすようになったものかと推測される、とある)。

・「齋藤實盛」(大治元(一一二六)年?~寿永二(一一八三)年)は越前国生まれで武蔵国長井に移り住む。源義朝に仕えて長井斎藤別当と称し、保元・平治の乱に参加の後、平家に仕えた。寿永二(一一八三)年に源義仲追討のために北国に発向したが、加賀篠原で討死した。かつて幼き日に駒王丸(義仲)を救った彼は義仲の除名を察知し、老武者と侮られぬために白髪白髯を墨を以って黒く染めて、名乗りも上げずに死に赴いた「平家物語」の話はあまりにも有名。

・「江州姥が餅」東海道五十三次の一つで中仙道との分岐点に当たる近江路随一の宿場町草津の名物。近江源氏佐々木(六角)義賢が慶長三(一五九八)年に信長に滅ぼされた際、その三歳になる曾孫を託された乳母福井とのは郷里であった草津に身を潜めて幼児を抱いて住来の人に餅を売って養育の資として質素に暮らした。そのことを周囲の人たちも知り、乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言い囃したのを由来とするという(一部で滋賀県草津市大路二丁目に現存する「うばがもちや」の公式サイトの「う物語」を参考にさせて戴いた。リンク先ではその後、江戸時代に爆発的にヒットしてもて囃され、家康・芭蕉・蕪村らにも食されたことなど、その後の経緯についても詳しい。必見)。

・「篠原村」岩波版長谷川氏注に『滋賀県野洲郡野洲町。また草津市野路辺を野路の篠原という』とある。前者は現在は野洲市で大篠原と小篠原という名が残る。底本の鈴木氏注には、『両地の距離は十キロ程でしばしば混同される』が、『筆者がいずれをさしていうか不明』とされる。私は今に銘菓を伝えている「うばがもちや」に敬意を表し、後者をとりたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 篠原団子の事

 

 江戸市中に「篠原団子」と申し、しきりに賞翫されておる団子が御座る。

 これは加賀の篠原に所縁(ゆかり)があるものか、または、そこに関われるところの知られた齋藤別当実盛に由縁するものなるか、「篠原団子」或いは「さねもり団子」などと看板を出だし、巷間にも称して御座るが、これ実は皆、牽強付会の説で御座って、「篠原団子」は、これ、近江国にてやはり知られたる「姥(うば)が餅」など商ふ最寄りに、篠原村と申すところの御座って、ここがまた、いたって米の性(しょう)のよき土地柄ゆえ、その米を以って拵えたるによって、その団子の味わいも佳なるものなりとて、「篠原団子」ともて囃して御座ったを、それをまた真似て、江戸市中にても「篠原団子」として売り出だいたるもの――とは、さる御仁の話で御座った。

幻影を追うて  萩原朔太郎

       幻影を追うて

 

『熱情的な詩人』は實際それほどに『熱情的な人物』でない。むしろ彼は、熱情的な何物かを欲求してゐるのである。ある場合に於ては、それが彼の人體の缺陷として思惟される。

 

[やぶちゃん注:『新興』創刊号・大正一三(一九二四)年二月号に「情緒と想念」という総標題で載ったアフォリズム八篇の内の一篇。太字は底本では傍点「ヽ」。これはこれより数年の後に、萩原朔太郎が親しくなった(二人は大正一四年に室生犀星を介して知己となった)生前の芥川龍之介に対して、「芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である。」(萩原朔太郎「芥川龍之介死」より。リンク先は私の電子テクスト)と断じたことを理解する上で、非常に興味深い資料となるものである。]

水市覚有秋 萩原朔太郎 短歌七首 明治四一(一九〇八)年十二月

   水市覺有秋

 

むらさきす路上の花のちひさきを愛づるばかりにゆく車かな

 

千石の水あぶ心地日ぐらしの一時に啼きぬ木蔭路入れば

 

海戀し山に登れば遠山は波のやうなり風の音さへ

 

櫻貝二つ並べて海の趣味いづれ深しと笑み問はれけり

 

[やぶちゃん注:三年前の前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に発表した「ゑかたびら」十二首連作の掉尾の、

 

さくら貝、ふたつ重ねて海の趣味、いづれ深しと笑み問(と)はれけり。

 

の改作。初出に劣る。]

 

大坂やわれをさなうて伯母上が肩にすがりし木遣(きやり)街かな

 

[やぶちゃん注:三年前の前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に発表した「ゑかたびら」十二首連作の一首、

 

大坂やわれ小なうて伯母上が、肩にすがりし木遣り街かな。

 

の標記違いの同一作。]

 

あめつちの途(みち)にははぢぬ我ながら歌を一人の君にかくしぬ

 

ほと〻ぎす女に友の多くしてその音づれのたそがれのころ

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に発表した八首連作の一首、

 

ほとゝぎす女(をんな)に友(とも)の多くしてその音(おと)づれのたそがれの頃

 

の標記違いの同一作。

 以上七首は、第六高等学校『交友会誌』明治四一(一九〇八)年十二月号に掲載された。朔太郎満二十二歳。彼はこの前年九月に熊本の第五高等学校第一部乙類(英語文科)に入学したが、この年の七月に第一学年を落第、同月、岡山の第六高等学校を受験して合格、同年九月に同校第一部丙類(独語文科、独語法科)に入学していた。因みに但し、結局、定期試験を受けずに問題視されて六高も翌明治四十二年七月に落第、翌四十三年四月には慶応義塾大学部予科一年に入学するも同月中に退学(理由不明)、同年六、七月頃には六高もまた退学している(当時、チフスに罹患しており、表向きの退学理由はそれであるように底本年譜の記載では読めるように書かれてある)。学歴の仕切り直しは明治四四(一九一一)年五月の応義塾大学部予科一年の再入学であるが、ここもまたしても六ヶ月後の同年十一月に退学し、これが萩原朔太郎の最終学歴となった。]

杉田久女句集 29 夏袷

衣更て帶上赤し厨事

 

みづみづとこの頃肥り絹袷

 

眉かくや顏ひき締る袷人

 

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、「袷人」は「あはせびと(あわせびと)」。]

 

夏の帶廣葉のひまに映り過ぐ

 

夏の帶翡翠にとめし鏡去る

杉田久女句集 28 松の根の苔なめらかに淸水吸ふ

松の根の苔なめらかに淸水吸ふ

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年二十八の時の作。彼女の句群の中にあるだけでこの叙景が妖艶になるというこれぞ久女マジック。]

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 首夏雜草

 首夏雜草

 

捕虫網子等は穗わたをかゆがれる

 

捕虫網草原に且つ靑かりき

 

捕虫網草原の日に出て燒くる

 

樹々にほひ更衣のあした嵐せり

 

[やぶちゃん注:「首夏」(しゆか/しゅか)は初夏。陰暦四月の異称でもある。]

おほぞらの 水   八木重吉

おほぞらを 水 ながれたり

みづのこころに うかびしは

かぢもなき 銀の 小舟(おぶね)、ああ

ながれゆく みづの さやけさ

うかびたる ふねのしづけさ

鬼城句集 冬之部 河豚

河豚    河豚の友そむきそむきとなりにけり

      將門と純友と河豚の誓かな

[やぶちゃん注:前句「そむきそむき」の後半は底本では踊り字「〱」。次句は平将門と藤原純友が盟約を交わして共同謀議による天慶の乱をそれぞれに起こしたという、室町期の成立と思われる「将門純友東西軍記」辺りによる伝承に基づく歴史仮想吟。同書には偶然に京都で出会った将門と純友が、承平六(九三六)年八月十九日に比叡山に登って、平安城を見下ろしながら「將門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば關白にならん」と誓約、双方が国に帰って反乱を起こしたとするが、それに関わる「河豚」の故事は知らない。単に乱の顛末を射程にした、河豚を食らわば肝までもといった、死を賭した不惜身命の祈誓という諧謔的謂いと取り敢えずは採っておく。]

2014/01/22

悼 十勝のかっちゃん

先日1月15日午前10時13分に筋萎縮性側索硬化症で46歳で亡くなられた十勝のかっちゃんへショパンの「別れの曲」を送ります……安らかに……天国で、同じ病いで旅立った僕の母と一緒に聴いて下さい……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 延命寺の舊址

    ●延命寺の舊址

停車場より二三丁行けば、延命寺の舊址(きうし)あるへし、黄靈山地藏院、古義眞言宗、本尊延命地藏尊、行基の作なり、長六寸五分、當寺は行基の開基にして、僧朝賢中興す、三浦氏及北條氏代々の祈願所なりしといふ、惜しむべし囘祿の災に罹る

[やぶちゃん注:現在、JR逗子駅近く(門前まで三八〇メートル)の当該地(逗子市逗子三丁目)に高野山真言宗黄雲山延命寺、通称、逗子大師として再興されて現存する。同寺公式サイトの「お寺案内」によれば、『奈良時代聖武天皇の天平年中、行基菩薩自ら作られた延命地蔵尊を安置したことが当山の始まりで』、平安時代に『弘法大師が当山に立寄り、延命地蔵菩薩の厨子を設立せられる。その後、住民の尊信が高まり、この地を「厨子」と呼び現在の「逗子」という地名の発祥と伝わっている』とし、鎌倉時代には『三浦氏の一党が大いに当寺を修補して祈願寺と』した。室町時代には『北条氏の三浦攻めに敗れた三浦一族の一人、三浦道香主従は当山に於いて自害する。現在、主従の墓は境内に存す』とある。戦国期には『北条氏の帰依を得、天文年間、僧朝賢が中興の祖となる。天正年間(天正19年11月)には徳川家康公より御朱印五石を下附される。頼雄・尊栄の師資相次いで復興を計り貞享年間(貞享4年)伽藍竣工し新たに大日如来尊像造立して本尊と』して続いたが、近代に至り、本誌刊行の二年前の『明治29年に大火災により鐘楼を残し全て焼失し』て本文のような仕儀となり(但し、公式サイトには廃寺の記載はない)、『更に関東大震災により仮本堂9棟全潰の災厄にあい、第七十一世本瑞代、震災直後直ちに復興に着手し、大正13年11月起工し大正14年に旧本堂を完成』、昭和になって『第七十二代祐瑞代に弘法大師御誕生千二百年記念事業として昭和49年起工し昭和52年4月末完工、新本堂落慶を記念して「逗子大師」と称号し、その後第七十三世神田宜圓代に、檀信徒及び参詣者の増加により旧会館の狭小及び老朽の庫裡等の改築を発願し諸般の協力を得て弘法大師御遠忌千百五十年記念事業として檀徒会館及び庫裡の建築に着手、昭和58年10月着工、昭和59年9月に完成し現在に至る』とある。

「二三丁」約二一八~三二七メートル。

「六寸五分」約一九・七センチメートル。

 なお以下は、底本では全体が一字下げで標題はポイント落ちである。]

   ●三浦道香の墓

五輪塔なり、高三尺許、寺傳に道香は入道道寸の弟なり、道寸北條氏綱と矛盾の時、永正十年七月七日、道香氏綱と此地に戰ひ、軍破れ此寺に入て自害す。寺に道香の帶せし正宗の短刀を傳へしかと、慶長頃失へりといふ、又道香が一族の墓碑六基あり。

[やぶちゃん注:三浦道香(どうこう ?~?)三浦義同(道寸)の弟で逗子住吉城城主。北条早雲によって岡崎城を攻められた道寸は弟道香の守る住吉城に退いたものの、同城も攻められて落城、道寸は三浦新井城に逃れたが、道香は最後まで戦って七騎で落ちのびた末に、ここ延命寺で自刃したと伝えられている。これらは道香とその家臣たちの冥福を祈るために家臣菊池幸右衛門が延命寺に建立したもの。本文には五輪塔とあるが、ネット上の写真(私は未訪問)を見ると孰れも宝篋印塔である。]

耳嚢 巻之八 粂の平内兵衞の事

 粂の平内兵衞の事

 

 淺草寺境内に粂(くめ)の平内の像とて、石を人の形程に作り立髮(たてがみ)にて上下(かみしも)を着し、何かりきみたる像なり。いかなるものと尋(たづぬ)るに、平内兵衞は稻葉家の浪人なりといふ。近頃京傳といへる遊子(いうし)の作りたる奇蹟考といへる書に平内が事しるせしも、甚だ非説なりと、人の語りし故、彼(か)の人に尋問(たづねとひ)しに、右石像は平内兵衞が像にはあらず。平内兵衞は稻葉の浪人には相違なく、右平内兵衞深く禪學を好み、右禪學の師たる鈴木九太夫入道正三(しやうさん)の像を、平内兵衞造立(ざうりふ)なせしよしなり。其證は右像の脇に平内兵衞夫婦の石牌(せきはい)もありとなり。正三は御旗本の健士にて、禪學は名高き人にて平内兵衞も信仰の門弟にて、正三沒後、仁王身(にわうしん)の姿を以(もつて)造立なせしと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:故実譚から旧蹟由来検証で連関。

・「粂の平内兵衞」底本の鈴木氏注に、『平内兵衛長守。九州の浪人で、武技に達し、江戸に出て内藤丹波守政親に仕えたが、再び浪人し赤坂で道場を開いた。千人斬を行ない、折からの正雪の乱が原因で取締りが厳しくなると、旗本青山主膳に身を寄せ、久米氏と改めた。この主膳は番町皿屋敷の主人公であるという。平内はたまたま鈴木正三の門に入って禅を学び、浅草寺の金剛院で修禅し改悟して、滅罪のためにわが像を仁王門の傍において衆人の眼にさらしたものという。天和三年没。ただし異説多く、正確な伝記は明らかでない』とあり、岩波版長谷川氏注には、『小田原城主稲葉丹後守家来で、浪人して浅草に住み久米兵内左衛門長盛と称し金貸をしたが情深しとか、兵藤平内兵衛といい、久米は妻の姓、青山主膳の臣、また千人斬をし鈴木正三門に入り仁王座禅の法を修する、天和三年(一六八三)没などといろいろ伝える』と記されてある。また、稲垣史生「考証 江戸の面影(二)」(電子本)によれば、戦前まで浅草寺宝蔵門脇にこの石像を祀った「粂平内堂」があり、縁結びの霊験あらたかとして参詣人を集めたとあり、講談の伝える石州津和野藩士粂兵内の話を載せるが(江戸市中で弱きを助け強きを挫く血気盛んな壮士で悪人をバッタバッタと斬り倒すも、幡随院長兵衛や柳生但馬守が正道への導き役として登場、遂には殺人の前非を悔いて座禅した自らの石像を手ずから彫り、それをこの浅草寺の地中に埋めて参詣人に踏ませたというぶっ飛び話である)、稲垣氏によれば、この人物について分かっている信ずべき事実は『三州挙母(ころも)藩士で後に浪人、江戸赤坂に道場をひらいて平内流(柳生支流)の剣および鉄扇術をおしえた。天保三年(一六八三)六十六歳で死んだ』ということだけで、「浅草区誌」(上巻)にも、同兵内堂の項には『本尊久米兵内兵衛 由緒未詳 堂宇一坪七合四勺五才』とあるのみとある。

・「立髮」月代(さかやき)を剃らずに長く伸ばした髪形。元禄(一六八八年~一七〇四)頃、伊達男たちに好まれた。

・「遊子」本来は旅人の意であるが、山東京伝は江戸生であるし、ここは「遊士」で、遊び人、放蕩者という卑小語であろう。京伝は寛政の改革中に過料や手鎖五十日の処分(寛政三(一七九一)年に彼の洒落本三作が禁令を犯したという理由による筆禍)を受けており、南町奉行であった根岸の立場上は悪感情はなくとも(事実なかったと思う)、こう綴る必要があったのかも知れない。

・「奇蹟考」「近世奇蹟考」。前にも注したが、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年の直近である文化元(一八〇四)年に板行された山東京伝の考証随筆の白眉。底本の鈴木氏の注には、『江戸時代の著名な人物の逸事を考証した随筆。文学・工芸・遊芸・侠客など各方面に及ぶ』とある。私は所持していないため、ここではその内容が誤っているというコンセプトで訳したが、もしかすると違うかもしれない。識者のご指摘を乞うものである。

・「鈴木九太夫入道正三」仮名草子作者鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年)。本名は「しょうぞう」と読む。元は徳川家に仕えた旗本で、九太夫と称し、石平道人などとも号した。三河国東加茂郡足助郷の徳川家家臣鈴木重次の長子として生まれた。慶長五(一六〇〇)年の関ケ原の戦い、同十九年の大坂冬の陣、元和元(一六一五)年大坂夏の陣に出陣するが、同六年、江戸にて出家したが、寛永一五(一六三八)年には平定された島原・天草の乱に弟重成が出陣して同十八年には天草の初代代官に任じられると、正三も翌年に天草へ渡った。三年間の天草滞在によって仏教への帰依を説き、諸寺を建立、「破吉利支丹」を著した。正三の仏法は「仁王禅」といわれる特異なものであった。著作に『七部の書』とされる「二人比丘尼」「念仏草紙」などがある(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」による)。岩波版長谷川氏注に『晩年は牛込天徳寺内の了心庵にいた』とある。この寺は現在の新宿区赤城元町にあったものらしいが現認出来ない。『七部の書』の一つである没後出版の「因果物語」は近世仏教説話中でも怪談物のとして頗る面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 粂(くめ)の平内兵衛(へいないびょうえ)の事

 

 淺草寺境内に粂(くめ)の平内の像と申し、石を人の形に等身大ほどに作り、立髪(たてがみ)にて裃(かみしも)を着し、何かしらん、力んで御座る像である。

 これはいかなる所縁(ゆかり)のものかと訊ねてみたところが、平内兵衛と申すは稲葉家の浪人であったと申す。

 近頃、

「山東京伝とか申す遊び人の作った「近世奇蹟考」と申す書に、この平内のことを記して御座るが、これ、はなはだしき誤説で御座る。」

と、さる御仁が語って御座ったゆえ、その人にさらに詳しく訊き質いたところ、

「……この石像は平内兵衛が像にては、これ、御座ない。平内兵衛は確かに稲葉の浪人には相違御座らぬが、かの平内兵衛、深く禅学を好み、彼の禅学の師であった鈴木九太夫入道正三(しょうさん)の像を、平内兵衛が造立致いたものと聞いて御座る。その証拠にはかの像の脇には平内兵衛夫婦の石碑もちゃんと御座いまする。」

とのことであった。正三と申すは御旗本の立派な武人にて、禅学に於いては名高き人にて御座って、平内兵衛もその信仰の門弟にて御座って、正三の没後、仁王身(におうしん)の姿を以って造立なしたものであると、その御仁が語って御座った。

中島敦 南洋日記 十二月七日――太平洋戦争勃発前日――

        十二月七日(日) 晴、暑し

 朝テニアン行のつもりにて用意をとゝのへ、小田電機に行くに、高里氏やめにするといふ。明日タロホホに行かんといふ。

 實業學校の國書室より本を借出して謹む。鏑木淸方「蘆の芽」山口剛「紙魚文學」を讀了。

[やぶちゃん注:「タロホホ」サイパン島中央部やや北寄りの東方の地名。当時は泉村とい日本名が附いていた。

『鏑木淸方「蘆の芽」』相模書房昭和一三(一九三八)年刊。明治の末頃からの風俗などを含む随筆集。著者の挿絵が数多く所収されており、知られた清方の好きだった樋口一葉の絵も所収する。「窓硝子の中」氏のブログ「以下余白」の「蘆の芽。鏑木清方著。」で表紙(函のそれと思われる)と一葉の絵が見られる。

