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2014/01/16

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 逗子案内

   〇逗子の部

    ●逗子案内

避暑探勝の客の爲めに、道しるべにもなれかしと、ものしたる逗子案内、しるすべしや。

東京より東海道行滊車に搭じ、大船に到り、此所より横須賀支線に乘りかへて、鎌倉の驛を過ぎ、八幡宮の鳥居を濱の松風にながめて、やがて暗々(あんあん)たる第二號の隧道(とんねる)を越せば、間もなく逗子の停車場なり、東京(とうけい)よりの路程(みちのり)三十四哩なるも、僅々にて着するを得べく、此の賃錢三等金三拾四錢、二等の賃金は三等の二倍、一等は三倍と知るべし。

[やぶちゃん注:「三十四哩」は五四・七キロメートル。因みに現在のJR東日本の走行距離では五四・九キロメートル。以下の段落は最後まで改行せずに続くが、読み易くするために適当な箇所で切り、注を挟んである。なお、今回より行末で内容が切れて、しかも句読点がない箇所は一字空けを施して読み易くすることとした。以下、この注は略す。]

この停車場は、近年逗子の繁榮に伴ふて開かれたるものゝ由にて、こゝには人力車(くるま)もあれば、乘合馬車もありて、海水浴場までは凡そ十町程、其間に川あり、田越川(たごしかは)といふ、稻田麥圃の間を流れて、水は平穏(おだやか)に、川幅六間もあるべし、東鑑には多古江川と書し、承久記には手越川(たごしかは)に作る、建久五年八月、將軍河の邊に遊覽の事ありきとぞ、开は下流なるべし、橋あり、田越橋といふ、橋を渡らば左に折れて、六代御前の墓を吊せよ、路の傍小丘の上に、圍二丈餘あるべき槻の老木ありて、其蔭に角石(かくいし)の苔蒸したるに「六代御前墓」と刻まれたるが建てり、六代は三位維盛(これもり)の嫡男なり、文治三年、年廿二のころ、北條時政に虜はれ、既に誅せらるべきを、文覺上人師弟の昵みある由を以て、宥免(ゆうめん)を請ひければ、上人に預けらる、後高尾山に住し、剃髮して三位禪師と號し、法名を妙覺といふ、文覺流罪の後、又捕はれ、當所にて誅せられしといふ。

[やぶちゃん注:「十町」一一〇〇メートル弱。

「六間」約十一メートル弱。

「承久記」古活字本の下の終盤では、承久の乱で上皇方について自害した三浦胤義の幼い子どもたちが、乳母の尼の助命嘆願も空しく、この「手越ノ河端ニヲロ」されて首を刎ねられるまでの一部始終を仔細に描いている。

「建久五年八月、將軍河の邊に遊覽の事ありき」「吾妻鏡」巻第十四の建久五 (一一九四) 年八月二十六日の条に、

〇原文

廿六日甲寅。御不例減氣之間。相具右武衞

。御參勝長壽院。永福寺等。次逍遙多古江河邊給。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日甲寅。御不例減氣の間、右武衞を相ひ具し、勝長壽院、永福寺等へ御參、次に多古江(たこえ)河邊へ逍遙し給ふ。

とある。「御不例減氣」とは、直前の二十二日の条に「將軍家聊御不例。御齒勞云々。依之雜色上洛。被尋良藥云々」(將軍家、聊か御不例。御齒の勞(いたは)りと云々。之に依つて雜色上洛し、良藥を尋ねらると云々。)とあった、激しい歯痛が軽快したこと言う。この「右武衞」は当時右兵衛督であった公卿一條高能(いちじょうたかよし 安元二(一一七六)年~建久九(一一九八)年)。同八月十四日に下向した来ていた。藤原北家頼宗の子孫である一条能保の嫡男。母は源義朝娘で頼朝の同腹の妹。頼朝の後援を得て若くして官界に出仕、この二年後の建久七(一一九六)年十二月には参議に列した。この間、ここに見るように鎌倉に長期逗留(「吾妻鏡」におれば大倉幕府内の小御所を旅宿としている)して頼朝・政子夫妻と親しく交わった。「吾妻鏡」のやはりこの同じ月の前の十八日の条には、彼と頼朝の長女で木曽義高の一件で深い心的外傷を受けた大姫との婚姻が政子主導で企てられるも、病み上がりの大姫は頑なに拒絶、それを聴いた高能の方からこの話を断わった旨の記載が載る。大姫の重篤なPTSDの様態も含め、印象的な部分なので引用しておく。

