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2014/01/23

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 1 モース、再来日す

 第十一章 六ケ月後の東京 

 一八七八年五月一日

 再びこの日記を、以前記録の殆ど全部を書いた同じ家で始めることが、何と不思議に思われることよ! 米国大陸を横断する旅行は愉快であった。私は、平原地方では停車場でインディアンの群を研究し、彼等の間に日本人に似たある特徴が認められるのに興味をもった。これ等の類似が日本人との何等かの人類学的関係を示しているかどうかは、長い、注意深い研究をした上でなくては判らぬ。黒い頭髪、へこんだ鼻骨等の外観上の類似点、及び他の相似からして、日本人と米国インディアンとが同じ先祖から来ているのだと考える人もある。

 * これ等の類似の一例として以下の事実がある。一八八四年フィラデルフィアに於て、私はオマハ・インディアンのフレッシ氏を菊池教授に紹介した所が、同教授はただちに日本語で話しかけ、そして私が彼に、君はオマハ・インディアンに話しをしているのだといったら、大きに驚いた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、モースはエレン夫人、十三歳の娘イーディスと七歳の息子ジョンを伴って一八七八(明治一一)年四月一日にサンフランシスコから出帆、風のために難航してやや遅れて四月二十三日、横浜に着いた。この時、後にモースの助教として親しく近似することになる高嶺秀夫と同船し、親交を結んでいる。高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後,女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「インディアン」「の間に日本人に似たある特徴が認められる」ウィキの「インディアン」の「人種」の項には、『人種的にはモンゴロイドの系列にあり古モンゴロイドに分別される(イヌイットとエスキモーなどを除く)。アラスカ、カナダ、アメリカ合衆国北部の部族は肌の色が赤黒く鼻筋が通り高く盛り上がっており鷲鼻である人が多い。一方、アメリカ合衆国南部、中南米においては東南アジア人に似た部族も存在する等、一様ではない。日本人と似た外見の者も多い。また、ヨーロッパ人(コーカソイド)との混血、アフリカ黒人(ネグロイド)との混血が進んだ部族も存在する。純血の民族はメキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、ペルー、ボリビアなどに多く存在する。しかしブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどのスペイン人と激烈な戦いを繰り広げた地域では、純血な先住民はスペイン人の暴虐な侵略でほぼ絶えている』とある。

「菊池教授」菊池大麓(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵・当時、東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。]

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