『山口剛「紙魚文學」』三省堂昭和六(一九三一)年刊。山口剛(たけし 明治一七(一八八四)年~昭和七(一九三二)年)は国文学者。大正一三(一九二四)年に母校である早稲田大学教授となった。近世文学研究の基礎を築き、井原西鶴・近松門左衛門の研究で知られ、中国文学の翻訳書もある。著作に「西鶴・成美・一茶」「江戸文学研究」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。本書は発売の前年に逝去した母に捧げられた随筆集で、山口の生前最後の著作である。

 この日附のたか宛書簡が残る。以下に示す。

   *

〇十二月七日附(消印サイパン郵便局一六・一二・七。世田谷一六・一二・二〇。パラオ南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。封書。航空便)

十二月三日、サイパンといふのは島の名前で、僕の今ゐる町(サイパンの港のある町)はガラパンといふ。彩帆(サイパン)柄帆(ガラパン)といふ漢字をあててゐる。今日はガラパンの町から二里近く離れたチャランカ(茶蘭花)といふ町へ行つた。バスで。ここは砂糖會社のある所。ここの國民學校へ寄つて、二年生の授業をのぞいたら、丁度「よみかた」四の、かぐやひめの所をやつてゐた。桓もきつと、今頃この邊(へん)を習つてゐるんだらうと思ひながら、見て來た。風が強いのは、涼しくていいが、ほこりが立つて、かなはぬ。靴がまつ白になる。とにかく、どうしても十二月のやうな氣がしないね。毎日普通の御飯のほかに、燒いも二百匁と、バナナ二十本ぐらゐ喰べるんだよ。少し胃擴張(かくちやう)になるかもしれないね。パラオに歸つたら、こんなに喰べられないから、今の中に、たべとくんだ。

 十二月四日、今日、チャランカより、もう少し遠いアスリートといふ所へ行つた。あたり一面のさとうきび畑(甘庶(かんしよ)畑)。さとうきびは、すすきみたいな穗(ホ)を出すんだね、それが風になびいてゐると、一寸内地の秋の野原のやうだ。サイパンは中中大きい島だな。今日はバスがないので、郵便局の赤白動車に乘せてもらつて行つた。

 十二月五日、今日も赤自動車にのつけて貰(もら)つて、マタンシャといふ所に行く。海岸の景色の良い所だ。ここも山の中腹までずうつと、甘庶(さとうきび)畑がつづいてゐて、みごとだ。今日は、ここへ來て始めてほんの少し雨が降つた。この前トラックにゐた時は二十日間ぶつつゞけに雨が降つたが、今度は、まるで降らない。へんなものだね。

 田舍道の自動車はずゐぶんゆれるので、かなり疲(つか)れる。三日間田舍行きがつゞいたから、明日は休みにしよう。ガラパンの町には岩波文庫を少し竝べてゐる店があるので、毎日一さつづつ買つて讀んでゐる。僕一人で、ここの岩波文庫を買占めて了ひさうだ。

 十二月六日。昨日、内地からの船が着いたので、今日は、町の店といふ店が活氣づいてゐる。色んな品物が一ペんに來るので、買手の方も今日は急(いそ)がしい。今日はじめて内地の蜜柑(ミカン)を二つ喰べたよ。柿(カキ)も來たといふことだが、僕等の手には、はいらなかつた。(みかんの方は。パラオ迄行くけれど、柿はパラオ迄行かない。遠いので、日數がかかるので駄目になるから、)南貿(ナンポウ)(南洋貿易(ボウエキ)株式會社)といふ小さな百貨店へ行つて、文藝春秋(十二月)を買ひ、それから、そのほかの中央公論や改造や、色んな雜誌をガツガツ立ち讀みして來た。サイパンはさすがに雜誌が早く讀めていいな。この舶船はパラオへ行かない船なので、十二月號の雜誌は、パラオでは十二月二十五日頃でなければ讀めない。大變な違ひさ。今日は罐詰(カンヅメ)なんか、方々の店に一杯竝んでゐる。何だか心丈夫だね。サイパンは藥(くすり)も、パラオより、ずつと、やすい。パラオでは八十五錢のビオフェルミンが、サイパンでは七十五錢だし、パラオで一圓六十錢のエビオスが、ここでは一圓三十五錢。それにナガヰのではないが、とにかくエフェドリンもあるし、(パラオには絶對(ゼツタイ)に無い)、サイパンで藥を少し買ひためて行かうと思つてゐる。大陸、サイパンはパラオにくらべて、三割以上、(何でも)物價が、やすいさうだ。八百屋の小賣の公定(サイパンだけの)價格を教へてやらうか。今、目の前に、その表(ヘウ)がはりつけてあるんだ。それに依(よ)るとね、「百匁について、茄子(九錢)バナナ(五錢)サツマイモ(四錢)キウリ(八錢)里芋(七錢)ヤマノイモ(とろろいも)(七錢)大根(九錢)」となつてゐる。ほかのものは、とにかく、いも類と茄子(ナス)だけは毎日たくさん喰はせられるよ。

 今日は、南興(ナンコウ)水産といふ會社のサイパン出張所長の鈴木といふ男に會つた。一高を僕より一年前に出た男だ。釘本と同級さ。とにかく、此の土地では一流の名士らしい。ずゐぶん、いそがしさうだ。晝飯を御馳走してくれた。南洋には今の所、一高の同窓生は僕とこの男と二人しかゐないんだよ。土地では大變評判(ヘウバン)の良い男らしいぜ。

 前にも書いたが、僕の今泊つてゐる家も、細君が内地へ歸つてゐるので、夜は、俄(ニワカ)(男)やもめ二人で、わびしいこと夥(オビタダ)しい。アメリカとの間が、決裂となつた場合、出張中のオレなんか一體どういふことになるのやら、まるで見當(ケンタウ)もつかない。其の時にならなければ、何もかも判(ワカ)らない。

 考へても仕方のないことは考へないことにして、まづ當分の間バナナといもばかり喰つてゐることにしよう。

 十二月七日。今日は日曜。朝、島民の集まる教會へ行つて見た。讚美歌(サンビカ)は中々上手だ。島民の女達の一番うしろに、日本人の女が一人、ひざまづいて祈(イノ)つてゐた。ちやんとよそ行きの和服を着てゐるが、顏は、白い薄布(ヴエイル)で覆(おほ)つてゐるので見えない。わざと、顏をかくしてるんだと思ふ。日本人だつてカトリック(伊庭なんかが行つてた教會と同じ)の信者があつたつて、フシギではないわけだが、島民の中に、たつた一人まじつて、島民の言葉のお祈(いの)りにあはせて頭を下げてゐるのは、何だか、いたましいやうな氣がした。

 今日の午後は、テニアンといふ島へ渡つて、そこで三四日とまつて來るつもりだ。テニアンにゐる間に内地行の飛行機が來るだらうから、この手紙は、少し早すぎるけど、今日ここでポストへ入れて郵便局へ出しておくことにする。テニアンからは飛行便が出せないので。

 テニアンへはポンポンで二時間位だが、風が強いから相當ゆれるだらう。テニアンには島民は一人もゐない。日本人ばかり。それも南洋興發(コウハツ)といふ砂糖會社に關係した人ばかり(甘煮畑の農民等)のゐる所。僕の仕事には何のあまり關係のない所だが、日本人の國民學校が四つばかりあるので、一寸見て來るんだ。

 オレが手紙ばかり出すもんだから、お前も大分南洋の島の名前をおぼえたらう? 自分が旅行したやうな氣になつてるんぢやないかい?

 テニアンから歸つて、ヤップ向けの船にのる迄の間――十日から十七・八日頃迄の間に、お金(十二月分)を送るつもり。旅先で、旅費の中から送るんだから、いつもの通り送れるか、どうか判(ワカ)らない。パラオへ歸つたら直ぐ足(タ)りない分を送る。お年玉も送らう。但し、これはミンナ、情勢に變化のない場合のことだ。いざとなつたら、全然送れなくなるかもしれぬ。

 パラオよりは涼しい、とは、いふものの、日中(ニツチユウ)の暑さは、相當なものだ。太陽の直射(チヨクシヤ)の強さ、といつたら、ないね。手の甲から、見てゐる中(ウチ)に、プツーリと汗(アセ)の玉が湧(ワ)き出してくるよ。もう内地の冬なんて、とても考へられないな。あゝあ、暑い暑い。

 年内に、南洋から、そちらへ行く船がないから(そちらから來る船はある)これからは飛行便ばかりだ。

 桓の、この學期の成績が惡くても、叱(しか)らないでくれよ。學校がかはると、色々勝手が違つて、うまく行かないものだし、又、色んな心理的な動搖(ドウエウ)のことも考へに入れてやらなければ可哀さうだ。たゞ、おだやかにはげましてやつてくれ。

 お前達は、もう世田谷の生活に慣れたらうが、しかし、オレの想像の中には、本郷町の家にゐるお前達しか、浮かんでこない。オレの書さいの机の下にゴソゴソもぐりこんでくる格や、スコップをもつて、花だんをつつついてゐる格や、家(ウチ)の前の道で遊んでゐる桓や、牛屋のだんだんの所でオレの歸りを待つてゐる桓や、墓所でをかしな歌をうたひながら、仕事をしてゐるお前やそんな昔のすがたばかりが何時も眼の前に浮かんできて仕方がない。

   *

太字は底本では傍点「ヽ」。

・「二百匁」「百匁」一匁は三・七五グラムであるから百で三百七十五グラム、二百で七百五十グラム。

・「ナガヰのではないが、とにかくエフェドリンもある」気管支喘息の特効薬エフェドリンの発見者長井長義(弘化二(一八四五)年~昭和四(一九二九)年)は半官半民の大日本製薬合資会社(後の大日本製薬株式会社、現在の大日本住友製薬株式会社)の技師長を務めていたことがあるから、同成分の製剤を同社が「ナガヰのエフェドリン」として販売していたものかとも思われる。

 ほん書簡中の、「アメリカとの間が、決裂となつた場合、出張中のオレなんか一體どういふことになるのやら、まるで見當(ケンタウ)もつかない。其の時にならなければ、何もかも判(ワカ)らない」及び「但し、これはミンナ、情勢に變化のない場合のことだ。いざとなつたら、全然送れなくなるかもしれぬ」の部分に着目されたい。……この日記と書簡が書かれたのは昭和一六(一九四一)年十二月七日……真珠湾攻撃の前日なのである……]

萩原朔太郎 短歌二首 明治三九(一九〇六)年十一月

おどろきぬ日輪みれば紅熱してひまわりばなとくちづけするに

 

お染さまあれ久さまとより添ひてふたりゆく手に闇のあやなき

 

[やぶちゃん注:『無花果』(明治三九(一九〇六)年十一月発行)に「美棹」の筆名で掲載された。朔太郎満二十歳。「ひまわり」はママ。この第一首は先に掲げた『坂東太郎』第四十四号(明治三九(一九〇六)年七月発行)の一種と表記違いの同一歌である。]

杉田久女句集 27 青嵐

萱の中に花摺る百合や靑嵐

 

一間より僧の鼾や靑嵐

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年 櫓山荘

 櫓山莊

 

夫の手に壁炉の榾火たきつがれ

 

[やぶちゃん注:「炉」は底本の用字を採った。「櫓山莊」については既注。]

胡蝶   八木重吉

へんぽんと ひるがへり かけり

胡蝶は そらに まひのぼる

ゆくてさだめし ゆえならず

ゆくて かがやく ゆえならず

ただひたすらに かけりゆく

ああ ましろき 胡蝶

みづや みづや ああ かけりゆく

ゆくてもしらず とももあらず

ひとすぢに ひとすぢに

あくがれの ほそくふるふ 銀糸をあへぐ

 

[やぶちゃん注:二箇所の「みづや」はママ。「銀糸」とは嬰児キリストのベツレヘムからエジプトへの逃避の途上、追手を眩まし、且つ、夜の砂漠の冷たい風から防ぐために蜘蛛が張った糸のイメージだろうか。識者の御教授を乞うものである。]

鬼城句集 冬之部 笹啼

笹啼    笹啼や蕗の薹はえて二つ三つ

[やぶちゃん注:「笹啼」「笹鳴き」は冬にウグイスが舌鼓を打つように「チチッ」と鳴くこと。]

2014/01/21

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 一 細胞(3) 細胞という存在の様態

 以上述べた如く、細胞にも組織にもさまざまの種類があるが、これは皆身體を組み立てる材料であつて、如何なる器官でもそのいづれかかより成らぬものはない。身體を家屋に譬へて見れば、種々の組織は板・柱・壁・疊などに相當するもので、肺・肝・腸・胃などの器官は恰も玄關・居間・座敷・臺所などに當る。即ちこれらの器官は形も違ひ働きも異なるが、いづれも若干の組織の組み合せで出來て居るといふ點は相均しい。されば細胞が集まつて組織を成し、組織が組み合つて器官を成し、器官が寄つて全身を成して居るのであるから、細胞は身體構造上の單位とも見做すべきもので、これをよく了解することは身體の如何なる部分を論ずるに當つても必要である。そして各細胞の壽命は全身の壽命に比して遙かに短いから、絶えず新陳交代して居るが、子供が漸々成長するのも、病氣で瘦せたのが囘復するのも、皆その間に細胞の數が殖えることによる。恰も毎日人が生まれたり死んだりして居る間に、三千五百萬人が四千萬人五千萬人となつて、日本民族が大きくなつたのと同じである。

 

 また人間でも他の生物でも親なしには突然生ぜぬ通り、細胞の殖えるのも決して細胞のない處へ偶然新な細胞が生ずるといふ如きことはなく、必ず既に在つた細胞の蕃殖によつて數が增してゆくのであつて、その際には毎囘まづ始め一個の細胞の核が分裂して二個となり、次に細胞體も二個に分れてその間に境が出來、終に二個の完全な細胞になり終るのである。但し場合によつては核が分裂しただけで細胞體は分れぬこともあり、また細胞と細胞との境が消え失せて相繫がつてしまふこともあるから、實物を調べて見ると幾つと算へてよいか分らぬやうなことも往々ある。特に或る種類の海藻では、大きな體が全く境界がない原形質から成り、その中に無數の核が散在して居るだけ故、細胞といふ字は全くあて嵌らぬ。生物體は細胞より成るといふのは決して間違ではないが、かやうな例外とも見える場合のあることを忘れてはならぬ。

Saibounakisourui

[細胞のない海藻類]

[やぶちゃん注:図「細胞のない海藻類」であるが、これは緑藻綱イワズタ目イワズタ科イワズタ属タカノハズタ Caulerpa sertularioides f. longipes に似ているように私には思われる。匍匐茎が円柱状に見える点、奇麗に鷹の羽状に揃った小枝が平面的に広がって陸上の草のように見え、さらに先端部が尖っている点、直立葉の軸が直線状に立ち上がっている点などから、かく同定した。]

中島敦 南洋日記 十二月六日

        十二月六日(土) 晴、

 高里氏に電話を掛けて貰ひ、鈴木榮氏に會ふことにする、正午、南興水産の事務所に高里氏と行き、よか樓にて晝餐の馳走に預かる。昭和四年卒業文乙、釘本松島等と同級者なり。

[やぶちゃん注:「昭和四年卒業文乙」文乙はドイツ語。敦は大正一五(一九二六)年四月に第一高等学校文化甲類(英語)入学であるが、翌年の春に肋膜炎罹患により一年休学しているため、卒業は昭和五(一九三〇)年四月である。

「釘本」一高の旧友釘本久春。既注。

「松島」釘本と並列している以上、やはり一高の旧友と思われるが、不詳。]

中島敦 南洋日記 十二月五日

        十二月五日(金) 曇・晴、雨、

 昨夕七時より今朝六時迄熟睡、更に朝食後、七時半より九時半より採椅子によりて眠る。快適。正午高里氏と赤自動車に乘る、今日はマタンシャ行なり。築港、軍の建物。松林中の油樽、陸稻畑。珍し。綿花、キャッサバ、甘庶。タナバコの島民部落、教會。一時マタンシャ國民學校に着く、前は細きメリケン松の海岸、背後は山、風景佳。海沿ひの一本道を行くこと三十分餘。キャッサバ畑、甘庶畑。遙か山の中腹に及ぶ迄甘庶の穗。沖繩人の家。牛、山羊。家に歸る小學校生徒。甘庶の葦を嚙れる兒。海、リーフ線の白き一線。マタンシャに歸り、松林の中にて海風に肌をさらしつゝ、「家畜系統史」を讀む。面白し。四時又、赤自動車に乘る。

 今日は珍しく埃立たず、

[やぶちゃん注:「マタンシャ」サイパン島西岸北方の南寄りにある地域名。今回、この地名を捜すためのネット検索の中で、貴重な戦前の多くの地図と写真を含むサイト「サイパン パウパウツアーズ」のサイパン島の古い地図や資料を発見した。必見である!

