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2014/01/10

耳嚢 巻之八 白川侯定信屋代弘賢贈答和歌の事

 白川侯定信屋代弘賢贈答和歌の事

 

 白川の養母身まかりし喪を、弘賢が母のうせし歎きにくらべて、歌詠(よみ)て公へ奉りしを、定信侯答歌(たふか)有(あり)と、弘賢が歌のはしに書(かき)し言の葉、定信の答の始末を寫して、弘賢見せけるをしるしぬ。

  春ながら野山の花をとひもせではゝその森に歎きこるらん

                           弘 賢

  したひにしこぞの柞の下露も今思しる春雨のそら 少將定 信

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、六つ前の「火爐の炭つぎ古實の事」の考証が実は屋代弘賢のそれと酷似していたこと、やはりそこで注した尊号事件が定信辞任の主因であったことと、さらにこの本文から根岸鎮衛が弘賢と懇意であったことも分かって、字背には強い人的な連関性があることが分かる。

・「白川侯定信」松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)。以下、ウィキ松平定信」によれば、御三卿田安徳川家初代当主徳川宗武七男であったが、幼少期より聡明で、田安家を継いだ兄の治察が病弱で凡庸であったために一時期は田安家の後継者、いずれは第十代将軍徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次の政策を賄賂政治として批判していたために存在を疎まれ、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主治済により安永三(一七七四)年に久松松平家庶流陸奥白河藩第二代藩主松平定邦の養子とされた。天明の大飢饉の最中である天明三(一七八三)年に藩主に就いたが、実際には『それ以前から養父・定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。これは、近隣の会津藩の江戸廻米を買い取る、西国より食糧を買い入れるなど迅速な対応によるものだった』という。これによってその手腕を認められ、天明六(一七八六)年に家治が死去し第十一代将軍家斉の代となって田沼意次が失脚すると、その翌年、徳川御三家の推挙を受けて、少年の家斉の下で老中首座・将軍輔佐となり、『天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した』。寛政五(一七九三)年七月二十三日、三十四歳で将軍輔佐及び老中等御役御免となったが、この辞任は尊号一件が主因であったとされる。その後は白河藩の藩政に専念した。享年七十二歳であった。

・「屋代弘賢」(やしろひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)は国学者。江戸生まれの幕臣。国学を塙保己一に、儒学を山本北山(ほくざん)に学び、柴野栗山(りつざん)の「国鑑(くにかがみ)」や塙の「群書類従」の編集を輔けた。天明二(一七八二年)年に幕府の表右筆として出仕、天明六年には本丸附書役、寛政五(一七九三)年、奥右筆所詰支配勘定格となった。文化元(一八〇四)年には勘定格として御目見以上に昇進した。翌文化二年にはロシアに対する幕府の返書を清書している。幕府右筆として「寛政重修諸家譜」「古今要覧稿」などの編集に従事している。蔵書家で、上野不忍池池畔に不忍文庫をたてた。享年八十四歳(以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキ屋代弘賢に拠った)。

・「養母」宝蓮院(あるいは法蓮院)通子(享保六(一七二一)年~天明六(一七八六)年)。近衛家久娘で田安徳川家初代当主徳川宗武正室。名は初め知姫、その後森姫、通姫と改めた。享保一八(一七三三)年、江戸城二の丸に入り、享保二〇(一七三五)年に宗武と婚姻。宗武との間には七人の子女を儲けた。明和八(一七七一)年の宗武の死後に落飾、天明六年一月十二日に六十五歳で死去、寛永寺凌雲院に葬られた(以上はウィキ宝蓮院に拠る)。天明六年当時、松平定信は満二十七歳で幕政への抜擢の直前、屋代弘賢は既に本丸附書役で満二十八歳であった。

・「春ながら野山の花をとひもせではゝその森に歎きこるらん」「とひ」は「訪ひ」、「はゝその森」は柞の木の森。柞はブナ目ブナ科コナラ Quercus serrate のこと。ホウソとも呼ぶ。但し、ここはこれで山城国相楽(さがら/そうら)郡(現在の京都府相楽郡精華町祝園(ほうその))にある紅葉の名所を指す固有名詞で、母の意に掛けて用いる歌枕である。「歎きこるらん」は「歎き」の「き」に「木」を掛詞として、「きこる」(木樵る)、その木を伐るようだよ、という悲傷の絶唱である。

・「したひにしこぞの柞の下露も今思しる春雨のそら」「こぞ」は「去年」。岩波の長谷川氏注に、去年の『秋の柞の下においた露は今春の雨の前兆。母の死に今春涙した』と解を記されておられる。

・「少將」定信は老中等を辞任した際、左近衛権少将に叙されている。ということはこの「始末を寫し」たとする贈答歌の書き物は、寛政五(一七九三)年七月二十三日の辞任後の書であることが分かり、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、そこから遡る十五年前までの何時かに限定出来る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 白川侯松平定信公と屋代弘賢殿の贈答の和歌の事

 

 白川侯の養母であらせられた宝蓮院様が天明六年の年に身罷られたその喪(も)に、屋代弘賢殿、自身の母の亡くなられた折りの歎きに公の心痛を引き比べて、歌を詠んで公へ奉ったところ、定信侯より答歌(とうか)が、これ、御座った。それにつき、弘賢殿が歌として詠み記したその詞(ことば)と、それに対し、定信公がお答えになった歌をともに合わせて書写なされたものを、弘賢殿が見せて下された。以下にそれを記しおくことと致す。

 

  春ながら野山の花をとひもせではゝその森に歎きこるらん

                            弘 賢

 

  したひにしこぞの柞の下露も今思しる春雨のそら 少將 定 信

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