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2014/01/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 50 モース先生一時帰国のための第一回送別会 又は ここにいる二人の自殺者の経歴がこれまた数奇なること

 十月二十八日の日曜の夜、日本人の教授達が日本のお茶屋で、私の為に送別の宴を張ってくれた。この家は日本風と欧洲風とが気持よく融和していた。すくなくとも椅子と、長い卓とのある部屋が一つあった。彼等は大学の、若い、聡明な先生達で、みな自由に英語を話し、米国及び英国の大学の卒業生も何人かいる。彼等の間に唯一の外国人としていることは、誠に気持がよかった。出席者の中には副綜理の浜尾氏、外山、江木、井上、服部の各教授がいた。最初に出た三品は西洋風で、青碗豆(グリンピース)つきのオムレツ、私が味った中で最も美味な燔肉(やきにく)、及び焙鶏肉であった。だが私は純正の日本式正餐がほしいと思っていたので、いささか失望した。然し四皿目は日本風で、その後の料理もすべて本式の日本料理だった。彼等は私に、私が日本料理を好かぬかも知れぬと考えて、先ず西洋風の食物で腹を張らさせたのだと説明した。これは実に思慮深いことであったが、幸にも私は、その後の料理を完全に楽しむ丈の食慾を持っていた。有名な魚、タイ即ち bream は、美味だった。生れて初めて味った物も沢山あったが、百合(ゆり)の球即ち根は、馬鈴薯の素晴しい代用品である。砕米薺(みずたがらし)に似たいく種かの水草もあった。魚をマカロニみたいに調理したものもあった。銀杏の堅果はいやだったが、茶を一種の方法で調製したものは気に入った。このお茶は細い粉で出来ていて、大きな茶碗に入れて出し、濃いソツプに似ている。これは非常に高価で、すぐ変質する為に輸出出来ないそうである。我々は実に気持のよい社交的な時を送った。私の同僚の親切な気持は忘れられぬ所であろう。

[やぶちゃん注:「浜尾氏」法理文三学部綜理補浜尾新(あらた)。既注

「外山」文学部教授(心理学及び英語担当)外山正一(まさかず)。既注

「江木」当時東京大学予備門の教諭(教授とは呼ばない)であった江木高遠(えぎたかとお 嘉永二(一八四九)年~明治一三(一八八〇)年)。以下、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の記載及びウィキの「江木高遠」によって記す。備後福山藩儒官で開国論者であった江木鰐水(がくすい)の第四子として福山に生まれ、安政三(一八五六)年七歳で藩校誠之館に入り、明治元(一八六八)年十九歳の秋には長崎でフルベッキに学んで、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じた後、明治二(一八六九)年には慶應義塾に入ったが、明治三年二十一で華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう:伏見宮邦家(くにいえ)親王第十二王子。知恩院門跡から勅命により還俗して華頂宮家を創立。明治三(一八七〇)年に志願して皇族の海外留学第一号となり、アメリカで海軍軍事を学び、帰国後は海軍少将となったが、明治九年二十六歳で夭折した。)の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(現在のコロンビア大学)に学んで法学と政治学を修めた(途中、病気の親王と帰国、一八七四年に再渡米して一八七六年に卒業、その間の一八七五年には後の専修大学の母体である日本法律会社の結成にも関わっている)。帰国後、翌明治一〇(一八七七)年に東京英語学校教諭に着任、東大設立後は予備門の英語教諭を勤めたが、外山正一・井上良一両東大教授と並ぶ論客として独自の視点から啓蒙講演会の組織的運営を企画して名声を馳せた。明治一一(一八七八)年六月三十日には「なまいき新聞発刊記念講演」(『なまいき新聞』は、同六月、生意気新聞社が創刊した週刊新聞。同年十月には『芸術叢誌』と改名して美術雑誌となった)と称し、浅草井生村(いぶむら)楼に於いて五百人を超す客を集め、考古学と大森貝塚発掘に関するモースの講演会を開いている。この時は井上がモースを紹介江木が通訳した。これが濫觴となって同年九月二十一日に会費制学術講演会「江木学校講談会」を発足させた。社員(常任講師)として、外山正一・福沢諭吉・西周¥河津祐之(後の東京法学校校長)・藤田茂吉(『生意気新聞』主筆)・モースが名を連ねた。この講談会は明治一二(一八七九)年十月まで三十回近く催され、常任講師のほかにも長谷川泰(日本医科大学の前身「済生学舎」創設者)・沼間守一(自由民権家として知られたジャーナリスト)、トマス・メンデンホール(モースの推薦によって明治十一年に東京帝国大学物理教師となり富士山頂で重力測定や天文気象の観測を行った本邦の地球物理学の租。本郷区本富士町(現在の文京区本郷七丁目)に竣工した東京大学理学部観象台の観測主任ともなった)やアーネスト・フェノロサなども登壇した。この間、江木は明治一一(一八七九)年十二月に東大を去り、元老院大書記官となるも、直ぐに外務省一等書記官に転じた。明治十三年三月、帰任の吉田清成駐米大使に随行してワシントン公使館員として赴任したが、同年六月六日、公使館内に於いてピストル自殺した。享年三十一。自殺の動機については磯野先生によれば、『無関税で工芸品をアメリカに持ち込んだことを、在米日本人業者から糾弾されたためという』とある。