〇原文

十八日丙午。姫君御不例復本給之間。有御沐浴。然而非可有御恃始終事之由。人皆含愁緒。是偏御歎息之所積也。可令嫁右武衞〔高能〕給之由。御臺所内々雖有御計。敢無承諾。及如然之儀者。可沈身於深淵之由被申云々。是猶御懷舊之故歟云々。武衛傳聞之此事更不可思召寄之由。属女房被謝申之。武衞傳聞之此事更不可思召寄之由。属女房被謝申之。

〇やぶちゃんの書き下し文

十八日丙午。姫君の御不例、復本し給ふの間、御沐浴有り。然れども、御恃(たの)み有るべきに非ざるは始終の事の由、人皆(ひとみな)、愁緒(しうしよ)を含む。是れ、偏へに御歎息の積む所なり。右武衞〔高能。〕に嫁せしめ給ふべきの由、御臺所内々に御計らひ有ると雖も、敢て承諾無く、

「然るごときの儀に及ばば、身を深淵に沈むべし。」

の由申さるると云々。

是、猶御懷舊の故かと云々。

武衛、之を傳へ聞き、

「此の事を更に思し召し寄すべからず。」

の由、女房に屬(ぞく)して、之を謝し申さるる。

高能はまた、大姫入内のための対朝廷交渉にも関与していたともいわれている。この時、大姫より二つ年上で満十八歳、その死も大姫逝去の翌年で二十二歳の若さだった。

「开は」不審。「开」は「開」の意であるが、それでは意味が通じない。これは「其」の古字である「一」(上)+「丌」(下)の誤植で、「そは」と読ませているか?

「六代御前」は平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年)。平宗盛嫡男維盛の嫡男で平清盛曾孫。六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名。「平家物語」の「六代斬られ」等、「平 六代」で記載されることが殆どである。寿永二(一一八三)年の都落ちの際、維盛は妻子を京に残した。平氏滅亡後、文治元(一一八五)年十二月、母とともに嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜伏しているところを北条時政の探索方によって捕縛された。清盛直系であることから鎌倉に護送・斬首となるはずであったが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて文覚預りとなった。文治五(一一八九)年に剃髪、妙覚と号し、建久五(一一九四)年には大江広元を通じて頼朝と謁見、二心無き旨を伝えた。その後は回国行脚に勤しんだが、頼朝の死後、庇護者文覚が建久十(一一九九)年に起こった三左衛門事件(反幕派の後鳥羽院院別当たる土御門通親暗殺の謀議疑惑)で隠岐に流罪となるや、六代も捕らえられて鎌倉へ移送、この田越川河畔で処刑された。享年二十七歳であった。没年は建久九(一一九八)年又は元久二(一二〇五)年とも言われ、斬首の場所も「平家」諸本で異なっている(以上は主にウィキの「平高清」を参照した)。

「吊せよ」「吊」は「弔」の俗字。「とむらひせよ」と訓じているか。]

 

詣で終らば縣道に沿ふえ濱邊に出でよ、田越の下流に架する富士見橋を渡りかへせば、養神亭となん呼べる旅館あり、二階建(にかいだて)宏壯の樓榭(ろうしや)にして、前に田越川あり、後(うしろ)は恰も海水浴場に當たれる灣口(わんかう)を望みて、風色絶美なり、

