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2014/02/28

會話   山之口貘

 會話

 

お國は? と女が言つた

さて、僕の國はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺靑と蛇皮線などの聯想を染めて、圖案のやうな風俗をしてゐるあの僕の國か!

ずつとむかふ

 

ずつとむかふとは? と女が言つた

それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂欝な方角を習慣してゐるあの僕の國か!

南方

 

南方とは? と女が言つた

南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帶、龍舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被つて寄り添ふてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどゝ談し合ひながら、世間との既成概念達が寄留するあの僕の國か!

亞熱帶

 

アネツタイ! と女は言つた

亞熱帶なんだが、僕の女よ、目の前に見える亞熱帶が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人たちが、即ち亞熱帶に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見達が眺めるあの僕の國か!

赤道直下のあの近所


[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を全面改稿した。】初出は昭和一〇(一九三五)年十一月号『文藝』で、戦後の昭和二二(一九四七)年十二月発行の『青年沖縄』、昭和三二(一九五七)年十月十三日附『琉球新報』他に再掲されている。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では読点が総て除去され、字空きとなっており、三・五・六行目の「ずつとむかふ」の表記が、

ずつとむかう

という表記に改められてある。但し、これは訂正とは言い難い。距離を隔てたあちらの方の意の名詞「むかふ」(「向かふ」)の表記はこれで歴史的仮名遣として正しいからである(言わずもがな乍ら、現代仮名遣では「むかふ」は「むこう」である)。但し、それではバクさんの改変は誤っているかというと実は誤りとも言えない。何故なら、名詞「むかふ」は動詞「向(むか)ふ」の終止形・連体形が名詞化したものとして歴史的仮名遣を「むかふ」とするのがかく一般的なのだが、一方ではその連用形である「むかひ(むかい)」のウ音便形と考えて「むかう」と表記するのが寧ろ正しいとする学説もあるからである。

 また第二連の二行目の「憂欝」が「憂鬱」に改められてあり、さらに、第三連の二行が、

南方は南方 濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帶 龍舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が 白い季節を被つて寄り添ふてゐるんだが あれは日本人ではないとか 日本語は通じるかなどと談し合ひながら 世間との既成概念達が寄留するあの僕の國か!

と「あれは日本人ではないとか」と「日本語は通じるかなどと談し合ひながら」の間に字空きが施されてある。]

耳嚢 巻之八 淨土にていふ七夕の事【漢土にていふ七夕の事】

 淨土にていふ七夕の事【漢土にていふ七夕の事】

 

 南アメリカ洲の中に、アマサウネンといふ所あり。アマサウネンにて天河(あまのかは)といふ事なりとぞ。此山に女ばかりすむ所あり、一年に一度づつ男に逢ふと云(いふ)。其外の時に男來れば、竹鎗を以て防(ふせぎ)ていれずと云。是淨土【漢土】にいひ傳へし七夕の事ならんかと、人の語りぬ。紅毛通詞(こうもうつうじ)物語りの由、崎陽へ至りし人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。題名で引っかかり、内容を読んでそのトンデモさ加減に呆然とするのだが、これ、やはり「淨土」というのは如何にも通じぬ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は以上の【 】で示した通り、「漢土」で腑に落ちる(落ちるが全体のトンデモ性に変わりはないが)。今回のみ以上のような本文表示を行い、訳は「漢土」を採った。

・「アマサウネン」ギリシア神話に登場する女性だけの部族アマゾーン(Amazōn)又はアマゾニス(Amazonis)。日本では長音記号を省略してアマゾン(亜馬森)と呼ばれるが、この語はそれが由来となった地名などを指すのに使われて、それと呼び分けられて、この女族は専ら「アマゾネス」と呼称している。フランス語ではアマゾーヌ(Amazones)、ポルトガル語ではアマゾナス(Amazonas)、スペイン語ではアマソナス(Amazonas)という。参照したウィキの「アマゾン」によれば、『神話上では軍神アレースとニュンペーのハルモニアーを祖とする部族で、当時のギリシア人にとっては北方の未開の地カウカソス、スキュティア、トラーキア北方などの黒海沿岸に住んでいた。黒海はかつてアマゾン海と呼ばれていたこともある。アマゾーンは黒海沿岸の他、アナトリア(小アジア)や北アフリカに住んでいた、実在した母系部族をギリシア人が誇張した姿と考えられている』。以下、神話上における描写。『アマゾーンは馬を飼い慣らし戦闘を得意とする狩猟民族だったと言われる。最初に馬を飼い慣らしたともいわれ、騎馬民族であったようだ。アマゾーンは弓の他に、槍や斧、スキタイ風の半月型の盾で武装した騎士として、ギリシア神話中多くの戦闘に参加している。後のヘレニズム時代にはディオニューソスもアマゾーン征伐の主人公となっている』。『基本的に女性のみで構成された狩猟部族であり、子を産むときは他部族の男性の元に行き交わった。男児が生まれた場合は殺すか、障害を負わせて奴隷とするか、あるいは父親の元に引き渡し、女児のみを後継者として育てたという』。『絵画では、古くはスキタイ人風のレオタードのような民族衣装を着た異国人として描かれていたが、後代にはドーリア人風の片袖の無いキトンを着た姿で描かれるようになった』。『アマゾーンの語源は、弓などの武器を使う時に左の乳房が邪魔となることから切り落としたため、"a"(否定)+"mazos"(乳)=乳無しと呼ばれたことからとされるが、これは近年では民間語源であると考えられており』、伝承的には『すべてのアマゾーンが左乳房を切り落としていたわけではない』。『アマゾーン、アマゾネスは、強い女性を意味する言葉としてよく使われる。また、南アメリカのアマゾン川もその流域に女性のみの部族がいたという伝説があることからそう名付けられたとする説がある』とする。

・「紅毛通詞」「紅毛」は狭義には江戸時代にオランダ人を呼んだ語。ポルトガル人やスペイン人は「南蛮人」と呼んで区別して用いるられた。但し、町方にては広く西洋人のことを指した。しかしここは長崎の通詞であるから、オランダ通詞、オランダ人との通訳に当たる公職に就いていた者を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 漢の地に於いて呼称する「七夕(たなばた)」の真相についての事

 

 南アメリカ州の中に「アマサウネン」という地方がある。

 「アマサウネン」という語は――その響きからも分かるように――「天の河(アマノガハ)」という意味であるという。

 この「アマサウネン」という山岳地域に、女ばかりが住んでおる所がある。

 この女族は一年に一度だけ、下界の異人種の男と逢うという。

 しかし、それ以外の時に男が「アマサウネン」に入らんとすると、竹槍を以って激しく防戦致いて、決して山内には立ち入らせぬと申す。

 さても……これこそが……漢の地にて言い伝えており、しかも我が国にても祭っておるところの……かの「七夕」の正体……なのでは、なかろうか?……

……と、まあ……私の知れる御仁の語りで御座った。

 何でも――オランダ通詞(つうじ)から聴いた話の由にて――長崎へ行ったことのある御仁の語って御座った話ではある。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 25 砂糖菓子の細工物

M325
図―325

 日本人は散歩に出ると、家族のために、おみやげとして、如何につまらぬ物であっても、何かしら食品を買って帰る。竹中は、これは一般的な習慣だという。彼等は不思議な贈物をする。尊敬をあらわす普通の贈物は、箱に鶏卵を十個ばかり入れたもので、私は数回これを受取った。金子を贈る時には、封筒なり包み紙なりの上に、「菓子を買うに入用な資金」ということを書く。パーソンス教授は、大久保伯爵家から贈物として、背の高い、純白の松のお盆に、種々な形と色の糖菓を充したものを贈られた。それ等の一つ一つに意味がある。私はそれを写生せずにはいられなかった(図325)。先端が曲った物の、小さな束は、彼等が食用とする羊歯の芽である。弓形を構成するように曲げられた大きな物の上には、いう迄もないが彩色した、完全な藤の造花がついている。お菓子の上には菊の花形が押捺してある。これ等は紅白で、豆の糊(ペースト)と砂糖とで出来ている。日本人は非常にこの菓子を好むが、大して美味ではない。お盆は高さ十八インチもある。糖菓の大きさも、推察されよう。全体の思いつきが清澄で、単純で、芸術的であった。

[やぶちゃん注:「竹中」前出の竹中恒次郎か竹中成憲であるが、如何にも親しげにぽっと述べている感じからはモースの可愛がった恒次郎であるように思われる。

「菓子を買うに入用な資金」「御菓子料」という表書きのこと。

「パーソンス教授」東京大学理学部(数学担当)教授ウィリアム・パーソン(William Edwin Parson)。既注。

「大久保伯爵家」“the family of Count Okubo”。この直前に暗殺された大久保利通であろうが、正しくは彼は生前は伯爵の上の侯爵(marquis)であった。ただ、ウィキの「大久保利通」を見ると明治一七(一八八四)年七月に長男で継嗣であった大久保利和が侯爵に叙爵されたとあるから、この時点では利和は侯爵であって、かく呼称しているものか。

「紅白で、豆の糊(ペースト)と砂糖とで出来ている」「日本人は非常にこの菓子を好む」としつつ、モースは敢えて「大して美味ではない」と述べているところからは、落雁であろうか。私は落雁を美味しいと思わないからである。

「十八インチ」45・72センチメートル。]

中島敦 南洋日記 補注追加について

一月五日から十六日までの日記は記されていない。この間、一月七日附たか宛葉書(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五五)と同じくたか宛の非常に長い書簡(同書簡番号一五六)が残るが、それを電子化し忘れていたので、同「南洋日記」を編年で読んで下さっておられる方の便宜を考え、只今、当該箇所に挿入する形で、「中島敦 南洋日記 補注」としてアップした。悪しからず。

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(7)

振り袖の桔梗の花の色のよき

なづかしひとゝ涙もよほす

 

[やぶちゃん注:ちょっと迷ったが「なづかし」はママとした。朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ろべりや」七首連作の三首目に、

 振袖(ふりそで)の桔梗(きゝやう)の花の色(いろ)のよきなつかし人(びと)と涙もよほす

とはある。]

 

夏ばなの趣ある小家の人なれば

面影に似し戀もする哉

 

[やぶちゃん注:同じく朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された「ろべりや」七首連作の三首目に、

 夏花(なつばな)に趣(しゆ)ある小家(こいへ)の人なれば面影(おもかげ)に似し戀もする哉

の類型歌。]

 

鬼どもが笑ふ聲にて戰爭(たゝかひ)は

終りぬ勝ちぬ民よ悦べ

 

からくりに見たる地獄の叫喚が

待ち居るものと思ふ可笑しさ

 

[やぶちゃん注:「地獄」の「獄」は原本では「獄」の上に(くさかんむり)が附く字。朔太郎満十九歳の時の、前橋中学校校友会雑誌『坂東太郎』第四十三号(明治三八(一九〇五)年十二月発行)に「萩原美棹」の筆名で所収された(前に注した「ろべりや」連作の後の歌群)にある、

 からくりに見(み)たる地獄(ぢごく)の叫喚(けいかん)が待(ま)ち居(ゐ)るものと思(おも)ふ可笑(をか)しさ

の表記違いの相同歌。]

 

願はくば我なるものを五人(いつたり)に
十人(とたり)になして笑ひ
代さむ

 

[やぶちゃん注:校訂本文は「代さむ」を「交さむ」と訂する。]

 

たゞ一人座すれば淋し天地が

われのくびきにかゝる苦しみ

 

     よろこびは千夜に一夜

     たまたまの逢瀨を何なれば更かし給はぬ

     あはたゞしの別れ、せちなの君かな

あはたゞし燃ゆる熖の火ぐるまを

忘れて去にしつらき君かな

 

[やぶちゃん注:前書の「たまたま」の後半は原本では踊り字「〱」、「あはたゞし」はママ、本文の「あはたゞし」もママ。「燃ゆる」は原本は「燒ゆる」であるが、誤字と断じて校訂本文を採った。朔太郎満十八歳の時の、『白虹』第一巻第四号(明治三八(一九〇五)年四月発行)の「小鼓」欄に掲載された五首の巻頭の、

 あはた〻し燃ゆる災の火車を忘れていにしつらき君かな

(「災」はママ。誤植と思われる)があるが、前書はない。]

 

君まつと一日は樂し君を戀ふと

千夜は果敢なき夢みてしがな

飯田蛇笏 靈芝 大正九年(十四句)

   大正九年(十四句)

 

三月の筆のつかさや白袷

 

[やぶちゃん注:「つかさ」の「つか」は「柄」で筆の軸で、握った感触のことをいう造語か。]

 

かしこみて尼僧あはれや花御堂

 

一鷹を生む山風や蕨伸ぶ

 

薙ぎ草の落ちてつらぬく泉かな

 

[やぶちゃん注:「薙ぎ草」横ざまに払うように、刈り倒したように生える長い葉の雑草の謂いであろうか。特定の種を指しているようには思われない。]

 

   信州なにがしの郷を過ぎて

やまぎりに濡れて踊るや音頭取

 

流燈や一つにはかにさかのぼる

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。蛇笏鬼趣調の一句。

 

蝶ながるゝ風にはねあそぶ蜥蜴かな

 

夜長爐に土間の柱や誰かある

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]

 

秋の星遠くしづみぬ桑畑

 

   笛吹川舟遊

舟をりをり雨月に舳ふりかへて

 

[やぶちゃん注:「をりをり」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

夜相撲や眼球とばして土埃り

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では「眼球」は「目玉」。]

 

瀧風に吹かれ上りぬ石たゝき

 

[やぶちゃん注:「石たゝき」スズメ目スズメ亜目セキレイ科 Motacillidae に属するセキレイ類の別名。ウィキの「セキレイ」によれば、実は『標準和名がセキレイである種はなく、和名にセキレイが含まれるのはセキレイ属(Motacilla)とイワミセキレイ属 (Dendronanthus)の種である。ただし、イワミセキレイ属はイワミセキレイの1属1種で、大部分はセキレイ属である。日本で普通に見られるセキレイは、セキレイ属のセグロセキレイ(固有種)』(Motacilla grandis)『ハクセキレイ』(Motacilla alba)『キセキレイ』(Motacilla cinerea)『の3種だが、他に旅鳥などで希に見られる種もある』。『主に水辺に住み、長い尾を上下に振る習性がある(ただしイワミセキレイ』(Dendronanthus indicus)『は左右に振る)。イシタタキなどの和名、英名WagtailWag:振る tail:尾)はその様子に由来する。人や車を先導するように飛ぶ様子がよく観察される』。『イシタタキ(石叩き・石敲き)、ニワタタキ(庭叩き)、イワタタキ(岩叩き)、イシクナギ(石婚ぎ)、カワラスズメ(川原雀)、オシエドリ(教鳥)、コイオシエドリ(恋教鳥)、トツギオシエドリ(嫁教鳥)、ツツナワセドリ(雁を意味することもある)、など多くの異名を持つ』とある。]

 

汲まんとする泉をうちて夕蜻蛉

 

谷々や出水瀧なす草の秋

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年九月



雲の峰夜は夜で湧いてをりけり

 

   沖繩糸滿風景

くり舟を軒端に吊りて島の冬

 

[やぶちゃん注:以上二句は九月の発表句。]

杉田久女句集 87 秋暑し熱砂にひたと葉つぱ草


秋暑し熱砂にひたと葉つぱ草

[やぶちゃん注:「葉つぱ草」同定不能。福岡の方言か? 識者の御教授を乞う。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 島への旅 

 島への旅

 

面を過ぐる機關車の灼け旅はじまる

 

潮騷を身ちかく火蛾と海渡る

 

[やぶちゃん注:多佳子マジックの呪文「火蛾」の初出である。]

 

ひとの家に實櫻熟るる一夜寢し

 

玫瑰に紅あり潮騷沖に鳴る

 

[やぶちゃん注:「玫瑰」は「はまなし」又は「はまなす」と読む。バラ目バラ科バラ属

ハマナス Rosa rugosa。和名は「ハマナス」であるが、元来は「はまなし」が正しい。砂地の海浜に生えていて果実がナシに似た形をしていることが和名由来で、それが「はまなす」と訛ったものであるからである。なお、この「島」とは直後に鳴門の嘱目吟が続くことから、淡路島若しくはその周辺の瀬戸内海の諸島と考えてよいであろう。年譜上の記載はない。]

人間   八木重吉

 

巨人が 生まれたならば

人間を みいんな 植物にしてしまうにちがいない

 

[やぶちゃん注:「ちがいない」はママ。]

音樂   山之口貘

 音樂

 

あれとは口など利くなと言ふのに

あれに口を利くんだから

僕に口利く暇がなくなるんだ

だからあれを好きになつたんだらうと言ふんだが

だからあんたなんかは嫌ひとくる

だからそれみろ それはおまへが あれを好きになつたんだからであらうと言ふんだが

雨天のたびには

雨が降る

僕がものいふたびに降るものは

あの男のことばつかり

だからもういふまいと口を噤んでみるんだが

みるほどにきこえてくる音

なんの音

たとへやきもちやいてはゐてもこの僕そのものは

物はたしかに愛なんだがときこえるばかり


[やぶちゃん注:初出は昭和九(一九三四)年十一月号『日本詩』で、前の「無機物」及びずっと後に載る「立ち往生」と併せて三篇が掲載された。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では十四行目の「たとへ」が、

たとひやきもちやいてはゐてもこの僕そのものは

に変えられてある。但し、これは訂正とは言い難く、あくまでバクさんの好みによる変更である。何故なら、このように後に逆接条件を表す「ても」を伴う反実仮想の副詞「たとひ」(「假令」「縱令」「縱ひ」)の語源はハ行四段活用の動詞「たとふ」の連用形と推測されており(但し、「たとふ」の確かな使用例は和文脈では厳密にはなく、漢文訓読系統から派生した語とされている)、古語には別に、この「たとひ」の音変化とも思われる副詞「たとへ」(「假令」「縱令」「縱ひ」)が存在し、これは「たとひ」と用法も意味も全く同じものだからである。
【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、さらに注を改稿した。】]

2014/02/27

歴史資料 飲食店営業許可に係わる警視庁命令書

[やぶちゃん注:以下は私の行きつけの大船の鮨屋「寿司正」の御主人が若き日に修行された新橋「寿司正」の親方の店の営業許可に際しての命令書(原本コピー2種)である。御主人は、親方は既に亡くなられており、現在はこの店は存在しないのでいいでしょうとおっしゃられたが、一応、個人情報に相当する一部にマスキングをしておいた。現代史の風俗的資料(私自身初めて見るものであった)として拝借し、電子化した。電子化に際しては一部の略字を正字化(若しくは新字の最も近いもの)に直した箇所があるが、概ね原本通りとした。一部は推定判読した。]

Meireisyo1_2


Meireisyo2

     命  令  書

      營業所 芝區新橋四丁目三十■番地

      飲食店(すし)佐藤■正

明治二十八年四月警視廰令第八號待合茶屋遊船宿

貸席料理屋飲食店及藝妓ニ関スル取締規則第二

條ノ二ニヨリ左記事項ヲ命令ス

右相違ス

 昭和十年十一月六日

         芝愛宕警察署長

          警視 宮澤文作 (公印)

 

 一、婦女ハ客ノ接待ヲ為ササルコト

 二、客席ノ構造設備ヲ變更セントスルトキハ其ノ三日前迄ニ變更

   要旨並圖面ヲ附シ届出ツルコト

 三、營業種目ヲ變更セムトスルトキハ届出ツルコト

 

■やぶちゃん補注

・「明治二十八年四月警視廰令第八號待合茶屋遊船宿貸席料理屋飲食店及藝妓ニ関スル取締規則」というのは、通称「警八」と呼ばれた明治二八(一八九五)年四月に制定された待合等の営業許可に関わる細目を定めた規則。以下に国立国会図書館蔵「市民法典」から全条を電子化しておく(文字の大きさの違いは無視した。〔 〕はポイント落ちの割注様部分、各條は底本では二行目以降は一字下げ。「改正略符」は底本では(ろ)と(は)の上にある)。

   *

    ●待合茶屋遊船宿貸席料理屋飲食店及藝妓ニ關スル取締規則〔明治二十八年四月廰令第八號〕

    

改正略符(い)三十年十月廰令三十四號

    (ろ)三十八年六月同二十四號

 

    (は)四十二年十月同二十八號

    (に)四十三年四月同二 十 號

第一條 左ノ營業ヲ爲サントスル者ハ族籍住所足業氏名年齡屋號及營業ノ場所ヲ詳記シ所轄警察署又ハ警察分署ニ願出免許ヲ受クヘシ其營業ノ場所ヲ轉スルトキ亦同シ(い)

 一 待合茶屋遊船宿貸席料理屋

 二 銘酒喫茶麥湯氷水其他客席ノ設ケアル飮食店

 三 藝妓屋

 四 芝居茶屋(は)

第一條ノ二 前條ハ其ノ種類ニ依リ家屋ノ構造ヲ制限スルコトアルヘシ(は)

第一條ノ三 目的方法ノ何タルカヲ問ハス他人ノ委託ヲ受ケ若ハ他人ノ名義等ヲ利用シテ物品ノ配付ヲ爲シ又ハ爲サシメ若ハ財物ヲ徴收セシムヘカラス(に)

第二條 營業者公安若クハ風俗ヲ害スルノ虞アリ又ハ他人ニ名義ヲ假スノ事實アリト認ムルトキ警視廰ハ其營業ヲ停止シ又ハ其營業ノ免許ヲ取消スコトアルヘシ(い)

第三條 營業者族籍住所氏名屋號ニ異動ヲ生シ又ハ廢業シタルトキハ五日以内ニ所轄警察署又ハ警察分署ヒ屆出ヘシ(い)

第四條 營業者雇人ヲ雇入レタルトキハ其住所氏名年齡竝前住所職業ヲ詳記シ三日以内ニ所轄警察署又ハ警察分署ニ屆出へし其事項ニ異動ヲ生シタルトキ亦同シ 但シ郡部ハ巡査派出所又ハ巡査駐在所ニ其ノ屆書ヲ差出スコトヲ得(ろ)(は)

第五條 本則第一條第一條ノ三第三條第四條ヲ犯シタル者ハ一日以上三日以下ノ拘留又ハ二十錢以下ノ科料ニ處ス(に)

      附  則

從前ノ營業者ニシテ尚引續キ營業ヲ爲サントスル者ハ來五月三十一日迄ニ本則第一條ノ手續ニ依リ屆出許可ヲ受クヘシ

      附  則(は)

明治四十二年十月二十七日ニ於テ現ニ芝居茶屋營業ヲ營ム者ニシテ尚引續キ營業ヲ爲サムトスル者ハ明治四十二年十一月二十五日迄ニ本則第一條ノ手續ニ依リ家屋ノ構造仕樣及圖面ヲ添附シ屆出認可ヲ受クヘシ

   *

井上章一氏の日本人の男女が愛し合う場所の移り変わりを探る性愛空間の建築史「愛の空間」(角川書店一九九九年刊行)によれば、この規則の第二條にある公安・風俗を害するという表現の内実は賭博と売春の取り締りにあった。この「警八」が出された頃はまさにこの親方の鮨屋のあった新橋界隈では相当に厳しいチェックがあったらしく、同書によれば(以下の引用は恣意的に正字化した)、『近ごろ新橋邊は最とも警八風の吹廻し方烈しく、夫(そ)れが爲め待合茶屋はげっそりと不景氣を感じ』(同一八八五年十二月五日附『朝日新聞』)とあり、他にも『警八風は花柳の巷に吹きすさみて穩かならねば、此の難をさけてデンデンの音に寄りつどう冶郎(やろう)ども近來頗(すこぶ)る多く、娘義太夫の懷冬を知らず』(一八九六年二月七日附『都新聞』)、『警八風情花を散す……待合萬松亭女將大草ふきは、此頃警察令の嚴しきをも懼(おそれ)ず、一昨夜蠣殼町米商某の求めに應じて……兩美形を招きて箕箒の勞を執らしめたる咎に依り、女將と美形とを連ねて其筋に引致せられたり』(一八九六年十二月十二日附『東京日日新聞』)とある。「警八風」の「風」は風俗取り締りのことであろう。また、「デンデン」とは恐らく娘義太夫の義太夫節(「デンデン」は太棹三味線の音)のこと、「箕箒」は「きそう」と読み、「箕箒の妾(しょう)」でここは売春行為を指す(「史記」の「高祖本紀」に基づくが、そこでは本来は掃除女で、ここは、単純に妻とする、という謂いで用いている)。しかし、こうした厳しい取り締りは長続きせず、五年後の『読売新聞』(一八九九年七月三日附)には、『彼の有名なる警八風と稱する警視廰令の發布以來、一時は關係營業者間に非常の恐慌を來せしが、今やはかなく警八令などは誰人も念頭に留めざる有樣にして、爲に待合、船宿其他藝妓抔(など)の取締に就ては、恰(あた)かも有名無實の感ありて、甚だしきは其筋の默許する處(ところ)なりとまで風評するに至り』とまで報じられるほどのザル法に化していた、とある。断っておくが、以上の私の注は本規則の実態を述べたものであって、この親方の店は無論、普通の健全なる鮨屋であることは言うまでもない。