「タナバコ」マタンシャの南に接する地域名。南で当時のガラパン町に接する。

「家畜系統史」スイスの動物学者コンラット・ケルレル(一八四八年~一九三〇年)の著で加茂儀一訳の岩波文庫昭和一〇(一九三五)年刊のものであろう。岩波書店公式サイトの解説によれば、『数千年にわたって,われわれ人類の親しい友としてともに歴史を歩んできた家畜たち.犬,猫,馬,豚,ラクダ,牛,山羊,羊や家禽類の系統を野生時代から現在へと概観する.個々の家畜については,それぞれくわしい研究もあり,書物も多いが,本書のように,総括的にしかもコンパクトにこれをまとめたものは少ない.写真・挿絵40葉』とある。]

中島敦 南洋日記 十二月四日

        十二月四日(木) 晴

 午前十時半バスにて、高里氏とチャランカ。それより郵便局の赤自動車にてアスリートに赴く、丘の起伏一面に亙る丈高き甘煮。薄の如き、長き穰の靡き。碧空を割るタッポウチョウの頂。國民學校は四方、軍の施設に取圍まれあるものの如し、南陽神社。電信兵の練習、風、甘庶の穗を吹いて、秋の如し。四時、又、赤自動車に搖られ埃の道を歸る。

 夜近江丸入港

[やぶちゃん注:「アスリート」現在のチャランカの西方、サイパン島南部の内陸を南北に走る道に“Aslito Rd”という道路名とその中ほどにアスリートを冠した地名が認められる。

「タッポウチョウ」タポチョ山(Mt.Tapochau)。サイパン島の中央に聳えるサイパン島最高峰の火山。タッポーチョ山とも表記する。標高は四百七十三メートルと低いものの、太平洋の洋上を吹き抜ける気流がこの山に当たることにより気流が乱れるため、天候の変化が激しく、山頂部は霧がかかり気温が低く、温帯気候となっている。そのため、標高によって植生が異なり、山麓には熱帯林が広がっているが、山頂部にはススキの草原が広がっている。サイパン島は世界最深のマリアナ海溝の隆起した部分であり、タポチョ山の山底はその海底にある。そのため裾野に当たるマリアナ海溝から測るならば、実に一万千三百八十四メートルの高さがあり、ハワイ島のマウナ・ケア山と同様、世界で最も高い海底山の一つである(以上はウィキの「タポチョ山」に拠った)。]

中島敦 南洋日記 十二月三日

        十二月三日(水) 晴、
 朝支廳、八時半、高里氏とチャランカに行く。バス。海沿の埃道。興發。ハマチリの竝木宜し。國民學校に行く。二年生よみ方「かぐやひめ」見學。晝食をよばれて、村役場に少憩、後、ガラパンに歸る。
[やぶちゃん注:現在のサイパン島西岸のガラパンから七キロメートルほどの海岸線にチャランカノアという地名を見出せる。
「ハマチリ」不詳。識者の御教授を乞う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 52 モース、一時帰国の途へ 第十章~了

M297
図―297

 

 先日河に沿って歩いていたら、迫持(せりもち)の二つある美事な石の橋があった。その中央の橋台には堅牢な石に亀が四匹、最も自然に近い形で彫刻してあるのに気がついた(図297)。

[やぶちゃん注:この橋不詳。挿絵もあり、橋脚の亀の彫刻といい、特徴的である。知っておられる方は是非、御一報を。]

 

 汽船は十一月五日に出帆することになっている。私は送別宴や、荷づくりや、その他わ仕事の渦の中をくるくる廻っている。学生の一人は荷物を汽船へ送る手伝いをし、松村氏は私が米国へ生きた儘持って帰らねばならぬサミセンガイの世話をやいてくれた(これは生きていた)。私の同僚及び親愛にして忠実なる学生達は、停車場まで送りに来てくれた。横浜で私は一夜を友人の家で送り、翌日の午後は皇帝陛下の御誕生日、十一月三日を祝う昼間の花火の素晴しいのを見た。これは色のついた煙や、いろいろな物が空中に浮び漂(ただよ)ったりするのである。大きな爆弾を空中に投げ上げ、それが破裂して放射する黄、青、緑等の鮮かな色の煙の線は、空中に残って、いろいろな形を現す。その性質と美麗さとは、驚く可きものであった。夜間の花火は昼間程珍しくはなかったが、同様に目覚しかった。港の船舶は赤い提灯で飾られ、時々大きな火箭(ひや)が空中に打上げられて、水面に美しく反射した。

[やぶちゃん注:「皇帝陛下の御誕生日、十一月三日」天長節。当初は旧暦九月二十二日であったが、明治六年の改暦以降は新暦に換算した十一月三日となっていた。但し、当時は休日ではない。後の昭和二(一九二七)年三月四日に当時の休日法「休日ニ関スル件」が改正されて祝祭日に設定された。

「花火」ウィキの「花火」によれば、『打揚花火は、1751年(宝暦元年)に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている』とあり、この伝統的な古い花火がこのモースの「昼間の花火の素晴し」さと一致する。また『明治時代になると、海外から塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで出せなかった色を出すことができるようになったばかりか、明るさも大きく変化した』とはあるものの、これらの物質の輸入開始は明治一二(一八七九)年から明治二〇(一八八七)年にかけての時期に『段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある』とあるから、今のようなカラフルな花火をイメージしてはいけない。]

 

 我々は十一月五日に横浜を出帆し、例の通りの嵐と、例の通りの奇妙な、そして興味のある船客とに遭遇した。然しこれ等の記録はすべて個人的だから略す。ただここに一つ書いて置かねばならぬことがある。船客中に、支那から細君と子供達とを連れて帰る宣教師がいた。この家族はみな支那語を話す。私は「ピース・ポリッジ・ホット」を子供達とやって遊び、彼等の母親から支那語の訳を習って、今度は支那語でやった。もう一人の宣教師は、立派な支那語学者で、私に言葉の音の奇妙な高低を説明してくれた。上へ向う曲折はある事柄を意味し、それが下へ向くと全然別の意味になる。我々は――すくなくとも私は――正確な曲折を覚えることが出来なかった。そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった。

 

 頭 隠気な 帽子

      {苦痛が多い

 頭 隠気な{ぶるぶる 振える

      {同じこと

 頭 隠気 歩く

 古い 時の 竈(かまど)

[やぶちゃん注:「{」は底本では三行に渡る大きな一つの「{」括弧である。]

 

 彼はそこでそれを漢字で書き(私はそれをここへ出した。図298がそれである)、私には判らなかった曲折の形式を、漢字につけ加えた。

M298

図―298

 

 私は一人の日本人に「ピース・ポリッジ・ホット」を訳し、彼等の文章構成法に従って漢字を使用してそれを書いてくれと頼んだ。次にそれを別の日本人に見せ、済みませんが英語に訳して下さいと頼んだ結果、以下の如きものが出来上った。

 

 Pea juice is warm

 And cold and in bottle

 And has already been

 Nine days old.

 

[やぶちゃん注:最後の英文は前とバランスをとるため、前後を一行空きとした。この段落最後には底本では石川氏による以下の割注〔 〕で附されてある。

   *

ピース・ポリッジ・ホットとは、

 Pease Porridge hot,

 Pease Porridge cold,

 Pease Porridge in the Pot

 Nine Days old

 云々と、意味のないことをいって遊ぶ子供の遊戯の一である。

   *

これはマザーグースの古い童謡であり、日本の「せっせっせーのよいよいよい」のような手合わせ遊びの歌でもある。遊び方は英文ウィキの“Pease Porridge Hotに詳しく、メロディも聴ける。サイト「ミント音声教育研究所」の「Pease porridge hotによれば、一例として以下の様な歌詞があるので引用させて戴く(訳文と解説は諸星蝸牛氏)。

   《引用開始》

Pease porridge hot

豆のシチューがあったかい

Pease porridge cold

豆のシチューがつめたい

Pease porridge

豆のシチューがなべの中

Nine days old.

9日古い

Some like it hot

ある人は好きあったかいのが

Some like it cold

ある人は好きつめたいのが

Some like it in the pot

ある人は好きなべにあるのが

Nine days old.

9日古い

 

[やぶちゃん注:以下は、「解説」パート。]

 

日本の「せっせっせ」のような、手合わせ歌です。

だんだん速く歌いながら手を叩き合って、寒さを吹き飛ばしたそうです。

Pease

 昔の言葉で pea えんどう豆 の複数形です

Pease porridge hot

 いまでもイギリスでは寒い冬の朝に食べるおかゆで、燕麦の粉を水やミルクで煮て作る濃いスープで、トロットしています

 アメリカで言う オートミール のことです

Nine days old

 一度作っておいて、食べるときには、暖め直します

 1週間以上もつのですね!?

   《引用終了》

「言葉の音の奇妙な高低」中国語の四声。

 

『そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった。……』この部分、原文を以下に歌詞も含めて示して、ちょっと考察してみたい(括弧の用法は本文と同じ)。

……and the missionary said it conveyed the following meaning to him: —

                Head murky hat

                           Painful

                Head murky shaky

                           all the same

                Head murky walk

                Old time furnace

これはちょっとわかり難いが、ネィテイヴの英語の発音を中国語として聴くと次のように言っているように聴こえる、ということではなかろうか? 二行目の三つの並列は奇妙でこれは“cold”が三様に聴こえたことを意味しているものと思われる。

 例えばこれは全くの私の推測であるが、試しにそれらしい語を捜して現代中国語の拼音(ピンイン)と漢字表記を以下に示してみたい(中国語の出来ない私が暴虎馮河で中日辞書をひっくり返して思い付いたことでしかないのでご注意あれ。但し、以上に述べた如く、二行目と三行目を読み換えて考えて見た)。 

Pease”は“pītóu” (「劈頭」:副詞で「真っ向から」「いきなり」の意。)とかに

porridge”は“píqi  yīnyù”(「脾气阴郁:「性格が陰鬱な」の意。)とかに

pot”は“mào”(「帽」:「帽子」の意。)とかに

cold”は三様に聴こえて

  kǔ”(「苦」:形容詞「苦しい」「つらい」の意。)のようにも

  dǒu”(「抖」:動詞「震える」の意。)のようにも

  tóng”(「同」:形容詞「同じ」。訳は名詞節化してあるが、英文を見る限り問題ない。)のようにも

in the pot”は、この一語で“xíngzǒu”(「行走」:動詞「歩く」「通る」の意。)とかに

Nine”は“niánmài”(「年邁」:形容詞「老齢の」「高齢である」の意。)とかに

Days” は“diǎn”(「点(點)」:名詞で「定められた時刻」の意がある。)とかに

old” は“huǒ”(「火炉」:「ストーブ」「炉」の意。)とか“lúzi”(「炉子」:「竈」「ストーブ」の意。)とかに

 

に聴こえる、というようなことなのではなかろうか? ネット上のネイティヴ発音の音声なども参照にしたが、もっと相応しい語もあるであろう。また、私のこの部分全体の解釈方法そのものに対する疑義や反論もあろうかとは存ずる(但し、この注作業の中で私のコンセプトは恐らく正しいという自信は得られた気がする)。大方の御助言と御批判を俟つものである。現在、中国語に堪能な教え子とともに新たに仕切り直して再考証中。ちょっとだけ述べておくと、どうもこれは、モースたちの下手な中国語ではこういうトンデモない意味になってしまいますよ、ということなのではなかろうか?(これこそ真のピース・ポリッジ・ホットだ!)しばしお待ちあれかし!

 

「彼はそこでそれを漢字で書き(私はそれをここへ出した。図298がそれである)、私には判らなかった曲折の形式を、漢字につけ加えた。」原文は“Then he wrote it in Chinese characters, which I have appended (fig. 298), with the form of inflection, which I did not understand, marked on the character.”。後の「漢字」は「文字」(アルファベット)の誤りである。現在の拼音のそれのように附してあるということである(現在の拼音は一九五八年の中華人民共和国の制定になる漢語拼音方案によって生まれた)。

「図―298」を電子化しておく。但し、モースが附した四声染みた記号は形が判然としない(しかもどうも当該文字に示すのではなく、語全体に附している感じがして記号そのものの意味が明確でない)ので省略した。モースの筆記体は非常に読み難い。教え子の手を借りて、とりあえず以下のように判読した。

 豆粥熱  Dau chuk it

 豆粥凍  Dau chuk dung

 豆粥响煲 Dau  chuk  heung  bo

 九日老    Kau  yat  lo

「煲」(とろ火で長時間煮るの意)は元画像では「保」+「灬」であるが、表示可能な字体で示した。なお、今のピンインとは全く一致しないので要注意。例えば現代中国語普通話(北京語)の「豆」は“dòu”、「粥」は“zhōu”で、「熱」は“rè”、「凍」は“dòng”である。「响」は「響」の異体字で“xiǎng”(アルファベット綴りがやや近い。但し、これだと何だか意味が通じないのだが)である。試みに現代中国語普通話(北京語)拼音で示して見る。

 豆粥熱   Dòu  zhōu  rè

 豆粥凍   Dòu  zhōu  dòng

 豆粥响煲 Dòu  zhōu  xiǎng  bào

 九日老      jiǔ  rì  lǎo

以下、現在、教え子がさらに考証中で、少し述べておくと、このモースの写した発音記号は北京語ではなく、広東語の由。今、暫くこちらもお待ちあれかし!

【二〇一四年二月十日追記開始】

 以下は中国語に堪能な教え子が非常な苦労をして考証して呉れた一部始終である(一部表記に変更を加えたが、殆んど元のメールのままである)。モースの本記載について、ここまで分析した人物は恐らく今までにいないものと私は考える。そうして殆どの人々(日本人のみならず世界中の本書を読んだ人々)がどこか曖昧なままに読み過ごしてきたこの箇所を目から鱗で日本語で解説してくれた教え子に私は心から快哉を叫びたい。

   《引用開始》

 先生、私なりの解答です。

 まず、これは間違いなく広東語です。熱をit(北京語はre)、日をyat(同ri)と発音していることから明白です。

 さて、もうひとつの大きな論点。

『そしてこの宣教師は「ピース・ポリッジ・ホット」が、我々式の発音では次のような意味になるといった』

という文章の意味がどうにも取りにくいことです。一体「我々式」とは何のことでしょう。英語を母語とする人々のことなのか……。

 いや、どうもしっくり来ません。その時はたと気づいたのです。

「モース先生式の下手な発音では、こんな意味の中国語に聞こえてしまうよ。」

と宣教師がたしなめたのではなかったか?

 そうに違いありません。

 では宣教師の耳に聞こえたモース先生の中国語の歌を漢字で書き起こすことに挑戦してみます。細かい検証は後にし、まず先に私の結論を示します。

 

頭濁役

頭濁(痛・動・同)

頭濁向歩

古日爐

 

 それでは説明いたします。宣教師の書き残した漢字による歌詞は次のようなものです。

 

豆粥熱

豆粥凍

豆粥响[注1]

九日老

 

[注1:これは「呴」と読めなくもないが、そうだとしたら広東語の読みは「ホーイ」、最後にn音が現れないため手書きの発音記号と大きく異なり、無理が生じてしまうのです。]

 

 では、広東語の発音を書き記します。広東語に不案内な私は以下に記す広東語発音提供サイトで読みを自分の耳で聞きました。そしてアルファベットによる発音表記と、実際に耳で聞いた場合の聞こえ方には、かなりの違いがあることに驚きました。そこで読み方を音としてイメージしやすいように、敢えてカタカナで表現してみます(発音が複数ある場合にはそれらのひとつを私の判断で採用しました)。(参考サイト:http://humanum.arts.cuhk.edu.hk/Lexis/lexi-can/

 

dau6 zuk1 jit6                  ダウ ジョッ イッ

dau6 zuk1 dung3                 ダウ ジョッ ドーン

dau6 zuk1 hoeng2 bou1           ダウ ジョッ ヘーン ボーウ

gau2 jat6 lou5                  ガウ ヤッ ローウ

 

 モース先生自身による英語の記述によれば、宣教師はモース先生の下手な中国語発音だと次のような意味なると言ったとのことです。

 

Head murky hat

       Painful

Head murky  shaky

            all the same

Head murky walk

Old time furnace

 

 さて、ここからが頭の体操となります。上記の英語の意味を持ち、且つ先に示した発音に近い広東語を特定させていく作業です。以下、補足が必要な箇所だけ説明を加えます。

 murkyは「薄暗くて陰気な」という意味がありますが、これを表わす漢字で「ジョッ」に近い発音を持つものは見つけられませんでした。そこでmurkyのもうひとつのニュアンス「どんよりと濁った」で物色すると、まさに「濁」に出会いました。発音はzuk6です。

 Hatは「帽子」ですが、これを意味する漢字で「イッ」に近い発音を有するものは見出せません。そこでhatの別の意味である「仕事、職業、役職」で探すうち、「役」を見つけました。発音はjik6です。

 shakyですが、その意「震える、揺らぐ」では解決しません。そこで頭を柔らかくして「揺れる、動く」というニュアンスで見つけたのが「動」です。発音はdung6です。

 Walkは「ヘーン ボーウ」にあたる部分です。件のサイトで同じ発音を有する字を検索し、そこから見出したのが「向歩」。発音はhoeng3 bou6

 

 では最後にもう一度、私の解答を示し、その発音記号、そして耳で聞いた場合のカタカナ表記をお示しします。

 

頭濁役

頭濁(痛/動/同)

頭濁向歩

古日爐

 

tau4 zuk6 jik6                  タウ ジョッ イッ

tau4 zuk6 (tung3/dung6/tung4)   タウ ジョッ (トーン/ドーン/トンー)

tau4 zuk6 hoeng3 bou6           タウ ジョッ ヘーン ボーウ

gu2 jat6 lou4                   グー ヤッ ロー

 

 如何でしょうか? 正確な歌詞の発音と、モース先生が口にしたと思われる発音、両者のカタカナ表記はとても似ています(先の広東語発音提供サイトで実際に発音を耳にしてみて下さるともっと明確にその近似性が感じられるものと思われます)。なお、広東語の発音は実に難しいです。モース先生が正確に発音出来なかったことは、決してモース先生のセンスのなさが原因ではなかったように思えます(追記:広東語の促音。イッとかジョッなど……。唐代中原地方の中国語にも促音があったそうです。おそらく宋代もその影響が濃厚であったと思われます。その後北京を首都とする元朝や明朝、北方異民族支配による清朝を経て、現在の北京官話が形作られましたが、いつの間にか声調は四つだけに減少し、促音は消え去るという単純化が進んでしまいました。北京語を学んだ僕は広東語の発音が好きになれないと以前書きましたが、もしかしたら、古典詩を朗読した際に際立つその発音の美しさを自分が決して真似できないという嫉妬心が、そんなことを僕に言わせるのかもしれません)。

   《引用終了》

 モース先生がこれを読んだら、どんなにか喜んだろう! これこそがモース先生も望まれた、真に純粋に学究的な態度というものだと私はしみじみ思うのである。なお、ブログ版では私のトンデモ誤釈を抹消線で残し、貧しい私の愚劣さを記念(かたみ)として永く記しおくこととする。【二〇一四年二月十日追記終了】


 春、メットカーフ氏と一緒に日本へ来た時、我々はサンフランシスコに数日いたので、案内者をつれて支那人町を探検した。我々はこの都会の乱暴な男女の無頼漢共と対照して、支那人の動作に感心し、彼等が静な、平和な、そして親切な人々であるということに意見一致した。今や、半年を日本人と共に暮した後で、私は再びこの船に乗っている三百人の支那人を研究する機会を得たのであるが、日本人との対照は、実に顕著である。彼等は不潔で、荒々しく、これ等の支那人は、行儀の点では、サンフランシスコや支那にいる同階級の人々よりも、ずっと優れているのであるが、生活の優雅な温良に関しては、日本人の方が支那人より遙かに優秀である。

[やぶちゃん注:「メットカーフ氏」“Mr. Metcalf”。ウィリアム・ヘンリー・メトカーフ(William Henry Metcalf 一八二一年~一八九二年)。ミルウォーキーの実業家にして旅行家でアマチュア写真家。どうも、こちらのLuke Gartlan 氏の英文論文“Japan Day by Day? William Henry Metcalf, Edward Sylvester Morse and Early TouristPhotography in Japanを読む限り、モースの日光旅行にも彼は同伴していたらしい。

 磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースの一時帰国は『来日前に契約していたアメリカ各地での講演を行ない、また東京大学のために大学用の書籍や雑誌、標本類を集め、あわせて妻子を日本に連れてくるため』であったが、他にも東京大学から依頼されていた物理学と経済学の教授探しもあった(物理学教授にはトマス・メンデンホールを選び、経済学は畑違いの御存知フェノロサを推挙した(彼は当時ハーヴァード大学及び大学院で哲学を修し、当時はボストン美術学校に通っていた)。彼の日本近代美術史への貢献は言わずもがなながら、山口静一氏の研究によればフェノロサの日本美術への激しい傾倒の動機はモースの陶器蒐集に触発されたものだとも言われる。モースの影響力、恐るべし!)ここに出た帰国の旅の道連れたるシャミセンガイは、彼が江ノ島で採集した五百個体の一部で、帰米後の『十二月十九日のボストン博物学会例会などで展示した。八月二十日以来海水を二度取り替えただけなのに、死んだ個体は一匹もいなかったという。この動物は非常に生命力が強いので有名なのである』……そんな青森県以南に棲息する、かつては江の島で五百匹も採取出来たシャミセンガイ……あなたは見たことがありますか?……海岸生物フリークの私でさえ……最早、自然の彼等を見たことはないのです……]