[やぶちゃん注:「養神亭」現在の逗子市新宿一丁目六-一五(現在の京浜急行新逗子駅から徒歩十分ほどの田越川に架かる河口近くの渚橋とその上流にある富士見橋の西岸一帯と推測される)にかつてあった旅館。徳富蘆花が「不如帰」を執筆した宿として知られた。逗子の保養地としての開発に熱心であった元海軍軍医大監で帝国生命取締役矢野義徹の出資で、明治二二(一八八九)年に内海用御召船蒼龍丸の司厨長であった丸富次郎が逗子初の近代旅館として創業したもの。主にウィキの「養神亭」に拠ったが、詳細は既に電子化注釈を行った田山花袋「逗子の海岸」(大正七(一九一八)年博文館刊の田山花袋「一日の行楽」より)の本文及び私の注を参照されたい。

 

養神亭より右に里道を行けば、白瀧不動、八幡社 正覺寺、住吉明神、住吉古城(こじやう)の舊跡なり。此邊りを小坪といふ 鎌倉道なり、治承四年、畠山重忠、和田義盛と戟を交ゆ、延元三年南北朝爭亂の時、北畠顯家鎌倉に攻入り、此地にて桃戰ありしことゞも見へたり、海岸巖腹(がんぷく)壁立して、東方近く森戸の濱あり、西方鎌倉靈山(れいざん)が崎突出し、中央に江の島浮び出で、遠く大磯小磯を見渡して、富岳の雲際(うんさい)に聳ゆるを望む、養神亭より左縣道に復(ふく)し、濱邊傳ひに山蔭を行けば鳴鶴(なきづる)が崎に出づ。往昔 將軍源賴朝公、此處を通行(つうかう)ありて、景色(けいしよく)の秀美なるを眺めらる 折しも鶴啼き渡りて耳を掠(かす)めけれは、賞觀ありて、暫時休憩せられしことあり、因て鳴鶴が崎と呼ぶとぞ。此の邊の小名を鐙摺といふ、賴朝公三浦遊覽の時、山路狹く乘馬の鐙を摺り、往來自由ならず、故に此名(このな)起るといふ、海岸の孤山を軍見山と呼ふ、高(たかさ)五六丈山上に古松あり、三浦義澄の城跡と云傳ふ。山蔭に旅館あり。日蔭の茶屋と呼ぶ。海に面して宏樓洋風を摸し 鮮肴美酒立ろに命ずべく、凡そ逗子に游ぶもの多く此の旅館に投ず、蓋(けだ)し逗子一等の地なり。

[やぶちゃん注:「養神亭より右に里道を行けば」後に続く社寺古跡から養神亭の向こうに海を見て、その玄関前に道があってそれを右、則ち、小坪の大崎の岬方向へ向かうと、の謂いである。

「治承四年、畠山重忠、和田義盛と戟を交ゆ」所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもの。治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこにこの和田義盛及び弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現在の酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にしている。

「延元三年南北朝爭亂の時、北畠顯家鎌倉に攻入り」延元三年・建武五(一三三八)年、奥州にあった官軍の武将北畠顕家は後醍醐天皇の命を受けて再び足利方と戦い、義良親王を奉じて鎌倉を攻略陥落させた、その際の戦さ(「桃戰」は「挑戦」(戦いを挑むこと)の誤植であろう)。朝比奈から侵攻して杉本寺の背後にあった杉本城での交戦がとみに知られるが、飯島方面での交戦もあったらしい。顕家はしかし、この年の石津の戦いで二十一歳の若さで亡くなっている。

「靈山(れいざん)が崎」極楽寺坂から稲村ケ崎に落ちる峰。「りやうぜんがさき」が正しい。現在は一般には「霊仙山」と書く。

「鳴鶴が崎」田越川に沿って逗子湾に落ちる低い峰の旧称。現在の桜山九丁目附近。

「將軍源賴朝公、此處を通行ありて、景色の秀美なるを眺めらる 折しも鶴啼き渡りて耳を掠めけれは、賞觀ありて、暫時休憩せられしことあり、因て鳴鶴が崎と呼ぶとぞ」口伝。

