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2014/01/09

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より鵠沼の部 八松原

    ●八松原

八松原は。鵠沼より西舊辻堂村の海濱に在る砂原をいふ。もと砥上原の内なり。八株の老松あるに因り名くといふ。又八的にも作れり。古書に其の證あり。今何れか是なりかを知らず。舊幕府の時は。砲術場(ほふじゆつば)に充てられしが。今日の遺風ありて。大砲の試験場(しけんば)に供せられ。時々轟然の聲耳を驚かし。漠々の煙海風に颺揚せるを見る。風土記に據りて歴史を擧れは左のことし

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

砥上原〔附八松原〕 地理を案するに。郡の東南海濱の地。今の鵠沼村より茅ヶ崎村に至る。迄の間。當時一圓の曠原。凡東西二里餘。南北六町程の地なりしなるべけれど。後世村落をなし。田地を開きたれば。昔の形狀知るべからす。今の砲術場は其遺名なり。鎌倉將軍義兵を擧げし初。和田小太郎義盛八松原を押通(おしとほ)りし事あり。

[やぶちゃん注:以下、一字下げの部分は再現し、一行字数を底本に合わせた。但し、ブログでは読みを入れたため、下がさがっている箇所がある。]

 源平盛衰記曰。治承四年八月二十五日。和田義盛三百餘騎

 にて。鎌倉通に腰越、稻村八松原大磯 小磯打過きて酒匂

 の宿に着けり。

 又木曾追討佐々木四郎高綱。砥上八松等の原を馳過(はせすぎ)し事も

 あり。又(また)曰佐々木四郎高綱。片瀨川、砥上原、八松原馳過

 て相模川を打渡。

内大臣宗盛捕れて鎌倉に入る時の記にも見ゆ。

 平家物語曰。小磯大磯の浦々八的砥上ケ原云々打過きて。

 鎌倉へこそ入給ふ。案するに八的八松の轉化ならん。

又西行法師行脚の時砥上ケ原を過きて和歌を詠す。

 西行物語に。相模國大場と云ふ所。砥上ケ原を過るに。野

 原の霧の際(きわ)より風に誘れ鹿の鳴(なく)聲聞えければ。

  芝まとふ葛のしげみに妻籠めて砥上か原に牡鹿鳴くなり

其後鎌倉將軍賴朝八的原に怪事に逢給ひし事。保曆間記に見えたり。

 建久九年冬。右大將殿相模川の橋の供養に出て還らせ給

 ひけるに。八的か原と云ふ所にて。亡されし源氏義廣義經

 行家已下の人々の怨靈現して。將軍に目を合せり

又鴨長明羈旅の歌に。

  浦近き砥上か原に駒とめて片瀨の川の汐干をぞ待

  立かへる名殘は春に結びけん砥上が原のくすの冬枯れ

此二首歌枕名寄に見ゆ。(浦近きの歌は詞書なけれども。片瀨の汐を待合たるなれば。鎌倉下向の道なるを知るべし。立かへるの歌は。東よりかへりのぼりけるに。砥上ケ原にてとあり)。又海道記に貞應中の景色を記して。相模川を渡りぬれば。懐島に入り。砥上原を出(いで)て南の浦を見やれば。浪の文(あや)おりはえて白き色を爭ひ。北の原を望めば。艸の綠染め成て。淺黄さらせり。中に八松と云ふ所あり。

 八松の八千世の蔭に思馴て砥上か原に色も替らじ

東關紀行に據に天文の頃尚曠原なりしこと知らる。

 曰、相模川の舟渡しして行ば。大なる原あり。砥上原とぞ。是れ

 は當國の歌に入れりとなん。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。「相模國風土記」の記載については一部表記に問題があるため、例外的に原本(大日本地誌大系版)に当たって一部(読み易く書き直してある部分もあるのでそれは私の判断で残した)を補正した。