・「右相違ス」「みぎあひたがはず」と訓じているものと思われる。謂わば「以上の通り、相違なし」、守りなさい、という確認の一文である。

・「昭和十年十一月六日」同年の内外の動きをウィキの「1935から抜粋しておく。

 2月10日 築地市場が開場。

 3月16日 アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄してナチス・ドイツの再軍備を宣言。

 2月18日 菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾。

 4月 6日 満洲国皇帝溥儀が来日し、靖国神社を参拝した。

 4月 7日 美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される。

 4月 9日 美濃部達吉の「憲法概要」など著書三冊が発禁となるも買手殺到し、書店で売切れとなった。

 6月 7日 有楽座が開場。

 6月10日 梅津・何応欽協定成立(日本軍による華北分離工作の開始)。

 7月 1日 船橋・千葉間省線の電化完成(東京・千葉間全通)。

 7月14日 フランス人民戦線結成。

 8月 1日 警視庁で無線自動車が登場。中国共産党が抗日救国統一戦線を提唱(八・一宣言)。

 8月10日 国体明徴声明が発表される。

 8月12日 陸軍内部の統制派として知られた永田鉄山が暗殺される。

 9月15日 ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)が制定され、ハーケン・クロイツ旗が正式なドイツ国旗とされる。

 9月30日 和辻哲郎の「風土 人間学的考察」が出版される。

10月 3日 イタリアがエチオピアへ侵攻を開始(第二次エチオピア戦争)。

10月 6日 大阪市営地下鉄御堂筋線の梅田駅本駅が開業(30日には心斎橋駅 - 難波駅間が開業)。

10月21日 ナチス・ドイツが国際連盟を脱退。

11月26日 日本ペンクラブが発足(初代会長島崎藤村)。

11月28日 土讃本線三縄―豊永間が開通(最後の「陸の孤島」高知県が鉄道で結ばれる)。

12月 8日 関東軍支援の下に李守信軍がチャハル省に進軍。大本教教祖出口王仁三郎と幹部三十余名が不敬罪・治安維持法違反で検挙される(第二次大本事件)。

・「芝愛宕警察署」現在の東京都港区新橋六丁目十八番十二号にある警視庁管轄になる愛宕警察署。現在の同署は港区の東北部を管轄し、管内には東京タワーやオランダ大使館・日本テレビやテレビ東京の本社ビル・世界貿易センタービルなどの施設がある(当署横には機動捜査隊の拠点として各種犯罪対策を担っている)。管轄地域は港区芝地域の一部で東新橋一・二丁目(全域)、新橋一・二・三・四・五・六丁目(全域)、西新橋一・二・三丁目(全域)、海岸一丁目(二・三丁目は三田警察署の管轄)、浜松町一・二丁目(全域)、芝大門一・二丁目(全域)、芝公園一・二・三・四丁目(全域)、愛宕一・二丁目(全域)、虎ノ門一丁目、二丁目(3番から9番のみ)、三・四・五丁目(前記以外の二丁目は赤坂警察署の管轄)。明治五(一八七二)年に巡査屯所が設置され、明治一四(一八八一)年一月に宮本町警察署となるも凡そ二ヶ月後の同年四月一日には芝宮本町警察署となり、大正二(一九一三)年に芝愛宕警察署に改称している。この命令書の二年後の昭和一二(一九三七)年に現在の愛宕警察署に改められた(以上はウィキ愛宕警察署に拠った)。

・「宮澤文作」この部分のみゴム印である。この人物は国立国会図書館の雑誌資料の中の『警察協会雑誌』の明治四二(一九〇九)年十一月発行のそれに寄稿している「警察官の方言に就て 宮澤文作」とある人物と考えてよかろう。また、東京都の歴代区長一覧を見たところ、芝区(港区)区長の欄に「宮沢文作」の名が見え、そこには昭和一一(一九三六)年九月就任、昭和一三(一九三八)年十月退任とあり、その日附と連続するように、赤坂区(港区)区長の欄にはやはり「宮沢文作」の名があって、そこには昭和一三(一九三八)年十月二十日就任、昭和一七(一九四二)年九月二日退任とある。同姓同名の異人の可能性もあるが一応、記しておく。

・「(公印)」判然としないが、「警視庁警視之印」とあるように見える。

雛飾りのため閉店

本日は雛飾りのため一時閉店 心朽窩主人敬白

中島敦 南洋日記 一月二十日

        一月二十日(火) 晴、オギワル

 九時過舟の用意とゝのひたりとて、ウバルにリュックを擔がせ公學校前迄到る。其處より小舟に乘る。漕手は金太郎。リーフの水澄み、海岸の風光も佳し。一時間足らずにして南貿に着く、上陸。金太郎に荷をかつがせ陸橋を行く。途中、橋の壞れたるあり。舟を呼んで渡る。製材所より先は自らリュックを負うて歩む。椰子林中の道なり。途にコプラ剝きの一團に合ふ。山間の赭土道。ヘゴ羊齒。タコ。道に出合ふ女ども。正午前、オギワル村に入る。レンゲが邸。この部落は一本の大道中央を眞直に貫く。その兩側に家あり。頗る整然たり。アバイに行きて、ルバク共の會談を見る。貯金獎勵についての寄合なり。オイカワサン座にあり。彼等の會談に遲々として一向に進捗せず、五分間に一人位ポツンと發言するものの如し。村長宅にて晝食。ひるね。一向に村長も誰も歸り來らず。村長の名はエラッテウェズ。餘り長者らしからぬ風貌なり。<○村長の薄綠のワイシャツ、>四時近く歸宅し、大きなるバナナを馳走す。夕方迄土方氏と濱の干潟に下り立ち soko’(z) なる白き小あさりを掘る。持歸りて味噌汁とす。夕食には之と、タカオと出づを喰ふ。土方氏の爲には腐り氣味(ブラオ)なる魚あり。蓄音機(何が彼女をさうさせたか。コロール青年哥。ラヂオ體操その他の盤あり)、動かぬ時計三つ。その中の一つは鳩時計。卓子。籐椅子セット。低い机。皇室の寫眞多數掲げらる。明治的色彩に富む戰爭畫南苑激戰の圖四枚。富士山の額一つ。選獎狀の額(倅なるべし)ムレンヤパンの公學校修業證書、賞狀、圖書。日本(女)の着物一枚。手提。ミシン。天井よりぶら下がれる豪奢なるランプ。シャンデリヤの如し。獨乙時代のものなるべし、東郷元帥の畫。四圍のヴェランダへ日除の板簾。その外(ソト)の大ザボン。夜は、する事もなく、暗ければ、早く寐る。

[やぶちゃん注:太字「あさり」は底本では傍点「ヽ」。「腐り氣味(ブラオ)」の箇所は「腐り氣味」全体に「ブラオ」のルビがつく。

「ヘゴ羊齒」シダ植物門シダ綱ヘゴ目ヘゴ科ヘゴ Cyathea spinulosa。常緑性の大形木生シダ。湿度の高い林中を好み、茎は高さ四メートル、基部の径は五〇センチメートルに達し、稀に枝分れする。茎の上部には、長さ二メートルを超す葉が開出し、葉柄は葉身より短く、紫褐色で刺が密生し、暗褐色の辺縁に刺のある鱗片をつける。葉身は二回羽状に分裂、小羽片は羽状に深裂し、裏面に薄い包膜で覆われた胞子嚢群を多数つける。参照したウィキの「ヘゴ」によれば、『ヘゴ科の茎は樹木の幹と異なり肥大成長をしないが、茎から出る無数の不定根に厚く覆われ、基部が太くなる。この不定根の層は湿度と空気とを適度に保持するため、着生のランやシダ類の栽培に適し、ヘゴ板として市販される。東南アジアや中南米では、茎や根塊を彫刻して土産品とする。ゼンマイ状に伸びた新芽は山菜として利用されることもある。また、茎はデンプンを多量に含むため、かつてはニュージーランドをはじめ多くの地域で、原住民がこれを食用としていた』とある。

「ルバク」長老の謂いであろう。土方日記を管見すると、元来はパラオ語で「年寄」を意味するが、そこから「旦那」という敬称に用いられるとあり、また「ルバク制度」という表現も出、これはどうもパラオ社会の長老達による決定機構のことらしい。また当時、占有していた日本人(内地人)のことも敬意を込めて「ルバク」と呼んだとある。]

飯田蛇笏 靈芝 大正八年(三十九句)

   大正八年(三十九句)

 

火に倦んで爐にみる月や淺き春

 

月褒めて雪解渡しや二三人

 

家鴨抱くや凍解の水はればれと

 

[やぶちゃん注:「はればれ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

 

月いよいよ大空わたる燒野かな

 

[やぶちゃん注:「いよいよ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

牧霞西うちはれて獵期畢ふ

 

草喰む猫眼うとく日照雨仰ぎけり

 

落汐や月になほ戀ふ船の猫

 

谷川にほとりす風呂や竹の秋

 

尿やるまもねむる兒や夜の秋

 

[やぶちゃん注:「尿」は「すばり」と訓じていよう。]

 

  白骨温泉

三伏の月の小さゝや燒ヶ嶽

 

うち越してながむる川の梅雨かな

 

から梅雨や水面もとびて合歡の禽

 

[やぶちゃん注:「水面」は「みなも」と読みたいが、「山廬集」では、

 

 から梅雨や水ノ面もとびて合歓の鳥

 

と表記されてあり、「みのも」と読ませている。]

 

  白骨檜峠一軒茶屋

高山七月老鶯をきく晝寢幮

 

  白骨温泉行、七句

川瀨ゆるく波をおくるや靑嵐

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では、

 

   信濃山中梓川

 川瀨ゆるく浪をおくるや靑あらし

 

とある。]

 

深山雨に蕗ふかぶかと泉かな

 

[やぶちゃん注:「ふかぶか」の後半は底本では踊り字「〲」。この句は「山廬集」では、『大正八年六月二十六日家郷を發して日本アルプスの幽境白骨山中の温泉に向ふ。途中 三句』という前書を持つ三句目に配されてある。但し、「山廬集」は季題別(以下、この注記は略す)。]

 

夏蝶や齒朶搖りてまた雨來る

 

汗冷えつ笠紐浸る泉かな

 

[やぶちゃん注:この句は「山廬集」では、『大正八年六月二十六日家郷を發して日本アルプスの幽境白骨山中の温泉に向ふ。途中 三句』という前書を持つ二句目に配されてある。]

 

夏山や又大川にめぐりあふ

 

[やぶちゃん注:この句は「山廬集」では、『大正八年六月二十六日家郷を發して日本アルプスの幽境白骨山中の温泉に向ふ。途中 三句』という前書を持つ三句目に配されてある。]

 

雲ゆくや行ひすます空の蜘蛛

 

後架灯おくやもんどりうつて金龜子

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では、

 

 後架灯おくやもんどりうちて金龜子

 

とする。]

 

風向きにまひおつ芋の螢かな

 

ふためきて又蟲とるや合歡の禽

 

陰曆八月虹うち仰ぐ晩稻守

 

[やぶちゃん注:「晩稻守」は「おしねもり」と読み、稲が実ってきた頃に鳥獣に田を荒らされぬように番をすること、又、その人を指す。「おしね」は「おそいね」の略といい、遅れて実のる晩稲(おくて)のことを指す。]

 

はつ秋の雨はじく朴に施餓鬼棚

 

月高し池舟上る石だゝみ

 

名月や耳聾ひまさる荒瀨越え

 

[やぶちゃん注:「聾ひ」は「しひ」と読む。ハ行上二段活用の自動詞「廢ふ」で、器官が働きを失う意の古語。「廢(しひ)」と名詞化されて「目しひ」「耳しひ」などと造語された。]

 

新月や掃きわすれたる萩落葉

 

  白林和尚葬儀

秋月や魂なき僧を高になひ

 

[やぶちゃん注:「白林和尚」蛇笏の菩提寺(山梨県笛吹市境川町曹洞宗松尾山智光寺)の僧か。]

 

舟べりをおちてさやかや露の蟲

 

鳥かげにむれたつ鳥や秋の山

 

嘴するや榛高枝の秋鴉

 

[やぶちゃん注:「榛」は音「ハン」、落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属 Corylus ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。この光景は高枝の鴉であるから後者と思われる。]

 

極月や雪山星をいたゞきて

 

  上曾根渡舟場所見、一句

冬風に下駄も結べる鵜籠かな

 

月いでゝ雪山遠きすがたかな

 

月の樹にありあふ柝や寒稽古

 

[やぶちゃん注:「柝」は通常は「き」で、拍子木のことだが、どうも音数律が悪い。「タク」と音読みしているか。]

 

  山居即事

雞たかく榎の日に飛べる深雪かな

杉田久女句集 86 袂かむやまなじり上げて秋女

袂かむやまなじり上げて秋女

杉田久女句集 85 秋のごと瞳澄めば嬉し鏡拭く

秋のごと瞳澄めば嬉し鏡拭く

杉田久女句集 84 秋來ぬとサファイア色の小鰺買ふ

秋來ぬとサファイア色の小鰺買ふ

杉田久女句集 83 親雀キャベツの蟲を喰へ飛ぶ

親雀キャベツの蟲を喰へ飛ぶ

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 雜愁 

 雜愁

 

發車する列車と歩み春日面(も)に

 

春落暉歩廊に列車の尾も疾くなり

 

黄砂航く朱の一輪の月一夜

 

日覆ふかく疲れ港の照るを瞳に

 

[やぶちゃん注:「日覆ふ/かく疲れ港(かう)の/照るを瞳(め)に」と私は読む。大方の御批判を俟つ。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年四月から八月



門入りて徑の露けくなりにけり

 

寄生木の影もはつきり冬木影

 

極月や榕樹のもとの古着市

 

[やぶちゃん注:「榕樹」「ヨウジュ」は沖繩でお馴染みのガジュマルの漢名。イラクサ目クワ科イチジク属ベンガルボダイジュ Ficus bengalensis。インド原産で高さは三〇メートルにも達する。樹冠部は大きく広がって横に伸びた枝から多くの気根を出す。果実は小形の無花果状で赤熟する。インドでは聖樹とされる。バニヤン・バンヤン(banyan)ともいう。

 以上三句は四月の発表句。]

 

手袋の手をかざしゐ芦火かな

 

[やぶちゃん注:「芦」は底本の用字。]

 

   櫻島

火の島の裏にまはれば蜜柑山

 

炭馬の下り來徑あり蜜柑山

 

[やぶちゃん注:以上三句は五月の発表句。]

 

   富士山麓

霧しづく柱をつたふキヤンプかな

 

はひ松に郭公鳴けるキヤンプかな

 

   山中湖

山垣とキヤンプの影と映るのみ

 

刈跡のみなやにたらし蘇鐡山

 

奥津城の庭の蘇鐡の刈られけり

 

[やぶちゃん注:以上五句は六月の発表句。]

 

   首里城

南殿のしとみあげあり花樗

[やぶちゃん注:「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。センダン、一名センダンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。]

 

うすうすと峰づくりけり夜の雲

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。

 以上二句は八月の発表句(昭和七(一九三二)年七月の発表句はない)。

 なお、この八月二日、鳳作は博多に『天の川』主宰の吉岡禪寺洞(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年 福岡生。本名、善次郎。大正七(一九一八)年に福岡で『天の川』を創刊して後に主宰となる。富安風生・芝不器男らを育て、昭和四(一九二九)年には『ホトトギス』同人となったが、新興俳句運動に参加して昭和十一年に除名された。戦後は口語俳句協会会長を務めた。句集に「銀漢」「新墾(にいはり)」(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る))を訪ねている。それを「銀漢亭訪問記」として昭和七年十一月の『天の川』に載せているが、その中で、鳳作が「沖繩の句をつくりたいと思つてゐますが、どうも季感が乏くて句になりにくいです」と質問したのに対し、禪寺洞は「この前臺灣の人もさう云つてゐた。だがまあ云つて見れば夏だけの所なんだから、夏の季のものだけ句作したらよいだらう。從來の季題にない動植物でも何でも句にしてみたまへ。沖繩や臺灣みたいな所は季と云ふものにさうとらはれる必要はないと思ふ」と答えているのが注目される。

あほい 水のかげ   八木重吉

    あほい 水のかげ

 

たかい丘にのぼれば

内海(ないかい)の水のかげが あほい

わたしのこころは はてしなく くづをれ

かなしくて かなしくて たえられない

 

[やぶちゃん注:二ヶ所の「あほい」は総てママ。]

無機物   山之口貘

 無機物

 

僕は考へる

ふたりが接吻したそのことを

娘さんを僕に呉れませんかといふ風に

緣談を申し込みたいと僕は言ふのだが

浮浪人のくせに、と女が言ふたんだといふやうに

 

ところが僕は考へる

浮浪人をやめたいとおもつてゐるそのことを

緣談はまとめて置いて直ぐにもその足で

人並位の生活をなんとか都合したいと僕は言ふのだが

それではものわらひになる、と女が言ふたんだといふやうに

 

ところが僕はまた考へるのか

とにかく緣談をはなしだけでもまとめて置きたいとおもふそのことを

だからこんなに僕が話しても僕のこゝろがわからぬのかと言ふのだが

さよなら、と女が言ふたんだといふやうに

 

戀愛してゐるその間

僕は知らずにゐたんだよ

現實ごとには仰天してゐるこの僕を。



[やぶちゃん注:【2014年6月17日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証によって注を附した初出は昭和九(一九三四)年十一月号『日本詩』(発行所は東京市神田区三崎町の「アキラ書房」)で、次の「音樂」及びずっと後に載る「立ち往生」と併せて三篇が掲載された。「定本 山之口貘詩集」では読点は除去されて字空き、最後の句点も除去されてある。バクさん、三十一歳、放浪時代の詩である(この女性は従って妻となる静江さんではない)。

2014/02/26

献体した母の納骨された多磨霊園慶応大学医学部納骨堂――ここが僕の――おくつき――なんだなぁ……

死後、慶応大学医学部に献体した母の遺骨は多磨霊園の多磨霊園慶応大学医学部納骨堂に納められてある……

恐らく凡そ皆さんは信じられないと思うが不肖の僕は未だに母の墓参りをしていない……いや……今日まで――誰一人として母を参ってはいないのであった……

しかし今日――近くに住む私の親族から電話を貰い、話の中でその親族の墓所が多磨霊園にあること、母の遺骨がそこに祀られていることを話したところ……ついさっき早速に墓参をしたとのメールと画像を貰った……

Content

母さん……待っててね……いつかは僕もそこに一緒に入るからね…………

……誰も――僕に語る必要などなかったのだ……退屈なのは君じゃなくて――僕――だった…………

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 四 精蟲 (2)屈んだホムンクルスのいる風景

Mukasinoseisinozu
[昔の精蟲の畫]

  その後さまざまの動物の精液を調べて見ると、いずれにもかならず無數の精蟲が游いで居るので、これは偶然に入り込んだ寄生蟲ではなく、精液には必ず含まれて居る一要素であらうと考へるに至つた。動物が卵を産むことも、卵に精液が加はると卵が孵化し發育することも前からわかつて居たが、精液中に蟲の如きものが常に無數に游いで居るのを見ると、卵を孵化するに至らしめるものは精液の液體であるか、またはその中の精蟲であるかといふ疑問が生じた。そこでこの疑を解決するために、イタリヤのスパランザニといふ熱心な研究家が次の如き試驗を行つた。まづ一つの器に水を盛り、その中に雌の蛙の體内から取り出した成熟した卵を澤山に入れ、別に雄の蛙の體内から取り出した精液を濾紙で濾して精蟲を除き去つた液だけを加へて見た。所が精蟲を含んだまゝの精液を加へると卵は悉く發育して幼兒と成るが、精蟲を除いた精液を混じたのでは卵は一つも發育せず、悉くそのまゝに死んでしまつた。この實驗で、精蟲なるものは精液中の最も主要な部分で卵を孵化するに至らしめるのは全くその働によることが明になつた。精蟲のあることを知らぬ間は、子は全く卵から生ずるものの如くに思つて居た所、子の出來るには精蟲が必要であることが明になってからは、急に精蟲に重きを置くやうになり、別して獸類の如き卵の知れぬ動物に於ては、後に子となつて生まれるのは精蟲自身であると考へられ、如何なる動物でも子になるのは雄の精蟲であつて、卵の如きは單にこれにこれに滋養分を供給するに過ぎぬとの説が盛に唱へられるに至つた。即ち女の腹は畠で、男がそこへ種を蒔くものと考へたのであるが不完全な顯微鏡を用ゐ、かかる想像を逞しうして覗いたから、實際精蟲が子供の形に見えたものか、その頃の古い書物には、人間の精蟲を恰も頭の大きな赤子から細長い尾が生えて居る如き形に畫いてある。

[やぶちゃん注:ここに掲げられた知られた精子の絵は精虫論における前成説(卵などの内部には生まれて来る子の構造が既に存在しているという考え方。古くは支配的であったが十八世紀にはほぼ否定された)的主張の典型例で、オランダの科学者ニコラス・ハルトゼーカー(Hartsoeker 一六五六年~一七二五年)が唱えた精子の姿である。頭部に入っているのは錬金術でいうホムンクルス(Homunculus:ラテン語で「小人」の意)である。参照したウィキの「前成説」及び同仏文ウィキの“Théorie de la préformationには加えて、ダレンパティウス(Dalempatius 一六七〇年~一七四一年 十七世紀中葉のフランス人貴族フランソワ・ド・プランタード François de Plantade のペン・ネーム)は一六九九年に『精子の皮膜を脱いで小人が出るのを見たとの報告をしている』とある。孰れのウィキにもここで丘先生の掲げたものと殆ど同じ図が示されてある。……私は不思議にこの図を見ると妙な懐かしさとともに不思議な一抹の淋しい気持ちが過ぎるのを常としている……

「スパランザニ」イタリアの生物学者スパランツァーニ(Lazzaro Spallanzani 一七二九年~一七九九年)。スカンディアーノ生まれ。神学校を経てレッジョ大学・モデナ大学で物理学・哲学などを講じた後、パビア大学自然史学教授となった。J.T.ニーダムらの自然発生説に反対して巧妙な実験技術を駆使した自然発生否定実験を行った。また、発生学の分野においては後成説に反対して前成説に立った。ほかに血液循環やシビレエイの発電に関する生理学的研究などの多くの分野ですぐれた実験的研究を進め、十九世紀の実験生物学の先駆となったが、進化論などの自然観に関わる問題に関しては保守的で機械論的固定的な見解をとった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

耳嚢 巻之八 加川陸奧之助教歌の事

 加川陸奧之助教歌の事

 

 賀川が一族の娘、人の許に嫁(かす)と聞(きき)て、反物やうの品餞別として贈りしに添(そへ)て詠(よめ)る、

  そむくなよ人に隨ふみちのくの細布衣むねあはずとも

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じられない。何よりこれは「卷之七 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事」と重複する。あちらとは加川自身の娘への教訓歌である点と、和歌が、

 

  わするなと人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも

 

と第一句と下句に微細な表現差があるのみである。しかも鈴木氏は第一句を「わするなよ」の誤りかとするから、

 

  わするなよ人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも

 

でますます酷似し、しかも岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の巻の七の当該条では、

 

  忘るなよ人に從ふみちのくのけふの細布(ほそぬの)むねあわずとも

 

とあるのである。根岸センセ! また、やらかっしゃいました! 十巻千話に偽りありですぞ! 以下、注も基本、「卷之七 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事」に譲る。

・「細布衣」は「ほそぬのごろも」と読む。「細布」に同じ。「卷之七 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事」の同歌の私の注を参照のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 加川陸奧之助殿の教訓歌の事

 

 賀川殿の一族の娘が、人のもとに嫁すと聞きて、反物のようなる品を餞別として贈られたが、それに添えて詠める歌、

 

  そむくなよ人に随ふみちのくの細布衣むねあはずとも

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 森戸川

    ●森戸川

源を葉山村字長柄に發し、堀内に至り龜井戸川の稱を得、又木の下川とも呼ぶ、森戸より海に注ぐ、川幅源五間、末流十四間。

[やぶちゃん注:サイト「水の旅」内に地図入りの完全な河口から源流までの決定版ともいうべき三浦半島を縦断する森戸川探訪があり、文句なしの圧巻。また、なずな氏のサイト「花の家」内に「森戸川源流」という上流部分、現在の長柄(ながえ)交差点から水源域までをフォトで辿れるページがある。源流域は予想外になかなかの自然である。

「五間」約九・一メートル。

「十四間」約二五・五メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 24 花市の花掛け

M324
図―324
 

 六月十五日。大学から遠からぬ、ある寺院で花市が開かれた。道路の両側には、あらゆる種塀の玩具や、子供の花かんざしや、砂糖菓子や菓子を売る、小さな一時的の小屋が立並び、道路はあらゆる種類の花の束や、かたまりで、殆どふさがっていた。機嫌のよい群衆が、あっちへ行ったりこつちへ来たりしていたが、人力車を下りて歩き出したジョンには、日本人の老幼が群をなして、感嘆しながらついて来た。ある小屋には木を植えた小さな植木鉢と、紙片を書いた物とがある懸垂装置があった。この品は高さ三フィートばかり、不規則な輪郭の薄い木の板で出来ていて、それに小さな楯を支持する枝が固着してある。如何なる叙述よりも、図324の方がよく判るであろう。木材は熱で褐色にしてあり、古そうに見えた。

[やぶちゃん注:「三フィート」約九十一センチメートル。]