「井上」井上良一(よしかず)法学部教授(イギリス法律学担当)。彼に就いては夭折したためかデータが乏しい。以下は法制史専攻の Seiichi Hashimoto 氏の「法制史研究」の中の「明治初年の法学教育」及び aso**otoh氏のブログ『「a song for you」の可能性を求めて』の「日本人最初のハーバード大卒業生が目指した日本の音楽教育」の記載に拠った。福岡藩士として慶応三()年米国に留学、ハーバード法律学校(現在のハーヴァード大学。)を明治七(一八七四)年に同大学最初の日本人留学生として、東洋人初でもあった学位LL.B.(法学士)を取得して卒業、帰国後、私立学校福吉舎を開校(Seiichi Hashimoto 氏の「法制史研究」の中の「明治初年の法学教育」によれば、明治七年十一月に井上と本間英一郎なる人物の両名によって開業願が提出されており、そこには学科は「英学」のみで井上が「法律学」を本間が「造営学」をそれぞれ担当するとされてありという。特に『法律学については、「英学」の看板にもかかわらず、教授内容としては「法律学一式 万国公法,本邦之律例規則布告布達類取調」(法律学一般から国内現行法の理解まで)を標榜していた。まさしく法学専門教育をその内容としていると言ってよい』。『つまり、福吉舎はハーバード・ロースクール卒業生が法学専門教育を提供するという点で、法律学舎』(従来本邦初の私立法学校とされた明治七年に元田直によって東京神田五軒町につくられた法学校)『よりもはるかに充実した教育内容を備えていたのではないかと推測される。その意味で、日本最初の私立法学校という名称に拘るならば、それは法律学舎ではなく福吉舎にこそ冠せられるべきではないだろうか。ただ、残念ながら、福吉舎の活動はごく短期間のうちに終了したようである』とある)、明治八年には東京英語学校二等教諭兼開成学校教授補に任命され、この明治一〇(一八七七)年四月の東京大学発足と同時に、二十六歳の若さで法学部最初の唯一人の日本人教授となった。ところが、それから一年九ヶ月を経た明治一二(一八七九)年一月に『発作的な自殺を遂げた』とある(ここは aso**otoh氏のブログ『「a song for you」の可能性を求めて』の「日本人最初のハーバード大卒業生が目指した日本の音楽教育」に拠る)ウィキの「ハーバード・ロー・スクール」の「著名な修了生(日本人)」に享年二十八とあるから、これが正しければ彼の生年は嘉永五(一八五二)年である。

「服部」服部一三予備門主幹。既注

「タイ即ち bream」原文は“the tai, a bream,”。但し、訪米人には“sea bream”とした方が誤解が少ないと思われる。何故というに、“bream”は一般にはまず、淡水魚である条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科アブラミス属ブリーム Abramis brama を指すからである。ブリーム(英名は Carp bream 又は Bream)はヨーロッパの河川や湖沼・用水路に広く分布する淡水魚で、漁獲対象種としても知られるからである。

「砕米薺(みずたがらし)」原文は“water-cress”。この英語は葉をサラダやスープにする湿地や水中に植生するオランダガラシ・ミズガラシ・クレソンを指す。石川氏の訳だと、これは双子葉植物綱ビワモドキ亜綱フウチョウソウ目アブラナ科タネツケバナ属ミズタガラシ(水田芥子) Cardamine lyrata、英名 Bunge を限定的に指す。ミズタガラシは『日本(関東以西)を含む東アジア一帯に自生する。また、アクアリウムで観賞用に栽培され、学名のカルダミネ・リラタで通る』。茎が太く稜があり、数十センチメートルの『直立茎と基部から出る匍匐茎がある。葉は奇数羽状複葉で互生し、頂小葉は大きく側小葉は小さい。匍匐茎では円形の頂小葉だけのこともある。花は直立茎の先に総状花序をなし、水中に生育する場合は水上に抽出する。直径』一センチメートル『程度の白い十字花で、初夏に開花し、花後直立茎は倒れる。果実は秋に熟し、細長い莢状で翼のある種子を含む。

日本では和名の通り水田の用水路などに生育する』。『タガラシ(キンポウゲ科、田枯らしの意味といわれる)とは直接関係ない』と参照したウィキミズタガラシにはある。而して、このウィキのミズタガラシの画像を見てみると、これはタイの刺身に添えられた同じアブラナ科の山葵(ワサビ)ではなかったかと思われる。

「マカロニ」直下に石川氏は『〔管饂飩〕』と割注されておられるが、笑っちゃいけないが、今やこの割注の方がはるかに分かり難く、注をしたくなる。これは竹輪を指しているか?

「銀杏の堅果」原文“the nut of the gingko tree”“gingko は“ginkgo”と同語で、公孫樹(イチョウ)のこと。昔、欧米人が「銀杏」を「ギンキョウ」と誤読したことに基づく、珍しい日本語由来の古い英語である。“ginkyo”の“y”を、さらに“g”と誤読して今の綴りとなり、発音も“kou”になったと、小学館の「プログレッシブ英和中辞典」にあるが、まさにこの銀杏の実の硬さを伝えるようで面白いではないか。

「茶を一種の方法で調製したもの」言わずもがな、抹茶である。]

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