「新編鎌倉志卷六」の「砥上原」の項には以下のようにある。

   *

〇砥上原〔附八松原〕 砥上(とがみ)が〔或作砥見又作科見(或は砥見に作り、又、科見に作る。〕が原は片瀨より西に當る。【西行物語】に、とかみが原を過るに、野原の露のひまより、風にさそはれ、鹿シカのなく聲きこへければ、歌に「柴松の、くずのしげみに妻こめて、砥上が原に小鹿鳴くなり」。鴨の長明が歌に、「浦千かき、とがみが原に駒とめて、片瀨の川のしほひをぞまつ」。又、「立歸る名殘は春に結びけん、とがみが原のくずの冬がれ」。此北に八松(やつまつ)が原と云所あり。【盛衰記】に三浦の人々、 石橋の軍さ散じて、洒勾の宿より三浦へ通らんとて、馬を早めて行程に、八松が原・腰越・稻村・由比の濵を打越て、小坪坂を上るとあり。鴨の長明が歌に、「八松の八千代のかげにをもなれて、とがみがはらに色もかはらじ」。

   *

●「浦千かき」及び最後の「八松の」の歌は鴨長明が飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向、将軍源実朝と会見する入鎌前の、ここでの嘱目吟である(建暦元(一二一一)年編「鴨長明集」所収)。

●「立歸る名殘は春に結びけん、とがみが原のくずの冬がれ」は鴨長明の歌ではなく、冷泉為相の歌である(嘉元元(一三〇三)年頃編「為相百首」所収。以上二つの注はウィキの「砥上ヶ原」を参照した)。そこからこの二つの「原」の「位置と範囲」も以下に引用して参考に供しておく。『砥上ヶ原の範囲については諸説がある。相模国高座郡南部の「湘南砂丘地帯」と呼ばれる海岸平野を指し、東境は鎌倉郡との郡境をなしていた境川(往古は固瀬川、現在も下流部を片瀬川と呼ぶ)であることは共通する。西境については、相模川までとするものと引地川までとする』二説が代表的で、相模川説の方は連歌師谷宗牧が天文十三(一五四四)年に著した『「東国紀行」で「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」とあるのが根拠とされる。一方、後者は引地川以西の原を指す古地名に八松ヶ原(やつまつがはら)あるいは八的ヶ原があり、しばしば砥上ヶ原と八松ヶ原が併記されていることによる。後者の説を採るならば、砥上ヶ原の範囲は往古の鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼地区の範囲とほぼ一致する』とある。なお、本文の「相模国風土記」の引用にもある通り、この「八的ヶ原」という名称は、謎とされる頼朝死去の記録の中の「保暦間記」の記載に、『大將軍相模河の橋供養に出で歸せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義經・行家以下の人々現じて賴朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稻村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程隨分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安德天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり』(この橋は稲毛重成が北條時政娘であった亡妻追善のために建立したもの)とあり、頼朝の見る幻視の最初の場所として記憶されている場所である。

「舊幕府の時は。砲術場に充てられしが。今日の遺風ありて。大砲の試験場に供せられ。時々轟然の聲耳を驚かし。漠々の煙海風に颺揚せるを見る」旧幕府相州炮術調練場とその後に跡地の一部が用いられた横須賀海軍砲術学校辻堂演習場のこと。「鵠沼」の項に既注。