中島敦 南洋日記 一月十九日

        一月十九日(月) マルキョク

 終日、東の烈風。ウバルトを旅行中荷物擔ぎに連れ行かんとオイカワサンに(海邊のアバイにて)交渉せしも成立せず。但し、村から村へと順送りに何とか荷物を送る世話をしようといふ、些か失望。八時半、土方氏と、家の前の大甃路を西に上る。新しきアバイ。中に入りて見る。コロールのそれよりも大分安手に出來居れり。たゞ、此のアバイを中心とせる舊マルキョク盛時の諸遺跡、酋長會議席、その他の宏壯なる、頗る觀るに足る。殊に縱横に通ぜる大敷石造は最もマルキョク酋長往時の威權を想望せしむべし。熱帶の巨樹鬱々。芋田所々。熔樹。昔の家趾の前を多く通りて海岸通に出づ。公學校を訪ぬ。庭前のタマナ、ヨウジュ・アミーアの相倚り立てる巨木見事なり。

 バナナを喰ひつゝ森校長と語る。十一時辭去。海沿に歸る。午後リーフの干潟に、(hi’)nll 蟲を(枕蟲)採らんとて降立つ。巨いなる蚯蚓の如き醜怪なる生物なり。土方氏とウルポサン部落へ散歩。ウルトイ島。ボートハウス。潮招き。宿かり。海鳥。タマナの大木。芝生。エラケツ(島民鍛冶屋)の家。石甃路を辿り山路傳ひに歸る。芋田。老婆。家趾のビンロージ。赭山路の眺望。カイシャル水道。搦手よりマルキョクに入る。樹下石上に晝寐せる女。一軒の家に立寄る。老爺一人。少女二人。赤ん坊に乳をふくませをる若き細君の顏。妙に煽情的なる所あり。パイプ(竹)を創る土方氏。歸つて晝寐。五時頃又、土方氏と外出。オルケョク(マルケョク始祖の石像)を見る。ゲルボーソコの家に行き揚魚と薯の馳走になる。歸途、森校長の所に寄り明日のサンパンのことを賴む。七時歸宅。新月の細きを見る。夜又、燈火の下にウバル等と語る。

[やぶちゃん注:「アバイ」パラオの伝統的建築物バイ(Bai)。「アバイ」ともいう。参照したウィキ「バイ」によれば、『釘やネジを用いない建築物で、二等辺三角形の草葺屋根が特徴的である。正面の三角形の壁面(日本建築でいうところの破風)には、パラオに代々伝わる物語が彫刻や絵で描かれている。このバイの彫刻技法を後世に残すべく考案されたのが、現在パラオの民芸品として知られているストーリーボードである』。『2種類のバイがあり、「酋長用のバイ」と「集会用のバイ」がある。酋長用のバイは女人禁制で、酋長クラスの身分の高い男性専用の施設である。集会用のバイでは、年長者が年少者に生活の様々な知恵を授ける一種の学校のような役割を果たしていた』。『かつてはパラオのあらゆる集落に存在していたが、19世紀後半より徐々に減り始め、太平洋戦争の戦火で大幅に激減した。最近ではパラオ文化の再評価に伴い、徐々に復興されつつある。現存する最古のバイはアイライ州にあるバイで1890年頃に建てられた』とある。リンク先ではベラウ国立博物館の敷地に伝統的技法を再現して建てられた観光客向けのバイの建造風景を撮った多くの写真が見られる。

「熔樹」「ヨウジュ」既注。沖繩でお馴染みのガジュマルのこと。イラクサ目クワ科イチジク属ベンガルボダイジュ Ficus bengalensis。インド原産で高さは三〇メートルにも達する。樹冠部は大きく広がって横に伸びた枝から多くの気根を出す。果実は小形の無花果状で赤熟する。インドでは聖樹とされる。バニヤン・バンヤン(banyan)ともいう。

「アミーア」不詳。識者の御教授を乞う。これは単なる直感に過ぎないのであるが、南洋熱帯の巨木というとアオイ目アオイ科サキシマスオウノキ Heritiera littoralis が思い浮かぶ。この属名を凝っと見ていたら、ふと、これが「アーリア」ではなかろうか、と思ったものである。ラテン語の“H”は発音しないから、これは「エリティエラ」であろう、すると「エーテーラ」……「アーリア」に何となく似ている気がするのである。現地ではサキシマスオウノキが用材(ウィキの「サキシマスオウノキによれば、沖繩では『かつてこの板根を切り出してそのまま船(サバニ)の舵として使用した。樹皮は染料、薬用として利用される』とある)がとして取引されいるが、この属名がそのままパプア・ニューギニアの木材取引名として使われていると平井信二氏の「樹木と木材の研究」のサキシマスオウノキにある。

「(hi’)nll 蟲」「枕蟲」不詳。残念! 環形動物門多毛綱遊在目イソメ科イソメ目イワムシMarphysa sanguinea か若しくはユムシ動物門ユムシ目ユムシ科ユムシ Urechis unicinctus か? 「枕蟲」という名と「巨いなる蚯蚓の如き醜怪なる生物」という表現、どうもこれを食用としている風がある点(ユムシはかつては日本でも沿岸域でよく食べられ、朝鮮や中国では現在でも普通に食材とされる。私も刺身で食べたが非常に旨いものである。但し、イワムシ食も本邦の山口県宇部市に例がある。嘘だと思われる方は私の博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY” BY EDWARD S. MORSE  “CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!をお読みあれ)からはユムシ Urechis unicinctus の類ではないかと想像する。

「ゲルボーソコ」不詳。現地人の名か?

「サンパン」サンパン(広東語の「舢舨」。英語:Sampan)は中国南部や東南アジアで使用される平底の木造船の一種を指す語であろう。ウィキサンパンによれば、『港や川岸から比較的低速、安全に人や少量の荷物を輸送するのに適した形状に作られた、全長』五メートル『程度の小型船である。現在は香港や広東省の漁村でよく目にし、湾内でいわゆる水上タクシーとして客を対岸、水上レストラン、釣り場などに輸送したり、湾内観光などに用いられている』。『ほかに、台湾の台南やマレーシア、インドネシア、ベトナムなど東南アジアの華僑・華人が多い漁港などでも使用されている』。『従来は、船尾に取り付けた』二~三メートルほどの『艪を手で操って進ませていたが、現在はエンジンを備えて、ある程度のスピードを出せるようになっている。また、木造にかぎらず、FRP(ガラス繊維強化不飽和ポリエステル樹脂)製のものも作られている』。『また、従来はかまぼこ型の低い屋根を備えていたものが多かったが、現在は周りの見通しが利く、比較的高いテント屋根を備えているものに変わっている』とあり、さらに『中国との交流が盛んであった明治時代の長崎県長崎市でも小型の通船をサンパンと呼んでいた。黒船に似た屋形を供え、舳先はとがって中国船のように彩色されていた。当地では深堀領主の発明と伝えられていた』ともある。]

「中島敦 南洋日記 十二月二十一日」の「マリヤ」の注を大幅追加リロード

「中島敦 南洋日記 十二月二十一日」の「マリヤ」の注を大幅に追加してリロードした。

この習作「マリヤン」は近い将来、全文(別稿・草稿ともに)電子化する予定である。

飯田蛇笏 靈芝 大正七年(五句)

   大正七年(五句)

 

萬歳にたわめる藪や夕渡舟

 

[やぶちゃん注:「山廬集」では、

 

 萬歳にたわめる藪や夕渡し

 

とあることから「夕渡舟」は「ゆふわたし」と読んでいるととってよい。]

 

花火見や風情こゞみて舟の妻

 

つまだちて草鞋新たや露の橋

 

秋草や濡れていろめく籠の中

 

うらうらと旭いづる霜の林かな

 

[やぶちゃん注:底本では「うらうら」の後半は踊り字「〱」。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(6)

その香ゆへにその花ゆへに人は老を

泣きぬ泣かれぬ濃きべにつばき

 

[やぶちゃん注:二箇所の「ゆへ」はママ。朔太郎満十七歳の時の、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首の第二首目、

 その香ゆゑにその花ゆゑに、人は老を、泣きぬ泣かれぬ、こき紅(べに)椿。

の表記違いの相同歌。]

 

瑠璃鳥(るりとり)の鳴けば朝雲さむうして

人とすなほに別れける哉

 

[やぶちゃん注:原本は「瑠璃鳥」を「瑠理鳥」とするが誤字と断じて訂した。底本校訂本文も「瑠璃鳥」とする。こちらは、朔太郎満十七歳の時の、『明星』卯年第十二号・明治三六(一九〇三)年十二月の「金鷄」欄に「萩原美棹(上野)」の名義で掲載された四首の第二首目、

 ひよ鳥の啼くや朝雲寒うして人とすなほに別れけるかな

の類型歌。]

 

抱きては交互(かたみ)に泣きし日もありき

世にそむきしも何日の二人ぞ

 

野に見るは泣くによろしき秋の雨

こし路戀路の思ひ出ぐさよ

 

相(あひ)似たる人か木精(こだま)かひそみきて

呼べは應ふる日なるに似たり

 

[やぶちゃん注:「呼べは」はママ。前と同じ『明星』卯年第十二号・明治三六(一九〇三)年十二月の「金鷄」欄に「萩原美棹(上野)」の名義で掲載された四首の内の巻頭の、

 相似たる人か木精(こだま)かひそみきて呼べは應(こた)ふる日なるが如し

の類型歌。]

 

たゞきくは人の泣く聲むせぶ聲

陰魔地を這ふこがらしの風

 

手をあげて招けば肥えし野の牛も

來りぬ寄りぬ何を語らむ

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の、『明星』辰年第六号(明治三七(一九〇四)年六月発行)の「鳴潮」欄に「萩原美棹」の名義で掲載された六首の第五首目、

 手をあげて招けば肥えし野の牛も來りぬよりぬ何を語らむ

の表記違いの相同歌。]

 

おとなしう涙ぬぐひてあればとて

十九の春はくれであらめや

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の、『坂東太郎』第三十九号(明治三七(一九〇四)年七月発行)に掲載された「夏衣」八首の四首目、

 音なしう涙おさへてあればとて春の光はくれであらめや。

の類型歌であるが、本歌の方がいい。]

杉田久女句集 82 麥湯湧かしくど日もすがら松の根に

  櫓山臨海學校 一句

麥湯湧かしくど日もすがら松の根に

 

[やぶちゃん注:橋本豊次郎・多佳子夫妻の別荘櫓山(ろざん)荘(現在の小倉北区中井浜。「櫓山」は地名としては「やぐらやま」と読む。江戸時代、この一帯は筑前と豊前の国境近くで海に突き出た地形から「堺鼻」と呼ばれ、この小山には小倉藩見張番所があった)の敷地内にあった広場ではしばしば林間学校や催しが行われた。北家登巳氏のサイト「北九州のあれこれ」の櫓山荘跡を参照されたい。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 南紀

 南紀

 

貝ひかり冬の薊の濃きを得ぬ

 

わが眉に冬濤崇(たか)く迫り來る

 

冬濤のうちし響きに身を衝たる

 

子が驅り吾驅り北風(きた)の波うてり

 

眞夜の雛われ枕燈(まくらび)をひくゝとぼし

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

女(め)の雛描かれて男の袖に倚り

 

[やぶちゃん注:この句では「雛」は「ひひな/ひいな」と読んでいよう。]

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年三月

岩の上にロープ干しあるキヤンプかな

 

冬木影道に敷きゐるばかりなり

 

坐らんとすれば露けきほとりかな

 

[やぶちゃん注:以上三句は三月の発表句。]

マンネリズムの原因   山之口貘

 マンネリズムの原因

 

子の親らが

産むならちやんと産むつもりで

産むぞ、といふやうに一言の意志を傳へる仕掛の機械

親の子らが

生れるのが嫌なら

嫌です、といふやうに一言の意見を傳へる仕掛の機械

そんな機械が地球の上には缺けてゐる

うちみたところ

飛行機やマルキシズムの配置のあるあたりたしかに華やかではあるんだが

人類くさい文化なのである

遠慮のないところ

交接が、親子の間にものを言はせる仕掛になつてはゐないんだから

地球の上ではマンネリズムがもんどりうつてゐる

それみろ

生れるんだから生きたり

生きるんだから産んだり



[やぶちゃん注:【2014年6月16日追記:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証により、注を附した】初出は昭和九(一九三四)年九月号『日本歌人』(発行は大阪天王寺の日本歌人発行所。これは同年六月に奈良在住の歌人前川佐美雄が創刊した歌誌で、後に塚本邦雄ら前衛歌人を輩出した)。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によると、掲載された当該号の総タイトルは『人類』であるとする。

 初めの部分でインスパイアされている芥川龍之介の「河童」は、本詩発表に先立つ五年前、龍之介が自死する四か月前の昭和二(一九二七)年三月発行の『改造』に発表されている。

 「定本 山之口貘詩集」では三箇所ある読点が総て除去されて字空きとなり、さらに後ろから四行目の、


地球の上ではマンネリズムがもんどりうつてゐる



地球の上がマンネリズムである


と大きく改稿されている(この異同は旧全集の校異一覧には漏れており、新全集との対比検証で初めて明らかとなったものである)。コーダの「それみろ/生れるんだから生きたり/生きるんだから産んだり」の畳み掛けによる連用中止で裁ち切るという大胆な手法のリズム感からいうと、私は初出の「地球の上ではマンネリズムがもんどりうつてゐる」という執拗な膨張感の方が遙かによいと感じている。]

新発見のバクさんの児童詩  キカンシャ   山之口貘

「山之口貘の児童詩確認 米プランゲ文庫、1947年雑誌掲載」(2010年10月25日附「琉球新報」記事)

『これまで作品名のみ知られていたが、このほど至学館大学の齋木喜美子教授(児童文学)が原本を確認、内容が初めて明らかになった。同作品の複写は、県立図書館開館100周年を記念して11月1日に開設する山之口貘文庫の資料として収められる予定。貘の子ども向け詩作品は極めて少なく、今回の発見は児童文学分野で貘研究の深化につながりそうだ』。これは『占領期日本の雑誌や新聞を収蔵する米国メリーランド大学のプランゲ文庫所蔵の児童雑誌「こどものまど」6月号(1947年5月発行)』から発見された詩で淀井敏夫氏の機関車のカラー挿絵附き。『これまで「占領期新聞・雑誌記事情報データベース」に作品名と著者名のみが紹介されていた。雑誌の表紙に検閲番号が書かれている。データベースに2巻5号と記載されていたが、実際は2巻2号であったことも分かった』。『同作品について、山之口貘研究者の松下博文筑紫女学園大学教授は「貘さんの詩でカタカナ書きのものはこれまで、戦時中に書いた『アカイマルイシルシ』『オホゾラノハナ』の二つしかなかった。これらが日の丸や落下傘を隠喩(いんゆ)化したくぐまった形の児童詩であるのに対し、『キカンシャ』は非常におおらかで力強い。戦後復興のけん引力になるような形の書き方をしている」と語る』。『齋木教授は「これまで山之口貘の作品に対する関心は大人を対象としたものに限られ、児童文学については関心が低かった。これを機に貘の児童文学にも関心が高まるとうれしい」と話している』(高良由加利氏の上記記事より抜粋)。

以下、同記事に掲載された山之口貘作「キカンシャ」――



 キカンシャ
    山之口 貘
オトナノ
キカンシヤ
オオキナ
オカオ ダ
ハコニ
イツパイ
ミンナヲ ノセテ
ツヨイ
チカラ ダ
オトナノ
 キカンシヤ
テツノ
オカオ ダ
オオキナ
オカオ ダ

食ひそこなつた僕   山之口貘

 食ひそこなつた僕

 

僕は、何を食ひそこなつたのか!

 

親兄弟を食ひつぶしたのである

女を食ひ倒したのである

僕をまるのみしたのである

 

どうせ生きたい僕なんだから何を食つても生きるんだが

食へば何を食つても足りないのか

いまでは空に脊を向けて

物理の世界に住んでゐる

泥にまみれた地球をかじつてゐる

 

地球を食つても足りなくなつたらそのときは

風や年の類でもなめながら

ひとり、宇宙に居のこるつもりでゐるんだよ


[やぶちゃん注:【2014年6月14日追記:ミス・タイプを補正し、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を附した】初出は昭和一〇(一九三五)年九月号『行動』(紀伊国屋出版部発行)に後の「光線」と同時掲載され、二年後の一九三七年十月八日附『琉球新報』に『山之口バク詩集より』として再掲されているが、この時未だ処女詩集「思辨の苑」は刊行されていないから、これは未刊詩集からという謂いになる(同詩集の刊行は翌一九三八年八月)。「定本 山之口貘詩集」では、


 食ひそこなつた僕


僕は、何を食ひそこなつたのか!


親兄弟を食ひつぶしたのである

女を食ひ倒したのである

僕をまるのみしたのである

どうせ生きたい僕なんだから何を食つても生きるんだが

食へば何を食つても足りないのか

いまでは空に脊を向けて

物理の世界に住んでゐる

泥にまみれた地球をかじつてゐる


地球を食つても足りなくなつたらそのときは

風や年の類でもなめながら

ひとり 宇宙に居のこるつもりでゐるんだよ


と、第一連と第二連が繋がって、最終行の読点が除去されている。]

存在   山之口貘

 存在

 

僕らが僕々言つてゐる

その僕とは、僕なのか

僕が、その僕なのか

僕が僕だつて、僕が僕なら、僕だつて僕なのか

僕である僕とは

僕であるより外には仕方のない僕なのか

おもふにそれはである

僕のことなんか

僕にきいてはくどくなるだけである

 

なんとなればそれがである

見さへすれば直ぐにも解る僕なんだが

僕を見るにはそれもまた

もう一廻はりだ

社會のあたりを廻はつて來いと言ひたくなる。


[やぶちゃん注:初出は一応、昭和一一(一九三六)年五月号『現代詩』であるが、この雑誌は詳細が不詳である(参考データは思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題に載るので参照されたい)。

 原書房刊「定本山之口貘詩集」では十四行目が、

もう一廻りだ

に、十五行目が、

社會のあたりを廻つて來いと言ひたくなる。

に改稿されており、総ての句読点が除去されている。【2014年6月14日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、注の一部を改稿した。]

2014/02/25

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 森戸の浦

    ●森戸の浦

西岸堀内海濱の總稱にして前は相模灘を隔てゝ遙かに伊豆の翠黛を相對し、海上數町の處には名島の小島嶼(せうとうしよ)點在し、富岳函嶺悉く眉宇の間に集まり、風光絶佳、個人の咏歌多し、海水浴場の設けあり、舟を浮べて棹(さをさ)すに、危巖潮痕斑らに、亂礁欹つ處石門を形(な)し、巨浪常に其窩を洗ひ、鱗族(りんぞく)簸弄(ひろう)せられて潑溂たるも快。

[やぶちゃん注:何だか小難しい漢語を連ねた妙に気張った文体である。ヘン。何度か訪れたことがあるが(一度は同僚の手伝いで正式許可を受けた上での「生物」の授業の人工放精実験用のウニ採取のために深夜に行った)、現在は後の関東大震災による隆起と戦後の海岸部の開発で、この頃と比べるとかなり変容してしまったと考えた方がよい。

「名島」「なしま」と読む。後掲される。

「數町」一町は約一〇九メートル。名島は約七〇〇メートル沖にある。

「函嶺」箱根の旧別称。

「眉宇」は「びう」で、「宇」は軒(のき)、眉(まゆ)を目の軒と見立てた謂いで、眉の辺り又は眉を指す。

「欹つ」は「そばだつ」と訓ずる。

「簸弄」の読みは「はろう」が正しい。もてあそぶの意。

「潑溂」ここでは、魚の生き生きと飛び跳ねるさまの謂い。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 23 日本料理屋での晩餐と芸妓の歌舞音曲そして目くるめく奇術師の妙技

M320
図―320

 晩方早く、日本の料理屋へ食事に来ないかという招待には、よろこんで応じた。我々は二階へ通され、部屋部屋の単純な美と清潔とを、目撃する機会を得た。このホテルは(若しホテルといい得るならば)、東京の、非常に人家の密集した部分にあるのだが、それでも庭をつくる余地はあった。その庭には、まるで天然の石陂(いあわだな)がとび出したのかと思われる程、セメントで密着させた、大きな岩石の堆積があった(図320)。その上には美しい羊歯(しだ)や躑躅(つつじ)が一面に生え、天辺(てっぺん)には枝ぶりの面白い、やせた松が一本生えていた。岩には洞穴があり、その入口の前には小さな池があった。我々以外はすべて日本人で、その殆ど全部が知人だったが、幸福な愉快な人々ばかり。私の小さな伜と、誰かしら絶えず跳ね廻っていない時は無かった位である。日本人の教授の外に、新聞記者が一人いたが、彼は気高い立派な人であった。彼等は皆和服を着ていた。これは彼等にとっては、洋服よりも遠かに美しい。服部氏は夫人を、江木、井上両氏は母堂を同伴された。

[やぶちゃん注:「石陂」音「せきは」で原文は“ledge”。「陂」は坂・堤の他に岸の意があり(現代中国語では他に池塘の意がある)、石川氏はそうした突出した崖、切岸の謂いで用いているようである。翻って英語の“ledge”はというと、壁や窓から突き出た棚、岩壁側面や特に岸に近い海中の岩棚の意である。

「服部」法理文三学部綜理補(予備門主幹兼任)服部一三。既注。

「江木」東京大学予備門英語教諭江木高遠。既注。

「井上」東京大学法学部教授(イギリス法律学担当)井上良一。既注。]

M321

図―321 

 正餐の前にお茶と、寒天質の物にかこまれた美味な糖菓とが持ち出され、後者を食う為の、先端の鋭い棒も出された。床には四角な、莚に似た布団が一列に並べられ、その一枚一枚の前には、四角いヒバチが置かれた。布団は夏は藁で出来ているが、冬のは布製で綿がつめてある。食事は素晴しく、私も追追日本の食物に慣れて来る。私は砂糖で煮た百合の球根と、塩にした薑(しょうが)の若芽とを思い出す。日本のヴェルミセリを盛った巨大な皿が出て、これは銘々自分の分を取って廻した。蕪の一種を薄く切ってつくった、大きな彩色した花は、非常に自然に見えたので、私はそれを真正の花に違いないと思った(図321)。日本人は食卓の為のこのような装飾的な細工を考え出して、彼等の芸術的技巧を示す。彼等の食物は常にこのもしい有様で給仕され、町で行商される食物にさえも、同様な芸術があらわれている。

[やぶちゃん注:この献立は前のものに比べて不思議に同定がし易い。

「寒天質の物にかこまれた美味な糖菓とが持ち出され、後者を食う為の、先端の鋭い棒も出された」羊羹とおそらくはクロモジの楊枝である。

「塩にした薑の若芽」矢生姜(はじかみ)。

「日本のヴェルミセリ」原文“Japanese vermicelli”。「ヴエルミセリ」は底本では直下に石川氏の『〔西洋索麪(そうめん)〕』という割注が入る。「麪」は「麺」に同じで、「索麪」は素麺・索麺と同義。「“vermicelli”イタリア語語源の英語で、一般には「バーミチェリ」「バーミセリ」と表記し、所謂、通常のスパゲッティよりも細いパスタのこと。イタリア語の原義は「細長い虫」。]

M322

図―322 

 食事中、三味線を持った娘が二人と、変な形の太鼓を持った、より若くて、奇麗な着物を着たのが二人と、出現した。一人は砂時計の形をした太鼓を二つ持ち、その一つを左の腋にはさみ、他は左手で締め紐を持って、右肩にのせた。この二つを、右手で、代る代るたたくのだが、それは手の腹で辺を打ち、指が面皮に跳ね当るのである。音は各違っていた。別の娘の太鼓は我々のと同じ形で、写生図(図322)にあるように、傾斜して置かれた。これは丸い棒で叩く。彼等は深くお辞儀をしてやり始め、私が生れて初めて聞いたような、変な、そしてまるで底知れぬ音楽をした。三味線を持った二人は、低い哀訴するような声で歌い、太鼓がかりは時々、非常に小さな赤坊が出すような、短いキーキー声と諸共に、太鼓を鳴らした。この歌が終ると、小さい方の二人が姿態舞踊をやった。ある種の姿勢と表情からして、ジョンはこの二人を誇りがましいと考えた。時々彼等が、特に人を莫迦にしたような顔をしたからである。美麗な衣装と、優雅な運動とを伴うこの演技は、すべて実に興味が探かったが、我々は彼等がやっている話の筋を知らず、また動作の大部分が因襲的なので、何が何だか一向判らなかった。舟を漕いだり、泳いだり、刀で斬ったりすることを暗示するような身振もあった。彼等が扇子をひねくり廻す方法の、多種多様なことは目についた。これが済むと、三つにはなっていないらしい、非常に可愛らしくて清潔な女の子が二人、この上もなく愛くるしい様子をして、我々の方へやって来た。ジョンは彼等に近づこうとしたが、彼等は薄い色の捲毛を持った小さな男の子が現れたので吃驚仰天し、そろってワーツと泣き出して了い、とうとう向うへ連れて行かれて、いろいろとなだめすかされるに至った。

[やぶちゃん注:芸者遊びをしたことがない私にはこれらの舞踊を同定出来ない。通人の御教授を乞いたい。

「砂時計の形をした太鼓を二つ」図で分かるように一つが小鼓で、もう一つが大鼓。

「ある種の姿勢と表情からして、ジョンはこの二人を誇りがましいと考えた。時々彼等が、特に人を莫迦にしたような顔をしたからである」原文“From certain attitudes and expressions John thought they felt proud ; for at times they would make a peculiarly contemptuous sort of face.”。“proud”は「尊大な」という訳の方がしっくりくる気がする。これは芸妓の舞踊の見えを切る型を指しているように思われるが、誇り高い江戸以来の芸者気質をも伝えて、これはこれでいい感じである。

