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2014/01/15

耳嚢 巻之八 不計詠る歌に奇怪を云ふ事

 不計詠る歌に奇怪を云ふ事

 

 水門の史館萬葉方(かた)相勤めける小池源太左衞門と申(まうす)もの和歌を好て、先年日野一位資枝(すけき)の門弟に成(なり)て出精(しゆつせい)なし、日野家にても其精心を感じ、口傳(くでん)等も有(ある)べしとありしかば、修行の暇(いとま)ねがひて上京し、一年餘も隨身(ずゐじん)して大事の傳授もありしと聞(きき)しが、文化三四年の年にやありし、水戸神應寺(じんおうじ)といへる境内にありし雷神の社へ和歌奉納ありしに、源太左衞門が歌に、

  雨雲をわけいかづちの神よそもふりすてずいま守りましてよ

とありしを、右の歌にて病人平癒いたすと申(まうし)出し、右和歌をもらひに來(きた)る者群集いたして、天地紅(てんちべに)の半切紙(はんせつがみ)を細く斷(たち)て認(したた)め遣(つかはし、金八兩程も、筆墨紙に費しければ、素より禮錢進物等をも不申請(まうしうけざる)ゆゑ、改(あらため)て當時は隣なる町人方にて賣(うり)、認(したため)候も間に不合(あはず)、板刻になして遣(つかはし)けるに、近邊はさらなり奥羽總野(さうや)の國よりもとりに來りし。日によりて二千人位も遠近(をちこち)より來り集(あつま)り、禮參りして雷神へ參詣いたし、賽物(さいもつ)も多く集り、右歌を板にすつて渡せるものは德つきたる事となり。かゝる事、山師といえるものゝ巧(たくみ)たる事ならんといふ者も有(あり)しが、彼(かの)小池は至(いたつ)て愚直なる者にして、かゝる事有(ある)べからずと、其近き隣にて由緒もありける水戸の醫師原玄嶼(はらげんしよ)より、谷中善光寺坂に住ける大内意三といふ同職の者方へ申越(まうしこ)せし書翰ありと、人の携へ來りしを爰に記し置(おき)ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌綺譚二連発。

・「不計詠る」「はからずよめる」と読む。

・「水門の史館萬葉方」「水門の史館」は常陸水戸藩初代藩主徳川光圀が「大日本史」編纂のために置いた修史局(史局)である彰考館で江戸小石川藩邸に置かれていた。「萬葉方」とは恐らく、光圀が編纂を指示し、真言僧で国学者であった契沖が著わした万葉集注釈書「万葉代匠記」(元禄三(一六九〇)年成立)などの資料収集や研究を担当した部署であろう。

・「小池源太左衞門」底本の鈴木氏注に、『三村翁注に「小池桃洞、名は友賢、源太左衛門と称すれども宝暦四年に七十二歳にて歿す。此の人なるべし。」この桃洞(友賢)は通称七左衛門。関流の算家(大人名事典)。なお同事典によれば、源太左衛門は小池友識の通称。友識は武術家で歌人。友賢はその祖父で史館総裁、父友貞は馬廻組。友識の武術は、剣は東軍流、田宮流、鎗は宝蔵院流。歌は日野資故に学んだ。文政八年没、七十三。これが当っていよう』とある。宝暦四年は西暦一七五四年、文政八年は一八二五年である。ここに載る、儒者で和算家の小池桃洞(とうどう 天和三(一六八三)年~宝暦四(一七五四)年)は母が室鳩巣の妹であった水戸藩士で、水戸彰考館に入り、享保四(一七一九)年に同館総裁となった。建部賢弘(たけべかたひろ)に関流和算を、渋川春海(はるみ)に暦学を学んだ。因みに同号で、名も一字違い、しかも同時代人であった本草学者小原桃洞(おはらとうどう 延享三(一七四六)年~文政八(一八二五)年 和歌山藩士の子として生まれ、京に出て、吉益東洞に医学を、小野蘭山に本草学を学んだ。和歌山藩医本草方に抜擢されて寛政四(一七九二)年には創立直後の同藩医学館本草局主宰となった。蘭山の享和元(一八〇一)年の日光採薬や翌二年の紀州採薬にも随行し、文化三(一八〇六)年には「紀伊続風土記」新編纂の藩命を受けた。同書は未完に終わったが、広く山野に採集して動植物を調査、優れた博物誌「桃洞遺筆」を残した人物(この部分は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)がいるので要注意。何故そんなこと書くかって? 「桃洞遺筆」は私の大好きな作品だからである。