これを以って「
日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚」の全注釈を終了した。

耳嚢 巻之八 食物をまづ試るをおにといふ事

  食物をまづ試るをおにといふ事

 

 食味を試(こころみ)るを、おにをするといふ事、埒(らち)なき事哉(かな)とおもひぬるに、禁中におにの間といふ所あり。關東御賄所(まかなひどころ)にもおに役といふ者あれば、おにといふ事、古き事なるべし。文字は於煑などゝもかくやと、語りし人に尋(たづね)けるが、それはしらずと答ふ。有職の再論をまつためこゝに記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:禁中有職故実由来俚言譚二連発。

・「おに」には飲食物の毒味役の意がある。「鬼食ひ」は貴人の食物の毒味を謂い、禁中に於いて元旦に天皇が飲む屠蘇を薬子(くすりこ)と称する少女が鬼の間(後注参照)から出て試食したことに由来するとされている。酒や湯茶の毒味の場合は「鬼飲み」などとも言った。

・「おにの間」鬼の間。清涼殿内の西南の廂の間の一室の名(南側が天上の間東端で北は女房の詰め所である台盤所)。東の殿上の間との境に当たる南壁に魔除けとして白沢王(はくたくおう:古代インド波羅奈国(はらなこく)の王で鬼を捕らえた剛勇の武将と伝えられる人物。)が鬼を斬る絵が描いてあったことに拠る。

・「關東御賄所」江戸城内の調理担当部署。

・「於煑」食い物を火にて煮て毒を消し去る毒消し、また、地獄の鬼の釜の中で煮るに等しき毒消、いや、毒味なれば地獄の鬼に釜で煮らるる如き苦渋決死の役という冗談ででもあろうか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  食物の毒味を致すを「おに」と申す事

 

 食味の毒味を試むることを「おにをする」と申すが、これは埒(らち)もないことじゃとずっと思って御座ったところが、禁中に「おにの間」と申す所が、これ、あるとのこと。

 実に関東御賄所(おんまかないどころ)に於いても、「おに役」と申す毒味役の者が御座るによって、実にこの毒味を「おに」と申す、相当に古きことなので御座ろう。

「……字は、これ……『於煑(おに)』なんどとでも書くので御座ろうか?」

と、試しに、これを語って呉れた御仁に訊ねてみたが、

「……いや、どのような字を書くかは、これ、存じませぬ。……」

と答えで御座った。

 これが如何なる淵源を持ったる言葉なるか、有職故実の再論議を俟たんがために、ここに記しおくことと致す。

耳嚢 巻之八 長竿といふ諺言の事

 長竿といふ鄙言の事

 

 下ざまの諺に、長竿(ながさほ)にする、又長竿に成るといふは、人の首尾あしき事などいふなり。倒(たふ)るといふ事にや、其子細わかたざりしに、先年京都御普請に登りし人の物語りに、禁中にさほの間といふあり、長き間に留(とま)りは一段落(おち)て、しらす樣の由。禁中伺候の輩不埒なる者は、右竿の間にて其罪を申渡(まうしわたし)、右白洲樣の處へ突出す事の由。鄙諺(ひげん)長竿も、かゝる事によつて云習(いひならは)しけるやしらずと、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:付句の由来と故事由来譚で軽く連関するか。寧ろ、一つ前の「すあまの事」などの有職故実シリーズである。

・「鄙言」「ひげん」と読む。田舎の言葉。また、世俗の言葉。鄙語(ひご)。

・「長竿にする、又長竿に成る」とは、当時一般的には、俗語で遊女が客に冷たく当たること、また、客が遊女と縁を切ることをいう。根岸はその辺をちょっとぼかして言ったのであろう。

・「さほの間」棹の間は小板敷(こいたじき)の間(清涼殿の南面から小庭に突き出た殿上の間に登る所にあった板敷きの部分。最下層の殿上人である蔵人らが伺候する場所であった)の西にあった間で、底本鈴木氏によれば、『御椅子の覆いをかけておく棹がある所』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長竿という俚言の事

 

 下世話の謂いに、「長竿(ながさお)にする」また「長竿になる」と申すは、所謂、その方面の遊び人の、これ、首尾のよろしからざることなんどを申す語で御座る。

 長過ぎる竿は立てとして倒るること多ければ、それより、不首尾に終わる、と申す意に転じたものででも御座ろうか、なんどと勝手に思うておったものの、その子細に就きては一向分からず御座ったところが、先年、京都の御所御普請のため、上洛致いた御仁の物語りに、

「……禁中清涼殿には棹(さお)の間と申すところが御座る。このひょろ長き間の、清涼殿の前の小庭へ出るとどのつまり、端っぽのところは、板敷がさらに一段落ちて御座いまして、そこは丁度、お白洲のようになって御座います。……」

との由にて、

「……さても禁中伺候(しこう)の輩の内、不埒なる行いを致いたる者は、この棹の間にてその罪を申し渡しまして、かのお白洲の如き所へ、どんと、突き出だすを、これ、習いと致いて御座る由にて……かの、根岸殿のご不審で御座った俚諺の例の『長竿』と申すも、このような故事によって言い習わされたることか……あ、いや、確かなことにては御座いませぬが……」

と、その御仁が語って御座った。

ひまはりばな 萩原朔太郎 短歌五首 明治三九(一九〇六)年七月

   ひまはりばな

 

驚(おどろ)きぬ日輪(にちりん)みれば紅熱(ぐねつ)して向日葵(ひまはり)ばなと接吻(くちつけ)するに

 

極熱(ごくねつ)の印度(いんど)の人は色黑(いろくろ)く物(もの)いふさまも惓(う)き形(かたち)かな

 

南國(なんこく)の窓(まど)に芭蕉(ばせう)の實(み)を割(わ)るとさゝくれしたる人(ひと)を夢(ゆめ)みぬ

 

支那(しな)へ行(ゆ)く大路(だいろ)もとむと朝(あさ)いでゝ夕(ゆふべ)かへらぬ逍遙人(せうえうびと)は

 

夢(ゆめ)ざめや涙(なみだ)の痕(あと)にをどろきて少(すこ)しく思(おも)ふよし幼(おさ)なごと

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十四号(明治三九(一九〇六)年七月発行)に「美棹」の筆名で掲載された。朔太郎満十九歳。

 四首目「逍遙人(せうえうびと)」のルビは初出では「せうよぶびと」。誤植と断じ、訂した。底本校訂本文も無論、「せうえうびと」とする。

 五首目「をどろきて」及び「幼(おさ)なごと」はママ。]

杉田久女句集 26 炎夏の叙景

    *


縫ふ肩をゆすりてすねる子暑さかな

 

髮の香のいきるる夜かな鳴く蛙

 

[やぶちゃん注:「いきる」はラ行四段活用の自動詞「熱(いき)る」「熅(いき)る」と同じラ行下一段活用の自動詞「熱れる」「熅れる」。あつくなる・ほてる・むしむしするの意。熱気のためにむっとする「草いきれ」の「熅(いき)れ」はこれが名詞化したもの。なお、この一句前の前に打たれたアスタリスクは特異で、しかもその意図が読者には判然としない。これは久女の中の隠された意識の一つの区切りのようにも思われる。

 

月の輪をゆり去る船や夜半の夏

 

日盛の塗下駄ぬげば曇りかな

 

旱魃の鋪道はふやけ靴のあと

杉田久女句集 25 雛祭

春燈消えし闇にむき合ひ語りゐし

 

大江戸の雛なつかしむ句會かな

 

雛菓子に足投げ出せる人形たち

 

手より手にめで見る人形宵節句

 

ほゝ笑めば簪(かんざし)のびらや雛の客

 

[やぶちゃん注:「簪のびら」「びら」は銀などの金属性の簪の装飾具の一種で、細長い板状の下げ飾り。ウィキによれば、これをメインにした簪には、例えば「ビラカン」「扇」「姫型」と呼ばれるものがある。これは『金属製の簪が頭の部分が扇子のような形状をしているものや、丸い形のものがあり、家紋が捺されている。頭の平たい部分の周りに、ぐるりと細長い板状のビラが下がっている。耳かきの無い平打に、ビラをつけたような形状。現代の舞妓もこれを用い(芸妓になったら使用しない)、前挿しにする。その場合、右のこめかみ辺りにビラカン、左にはつまみかんざしを挿す』とあり(「つまみかんざし」とは布を小さくカットしたものを折り畳んで竹製のピンセットでつまんで糊をつけ、土台につけていき、幾重にも重ねたりなどして花を表現したものを纏めて簪にしたもの。多くは花をモチーフにしていることから「花簪」ともいう。布は正絹が基本で、かつては職人が自分で染めから手掛た。布製であったため、昔のものは残りにくい。その辺りも花らしいといえる。現代では舞妓たちが使うほか、子供の七五三の飾りとして使われることが多い。少女向け。と同ウィキにはある)、また「びらびら簪」と称するものもある。それは『江戸時代(寛政年間)に登場した未婚女性向けの簪。本体から鎖が何本も下がっていて、その先に蝶や鳥などの飾り物が下がっている派手なもの。裕福な商人の娘などが使ったもので、既婚者や婚約を済ませたものは身に付けない。天保二年から三年頃には、京阪の裕福な家庭の若い子女の間で、鎖を七・九筋垂らした先に硝子の飾り物を下げた豪勢なタイプが人気を博していたと記録されている。本格的に普及したのは明治以降である。左のこめかみあたりに挿す用途のものとする』とある。]

 

幕垂れて玉座くらさや案の雛

 

函を出てより添ふ雛の御契り

 

古雛や花のみ衣(けし)の靑丹美し

 

[やぶちゃん注:「み衣(けし)」「御衣(みけし)」の形で「ころも」の意。上代の「着る」の尊敬語であるサ行四段活用動詞「着(け)す」の連用形が名詞化したもの。「靑丹」は「あをに(あおに)」で、ここは襲(かさね)の色目の名であろう。表裏ともに濃い青に黄を加えた色で染めたもの、若しくは、表が濃い香色(赤味の強い茶色)、裏は薄い青色。]

 

雛愛しわが黑髮をきりて植ゑ

 

古雛や華やかならず﨟たけれ

 

髮そぎて﨟たく老いし雛かな

 

古りつつも雛の眉引匂やかに

 

紙雛のをみな倒れておはしけり

 

雛市に見とれて母におくれがち

 

雛買うて疲れし母娘食堂へ

 

瓔珞搖れて雛顏暗し藏座敷

 

雛の間や色紙張りまぜ広襖

杉田久女句集 24 春蘭にくちづけ去りぬ人居ぬま

春蘭にくちづけ去りぬ人居ぬま

 

[やぶちゃん注:「春蘭」単子葉類クサスギカズラ目ラン科セッコク亜科シュンラン連Cymbidiinae 亜連シュンラン Cymbidium goeringii。土壌中に根を広げる地生蘭の代表種。春咲き。参照したウィキシュンランの冒頭には、『古くから親しまれてきた植物であり、ホクロ、ジジババなどの別名がある。一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる』と記す。こういうところがウィキの粋なとこ。無粋な私の評釈なんぞ、最早、不要。]

杉田久女句集 23 活くるひま無き小繡毬や水瓶に

活くるひま無き小繡毬や水瓶に

 

[やぶちゃん注:「小繡毬」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis。知られた花であるが、続けた注とのバランスからグーグル画像検索「Spiraea cantoniensisを示しておく。なお、繍毬花(てまりばな)と書くと、歳時記上は六月頃にアジサイに似た球形の青白い花を枝の両側につけるキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科ガマズミ属オオデマリ Viburnum plicatum 変種ヤブデマリ Viburnum plicatum var. tomentosum 若しくはその更なる変種を指す(グーグル画像検索「Viburnum plicatum var. tomentosum)。]

杉田久女句集 22 菜の花

捨てである花菜うれしや逢はで去る

 

花畠に糞する犬を憎みけり

 

花大根に蝶漆黑の翅をあげて

 

月おそき畦おくられぬ花大根

杉田久女句集 21 青麦

靑麥に降れよと思ふ地のかはき

 

靑麥ややたらに歩み氣が沈む

 

靑麥に潮風ねばく吹き狂ふ

杉田久女句集 20 躑躅

莊の道躑躅となりて先上り

 

花ふかく躑躅見る歩を移しけり

 

[やぶちゃん注:この嘱目吟、私は高い確率で橋本豊次郎・多佳子夫妻の小倉市中原(なかばる。現在の小倉北区中井浜)にあった豊次郎自ら設計建築になる、大正九(一九二〇)年落成の三階建和洋折衷西洋館櫓山(ろざん)荘でのものと読む。櫓山荘については私のブログ電子テクスト橋本多佳子句集「海燕」 昭和十年 櫓山日記の注を参照されたい。]

杉田久女句集 19 木の芽

木々の芽の苞吹きとべる嵐かな
 
今掃きし土に苞ぬぐ木の芽かな
 
晴天に苞押しひらく木の芽かな

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年  聖母学院 

 聖母學院

 

見さくる野黄なりここなる園も枯れ

 

枯園に聖母(マメール)の瞳碧をたたへ

 

ただ黑き裳すそを枯るる野にひけり

 

枯園に靴ぬがれ少女達を見ず

 

學び果てぬ日輪枯るる園に照り

 

[やぶちゃん注:「聖母學院」現在の大阪府寝屋川市美井町にある私立女子校、大阪聖母女学院中学校・高等学校であろうが、多佳子との関係は年譜上の知見では不詳。多佳子のいた大阪帝塚山とは直線距離でも二十一キロメートルを越えるので近隣ではない。学校法人聖母学院は大正一〇(一九二一)年にフランスの「ヌヴェール愛徳及びキリスト教的教育修道会」より創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエはじめ七人の修道女が来日、大正121923)年に大阪市玉造に於いて聖母女学院を創立、同年四月に開校、大正一四(一九二五)年開校の聖母女学院高等女学校は昭和七(一九三二)年の大阪府寝屋川市校舎(現在、香里(こおり)キャンパスと呼称)の落成によってここに移転、また同年四月には聖母女学院小学校開校していた(聖母女学院中学校の発足は戦後の昭和二二(一九四七)年の学制改革による。以上は学校法人聖母学院」公式サイトの「沿革」に拠る)。同公式サイトの「建物について」によれば、『香里キャンパスの校舎の建築は、一九三一年三月十二日、創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエの「鍬入れ」に始まり、翌年(一九三二年)の年明けに完了しました。設計に当たったのは、軽井沢夏の家(現ペイネ美術館)、東京女子大学、聖アンセルモ教会など、多くの名建築を日本各地に残し、日本の近代建築の発展に大きく寄与したことで有名な建築家アントニン・レーモンド氏です』。『当時、レーモンド氏は自ら、東京から汽車に揺られて何度もこの地に足を運び、この小高い香里の丘の上に、アーチを多く使った、この白く華やかな校舎を完成させました』とあって、現在、国登録文化財(有形文化財建造物)に指定されているとある。行ったことも見たこともなく、句には枯れたその庭園のみが描かれるのであるが、かの多佳子(当時三十八歳)を歩まするに如何にも相応しい景観という気がする。

「見さくる」「見放(さ)く」(他動詞カ行下二段活用)は、はるかに見る・遠く見やる・みはるかすの意の万葉以来の古語。

「マメール」フランス語“Ma mere”。「私の母」。]

おもたい かなしみ   八木重吉

おもたい かなしみが さえわたるとき
さやかにも かなしみは ちから

みよ、かなしみの つらぬくちから
かなしみは よろこびを
怒り、なげきをも つらぬいて もえさかる

かなしみこそ
すみわたりたる すだまヽヽヽとも 生くるか

鬼城句集 冬之部 木兎

木兎    木兎のほうと追はれて逃げにけり

2014/01/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 1 大森貝塚第二回発掘 所載に係る大森貝塚出土品20個体を同定

2013年11月25日にアップした
に現われたる20個体の大森貝塚出土品スケッチ総てについて、本日、モースが明治一二(一八七九)年に東京大学理学部紀要第一号として刊行した“Shell Mounds of Omori”(「大森貝塚」)の図版及び、それに再録されていない現在の東京大学蔵の大森貝塚標本資料(「東京大学総合研究博物館/人類先史データベース」にある「大森貝塚出土標本データベース」の各標本)によって、それぞれが現在の公式のどの標本に当たるかを同定して注に増補した。
同データベースには、土器だけでも896個体あるが、それらを一応、総て視認しつつ、本日早朝4時より初めて延べ13時間かけて取り敢えず完了した。
最近の作業の中では、最も苦労した仕儀であったが、相応の達成感はある。
「……だから何だって?……そりゃねぇ……ただ心底楽しかったことをね……ちょっとだけ……好きな君に囁きたくなっただけ、さ……」

2014/01/19

犬と散歩しながら

毎日、アリスと散歩しながら思うことがある。

今時、僕の住んでいる大船の場末でも、山々は切り崩され、すっかり宅地化が進んでしまった。

たまに辛くも生き残った山の一画の踏み分け道を辿って見ても、突如、無粋なフェンスが立ち現われなかったとしても、所有者と思しい人間に立ち去れと手を振られるのがオチだ。

僕らが小さな頃は、違っていた。
家と家の間には抜け道があり、路地裏が幾らも小さな迷宮として、僕らの眼前にあって、山へ分け入る小径には、蛇や獣の匂いがして、何時でもちょっとした未知の世界として忽然と立ち現われてくれたものだった(それは今よりもずっと背が低く、勢い、ある種の怖さを以って自然を見上げていたからだとも言えるし、そもそもその頃の僕らの中の地図は山向こうが白くなっていたからだとも言えよう)。

ところが今や、普通の市街地にあっては、そうした「探検の動悸」を感じることは最早、なくなってしまった。
そこには「私有地につき立ち入りを禁ず」という看板か、潜り込む隙もない柵か、管理者の蛇のような監視の眼があるばかりであって、そうしてそこで感じるのは「神経症的な動悸」なのである。
いや、そればかりではない。ちょっとした猫の額ほどの公園でさえも「犬を連れてくるのはやめましょう」などという注意書きがあったりして、アリスと僕は呆然としてしまうばかりなのだ。……

僕には聴こえてくる……
……「こら、起きろ。ここはみんなのもので、誰のものでもない。ましてやおまえのものであろうはずがない。さあ、とっとと歩くんだ。それが嫌なら法律の門から地下室に来てもらおう。それ以外のところで足をとめれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯し たことになるのだ。」……
という、カフカの「審判」をインスパイアした阿部公房の「赤い繭」の、あの台詞が……

そうして……そうして実は、僕には……
これらが今の僕らの前に突き付けられた
――今の現実世界そのものの表象――
だとしか思われないのである。

……かつての妖しげな「抜けられます」という饐えた臭いのする路地を、ドキドキしながら走り抜け、獣道のようなところに迷い込んでも、葦原を必死で掻き分けて行けば、そこには懐かしい家々の夕餉の匂いが漂っていたり、時には飛び出たそこが知らない場所であっても、そこには目の覚めるような美しい海が広がっていてわくわくしたりする……そんな――希望――は最早、今の僕らには許されていないではないか……