「三つにはなっていないらしい、非常に可愛らしくて清潔な女の子」芸妓附きの禿(かむろ/かぶろ)と思われるが、「三つにはなっていないらしい」という推測はやや若過ぎる気がする。]

M323

図―323 

 次に我々は、手品を見せて貰った。最初男の子が、この演技に使用する各種の道具を持って、入って来た。彼は舞台で下廻がかぶるような、黒いレースの頭覆いの、肩の下まで来るのをかぶっていた。次に出て来たのは手品師で、年の頃五十、これからやることを述べ立てて、長広舌をふるった。そこで彼は箸二本を、畳の上のすこしへだたった場所へ置き、しばらくの間それを踊らせたり、はね廻らせたりした。続いて婦人用の長い頭髪ピンを借り、それも同様に踊らせたあげく、今度は私の葉巻用パイプを借りて、それをピョンピョンさせた。彼は紙をまるめて、粗雑に蝶々の形にし、手に持った扇であおいで空中に舞わせ、もう一つ蝶をつくり、両方とも舞わせ、それ等を頭の上の箱にとまらせさえした。勿論これ等の品は、極めて細い綿糸で結んであるのだが、糸は見えず、手際はすこぶるあざやかだった。手品の多くは純然たる手技で、例えば例の蝶の一つをとってそれをまるめ、片手に持った扇で風を送って、紙玉から何百という小紙片を部屋中にまき散した如き、手を一振振って、十数条の長い紙のリボンを投げ出し、それを片手で、いくつかの花絲にまとめて火をつけると、熖々たる塊の中から、突如大きな傘が開いた如き、いずれもそれである。これ等の芸は、すべて非常な速度と、巧妙さとで行われた。その後彼は我々の近くへ来て、色な品物を神秘的に消失させたり、その他の手技を演じたりした。日本人は実に楽しそうだった。彼等は子供のように、心からそれを楽しみ、大声で笑ったりした。引き続いて、井上氏が簡単に歓迎の辞を述べ、私は謝辞を述べねばならなかった。我々が帰宅したのは真夜中に近く、子供達は疲れ果て、私の頭も、その晩見た不思議な光景で、キリキリ舞いをしていた。図323は手品師の心像である。

[やぶちゃん注:「心像」は「しんぞう」で、原文は“an idea”。大まかな概念的スケッチの謂い。「心像」は“image” の訳語で「表象」「心象」又はそのまま「イメージ」で訳としてここは実に自然にはなるのだが、“image”という語は元来が過去の経験や記憶などから具体的に心の中に思い浮かべたもの、ここではそうした視覚的心像に相当するものを指すのであって、スケッチ魔のモースがその場か、あまり時間の経たぬうちにさっと描いたであろうこの図のような、彼が言う“idea”の訳語としては私には必ずしも相応しいとは思われないのである。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(5)

     白百合の君と別れし夜

     よめる

み別れに奉る夜のましろ百合

君を一人の姉とも知れな

 

君は去りぬ殘るはわれと小さき世の

月も月かは花は花かは

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十六歳の時、『文庫』第二十四巻第三号(明治三六(一九〇三)年十月発行)に「上毛 美棹」名義で掲載された九首の三首目、

 君は去りぬ殘るは吾と小さき世の月も月かは花は花かは

と分かち書きを除けば相同歌。]

 

その舟よ我等が棹にとゞめあへず

ついに空しく流れて去りにき

 

[やぶちゃん注:「ついに」はママ。]

 

大御代はこゝに美し春は戀に

かたちどられて咲く櫻花

 

足んぬ智はあへて願ふ歌の幸(さち)

來ん世思はずいらず桂も

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の『文庫』第二十五巻第六号(明治三七(一九〇四)年四月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された九首の六首目、

 足んぬ智は、敢えてしねがふ歌の幸。來む世思はず、欲らず桂も。

の類型歌。]

 

才(ざえ)たらで御國はぐゝむ歌もなし

身は弱うしてよる胸もなし

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十六歳の時の、『明星』卯年第十一号・明治三六(一九〇三)年十一月号の「紗燈涼語」欄に「萩原美棹(上毛)」の名義で掲載された三首の第二首目、

 かよわくて御國(みくに)はぐくむ歌もなし身は孤獨(ひとり)にてようる胸もなし

の類型歌。]

 

この戀よ亂れて末は知らなくに

おどろにまとふ紅づたのごと

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首の十一首目、

 この戀よ、亂れて末は知らなくに、おどろにまとふ紅づたのごと。

の表記違いの相同歌。]

 

草に伏して美しひとは泣きもやまず

別れもあへず野は暮れせまる

 

[やぶちゃん注:前歌と同じく、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首の十一首目、

 草に伏して美し人は泣きもやまず、別れもあへず、野はくれせまる。

の表記違いの相同歌。]

飯田蛇笏 靈芝 大正六年(二十五句)

   大正六年(二十五句)

 

臼音も大嶺こたふ彌生かな

 

戀ざめの詩文つゞりて彌生人

 

還俗の咎なき旅や花曇り

 

雪解や渡舟に馬のおとなしき

 

 大黑坂昌應寺、一句

 

ゆく春や僧に鳥啼く雲の中

 

[やぶちゃん注:「大黑坂」は現在の山梨県笛吹市境川町大黒坂と思われるが、「昌應寺」は恐らく同所にある甲斐百八霊場第四十四番臨済宗長国山聖応寺の誤りと思われる。]

 

梅若忌日も暮れがちの鼓かな

 

[やぶちゃん注:「梅若忌」は一般には「うめわかき」と読む。謡曲「隅田川」中の悲劇の少年梅若丸(北朝頃の京は北白川の吉田少将惟房の子であったが人買いに攫われて東国に下るも隅田川辺で病死した)の忌日とされる陰暦三月十五日(現在は四月十五日)に現在の東京都墨田区にある梅若丸由縁の天台宗梅柳山木母寺で修される。春の季語。]

 

屠所遠く見る吊り橋や竹の秋

 

  山ノ神祭典、一句

いにしへも火による神や山櫻

 

三伏の月の穢に鳴く荒鵜かな

 

[やぶちゃん注:「三伏」は「さんぷく」と読み、夏の最も暑い時期のこと。夏至後の第三の庚(かのえ)の日を「初伏」とし、第四のそれを「中伏」、立秋後の最初のそれを「末伏」と呼んでその三つを合わせていう語。]

 

笛ふいて夜凉にたへぬ盲かな

 

ながれ藻にみよし影澄む鵜舟かな

 

蚊の聲や夜深くのぞく掛け鏡

 

浮き草に間引きすてたる箒かな

 

流水にたれて蟻ゐる苺かな

 

日向葵に鑛山(やま)びとの着る派手浴衣

 

秋の晝ねむらじとねし疊かな

 

酒坐遠く灘の巨濤も秋日かな

 

森低くとゞまる月や秋の幮

 

[やぶちゃん注:「幮」は既出。「かや」と読む。]

 

灯ともして妻の瞳黑し秋の幮

 

[やぶちゃん注:「瞳」は「め」と読んでいる。「山廬集」に、

 

 灯して妻の眼黑し秋の幮

 

とある。]

 

寢てすぐに遠くよぶ婢や秋の幮

 

山蟻の雨にもゐるや女郎花

 

[やぶちゃん注:「山廬集」には、

 

 山蟻の雨にもゐるやをみなへし

 

と載る。]

 

芋の葉や孔子の教今も尚

 

[やぶちゃん注:句意不通。これはこの句が詠まれた村の名であるとか若しくは特定の風習と関わるか。識者の御教授を乞うものである。]

 

かりくらや孟春隣る月の暈

 

月入れば北斗をめぐる千鳥かな

 

  龍安寺法會

月明に高張たちぬ萩のつゆ

 

[やぶちゃん注:「高張」長い竿の先につけて高く掲げる高張提灯(たかはりぢょうちん)のことか。]

篠原鳳作句集 昭和七(一九三二)年一月から二月

昭和七(一九三二)年

 

霜圍ひされし芭蕉と日向ぼこ

 

[やぶちゃん注:一月発行の『馬酔木』発表句。前掲の前月『不知火』発表の「からからに枯れし芭蕉と日向ぼこ」の改稿かとも思われる。]

 

掃くほどのちりもなかりし御墓かな

 

西郷どんと眠りゐる墓掃きにけり

 

[やぶちゃん注:鹿児島市上竜尾町にある南洲墓地。西南戦争で戦死した西郷隆盛を始めとして二千二十三名の将士の墓が錦江湾の入口を向いて眠っている。]

 

島人や重箱さげて墓參り

 

掃苔やこごみめぐりに祖の墓

 

[やぶちゃん注:「祖」は「おや」と訓じていよう。]

 

屋根解くや誰が誰やら煤まみれ

 

[やぶちゃん注:以上六句は一月の発表句。]

 

美しき人の來てゐる展墓かな

 

[やぶちゃん注:「展墓」は「てんぼ」と読み、墓参りをすること。墓参。「展」は原義の一つ「見る」からこれ自体で「墓参りをする」の意を持つ。有季俳句では八月十三日の盂蘭盆会の墓参で秋の季語であるが、鳳作のこれは二月の発表句であり、そんな意識は毛頭ない。しかもこれは間違いなく宮古の新春の嘱目吟、参っている墓は亀甲墓で、そこに佇む美人は南国沖繩の美人(ちゅらかーぎー)でなくてはならぬ。]

 

千鳥釣る童等がいこへる礁かな

 

[やぶちゃん注:ここでの「礁」は恐らく海中の岩を指す和語で、「いくり」と訓じているものと思われる。]

 

土の上に地圖ひろげあるキヤンプかな

 

[やぶちゃん注:以上三句は二月の発表句。]

僕の詩   山之口貘

 僕の詩

 

僕の詩をみて

女が言つた

 

ずゐぶん地球がお好きとみえる

 

なるほど

僕の詩 ながめてゐると

五つも六つも地球がころんでくる

 

さうして女に

僕は言つた

 

世間はひとつの地球で間に合つても

ひとつばかりの地球では

僕の世界が廣すぎる。


[やぶちゃん注:初出は昭和一三(一九三八)年二月発行の『むらさき』であるが、本詩集の逆編年体の順列からは前後数篇の詩の初出を見ると一見齟齬があるように見えるが、バクさんは本詩集後記で『作品の配列を、卷尾の方から卷頭へと製作順にして置いた』とあって発表順とは述べておらず、バクさんが恐るべき長時間をかけて推敲することから、これらは確かに製作順なのである。松下氏の書誌データには『掲載誌の目次タイトルは「私の詩」。「詩」に「うた」のルビあり』とある。

 「定本 山之口貘詩集」では最終行の句点は除去されている。【2014年月日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、注を一部改稿した。

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 枯るる墓地

 枯るる墓地

 

わが手向冬菊の朱を地に點ず

 

閼伽の水豐かに冬の日とも思へず

 

墓地をゆき黑き手套をぬがざりき

 

[やぶちゃん注:「手套」は「しゆたう(しゅとう)」と読む。無論、手袋のこと。]

不思議をおもふ   八木重吉

たちまち この雜草の庭に ニンフが舞ひ

ヱンゼルの羽音が きわめてしづかにながれたとて

七寶莊嚴の天の蓮華が 咲きいでたとて

わたしのこころは おどろかない、

倦み つかれ さまよへる こころ

あへぎ もとめ もだへるこころ

ふしぎであらうとも うつくしく咲きいづるなら

ひたすらに わたしも 舞ひたい



[やぶちゃん注:「七寶莊嚴」は底本では「七寶壮嚴」であるが、これは誤字若しくは誤植であるから、例外的に訂した。]

杉田久女句集 81 季語嫌いの僕が敢えて評釈するとこうなるという例



寂しがる庵主とありぬ唐菖蒲

 

[やぶちゃん注:「唐菖蒲」は通常は「とうしやうぶ(とうしょうぶ)」で単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科グラジオラス属 Gladiolus に属するグラジオラス類。本邦には自生しない。オランダショウブ(阿蘭陀菖蒲)ともいう。属名はラテン語で古代ローマの「剣」の意“Gladius”(グラディウス)で葉が剣に似ることに由来するとされる。日本では明治時代に輸入されて園芸種として栽培されている。夏期七~八月にかけて開花する春植え球根として流通しているものが一般的で、晩夏の季語としている(以上はウィキの「グラジオラス」に拠る)。春咲き品種もあり、それを読んだら春であることを句や前書に記さねばならぬのを有季俳句の掟とするのなら、こんな馬鹿馬鹿しいことはない。]

 

子犬らに園めちやくちやや箒草

 

[やぶちゃん注:「箒草」は個人的には「ははきぐさ」と読みたい。ナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ Bassia scoparia。黄緑色の小花を穂状につける晩夏に合わせて季語としているが、秋の鮮やかに赤く色づく頃こそ歳時記としては相応しいように季語嫌いの私としては強く感じる。]

 

つれづれの小簾捲きあげぬ濃紫陽花

 

[やぶちゃん注:「濃紫陽花」無論、ミズキ目アジサイ科アジサイアジサイ節アジサイ亜節アジサイ Hydrangea macrophylla で濃紫陽花(こいあじさい)なる種が存在するわけではない。俳句では比較的よく見かける語であり、仲夏の季語とするらしいが、この語、一見、情緒的には響きはよいが、すこぶる非博物学的でいい加減な俳語(季語)である。その証拠にこの紫陽花の色は読者によって紫陽花の別名の文字通り、「七変化」「八仙花」「四葩変化(よひらへんげ)」することになるからである(私は鑑賞者の自在勝手でそれはそれでよいと思う人間だが伝統俳句でそんな許容は噴飯物であろう)。「万葉集」に既に現れる「味狹藍・安治佐爲」(あぢさゐ。源順(したごう)の「和名類聚抄」では「阿豆佐爲」の字を当てている)という語の語源説の有力な一つは、「あづ」(集まる)に「さあい」(真の藍色)から生まれたとすることや「赤」「紫」ではなく一般的には青や空色が「紫陽花」(但し、ウィキの「アジサイ」によれば、『日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている』とある)の一般的な嘱目の色彩イメージであると考えれば、「赤」や「濃い紫」ひいては「白」を心象像に交えてはいけないことになるのであろうか? ところがそもそもが「濃」とつけるのはその発色が最も鮮烈であることを指すから、例えば久女の句としてこの句をイメージするのに「赤」をそこから排除することは私には到底あり得ない。ところが、諸記載を見るとやはり俳諧サイトでは「濃紫陽花」とは濃い青の種を指すとする見解が主流のように見受けられる。そんな最大公約数的な陳腐感覚の歳時記事大絶対主義こそ非芸術的であり非博物学的であり非科学的であると私は断ずるものである。]

 

箒目に莟をこぼす柚の樹かな

 

[やぶちゃん注:ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン属ユズ Citrus junos。五月頃に花が咲き、六~七月頃に実成、秋に黄色く色づくが、その時期で晩秋の季語とするらしい。二月末の今も私の家の下の庭には芳しい柚子の実はたわわに実っているというのに。]

 

蓮咲くや旭まだ頰に暑からず

 

[やぶちゃん注:歳時記では「蓮」は晩夏だそうである。この句は晩夏の句ではない。寧ろ「旭まだ頰に暑からず」こそが、総て季の詞ならざるものなしと喝破した芭蕉の言った優れた真正の「季の詞」というべきである。季語とは一箇の句の内的世界に於いて自然に湧き出る自然の持った本来的なパトスであると私は思っているのである。]

 

水暗し葉をぬきん出て大蓮華

 

日を遮る廣葉吹きおつ日ごと日ごと

 

汲みあてゝ花苔剝げし釣瓶かな

 

[やぶちゃん注:「花苔」(はなごけ)は仲夏の季語だそうである。無論、俳諧で用いられる「花苔」はそんな「生物種」を指しているわけではない(但し、蘚苔類ではなく地衣類に生物種としてのハナゴケ科ハナゴケ属 Cladonia rangiferina は存在する。極地及び温帯の高山帯に分布し体は灰白色、密に繰り返し分枝して長さ五センチメートル以上の樹枝状となっている。別名トナカイゴケとも。因みにこれを有季定型として詠んだ場合は「ハナゴケ」と片仮名表記した上、前書きに「Cladonia rangiferina を詠める」と記して、しかも句中には別の季語を配して初めて有季定型俳句として許されるということになる)。この「花苔」とは蘚類・苔類・ツノゴケ類(以上三類を蘚苔類とする)・地衣類から立ち上がる生殖器官としての胞子体等の視認形態(苔類では雌器床・雄器床、蘚類・地衣類では胞子嚢)の総称で、梅雨の頃に形成された白色や薄紫色のそれを「花」に見立てて言った語である。]

 

瓜一つ殘暑の草を敷き伏せし

 

[やぶちゃん注:……ああ、いいな……この句!]

2014/02/24

杉田久女句集 80 針もてばねむたきまぶた藤の雨

針もてばねむたきまぶた藤の雨

杉田久女句集 79 簀戸たてゝ棕梠の花降る一日かな

   虛子先生御來關 下ノ關にて

簀戸たてゝ棕梠の花降る一日かな

 

[やぶちゃん注:「簀戸」は「すど」で葭簀(よしず)を張った戸で、「棕櫚」とともに夏の季語である。季節と場所及び年譜の記載からは、大正八(一九一九)年五月の年譜にある『虚子先生歓迎関門俳句大会(下の関市三日会倶楽部)出席』の折りの句と思われる。久女二十九歳。]

杉田久女句集 78 葉がくれに星に風湧く槐かな

葉がくれに星に風湧く槐かな

杉田久女句集 77 茄子 牛蒡



富家の茄子我つくる茄子に負けにけり

 

月に出て水やる音す茄子畠

 

牛蒡葉に雨大粒や竿入るゝ

もうじきやってくるのは

君の退屈じゃあ――ない

僕の退屈――

僕はすっかりつまらない

あんたのそれより

遙かにつまらない――「それ」――だ……

數學   山之口貘

 數學

 

安いめし屋であるとおもひながら腰を下ろしてゐると、側にゐた靑年がこちらを降り向いたのである。靑年は僕に酒をすゝめながら言ふのである

アナキストですか

さあ! と言ふと

コムミユニストですか

さあ! と言ふと

ナンですか

なんですか! と言ふと

あつちへ向き直る

この靑年もまた人間なのか! まるで僕までが、なにかでなくてはならないものであるかのやうに、なんですかと僕に言つたつて、既に生れてしまふた僕なんだから

僕なんです

 

うそだとおもつたら

みるがよい

僕なんだからめしをくれ

僕なんだからいのちをくれ

僕なんだからくれくれいふやうにうごいてゐるんだが見えないのか!

うごいてゐるんだから

めしを食ふそのときだけのことなんだといふやうに生きてゐるんだが見えないのか!

生きてゐるんだから

反省するとめしが咽喉につかへるんだといふやうに地球を前にしてゐるこの僕なんだが見えないのか!

 

それでもうそだと言ふのが人間なら

靑年よ

かんがへてもみるがよい

僕なんだからと言つたつて、僕を見せるそのために死んでみせる暇などないんだから

僕だと言つても

うそだと言ふなら

神だとおもつて

かんべんするがよい

 

僕が人類を食ふ間

ほんの地球のあるその一寸の間

 

[やぶちゃん注:前掲の通り、初出は昭和一〇(一九三五)年二月号『文藝』(改造社)で前の「座布團」とともに総題「數學」二篇の一篇として掲載された。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では句読点が総て除去されて当該箇所は総て一字空けとなっている。

 この詩、個人的に非常に好きである。私も人生の中でこの「まるで僕までが、なにかでなくてはならないものであるかのやうに」誰も彼もから要求され、「なんですかと僕に言」われたって、「既に生れてしまふた僕なんだから/僕なんです」と答えざるを得ないではないかという違和感をずっと感じ続けてきたからである。【2014年6月13日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した。その際、注に一部追加をした。

北條九代記 株瀨川軍 付 關東勢手賦 承久の乱【二十】――株瀬川の戦い後の幕府軍配備の一件

さる程に、東山、東海兩道の軍勢一つになりて、上りければ野も山も兵共(つはものども)充滿(みちみち)て、幾千萬とも數知らず。野上、埀井に陣を取り、爰にて軍の手賦(てくがり)をぞ致されける、「相摸守時房は、勢多へ向ひ給ふべし。供御瀨(ぐごのせ)へは、武田〔の〕五郎、宇治〔の〕渡(わたり)は武藏守泰時、一口(いもあらひ)へは毛利藏人入道、淀渡(よどのわたり)は駿河守義村向はれ候へ」とさだめられし所に、相模守の手の者に、本間兵衞尉〔の〕忠家と云ふもの進み出でて申しけるは、「駿河守殿は惡くも討ひたまふものかな、相摸守殿の若黨等(ら)には、軍をなせそと思し候か、如何なる心にて、かくはあてがひたまふやらん」と申しければ、義村申されけるやうは、「某(それがし)當家に久しきものなり。關東より、斯樣(かやう)の事をも計(はから)ひ申せとて、上洛せしめ給ふ、我往初(そのかみ)より御大事には度々に逢うて多くの事共見置きて候。平家追討の時、關東の兵共を差上せられ候ひしに、勢多へは三河守範賴、宇治へは九郎判官義經向はせ給ひ、上下の手にて平家を追落し、軍に打勝(うちかた)せ給ひて候。是は先規(せんき)の御吉例なれば、かく手賦は致して候、軍(いくさ)せさせじとは思ふべき事にても候はず、然るを斯樣に申さるゝ條存外の至(いたり)に候。勢多へは敵の向ふまじきにて候歟。軍は何所(いづく)も嫌はず、只兵の心にあるべきものを」と申されしかば、本間は、兎角申すに及ばず、赤面して引退(ひきしりぞ)く。「用なき咎事(とがめごと)かな」と笑ふ人も多かりけり。北陸道は、小笠原〔の〕次郎を大將として、千葉介、筑後〔の〕太郎左衞門尉、中沼〔の〕五郎、伊吹七郎を差添へられ、都合一萬餘騎、小關(こぜき)より伊吹山の腰を廻り、湖水の西を近江路指して攻(せめ)上らる。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十】――株瀬川の戦い後の幕府軍配備の一件〉

「野上、埀井」美濃国不破郡野上は同郡東の垂井と同郡西の関ヶ原の間に当たる。

「供御瀨」近江国供御瀬は現在の滋賀県大津市の瀬田川筋。供御瀬とは朝廷へ献じる魚を獲る場所の意。

「一口」芋洗。現在の京都府久御山町。

「先規の御吉例」三浦義村は、頼朝卿の両弟君が挟撃して美事、平家に勝ったことを引き合いに出し、同じように義時の長子泰時とその子時氏を宇治に、義時弟時房を勢多に配して朝廷軍を挟み撃ちにすることが目出度い先例に基づくことを述べたのである。

「北陸道」この箇所、増淵氏は、『(遅れている)北陸道(の式部丞朝時しきぶのじょうともとき)の許)へ』、以下の兵を友軍として送った旨の補助訳をなさっておられる。以下の「承久記」を参照のこと。

 

以下、「承久記」(底本の編者番号50のパートの中ほどから最後まで)の記載。

 

 東海道ノ大勢一ニ成テ上リケレバ、野モ山モ兵共充滿シテ、幾千萬上京數ヲ不ㇾ知。野上・埀井ニ陣ヲ取テ、軍ノ手分ヲセラレケルハ、「相模守殿ハ勢多へ向ハセマシマシ候へ。供御ノ瀨ハ武田五郎向ハレ候へ。宇治へハ武藏守殿向ハセ給ヒ候へカシ。芋洗へハ毛利藏人入道殿向ハレ候ベシ。義村ハ淀へ罷向候ハン」ト申セバ、相模守殿ノ手者、本間兵衞尉忠家進出テ申ケルハ、「哀レ、駿河守殿ハアシウ被ㇾ申物哉。相模殿ノ若黨ニハ軍ナセソト存テ被ㇾ申候カ」。駿河守、「此事コソ心得候ハネ。義村昔ヨリ御大事ニハ度々逢テ、多ノ事共見置テ候。平家追討ノ時、關東ノ兵共被差上候ヒシニ、勢多へハ駿河守殿向ハセ御座シテ、宇治へハ九郎判官殿向ハセ給ヒ、上下ノ手ニテヲヤカタニテ、平家ノ都ヲ追落シ、輙ク軍ニ打勝セ給フ。是ハ先規モ御吉例ニテ候へバト存テコソ、加樣ニハ申候へ。爭カ軍ナセソト思ヒテ、角ハ可ㇾ申候。加樣ニ被ㇾ申條、存外ノ次第ニ候條、勢多へハ敵ノ向フマジキニテ候歟。軍ハ何クモヨモ嫌ヒ候ハジ。只兵ノ心ニゾ可ㇾ依」ト申ケレバ、本間兵衞尉、始ノ申狀ニハ由々敷聞へツレ共、兎角申ヤリタル方モナシ。武藏守安時ハ、駿河守ノ議ニ同ゼラル、時ニ、「宇治へ向ハンズルト皆人々被ㇾ向候べシ。但、式部丞北陸道へ向ヒ候シガ、道遠ク極タル難所ニテ、未著タリ共聞へ候ハズ。都へ責入ン日、一萬透テハアシカリナン。小笠原次郎殿、北陸道へ向ハセ給へ」。「長淸ハ、山道ノ惡所ニ懸テ馳上候ツル間、關太良ニテ馬共乘ツカラカシ、肩・背・膝カケ、爪カヽセテ候。又大炊渡ニテ若黨共手負セテ候へバ、叶ハジ」ト申ケレバ、武藏守、「只向ハセ給へ。勢ヲ付進ラセン」トテ、千葉介殿・筑後太郎左衞門尉・中沼五郎・伊吹七郎、是等ヲ始テ一萬騎被ㇾ添バ、小關ニ懸リテ伊吹山ノ腰ヲスギ、湖ノ頭ヲヘテ西近江、北陸道へゾ向ケル。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 四 精蟲 (1)レーウェンフックによる発見

