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2014/01/07

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 40 明治一〇(一八七七)年十月九日 火曜日 大森貝塚本格発掘

M290
図―290

 

 この前の火曜日に私は労働者を多数連れて、大森貝塚の貝塚を完全に研究しに行った。私は前に連れて行った労働者二人をやとい、大学からは、現場付近で働いて私の手助けをする労働者を、四人よこしてくれた。彼等はみな耨(くわ)やシャベルを持ち、また我々が見つけた物を何でも持ち帰る目的で、非常に大きな四角い籠を持って行った。私の特別学生二人(佐々木氏と松浦氏)、外山教授、矢田部教授、福世氏も一緒に行った。なお陸軍省に関係のあるル・ジャンドル将軍も同行した。彼は日本人の起原という問題に、大いに興味を持っている。また後の汽車でドクタア・マレーとパーソンス教授が応援に来たので、この多人数で我々は、多くの溝や、深い濠を掘った。この日の発掘物は、例の大きな四角い籠を充し、別に小さな包みにしたものに対する運賃請求書には三百ポンドと書かれ、なお大事な標本は私が手提鞄(ハンドバック)に入れて帰った。図290は、貝塚の陶器で充ちた大きな籠をかついで鉄道線路にそって帰る労働者達を写生したものである。前の時と同じように、労働者達は掘りかえした土砂を、耨やシャベルを以て元へ戻し、溝を埋め、灌木や小さな木さえも植え、そしてその場所を来た時と同様にした。彼等は恐しく頑張りのきく労働者達で、決して疲れたような顔をしない。今日の作業の結果を加えると、大学は最も貴重な日本古代の陶器の蒐集を所有することになる。すでに大学の一室にならべられた蒐集でさえ、多大の注意を惹起しつつあり、殆ど毎日、日本人の学者たちが、この陶器を見る許可を受けに来る。彼等の知識的な鑑賞や、標本を取扱う注意深い態度や、彼等の興味を現す丁寧さは、誠に見ても気持がよい。東京の主要な新聞『日日新聞』は、私の発見に関して讃評的な記事を掲載した。図291はそれである。

 

M291
図―291

 

[やぶちゃん注:磯野先生は「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で、この大森貝塚の本格発掘が、日本人大衆が貝塚という存在を初めて正しく学術的に認知したその瞬間であったことを、以下のように記しておられる(同書第十二章「大森貝塚の発掘」一一八頁)。

   《引用開始》

『常陸風土記』には、今の大串貝塚について昔巨人が貝を食べて捨てた跡だとあり、これが世界最古の貝塚の記述という。その後も大同小異の伝説はあったし、日本人がその存在に気付いていたことは貝塚を地名とする場所が多いことからもわかる。しかし、それが古代人のゴミ捨て場だったこと、学術的に意味をもつ存在であることは、このとき初めて知られたといってよい。

   《引用終了》

「大串貝塚」は茨城県水戸市塩崎町にある縄文前期に形成された貝塚遺跡である。なお、図291はモースの言うように十月八日附『東京日日新聞』の記事である。以下に電子化しておく(対照し易くするため、一行字数を合わせた)。

   *

開成學校お雇ひ大博士イーエス、モールス氏(米國にて

一二を爭ふ有名の探古學者)は曾て汽車にて大森を經過

せし時倉卒の際にも一つの小芥丘をキツト觀察して其只

物に非ざるを豫て疑ひ居りしが疑念勃々胸懷を離れざれ

ば此頃ろ終に其穿鑿に着手して此小芥丘を發ばきければ

地下凡そ一間程の所に至て太古人民の品類甕瓶瓦凡食器

等を夥しく掘出したり其器物類の形狀はさも米國土人の

作爲せる者に似たり依て想像すれば日本太古の人民は則

ち米國太古の人民と同人種にて「アイノー」人種が先づ之

を駆り除け其「アイノー」人種を今の日本人が逐除けて此

國に居住することとはなりしならんかとも云へり尚委細は

いづれモールス氏より世界の學者連へ報道する所あるべ

ければ其報を得て後号に掲ぐべしと民間雜誌に見ゆ

   *

「民間雜誌」とはこういう誌名の学術雑誌で、慶應義塾が初めて発行したもので明治七(一八七四)年創刊、自然科学・社会科学・文学・宗教全般を扱った。明六社の『明六雑誌』(明治七年三月創刊)とほぼ同時期に発刊された。明治八(一八七五)年五月に一旦廃刊するが、明治九年九月に『家庭叢談』を『民間雑誌』と改題して週刊雑誌として新発足していた。福澤諭吉が「売薬論」など数多くの社説を載せ、他にも矢野文雄・朝吹英二・中上川彦次郎など慶應義塾の関係者が数多くの社説を書いて、明治初期の評論界を文部省の発行していた『文部省雑誌』や大槻磐渓の『洋々社談』・中村敬宇の『同人社文学雑誌』などとともに牽引した。この後に出てきたのが徳富蘇峰の『国民之友』(明治二〇(一八八七)年創刊)や三宅雪嶺の『日本人』(明治二十一年創刊)である(以上はウィキの「民間雑誌」に拠った)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、この『民間雑誌』にモースのこれと同記事が載ったのは二日前の十月七日のことで、孰れもそれに先立つ十月六日発行の英字新聞『トーキョー・タイムズ』の記事に準拠している。但し、この日附と次の私の注で分かるように、これらの記事は本段に記された大森貝塚の本格発掘調査に先立つ二回に亙るプレ発掘調査(九月十六日及び九月十八か十九日かに行われた二回分)を受けてのことである点に注意されたい。