「東西二里餘。南北六町程」東西約七・八五キロメートル、南北約六五五メートル。

「源氏義廣」源義広(?~元暦元(一一八四)年)。以下、ウィキの「源義広 (志田三郎先生)に拠って叙述する。河内源氏第五代で源為義三男。志田三郎先生(しだのさぶろうせんじょう)、義範、義憲(よしのり)とも称した。志田氏の実質的な祖。平頼盛に近く、平家政権中も常陸国信太荘(茨城県稲敷市)で難なく過ごした。「平家物語」では治承四(一一八〇)年五月の以仁王の挙兵の際、末弟の源行家が甥頼朝に以仁王の令旨を伝達したのち、義広の元に向かったとする。「吾妻鏡」によれば同年八月に頼朝が挙兵したのち、同年十一月の金砂城の戦いの後に義広が行家と共に頼朝に面会したとするが、合流することはせず、その後も常陸南部を中心に独自の勢力を維持した。その後、頼朝の東国支配の展開とともに両者の対立は深まり、寿永二(一一八三)年二月二十日、義広は下野国の足利俊綱・忠綱父子と連合して頼朝討滅の兵を挙げ、常陸国より下野国へ進軍した。この直接の動機は鹿島社所領の押領行為を頼朝に諫められたことへの反発であったが、計画が未然に発覚、下野国で義広軍と頼朝軍が衝突することとなった。下野国の有力豪族小山朝政は当初、偽って義広に同意の姿勢を見せ、下野国野木宮(現在の栃木県野木町)に籠もっていたが、二十三日、油断した義広の軍勢が野木宮に差しかかった所を、寝返って突如攻めかかり、義広軍は源範頼・結城朝光・長沼宗政・佐野基綱らの援軍を得た朝政に敗れ、本拠地を失った(野木宮合戦)。その後、同母兄義賢の子木曾義仲軍に参加したが、そもそも常陸国から下野国へ兵を進めたこと自体、義仲の勢力範囲を目指した行動であったと見られている。このことが義仲と頼朝との対立の導火線となるが、義仲は義広を叔父として相応に遇し、終生これを裏切ることはなかった。以降、義広は義仲と共に北陸道を進んで一方の将として上洛し、入京後に信濃守に任官された。元暦元(一一八四)年正月の宇治川の戦いで頼朝が派遣した源義経軍との戦いで防戦に加わったが、粟津の戦いで義仲が討死し、敗走した義広もまた、逆賊として追討を受ける身となり、同年五月四日、立て籠もった伊勢国羽取山(現在の三重県鈴鹿市の服部山)合戦の末に斬首された(「吾妻鏡」)。

「貞應中」西暦一二二二年~一二二四年。紀行文「海道記」は作者未詳ながら、貞応二(一二二三)年の成立と考えられている。

「相模川を渡りぬれば……」以下の「海道記」は「相模国風土記」が底本としたもののせいか、非常に読みづらく、私の知っているこの段とは一部に省略や異同もあるので、玉井幸助・石田吉貞校註「海道記 東關紀行 十六夜日記」(朝日新聞社「日本古典全書」昭和二六(一九五一)年刊)を用いて該当部分を引用し直しておく。

   *

相模川を渡りぬれば、懐島(ふところじま)に入りて砥上原を出づ。南の浦を見やれば、浪の綾、織りはへて白き色をあらふ。北の原を望めば、草の綠、染めなして淺黄をさらせり。中に八松(やつまつ)と云ふ所あり。八千歳の蔭に立ち寄りて十八公の榮を感ず。

   八松の八千世ふるかげに思ひなれて

         とがみが原に色もかはらず

   *

以下、引用底本の玉井氏の頭注などを参考に注しておく。

●「懐島」は島嶼ではなく、宿駅の名。相模国高座郡の現在の茅ヶ崎附近にあった古い宿であった。

●「織りはへて」ハ行下二段活用の動詞「織(お)り延(は)ふ」で、織って長く伸ばす、織って長くするの意。

●「八松」松の異名。「松」の字を分解すると「十」「八」「公」となる。十八年も経てば公(貴き存在)となるという意。「和漢朗詠集」の「松」の源順の和歌に(引用は「新潮日本古典集成」に拠ったが恣意的に正字化した)、

十八公(しふはつこう)の榮(えい)は霜の後に露(あらは)れ 一千年(いつせんねん)の色は雪の中(うち)に深し、

 十八公榮霜後露 一千年色雪中深 順

この「一千年」とは松の緑が千年を経ても変わらぬことから、その測り知れぬ福寿の徳を讃えたもの。

●「八松の八千世ふるかげに思ひなれて とがみが原に色もかはらず」は、玉井氏の訳によれば、『八つ松が千歳の古い姿を身につけて、いつまでも十がみの原に同じ色を見せてゐる』で、『「とがみ」に十をかけて八つにあやなした』とある。老婆心乍ら、この「あやなした」というのは、(修辞を)巧みに扱った、という意である。]

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