     四 精蟲

Hitonoseisi
[人間の精蟲]

  卵には大きなものや小さなものがあるが、最も小さな卵でも細胞としては餘程大きい。人間の卵などは卵の中では隨分小さな方であるが、それでも肉眼で見えるから、普通の細胞が皆顯微鏡的であるのに比べると、なほ頗る大きいといはねばならぬ。されば最も小さな卵の外は昔から誰でもよく知つて居たが、その相手となるべき精蟲の方は、細胞の中でも特に小さく、且形狀も普通の細胞とは著しく違ふから、その發見せられ了解せられたのも、卵に比べて遙に新しいことである。抑々精蟲の初めて見付けられたのは、今から二百何十年か前のことで、恰もオランダ國で顯微鏡が發明せられて間もない頃とて、何でも手當たり次第に覗いて見て居る中、或る時一人の若い學生が、屠處から新しい羊の睾丸を貰うて來て、その汁を擴大して見た所が、單に濁った粘液の如くに思うて居た物の中に、小さな粒が無數に活潑に游いで居るので、大に驚いて早速師匠のレウエンフークといふ人に知らせた。この人は、水中の微生物などを顯微鏡で調べ、悉く寫生して大部な書物を著したその頃の顯微鏡學の大家であつたが、かやうなものは初めて見ること故、素よりその眞の素性を知る筈はなく、たゞ運動が活潑で、如何にも生きた動物らしく見える所から推して、これを寄生蟲と鑑定し、精液の中に棲んで居るから、「精蟲」といふ名を附けた。即ち精蟲の實物を見ることは見たが、これを「さなだむし」や「ヂストマ」などの如き偶然の寄生蟲と見做し、これが卵と相合して新な一個體を造るべき、生殖上最も重要な細胞であらうとは夢にも心附かなかつたのである。

[やぶちゃん注:「レウエンフーク」アントニ・ファン・レーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek 一六三二年~一七二三年)。オランダの顕微鏡学者。生れ故郷デルフトで織物商を営み、後には市の下級役人として勤めた一方、独特の構造をもった単レンズ顕微鏡を製作、原生動物・細菌・淡水性藻類等の微生物(一六七四年)及び魚類の赤血球の核(一六八二年)や横紋筋の微細構造(一六八三年)等の多数の新発見の含まれる手紙を五十年に亙ってロンドン王立協会等に書き送り続けた。中でもヒトの精子の発見(一六七七年)は精原説に物的根拠を与えた他、水中を泳ぎ廻る夥しい数の微生物の存在は当時の人々に大きな衝撃を与え、ピョートル大帝・ジェームズ二世などオランダ内外の著名人が顕微鏡を覗きにデルフトに集まったという(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。レーウェンフックの名は、小学校三年生の時にポール・ド・クライフの「微生物を追う人々」(成人向けの「微生物の狩人」の小学生版)を貪るように読んだ時以来、私の中の永遠の偉人の名であり続けている。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 鐙摺古城

    ●鐙摺古城

小名鐙摺にあり、海岸の孤山なり、高五六丈、山上松あり、今軍見山と云ふ、東麓(とうろく)を木戸際(ぎわ)と唱ふ、三浦義澄の城跡と云傳ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字(以下のポイントでは二字)下げで、ポイントが有意に小さい。]

源平盛衰記曰、治承四年、三浦畠山小坪合戰條曰、小太郎伯父の別當に云けるは、其れには東地に懸りてアズスリに垣楯かきて待給へかし、こは究竟の小城なり敵左右になく寄かたし、義盛は平に下て戰はんに、敵弱らは兩方より差はさみ、中に取寵て畠山を討んにいと安し、若又御方弱らば義盛もアブスリに引寵て一所にて軍せんといふ、別當然べきとて、百騎を引分て後のアブスリに陣を取て、左右を見る、さる程にアブスリの城固たる三浦別當義澄爰にて待も心苦し、小坪の戰きひしきなり、つゝけ者共とて道は狹し、二騎三騎づゝ打下ける

[やぶちゃん注:「源平盛衰記」の引用は、後半部に大きな省略がある。前掲小坪」の私の注の全文引用を参照されたい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 22 塵芥車 / 金魚鉢 / インク壺

M317
図―317

 私は塵芥車に(それは手車である)、如何にも便利に、また経済的に尾板を取りつけた方法を屢々見た。それは単に一本の棒に、窓掛みたいな具合に、一枚の粗末な莚をくっつけた物で、この短いカーテンの末端は、車の尾端からたれ下り、塵芥の重量は莚を押えつけ、棒は莚が落ちることを防ぐ(図317)。称讃すべきは、この物全体の簡単と清潔とである。かくの如き簡単な実際的の装置が、屢々我々の注意を引く。屋敷の中の道路の末端で、新しい地面を地ならししている。すでに出来上った場所の上を、塵芥車を引いて行く代りに、彼等はすべてのバラ土を莚に入れ、棒にひっかけて二人で肩に担う。遠くから見ると、蟻の群みたいである。

M318
図―318

 図318は、瓢形に吹いた硝子(ガラス)器である。板にとりつけ、中に金魚が入れてあるが、花生に使用することも出来る。

M319
図―319

 学校へ通う子供達は、外国風のインク瓶に糸を結びつけ、手にぶら下げる(図319)。いろいろな小さな物品は、こんな風に、糸を結び、手を通す環をつくってはこぶ。糸は紙で出来ていて、たいてい非常に強い。紙を長い条片に切って振り、膝の上でまるめるのだが、一片一片を捩り合せる方法は、手に入ったものである。これで包をしばったりするが、我国の麻紐ほどの強さがあるらしく思われる。

中島敦 南洋日記 一月十七日

        一月十七日(土) 雨

 昨夜、熱出で、發汗數次。眠る能はず。朝に至りて未だ大いに疲る。勞しあり。リュックサックの重荷は肩に痛く、よほど、今日の出發は止めにせんかとも思ひたれども八時半過土方氏を誘うて出立。ちゝぶ丸十時出帆。かなり搖れたり。板緣の間にずつと寐たきり。カイシャルを過ぐる頃船尾に二匹の魚掛かる。鮪の類なるべし、相當の大きさなり。一時マルキョク着。雨。ビシヨ濡れになりて村吏事務所オイカワサン宅に逃げこむ。榊原氏あり。小猿。山鳩。熱又出でゝ、苦し。直ちに毛のスウェーターをまとひて横になる、夕食は名も知れぬ魚の燒きたるものなれど、うまし。夜、熱。苦し。アスピリン、テラポール服用、

[やぶちゃん注:「テラポール」現在の第一三共株式会社の第一製薬株式会社が昭和一二(一九三七)年に国産第一号サルファ剤として発売した細菌性疾患薬。国産の独創的新薬として知られる。

 同日附のたか宛葉書(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五七)が残る。以下に示す。

   *

〇一月十七日附(消印パラオ郵便局一七・一・一七。南洋パラオ島南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一ノ一二四 中島たか宛。葉書)

 今から出張旅行に出る。今度は土方さんと一緒だから樂しい。大體二週間の豫定で、月末に歸つて來る。充(じゆう)分に島民の生活を見てくる積り。久しぶりのリュックサックが大分肩にこたへる。

 十七日朝。

   *]

飯田蛇笏 靈芝 大正五年(十四句)

   大正五年(十四句)

 

春あさし饗宴の灯に果樹の靄

 

髮梳けば琴書のちりや淺き春

 

立春や朴にそゝぎて大雨やむ

 

尼の珠數を犬もくはへし彼岸かな

 

山寺の扉に雲あそぶ彼岸かな

 

  舟行、一句

ゆく春や人魚の眇(すがめ)われをみる

 

巒はれてちる花に汲む泉かな

 

百雞をはなてる神や落椿

 

[やぶちゃん注:どこかの神事のようであるが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

毛蟲燒く火幽し我に暮鐘鳴る

 

花桐や敷布くはへて閨の狆

 

詩にすがるわが念力や月の秋

 

[やぶちゃん注:蛇笏にしては珍しい正面切って主情を吐露した句である。]

 

甲斐の夜の富士はるかさよ秋の月

 

葬人は山邊や露の渡舟こぐ

 

稻扱くや無花果太き幹のかげ

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(4)



美しう君よそほへて船にのせて

港いづべき戀もあらぢか

 

[やぶちゃん注:「よそほへて」「あらぢか」は孰れもママ。底本の注には校訂本文でも「よそほへて」を維持し乍ら(他では歴史的仮名遣や誤字に対して鮮やかに文句なし注なしの確信犯の『補正』を英断しているにも拘わらず)、『「よそほへて」は「よそはせて」の意の誤用と思われる』という注を附すに留めている。]

 

くちなはの瞳おかしや世にはぢて

狐の如く野に迷ふわれ

 

[やぶちゃん注:「おかしや」はママ。原本では「迷ふ」は「述ふ」であるが、先行する誤字と校訂本文から訂した。]

 

かくて尚千代もあるべし世は小さう

君が胸にといたつけ白鳩

 

[やぶちゃん注:「いたつけ」は他動詞タ行下二段活用の古語「射立(いた)つ」を「射た立つく」というカ行五段活用に誤って変化させたその命令形か。――射た矢が突き立つように君の胸へと飛び込んでゆけ、白鳩よ――大方の御批判を俟つ。]

 

くらやみに動くものあり日は知らで

いたちむぐらの眞洞に似る世

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十七歳の時の、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首連作の掉尾、

 くらやみに動くものあり。日はしらで、いたち、もぐらのによべる如く。

の類型歌であるが、下句のイメージは聴覚的な唸り声から視覚的なブラック・ホールの冥界へと変じて全く異なっている。「呻吟(によ)べる」という分かり難い古語とイメージの衝突の分かり難さは解消されたものの、「世」という上位構造の比喩が明らかにされてしまい、分かりが良過ぎる優等生短歌になってしまった感がある。句読点を配した独特のリズム感覚からも先行(と考えてよい)句形を私は支持する。]

 

 

別れても人待つほどはかへり來よ

岩にせかるゝ瀧川ならぬ

 

なべて世は美くしなべてけがらはし

解(げ)しえぬものと死は迫るかな

 

[やぶちゃん注:「美くし」はママ。]

 

     時事を憤りて

ますらをはたゝず小麥は穗に笑めど

哥薩克(コサク)かへらず秋やゝたけぬ

 

[やぶちゃん注:「穗」は原本では「※」(=「禾」+「尃」)であるが、文脈から訂した。校訂本文も「穗」とする。「哥薩克(コサク)」かつてウクライナと南ロシアなどに生活していた軍事的共同体であったコサック(козак)。本「ソライロノハナ」の製作は大正二(一九一三)年四月頃で、この歌自体の「時事を憤りて」とは、ロシア帝国の革命派に対する容赦ない弾圧やロシア帝国の第一次世界大戦参戦(一九一四年)への軍靴の音を指すものか。なお、コサック軍は同大戦ではロシア騎兵団の中心を成した。後のことながら、しかしこの後の一九一七(大正六年)年のロシア革命が勃発するとウクライナ・ドン・クバーニに於いてコサック三国は独立を宣言、三国はロシア白軍及びシベリアのコサック諸軍ととともにロシア共産党及び赤軍に抵抗したが敗北、一九一八年から一九二〇年にかけてコサック階級は排除されてコサック諸軍も廃軍となった。なおこの後、裕福なコサックの一部は欧米諸国へ逃亡したが、残されたコサックは共産党による弾圧の対象となり、ソヴィエト政権はコサックの大部分とそれらの家族全員を死刑や流刑に処し、ホロドモール(Голодомо́р:一九三二年から一九三三年にかけてソビエト連邦ウクライナ社会主義ソビエト共和国・カザフスタン共和国・現ロシア連邦のクバーニ・ヴォルガ川沿岸地域・南ウラル・北シベリアなどのウクライナ人が住んでいた各地域で起こされた人工的な大飢饉。ウクライナ人たちは強制移住によって家畜や農地を奪われて、このジェノサイドによって四百万から千四百五十万人が死亡したとされる。これの大飢饉は現在、ウクライナ議会によってスターリンによる計画的な飢餓と認定されている)によって餓死させられた。このため、第二次世界大戦においてはコサック残党はドイツ軍に味方してソ連軍と戦ったが、ドイツの敗北とともにコサックは共同体としての姿を消した(ここは主にウィキのコサック」及びホロドモールに拠った)。これ以前のコサック関連の情報を私は不勉強にしてよく知らない。ここで朔太郎が憤ったコサックに関わる時事とは何だったのか? 今一つ分からぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 

淋しけれど人は怨まじ嘆くまじ

己が世なれば瘠せもしてまし

 

[やぶちゃん注:本首も同じく朔太郎満十七歳の時の、『文庫』第二十四巻第六号・明治三六(一九〇三)年十二月に「上毛 萩原美棹」の名義で掲載された十四首連作の六首目、

 淋しけれど人は恨まじなげくまじ。おのが世なればやせもしてまし。

と表記違いの相同歌である。]

傘   山之口貘

 傘

 

あのひとはあのやうに 毎日美しいのであらうか

 

僕はさうおもつた さうしてもう一足 僕は前へ出た

 

あのひとには 亭主があるのであらうか

 

そのとき僕はみたのである

 

曇る空

 

だが友よ 空が曇つて來ても氣にするな 雨にならうが泣き出すな

 

僕でさへ 男のつもりで生きるんだから生きるつもりの男なら なほさらなんだよ元気を出せ

 

だつてあのひとに

 

僕を紹介したのは誰なのか。

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一九(一九三四)年七月号『詩人時代』。

 本詩は標記通り、各行間が優位に広い。原書房刊「定本 山之口貘詩集」ではこの行空けはなくなり、七行目が、

僕でさへ 男のつもりで生きるんだから生きるつもりの男ならなほさらなんだよ元気を出せ

とかえって読みにくく改められ、最終行の句点が除去されている。

【2014年6月10日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見、本文を訂正、注も全面改稿した。]

杉田久女句集 76 茄子もぐや天地の祕事をさゝやく蚊



茄子もぐや天地の祕事をさゝやく蚊

 

[やぶちゃん注:私偏愛の久女の句。蚊の音が気になるのはね……それは私たちの悩ましい秘め事を……私たちの耳元で囁いているからなのだった……]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十五年 囘想の壁炉

 昭和十五年

 

 

 囘想の壁炉

 

壁の外(そと)海鳴り壁に炉がもゆる

 

壁炉もえ吾が寢る闇を朱にしたり

 

囘想の炉がもえひとを炉に映えしめ

 

筑紫なるかの炉かなしみ炉を焚ける

 

[やぶちゃん注:諸データによって櫓山荘はこの前年の昭和一四(一九三九)年まで別荘として使用されていたとあるから、この時すでに多佳子の手を離れ、売却されていたものと思われる(年譜にはそうした記載はない)。]

黎明   八木重吉

 

れいめいは さんざめいて ながれてゆく

やなぎのえだが さらりさらりと なびくとき

あれほどおもたい わたしの こころでさへ

なんとはなしに さらさらとながされてゆく

中島敦 南洋日記 補注

[やぶちゃん注:一月五日から十六日までの日記は記されていない。この間、一月七日附たか宛葉書(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五五)と同じくたか宛の非常に長い書簡(同書簡番号一五六)が残る。以下に示す。多くの太字は底本では傍点「ヽ」(一部例外は文中で注した)。

   *

〇昭和十七年一月七日附(消印パラオ郵便局一七・一・八。南洋パラオ島南庁地方課。東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。葉書)

 菓子だのタオルだのパンツだの、今、着いた所。タオルもパンツも丁度ほしかつた所だが、何といつても、お菓子は有難いな。ほんたうに有難いな。今度は罐(くわん)もこはれず、カリントウもあまり濕(シメ)らず、之で、當分たんのうできる。フクちやん人形も有難う。たゞ、手紙の來ないのが物足りないな。もう五十日も、たよりを見ないわけだから。

   *

〇同年一月九日附(消印パラオ郵便局一七・一・九。杉並区神明町一一九。市内東京市世田谷区世田谷一の一二四 中島たか宛。封書)

 別に横濱東京に來てゐる譯ではないが、便宜(ベンギ)上、かう書いた迄だ。この手紙は、内地に歸る人に託(タク)して、東京か横濱でポストに入れてもらふからだ。戰爭になつてから、凡(すべ)て、南洋・内地間の手紙は、開封(カイフウ)して、中を、しらべられることになつてゐる。僕は、別に、國家の機密に關することを書きはせぬが、しかし、一家の私事を一々他人に讀まれるのはイヤだから、内地に歸る人に賴むんだよ。今は飛行便でも檢閲(ケンエツ)にひまがかかるので、一(ひと)月もかかるらしいから、恐らく十二月になつて僕の出した手紙(三四通ぐらゐ出した)も、そちらでは受取つてゐないらしいのではないかと思ふ。或は、僕がサイパンからパラオに歸つて來たことも、まだ知らないのではないか。もつともパラオから電報爲替(ガハセ)を二度送つたから、それで大抵は分つてもらへたと思ふが。パラオへ歸つて來たことを電報で打たうと思つたんだが、そんなことの(人の生死に關すること。商賣の取引に關することなら許される)電報は今の所、扱(アツカ)つてくれないんだ。仕方がなく、電報爲替を打つたわけだ。これからも電報爲替の振出(フリダシ)局の名を見て、オレのゐる所を承知してくれ。これからは先づ、パラオ以外に出ることはあるまいと思ふが。所で、十一月十日付のお前の手紙を受取つて以來、ずつと、そちらからの便(たよ)りを見てゐない。これも途中でひつかかつてゐるか、或ひはサイパンに行つてゐるのかと思ふ。どちらにしても、いづれはこちらへ着くに決(きま)つてゐるが、相當時日がかかるらしいな。

 戰爭とは言つても、こちらは至つて靜か。敵の飛行機は、一向(イツコウ)、やつて來さうもないし、全く有難い話だ。内地では相當こちらのことを心配してゐるかと思ふが、その點は安心してもらひたい。たゞ内地からの船が一向來ないので、色々不便だ。(食物その他の物資が)それで十日ばかり前の飛行便で「菓子だの、手拭(ヌグヒ)だの、海苔(ノリ)だの、新聞だのを送つてくれ。飛行便小包で。」と書いたんだが、その手紙も勿論とどかないだらうし、又、今の所、飛行便では小包を扱(アツカ)はないやうだから、話にならない。又、その手紙の中に、別に急がないが、エフェドリンが買へたら送つてくれと書いたが、その後パラオの町の或る小さな藥屋で、「喘息エキス」といふ藥が相當澤山(タクサン)見付かつた。この藥で間に合せることが出來るから、エフェドリンは當分いらないだらう。しかし、東京の町で、みつかつたら、買つておいてくれ。毎晩、管制の暗い夜がつゞくので弱る。空襲される場合のことを考へたら、ゼイタクはいへないが。窓に黑い紙をはりつけて、戸をしめて了へば、明るい電燈もつけられるんだが、内地の冬と違つて、何しろ南洋は暑くて暑くて、部屋をしめ切つては、とてもがまん出來ない。つい、部屋をあけつぱなしにして、電氣を消す、といふことになる。本も讀めないので、毎晩土方(ひぢかた)さんの所へ行つては、無駄話ばかりしてゐる。土方氏は最近獨身宿舍を出て、一軒の官舍を持つやうになつたんだ。此の間も、この家で純粹(ジユンスヰ)の島民料理を御馳走になつた。土人がこしらへたものだ。雞のむしたもの。魚の燻製(クンセイ)。タピオカ(芋(イモ)の一種)のふかしたもの。タピオカで作つたチマキ。タロ芋のゆでたもの。タピオカで團子をつくつて、椰子蜜(ヤシミツ)に漬(ツ)けたキントンみたいなもの。指でつまんでタベル。箸(ハシ)は使はない。そんな風な料理が出た。中々ウマかつたよ。土方氏の所へ集まつてくるのは、みんなカハツタ人ばかり。熱帶生物研究所の人で、鰹(カツヲ)の腦(ナウ)の中の水分の分量について、研究してゐる人や、目高(メダカ)の心臟(ツンザウ)の研究をしてゐる學者などがやつて來る。中々面白いよ。土方さんの家の屋根裏の部屋に[やぶちゃん注:「屋根裏」は底本では傍点「◎」。]、一人、面白い藝術家(工藝の方をやる人)が住んでゐる。この人と仲良くなりさうだ。この人は草花のことなんかトテモ良く知つてゐるので、話が合ふんだ。屋根裏に住んでるなんて中々いいぢやないか。

 パラオでは、毎日雨が降るんでね、カラリと地面の乾くことがない。之では喘息に良くない譯さ。内地の五月から十月迄の方が、パラオよりは、ずつと喘息に、いいよ。戰爭が終る迄喘息と戰ひながら、こんな所で頑張るのでは、身體がもつか、どうか怪(アヤ)しいから、なるべく東京出張所勤務にして貰つて、上野の國書館へ通はして貰ふやうにしようと考へてゐる。全然參考書も何もなしでは、僕の仕事は出來ないから。しかし、この時節がら、何時になつたら東京へ廻して貰へるやら見當(ケンタウ)が付かない。四五日前から、お灸(キユウ)をやつてゐる。隨分熱(アツ)いものだなあ。我慢(ガマン)して、續けてゐる。喘息には良いか、どうか分らぬが、胃には確かに效(キ)くやうだな。もつとも、食物の餘り無い此の頃、胃が良くなつて腹が空(ス)いては、實は、困るんだがね。サイパンのさつまいもとバナナとを今更戀しがつてゐる。パラオでは、サイパンみたい豐かではないからね。罐詰(かんづめ)も配給で、僕等獨身者は一つも買ふことができなくなつた。

 東京はもう隨分寒いだらうが、桓も格も元氣かしら? お前も、肩をこらしたり齒を痛くしてゐるのではないか。二學期の桓の成績が惡くつても、叱らないでやつて呉れ。學校のかはつた時は仕方のないものだから。桓のそばにゐて、色々指導(シダウ)してやりたいと思ふ。子供は叱るばかりぢや仕方がない。將來その子の性質に適した方面に伸びて行くやうに、その方に興味を持つやうに導いてやらなければならない。之はお前に出來ることではない。オレが傍にゐてやりたいと思ふよ。ノチヤスケの奴、どんな樣子をしてるかな? しよつちうお前のあとばかり迫ひかけてるんだらうなあ。晝間は、子供のことを決して考へないやうに自分を抑(オサ)へることが出來るけれど、夜中に、ひよいと目のさめた時などは、どうにもしやうがない。この手紙がお前の手に屆(とゞ)く頃には、もう春場所の相撲が始まつてゐるだらう。

 相變らず桓は一生懸命ラジオを聞いてるだらうな。オレも聞きたくてたまらぬが、パラオでは仕方がない。本郷町の家では隨分熱心に聞いたつけな。桓と相撲(スマフ)がとりたいな。格のやつは又、シコをふむ眞似(マネ)をするだらう。オレもせいぜい氣をつけて(といつても、これ以上氣を付けようが無いんだがね、喘息の起るのは土地と氣候のせゐで、本當は、どうにもならないんだ。)何とかしてさうひどく瘦(ヤ)せもせずに、お前達の所まで歸りたい(何時(イツ)になるか分らぬが)と思つてゐるから、どうか、お前たちも三人とも元氣で待つてゐておくれ。

 近い中に、パラオ本島の視察に出かけようと思つてゐる。これは一週間ぐらゐで歸つてくる。船も三時間程乘るだけだから、危險はない。

 クリスマスの日には、スペイン人の教會へ見に行つて來た。島民達が澤山集つてゐた。黑い女の子がいい着物服を着(キ)て、顏に白粉(オシロイ)(? だらうと思ふ)クリーム? を塗つてゐるのは、トテモをかしい。黑光りのする顏が、ツヤ消(ケ)しになつてゐる。それに、赤く塗つた日本の下駄をはいてゐるんだよ。妙なものさ。

 空襲のないのは有難いが、ずつとそれでも、夜の當番(外を見廻る)をチヨイチヨイしなければならない。出來るだけ身體には氣をつけるつもりだが。

 近頃は又、月がひどく明るい。霜がおりたやうにマツ白で、とてもきれいだ。椰子(ヤシ)の葉が濡(ヌ)れたやうに光つてゐて美しい。この前の手紙で注文(チユウモン)した菓子もノリも手拭も何も送るに及ばぬ。送つたつて何時こちらヘ着くか判(わか)らないものからね。それより菓子でも手に入つたら子供等にウント喰べさせてやつてくれ。

 