……その代わりに今、僕らの行く手にあるのは
――奇体なナショナリズムで「私有地」化された幻想の思想の「OFF LIMIT」という看板であり
――「危ないから~してはいけません/~はしないようにしましょう」という真綿で首をやんわり締める『人間にやさしい』抑圧命令の立札
ばかりではないか?……
僕はあの小説の主人公が遂に赤い繭になってしまう意味が、何だかすっかり、今――分かってしまった――ような気が、するのである……



どうもやり残していることが一つあってそれが咽喉に刺さった骨のように気になる。明日は朝から一切のテクスト更新をやめてそれをやり遂げよう。――こう書けば、やらずにはおれなくなるから――

中島敦 南洋日記 十二月二日

        十二月二日(火) 晴

 朝高里氏とポンタムチョウの女學校に赴く、海に接して大木多く茂れる良き所なり。

 午後、第一、第二國民學校に行く。月良し、航空便を出す。

 奉安丸入港、

[やぶちゃん注:「ポンタムチョウ」サイパン島中央部の北西端に位置するガラパン(Garapan。当時は柄帆町という和名も与えられていたらしい)の市街地名。ウィキの「ガラパン」によれば、現在はアメリカ合衆国『北マリアナ諸島自治連邦区、サイパン島最大の市街地で、観光産業の中心地でもある』。『主要なホテルやレストランおよびショップ、サイパンの戦いで犠牲となった米兵を追悼するアメリカ記念公園、マリアナ諸島最大の小学校などがある』とある。当時はここに日本の『南洋庁サイパン支庁が設置されたことにより、サイパン島の行政・経済の中心地となった。サイパン支庁を境に北側を「北ガラパン」、南側を「南ガラパン」と称して』おり、『松江春次の起こした南洋興発株式会社の事業拡大にあわせて、ガラパンは都市としての機能が整備され、多くの日本人が移り住むようになった。内地と同様の生活を享受するために、学校、病院、地方法院(裁判所)などの公共施設や、南洋興発、建設会社、銀行、新聞社などのオフィス、映画館、公衆浴場といった商業施設があった。最盛期には、邦人の人口が』約一万四千人にまでなり、『日本を模した街づくりが進められたため、「南洋の東京」と呼ばれた』。昭和七(一九三二)年『に南洋群島部落制に基づく「ガラパン町」となった』とある(リンク先には日本統治時代当時の写真もある)。

 この日附で横浜高等女学校時代の教え子(前日の諸節とは別人)に宛てた葉書とたか宛書簡(こちらが本文の航空便)が残る。以下に示す。

   *

〇十二月二日附(消印サイパン郵便局一六・一二・二 パラオ南洋庁地方課。横浜市中区豆口台六九 川口直江宛。「カナカ土人若き男女の語らひ」の絵葉書)

(どうも少し俗惡な繪葉書で困るけれど)

 今、サイパンといふ所にゐます、毎日バナナを二十本ぐらゐづつたべてゐますよ、そちらはもう寒いだらうな、今僕は、すつぱだかで汗を流しながら書いてゐるんだが、

   *

〇十二月二日附(消印サイパン郵便局一六・一二・二 世田谷一六・一二・二〇。パラオ南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。封書。航空便)

 先づお父さんに賴んで貰ひたいこと、「岩波文庫の『サミエル・ジョンスン傳』(上)〔ポズウェル著神吉三郎譯〕(六十錢)」を買つていたゞき度いこと。之は古本屋でなく、澁谷でも横濱でも三軒茶屋でも、その邊の本屋で買つていたゞいて、それをお前が地方課宛に送つて呉れ。「上」と書いたが、「下」も出てゐれば一緒に送つてほしい。多分まだ出てゐまいと思ふが。

○毎晩毎晩、良い月夜がつゞく。夕方、まだ暗くならない中に、月が明るく輝(かゞや)き出すので、夜中過まで、ずうつと、暗くならずに、明るさが續く。東京は近頃晴れてゐるかな? そちらで見る月はさぞ寒々(さむざむ)としてるだらうな。こつちではウチワを使ひながら、月を見てるんだが。サイパンは道が良く、廣く、眞白な砂の道(そのかはり、晝間のまぶしいこと! 日よけめがねを掛けなくちや、とても歩けない)だから、月夜の散歩は、とても、氣持が良い。毎晩一時間か二時間はブラく歩き廻る。途中で、犬にふざけたり、島民兒童と話をしたりしながら。所々の木の蔭に、牛や山羊の寐てゐるのも面白い。月の光は明るくて美しいが、しかし、寂しいなあ! 所で、オレは宿舍をかへたよ。サイパンに實業學校があるが、そこの先生のウチに同居することになつた。先生といつても、オレと同じくらゐの年齡(トシ)で、今は一人でゐるんだ。勿論、二人とオレもその人も、外で飯を喰つてゐるんだ。家はたゞ寐るだけだ。この先生もこの八月に細君をクニへ歸した所で、やはり職をやめて内地へ歸りたがつてゐるんだが、中々やめさせて貰へないんだ。慶應(ケイヲウ)を出た人なんだがね、面白いことに、この人も内地で、喘息が苦しくてたまらないので、南洋へ逃げて來たんださうだ。サイパンへ來てから喘息は起らないが、その代り、細君が身體を惡くして了つて困つたさうだ。僕が喘息の藥をのむのを見て、自分の、三年前の苦(くる)しみを思出したらしく、色々と喘息の話をし合つたんだが、「今は喘息が起つてもいいから、内地へ歸りたい、南洋にゐると頭がどうかなつて了ふ」と言つてゐた。オレの場合は簡單(カンタン)さ。オレの喘息は、南洋へ來たつて、起るんだから、これは勿論、内地へ歸つた方が良いにきまつてゐる。しかし、田邊(タナベ)氏(之が、その先生の名前だ)の場合は、内地へ歸れば喘息が起り、南洋なら起らないんだ。それでも、今は、内地へ歸りたいといふんだよ。オレが歸りたがるのも無理はないだらう。この人も、畫(ヱ)や音樂が好きらしい。家の中に油畫が三つ四つ、かかつてゐる。文化人は、肉體的にも、精神的にも、南洋には住めないらしいな。全く頭が狂ひさうになるよ。お前達の戀しさばかりぢやないんだ。精神的にほ完全な島流しだし、肉體的には、しよつちう、火あぶりにあつてるやうなものだ。

 ここの公學校の教育は、ずゐぶん、ハゲシイ(といふよりヒドイ)教育だ。まるで人間の子をあつかつてゐるとは思へない。何のために、あんなにドナリちらすのか、僕にはわからない。僕が生徒をつかまへて話しかけても、向ふはコチコチで、「ハイ! ×××で、あります。」といつた風な、ガツカリするやうな返辭(へんじ)しか、しない。まるで打ちとけないんだ。内地人の先生はコハイものときめてかかつてゐるんだね。こんな教育をほどこす所で、僕の作る教科書なんか使はれては、たまらない。今の教科書で十分なんだ。先生達も大體、今の讀本で滿足してるんだし、今更、僕なんぞ出て來なくても良かつたんだ。或る學校へ行くと、讀方は今のままで良いから、算術の教科書を作つてくれといふ。理科の教科書がほしいといふ所もある。ひどいのになると、裁縫(サイホウ)の教科書を作つてくれといふ所もある。(オレにサイホウの教科書を作れつていふんだぜ。)驚いたなあ! これなら、小學校の先生あがりの人でもやとへば良かつたんだよ。とにかく、オレが出て來たのは間違ひだつたな。南洋廳のためにも、オレの爲にも。

 時局はどうなるのか。この二三日で急に何とかなるのではないか。さうなれば、しばらくそちらとの交通は、とぎれるのでだらう。いやでも神經を尖(トガ)らせない譯に行かない。サイパンを朝出た飛行機が、晩には、この便りを横濱に運(はこ)んで行く。それを考へると、何か、たのしいが、しかし、手紙ではなく、僕自身が飛んで行けるのは、何時になることやら。月を見て故國をしのぶ氣持も、近頃はやうやく解つて來たよ。

 

 今、この島に咲いてゐる花。――佛桑華(ブツソウゲ)(ヒビスカス)・カンナ・日々草・鳳仙(ホウセン)花・百日革・素馨(ソケイ)(ジャスミン)・芙蓉(フヨウ)。千日坊主(何時かお前が新池から持つて來た、白や桃色の玉の咲く草)矢車天人菊(本郷町の家にあつたらう? 何年も續(つづ)いて、一本か、二三本づつ咲いてゐた茶色のやうな黄色のやうな花)。猩々(シヨウジヨウ)草。その他、名の分らない花が大分あるが、その中のいくつかの花びらを同封しておく。色が變るか、どうか分らないが。キヨウチクトウも咲いてゐる。

 本郷町の家では、今時分は、庭のべコニヤなんかを鉢に移して、家の中に取入れるので、いそがしかつたね。資(すけ)さんの家では、今年はベコニヤは全滅だらうなあ。可哀さうに。秋海棠(シユウカイドウ)なら、又、來年出るが、ベコさんは、どうかな。二三年前に作つたベコニヤはとても大きかつたつけね。

 花を見る度に、あの小さな庭のことを考へないことはない。冬の寒さはイヤだつたが、あの書(シヨ)サイの冬の花達は可愛かつたな。クロッカスやパンジイやボケや色んな種類の櫻草が、硝子(ガラス)越の日だまりに咲いてゐた有樣を思出すよ。

 こちらは年中ヒビスカスの眞赤な花が眼をさすやうだ。あれを見ると、暑くるしくなるよ。アナトール・フランス全集(英語の)の朱色(しゆ)の背(セ)に、陽(ヒ)のあたつてゐたのなんかもなつかしいな。精神的にも、もうオレはアナトール・フランスからまるで遠く離(ハナ)れて了つた。妙な人間になりはてたよ。釘本からも手紙が來て、何か、書くやうに言つて來たが、こちらは書くどころの騷ぎぢやない。サイパンへ來て、多少涼しい風が吹くので、少し本でも讀んで見たい氣が起つた位のところだ。原稿を書くなんて、何處か、よその世界の話のやうな氣がする。さういふ意味の返事を釘本に出してやつたよ。それでもね、パラオにはないが、サイパンには、岩波文庫を(ほんの少しだけど)竝べてゐる店が一軒あるんだよ。それだけでも、いささか賴もしい氣がしたよ。寒い間、子供達の身體に氣をつけてやつておくれ。お前自身の身體は勿論のこと。無理して働き過ぎるなよ。

   *

高圧的な皇民化教育の現状に顔を歪めんてうんざりしている敦、自身に課された国語教科書編纂任務への深い失望感が滲む。しかも、恐らくは彼の南洋勤務という立場上得られた、軍関係からの情報によって、六日後に迫った「トラ! トラ! トラ!」を、具体な内容は別として、明らかに知っているらしい叙述であることが頗る興味深い。

「岩波文庫の『サミエル・ジョンスン傳』(上)〔ポズウェル著神吉三郎譯〕」〔 〕は書簡では珍しい割注ポイント落ち。サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 一七〇九年~一七八四年)はイングランドの文学者。「英語辞典」(一七五五年)の編集で知られ、十八世紀英国に於いて「文壇の大御所」と呼ばれた。その有名な警句から、しばしば「典型的なイギリス人」と呼ばれる。主著は他に「詩人列伝」「シェイクスピア全集」(校訂・注釈)など(ウィキサミュエル・ジョンソンに拠る)。岩波文庫の神吉三郎訳「サミュエル・ヂョンスン傳」は全三巻で、その上巻はこの昭和一六(一九四一)年六月二十八日に既に発行されている。但し、敦は遂にこの続きを神吉の訳で読むことはなかった。何故なら中巻は戦後の昭和二一(一九四六)年、下巻は昭和二三(一九四八)年に発行されているからである。因みにこの下巻はネット上の情報では古書として極めて稀少であるらしい。

「矢車天人菊」キク亜綱キク目キク科キク亜科テンニンギク属ヤグルマテンニンギク Gaillardia pulchella var. lorenziana。北アメリカ原産地のテンニンギクの改良品種で、先端が開いた筒状の花びらをつける。なお、調べるうちに、この元の花テンニンギクが喜界ヶ島に於いて「特攻花」と呼ばれいる事実を知った。以下に引用して彼等の冥福を祈りたい。『太平洋戦争末期、九州と沖縄の中間に位置する喜界島は九州(鹿児島知覧)から出撃する特攻機の中継地点があった。自らの命を犠牲にして沖縄戦に向かう若い特攻隊員が、最期に飛び立った場所が喜界島だった』。『夜明け前に特攻出撃する若い隊員たちに、地元の娘たちは野の花を贈っていた。隊員たちは「花も一緒に散っていくのは忍びない・・」との思いからか、空から花を落とし別れを惜しむように沖縄に向かった。そして、何かを願うように滑走路にそっと花を置き、静かに沖縄に向け飛び立っていった。 その花の種が風に舞い、60年を経った今も、毎年飛行場跡に咲き続けている。 島の人たちはこの天人菊(テンニンギク)をいつしか「特攻花」と呼ぶようになり、平和を願う花として今でも大切にしている』(奄美群島情報サイト「奄美人」(あまみんちゅ)の仲田千穂さんの特攻花」より引用)。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 一 細胞(2) 細胞間質

Nannkotusosiki
[軟骨組織]

[細胞間質の多いのを示す]

 

 動物でも植物でもその身體には、柔い處や堅い處、濡れた處や乾いた處と種々の異なつた部分があるが、これは皆その部を成してゐる細胞の形狀・性質や集まり方に相違があるによる。例へば人間の身體にも乾いた表皮や濡れた粘膜、柔い筋肉や堅い骨などがあるが、それぞれその部分の細胞が違ふ。そして細胞は細長いものや扁たいもの、柔いものや堅いものが、雜然と一所に混じて居る如きことは決してなく、必ず同じやうな細胞ばかりで數多く集まつて居る。即ち扁平な細胞ならば多數集まつて層をなし、細長い細胞ならば多數竝んで束となり、乾いて堅い細胞は相集まつて爪などの如き乾いて堅い部分を造り、濡れて柔い細胞は頰の内面の如き濡れて柔い部分を造る。かやうに同種の細胞の數多く集まつたものを組織と名づける。細胞が組織を造るに當つては、細胞が互に直接に相觸れて集まることもあれば、また各細胞が或る物質を分泌し、細胞はその物質のために隔てられて相觸れずに集まつて居る場合もある。かやうな物質を細胞間質という。細胞間質によつて細胞が隔てられて居る有樣は、恰も煉瓦がモーターで隔てられて居る如くであるが、組織の種類によつては細胞間質が細胞よりも遙に分量の多いものもある。かやうな場合には細胞間質が堅ければ組織全體も堅く、細胞間質に彈力があれば組織全體にも彈力があることになる。骨の組織の堅いのは細胞間質が石灰を含んで堅いからであり、骨膜や腱の組織の強靭なのは細胞間質が纖維性で強いからである。兩方とも細胞自身は頗る柔い。

[やぶちゃん注:「モーター」目地塗りに用いる、セメントあるいは石灰と砂とを混ぜて水で練ったモルタル(mortar)のこと。ネイティブの発音は「モーター」の方が遙かに正確。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 51 モース先生一時帰国のための第二回送別会 又は モース先生、指相撲に完敗す 又は モース先生、大いに羽目を外す

 月曜の夜には、大学綜理のドクタア加藤が、昔の支那学校の隣の大きな日本邸宅で、私の為に晩餐会を開いてくれた。外国人は文部省督学のドクタア・マレーと私丈で、文部大輔田中氏及び日本人の教授達が列席した。長い卓子は大きな菊の花束で装飾してあった。献立表は印刷してあり、料理は米国一流の場所で出すものに比して遜色なく、葡萄酒は上等であり、総ての設備はいささかの手落もなかった。ドクタア・マレーは私に、この会は非常に形式的であるに違いないから、威儀を正していなくてはならぬと警告してくれたが、事実その通りであった。食後我々は、葉巻、珈琲、甘露酒その他をのせた別の卓の周囲に集った。食事をした卓を、召使達が静に取片づける問、長い衝立が、それを我々から隠した。

[やぶちゃん注:明治一〇(一八七七)年十月二十九日月曜日。

「ドクタア加藤」当時の東京大学法文理三学部綜理加藤弘之。既注

「支那学校の隣の大きな日本邸宅」底本では「支那学校」の直下に石川氏の『〔聖堂?〕』という割注が入る。これは湯島聖堂のことを指しているから、それが正しいとすれば、湯島聖堂「隣の大きな日本邸宅」に適合するものを尾張屋版江戸切絵図で確認すると、本郷通りを挟んだ北に「藤堂秉之丞」、北西の道(ここも本郷通り)を隔てた現在の東京医科歯科大学医学部附属病院敷地内に「土井能登守」、その南西に接して「佐藤一斎」の三つである(それ以外の湯島聖堂の西南側は神田川沿い、東南は町屋、東一帯は本郷通りを挟んで神田明神で大きな武家の邸宅は見当たらない。絵図面上では藤堂家が格段に広くはある)。私の考証はせいぜいここまでである。後は東京の郷土史家の方のご援助を願う。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも前日の会も含め、宴席の会場は記されていない(恐らく、記録にはない)。もし、この湯島聖堂が正しければ、少なくともこの十月二十八日にモース送別会が行われた茶屋が具体的に特定出来るはずである。

「ドクタア・マレー」文部学監デーヴィッド・マレー。既注。なお、彼は数学者・天文学者でもあったが、「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で磯野先生は、『文学部教授外山正一もミシガン大学化学科卒であり、明治初期の文部行政関係者に理学畑出身者が多かったことは注目されてよいよいのではないだろうか』と述べておられる。

「文部大輔田中氏」田中不二麿(ふじまろ 弘化二(一八四五)年~明治四二(一九〇九)年))。明治維新期の著名人物としては非常に稀少な尾張藩士の一人。尾張国名古屋城下に生まれ、慶応三(一八六八)年に新政府の参与となった。明治四(一八七一)年、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導、明治一三(一八八〇)年に司法卿に転じ以後、参事院副議長・駐伊特命全権公使・駐仏特命全権公使・枢密顧問官・司法大臣を歴任、晩年は再び枢密顧問官を務めた。明六社会員で、島崎藤村の長編小説「夜明け前」や井上ひさしの戯曲「國語元年」に登場する(ここまではウィキの「田中不二麿」に拠る)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、彼が『マレーを招聘、彼と組んで教育制度の基礎を築』き、『その教育政策は自由主義的だったことが知られる』とある。]

 

