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2014/01/25

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十六】――幕府軍、尾張一の宮に着き布陣、武田・佐々木両将の元へ官軍への参入を求める院宣を持参した院使来訪するも殺傷す。武田、武藤新五に命じ、大炊の渡しの瀬踏みをさせる

東海道の先陣相模守時房は、六月五日の辰刻に、尾張國一の宮に著陣して、軍の手分をせられけり。東山道より押上る大將は、武田五郎父子八人を初として、其勢五萬餘騎何も聞ゆる勇士共なり。武田既に本國を出る日は、十死一生とて極(きはめ)たる惡日なり。「如何あるべき。只明日軍立(いくさだち)し給へかし」と申す者多かりけり。武田五郎いひけるは、「何條さる事のあるべき。侍の軍に向ふ程にては命生きて歸るべしとは覺えず。是こそ吉日なれ」とて勇進みて上りしが、既に市原に陣を取る。かゝる所へ院宣の御使とて、武田五郎、小笠原次郎兩人が中へ三人までぞ下されける。「一天の君の思召し立ち給ふ此度の御大事に、爭(いかで)か御敵と成りて内侍所に向ひ奉り、矢を發つべき道なし。只とく東方に參りて朝敵を討ちて奉れ」とありければ、小笠原即ち武田が方へ使を以て、「如何御計ひ候」と云はするに「只切りて捨て給へ」と云ふ。「信光もさこそ思へ」とて三使の中に、二人は首を刎ねて、一人は追放(おひはな)ちて京都にぞ歸しける。武田五郎が郎等に、武藤新五と云ふ者あり。水練の達者なり。「大炊渡(おほひのわたり)瀨蹈(せぶみ)して見よ」と云ひければ「畏(かしこま)り候」とて渡の瀨蹈仕果(しおほ)せて歸り乗る。「河の西の岸極て高く、輒(たやす)く馬を扱ひ難く、水底(すゐてい)七八段(たん)に菱を種(うゑ)流し、亂株逆茂木(らんぐひさかもぎ)を打ちて候を、馬四五疋を上げ候程菱を取捨て亂株を払捨て、驗(しるし)を立てて置きたり」と申す。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十六】――幕府軍、尾張一の宮に着き布陣、武田・佐々木両将の元へ官軍への参入を求める院宣を持参した院使来訪するも殺傷す。武田、武藤新五に命じ、大炊の渡しの瀬踏みをさせる〉

「武田五郎」武田信光(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)。既注であるが再掲する。甲斐源氏信義の子。治承四(一一八〇)年に一族と共に挙兵して駿河国に出陣、平家方を破る。その後、源頼朝の傘下に入って平家追討戦に従軍した。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも参加するが、この頃には安芸国守護となっている。その後も阿野全成の捕縛や和田合戦などで活躍、この後の承久の乱の際にも東山道の大将軍として上洛している。弓馬に優れ、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆らとともに弓馬四天王と称された。当時五十七歳(以上は「朝日日本歴史人物事典」及びウィキの「武田信光」を参照した)。

「十死一生とて極たる惡日」現在の暦注にも残る十死日(じっしび)のこと。陰陽道で、総てに大凶とする日で、特に戦闘・嫁取り・葬送に悪いとする。

「小笠原次郎」小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。甲斐源氏の一族加賀美遠光次男。信濃守護家小笠原氏の、また特に弓馬術礼法小笠原流の祖として知られる。先の武田信光とともに弓馬四天王の一人。

「七八段」「段」は「反」と同じで距離単位。一段(反)は六間(約十一メートル)であるから、七十七~八十八メートル。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号38~40のパート)の記載。

 

 六月五日辰時ニ、尾張ノ一宮ニ著テ、軍ノ手分ヲセラレケリ。大炊ノ渡へハ東山道ノ手向ハンズレバトテ、鵜沼ノ渡へハ毛利藏人入道、板橋へハ狩野介入道、氣ガ瀨へハ足利武藏守前司、大豆ノ渡へハ相模守時房、墨俣へハ武藏守・駿河守殿被レ向ケル。

 東山道ニ懸テ上ケル大將、武田五郎父子八人・小笠原次郎親子七人・遠山左衞門尉・諏方小太郎・伊具右馬人道・南具太郎・淺利太郎・平井三郎・同五郎・秋山太郎兄弟三人・二宮太郎・星名次郎親子三人・突井次郎・河野源次・小柳三郎・西寺三郎・有賀四郎親子四人・南部太郎・逸見入道・轟木次郎・布施中務丞・甕中三・望月小四郎・同三郎・兩津三郎・矢原太郎・鹽川三郎・小山田太郎・千野六郎・黒田刑部丞・大籬六郎・海野左衞門尉、是等ヲ始トシテ五萬餘騎、各關ノ太郎ヲ馳越テ陣ヲトル。

 其中に武田五郎、國ヲ立家ヲ出ル日、十死一生卜云フ惡日也。跡ニ留ル妻子ヲ始トシテ有ト有物、「今日計ハ留ラセ給ヒテ、明日立セ給へカシ」ト申ケレ共、武田五郎、「何條サル事ノ可レ有ゾ。タトヘバ十死一生トハ、多ク出テ少ク歸ルトゴサンナレ。軍ニ出ルヨリシテ、再ビ可ㇾ歸トハ不ㇾ覺。是コリ吉日ナレ」トテ、軈テ打立ケル。

 市原ニ陣ヲトル時ニ、武田・小笠原兩人ガ許へ、院宣ノ御使三人迄被ㇾ下タリケリ。京方へ參卜也。小笠原次郎、武田ガ方へ使者ヲ立テ、「如何ガ御計ヒ候ゾ。長淸、此使切ントコソ存候へ」。「信光モサコソ存候へ」トテ、三人ガ中二人ハ切テ、一人ハ、「此樣ヲ申セ」トテ追出ケリ。武田五郎、子共ノ中ニ憑タリケル小五郎ヲ招テ、「軍ノ習ヒ親子ヲモ不ㇾ顧、マシテ一門・他人ハ申ニヤ及。一人拔出テ前ヲカケ、我高名セント思フガ習ナリ。汝、小笠原ノ人共ニ不ㇾ被ㇾ知シテヌケ出テ、大炊ノ渡ノ先陣ヲセヨト思ハ如何ニ」。「誰モサコソ存候へ」トテ、一二町拔出テ、野ヲフムヤウニテ、其勢廿騎計河バタヘゾ進ケル。武田小五郎ガ郎等、武藤新五郎卜云者アリ。童名荒武者トゾ申ケル。勝レタル水練ノ達者也。是ヲ呼デ、「大炊ノ渡、瀨蹈シテ、敵ノ有樣能見ヨ」トテ指遣ス。新五郎、瀬ブミシヲホセテ歸來テ、「瀬蹈コソ仕テ候へ。但、河ノ西方岸高シテ、輙ク馬ヲアツカヒ難シ。向ノ岸渡瀨七八段ガ程、菱ヲ種流シ、河中ニ亂株打、ツナハヘ、逆茂木引テ流懸、四五段ガ程、菱拔捨テ流シヌ。綱キリ逆茂木切テ、馬ノアゲ所ニハシルシヲ立テ、其ヲ守へテ渡サセ給へ」トゾ申ケル。武田小五郎、先ザマニ存知シタリケレバ、河ノハタへ進ム。]

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