 河野(コウノ)の伯母樣は、その後どうしてらつしやるだらう? おとしがお年だからなあ。もう一度お目にかかり度いが、恐らく駄目だらうな。僕が、今の格ぐらゐの時分から、面倒を見ていたゞいたんだが、本當に良い伯母樣だつたなあ。僕も身體をなほして、一人前の人間としてになつて(今のままぢや、半人前にも當らない)お目にかかり度かつたが、それも到頭(トウトウ)出來ない譯だな。もう、桓が十に、格が三つか。早いものだな。綠ヶ丘の二階で桓が「オバケー」のマネをして見せたり、大きな、をかしなマントを着て歩きながら、ボタン、タクチヤンつて言つて喜んでゐたのも、つい此の間のやうな氣がするね。桓と格とが一緒に水ボウソウになつて、顏中ブツブツだらけになつたこともあつたな。格の生れる日の夜明の寒かつたこと(これはお前は、それ所ぢやなかつたから、覺(オボ)えてゐないだらうが)も思出す。あの時テイちやんは本當に良く働いてくれたなあ。お前から、ティちやんに(オレからだといつてもいい)十圓位お年玉を送つちやどうだい? おぢいちやんから格まで、みんな十圓づつだから、テイちやんも十圓でいいだらう? (この事を書いた手紙が、とゞいてゐないと困るから、又、書くよ。十二月十日にサイパンから二百圓送つたが、その中百五十圓は十二月分で、殘り五十圓は、オヂイチヤン十圓、お前十圓、澄子十圓、桓十圓、格十圓づつのお年玉のつもりなんだ。テイちやんへの十圓はお前の小遣からでも出しておいてくれ。それから、十二月十五日にパラオから三百圓(これはお前へのボーナス)、又二十三日に百五十圓(これは少し早いが一月分)送つたが、勿論、受取つたことと思ふ。

 今日は暮(くれ)の二十九日、もう三日すればお正月だが、今年は役所は、ずつと休みなしだし、それにこの暑さでは(昨日はとくべつ暑かつた。朝つぱらから九十度を越してゐるんだもの)どうしても年末の感じが出ない。それでも、僕等にも元日の朝だけはお雜煮(ゾウニ)が出るらしいぜ。毎日の飯の中に、色んな芋(イモ)がまじつてはいる。サツマ芋(イモ)のはいつてる時は、いいんだが、キャッサバといふ南洋産のまづいいものまざつてゐる時は閉口(ヘイコウ)だ。ゼイタクは此の際言へないが。オレはサツマイモが好きだから、米は足(タ)りなくても、サイパンの時のやうに、フカシイモさへ十分喰へてゐれば滿足するんだがね。普通の一軒の家ならサツマイモ位、かなり十分に廻(マハ)つてくるかも知れないのだが、獨身者の所へは何一つ配給がないので、困る。菓子なんか、くはうひたいといふ氣はもうなくなつた。そんなゼイタクは考へられないから。この一月程の間、島中どこを探(サガ)してウドンコのウの字もないんだからね。今、虎屋のヨウカンでもたべたら、却つて腹をこはすだらうと思ふ。久しく、さういふ上等な甘(アマ)さに慣(ナ)れてゐないから。今は、もう何でもいいから、分量さへたりれば、それでいいと思はねばならない。その分量が十分でないんだ

 サイパンから歸(カヘ)つて、しばらくの間、喘息の工合(グアヒ)が面白くなく、四五日缺勤(ケツキン)したが、もう、今は出てゐる。サイパンは乾(カハ)いてゐて、喘息にはごく良いんだがなあ。もう少しサイパンにゐたかつたよ。東京横濱の夏の方がパラオよりは (喘(ゼン)息に)ずつと良い。今の樣子ぢや、パラオは内地の冬とたいして變らない。イヤになつてしまふ。全くえらい目算(モクサン)違ひだつたなあ。役所での生活は相變らず、不愉快。毎日々々イヤーナ氣持バかり味ははせられてゐる。夜、土方さんの所へ行つて、お茶をのみながら、話をするのだけが唯一(たゞひと)つの樂しみさ。東京ではどうだい? 桓や格のオヤツぐらゐ手にはいるかい? まさかこちらの樣なことはないと思ふが。やつぱりお前達を一緒に連れて來ないで良かつたと思ふよ。連れて來てゐたら、子供達が可京さうなものさ。オレだけは寂(さび)しくなくて助かつたかもしれないが。

 暑いパラオの一日も、午後四時となると、さすがに少しラクになつてくる。今役所で之を書いてゐる。今ハ四時少し前、これから宿舍に歸(カヘ)つて一風呂浴(ア)びてから、夕食だ。その中に明るい(實(ジツ)に明るい)月も出てくる。南洋の月の美しさだけは見せてやりたいな。星だつて内地よりズツト明るいよ。

 この間、「野鳥(ヤチヤウ)」といふ雜誌を見てゐたら、執筆者(シツピツシヤ)の中に名古屋山嶽會の村瀬圭といふ名前が見えてゐた。お前のよくする話を思出した。成程、山の好きな人らしいね。

 萬葉集(マンエフシフ)を讀んでゐたら、「あをみづら、よさみの原」といふ言葉が出て來た。あをみといふのは碧海(アヲミ)といふこと。だから、碧海郡の依佐美の原つぱ、といふことになる。從つて、お前や桓の生れた所には、千年以上も前から碧海郡の依佐美といふ名前のついてゐたことが分る。之は一寸面白い發見だつたよ。

 

 内地からもう一(ひと)月以上も、般が來ない。(僕がサイパンから乘つてきたのは御用船(ゴヨウセン)(軍の)だから、新聞も手紙も荷物ものせて來はしない。)これからは、一月に一度どころではなく、もつと、船が來なくなるのだらう。手紙もも次第に[やぶちゃん注:太字「物」は底本では傍点「◎」。]、たまにしか來なくなるのは淋しい。僕の乘つた御用船は、もと秩父(チチブ)丸といつた今の鎌倉丸さ。一萬七千トンの豪華(ゴウクワ)船さ。その一等にのつて來たんだよ。すてきだらう? それでもね、途中に敵の潛水艦(センスヰカン)が出るかもしれないといふので、ビクビクものだつたよ。

 さて、色々書いたけれど、結局、「これからの手紙はみんな中を見られるものと思つて、餘りをかしいこと、(あまつたるいことなんか)書かないこと」「飛行便でも相當ヒマがかかること」「船便なら尚一層ヒニチがかかること」「從つて、僕の手紙も今迄のやうには頻繁(ヒンパン)には出せないが、別に心配しないで貰ひたいこと」「中をあけて、しらべられるため、僕の方でも十分に言ひたいことを言へないやうなこともあるが、それは、そちらで宜しく察して貰ひたいこと」

 以上のことを心得て貰ひたいため、わざく人に賴んで内地へ持つて行って貰ふわけだよ。これだけ書いただけでも、普通で出したら、中をしらべられたらて、破り棄てられて了つて、そちらへとゞかないだらうと思ふ。

 

 …………………………………………………………

 

◎内地から船が來ないうちに、とうとう正月になつてしまつた。おぢいちやんもお前も澄子も桓も格も、みんなお目出たう。ノチヤが三つになり桓が十になつたんだねえ。合宿でも今朝は「おぞうに」。しかし、お餅(モチ)の少ない(おまけに燒きもしない)おつゆのうすい、味のない、まづいまづいおぞうに。それが、ドンブリの中にはいつてゐる。いつもの、オレの所の、一寸ゼイタクな、お餅よりも雞や芋や大根やカマボコのタクサンはいつたおぞうにのことを考へると、ナサケナカツタ。キントンもカマボコもミカンも黑豆もゴマメも何一つ出やしない。それでも朝はまだ良かつたが、晝と夜が大變だ。元日だけは食堂の人も休ませなければならないので、晝食と夜食とは、オベンタウの折詰(ヲリヅメ)なんだが、晝飯と晩食とあはせて一食分しかゴハンもオカヅも無いんだ。つまり、オゾウニのお餅を作るために、割りあてられた米の量を使ひすぎたので、元日の晝と晩の米が足(タ)りなくなつちやつたんだらう。全くかなしい話だけど、十一時(朝のオゾウニが少いので腹が早く、へるので)頃、その折(ヲリ)づめをたべちまふと、二日の朝まで、もう何もたべるものがないんだ。お菓子一つ、ミカン一つ、つまむものもない。スキバラをかかへて、ねてゐるよりはかはない。例の杉山氏(娘を横濱の女學校にやつてゐる)の所へでも行けば、何か、タべモノにありつけるとは考へたが、何だか食物をネダリに行くのがイヤなので、やめて、ひとりで寐てゐた。やつと土方さんから救ひが來て、土方氏の親(シタ)しい或る人の家で夕食にありつけた。その家に八つと四つとになつた二人の男の子がゐた。上の子が餘り桓に似てゐるので、胸のつまる思ひがした。下の子は格よりも大分上等な顏をして、とてもカハイイ子で、アツチヤンといふ名前だ。二人の男の子を見てゐたら、妙な氣特になつてしまつた。

 

 今(一月二日午後一時)シャボンの小包がとどいた。そちらを十一月二十七日に出したやつだ。ムヤミに澤山(タクサン)シャボンを呉(ク)れたものだなあ。丁度元日に船がはいつたんだよ。内地からパラオまで船で一(ヒト)月近くかかつて、やつて來たんだ。潛水艇(センスヰテイ)の現れさうな所を避(サ)けて、大廻(マハ)りをして、とんでもない所を通つて行くもんだから、とてもヒニチがかかるんだよ。

 氷上の所からも山口君の所からも結婚の挨拶(アイサツ)狀が來た。山口君のお嫁さんは、元町の女學校の卒業生。オレも少し教へたことがあるらしいが、ハツキりおぼえてはゐない。氷上のお嫁さんは帝大(東京)教授の娘。間に立つてくれた人は三谷(ミタニ)さんといふ一高の先生。(オレや氷上がよく話をするんで、おぼえてゐないかなあ? 長谷(ハセ)川伸(シン)の生(う)みのお母さんが中々わからず、やつと見つかつたんだが、それが、この三谷さんのお母さんだつた、つていふ話を何時かオレがしたらう?)我は東、オレも南洋にゐるもんだから二度御馳走をくひはぐつたよ。山口君の方の媒杓(バイシヤク)は滋賀さん。

   *]

 

        一月十七日(土) 雨

 昨夜、熱出で、發汗數次。眠る能はず。朝に至りて未だ大いに疲る。勞しあり。リュックサックの重荷は肩に痛く、よほど、今日の出發は止めにせんかとも思ひたれども八時半過土方氏を誘うて出立。ちゝぶ丸十時出帆。かなり搖れたり。板緣の間にずつと寐たきり。カイシャルを過ぐる頃船尾に二匹の魚掛かる。鮪の類なるべし、相當の大きさなり。一時マルキョク着。雨。ビシヨ濡れになりて村吏事務所オイカワサン宅に逃げこむ。榊原氏あり。小猿。山鳩。熱又出でゝ、苦し。直ちに毛のスウェーターをまとひて横になる、夕食は名も知れぬ魚の燒きたるものなれど、うまし。夜、熱。苦し。アスピリン、テラポール服用、

[やぶちゃん注:「テラポール」現在の第一三共株式会社の第一製薬株式会社が昭和一二(一九三七)年に国産第一号サルファ剤として発売した細菌性疾患薬。国産の独創的新薬として知られる。戦中は化膿止めとして衛生兵が使用していた。

 同日附のたか宛葉書(旧全集「書簡Ⅰ」番号一五七)が残る。以下に示す。

   *

〇一月十七日附(消印パラオ郵便局一七・一・一七。南洋パラオ島南洋庁地方課。東京市世田谷区世田谷一ノ一二四 中島たか宛。葉書)

 今から出張旅行に出る。今度は土方さんと一緒だから樂しい。大體二週間の豫定で、月末に歸つて來る。充(じゆう)分に島民の生活を見てくる積り。久しぶりのリュックサックが大分肩にこたへる。

 十七日朝。

   *]

2014/02/23

杉田久女句集 75 茄子もぐや日を照りかへす櫛のみね



茄子もぐや日を照りかへす櫛のみね

 

[やぶちゃん注:私偏愛の久女の句。このハレーションは凄い!]

杉田久女句集 74 茄子苗の日除し置いてまた縫へり


茄子苗の日除し置いてまた縫へり

杉田久女句集 73 傘にすけて擦りゆく雨の若葉かな


傘にすけて擦りゆく雨の若葉かな

杉田久女句集 72 厨着ぬいでひとり汲む茶や若楓



厨着ぬいでひとり汲む茶や若楓

 

[やぶちゃん注:「厨着」は「くりやぎ」と読むか。]

杉田久女句集 71 住みかはる扉の蔦若葉見て過し


住みかはる扉の蔦若葉見て過し

杉田久女句集 70 蕗むくやまた襲ひきし齒のいたみ


蕗むくやまた襲ひきし齒のいたみ

杉田久女句集 69 夏草



夏草に愛慕濃く踏む道ありぬ

 

月光搖れて夏草の間を流れかな

杉田久女句集 68 貧しき家をめぐる野茨月貴と

貧しき家をめぐる野茨月貴と

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年二十八の時、本格的な作句最初期の作と思われる。私はこの句が好きである。]

杉田久女句集 67 黄薔薇や異人の厨に料理會



黄薔薇や異人の厨に料理會

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年二十九の時の作。「黄薔薇」花言葉は――あなたを恋します/友情/友情/献身/可憐/美/さわやか――薄らぐ愛/恋に飽きた/別れよう/誠意がない/不貞/嫉妬……]

杉田久女句集 66 笑みをふくんで牡丹によせし面輪かな


笑みをふくんで牡丹によせし面輪かな

杉田久女句集 65 おのづから流るゝ水葱の月明り


おのづから流るゝ水葱(なぎ)の月明り

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 鐙摺

    ●鐙摺

軍見山の麓(ふもと)より此邊を總稱せる小名なり、新編相模風土記曰、土人の傳に賴朝三浦に遊覽の時、山路狹く乘馬の鐙をすり、徃來自由ならず故に此名起るといふ、今はさる嶮難の地にはあらす且盛衰記あふすりの名見ゆ、下の城跡の條に詳なり、又按するに東鑑に、壽永元年十一月十日、伏見冠者(くわんじや)盛綱は賴朝の蝶寵女龜前を伴ひ遁れて大多和五郎義久が鐙摺の塚に到ると見ゆ、其頃義久が邸此地に在りしなるべし、今其遺趾をつたへず。

[やぶちゃん注:ここに記された、壽永元(一一八二)年十一月に起こった新興鎌倉幕府あわや転覆という女好きの頼朝の不倫スキャンダルの事故の顛末について私は、新編鎌倉七」の「飯島」の注に、面白おかしく且つマニアックに詳細に書いた。お読み戴ければ幸いである。]

耳嚢 巻之八 入木の道知水性妙の事

 入木の道知水性妙の事

 

 入木(じゆぼく)の道に名高き松花堂は、書畫とも人の珍重する所なり。ある時云(いひ)しは、京地(けいち)にては、加茂川のかくかくの所、柳の本の水ならでは、筆にそゝぎ墨に和して用(もちゐ)るによしなしと有(あり)しを、或人聞(きき)て、好事(かうず)の過(すぎ)たる事也(や)とて、加茂川の水を取寄せ、松花堂を招(まねき)て書畫を好み、兼て松花堂の好む珍味、器物の莊嚴(しやうごん)心を盡しぬ。松花堂筆を取(とり)て墨すり筆をてんじて、此水宜(よろし)けれども、此墨水にては畫(かく)事かたしとて斷りぬ。主人大きに驚き、此水は加茂川の水なり、御身好み給ふにあらずやと尋(たづね)ければ、加茂川の水にても、かくかくの所にあらずしては其筆意を延(のぶ)る事なしといふに、主人手を打(うち)て歎息し、實は加茂川のしかる所柳の元の水を取寄せ置(おき)ぬれど、御身の好みの所、實事とも思わず疑ひて最初の水を出せしと、慙悔(ざんくわい)して拜謝せしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:通の拘りで直連関。

・「入木の道知水性妙の事」は「じゆぼくのみちすゐしやうのみやうをしるのこと」と読む。「入木」とは、名書家王羲之が書いた字は筆勢が強く、その筆跡は墨が木に三分の深さにまで染み入っていたという故事に基づき、本来は書跡・墨跡の意。ここは入木の道、書道のこと。

・「松花堂」桃山末から江戸初期の学僧で書家として知られた松花堂昭乗(天正一二(一五八四)年~寛永一六(一六三九)年)。中沼左京亮元知の弟として摂津国堺に生まれた。俗名は中沼式部、号は惺々翁・空識、晩年になって松花堂と号した。十七歳で男山石清水八幡宮滝本坊実乗の元で出家、真言密教を修めて阿闍梨法印となり、寛永四(一六二七)年四十四歳の時に滝本坊住職となった。書は尊朝法親王に青蓮院流を学び、また空海の書を慕って大師流を修得、自らの書風を確立した。漢字は空海の唐風。仮名は平安時代の和風を復興したもので松花堂流又は滝本流という。松花堂流は後に流行して昭乗の書跡は多数板行された。本阿弥光悦・近衛信尹とともに「寛永の三筆」と称される。画は狩野山楽に学んだといわれ、さらに土佐派を折衷して彩色の密画もよくしたが、晩年には枯淡な水墨画を多く描いて歌絵屏風や道釈画などを遺した。作例に「葡萄に鶏図」など。また茶人としても知られ、小堀遠州について遠州流を修め、その収集した茶道具は「八幡名物」と呼ばれて後世「松花堂好み」として模された。昭乗の名声は高く、近衛家の恩顧を受けて広く公家に出入し、また烏丸光広・林羅山・石川丈山などと交流があった)以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年であるから、実に百六十年も前の都市伝説の古形である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 書の道に達した御仁は神妙にもその水の性(しょう)をも知尽するという事

 

 書の道に名高き松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)殿は、その書画ともに人の珍重する所で御座る。

 ある時、昭乗殿の言われたことに、

「――京の地にては、加茂川のかくかくの所に御座る柳の本から汲みおきたる水ならでは――筆に注ぎ墨に和して用いるには――これ――よう御座らぬ――」

と申されて御座ったを、ある人のこれを聞いて、

「……なんとまあ……流石は好事(こうず)の過ぎたる……もの謂いじゃのぅ……」

とて、酔狂にも加茂川の水を取り寄せ、松花堂殿を屋敷へ招いて書画一筆を請い受け、兼ねてより松花堂殿の好むところの珍味の器物を以って、仏道にも擬えなば、その荘厳(しょうごん)、まっこと、心を尽くして満を持して御座ったと申す。

 さて、松花堂殿、やおら筆を取らんとて、墨をすり、筆からその雫を垂らし――それを見られた……

……と

「――この水――よろしゅう御座る水にてはあれど――やはり――この墨水にては――我ら――描くこと――これ――出来申さぬ――」

とて、静かに筆を置かれた。

 されば、主人、大きに驚き、

「……い、いや、この水は加茂川の水で御座るぞッ?!……お、御身のお好みにならるるそれにては御座いませぬかッ?!……」

と質いたところが、

「――我ら――加茂川の水にても――かくかくの所の水にあらずしては――その筆――思うがままに描くことは、これ――出来申さぬ――」

と仰せられたによって、主人、タン! と手を打って、深く歎息致いた上、

「……実は加茂川のしかる所の柳の元の水を……我ら……取り寄せ置いて御座ったれど……かく伝えられたる御身(おんみ)の好みと仰せらるる神妙なるそのところ……これ……真実(まこと)ととも思わずに疑(うたご)うたるまま……最初に出だしましたる、別なところからわざと汲みおいたる加茂の水を……これ、出いてしまいまして御座ったじゃ……」

と、深く懺悔致いて、拝謝してかの水を差し出だいては、再度、一筆を請うたと申すことで御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 21 モース遺愛の少年宮岡恒次郎

 ジョンの日本人の友人達が、何人か遊びに来た。可愛がっている小宮岡もいた。私は彼を膝にのせ、彼の喋舌る風変りな英語に耳を傾けていたが、しばらくすると、彼は片手を上げて、静に私の鬚髯に触れた。私は彼の手に、口でパクンとやると同時に、犬がうなるような音をさせた。驚いたことに、彼は飛び上りもしなければ、その他何等の動作もしなかった。米国の子供ならば、犬が本当にパクリと指に嚙みついて来たかの如く、直覚的に手を引込ませるであろう。これを数回くりかえした上、彼に彼の両親がこんなことをしたことがあるかと聞いたら、彼は無いと答え、そしてこれが何を意味するのか知らないらしく見えた。で、これはつまり犬が嚙みつく動作を現すのだと説明すると、彼は日本の犬は嚙みついたりしないといった。ここでつけ加えるが、犬に注意を払う――例えば、頭を撫でたりして可愛がる――のは見たことがなく、また日本で見受ける犬の大多数は、狼の種類で、吠える代りにうなる。ジョン(私の子)は大いに日本人に可愛がられているが、彼の色の薄くて捲いた頭髪は、日本人にとっては驚く可き、そして奇妙な光景なのである。

[やぶちゃん注:「小宮岡」原文は“little Miyaoka”。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」からこの人物は当時の東大予備門の生徒であった宮岡恒次郎(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)であると断定してよい。この当時、未だ満十二歳であったが、早くも翌年にはモースの冑山周辺横穴(現在の埼玉県比企郡吉見町にある吉見百穴)の調査に随行し、驚くべきことに当地での講演で通訳を勤めている。これは川越原人氏のサイト「川越雑記帳」内のモースと山田衛居の「図説埼玉県の歴史」(小野文雄責任編集河出書房新社一九九二年刊)からの「外国人の見た明治初年の埼玉」の「モースの失言―熊谷・川越」という引用を参照されたい。そこには同行者にこの恒次郎の兄竹中成憲がいたとあり、この竹中成憲(当時は東京外国語学校学生であったと思われ、後に東大医学部に進み軍医となった)はこの弟恒次郎とともにモースや彼が日本への招聘に尽力したフェノロサの通訳や旅にも同行した人物である。そこからこの“little Miyaoka”という呼称も自然、氷解するように思われる。これらの事実は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」からも類推出来る。なお、恒次郎は磯野先生の同書によれば後、フェノロサの美術収集旅行の通訳として同行。彼にとって欠かせない存在となったとあり、明治二〇(一八八七)年東京帝国大学法学部を卒業して外交官となり、後に弁護士となったと記す。また、床間彼方氏のブログ「青二才赤面録」の宮岡恒次郎・その1によれば、『明治16年、18才の恒次郎は李氏朝鮮の遣米使節団に顧問として加わっていたロウエルの要請により、同使節団の非公式随員となっている』ともあり、恒次郎のお孫さんによれば、実は本人曰く、『7才で蒸気船の石炭貯蔵室に隠れてアメリカに密航したと語っていたと』のこと。なかなか面白い。]

中島敦 南洋日記 一月四日

        一月四日(日)

 スヴュン・ヘディンの中亞探檢記、之亦大いに面白し。

[やぶちゃん注:知られたスウェーデンの地理学者で探検家スヴェン・アンダシュ(アンデシュ)・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の「中央亜細亜探検記」は、昭和一三(一九三八)年に富山房百科文庫から岩村忍訳の邦訳本が出ている。但し、敦が読んだのがこれであるかどうかは不詳。前日に読んでいるポール・エミール・ヴィクトールの著作は邦訳ではないように窺えるからである。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年十二月

犬とゐて春を惜める水夫かな

 

   舊曆十月十五日は僧月照の忌日たり

うるはしき入水圖あり月照忌

 

[やぶちゃん注:「僧月照」これは幕末期の尊皇攘夷派の僧で西郷隆盛とともに錦江湾に入水自殺した月照(文化一〇(一八一三)年~安政五年十一月十六日(グレゴリオ暦一八五八年十二月二十日)のことと思われるが、日のズレは誤差範囲としても月がおかしい。誤植か、鳳作の記憶違いであろう。名は宗久(他に忍介・忍鎧・久丸とも。本姓は玉井か)、ウィキの「月照」によれば、『文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として生ま』れ、『文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入る。そして天保6年(1835年)、成就院の住職になった。しかし尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭している』。安政五(一八五八)年八月に『始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して西郷の故郷である薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水した。月照はこれで亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。享年』四十六。『「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と伝えられ』、『墓は、月照ゆかりの清水寺(京都市東山区)と西郷の菩提寺である南洲寺(鹿児島市)にあり、清水寺では月照の命日である11月16日に「落葉忌」として法要を行っている(新暦の毎年同月同日に実施)』とある。入水の前後を詳しく語るブログ『「明治」という国家』の西郷隆盛、僧月照と薩摩潟に投身によれば、月照が、

 

 雲りなき心の月も薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる

 

という辞世の一首を詠んだところ、西郷は答えて、

 

 二つなき道にこの身を捨小舟波立たばとて風吹かばとて

 

と詠んで硬く抱き合ったまま、追放のために遣わされた役人方の舟から入水したとある。驚いた役人が『両人が堅く抱合ったまま骸となって浮上ったのを発見』、『岸辺に船を急がせ、火を焚いて応急手当をしたので、西郷だけは漸く息を吹返したが、月照は遂に46歳を一期として、帰らぬ旅に上ってしまった』、薩摩藩はしかし表向き西郷もともに死んだということで『幕府へ届出』、西郷は名を『菊池源吾と改名し奄美大島に身を潜め』たとある。ここに出る「入水圖」というのは推測であるが、西郷隆盛の菩提寺で月照の墓がある鹿児島市南林寺町にある臨済宗南洲寺にあったものではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

おぼえある繪卷の顏や月照忌

 

[やぶちゃん注:恐らく鹿児島県人であった鳳作にとって尊王の偉人として月照の絵姿を小さな時から見知っていたのであろう。]

 

椰子の月虹の暈きてありにけり

 

からからに枯れし芭蕉と日向ぼこ

 

枯芭蕉卷葉ひそめてをりにけり

 

破れ芭蕉羽拔けし鷄の如くなり

 