 このように席を退いてさえも、人々は依然として威厳を保ち、そして礼儀正しかった。私はやり切れなくなって来たので、日本のある種の遊戯が米国のに似ていることをいって、ひそかにさぐりを入れて見た。すると他の人々が、こんな風な芸当を知っているかと、手でそれをやりながら私に聞くようなことになり、私は私で別の芸当をやってそれに応じた。誰かがウェーファーに似た煎餅を取寄せ、それを使用してやる芸当を私に示した。この菓子は非常に薄くて、極度に割れやすい。で、芸当というのは、その一枚の端を二人が拇指と人差指とで持ち、突然菓子を下へ向けて割って、お互により大きな部分を取り合おうというのである。我国でこれに最も近い遊戯は、鶏の暢(ちょう)思骨を引張り合って、より大きな部分を手に残そうとすることであるが、これはどこで鎖骨が最初に折れるか、全く機会によって決定されることである。次に私は、他の遊戯を説明し、彼等は代って、いろいろな新しくて面白い遊びを教えてくれた。拇指で相撲をとるのは変った遊戯であり、私はやる度ごとに負けた。これは右手の指四本をしっかり組み合せ、拇指で相手の拇指を捕えて、それを手の上に押しつけようと努めるのであるが、かなりな程度に押しつけられた拇指を引きぬくことは不可能である。とにかく、三十分も立たぬ内に、私はすべての人々をして、どれ程遠く迄目かくしをして真直に歩けるかを試みさせ、またいろいろな遊戯をさせるに至った。菊池教授が二人三脚をやろうといい出し、外山と矢田部とが右脚と左脚とをハンケチで縛られた。菊池と私とも同様に結びつけられ、そして我々四人は、他の人々の大いに笑うのに勇気づけられて、部屋の中で馳け出した。我々は真夜中までこの大騒ぎを続けた。ドクタア・マレーと私とは各大きな菊の花束を贈られたが、それを脚の間に入れて人力車に乗ったら、人力車一杯になった。ドクタア・マレーは繰返し操返し、どうして私があんな大騒ぎを惹き起し得たか不思議がった。彼はいまだかつて、こんな行動は見たことが無いのである。私は四海同胞という古い支那の諺を引用した。どこへ行った所で、人間の性質は同じようなものである。

[やぶちゃん注:「さぐり」原文は“a gentle intrusion”。美事な訳と思われる。

「暢思骨」原文“a wish-bone”。研究社「新英和中辞典 」の“wishbone”には、鳥の胸の叉骨とあり、その後に、食事の際に皿に残ったこの骨を二人で引き合って長い方を取ると願い事がかなうという目から鱗の解説があった。

「どれ程遠く迄目かくしをして真直に歩けるか」これは本邦の茶屋遊びの目隠し鬼と同形で恐らくは同席した日本人たちも大いに楽しんだであろうことは想像に難くない。

「四海同胞」原文“in the four quarters of the world men are brothers”。四海兄弟(しかいけいてい)。世界中の人々が兄弟であるということ、または、総ての人間は人種・民族・国籍を問わず兄弟のように愛し合うべきであるということ。「論語」の「顔淵」にある「四海の内皆兄弟なり」に拠る。]

耳嚢 巻之八 寶晉齋其角實名の事

 寶晉齋其角實名の事

 

 或る人語りけるは、俳諧の中興其角は輕き御家人抔相勤(つとめ)候ものゝ由。俗名は小和田八十八(やそはち)と云(いへ)る由。深川に住(すみ)て徂徠先生の隣なりける由。右の事しらざりしが、與風(ふと)誹席にて、隣の梅も匂ふ八十八といふ句をしたる人有(あり)し故、右はいかなる譯やと尋ねしに、八十八は其角が俗名にて、其角が發句に、梅咲や隣は荻生惣右衞門といふ句あれば、右によりて附句せしといひしに、格物(かくぶつ)なせしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。二つ前和歌(というより狂歌並)譚から連句(付句)譚で連関。

・「寶晉齋其角」は「はうしんさいきかく(ほうしんさいきかく)」と読む。蕉門十哲の一人宝井其角(寛文元(1661)年~宝永四(一七〇七)年)の号。本名は竹下侃憲(ただのり)で別号は他に螺舎・狂雷堂・晋子など。江戸堀江町で近江国膳所藩御殿医竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(一六七三年~一六八一年)の初めの頃には父親の紹介で芭蕉の門に入り、俳諧を学んだ。当初、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改めている(ここまではウィキの「宝井其角」に拠る)。岩波版長谷川氏の注によれば、この「寶晉齋」という号は元は『米元章が硯に彫り入れた号で、その硯を得てこのように号した(五元集)』とある。米元章は北宋末の文人で書家の米芾(べいふつ 一〇五一年~一一〇七年)。「五元集」は延享四(一七四七)年刊の生前の其角自選を含む小栗旨原(おぐりしげん)編の句集。全四冊。自選千余句の発句集「五元集」及び句合わせ「をのが音鶏合(ねとりあわせ)」・旨原編「五元集拾遺」からなる。

・「小和田八十八」底本鈴木氏注に、『三村翁注「宝井氏、源助とあり。八十八といふ事、所謂巷談なるべし』とし、岩波版長谷川氏注も『所拠不詳』とされる。

・「深川に住て徂徠先生の隣なりける由」荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)は事実、近所に住んでいたらしい(後文参照。少なくとも後世そう信じられてたし、現在も信じられているといってよい)。岩波版長谷川氏注に、『元禄末に茅場町薬師堂辺に住み、近所植木店の地に荻生徂徠居住(近世奇跡考・三)』とある。「近世奇跡考」は「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年の直近である文化元(一八〇四)に板行された山東京伝の考証随筆の白眉。また、ウィキ宝井其角にも、『芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。なお、隣接して、荻生徂徠が起居、私塾蘐園塾を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある』と記載する(次注も参照のこと)。

・「與風(ふと)」は底本のルビ。

・「梅咲や隣は荻生惣右衞門」岩波版長谷川氏注に、『上五を「梅が香や」とし、どの集にも見えぬが其角句ともっぱら伝えると『近世奇跡考』三にいう』とある。天保年間(一八三〇年~一八四三年)に斎藤月岑が著わした「江戸名所図会」にも、

   *

俳人寶晉齋其角翁の宿 茅場町藥師堂の邊りなりといひ傳ふ。元祿の末ここに住す。すなはち終焉の地なり。

按ずるに、「梅の香や隣は荻生惣右衞門」といふ句は、其角翁のすさびなる由、普(あまね)く人口に膾炙す。よつてその可否はしらずといへども、ここに注してその居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。

 

徂徠先生居宅の地 同書植木店(うけきだな)なりといふ。先生一號を蘐園(かんえん)といはれし。蘐(かん)は萱(かや)と同じ字義なれば、稱せられしなり。よつて、この地に住せらしこと知るべし。

   *

と続いて出る(底本はちくま学芸文庫版を用いたが、恣意的に正字化した)。因みに「蘐園(かんえん)」は一般には「けんえん」と読む。どうも人口に膾炙しているものの、彼の作とは言い難い、所謂、都市伝説の類いと考えてよかろう。

・「格物」は宋代以降の儒学に於いて主体の陶冶方法として特に注目された概念を指す。朱子学では特にこれを「物に格(いた)る」と読み、個々の事物の理りを究明してその極みに至ろうとすること、窮理をいう。陽明学では「物を格(ただ)す」と読んで対象に向かう心の働きを正しく発揮することをいう。「大学」の「致知在格物。物格而后知至。」(知を致すは物に格(いた)るに在り。物、格ってのち、知、至る。)に基づく。ここは無論、目から鱗、単にすっかり納得出来たという謂いであるが、徂徠絡みなれば「格物」と事大主義的に呼ばわったところが面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 宝晋斎其角の実名の事

 

 ある人の語ったこと。

 

……俳諧の中興と称せらるる其角と申す御仁は身分軽き御家人などを相い勤めて御座ったものの由にて、俗名は小和田八十八(おわだやそはち)と申した由、さらに、深川に住んで御座って、そこは徂徠先生のすぐ隣りでも御座った由にて御座る。

 このこと、我ら知らずに御座ったが、とある俳諧連句の座に於いて、

  隣の梅も匂ふ八十八

と申す句をものしたる御仁のあったゆえ、

「……その句は如何なる意にて御座いましょうや?」

と訊ねたところ、

「――これ、八十八は其角の俗名にて、また、其角の発句に、

  梅咲や隣は荻生惣右衛門

と申す句のあれば、かくも附句致いて御座る。」

と申されたによって、格段に格物(かくぶつ)致いて御座った。……

 

と語て御座ったよ。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 逗子

   ●逗子

逗子は相模國三浦郡にあり、田越村(たごしむら)に屬す、新編相模國風土記には、都士牟良逗子村に作る。又古より村に傳ふる、天正十八年北條氏の文書には、豆師に記し、正保(しやうほ)の改には豆子と載す、北條氏の臣山中上野某氏康に仕へ、三浦厨子城を預り、後氏康の命に依り、美濃守氏規の家老となると、家譜に見ゆ。厨子の唱同じければ、此地なるべし、今土人其城跡を傳へず云々、しかるに近年無比の海水浴場として、逗子海岸海濱の譽れ俄かに高まりしより、田越村の一小部分たりし逗子の、いつしか田越村全體はをろか、左に、

      {逗子、小坪、久木、山ノ根、

  田 越 村{

      {池子、沼間、櫻山、

 

      {堀内、長柄、一色、下山口、上山口、

  葉 山 村{

      {木古庭、

 

  中西浦村{秋谷、蘆名、佐島、長坂}

葉山、中西浦村に亘りて、此名の総稱せらるゝに至れり。氣候夏は凉しく冬は暖かなり、暑中も華氏寒暖計八十五度を超ゆることなく、寒中は四十度内外なり、四季共に健康を養ふの最大良地なり。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。村名箇条書部分の田越村と葉山村の「{」の部分は底本では三行に亙った「{」でその下位のクラスは実際には中央の空行は存在しないし、誤読をさけるために入れた一行空きもない。逗子は本誌刊行九年前の明治二二(一八八九)年四月一日の市町村制施行により、桜山村・逗子村・山野根村・沼間村・池子村・久木村・小坪村が合併して三浦郡田越村(たごえむら)として発足、同年六月十六日には官設鉄道(横須賀線の前身)は開通して逗子駅が開設されている。この後、大正一三(一九二四)年四月一日に田越村が町制を施行して逗子町と改称、昭和五(一九三〇)年四月一日には湘南電気鉄道(京浜急行電鉄の前身)逗子線が開業し、湘南逗子駅(新逗子駅の前身)が開設された。昭和一八(一九四三)年四月一日には横須賀市へ編入されたが、昭和二五(一九五〇)年七月一日、横須賀市より久木・小坪・山野根・新宿・逗子・桜山・池子・沼間の各地区(旧逗子町域)が分離独立して三浦郡逗子町が再置され、四年後の昭和二九(一九五四)年四月十五日には単独市制を施行して逗子市となって現在に至る(以上はウィキの「逗子市」に拠った)。

「天正十八年」西暦一九五〇年。

「正保の改」よく分からないが、ネット上でも各所にこの言葉は出る。察するに正保年間(一六四四~一六四七年)に行われた全国規模の(正保元年に幕府は諸大名に国ごとの地図である国絵図の作成を命じている)行政区画再編及びインフラの整備(道路整備・架橋など)が行われたことを指すように思われる。

「華氏寒暖計八十五度」摂氏二十九・四度。

「四十度内外」摂氏四・四度前後。これと前の暑中最高気温を足して割ると摂氏十六・九度になる。因みに現在の逗子市の平均気温は公称十五・九度であるから、これ、なかなか、いい線いってる。]

杉田久女句集 18 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

 

[やぶちゃん注:「いろいろ」は底本では踊り字「〱」。言わずもがな、久女の句の艶を最もシンボライズするヌーヴェル・ヴァーグ風のモンタージュである「花衣」は春の季語で花見に着る晴れ着のこと。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)で大野は本句の鑑賞文の中で、久女の作を『不羈奔放、華麗、情熱的で男をたじたじさせるものがある。始終誰かを恋いしないではいられなかったといわれるが、肯かれることだ。万葉の額田王、中国の魚玄機に擬せられる所以であろう』とし、同時期の画期的な女流俳人の中でも長谷川『かな女、久女ともにその作品で優に男に頡頏した作家である』と記す(こうした叙述はある意味で肥大した久女伝説を助長しており、的を射ている部分は部分として、批判的な読みも同時に不可欠であると言いたい)。本句について大野は、『肉体を幾重にも緊繋している紐類だが、それをいま、つぎからつぎへと解き捨ててゆくことに肉体の解放感が思われ、艶麗である。句に詠まれていることは作者の足許にすでに散らばり、また、まだ肉体にまつわり残る紐だが、脱ぐものが花見衣裳であるだけにこの紐類また華麗、肉体の解放感と相俟って艶麗さを一句に与えている。いえばヌード一歩手前であり、女の匂いが濃厚で、つつましやかとは裏腹である』と評している。しかしこの評言、実に男の脂ぎった視線が感じられてなんだかいやらしい。三文の中で「肉体」という語を四度も用い、「緊繋している紐類」という謂いには恰もそれが生々しい猥雑なクリチャーででもあるかのような生理的嫌悪感をさえ私は抱く。最後の一文などは評者自身の中年男性の如何にも猥褻な視線が感じられて、まさに「鑑賞と批評」という「つつましやか」な標題「とは裏腹である」と返したい気がしてくる。]

杉田久女句集 17 花の雨

褄とりてこゞみ乘幌花の雨

 

[やぶちゃん注:和服の褄、人力の黒い幌、落ち散る桜――色彩と匂いの実に豊かな一句である。]

 

バイブルをよむ寂しさよ花の雨

杉田久女句集 16 落ちる椿の行方

椿流るゝ行衞を遠くおもひけり

 

木立ふかく椿落ちゐし落葉かな

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年  北風を航く

 北風を航く1

 

船室(キヤビン)より北風(きた)の檣(マスト)の作業みゆ

 

煖房に闇守(も)る水夫(かこ)の瞳(め)を感ず

 

浴槽(バス)あふれ北風航くことをわすれたり

 

 北風を航く2

 

北風(きた)の扉(と)がひらかれ煌と吾を照らす

 

無電技士わかく北風航く夜をひとり

 

北風を航くその搖れにゐて無電打つ

 

わが電波北風吹く夜の陸(くが)よびつ

窓に寄る日 萩原朔太郎 短歌六首 明治三九(一九〇六)年

 窓に寄る日

 

燈灯のまへに君ありわれのありうれしけれども言の葉のなき

 

寒き日や胡瓜畑の霜を思ひ湯あみする窓を月のぞきけり

 

別れ居る心は淋しけだものを飼ひて生くべき日とよう似たる

 

山の上に一人家する夢を見て寢ざめの床はうるほひにけり

 

逢瀨山また口惡き博士等が見たまはずやと人のきづかひ

 

里川の底にうつれる星くづをいくつ數へて人にあふべき

 

[やぶちゃん注:『晩聲』創刊号(明治三九(一九〇六)年四月発行)に「美佐雄」の筆名で所収された。当時、朔太郎満十九歳。『晩聲』という雑誌は不詳。明治三七(一九〇四)年十一月十五日創刊の君島東陽編輯の暁声雑誌社の評論雑誌に同名のものがあるが、創刊年や雑誌の性質から別物である。

 巻頭の「燈灯」は底本全集校訂本文は「燈火」と『訂』する。

 「逢瀨山」の「口惡き博士」は何か典拠があるのだろうか。識者の御教授を乞うものである。]

丘を よぢる   八木重吉

丘を よぢ 丘に たてば

こころ わづかに なぐさむに似る

 

さりながら

丘にたちて ただひとり

水をうらやみ 空をうらやみ

大木(たいぼく)を うらやみて おりてきたれる

鬼城句集 冬之部 冬蠅

冬蠅    冬蠅をなぶりて飽ける小猫かな

      冬蠅のしきりに迷ひ飛ぶ夜かな

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]

      人起てば冬蠅も起つ爐邊かな

2014/01/18

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 一 細胞(1)

    一 細 胞 

 さて普通の動植物の身體が無數の細胞より集まり成ることは、今日では殆ど誰でも知って居るやうであるが、卵と精蟲との素性を明にするには、まづ細胞や組織のことを稍々詳しく述べて置く必要があるから、念のためこゝに一通り細胞のことから説明する。

Neginosaibou

[「ねぎ」の葉の表皮]

Souruinohatuga

[藻類の細胞の内容が壁から離れて水中へ游ぎ出し後に至つて新に壁を生ずるのを示す] 

 抑々生物の身體が細胞から成ることの始めて知れたのは、今より僅に八九十年前のことで、それ以前にはかやうなことには少しも心附かずに居た、そしてその後にも細胞といふ考は段々變化して今日まで進み來たつたから、同じ細胞といふ文字を用ゐても八九十年前と今日とでは大分意味も違つて居る。植物の組織では各細胞に膜質の壁があつて、互の間の境が頗る判然して居る。試みに「ねぎ」の葉を取つて、その表面の薄皮を剝ぎ取り、これを度の低い顯微鏡で覗くと、無數のほゞ同大の區劃があつて、恰も細かい小紋の模樣の如くに見えるが、その區劃の一つ一つが即ち細胞である。またコルクの一片を薄く削つて顯微鏡で見ると、一面に孔だらけでまるで蜂の巣のやうであるが、その孔の一つ一つが細胞である。但しこの場合には全部が干からびて居るから、細胞はただ壁ばかりとなつて内部は全く空虛である。かやうに植物では細胞を見ることが比較的容易であるから、最初細胞の發見せられたのも植物であつた。そして最初は細胞の壁のみを重く考へ、細胞を一種の嚢と見做し、植物の體はかやうな顯微鏡的の小さな嚢の無數に集つて成れるものと思つた。しかし段々調べて見ると、嚢の壁は必ずしもなくてはならぬものではなく、却つてその内容の方が生活上最も大切なものであることが明になつた。そのわけは植物でも、芽の出たての若い柔い部分を取つて見ると、細胞の壁は極めて薄く、最も若い處ではあるかないか殆どわからぬ程で、たゞ内容の方が充滿して居る。また淡水産の微細な藻類などを顯微鏡で見て居ると、往々細胞の内容だけが壁から離れ、壁の割れ目から水中へ游ぎ出すことがある。初めてこれを見付けた學者は、植物が變じて遽に動物になつたというて大騷ぎをしたが、かやうに游ぎ出した内容物は、直に壁を分泌して完全な藻類となり、内容の拔け出した壁の方は、終にそのまゝ枯れてしまふ。即ち眞に生活するのは嚢の内部を充たす反流動體の柔い物質であつて、壁はたゞこれを包み保護するに過ぎぬ。今日では柔い生きた物質を原形質と名づける。されば昔植物の體は無數の小嚢が集まつて成れるものの如くに考へたのは誤であつて、實は原形質の小塊の無數に集まつたものである。そして各小塊はその周圍に細胞膜質を分泌して壁を造り、後には原形質は死んでなくなり、細胞の壁のみが殘るから、たゞ嚢のやうに見える。なほ各細胞をなせる原形質の小塊の中央には、恰も桃や梅の實の中央に核がある如くに必ず一個の特別な丸いものが見える。これを同じく核と名づける。それ故、今日では細胞の定義を次の如くにいふことが出來る。即ち細胞とは一個の核を有する原形質の小塊であると。植物でも動物でも身體は多數の細胞の集まりであるといふのは、かやうな意味の細胞であつて、決して昔考へたやうな嚢のことではない。細胞といふ譯語もこれに對する原語も共に嚢といふ意味の字であるが、これは昔細胞を一種の嚢と考えた頃からの遺物であつて、今日ではたゞ習慣上用ゐ續けて居るに過ぎぬ。