「この前の火曜日」十月九日(火曜)に行われた大森貝塚第三回発掘調査。これが同貝塚の本格的発掘の最初であった。

「佐々木氏」佐々木忠次郎(忠二郎とも表記 安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)は後の昆虫学者にして近代養蚕学・製糸学の開拓者(父佐々木長淳も養蚕学の研究者であった)。東京大学在学中にモースやチャールズ・オーティス・ホイットマンの指導を受け、明治一二(一八七九)年には飯島魁とともに陸平(おかだいら)貝塚(茨城県稲敷郡美浦村霞ヶ浦南岸にある、縄文前期から後期にかけての国内でも規模の大きい貝塚群。日本人によって初めて発掘調査が行われた遺跡であり「日本考古学の原点」と称される。)を発掘調査を行っている。明治一四(一八八一)年に東京大学理科大学生物学科第一回生として卒業後、駒場農学校助教授・教授を経、東京帝国大学農学部教授となった。大正一〇(一九二一)年に退官して名誉教授。害虫研究や蚕研究を行い、多くの著書と論文を発表した。国蝶である鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科コムラサキ亜科オオムラサキ属オオムラサキ Sasakia charonda の属名「ササキヤ」は彼に対する献名(以上はウィキ佐々木忠次郎及び同リンク先の各記載に拠った)。

「松浦氏」松浦佐用彦(まつうらさよひこ)。

「外山教授」外山正一文学部教授(心理学・英語)。複数既注。

「矢田部教授」矢田部良吉理学部教授(植物学)。複数既注。

「福世氏」福与の漢訳の誤りと思われる。既注であるが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、佐々木忠次郎の伝記中にこの時の同行者として「福与一」の名があり、彼は同行した学生佐々木・松浦と東京開成学校で同期であった福与藤九郎と同一人物であろうとされる。

「ル・ジャンドル将軍」チャールズ・ウィリアム・ジョセフ・エミール・ルジャンドル(Charles William (Guillaum) Joseph Émile Le Gendre 一八三〇年~一八九九年)。フランス生まれのアメリカ軍人・外交官。明治五(一八七二)年から明治七年まで明治政府の外交顧問、一八九〇年から一八九九年まで朝鮮王高宗(一八九七年からは大韓帝国皇帝)の顧問を務めた。十五代目市村羽左衛門は実子。アモイ(厦門)米国領事であった明治五年に帰国する途次、日本に立ち寄った際に政府に対して台湾問題の武力解決を提唱、副島種臣外務卿の意見と一致していたことから、ルジャンドルは直ちに米国領事の職を辞して、外交及び軍事顧問として明治政府に雇用された。明治七年末には顧問を辞任したが、ルジャンドルは明治二三(一八九〇)年まで日本に滞在し、大隈重信の個人的な顧問を務めた(以上はウィキチャールズ・ルジャンドルに拠った)。

「ドクタア・マレー」文部学監ダヴィッド・マレー。複数既注。

「パーソンス教授」原文も“Professor Parsons”であるが、パーソンが正しい。ウィリアム・パーソン(William Edwin Parson 一八四五年~一九〇五年)はお雇い外国人教師の一人で、ペンシルベニア生まれのアメリカ人理学教授。神学校を卒業後、ワシントンD.C.に於いて教会を設け、聖職活動に従事中、日本政府に雇われて明治七(一八七四)年に東京開成学校の数学及び物理学教師として来日、同校が東京大学に昇格後も理学部(正式担当は数学)で教え、この翌明治十一年に帰国した。滞日中はフォールズ(後述)らと共に楽善会訓盲院(後の東京盲唖学校)の創設に参加、日本に於ける障害児教育に寄与した。東大の『学芸志林』(明治一〇年創刊の東京大学法理文三学部編になる科学雑誌)に「宗教理學相矛盾セザルヲ論ズ」が載せられている。帰国後は牧師の職に戻り、また、ハワード大学でヘブライ語やギリシャ語を教えた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。ここに出るフォールズとはイギリス人医師ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds 一八四三年~一九三〇年)のことで、彼は明治六(一八七三)年に合同長老教会医療伝道団の一員として来日、東京の築地病院で働き、治療とともに日本人医学生を指導した人物で、指紋研究者でもあったがその濫觴は彼がモースと親しくなって、まさにこの大森貝塚の発掘に参加、そこで発掘された土器に残されていた古代人の指紋に興味を持ったことが契機となって研究を始め、遂には数千セットの指紋を集めて比較対照を行い、現在当たり前に知られている、同一の指紋を持つ者は一人としていないこと、指紋は人体から物理的に除去しても再生すること、児童の指紋が成長しても変わらないことなどを発見したのであった(ここはウィキヘンリー・フォールズに拠る)。

「三百ポンド」136・07キログラム。]

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