「鐙摺」「鐙摺」葉山町堀内にある鐙摺山。旗立山とも呼ぶ。『大和田建樹「散文韻文 雪月花」より「鎌倉の海」(明治二九(一八九六)年の鎌倉風景) 3』で注したが、再掲する。これも口伝であるが、情報量は遙かに多い。NPO葉山まちづくり協会公式サイト「葉山地域資源MAP」の「葉山の文化財 58 旗立山(鐙摺山)」によれば、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(一一七七)、三浦微行(びこう)の折り、鐙摺山城に登る際に、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる(この記載は蜂起以前のことととれる)。先の注と一部ダブるが、「源平盛衰記」では、『石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の入江から援軍として出陣したとしている』。『この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた三浦党の』惣領『三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの鐙摺山城に引きかえした』。『鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである』。また、「曽我物語」によれば、『伊豆伊東の豪族伊東祐親は、頼朝配流中は、頼朝の暗殺を図ったため、鐙摺山上で自刃、現在その僕養塔が山上に祀られている』。また、「吾妻鏡」によれば『頼朝の籠女亀(かめ)の前(まえ)が、小坪飯島』の伏見広綱の邸内『にかくまれていたのを、北條時政の妻牧(まき)の方(かた)に見つかり、牧の方はこれを頼朝の御台所政子に告げたため、憤激した政子は、牧の三郎宗親に命じて』広綱邸を破却させたが、『広綱はいち早く亀の前を大多和義久の鐙摺山城へ逃亡させ、事なきを得た』(この一件については引用元に脱文が認められるので私が補った)が、その後今度は頼朝が『鐙摺山城を訪れ、牧の三郎宗親を呼び「お前の主人はこの頼朝か政子か」と迫り、宗親の元結(もとゆい)を切った。このため、義父の北條時政は怒って伊豆へ引き揚げるという一幕もあった』。歌人佐佐木信綱によれば、建保五(一二一七)年に実朝が『この地に観月し、「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」と詠んだと』する。現在、山上には三〇〇坪に『余る平坦があり、ここから見る景色は富士、箱根、江の島など、抜群である』とある。

「軍見山」「いくさみやま」と読む。鐙摺山とも。この逗子海岸左手に見える山について「佐々木家のホームページ」内の「葉山の散歩道(1)鐙摺・旗立山周辺…①」によれば、永正九(一五一二)年、三浦道寸義同(よしあつ)が北条早雲に攻められて小坪の住吉城を退却した際、弟の次郎高處(たかおき)の居城であったこの鐙摺城に登り、敵情を視察したことから軍見山(いくさみ)ともいわれているとある。これは本文の「三浦義澄の城跡と云傳ふ」とするのとは齟齬するが、伝承であり、戦国期以前に砦があったとしてもおかしくなく、三浦氏のそれであったとすれば、これもまた自然ではある。ところが、多くの情報は実は、ここをまた同時に「旗立山」とも呼んでいて、次の本文の記載と食い違う。そこでは明らかに――「ここ」からずっと南東五キロメートル以上海岸線を下った現在の秋谷地区、古名「大崩」の「上」に「旗立山」がある――としているのである。するとそれは大楠山から西南に下る尾根のどこかを指すことになってしまう。これはとんでもない齟齬なのであるが、これが単なる筆者の勘違いなのか、それともそのような異説があるのか、識者の御教授を乞いたいものである。なお、往古の日蔭茶屋の面影と美しい鳴鶴ヶ崎の絵葉書をグーグル画像検索「軍見山」でご覧あれ(このリンク方法、最近私は下手な単一サイトをリンクするよりもよっぽど気が利いてお洒落だと勝手に思っているのである)。

「五六丈」十五~十八メートル。

 