Saibouiroiro

[やぶちゃん注:以上の挿絵は底本ではキャプションがそれぞれの図の右手に縦書で以下のように附されている。右から、

[頰の内面の扁平細胞三箇]

[肝臟の球形細胞十箇]

[結締組織の星型細胞六箇]

である。] 

[やぶちゃん注:「生物の身體が細胞から成ることの始めて知れたのは、今より僅に八九十年前のこと」これ本底本である大正十五(一九二六)年東京開成館刊の第四版で、講談社学術文庫では大正五年初版を参照したものらしく、「七八十年前」となっている。細胞の英語“cell”(小さな部屋)という命名はイギリスの博物学者ロバート・フックが著わした一六六五年刊の“Micrographia”(「顕微鏡図譜」)が最初とされる。一六六五年、彼はコルクガシのコルク層の小片を自作の顕微鏡で観察している時にこの構造を始めて発見し、生物は細胞から作られていると考えた。但し、彼が実際に観察したものは、まさにここで丘先生が述べたように内容物を失った後の細胞の遺骸たる細胞壁に過ぎなかった。その後、オランダの商人科学者で「微生物学の父」と称せられるアントニ・ファン・レーウェンフックが自ら発明した高性能顕微鏡で一六七〇年代に細胞の観察を行っているが、本格的な生物組織の細胞説は、一八三八年のドイツの植物学者マティアス・ヤコブ・シュライデンの植物組織の、翌一八三九年のドイツの生理学者テオドール・シュワンの動物組織の観察を待たねばならなかった。二人はその観察結果から、生物は細胞から構成されており、細胞は生物共通の構造であって発生の基本単位であるとする「細胞説」を唱えた。この時点での細胞説では細胞がどのように発生するかを説明していなかったが、これは一八五五年にドイツの生物学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーが「細胞は分裂して増える」という説を発表、続く一八六〇年に近代細菌学の開祖たるフランスのルイ・パスツールによって生物の自然発生説が否定され、生物は細胞増殖で成長するという理論が定着をみた(この部分、ウィキ細胞」の歴史の項の文章を参考にさせてもらったが、その元記載には重大な誤りが含まれている。それについてはウィキノート」に藪野直史の実名で署名記載をしておいた)。大正十五(一九二六)年から「八九十年前」となると、西暦一八三六~一八四六年でシュワンとシュライデンの初期の細胞説の定着期に一致する。

「淡水産の微細な藻類などを顯微鏡で見て居ると、往々細胞の内容だけが壁から離れ、壁の割れ目から水中へ游ぎ出すことがある」図の右手から発芽している個体の様子などは緑色植物亜界ストレプト植物門接合藻綱ホシミドロ目ホシミドロ科アオミドロ属 Spirogyraに属する藻類の有性生殖の接合後に生じた楕円形の接合胞子の発芽した藻体に似ていなくもない。

 キャプションにある「結締組織」というのは結合組織(connective tissue)のこと。現在でも結合織・結締組織ともいう。狭義には各器官及び各組織の間(例えば上皮組織と筋組織の間)といった体のあらゆる部分の間を埋め、結合作用を営む組織をいう。真皮・皮下組織・粘膜下組織・骨膜・筋膜・腱・血管の外膜などは総てが結合組織である。中胚葉に由来し不活性。構造的には細胞が比較的疎らで豊富な細胞間質の中に繊維成分が存在するのを特徴とする。結合組織に存在する細胞成分を結合組織細胞とよぶ。繊維芽細胞・細網細胞・組織球・形質細胞・リンパ球・脂肪細胞・肥満細胞・顆粒白血球・色素細胞などが挙げられる。星型を成している点では間充織(mesenchyme:間葉。動物の個体発生初期に外胚葉と内胚葉との間に形成される結合組織で突起をもつ星形の細胞がまばらな集団を形成する)か、色素結合組織細胞(ヒトの場合は眼球中膜と強膜及びクモ膜や皮膚に限定的に存在する)か。]

耳嚢 巻之八 すあまの事

 すあまの事

 

 紋所に、すあま又すはまと唱へ、

Suama_3

 如此(かくのごとき)形をいふ。或時洲濱と書(かき)しものありしゆゑ、げにも形に文字も的當なりといゝしに、水野若州知れる者へ尋(たづね)しとて、書留(かきとめ)來りぬ。

 洲濱〔今云島臺、江次第案二脚之上置――奇岩怪石嘉樹芳草白砂綠水

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。紋所有職故実譚。サイト「苗字と家紋」の洲浜紋では、『洲浜の形は献上品などを載せる台で、藤原姓小山氏一門の代表紋として知られ』、『洲浜は河口にできた三角洲など、水辺にできる島形の洲をいう。いわゆる河と海などの接するところで、曲面の入り組んだ洲の様子を表す言葉である。水の流れでいろんな姿に変わる、それを柔軟なフォルムで捉えたまるみをおびたラインが特徴。また洲浜は、蓬莱山の仙境を意味したり、竜宮城を指したりしてめでたい形とされた。平安時代から慶賀の式などにおける飾りや調度品は、蓬莱山に通じる州浜を象った洲浜台が用いられた。江戸時代には婚礼の飾りものとして用いられるようになり、州浜は目出たいことを表す言葉にもなった。 いまでも目出たい菓子のひとつに「洲浜」と名づけられたものがあるのは、その名残りである』とあり、『洲浜は吉兆をあらわすものとして、平安時代より衣服や調度、絵巻物などに文様として多用された。はじめは州浜の実景を描いていたものが、次第に洗練され、さらに州浜台の形を象った意匠へと収斂されていった。そして、州浜のもつ瑞祥的意義もあって家紋に採用されたようだ。また、州浜はその定まることのない姿が世の中の変幻をも表すものとして、神社の紋としても用いられ、紀州熊野神社の奥院に位置づけられる玉置神社のものが知られる。神官玉置氏も「洲浜」を家の紋とし、熊野神社の神官である鈴木氏もこの紋を用いている。戦国時代、紀伊手取山城に拠った玉置氏も神官玉置氏の一族を称して州浜を用いた』。『州浜紋の史料への初出は、『太平記』に「三●」と記されているもので三つ洲浜紋である。文字が鱗に似ているところから 「三つ鱗紋」と誤解されるケースもあるが、誤読であることはいうまでもない』。『中世の武家では源頼朝落胤説を有する小田氏一族の代表紋として知られ、関東永享の乱を記した『羽継原合戦記』に「小田氏の紋は足長洲浜」と記されている。小田氏は宇都宮氏から分かれた一族で、源頼朝に仕えた八田知家を祖とする。鎌倉時代には常陸国守護職をつとめたが、 南北朝期に南朝方として活動したため、一時期、衰退して守護職は佐竹氏にとって代わられた。しかし、よく勢力を保ち 戦国大名に列した』。『戦国時代、上杉謙信が参陣してきた関東諸将の幕紋を書き留めた『関東幕注文』には、小田中務少輔「すわま」とあり、一族の宍戸中務大輔、筑波太夫、柿岡刑部大輔、岡見山城守らも「すはま」と記されている。同書には、下野国の本田・市場・大屋・岩下の諸氏、上野国の薗田・津布久・阿久津の諸氏らも洲浜紋を用いたことが記され、洲浜紋が関東地方に多く分布していたことがわかる。小田氏の場合、州浜紋の由来を源氏の先祖六孫王経基王の「六」の 字を紋章化したものというが、家系伝承にいう清和源氏説を粉飾する付会というものだろう』。『おそらく、はじめは宗家の宇都宮氏と同じく巴紋を用いていたものが、 やがて、宗家と区別するために巴を州浜に変えたのではなかろうか。ちなみに州浜は「巴くずし」ともいわれ、その丸みを帯びた意匠、使用家の分布が巴紋のそれと重なっていることなどから 小田氏の州浜紋は巴紋がベースであったのでは?と思えるのである』。『一方、『見聞諸家紋』には陶山・寺町・茨木・吉田・伊庭・宍戸氏らの洲浜紋が収録されている。室町時代、州浜の紋を使用した武家が全国的に多かったことが知られる。ところで、見聞諸家紋には小田氏の一族と思われる小田又次郎知憲がみえ紋は「亀甲に酢漿草と二月文字」とある。また、諸家紋にみえる宍戸氏は小田氏の一族ではあるが、安芸国高田郡の所領に移住したものである。 その家紋は「花洲浜」とよばれ、通常の洲浜に比べて意匠が凝っているのが特長である。先にも記したが、より六孫王の六の 字を意識したものとなっている。時代が下るにつれ、家系源氏説が一般化した結果かもしれない』と詳説なさっておられる。これ以上の本話へのすぐれた注釈はないと考え、例外的に敢えてほぼ全文の三分の二を引用させて戴いた。なお、現在、「州浜」というと、大豆や青豆を煎って挽いた州浜粉に砂糖と水飴を加えて練りあわせて作った和菓子の一種が知られるが、これは鎌倉時代に京にあった菓子店松寿軒の考案によるもので、江戸時代には豆飴と呼ばれ、後、京都の和菓子店植村義次によって作られた豆飴の断面が州浜紋に似ていたため、州浜という呼ぶようになった。現在では州浜粉を使った菓子全体を「州浜」「すはま」と呼ぶようになっているとウィキ洲浜」にあり、また、和菓子嫌い(私は洋菓子党である)の私が唯一好物な和菓子で、やはり関東で祝儀に用いられる「すあま(寿甘、素甘)」があるが(漢字は当字らしい)、これは全く別の菓子である(ただ、その連関性がないとは言えないように思うのだが……識者の御教授を乞うものである)。

・「的當」的確にその洲浜という地形の形を示してしかも如何にも相応しい文字をこれに当てている、という謂いであろう。岩波版長谷川氏注には『そのものずばりである』とある。

・「水野若州」水野若狭守忠通(ただゆき)。底本鈴木氏注に、『安永四年(二十九歳)家督。千二百石。天明六年長崎奉行、八年日光奉行、十年大坂町奉行』とある。安永四年は西暦一七七五年であるから、彼は延享四(一七四七)年生まれである。天明六年は一七八六年であるが、以下の記載は岩波版長谷川氏注では『寛政八年(一七九六)日光奉行、十年大坂町奉行』となっており、長谷川氏の方が正しいものと思われる。根岸より十歳年下であるから、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年当時は六十一歳であった。

・「洲濱〔今云島臺、江次第案二脚之上置――奇岩怪石嘉樹芳草白砂綠水〕」以下に、訓点と岩波版の長谷川氏の補われた送り仮名をも参考に書き下しておく。

 洲濱〔今云ふ、「島臺」。「江次第(がうしだい)」案ずるに二脚の上に――を置き、奇岩・怪石・嘉樹・芳草・白砂・綠水を作る。〕

・「島臺」は「しまだい」と読み、婚礼その他の祝儀の際に用いる飾り物のこと。州浜台(州浜形にかたどって作った台。木石・花鳥などの景物をあしらい、宴会などの飾り物としたり、婚礼・正月などの料理を盛るのに用いた)の上に松竹梅を作り、これに尉(じょう)・姥(うば)の人形を立たせ、鶴・亀などを配したもので、蓬莱山をかたどったものといわれる。

・「江次第」平安後期に成立した儒者で歌人の公卿大江匡房(まさふさ)の著になる有職故実書「江家次第(ごうけしだい)」のこと。全二十一巻(現存は十九巻)。この時代の朝儀の集大成として評価が高い。「江次第(ごうしだい)」が当初の書名と考えられ、諸書に「江帥次第」、「江中納言次第」、「匡房卿次第」、「江抄」などと引用されている。正確な編纂の開始時期は不明であるが、「中外抄」(院政期の聞書集。知足院関白藤原忠実の言談を大外記中原師元が筆録したもの)などの記述によると、匡房が藤原師通の命令を受けて編纂が始められ、大江匡房の没した天永二(一一一一)年まで書き続けられたと思われる。のちに加筆増補が行われた(以上はウィキ江家次第に拠る)。

・「上に――を置き」恐らくは「江家次第」本文が判読不能であったのであろう。当該箇所を調査中であるが、何分、厖大なので暫くお待ちを。

・「嘉樹」松竹梅などの目出度い樹木。

・「芳草」春を告げる香草や草花。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 すあまの事

 

 紋所に、「すあま」または「すはま」と唱えるものが御座るが、それは

Suama_5

 のような感じの紋型を申す。

 ある時、これに「洲浜」と漢字を当てて書いたものが御座ったによって、

「如何にも、実際の洲浜の形も文字も、この紋を確かに言い当てて妙で御座るの。」

と述べたところが、水野若狭守忠通(ただゆき)殿が、

「かの『洲浜』のこと、我ら、知れる者へ尋ねてみましたところが、これ、相い分かり申した。」

と、書き留めたものを持参して参られた(以下、その写し)。

 

 「洲浜」

 今に言うところの「島台」のこと。大江匡房の「江家次第(ごうけしだい)」に、『案ずるに二脚の上に〇〇を置き、奇岩・怪石・嘉樹・芳草・白砂・緑水を作る。』とある。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 50 モース先生一時帰国のための第一回送別会 又は ここにいる二人の自殺者の経歴がこれまた数奇なること

 十月二十八日の日曜の夜、日本人の教授達が日本のお茶屋で、私の為に送別の宴を張ってくれた。この家は日本風と欧洲風とが気持よく融和していた。すくなくとも椅子と、長い卓とのある部屋が一つあった。彼等は大学の、若い、聡明な先生達で、みな自由に英語を話し、米国及び英国の大学の卒業生も何人かいる。彼等の間に唯一の外国人としていることは、誠に気持がよかった。出席者の中には副綜理の浜尾氏、外山、江木、井上、服部の各教授がいた。最初に出た三品は西洋風で、青碗豆(グリンピース)つきのオムレツ、私が味った中で最も美味な燔肉(やきにく)、及び焙鶏肉であった。だが私は純正の日本式正餐がほしいと思っていたので、いささか失望した。然し四皿目は日本風で、その後の料理もすべて本式の日本料理だった。彼等は私に、私が日本料理を好かぬかも知れぬと考えて、先ず西洋風の食物で腹を張らさせたのだと説明した。これは実に思慮深いことであったが、幸にも私は、その後の料理を完全に楽しむ丈の食慾を持っていた。有名な魚、タイ即ち bream は、美味だった。生れて初めて味った物も沢山あったが、百合(ゆり)の球即ち根は、馬鈴薯の素晴しい代用品である。砕米薺(みずたがらし)に似たいく種かの水草もあった。魚をマカロニみたいに調理したものもあった。銀杏の堅果はいやだったが、茶を一種の方法で調製したものは気に入った。このお茶は細い粉で出来ていて、大きな茶碗に入れて出し、濃いソツプに似ている。これは非常に高価で、すぐ変質する為に輸出出来ないそうである。我々は実に気持のよい社交的な時を送った。私の同僚の親切な気持は忘れられぬ所であろう。

[やぶちゃん注:「浜尾氏」法理文三学部綜理補浜尾新(あらた)。既注

「外山」文学部教授(心理学及び英語担当)外山正一(まさかず)。既注

「江木」当時東京大学予備門の教諭(教授とは呼ばない)であった江木高遠(えぎたかとお 嘉永二(一八四九)年~明治一三(一八八〇)年)。以下、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及びウィキの「江木高遠」によって記す。備後福山藩儒官で開国論者であった江木鰐水(がくすい)の第四子として福山に生まれ、安政三(一八五六)年七歳で藩校誠之館に入り、明治元(一八六八)年十九歳の秋には長崎でフルベッキに学んで、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じた後、明治二(一八六九)年には慶應義塾に入ったが、明治三年二十一で華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう:伏見宮邦家(くにいえ)親王第十二王子。知恩院門跡から勅命により還俗して華頂宮家を創立。明治三(一八七〇)年に志願して皇族の海外留学第一号となり、アメリカで海軍軍事を学び、帰国後は海軍少将となったが、明治九年二十六歳で夭折した。)の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(現在のコロンビア大学)に学んで法学と政治学を修めた(途中、病気の親王と帰国、一八七四年に再渡米して一八七六年に卒業、その間の一八七五年には後の専修大学の母体である日本法律会社の結成にも関わっている)。帰国後、翌明治一〇(一八七七)年に東京英語学校教諭に着任、東大設立後は予備門の英語教諭を勤めたが、外山正一・井上良一両東大教授と並ぶ論客として独自の視点から啓蒙講演会の組織的運営を企画して名声を馳せた。明治一一(一八七八)年六月三十日には「なまいき新聞発刊記念講演」(『なまいき新聞』は、同六月、生意気新聞社が創刊した週刊新聞。同年十月には『芸術叢誌』と改名して美術雑誌となった)と称し、浅草井生村(いぶむら)楼に於いて五百人を超す客を集め、考古学と大森貝塚発掘に関するモースの講演会を開いている。この時は井上がモースを紹介江木が通訳した。これが濫觴となって同年九月二十一日に会費制学術講演会「江木学校講談会」を発足させた。社員(常任講師)として、外山正一・福沢諭吉・西周¥河津祐之(後の東京法学校校長)・藤田茂吉(『生意気新聞』主筆)・モースが名を連ねた。この講談会は明治一二(一八七九)年十月まで三十回近く催され、常任講師のほかにも長谷川泰(日本医科大学の前身「済生学舎」創設者)・沼間守一(自由民権家として知られたジャーナリスト)、トマス・メンデンホール(モースの推薦によって明治十一年に東京帝国大学物理教師となり富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行った本邦の地球物理学の租。本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台の観測主任ともなった)やアーネスト・フェノロサなども登壇した。この間、江木は明治一一(一八七九)年十二月に東大を去り、元老院大書記官となるも、直ぐに外務省一等書記官に転じた。明治十三年三月、帰任の吉田清成駐米大使に随行してワシントン公使館員として赴任したが、同年六月六日、公使館内に於いてピストル自殺した。享年三十一。自殺の動機については磯野先生によれば、『無関税で工芸品をアメリカに持ち込んだことを、在米日本人業者から糾弾されたためという』とある。