・「日野一位資枝」「耳嚢 巻之五 日野資枝卿歌の事」「耳嚢 巻之五 鄙賤の者倭歌の念願を懸し事に既出。再注しておく。日野資枝(元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公家。日野家第三十六代当主。烏丸光栄の末子で日野資時の跡を継ぐ。後桜町天皇に子である資矩とともに和歌をもって仕えた。優れた歌人であり、同族の藤原貞幹(さだもと)・番頭土肥経平・塙保己一らに和歌を伝授した(著書に「和歌秘説」日)。画才にも優れ、本居宣長へ資金援助をするなど、当代一の文化人として知られた(以上はウィキの「日野資枝」に拠る)。

・「文化三、四年」「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏のことであるから、直近の噂話である。

・「水戸神應寺」茨城県水戸市元山町にある時宗の寺。天正一九(一五九一)年に佐竹義宣が焼失していた時宗遊行派の本山藤沢清浄光寺に代わる本寺として遊行三十二代上人他阿弥陀仏普光(ふこう)を開山に招いて創建、藤沢道場と称した寺。底本の鈴木氏注には『上市向井町。新義真言宗豊山派。同市屈指の名刹』とするのは不審。

・「雷神の社」鈴木氏注には、先の注に示した普光上人が雷神の感応を受けて神応寺(鈴木氏は感応寺とするが従わない)を『創建、側に別雷大神を祀った。のち佐竹氏が秋田に移封して』神応寺は『寺領を失ったが、光圀の時現地に移され、雷神社の別当寺となる。明治にいたり神仏分離され、同社は別に境内を設けた』とある。岩波版長谷川氏注でも、『大坂雷神が境内にあった。現在別雷皇大神として寺の隣にある』とある。サイト「関東の神社めぐり プチ神楽殿」の「別雷皇太神(茨城県水戸市)」が画像入りで詳しい。それによれば現在は「べつらいこうたいじん」と呼称しているらしい。神名自体は「わけいかずち」である。

・「雨雲をわけいかづちの神よそもふりすてずいま守りましてよ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は(正字化して示した)、

 雨雲をわけいかづちの神よそにふりすてゝいま守りましてよ

とあるが、ここは「すてず」でないと、神の御加護にはなるまいという気がするが、如何? 岩波版長谷川氏注には、『わけいかづちは雨雲を分けると別雷神を掛ける』とする。「雨雲」「いかづち」「ふり」は縁語であろう。病気の懊悩を押し開き、神聖なる電光によって病魔を退散する呪言としては相応しい。

・「天地紅」紙の上下の端を紅付けしたものであろう。

・「半切紙」半折。唐紙・画仙紙などの全紙を縦半分に切ったもの。現在の書道用紙でいうと三四八×一三六〇ミリメートル。

・「改て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は(歴史的仮名遣と正字で示す)『斷(ことわり)て』とするが、これは意味としてはやや衍字っぽい。

・「總野」上総・下総・上野・下野の総称。

・「原玄嶼」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は(正字化して示す)『原玄與』とする。「耳嚢 巻之五 水戸の醫師異人に逢ふ事」に水戸藩藩医原玄養が出るが、これはそこで注した通り、「原玄與」の誤りである。原玄与は水戸藩医昌術の子として水戸に生まれ、父について学んだ後、京都へ赴いて古医方や産術等を修得、安永四(一七七五)年、帰郷して江戸南町(小石川)に居住した。医書の字句や常則に拘泥せず、臨機応変の治療をすることで知られた。御側医から、享和二(一八〇二)年には表医師肝煎となった。著作に「叢桂偶記」「叢桂亭医事小言」「経穴彙解」、軍陣医書(軍医の戦場医術心得)の嚆矢として知られる「戦陣奇方砦草(せんじんきほうとりでぐさ)」や鼠咬毒について論じた「瘈狗傷考(けいくしょうこう)」など多数(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。訳では原玄与とした。