日蔭の茶屋を過ぎて、荒磯傳ひに山又山の麓を行けば、一帶の沿岸風色(ふうしよく)すべて佳なり、崖を削り濱邊を埋め立てゝ別莊を設くるもの其所此所(そここゝ)にあり。川あり 森戸川と呼び、橋を森戸橋といふ。橋を渡るに、一岬松深く白沙に映ずる處、明神の祠あり、緣記(えんぎ)に依れば治承四年九月八日賴朝三島神社を勸請(くわんせう)したるにて、是れ賴朝豆州配流の日、源家再興の事を三島の神に祈り、遂に志を得たる故なりといふ、境内に千貫松、腰掛松、飛混柏等名木(めいぼく)多し。此の濱を御殿の浦と稱す、賴朝森戸明神へ祈願の折々、休憩して風景を賞し、一日の遊覽を爲して歸へるを例(れい)とせしものゝ如く、海濱に館ありければ、祠後濱を御殿が浦といふとぞ、

[やぶちゃん注:「明神の祠」森戸明神。「新編鎌倉志卷之七」に、

〇杜戸明神〔附名島〕 杜戸(もりどの)〔或守殿、或作森(或は守殿、或は森に作る)。〕明神は、杜戸村の出崎なり。社(やしろ)の北の山岸(やまぎし)に川あり。森戸川と云ふ。社司の云、賴朝卿、治承四年九月八日、三島の明神を勸請す。故に今に至て此の日祭禮をなすと云ふ。今按ずるに、賴朝卿、治承四年十月六日、相模國に著御、同九日、大庭(をほば)の平太景義(かげよし)を奉行として、大倉郷(をほくらのがう)に御亭を作り始めらるとあり。しからば賴朝いまだ鎌倉へ入り給はざる前(さき)に、勸請の事如何ん。社領七石の御朱印あり。神主物部(ものべ)の姓にて守屋氏なり。弓削守屋(ゆげのもりや)が後也と云ふ。

「大庭の平太景義」(大治三(一一二八)年?~承元四(一二一〇)年)は桓武平氏支流で鎌倉権五郎景政の曾孫に当たり、代々相模国大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市大庭)を根拠地とした。若くして源義朝に従ったが、保元の乱で敵方についた義朝弟為朝の矢を受けた結果、歩行不自由となってしまい、家督は弟景親に譲って隠居した。後に頼朝蜂起の際には、弟が平家方追討軍の主将となったのに対して兄景義は頼朝に従った(弟景親の処刑には頼朝から嘆願の有無を問われたが一切の処置を御意に任せた)。後の幕府では老臣として重きをなした。「物部の姓にて守屋氏」「弓削守屋」とは飛鳥時代の大連(おおむらじ)物部守屋(?~用明天皇二(五八七)年)のこと。彼の母は連弓削倭古やまとこの娘であり、守屋は実に物部弓削守屋大連と複数の姓を称した。]

 

有栖川宮御別邸の前を過ぎて又川あり、下山口川と呼ぶ、濱邊に黑門嚴かに建られ、衞士の肅然として控ゆるは、是なん葉山の御用邸なる、 畏くも仰ぎ奉りて、石坂を登り、長者園までは猶七八町もあらむべし、漁村網を干して、鰹魚(かつを)捕る舟の二三艘、沖に浮べる、既にしえ長者園に達す、旅館なり、凡そ逗子にある旅館は、養神亭 日蔭の茶屋、及び長者園の三戸に過ぎず。園は眺望尤も勝れたる處に位置をしめ、一岬秀づる處長者が崎と爲す、形狀鵜の頸を延ばせるが如し、故に又鵜が崎の名あり、風光絶佳、富士の根は雲の中帶(なかおび)ゆたかに引きながし由比が濱、稻村が崎、七里が濱の波は玉を延べて、江の島の山は寔に盆石を浮かべたり。長井の荒崎は南に長く、天神が島は近く、三浦が崎は遠く、蒼々十幾里 大島の煙は微かに空をかすめて、伊豆の山脈は蜿々遙かに雲煙の中に出沒す。其後丘を旗立山といふ、治承四年北條父子此山上に旗押立てゝ和田義盛と戰ふ、其下を大崩れと稱す、古(いにしえ)此地の山嶽崩れて海に入りたるより此稱あり、永正(えいせう)年中(ねんちう)三浦道寸北條早雲の爲めに住吉城を攻落され、新井城へ退去の時、此所にて敵兵を支へたる、有名の古戰場なり、讀者よ、大崩れまで來らば、更に秋名の山に登れ、海面抽く七百二十五尺、山巓には大樹老木なく眼界豁然として開け、馳望(てうぼう)千里、壯絶無比の大風景を認(みと)めむ。