「井上」井上良一(よしかず)法学部教授(イギリス法律学担当)。彼に就いては夭折したためかデータが乏しい。以下は法制史専攻の Seiichi Hashimoto 氏の「法制史研究」の中の「明治初年の法学教育」及び aso**otoh氏のブログ『「a song for you」の可能性を求めて』の「日本人最初のハーバード大卒業生が目指した日本の音楽教育」の記載に拠った。福岡藩士として慶応三()年米国に留学、ハーバード法律学校(現在のハーヴァード大学。)を明治七(一八七四)年に同大学最初の日本人留学生として、東洋人初でもあった学位LL.B.(法学士)を取得して卒業、帰国後、私立学校福吉舎を開校(Seiichi Hashimoto 氏の「法制史研究」の中の「明治初年の法学教育」によれば、明治七年十一月に井上と本間英一郎なる人物の両名によって開業願が提出されており、そこには学科は「英学」のみで井上が「法律学」を本間が「造営学」をそれぞれ担当するとされてありという。特に『法律学については、「英学」の看板にもかかわらず、教授内容としては「法律学一式 万国公法,本邦之律例規則布告布達類取調」(法律学一般から国内現行法の理解まで)を標榜していた。まさしく法学専門教育をその内容としていると言ってよい』。『つまり、福吉舎はハーバード・ロースクール卒業生が法学専門教育を提供するという点で、法律学舎』(従来本邦初の私立法学校とされた明治七年に元田直によって東京神田五軒町につくられた法学校)『よりもはるかに充実した教育内容を備えていたのではないかと推測される。その意味で、日本最初の私立法学校という名称に拘るならば、それは法律学舎ではなく福吉舎にこそ冠せられるべきではないだろうか。ただ、残念ながら、福吉舎の活動はごく短期間のうちに終了したようである』とある)、明治八年には東京英語学校二等教諭兼開成学校教授補に任命され、この明治一〇(一八七七)年四月の東京大学発足と同時に、二十六歳の若さで法学部最初の唯一人の日本人教授となった。ところが、それから一年九ヶ月を経た明治一二(一八七九)年一月に『発作的な自殺を遂げた』とある(ここは aso**otoh氏のブログ『「a song for you」の可能性を求めて』の「日本人最初のハーバード大卒業生が目指した日本の音楽教育」に拠る)ウィキの「ハーバード・ロー・スクール」の「著名な修了生(日本人)」に享年二十八とあるから、これが正しければ彼の生年は嘉永五(一八五二)年である。

「服部」服部一三予備門主幹。既注

「タイ即ち bream」原文は“the tai, a bream,”。但し、訪米人には“sea bream”とした方が誤解が少ないと思われる。何故というに、“bream”は一般にはまず、淡水魚である条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科アブラミス属ブリーム Abramis brama を指すからである。ブリーム(英名は Carp bream 又は Bream)はヨーロッパの河川や湖沼・用水路に広く分布する淡水魚で、漁獲対象種としても知られるからである。

「砕米薺(みずたがらし)」原文は“water-cress”。この英語は葉をサラダやスープにする湿地や水中に植生するオランダガラシ・ミズガラシ・クレソンを指す。石川氏の訳だと、これは双子葉植物綱ビワモドキ亜綱フウチョウソウ目アブラナ科タネツケバナ属ミズタガラシ(水田芥子) Cardamine lyrata、英名 Bunge を限定的に指す。ミズタガラシは『日本(関東以西)を含む東アジア一帯に自生する。また、アクアリウムで観賞用に栽培され、学名のカルダミネ・リラタで通る』。茎が太く稜があり、数十センチメートルの『直立茎と基部から出る匍匐茎がある。葉は奇数羽状複葉で互生し、頂小葉は大きく側小葉は小さい。匍匐茎では円形の頂小葉だけのこともある。花は直立茎の先に総状花序をなし、水中に生育する場合は水上に抽出する。直径』一センチメートル『程度の白い十字花で、初夏に開花し、花後直立茎は倒れる。果実は秋に熟し、細長い莢状で翼のある種子を含む。

日本では和名の通り水田の用水路などに生育する』。『タガラシ(キンポウゲ科、田枯らしの意味といわれる)とは直接関係ない』と参照したウィキミズタガラシにはある。而して、このウィキのミズタガラシの画像を見てみると、これはタイの刺身に添えられた同じアブラナ科の山葵(ワサビ)ではなかったかと思われる。

「マカロニ」直下に石川氏は『〔管饂飩〕』と割注されておられるが、笑っちゃいけないが、今やこの割注の方がはるかに分かり難く、注をしたくなる。これは竹輪を指しているか?

「銀杏の堅果」原文“the nut of the gingko tree”“gingko は“ginkgo”と同語で、公孫樹(イチョウ)のこと。昔、欧米人が「銀杏」を「ギンキョウ」と誤読したことに基づく、珍しい日本語由来の古い英語である。“ginkyo”の“y”を、さらに“g”と誤読して今の綴りとなり、発音も“kou”になったと、小学館の「プログレッシブ英和中辞典」にあるが、まさにこの銀杏の実の硬さを伝えるようで面白いではないか。

「茶を一種の方法で調製したもの」言わずもがな、抹茶である。]

萩原朔太郎 短歌六首 明治三八(一九〇五)年十二月

夕(ゆう)ざれやもろこし畑(はたけ)吹く風に衣手(ころもで)さむき秋は來にけり

 

春の夜や歌(うた)に更(ふ)かせし小人(せうじん)の口元可愛(かわ)ゆき笑(ゑみ)をしぞ思ふ

 

ほとゝぎす鳴(な)きぬ藤氏(とうし)を語る夜に秀才(しうさい)なれば簾(みす)まきあげよ

 

梅雨(つゆ)ばれの大河(たいが)流るゝ國(くに)を北(きた)に晝顏(ひるがほ)うゑぬ夢(ゆめ)みる人と

 

古家(ふるがや)に昨日(きのふ)咲(さ)きたる五月花(さつきばな)つみな玉(たま)ひそ雨降り出でむ

 

君見れば二條に生ひし街粧(まちづく)り扇もつ手(て)の品(しな)づくりけり

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ろべりや」他二十六首の掉尾を飾る六首連作。当時、朔太郎満十九歳。これらは例えば三首目が「枕草子」の「鳥は」と「香炉峰の雪」に基づく(「藤氏を語る」は後発の「大鏡」の「藤氏物語」に引っ掛けた話しであろう)、一種の時代夢想詠で統一されているように私には見える(但し、総てについての典拠を私は理解している訳ではない。また残念ながら、これらの短歌の印象はそれを探りたいという興味も私には湧かせないものでもある)。

 一首目「夕ざれ」の読み「ゆう」はママ。

 二首目「可愛ゆき」の読み「かわ」はママ。

 五首目は初出では下句が「つみ玉ひそ雨降り出でむ」となっているが、脱字と断じて「な」を補った。底本校訂本文も無論、そうなっている。

 六首目「品づくり」を底本校訂本文は誤字として「品つくり」と『訂正』している。私は従えない。]

杉田久女句集 15 蜂

指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな

 

さしゝ蜂投げ捨てし菜に歩み居り

橋本多佳子句集「海燕」  昭和十二年   蒼光

 昭和十二年 

 

 蒼光

 

夜光虫星天海を照らさざる

 

夜光虫火星が赫く波に懸る

 

夜光虫垂直の舳(へ)を高く航く

 

夜光虫夜の舷に吾は倚る

 

[やぶちゃん注:中句は「よのふなばたに」であろう。]

 

夜光虫さびしさや天の星を見る

 

[やぶちゃん注:「夜光虫」は底本の用字のままとした。「蟲」としなかったのは一つの可能性として多佳子はこの「蟲」の字を好まなかった可能性(結構高いと思う)を配慮した。これは例えば芥川龍之介などに顕著に見られる傾向であるが但し、例えば多佳子の場合、寧ろ好まなかった故に「蟲」を用いた方が効果的と考えて使用した場面もあったかも知れない。序でに申し上げておくと「垂」の字も多くの近代作家は旧字の「埀」を書かないし、活字にも用いない傾向が強いことから正字表記していない。]

白き響   八木重吉

さく、と 食へば

さく、と くわるる この 林檎の 白き肉

なにゆえの このあわただしさぞ

そそくさとくひければ

わが 鼻先きに ぬれし汁(つゆ)

 

ああ、りんごの 白きにくにただよふ

まさびしく 白きひびき

鬼城句集 冬之部 動物 冬蜂

  動物

 

冬蜂    冬蜂の死にどころなく歩きけり

[やぶちゃん注:鬼城の真骨頂であり、眼目であり、連続する生死の実相を漸近線で描いた名吟である。大正四(一九一五)年、鬼城満五十歳の折りの作。本書の「序」で鬼城を境涯俳人として名指した大須賀乙字とその共同正犯高浜虚子は(無論、「序」は虚子、乙字の順で、「境涯」という語を確信犯としてバリバリに用いたのは乙字であるからこれを主犯と言い、やはり確信犯で鬼城の疾患と貧困と数奇不遇な半生を余すところなく語り切った点で共同正犯と私は表現するものである)そのの「序」の中で、この句の冬蜂は『最う運命が決まつてゐて、だんだん押寄せて來る寒さに抵抗し得ないで遲かれ速かれ死ぬるのである。けれどもさて何所で死なうといふ所もなく、仕方がなしに地上なり緣ばななりをよろよろと只歩いてゐるといふのである。人間社會でもこれに似寄つたものは澤山ある。否人間其物が皆此冬蜂の如きものであるとも言ひ得るのである』などと、虚子らしい如何にもな、いやったらしさ、で評釈している。こういうのを、ない方がなんぼかマシ、な評言と云うのである(私の境涯俳句・俳人という語への生理的嫌悪感については「イコンとしての杖――富田木歩偶感――藪野直史」をお読み戴ければ幸いである)。]

2014/01/17

耳嚢 巻之八 日野資枝歌の不審答の事

 日野資枝歌の不審答の事

 

 忍戀(しのぶこひ)の題にて、資枝詠出ありし歌に、

  すえついに人もゆるさぬ契あれと思ふが中は猶しのびつゝ

此のとの字、にごりてどと解する人もあり、すみてとなりといふ者、江戸門人の内數多(あまた)論じ合(あひ)ければ、資枝へ承りに遣しければ、其答に、とともど共(とも)解す人の心次第にてよしとの答へなり。門人の意氣をも不折(おらず)、歌の意にも害なき面白き答へなりと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:日野資枝(すけき)関連で直連関。

・「日野資枝」前話「耳嚢 巻之八 不計詠る歌に奇怪を云ふ事」の注を参照。

・「不審答の事」一応、「こたへつまびらかならざるのこと」と訓じておく。

・「すえついに人もゆるさぬ契あれと思ふが中は猶しのびつゝ」この「契(ちぎり)あれと」の「と」がそのまま清音で引用の格助詞「と」であると解するなら、未だ事実はその禁断の忍ぶ恋は成就されていない、しかし、それを切望する命令形で、「あれ」かしと思う、がしかしそう現に焦がれている思いは、その成就を望むのならばなおのこと秘やかに隠し通さねば、という意味になるが、普通に行われることが多い濁音の無表記であって「契あれど」と逆接の接続助詞「ど」であるとするならば、その許されぬ恋は実は既に成就している、しかしなお、それは許されぬものであるがゆえに色にしも出してはならぬのだあ、といった解釈になる。孰れであっても歌意としては問題がない。……私ならどっちかって?……それはもう後者に決まってるさぁね ♪ふふふ♪……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 日野資枝(すけき)殿の和歌に就きての疑義への審らかならざるお答えの事

 

 「忍恋(しのぶこい)」との題詠にて、日野資枝殿が詠み出だされた歌を記したものに、

  すえついに人もゆるさぬ契あれと思ふが中は猶しのびつゝ

と御座った。

 この「と」の字であるが、濁りて「ど」と解する人もあり、逆に清(す)みて「と」で御座ると申す者もあって、江戸の日野殿のご門人の内にても、これ、頻りに論じ合いとなって御座ったによって、ともかくも資枝殿に直(じか)に承るに若くはなしと諸人決し、人を伺わせてお訊ね申し上げたところが、その答えは、

「――『と』とも――『ど』とも――これ、解さるるお人の――そのお心次第にて宜しゅう――おじゃる――」

とのお答へで御座った。

 門人の意気軒昂たる双方の言い分の孰れをも潰すことのぅ、また和歌の意にも、これ、害のなき、まっこと、面白き答えで御座った、と私の知れるお人が語って御座ったよ。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる

 私の普通学生の一人が私の家へ来て、彼が採集した昆虫を見に来てくれる時間はないかと聞いた。彼が屋敷の門から遠からぬ場所に住んでいることが判ったので、私は彼と一緒に、町通りから一寸入った所にある、美しい庭を持った小ざっぱりした小さな家へ行った。彼の部屋には捕虫網や、箱や、毒瓶や、展趨板や、若干の本があり、典型的な昆虫学者の部屋であった。彼はすでに蝶の見事な蒐集をしていて、私にそのある物を呉れたが、私が頼めば蒐集した物を全部くれたに違いない。翌日彼に昆虫針を沢山やったら、それ迄普通の針しか使用していなかった彼は、非常によろこんだ。数日後彼は私の所へ、奇麗につくり上げた贈物を持って来た。この品は、それ自身は簡単なものだったが、親切な感情を示していた。これが要するに贈物をする秘訣なのである。

[やぶちゃん注:「私の普通学生の一人」この「普通」はこの年に再編された東京大学予備門のことで、再編された旧東京開成学校にいた人物で、しかも蝶を蒐集していたという点から、これは後に帝国大学農科大学(のちの東京帝国大学農学部)教授となった石川千代松であることが分かった。ウィキ石川千代松を見ると明治九(一八七六)年、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始め』、翌明治十年十月に、『エドワード・S・モース東京大学教授が、蝶の標本を見に来宅した』とあり、翌明治十一年に『東京大学理学部へ進んだ』とあるので間違いない。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 48 鉄扇の驚くべき用法(ホンマかいな!?)

 東京に沢山ある古道具屋で、時折り鉄の扇、というよりも、両端の骨が鉄で出来ている扇や、時として畳んだ扇の形をした、強直な鉄の棒を見受ける。この仕掛は昔、サムライ階級の人々が、機に応じて持って歩いた物だそうである。交戦時、サムライが自分の主を訪れる時、彼は侍臣の手もとに両刀を残して行かねばならなかった。習慣として、襖を僅に開け、この隙間に訪問者は頭をさし込むと同時に低くお辞儀をし、両手を下方にある溝のついた場所へ置くのであるが、彼はこの溝に例の扇を置いて、襖が突然両方から彼の頸をはさむことを防ぎ、かくて或は暗殺されるかも知れない彼自身を保護するのであった。これは老いたるサムライが私に語った所である。鉄扇はまた、攻守両用の役に用いることも出来ると彼はいった。

[やぶちゃん注:「古道具屋」原文は“the bric-a-brac shops”。“bric-a-brac”はフランス語で「古道具・骨董品」、俗語で「古道具屋・骨董商」(他に比喩的に「古くさい手法」の意もある)を意味する“bric-à-brac”由来で、古い小物類(装飾品,・小さな家具)・古物の意。

「鉄の扇」“an iron fan”。鉄扇が護身具であったことは知っているものの、こんな驚くべき防備用法は知らなかった。確かに使おうと思えば、そのように使用は出来ようが……ちょっと……信じ難い感じもしないではないのだが……是非とも識者の御教授を乞うものである。

「交戦時」原文“In hostile times”。これは誤訳であろう。「絶対君主制の時代には」「封建時代には」ではないか?]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 48 鉄扇の驚くべき用法(ホントかい!?)

 東京に沢山ある古道具屋で、時折り鉄の扇、というよりも、両端の骨が鉄で出来ている扇や、時として畳んだ扇の形をした、強直な鉄の棒を見受ける。この仕掛は昔、サムライ階級の人々が、機に応じて持って歩いた物だそうである。交戦時、サムライが自分の主を訪れる時、彼は侍臣の手もとに両刀を残して行かねばならなかった。習慣として、襖を僅に開け、この隙間に訪問者は頭をさし込むと同時に低くお辞儀をし、両手を下方にある溝のついた場所へ置くのであるが、彼はこの溝に例の扇を置いて、襖が突然両方から彼の頸をはさむことを防ぎ、かくて或は暗殺されるかも知れない彼自身を保護するのであった。これは老いたるサムライが私に語った所である。鉄扇はまた、攻守両用の役に用いることも出来ると彼はいった。

[やぶちゃん注:「古道具屋」原文は“the bric-a-brac shops”。“bric-a-brac”はフランス語で「古道具・骨董品」、俗語で「古道具屋・骨董商」(他に比喩的に「古くさい手法」の意もある)を意味する“bric-à-brac”由来で、古い小物類(装飾品,・小さな家具)・古物の意。

「鉄の扇」“an iron fan”。鉄扇が護身具であったことは知っているものの、こんな驚くべき防備用法は知らなかった。確かに使おうと思えば、そのように使用は出来ようが……ちょっと……信じ難い感じもしないではないのだが……是非とも識者の御教授を乞うものである。

「交戦時」原文“In hostile times”。これは誤訳であろう。「絶対君主制の時代には」「封建時代には」ではないか?]

萩原朔太郎 短歌五首 明治三八(一九〇五)年十二月

ほしいまゝくづほれ泣(な)けば寒(さむ)き世(よ)も光そひくる心地(こゝち)のみして

 

夜(よ)は夜にて晝(ひる)は晝にて戀(こ)いてあらばエトナの山(やま)はもえであるべし

 

からくりに見(み)たる地獄(ぢごく)の叫喚(けいかん)が待(ま)ち居(ゐ)るものと思(おも)ふ可笑(をか)しさ

 

寂律(さびしみ)や葦(あし)に物(もの)いふ夕澤邊(ゆうさわべ)鴫立つからに思(おも)ふ西行

 

古年(ふるとせ)や王者(わうしや)に似(に)たる思(おもひ)いでゝ浮(うか)び來淡(あは)く秋の夕雨

 

[やぶちゃん注:前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された五首連作。同号にはこの前に、前に掲げた「ろべりや」七首の他、二歌群が載る。当時、朔太郎満十九歳。

 二首目「戀いて」はママ。「エトナ」はイタリア南部シチリア島の東部にあるヨーロッパ最大の活火山エトナ山(Etna)。ギリシャ神話ではガイアの息子で不死の怪物の王ティフォンが封じられているとされ、また鍛冶神ヘパイストスはこの山精であるエイトナを愛人とし、その情熱的な生涯の最後の仕事場としてこの山を選んだとも伝えられる。ただ、私が馬鹿なのかこの歌の意味は今一つ、よく汲み取れない。自分の恋情の炎が日夜絶えず激しければ、永遠の火を噴くはずのエトナ山でさえも、その私の情熱故に燃え尽きてしまうであろう、とでもいうのであろうか? どうも短歌の苦手な私には分からぬ。識者の御教授を乞うものである。

 三首目「叫喚」は初出では「叫嗅」であるが、誤植と断じて訂した。無論、底本全集校訂本文も「叫喚」とする。「けうかん」の読みはママ。

 四首目「ゆうさわべ」の読みはママ。]

杉田久女句集 14 蝶

 


藪風に蝶ただよへる虛空かな

 

蝶來初めぬ北窓畠に開けてすむ

 

もつれ映りて河を橫切る蝶々かな

 

蝶の目に觸れてきびしき小花かな

 

蝶去るや葉をとじて眠るうまごやし

 

蝶とまりて靜に翅をたたむ花

 

すこし飛びて又土にあり翅破れ蝶

 

旭注ぐや蝶に目醒めしうまごやし

 

[やぶちゃん注:底本索引から「旭注ぐや」は「ひそそぐや」と訓じているものと思われる。久女は蝶を詠わせたら、右に出る者はない。彼女にとって蝶は傷心の自身の肉体であり、後に

 足袋つぐやノラともならず教師妻

と詠む「人形の家」のノラの自己投影の表象であり、そうして――そうして

 蝶追うて春山深く迷ひけり

と詠んだ彼女の、凄絶なる