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2014/01/22

耳嚢 巻之八 粂の平内兵衞の事

 粂の平内兵衞の事

 

 淺草寺境内に粂(くめ)の平内の像とて、石を人の形程に作り立髮(たてがみ)にて上下(かみしも)を着し、何かりきみたる像なり。いかなるものと尋(たづぬ)るに、平内兵衞は稻葉家の浪人なりといふ。近頃京傳といへる遊子(いうし)の作りたる奇蹟考といへる書に平内が事しるせしも、甚だ非説なりと、人の語りし故、彼(か)の人に尋問(たづねとひ)しに、右石像は平内兵衞が像にはあらず。平内兵衞は稻葉の浪人には相違なく、右平内兵衞深く禪學を好み、右禪學の師たる鈴木九太夫入道正三(しやうさん)の像を、平内兵衞造立(ざうりふ)なせしよしなり。其證は右像の脇に平内兵衞夫婦の石牌(せきはい)もありとなり。正三は御旗本の健士にて、禪學は名高き人にて平内兵衞も信仰の門弟にて、正三沒後、仁王身(にわうしん)の姿を以(もつて)造立なせしと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:故実譚から旧蹟由来検証で連関。

・「粂の平内兵衞」底本の鈴木氏注に、『平内兵衛長守。九州の浪人で、武技に達し、江戸に出て内藤丹波守政親に仕えたが、再び浪人し赤坂で道場を開いた。千人斬を行ない、折からの正雪の乱が原因で取締りが厳しくなると、旗本青山主膳に身を寄せ、久米氏と改めた。この主膳は番町皿屋敷の主人公であるという。平内はたまたま鈴木正三の門に入って禅を学び、浅草寺の金剛院で修禅し改悟して、滅罪のためにわが像を仁王門の傍において衆人の眼にさらしたものという。天和三年没。ただし異説多く、正確な伝記は明らかでない』とあり、岩波版長谷川氏注には、『小田原城主稲葉丹後守家来で、浪人して浅草に住み久米兵内左衛門長盛と称し金貸をしたが情深しとか、兵藤平内兵衛といい、久米は妻の姓、青山主膳の臣、また千人斬をし鈴木正三門に入り仁王座禅の法を修する、天和三年(一六八三)没などといろいろ伝える』と記されてある。また、稲垣史生「考証 江戸の面影(二)」(電子本)によれば、戦前まで浅草寺宝蔵門脇にこの石像を祀った「粂平内堂」があり、縁結びの霊験あらたかとして参詣人を集めたとあり、講談の伝える石州津和野藩士粂兵内の話を載せるが(江戸市中で弱きを助け強きを挫く血気盛んな壮士で悪人をバッタバッタと斬り倒すも、幡随院長兵衛や柳生但馬守が正道への導き役として登場、遂には殺人の前非を悔いて座禅した自らの石像を手ずから彫り、それをこの浅草寺の地中に埋めて参詣人に踏ませたというぶっ飛び話である)、稲垣氏によれば、この人物について分かっている信ずべき事実は『三州挙母(ころも)藩士で後に浪人、江戸赤坂に道場をひらいて平内流(柳生支流)の剣および鉄扇術をおしえた。天保三年(一六八三)六十六歳で死んだ』ということだけで、「浅草区誌」(上巻)にも、同兵内堂の項には『本尊久米兵内兵衛 由緒未詳 堂宇一坪七合四勺五才』とあるのみとある。

・「立髮」月代(さかやき)を剃らずに長く伸ばした髪形。元禄(一六八八年~一七〇四)頃、伊達男たちに好まれた。

・「遊子」本来は旅人の意であるが、山東京伝は江戸生であるし、ここは「遊士」で、遊び人、放蕩者という卑小語であろう。京伝は寛政の改革中に過料や手鎖五十日の処分(寛政三(一七九一)年に彼の洒落本三作が禁令を犯したという理由による筆禍)を受けており、南町奉行であった根岸の立場上は悪感情はなくとも(事実なかったと思う)、こう綴る必要があったのかも知れない。

・「奇蹟考」「近世奇蹟考」。前にも注したが、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年の直近である文化元(一八〇四)年に板行された山東京伝の考証随筆の白眉。底本の鈴木氏の注には、『江戸時代の著名な人物の逸事を考証した随筆。文学・工芸・遊芸・侠客など各方面に及ぶ』とある。私は所持していないため、ここではその内容が誤っているというコンセプトで訳したが、もしかすると違うかもしれない。識者のご指摘を乞うものである。

・「鈴木九太夫入道正三」仮名草子作者鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年)。本名は「しょうぞう」と読む。元は徳川家に仕えた旗本で、九太夫と称し、石平道人などとも号した。三河国東加茂郡足助郷の徳川家家臣鈴木重次の長子として生まれた。慶長五(一六〇〇)年の関ケ原の戦い、同十九年の大坂冬の陣、元和元(一六一五)年大坂夏の陣に出陣するが、同六年、江戸にて出家したが、寛永一五(一六三八)年には平定された島原・天草の乱に弟重成が出陣して同十八年には天草の初代代官に任じられると、正三も翌年に天草へ渡った。三年間の天草滞在によって仏教への帰依を説き、諸寺を建立、「破吉利支丹」を著した。正三の仏法は「仁王禅」といわれる特異なものであった。著作に『七部の書』とされる「二人比丘尼」「念仏草紙」などがある(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」による)。岩波版長谷川氏注に『晩年は牛込天徳寺内の了心庵にいた』とある。この寺は現在の新宿区赤城元町にあったものらしいが現認出来ない。『七部の書』の一つである没後出版の「因果物語」は近世仏教説話中でも怪談物のとして頗る面白い。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 粂(くめ)の平内兵衛(へいないびょうえ)の事

 

 淺草寺境内に粂(くめ)の平内の像と申し、石を人の形に等身大ほどに作り、立髪(たてがみ)にて裃(かみしも)を着し、何かしらん、力んで御座る像である。

 これはいかなる所縁(ゆかり)のものかと訊ねてみたところが、平内兵衛と申すは稲葉家の浪人であったと申す。

 近頃、

「山東京伝とか申す遊び人の作った「近世奇蹟考」と申す書に、この平内のことを記して御座るが、これ、はなはだしき誤説で御座る。」

と、さる御仁が語って御座ったゆえ、その人にさらに詳しく訊き質いたところ、

「……この石像は平内兵衛が像にては、これ、御座ない。平内兵衛は確かに稲葉の浪人には相違御座らぬが、かの平内兵衛、深く禅学を好み、彼の禅学の師であった鈴木九太夫入道正三(しょうさん)の像を、平内兵衛が造立致いたものと聞いて御座る。その証拠にはかの像の脇には平内兵衛夫婦の石碑もちゃんと御座いまする。」

とのことであった。正三と申すは御旗本の立派な武人にて、禅学に於いては名高き人にて御座って、平内兵衛もその信仰の門弟にて御座って、正三の没後、仁王身(におうしん)の姿を以って造立なしたものであると、その御仁が語って御座った。

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