[やぶちゃん注:「有栖川宮」は江戸初期から大正にかけて存在した伏見宮・桂宮・閑院宮とならぶ世襲親王家の宮家。本誌の刊行された明治三一(一八九八)年当時の当主は有栖川宮家最後の有栖川宮威仁(たけひと)親王。現在の三浦郡葉山町にある別邸跡は威仁親王の薨去後に高松宮別邸などを経て、神奈川県が用地を取得、現在は神奈川県立近代美術館葉山館となっている。

「長者園」先行する私の電子化テクスト大和田建樹「散文韻文 雪月花」の「汐なれごろも」(明治二七(一八九四)年の鎌倉・江の島風景)でであるが再掲しておく。葉山長者ヶ崎にあった旅館兼料亭。山野光正氏のブログ「Kousyoublog」の「三浦半島八景のひとつ、葉山の長者ヶ崎海岸」に、『現在の長者ヶ崎海岸に併設する県営駐車場の付近に明治に入って長者園という旅館兼料亭があり、葉山御用邸の建設頃から観光客や天皇行幸の際の随行団のお泊り所として繁盛しており、いつしか、その長者園の名にちなんで長者ヶ崎と呼ばれるようになったという』。『長者園は長蛇園とも呼ばれ、それにあわせて長蛇ヶ崎と呼ばれたこともあった。その長蛇園の方の由来として、当初長蛇園と名づけたが気持ち悪いので長者園に改めたとされ、その名付の基として東宮侍講として明治天皇に仕えた漢学者三島中洲の詠んだ漢詩に由来するともいう。また、その岬が大蛇の蛇の背のように見え、大蛇が棲んでいたという伝承もあり、そこに由来するとも呼ばれる』とあり、この『長者園には志賀直哉も泊まったといい、与謝野晶子もこの地を歌に詠んでいる』とある。リンク先には山野氏の撮影になる美しい風景写真の他、長者ヶ崎の伝承やここを舞台とした泉鏡花の「草迷宮」についての記載などがあり、すこぶる附きで必見である。

「七八町」凡そ七六四~八七三メートル。

「旗立山」前段の私の「軍見山」の注を参照のこと。ここではしかも確信犯的に「治承四年北條父子此山上に旗押立てゝ和田義盛と戰ふ」という前の注に引用したものとは異なる、更に遡った由来譚を確信犯的に附加して述べている点にも着目したい。

「秋名の山」これは大楠山の山頂付近の古い地名である蘆名(芦名)で大楠山のことであろう。

「抽く」「ぬく」と読む。突き出る。

「七百二十五尺」凡そ二一九・七メートル。大楠山の標高は二四一・三メートルである。

 

逗子に遊ぶもの、汐馴衣(しほなれころも)うるさかるべき朝旦(あした)には、折にふれ、山寺の勝景を尋ぬるも興は深かるべく、邃林幽谷(すいりんゆうこく)又趣きあらむ 神武寺と爲し、延命寺と爲し、海寶院、岩殿觀音、法性寺の古刹、名士の墳墓古蹟あれば、一日草鞋(わらじ)がけにて歷覽するもよけん、緣起由來等(とう)は別に記す處あり。

[やぶちゃん注:惹きつけるための概説ガイド部分であるから、初めとこの終わりはちょいと表現が「ブンガク」している感じ。]

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