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2014/01/10

北條九代記 鎌倉軍勢上洛 承久の乱【十四】――承久の乱【十四】――院使推松、京都に帰さる。その報を聴きし後鳥羽院、恐懼す

北條右京權〔の〕大夫義時は、鎌倉総軍家の執權たり。若君を守護し奉りて、態(わざ)と留りおはしけるが、院宣の御使推松を召出し、「汝をば京都に歸すべし。院に參りて申すべき樣は、義時昔より忠義をのみ存する身を、讒(さかしら)を信ぜられ、違勅(ゐちよく)の者になり候。舎弟時房を初(はじめ)て、子にて候、泰時朝時以下三方の軍勢、都合十九萬餘騎を參らせ候。御腹居(はらゐ)させ給ふべし。未だ叡慮治(をさま)らずは、三郎重時、四郎政村を先として、二十萬騎を伴ひ義時參りて申すべしと、必ず奏聞致せよ」とて、追出されたりければ、辛き目を許され命助かりたるが嬉しさに、跡をも見返らず。六月朔日京著して、嘉陽門の御所に參りしかば、物にも覺えぬ公卿殿上人、立ち出で給ひ「推松歸(かへり)參りたり。如何に義時が首をば、誰か取りて參らするぞ。關東には合戰の始りしか。義時鎌倉に泳(たま)り得じ。何方へも落行く音(おと)は聞えざりしか。さこそ彷徨(うろたへ)恐るらん。如何に如何に」と仰せければ、推松打涙ぐみて申しけるは、「平九郎判官の御文を三浦駿河守義村受取りて、權〔の〕大夫義時に見せしより、鎌倉中騷動し、推松は深く忍びて其有樣を見候に、大名、小名諸国より、走集(はせあつま)り、京都を指して三方より押し上り候、十九萬餘騎とは申せども、如何樣百萬騎も候らん、鎌倉より尾張までは野にも山にも軍兵充滿(みちみ)ちて押して行く。一時(じ)も早く告(つげ)申さんとて、急ぎ上りて候」と申す、公卿殿上人、皆、興を醒(さま)して物をも申されず。一院聞召(きこしめ)し、「武士共の上らん後(あと)にて、義時が首は取りて參らする者のあらんするぞ」とは、勅定ありけれども、思(おもひ)の外の大軍に厭(あぐ)みでぞ、思召(おぼしめ)されける。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【十四】――院使推松、京都に帰され、その報を受けた後鳥羽院、恐懼す〉
「御腹居」御立腹。
「承久記」(底本の編者番号31から35のパート)の記載。
 討手ノ輩、五月廿二日方々へ向フ。同二十七日、院宣御使推松カラフ被ㇾ戒テ人ニ被ㇾ預シヲ、權大夫ノ前ニ召出シテ、「汝歸參テ申サンズル樣ハナヨ、『義時、昔ヨリ君ノ御爲ニ忠義有テ無二不義一。然ルヲ讒奏スル者候トテ、遣勅ニ罷成候上ハ兎角申ニ不ㇾ及候。軍御好ナレバ、舍弟時房、子ニテ候泰時・朝時、是等ヲ始メテ、海道十萬餘騎、東山道五萬餘騎、北陸道四萬餘騎、十九萬餘騎ヲ進ラセ候。是等ニ軍能サセラレテ御見物可ㇾ有候。猶アキ思召候ハズハ、三郎重時・四郎政村、是等ヲ先トシテ廿萬騎ヲ相異シテ、義時モ急參ランズルニテ候』ト申セ」トテ、被二追出一ヌ。
 推松、院宣ノ御使トテ關東へ下リナバ、大名共ニ賞セラレテ、馬鞍被ㇾ引、德付テ上ランズルトコソ思シニ、德迄ハ無トモ、カカルカラキ目ニ逢ツル事ノ悲シサヨ。サレ共、命ノイキタルゾ不思議ナルト思テ、泣々上リケルガ、抑、我ガ首ハモトノ如ク付タルヤラン、ゲニ我ハ元ノ身ニテ行ヤラン、ウツヽ共不ㇾ覺シテ、常ハ首ヲサグリ足ヲサグリ、夢路ヲ行心地ヲシケレ共、一兩日過テコソ、夜ノ明ル心地シテ、眞ニ頸モ手足モツヽガ無リケリト不思議ニ覺へテ、ウカリシ鎌倉ヲソロシク、イトヾ後ロヲ遠ザカラント、夜ヲ日ニ繼デ急上リケル程ニ、五月廿七日ノ午刻ニ鎌倉ヲ出テ、六月一日ノ午刻ニ賀陽院へゾ走リツク。
 公卿・殿上人、「推松參タリ。如何ニ義時ガ首ヲバ誰カ取テ進ラスルゾ。關東ニハ合戰スルカ、タテアフカ。如何ニ如何ニ」トロ々聲々二被ㇾ問ケレ共、ウツブシ涙ニ咽ンデ物モ不ㇾ申。「餘ニ苦シサニナクバカリ」ナド、人人笑アヘリ。長久有テ、推松涙ヲノゴヒ心ヲ靜メテ申ケルハ、「五月、都ヲ出テ罷下候。同十九日ノ午刻ニ、鎌倉近キ片瀨ト申所ニ著テ候シニ、平九郎判官ノ使ハ案内者ニテ先ザマニ鎌倉へ入テ、駿河守ニ文ヲ付テ候へバ、返事ヲバセズシテ、軈テ權大夫ノ見參二人テ候ケル程ニ、鎌倉中以外ニ馳騷ギ候事、申計モ不ㇾ候。是モ鎌倉へ軈テ罷入候シカ共、人ノ足モ早ク聞へソウソウニ候間、如何樣ニモヤウノアルゴサンナレト存候テ、トアル所ニ立入テ、サシモ出ズ候シ程ニ、鎌倉中セバシト被ㇾ尋候間、葛西ノ宿ヨリサガシ被ㇾ出、引ハリ先ニタテヽ、權大夫ノ御前へ參テ候シカバ、院宣被二奪取一候ヌ。軈テ推松ハ人ニ被ㇾ預テ候間、只今ヤ被ㇾ切ト心ノ隙ナク思ヒシニ、同廿七日二又權大夫ノ前ニ召出シテ、「申セ」ト候ツルハ、海道十萬餘騎、東山道五萬餘騎、北陸道四萬餘騎、三ノ道ヨリ十九萬餘騎ヲ進ラセ候。東山道・北陸道ハ見不ㇾ候。海道十萬餘騎、鎌倉ヲ出候シ日ヨリ、一段共馬ノ足ノ雙バズト云所ナク、一町共旗ノ手ノ靡ヌ所ハ不ㇾ候、ヒシト續キテ候ガ、何樣百萬騎モ候ヤラン」ト申ケレバ、公卿・殿上、被ㇾ笑ツルモ皆アヲザメテ興ヲ失ヒ、如何ナルベシ共覺へヌサマ也。一院、ヘラヌ體ニ、「ヨシヨシ物ナ云ソ。武士共上ラン跡ニ、義時ガ首ヲバ取テ進ラスル者有ンズルゾ」ト仰ケル。
●「汝歸參テ申サンズル樣ハナヨ」「ナヨ」はママ。私には解せない。これは「ナヲ」の誤りではなかろうか?]

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