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2014/01/25

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 六代御前墓 

    ●六代御前墓

田越川邊小名柳作に在り、塚の高さ五間、上に槻樹あり、圍二丈餘、樹陰に碑を建(たて)、六代御前墓と銘す、近き頃水戸の士齋藤仁左門の建る所なり、側に五輪の舊碑ありしも今は破壞す、六代は小松三位中將維盛の嫡男なり、文治元年十一月二十一日北條時政に虜(りよ)せられ、已に誅せらるべきを、文覺上人師弟の昵みある由を以て、再三請ふ是に依(よつ)て暫く宥められ、則上人に預けらる、是より高雄山に居住剃髮して、三位禪師と號し、法名妙覺と云、文覺流罪の後又た召捕られ、當所にて誅せらる事は平家物語に詳なり。但異本平家物語には〔中院本〕鎌倉六浦坂(むつらさか)にて誅せらると云、保曆間記には芝と云ふ所なりと記す。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げでポイント落ち。]

平家物語曰、六代御前は三位禪師とて、高雄の奥に行すまして御座しけるを、鎌倉殿さる人の子なり、さる人の弟子なり、假令頭を剃玉ふとも、心をば剃り玉はずとて、召捕ふて失ふべき由、公家へ奏聞申されたりけれは、頓て判官助兼に仰て、召捕ふて關東へそ下されける、駿河國の住人岡部權守安綱に仰て、相摸國田越川の端にて、遂に切られにけり。十二の年より三十に餘るまで保ちたるは、偏に初瀨の觀音の利生とそ聞へし。平家物語中院本曰、六代御前の事、右大將も御かくれありぬ、又文覺も流され給て後、鎌倉に其沙汰ありて、平家の正統なり、文覺坊もなし、打捨て難しとて、官人助高に仰て搦取て、駿河國の住人岡部三郎太夫か手にかけて、鎌倉の六浦坂にて、二十九の年終に斬られ給ひぬ、十二の年より二十九まで活けるは、長谷寺の觀音の御計ひにそ覺えたる、夫よりしてぞ、平家の子孫は、斷えにける、保曆間記に曰、正治元年四月、高雄文覺坊土佐の國へ流さる彼聖に預置れし六代殿、出家して山々寺々修行せられけるを、世の末になる事も有べしやとて、尋ね出し鎌倉へ下し進じで、芝と云ふ所にて被誅畢りぬ。按ずるに當所墳墓あるは。平家物語に記す所是なるべし。

[やぶちゃん注:「六代御前」は平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年)。平重盛嫡男維盛の嫡男で平清盛曾孫。六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名。「平家物語」の「六代斬られ」等、「平六代」で記載されることが殆どである。寿永二(一一八三)年の都落ちの際、維盛は妻子を京に残した。平氏滅亡後、文治元(一一八五)年十二月、母とともに.嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜伏しているところを北条時政の探索方によって捕縛された。清盛直系であることから鎌倉に護送・斬首となるはずであったが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて文覚預りとなった。文治五(一一八九)年に剃髪、妙覚と号し、建久五(一一九四)年には大江広元を通じて頼朝と謁見、二心無き旨を伝えた。その後は回国行脚に勤しんだが、頼朝の死後、庇護者文覚が建久十(一一九九)年に起こった三左衛門事件(反幕派の後鳥羽院院別当たる土御門通親暗殺の謀議疑惑)で隠岐に流罪となるや、六代も捕らえられて鎌倉へ移送、この田越川河畔で処刑された。享年二十七歳であった。没年は建久九(一一九八)年又は元久二(一二〇五)年とも言われ、斬首の場所も「平家」諸本で異なっている(以上は主にウィキの「平高清」を参照した)。彼及び御最期川(現在の田越川)については「新編鎌倉志卷之七」の「多古江河〔附御最後川〕」及び「六代御前塚」の条と私の注を参照されたい。

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