[やぶちゃん注:以上七句は十二月の発表句。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(3)

君にとて投げたる謎のとけもやらで

この春くれぬ悲しからずや

 

    從兄、姉どちと京都に

    あそびて

はらからが朝院參西の院

比叡(ひえ)やゝ寒き梅に參うでびと

 

[やぶちゃん注:原本は「參(まう)うでびと」であるが、底本全集校訂本文と同じく衍字と判断しつつも、校訂本文のように「參(まう)でびと」という『補正』を行わず、本文原型を壊さないように「まう」のルビを示さずに「う」を残した形とした。]

 

野よりいま生まれける魂(たま)幼(おさな)くて

一人しなれば神もあはれめ

 

[やぶちゃん注:「幼(おさな)くて」の「幼」は原本では「※」=「糸」+「刀」であるが、以下の公開作から誤字と断じて校訂本文と同じく「幼」の字を採った。「おさな」のルビはママ。朔太郎満十六歳の時の、『明星』卯年第八号・明治三六(一九〇三)年八月号の「無花果」欄に「萩原美棹」の名義で掲載された五首の巻頭歌、

 

 野より今うまれける魂をさなくて一人しなれば神もあはれめ

 

と表記違いの相同歌。]

 

天地に水ひと流れ舟にして

君とありきとおぼへしや夢

 

[やぶちゃん注:「おぼへ」はママ。この一首は、朔太郎満十六歳の時の、『文庫』第二十四巻第三号(明治三六(一九〇三)年十月発行)に「上毛 美棹」名義で掲載された九首の五首目、

 天地に水ひと流れ舟にして我もありきと忘るべしや夢

の類型歌。]

 

菫つむと何時しか岡の三里こえて

迷ひ出でぬる桃多き里

 

[やぶちゃん注:原本では「迷ひ」は「述ひ」。先行例(本「歌群「若きウエルテルの煩ひ」五首目)及び全集校訂本文に従い、訂した。]

 

名なし小草はかな小草の霜柱

春の名殘と蹈まむ二人か

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十六歳の時の、『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首の掉尾、

 名なし小草はかな小草の霜ばしら春の名殘とふまむ人か

の類型歌。]

 

み歌さらになつかしみつゝ慕ひつゝ

忘れかねては行く萩が原

 

[やぶちゃん注:朔太郎満十六歳の時の、『文庫』第二十四巻第三号(明治三六(一九〇三)年十月発行)に「上毛 美棹」名義で掲載された九首の第六首目、

 み歌さらになつかしみしたひつゝ忘れかねては行く萩が原

の類型歌。]

 

花におちて花に歌えし身は胡蝶

戀のもだえに狂ひぬ惓みぬ

 

[やぶちゃん注:原本は、

 

花におちて花に歌えし身は胡蝶

戀のもたひに狂ひぬ惓みぬ

 

全集校訂本文は、

 

花におちて花に歌へし身は胡蝶

戀のもだえに狂ひぬ倦みぬ

 

である。「もたひ」の部分のみ、意味が通らぬので校訂本文を採った。]

座布團   山之口貘

 座布團

 

土の上には床がある

 

床の上には疊がある

 

疊の上にあるのが座蒲團でその上にあるのが樂といふ

 

樂の上にはなんにもないのであらうか

 

どうぞおしきなさいとすゝめられて

 

樂に坐つたさびしさよ

 

土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに

 

住み馴れぬ世界がさびしいよ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一〇(一九三五)年二月号『文藝』(改造社)。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題によれば、掲載誌には後の「數學」とともに総題「數學」の中の一篇として掲載された、とある。本詩は標記通り、各行間が優位に広い。なお、原書房刊「定本山之口貘詩集」では、この行空けはない。【2014年6月7日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証し、注の一部を変えた。

杉田久女句集 64 睡蓮や鬢に手あてて水鏡

睡蓮や鬢に手あてて水鏡

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 湖畔雜章

 湖畔雜章1

 

霧昏れて落葉松(からまつ)にゐし吾よばる

 

いなづまに落葉松の幹たちならぶ

 

郭公は野の富士靑き夜を啼ける

 

寂しさの極みなし靑き螇蚸とぶ

 

[やぶちゃん注:「螇蚸」は通常通りの「ばつた(ばった)」と読んでいると採る。]

 

 湖畔雜章2

 

熔岩野(らばの)來て秋風の中に身を置ける

 

秋空と熔岩野涯なし歩みゐる

 

熔岩の原薊を黑く咲かしむる

 

富士薊日輪に翳するものなし

 

熔岩の砂熱きを掬び掌をもるる

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「掬び」は「むすび」と読む。両手を合わせて(本来は水を)すくう・掬(きく)するの謂い。]

 

地を翔くる秋燕ひとりの道をかへる

 

[やぶちゃん注:両章ともに、前注の通り、避暑した山中湖畔の「ニューグランドロッヂ」滞在時の吟詠である。]

秋   八木重吉

秋が くると いふのか

なにものとも しれぬけれど

すこしづつ そして わづかにいろづいてゆく、

わたしのこころが

それよりも もつとひろいもののなかへ

              くづれて ゆくのか

 

[やぶちゃん注:最終行は、底本では、組の一行字数の関係からかく表示されてあるのであるが、これを、例えば、

 

それよりも もつとひろいもののなかへくづれて ゆくのか

 

とするテクストには私は従えない。そもそも重吉はここを、物理的な版組から仕方がなく連続した詩句を無理矢理断絶させて機械的に改行したもの――ではない。そこに明確な重吉の許容出来る休止(一字空け相当の若しくは改行して下方へ配するだけの)が存在するからに他ならないからである。]

飯田蛇笏 靈芝 大正四年(四十五句)

   大正四年(四十五句)

 

餅花に髮ゆひはえぬ山家妻

 

閨怨のまなじり幽し野火の月

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「幽し」は「かそけし」と読む。]

 

陽にむいて春晝くらし菊根分

 

虛空めぐる土一塊や竹の秋

 

[やぶちゃん注:本句、私には今一つ句意を摑めない。識者の御教授を乞う。]

 

花に打てばまた斧にかへる谺かな

 

夏風やこときれし兒に枕蚊帳

 

夏雲濃し厩の馬に若竹に

 

梅雨の灯のさゞめく酒肆の鏡かな

 

深山花つむ梅雨人のおもてかな

 

   南ア連峰窻に聳え、春日山の翠微眉におつ

夏山や急雨すゞしく書にそゝぐ

 

青巒の月小さゝよたかむしろ

 

大空に富士澄む罌粟の眞夏かな

 

日蔽たるゝ水に明るき花藻かな

 

山百合にねむれる馬や靄の中

 

飼猿を熱愛す枇杷のあるじかな

 

紫陽花に八月の山高からず

 

山風のふき煽つ合歓の鴉かな

 

大木を見つゝ閉す戸や秋の暮

 

滄溟に浮く人魚あり月の秋

 

秋風や水夫にかゞやく港の灯

 

[やぶちゃん注:「水夫」は「かこ」と読んでいよう。]

 

槍の穗に咎人もなし秋の風

 

露さだかに道ゆく我を愉しめり

 

秋の嶽國土安泰のすがたかな

 

かきたてゝ明き御燈や山の秋

 

俳諧につぐ鬪菊や西鶴忌

 

[やぶちゃん注:浮世草子の作者であると同時に談林を代表する俳諧師でもあった矢数俳諧の創始者二万翁井原西鶴の忌日は八月十日。因みに大正四(一九一五)年の陰暦のそれは九月十八日土曜日に相当する。]

 

薰(たきもの)に八朔梅や守武忌

 

[やぶちゃん注:「八朔梅」旧暦の八朔(八月一日)の頃に咲く梅で八重の淡紅色の花をつける珍しい梅。「守武忌」山崎宗鑑とともに俳諧の祖とされる戦国期の伊勢神宮祠官で連歌師であった荒木田守武の忌日は八月八日。因みに大正四(一九一五)年の陰暦のそれは九月十六日木曜日に相当する。前の句と前後している理由は分からない。一つの可能性は前者の西鶴忌が新暦で行われてしまい、後者の供養が正しく旧暦であったとすればおかしくはない。但し、後の「山廬集」では順序が入れ替わっている(但し、「山廬集」は季題別)から、単なる(ストイックな彼にして「単なる」とは言い難い重大なミスではある。しかも西鶴と守武では普通ならば詠日が多少前後しても守武を前に持って来るべきであろう。しかも守武の方が三日早いのである)蛇笏の配置ミスかも知れない。]

 

たましひのしづかにうつる菊見かな

 

月さむくあそべる人や萩の宿

 

料理屋の夜の闃寂や白芙蓉

 

[やぶちゃん注:「闃寂」は「げきせき」と読ませていよう(「げきじやく(げきじゃく)」とも読むが私の印象は「よのげきせき」である)。ひっそりと静まりかえって寂しいさま。]

 

書樓出て樵歌またきく竹の春

 

はしばみにふためきとぶや山鴉

 

[やぶちゃん注:]

 

山國の虛空日わたる冬至かな

 

髭剃つて顏晏如たり冬日影

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「晏如」は「あんじよ(あんじょ)」で、安らかで落ち着いているさま。]

 

冬空や大樹くれんとする静寂(しゞま)

 

[やぶちゃん注:底本ルビの踊り字は「ヾ」(片仮名用踊り字)であるが訂した。]

 

霜とけの囁きをきく獵夫かな

 

雪國の日はあはあはし湖舟ゆく

 

[やぶちゃん注:「あはあは」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

大艦をうつ鷗あり冬の海

 

爐をきつて出るや椿に雲もなし

 

雪晴れてわが冬帽の蒼さかな

 

爐によつて連山あかし橇の醉

 

死病得て爪うつくしき火桶かな

[やぶちゃん注:芥川龍之介は大正十三(一九二四)三月一日発行の雑誌『雲母』に「蛇笏君と僕と」(後に「飯田蛇笏」と改められる)を発表しているが、その中で、

 その内に僕も作句をはじめた。すると或歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云ふ蛇笏の句を發見した。この句は蛇笏に對する評價を一變する力を具へてゐた。僕は「ホトトギス」の雜詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境にも剽竊した。「癆咳の頰うつくしや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにさう云ふ句なども製造した。

と告白している。ちなみに、「惣嫁」とは上方で言う最下級の売春婦の夜鷹のこと。更に、この作品には後半、次の芥川の句が示されてある。

 春雨の中や雪おく甲斐の山

 おらが家の花も咲いたる番茶かな

前の「春雨の」の句の直後に「これは僕の近作である。次手を以て甲斐の國にゐる蛇笏君に獻上したい。」と書き、最近は時々句作するが、忽ち苦吟に陥ってしまうとし、「所詮下手は下手なりに句作そのものを樂しむより外に安住する所はないと見える。」と書いて、「おらが家の」を示す。句の後に、「先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。」と文を結んでいる。【2013年4月2日追記】芥川龍之介「飯田蛇笏」の全文はこちらに私のマニアックな注を附したものがあるので是非お読み戴きたい。]



埋火に妻や花月の情にぶし

 

火を埋めて更けゆく夜のつばさかな

 

かりくらの月に腹うつ狸かな

 

[やぶちゃん注:「かりくら」狩倉・狩蔵。領主の独占的な狩猟区域で所領内の狩猟に好適な山や野を選んで四至を定めて囲い込んだ地域を指す。獣類の生態系を守るために百姓等の出入りや採草・伐木などを厳しく禁じた。狩倉の成立時期は不明であるが十二世紀の前期には「神狩蔵」の存在が知られ、この神の狩倉は十三世紀初めに肥後国阿蘇神社などで確認される狩猟神事を営むための狩倉と考えられており、和泉国大鳥神社では十一世紀末から十二世紀初頭にかけて四ヶ所の「狩庭」が確認出来る(以上は「世界大百科事典」に拠る)。]

 

落葉ふんで人道念を全うす

飯田蛇笏 靈芝 大正三年(十五句)

   大正三年(十五句)

 

幽冥へおつる音あり灯取蟲

 

海鳴れど艪は壁にある夜永かな

 

竈火赫つとたゞ秋風の妻を見る

[やぶちゃん注:上五「竈火赫つと」は「くどびかつと(くどびかっと)」と読む。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)によれば、蛇笏の初期作品には一種の小説風な着想があり、この句にもそれを指摘する。まず、この句には以下の自注があるとされ(底本引用は新字体であるが、恣意的に正字化した)、

山郷の晩景。〝農となつて郷國闊し柿の秋〟と詠じ、その實、眞の農たり得ない夫の心理は、つれそふ妻っさへ秋風の中に一片の落葉か何ぞのやうに眺めやつた。生活の中に躬自らをおとした表現。

を引用、この後の大正四年の選句に出る、

 埋火に妻や花月の情にぶし

を引いて、『この「花月」は風流心のことであり、ただ家事に忠実、夫に貞淑な妻と、文学志向に燃える夫との心のへだたり』が述べられていると指摘、次に大正三年の本作の頃は蛇笏結婚四年目で、この年の蛇笏の年譜には、虚子が俳壇に復帰したことを知った蛇笏が絶えて手に取ることもなかった『ホトトギス』を取り寄せてみれば、同誌が俳句に重点をおくものになっており、『未知の新人が活躍してゐた。燃えかけてゐた作句熱が熾烈になつたことを感じた』とあるのを引用、最後に本句を評して、『颯々と吹き渡った一種の秋風が竈火に照らしだされいる貞淑な妻を吹くとともに、作者の心をひえびえと吹きすぎたのである。その対照がきわやかである』と記す。]

 

芋の露連山影を正うす


[やぶちゃん注:蛇笏真骨頂の代表句。私はかつて中学生の頃、この句に出逢った折り、接写レンズで撮った里芋の葉の上に置かれた丸い大きな銀色の露(私はこれを小さな頃から偏愛してきた)の表面に甲斐の山並みが反転して映るのを、否、芋の露の中にある別世界の奇峰の連なりを幻視したのを今も忘れない。大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」によれば、この句には以下の自注があるとする(例によって恣意的に正字化して示す)。

今日に至るまでの歳月の中で、最も健康がすぐれなかった時である。隣村のY病院へ毎日薬瓶を提げて通つてゐた。南アルプス連峰が、爽涼たる大氣のなかに、きびしく禮容をととのへてゐた。身邊の植物(植物にかぎらず)は決して芋のみではなかつた。

大野氏は以下、『家郷にとじこめられ、肉体は病のため衰弱しても、精神はつねに昂揚して彼岸を見つめていたのであろう。礼容をととのえているのは甲斐の山々のみでなく、作者もまたこれらの山の偉容に襟を正して向っている』と評しておられる。蓋し名評である。]


刈田遠くかゞやく雲の袋かな

 

案山子たつれば群雀空にしづまらず

 

牛曳いて四山の秋や古酒の醉

 

かりがねに乳はる酒肆の婢ありけり

 

句また燒くわが性淋し蘭の秋

 

農となつて郷國ひろし柿の秋

 

山門に赫つと日浮ぶ紅葉かな

 

人すでに落ちて瀧なる紅葉かな

 

   萍生の骨を故郷の土に埋む、一句

葬人の齒あらはに哭くや曼珠沙華

 

[やぶちゃん注:飯田蛇笏の処女句集「山廬集」(昭和七(一九三二)年)に、

  (蘆の湖に溺死せる從兄萍生を函嶺の頂に荼毘にして)

 秋風や眼前湧ける月の謎

 

及び、全く同じ前書で、

 

荼毘の月提灯かけし松に踞す

 

という句があるようである(小川春休氏の電子テキスト山廬集を正字化したが、「灯」は考えた末にそのままにした。以下、断りのない「山廬集」は総てこの春休氏のものを参照させて戴いた)。]

 

ある夜月に富士大形の寒さかな

 

書樓出てさむし山の襞を見る

2014/02/22

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年十一月



門川のあふれてさみし魂祭

 

荷のすぎし精靈舟となりにけり

 

大風のあしたを出でて耕せり

 

月の江や波もたてずに獨木舟

 

吹きあほつ日覆のうちの櫻島

 

[やぶちゃん注:「吹きあほつ」ネット上で発見した歌人長澤英輔歌集の一首、

 夏暮るる軒の簾を吹きあほつ雨風涼しきちきょうの花

から、「吹き煽る」の謂いであることが分かる(老婆心乍ら、「きちきょう」とは「桔梗」のこと)。とすればこれは「あふつ」の歴史的仮名遣の誤りかと思われる。「煽(あふ)つ」は現代音「あおつ」で他動詞タ行四段活用の「風が吹き動かす」「風のために火や薄い物が揺れ動く。ばたばたする」の古語で、自動詞の「あふる」の転かとある(但し、この意に限ってみれば「あふる」との自・他動詞の明確な区別は国語学嫌いの私には判然としない)。

 ここまでの五句は十一月の発表句。]

「数学者に数式を見せたら、芸術的な「美」を感じる脳の部分が反応した――英国の研究者による実験結果」

「数学者に数式を見せたら、芸術的な「美」を感じる脳の部分が反応した――英国の研究者による実験結果」

フェイスブックの友人の数学者が紹介していた記事を読んだ。

読みながらこんなことを感じた。……

……私は8歳の頃から NGC ( New General Catalogue 天体カタログ)を覚えたり、数式や化学式を意味も解らずノートに写すのが好きだった……そういう意味では私の眼窩前頭皮質はそれらに「美」を感じていたものらしい(今も予備校の広告の数式が載るそれを見ただけで暫くその前に佇んでしまう)……しかし残念なことに同じ頃から学校の算数が苦手になり、家に間借りしていた中学数学教師の特訓を毎夜受けては更に嫌いになり、中学に上がると決定的に数学を嫌悪するようになった(しかし相変わらず夏休みには図書館に行ってやはり訳も分からず原子物理学の専門書やオレンジ色の科学普及新書を書写することで独り悦に入っていた)……高三の時にはテストで人生最初で最後の「0点」をとったのも数学だった……私はサリエリみたような人間なんだろうか?――そういえば父は画家を目指したデザイナーで自称シュールレアリスト(瀧口修造を師とするから必ずしもいい加減ではない)であるが、私は小さなころから伝統画は無論、エルンストやダリやタンギーやラムをも偏愛しながら、これもおぞましいことに絵や彫刻の才能は全くなかった――私の眼窩前頭皮質若しくはそこから連動する数学や芸術へのシナプスは――きっと壊れてしまっているのに違いない……

などと考えたら、ちょっと淋しい気がした。……

再會   山之口貘

 再會

 

詩人をやめると言つて置きながら詩ばつかりを書いてゐるではないかといふやうに

つひに來たのであらうか

失業が來たのである

 

そこへ來たのが失戀である

寄越したものはほんの接吻だけで どこへ消えてしまふたのか女の姿が見えなくなつたといふやうに

 

そこへまたもである

またも來たのであらうか住所不定

 

季節も季節

これは秋

 

そろひも揃つた昔ながらの風體達

どれもこれもが暫らくだつたといふやうに大きな面をしてゐるが

むかしの僕だとおもつて來たのであらうか

僕をとりまいて

不幸な奴らだ幸福さうに笑つてゐる

 

[やぶちゃん注:初出は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『むらさき』。

 バクさんは昭和一二(一九三七)年十二月の静江との結婚前後(但し、正式な婚姻届の提出は昭和一四(一九三九)年十月二十六日)、それまで水洗便所のマンホール掃除や「東京材木新聞社」などを経て温灸器販売やニキビ・ソバカスの治療薬の通販の仕事などに従事していたものが、この同じ十二月に倒産失業はしている。しかしここではそれを「秋」と称していること(但し、これは実際の季節の「秋」ではない読みも可能ではあるし、実際には同年秋には実質上の失業状態にあったと考えてもおかしくはない)、結婚直後であるのに「失戀」と言っていること(但し、実際にこの前に貘さんは行きつけのコーヒー店の女給「そこ子」に正に「どこへ消えてしまつたのか女の姿が見えなくなつたといふやうに」見捨てられていること、前に示したように実際の婚姻届は出していないことからも「失戀」を語っても少しもおかしくはないとはいえる)など、幾分、事実との微妙な違和感がないわけではない。但し、暫くはこれは昭和十二年秋を舞台とした創作と考えてよかろう。

 原書房刊「定本山之口貘詩集」では一行目が、

 

詩人をやめると言つて置きながら 詩ばつかりを書いてゐるではないかといふやうに

 

に、六行目が、

 

寄越したものはほんの接吻だけで どこへ消えてしまふたのか 女の姿が見えなくなつたといふやうに

 

に改稿されている。【2014年6月7日追記】思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証した際、ミス・タイプを発見本文を訂正した。

杉田久女句集 63 子ら



仮名かきうみし子にそらまめをむかせたり

 

忍び來て摘むは誰が子ぞ紅苺

 

苺摘む盗癖の子らをあはれとも

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 吉田火祭

 吉田火祭

 

火のまつりくらき燈火を家に吊り

 

火祭の道よりひくく蚊帳吊られ

 

火まつりの戸口にちかく子がねまり

 

火のまつり子等は寢(い)ねしか町に見ず

 

火祭の戸毎ぞ荒らぶ火に仕ふ

 

湖(うみ)をへだて火まつりの火がおとろふる

 

火祭のその夜の野山月に靑く

 

[やぶちゃん注:山梨県富士吉田市上吉田(かみよしだ)地区で行われる日本三奇祭の一つとされる鎮火大祭。同地区の北口本宮冨士浅間神社と境内社(摂社)諏訪神社の両社の秋祭りで、毎年八月二十六日と二十七日に行われ、通称「吉田の火祭り」と呼ばれる。現在、重要無形民俗文化財。二十六日の午後に本殿祭・諏訪神社祭が催行され、大神輿・御影は参拝者で賑わう氏子中に神幸、暮れ方に御旅所に奉安されると同時に高さ三メートルの筍形に結い上げられた大松明七十余本、家ごとに井桁に積まれた松明が一斉に点火され、街中は火の海と化して祭りは深夜まで賑わう。二十七日の午後に二基の神輿が氏子中を渡御、夕闇迫る頃に浅間神社に還御する。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿の後に従って高天原を廻るこの時を本祭りのクライマックスとし、二十七日を「すすき祭り」とも称している(ここまで「ふじよしだ観光振興サービス」の吉田火祭公式サイトの記載に拠った)。私は残念ながら実見したことがなく、例えば二句目などは実際に祭りを体験すればもっとすんなり腑に落ちる句なのであろうなどと感じている。ただ、ウィキの「吉田の火祭に載るところの、「火祭の伝承と変遷」と、特に「祭礼をとりまく風習と伝承組織」パートの中の、前年の祭りから一年間の間に身内に不幸のあった死の穢れにある者を「ブク(忌服)」「ブクがかかる」とする禁忌、ブクのかかった者は祭礼の期間中、上吉田地区以外へ出ることになっていてそれを「テマ(手間)に出る」と表現するという一連の記載は、総じて祭りが苦手な私でさえ非常に興味深く読んだ。このウィキの記載は詳細を極め、筆者の火祭りへの正に熱い思いが伝わってくる非常に素晴らしい必読ものである。なお、六句目の「湖(うみ)」は山中湖と思われる。この年の一夏、多佳子は健康すぐれず、七月から山中湖畔の「ニューグランドロッヂ」(現在の山梨県南都留郡山中湖村平野にある「ロッヂ花月園」は跡地に建つ)に一家で避暑している。年譜には滞在を終えての『帰路は村人の曳く木箱の橇であった』とある。]

虹   八木重吉

 

この虹をみる わたしと ちさい妻、

やすやすと この虹を讃めうる

わたしら二人 けふのさひわひのおほいさ

 

[やぶちゃん注:「讃」は底本の用字。]

老いた町

市警から私の居住地界隈で振り込め詐欺が頻発しているので注意されたいという電話を妻が受けたという。……そういえば昨日、犬の散歩をさせながらこんなことを考えていた。……僕が小学生の頃、僕の十数軒の町内の組だけでも常時十人近くの小学生がいたものだった。……しかし今、目にする小学生はもう一人もいない(いつも朝挨拶を交わした子は昨年中学へ進学した)。……この町内から子供の歓声が聴こえなくなって久しい。……確かに僕だけではなく……世界そのものが老いたのだなあ、と感じたのだった……

2014/02/21

僕は

昔――僕が若い教師の頃知っていた少年がいた――彼はブログであらゆる現実に対して僕がいつも怒っていることを、いつも見ては、心配しては知人に語っていたという……昔馴染みのあの少年……僕はもっと愛さねばならなかった……あの少年のことを……僕はもっと愛さねばならなかった……

あの少年はもう……この世にはいないのだ……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 20 実験室のスタッフ

 実験室の仕事はドンドン進んで行く。大学当局が助手として私につけてくれた、ハキハキした利口な男が、私が米国から持って来た蒐集品に、札をつけることを手伝う以外に、ボーイが一人いて、部屋を掃除し、片づけ、解剖皿から残品を棄て、別に用がなければ近郊へ行って、私のために陸産の貝や、淡水産の貝を採集してくれる。これ等の人々が如何にもいそいそと、そして敏捷に、物を学び、且つ手助けをすることは、驚くばかりである。学生の一人、佐々木氏は、人力車をやとって、市中の遠方へ採集に出かけた所が、車夫も興味を持ち出して採集した為に、材料を沢山持って帰ったと私に話した。

[やぶちゃん注:「大学当局が助手として私につけてくれた、ハキハキした利口な男」は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「18 教室・弟子・講義」に載る助手(正式職名は「教場助手補」)の種田織三(安政三(一八五六)年~大正三(一九一四)年)である。磯野先生によれば(前掲書一六八~一六九頁)、