・「谷中善光寺坂」鈴木氏注に、『信濃坂とも。上野山内。もと善光寺があったその前の坂。後に同寺は青山に移ったので、そこの坂もまた善光寺坂と呼ぶ』とある。現在の台東区谷中二丁目にある。位置トとより詳しい解説はサイト「東京23区の坂道」の「台東区の坂(2)~谷中方面」の巻頭をご覧あれ。

・「大内意三」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『大内意立』とする。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 偶然詠まれた歌が奇怪な噂を広めたる事

 

 水門の彰考館の万葉方(まんようがた)を相い勤めて御座る小池源太左衛門殿と申さるる御仁、和歌を好みて、先年、日野一位資枝(いののいちいすけき)殿の門弟となって歌道に精進なされ、日野家に於いてもその誠心をお感じになられ、口伝など授くることも考えようとの思し召しなれば、歌道修行のため、藩へ暇まを願い出でて許され、上京致いては、そうさ、一年あまりも日野殿へ随身(ずいじん)しては、まさにお言葉通り、大事の伝授も、これ、御座った由に聞き及んで御座る。

 さて、その源太左衛門殿、文化三、四年の年のこととか、水戸は神応寺(じんのうじ)と申す寺の境内にあった雷神(らいじん)の社(やしろ)へ和歌を奉納致いたが、源太左衛門殿その折りの歌は、

  雨雲をわけいかづちの神よそもふりすてずいま守りましてよ

というもので御座ったと申す。

 すると暫く致いて、

――この源太左衛門殿の和歌によって病人が平癒致いた――

という噂が瞬く間に広ごりだし、その和歌を貰うためにやって参る者が、これもう、雲霞の如く群集をなしたと申す。

 何でも、源太左衛門殿、天地紅(てんちべに)の半切紙(はんせつがみ)を細く截(た)って、かの和歌を認(したた)めては、参る者に遣わして御座ったが、そのために金八両ほども筆・墨・紙に費したれど、もとより礼銭や進物なんどは一切申し請けずにただで配って御座ったと申す。

 その後も余りの参集なれば、それまでの源太左衛門殿の自筆で認(したた)めるというのでは、とてものこと、間に合わずなったれば、改めて今は、直筆を元といて板刻(はんこく)なしたるものにて摺りなし、それを隣りに住める町人方にて、売り与えることとなって御座る由。

 しかしていよいよ、近辺は言うに及ばず、果ては、はるばる奥羽や総野(そうや)の国々よりも、この和歌を請け取り来たることと相い成って御座るとも申す。

 日によってはなんと、二千人ほども、遠近(おちこち)より来たり、群聚(ぐんじゅ)致いては、平癒のお礼參りと称し、雷神の社へも参詣致いて、賽銭や供物もこれ、まっこと多く集まって、その、歌を板に摺って売り渡しておる隣りの町人と申す者は、これ、莫大な利益を受け、富み栄えておるとのことで御座る。

 この一件については、

――どこぞの山師のような怪しい奴が言い出した流言飛語による謀(はかりごと)ではなかろうか――

と申す者も御座るが、

――かの小池殿と申すは、これ、至って愚直なる人物にして、かかることを謀るようなこと、決してあろうはずがない――

と記したものが、源太左衛門殿近隣の御方にて由緒も相応の、かの水戸藩藩医としてよう知られて御座る医師原玄与(はらげんよ)殿より、谷中善光寺坂に住んでおらるる同じく医師大内意三(いぞう)と申さるるお方へ申し越して御座った書翰の中に書かれてあると、その現物を、さる人が携えて参って見せてくれたによって、ここに記しおくことと致す。

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