   《引用開始》

種田織三は、舘(たて)藩(明治二年北海道檜山郡厚沢部(アッサブ)に新設)の出身。諸藩から推挙された「貢進生」の一人として明治三年に大学南校に入り、九年に東京開成学校予科を出た。松浦や佐々木、松村任三とは同級になる。しかし、理由はわからないが、種田は本科には進まなかった。そしてモースの助手になるのだが、モース留守中の大森貝塚発掘には参加していないので、雇傭はその後であろう。モース在任中は動物学教室の標本の採集や整理に従事、モースの北海道・東北旅行ならびに九州・関西旅行にも同行、モースにとっては無くてはならぬ人物だった。やがて、モース帰国直後に完成した博物場の管理を受け持ったが、明治十八年九月に東大を去る。その後、東京商業学校、山形県中学校、山形県師範学校などで教えていたらしいが、のちの消息は不明である。

 いま東京大学理学部動物学教室には、ダーウィンの『種の起源』第六版(一八七二年米国版)が一冊残されているが、それには『固(モ)ト此書ハ種田織三氏ノ所有ナリシモ故松浦氏ノ所有トナリ次テ佐々木忠次郎ノ所有スルモノナリ』と記した付箋がついている。種田は日本で『種の起源』にもっとも早く目を通した人の一人だったのである。

   《引用終了》

と記す。『のちの消息は不明である』とあるのだが、ネットで検索を掛けると、脇本茂紀氏(社民党で現在は広島県竹原市市会議員をなさっておられる)の公式サイトの内の「旧制忠海中学校初代校長・種田織三」(二回連載)に、上記の箇所を引用された後、

   《引用開始》

 この本では「種田ののちの消息は不明である」と書かれているが、この種田織三こそ、明治30年忠海中学校初代校長として「荊棘に満ちた過渡期を担い、光輝ある忠中史の礎石を固める」(梅林慈円「忠中先史時代への回想」『忠海高等学校の100年』P66)のである。

 忠海高等学校では創立百周年を記念して、書庫を整備したが、その蔵書のなかには、種田織三がその博学にもとづいて収集したであろう稀覯本が存在するそうである。

   《引用終了》

とあり、第二回の部分によって種田織三が明治二九(一八九六)年四月から明治三一(一八九八)年四月までの三年間忠海(ただのうみ)中学校初代校長として赴任していた事実が明らかになる。この忠海中学校とは現在の広島県竹原市忠海床浦四丁目にある広島県立忠海高等学校のことである。さらに「ひろしま英学・英語教育史」のサイト内に種田織三ページがあり、そこには明治二六年五月九日附で「尋常師範学校尋常中学校高等女学校英語科教員タルコトヲ免許ス(文部大臣井上毅)」(徳島県脇町中学校所蔵職員履歴書)というデータが、さらに『忠海中学ではデクラメーションと英文解剖の授業を行った。発音と一字一句の文法的解剖を徹底的に教えた』という附記が載る。これによって磯野先生が『消息は不明』とされていた種田氏の生涯は、晴れて明らかになったといってよいであろう。

「ボーイが一人」彼は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「18 教室・弟子・講義」に載る職員で、雑用係の菊池松太郎(正式職名は「雇」)である。その記載によれば、本書の他の箇所では「小使」「従者」「マツ」(この「マツ」という用字は今のところ、ここまででは出てきていないと思う。原文で検索もかけたが不明)と記されている人で、『前歴は皆目不明。またいつ動物学教室に来たかもわからない。モースの旅行には種田とともに従い、モースを助けた。器用なひとだったらしく、標本作成に熟練して重宝がられ、明治二十七年まで動物学教室にいた。その後、敬業社という博物学関係書の出版社にあった標本部に移ったが』、『以後の足取りはわからない』とある。

「佐々木氏」佐々木忠次郎。既注。]

中島敦 南洋日記 一月三日

        一月三日(土)

「きたかぜ」を讀む、エスキモー(グリインランド東岸の)生活記錄。著者はポール・エミイル・ヴィルトオルなる土俗學者。面白し、

[やぶちゃん注:これは恐らくフランスの極地探検家で民俗学者であったポール・エミール・ヴィクトール(Paul-Émile Victor 一九〇七年~一九九五年)の著作と思われる。彼はフランス極地探検隊の創設者で、一九四七年から一九七六年の約三十年の間に遠征隊を率いて北極圏のグリーンランドと南極圏のアデリー沿岸の極地探査に携わった。但し、「きたかぜ」に相当する書名は仏語ウィキ“Paul-Émile Victorには見出せなかった。ただ、精神科医藤田博史氏の公式サイト内に晩年の彼(引退後、彼はポリネシアのボラボラ島の環礁内にあるモツ・タネ島に住んでいた)と親しくした藤田氏がものしたポール・エミール・ヴィクトールを偲んでという感動的なエッセイがあり、それによれば、『一九三四年、二十七歳の時に、グリーンランドのエスキモー文化に強く惹かれるようになった』とあり、加えてそこには驚くべきことに、若き日の彼は実は当初の興味は極地なんどでにはなく、南太平洋のポリネシア文化であったとあるのである。敦が聴いたらきっと快哉を叫ぶ気がする事実ではないか。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(2)

紅棹に山吹流す小歌舟

君が醉歌に眠る春の川

 

小雨黄に垣木蓮に低うして

忍ぶに人の口疾(くちど)なる夜や

 

[やぶちゃん注:「垣木蓮」は原本では「桓木蓮」。少し迷ったが全集校訂本文を採った。「口疾」は形容詞ク活用の「口疾(くちと)し」で、返事や返歌の受け答えがす早いこと、または、もの言うさまが軽率だという謂いである。後者の意であろう。]

 

いさゝかは我と興ぜし歌も見き

いま寂寞にたえぬ野の路

 

[やぶちゃん注:「たえぬ」はママ。萩原朔太郎満十六歳の時の、『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首の第四首、

 いささかは我れと興ぜし花も見き今寂寞にたえぬ野の道

と分かち書きを除けば相同歌。]

 

     何とてかの人の臆病なる

よれば戸に夢たゆたげの香ひあり

泣きたる人の宵にありきや

 

[やぶちゃん注:同じく『文庫』第二十三巻第六号(明治三六(一九〇三)年八月発行)に「上毛 萩原美棹」名義で掲載された七首の第二首、

 よれば戸に夢たゆげたげの香ひあり泣きたる人の宵にありきや

と分かち書きを除けば相同歌。]

 

      旅にいづる日

母や指をあしたかむなの百合の薰り

今宵枕の月にえたえぬ

 

[やぶちゃん注:「たえぬ」はママ。上句は、母が旅に出るその日に、「お前の癖の、朝の寝起きに指を嚙むのはいけないよ」と言ってくれた、その百合のような母の薫り、若しくはそれが現にある旅宿の百合の実際の薫りに導かれたという表現だろうか。識者の御教授を乞うものである。]

 

艷の名をたれや負はせし桃緋桃

ゆうべこの子に情もたぬ雨

 

[やぶちゃん注:「ゆうべ」はママ。「桃緋桃」は原本では「桃※桃」(「※」=「糸」+「兆」)。校訂本文を採った。]

 

雨細う情に春ゆく伏見途

京へ三里の傘おもからぬ

 

罪許せ臙脂(ゑんじ)梅花の緣(ゑにし)ふかき

別れなればの一夜の枕

 

[やぶちゃん注:読みの「ゑんじ」「ゑにし」はママ。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年十月

   那覇にて

ハブ壺をさげて從ふ童かな

 

   高野山

飮食(をんじき)のもの音もなき安居寺

 

[やぶちゃん注:「安居」は「あんご」と読み、元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい、終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)・夏安居(げあんご)ともいう(平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした)。この年、鳳作は紀州高野山に於ける俳誌『山茶花』夏行に参加するため近畿地方に旅行しているが、それは年譜によれば八月のことである。とすれば、この安居寺とは狭義の夏安居の時期ではなく、夏安居に相当する暑い夏の静寂に満ちた高野山金剛峯寺のそれを詠じたものであろう。

 

十方にひびく筧や安居寺

 

一方の沙羅の香りや安居寺

 

[やぶちゃん注:「沙羅」は「さら」若しくは「しやら(しゃら)」と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科の娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキのナツツバキ及びサラソウジュに拠った)。]

 

一痕の月も夕燒けゐたりけり

 

雨蛙をらぬ石楠木なかりけり

 

[やぶちゃん注:「石楠木」は「しやくなげ(しゃくなげ)」と読んでよかろう。「石楠花」では花に視点がフレーム・アップしまうのを避けた用字と思われる(但し、シャクナゲをかく表記するのは一般的とは言えない)。

 ここまでの六句は十月の発表句。]

飯田蛇笏 靈芝 大正二年(二十句)

   大正二年(二十句)

 

ゆく春や流人に遠き雲の雁

 

木戸出るや草山裾の春の川

 

古き世の火の色うごく野燒かな

 

人々の坐におく笠や西行忌

 

[やぶちゃん注:「西行忌」西行は建久元(一一九〇)年二月十六日に享年七十三歳で没した。但し、広く「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」の詠歌に従い、西行が臨んだ前日の釋迦入滅の同日二月十五日を忌日とする傾向が強いから、これも十五日であろうか(私はこの習慣を頗るおかしいと思っている。西行も後世のそのような風習を決して望んでいないと私は思う)。なお、旧暦だと大正元年の二月十六日は三月七日(水曜)に相当する。]

 

林沼の日の靜かさや花あざみ

 

[やぶちゃん注:「林沼」は「りんせう」と音で読んでいよう。]

 

ひえびえと鵜川の月の巖かな

 

[やぶちゃん注:「ひえびえ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

行水のあとの大雨や花樗

 

[やぶちゃん注:「大雨」は「たいう」と音で読んでいよう。

「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。センダン・一名センダンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の花。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。]

 

あまり強き黍の風やな遠花火

 

囮鮎ながして水のあな淸し

 

[やぶちゃん注:「囮鮎」老婆心ながら、「をとりあゆ(おとりあゆ)」と読む。友釣り用のそれである。一般には雄よりも雌の方を用いた方が釣果が良いとされる。]

 

人の國の牛馬淋しや秋の風

 

秋風や野に一塊の妙義山

 

碪女に大いなる月や濱社

 

[やぶちゃん注:「碪女」は「きぬため」と読む。これは薪能での世阿弥の能「砧」の奉納舞の光景ででもあろうか。]

 

大峰の月に歸るや夜學人

 

ともし火と相澄む月のばせをかな

 

春隣る嵐ひそめり杣の爐火

 

冬の日のこの土太古の匂ひかな

 

雞とめに夕日にいでつ榾の醉

 

[やぶちゃん注:「雞とめに」の「雞」は「とり」で、恐らく庭に離してあった鷄を籠か小屋の内に留めに出たという景であろうが、下の句の「榾の醉」が分からぬ。蛇笏の真摯さからはこんなに早々と一人囲炉裏端に一献傾けていたとも思われぬから、これは囲炉裏端で榾を燃やしていたその熱気にふらりときたことをいうか。]

 

月低く御船をめぐる千鳥かな

 

山晴をふるへる斧や落葉降る

來意   山之口貘

 來意

 

もしもの話この僕が

お宅の娘を見たさに來たのであつたなら

をばさんあなたはなんとおつしやるか

 

もしもそれゆえはるばると

旗ケ岡には來るのであると申すなら

なほさらなんとおつしやるか

 

もしもの話この話

もしもの話がもしものこと

眞實だつたらをばさんあなたはなんとおつしやるか

 

きれいに咲いたあの娘

きれいに咲いたその娘

眞實みないでこの僕がこんなにゆつくりお茶をのむもんか。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月6日:ミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を全面改稿した】初出は昭和一〇(一九三五)年五月号『詩人時代』(発行所は東京市小石川区戸崎町の現代書房)。後に昭和一五(一九四〇)年三月十八日刊の萩原朔太郎編「昭和詩鈔」(冨山房)に同じく本詩集の「襤褸は寢てゐる」「鼻のある結論」と合わせて三篇が収録されている(他にも三回の再録あり。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」解題を参照されたい)。

「旗ケ岡」東京都品川区旗の台。旧荏原郡荏原町大字中延字旗ヶ岡。池上電気鉄道開業時(昭和二(一九二七)年八月)に「旗ヶ岡」駅(現在の東急の「旗の台」駅よりやや五反田寄りのあった)が出来、長くここの地域名として用いられて、現在も商店街にその名を冠する(ここまでは主にウィキの「旗の台駅」を参考にした)。推測であるが、本詩集刊行の前年の昭和一二(一九三七)年十二月に結婚した安田静江の実家がここにあったものか。これ以前にもバクさんには何人かの女性との恋愛関係はあったが、実家を訪ねる景からも、また本詩集の祝祭性からも貘の純情さからもこれは妻静江への貘の「おもろそうし」なのだと私は信じて疑わぬのだが。]

杉田久女句集 62 夕顔

 

夕顏に水仕もすみてたゝずめり

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年三十九の時の作。「水仕」は「みづし(みずし)」と読み、台所で水仕事をすること。]

 

夕顏やひらめきかゝりて襞(ひだ)深く

 

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年の作。]

 

夕顏を蛾の飛びめぐる薄暮かな

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年の作。]

 

逍遙や垣夕顏の咲く頃に

 

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年の作。]

 

夕顏を見に來る客もなかりけり

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年三十九の作。個人的にこの夕顔句群、頗る附きで好きである。但し、以上に注した通り、実際には連作ではない。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 稻妻

 稻妻

 

いなづまを負ひし一瞬の顏なりき

 

[やぶちゃん注:芭蕉の名句「稻妻や顏のところが薄の穗」のインスパイアに見えるが、並べてみると不思議にこちらが自然、女性の句だと印象され、しかもそう感じた時に芭蕉のそれとは異なる凄絶さが読むものを襲うところが如何にも多佳子の句らしい。]

 

いなびかり想ひはまたもくりかへす

夜の 空の くらげ   八木重吉

くらげ くらげ

くものかかつた 思ひきつた よるの月

2014/02/20

耳嚢 巻之八 奢侈及窮迫事

 奢侈及窮迫事

 

 ある人かたりけるは、椀屋久兵衞といふ町人椀久(わんきゆう)と名を唱へ、遊興侈(し)をなす事人口にかいしやし、淨瑠璃又戲場の取組にもなしけるが、右久兵衞は大阪の町人にて甚(はなはだ)有德(うとく)の者なりしに、椀久と唱ふる者奢を極め遊興に長じ、身上(しんしやう)沒落して後は農人橋(のうにんばし)とか天滿橋(てんまばし)とかの邊りに幽(かすか)に家居(いへゐ)して、其さま乞食同樣に成りしを、世に有(あり)し時のとも是を憐み、誠にいにしへ椀久ともいはれし者、かゝる仕合(しあはせ)氣の毒なり、椀久いにしへあくまでも菜飯(なめし)に田(でん)がくを好みたる事なればと、彼(かの)久兵衞が小屋へたづね、昔を物語りして、好物の品ふるまわん間いつか來れと約し、厚く忝(かたじけなし)と禮いふて其日に至り來りけるゆえ、兼て奢れる久兵衞なれば迚、菜飯田樂ともにいかにも心を用ひ振まひしに、菜飯一二盃田がく二三本を食して、最早給(た)べまじきといふゆゑ、格別の好物と聞(きき)て心を用ひしに、いかに少しくたべ給ふと尋(たづね)しに、是(これ)にて事たれりとて箸を止めけるゆゑ、衰へぬれば食事もかくあるやと思へど、譯もあらんと切(せち)に尋ねければ、しからば可申(まうすべし)、菜飯は美濃の上白米にて、京菜を一枚づつ撰びて焚き、田樂も祇園の水にて拵(こしらへ)し豆腐、其外串(くし)幷(ならび)に附(つく)る味噌も、しかじかになして給(たべ)しゆゑ、むかし菜飯田樂の好物の名を取りしなりと答(こたへ)し由。かゝる奢にては衰へしもしかあるべしといひし事を、今は聞(きき)傳へしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:笑われることへの武士の恥の拘りから零落すれどもお大尽の拘りという点では何か不思議に繋がって読める。

・「奢侈及窮迫事」は「しやしきゆうはくにおよぶこと」と読む。「奢侈」(しゃし)は度を過ぎて贅沢なこと、身分不相応に金を費やすこと。

・「椀屋久兵衞」一説に椀屋久右衛門とも。大坂難波御堂前に住んでいた豪商であったが、新町の傾城松山と馴染み、豪奢の果てに破産、親族によって座敷牢へ押し込められた末、気鬱から発狂して京都五条坂辺で養生したが、延宝五(一六七七)年六月二十一日に病死(狂死又は水死)したという。底本の鈴木氏注によれば、『その豪遊ぶりは、中元に正月の遊びをするという企てで、廓中の青楼に門松を立てさせ、自ら年男となり、歩金小粒を桝に入れて座敷々々を撒き歩いて、太鼓末社』(幇間。太鼓持ちのこと。弁慶・男芸者などの別称が多い)『に拾わせた』とある。彼と松山の情話は当時、数多くの歌舞伎・浄瑠璃・音曲・小説などに仕組まれた。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年であるから、彼の死からは既に百三十年も経過している。都市伝説としては頗る古いものである。

・「農人橋」現在は大阪府大阪市中央区を流れる東横堀川に架かる中央大通平面道路の橋及び東詰周辺の町名。

・「天滿橋」現在は大阪市北区を流れる大川に架かる橋及び同天満橋南詰周辺の地域名。現在の農人橋とは直線で凡そ千二百メートルほど離れており、現行では常盤町から天満橋京町まで多くの町を含む。

・「祇園」岩波版で長谷川氏は「祇園の水にて」に注されて、『京都祇園の二軒茶屋の田楽豆腐は名物』とある。平凡社「世界大百科事典」の「茶店」の項には『祇園社内の2軒の店と北野社門前の店に始まるとされ、〈二軒茶屋〉の名で知られた前者の〈祇園豆腐〉と後者の粟餅は,江戸初期すでに著名なものであった』とあり、同「豆腐」の項には、『豆腐料理店は各地にあったが、最も古いのは慶長年間(1596―1615)までにできた京都祇園社境内の二軒茶屋で、祇園豆腐と呼ぶ田楽を売物にし、江戸にもこれを称する店が多くあった』とある(孰れの引用もコンマを読点に変えた)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奢侈の果て窮迫に及べる事

 

 ある人の語ったことに……

 

……椀屋久兵衛と申す町人、これ「椀久(わんきゅう)」と自称致いて、その遊興、奢侈に及びしことは、これ、人口に膾炙致いております通りで、浄瑠璃やら、はたまた歌舞伎芝居なんどへも仕組まれて御座りまする。……さてもこの久兵衛と申すは、これ、大阪の町人にて、もとは世にも大層なる豪商として知られた商家にて御座いましたが、「椀久」と唱えしこのの者、これ、奢侈を極め、遊興に現をぬかし、身上(しんしょう)没落致しまして後は……これ、農人橋(のうにんばし)とか天満橋(てんまばし)とかの辺りの、みすぼらしき茅屋に住まいなして御座ったものの、その有様は、もうこれ、乞食同前のもので御座いました。……「椀久」がお大尽として世に知られて御座った折りの友が、これを知って憐み、

「……誠に……古え「椀久」とも評判をとった者……かかる始末と相い成りしこと……実に気の毒なことじゃ。……そうじゃ……かの「椀久」……古えにては、飽くまでも菜飯(なめし)に田楽を好んで御座ったればこそ……」

と、かの久兵衞が小屋を訪ね、往時の物語りなんど致いた上、

「……一つ、好物の品なんど振る舞わんと思うによって……何時何時(いついつ)に拙宅へ参らるるがよろしい。……」

と約したところが、厚く、

「……それは忝(かたじけな)きこと……」

と礼を述べて御座ったと申す。

 さてもその日に至り、かの「椀久」、友が屋敷へ参ったによって、その友は兼ねてよりの奢りたる久兵衛なればとて、菜飯も田楽も、ともに相応の上製の品を素材に、如何にも心を込めて振る舞(も)うて御座った。

 ところが、菜飯は茶碗一、二杯――

 田楽も二、三本を食うたところで――

「……最早……食べとうは御座らねば……」

と申したによって、

「……格別の好物と聞いて御座ったればこそ、心を込めてよきものを拵えて御座ったに…如何にも少ししかお食べになられぬとは……これ……」

と訊ねたところ、「椀久」、

「……いやいや……これにてすっかり満足致いたれば……」

と静かに箸を置いた。

 されば、かの友なる者、

『……すっかり年老いたによって……これ、食事も細ぅなったるものか……』

と思うたれど、どうも様子のおかしきところの見えたれば、何か悪き病いにでも罹って御座るのではと心配致いて、

「……これ以上はお食べにならぬとは……何か……これ、きっと訳の御座ろうほどに……一つ正直にお聞かせ下さらぬか?……」

と切(せち)に訊ねたところが、遂に「椀久」、

「……しからば……申し上げましょうぞ。――そもそも菜飯は美濃の上白米にて製し、よき京菜を一枚ずつこれ選びて炊き、田楽も祇園の水にて拵えたる豆腐にて――その外にも串並びにつくるところの味噌もこれ、しかじかの産のものをしかじかに調え製したるものを用いて食べて御座ったによって――我ら「椀久」――昔――「菜飯田楽を好物とせる者」――との名を世間にて貰(もろ)うて御座った。……この度……供されたこれらは……残念なことに……我らが口には……合い申さねば、のぅ。……」

と答えたと申しまする。……

 ……かかる奢侈にては、これ、衰えんは必定ならんと、世間にても言い習わして御座った……ということを、我ら、今に伝え聞いて御座いまする。……

 

とのことで御座ったよ。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 日蔭の茶屋 

    ●日蔭の茶屋

今は昔軍見山の山蔭に些(さゝや)かなる茶店ありき鎌倉より三浦三崎の往還とて、日々(にちにち)往復するもの、此茶店に憩ひて、晝飯をしたゝめける、三崎よりするも鎌倉よりするも、殆むと道程(みち)の中央(なかば)なればにや、誰(た)れ彼となく休憩(やす)むことゝしつ、いつしか隱れなきものにせられつる斯くて海水浴場の開くるに從ひ、純然たる旅館となり、一大宏樓を起す、日蔭の茶屋を知らぬものもなし。

東京或は横濱(はま)より來て、別莊の用意などなき人々は、概ね此茶屋に宿(しゆく)するか、さなくは別項に記したり、養神亭、長者園に投す、此日蔭の茶屋は外國人を迎ふるの準備も聊か整ひ居れば、時たま碧眼紅毛の客を見ることあり。宿泊のみならず、料理も營めば、何のこともなし、手を三ッ鳴らせば、鮮肴佳酒立ろに呼ぶを得べく、凉風攔を吹いて衣袂爲めに濕(うるほ)ひ、前面は開く遠淺の海水浴場、豆相の翠巒煙の如し。

[やぶちゃん注:「軍見山」は「いくさみやま」と読む。鐙摺山のこと。既注。

「日蔭の茶屋」は既注。

「養神亭」は項として前出。

「長者園」の既注で項としては後に出る。

「衣袂」は「いべい」と読む。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 19 晩餐二景

 今晩菊池教授が晩餐に来た。我々は十時までドミノをして遊んだ。我々がそれをやっている最中に、彼の人力車夫が縁側へ上って来て、閉ざした鎧戸の間から声をかけた。日本の家屋には呼鈴というようなものがないので、彼も鈴を鳴らすことは知らなかったのである、彼は先ず低い声で(日本語であることはいう迄もない)、「一寸お願いがあります」といい、次に自分の主人がいるかどうかを質ねた。姿の見えぬ彼の声を聞くことは、実に奇妙だった。私は単に、日本人が生れつき丁寧であることの一例として、この出来ごとを記するにとどまる。

[やぶちゃん注:「菊池」東京大学理学部教授(純正化学及び応用数学担当)菊池大麓。既注。当時数えで二十四歳。

「ドミノ」底本では直下に石川氏の『〔卓上遊戯の一種〕』という割注が入る。

「記するにとどまる」はママ。]

 

 純日本風の生活をしている外山教授が、自宅へ我我一家族を、晩餐に招待してくれた。家へ入るに先立って、我々はすべて靴を脱ぎ、それを戸外に置いた。子供達は、水をジャブジャブやる時か、寝床へ入る時か以外に、靴をぬいだことなんぞ無いので、大きに面白がった。外山氏の夫人と令妹とが我々にお給仕をし、我々の食事が終ると彼等が食事をした。家へ入ると、先ずお茶と、一種の甘いジェリー菓子とが出た。正餐は四角な漆器に入れて持ち出され、我々は床に坐っていて、盆も我々の前に置かれる。子供達が、慣れ親んでいる食物とはまるで味の違う、いろいろな食品を食おうとする努力は、見ていて興味が深かった。私は徐々に、殆どすべての味がわかりつつあり、非常に好きになった料理もいくつかある。お汁が二種類出た。一つは水のように澄んでいて、中に緑色の嫩枝(わかえ)がすこしと、何等かの野菜を薄く切ったものとが入っていた。他の一つはカスタードに似ていて、煮た鰻と茄子とが入っていた。次には一種のオムレツ、百合根、ヤムの白いようなもの、それから色は赤味がかった緑色で、実に美味な一枚の長い葉とが出た。食品の主要部分は野菜である。外山の小さな姪が、我々のために彼女の母親の三味線に合わせて、踊って見せてくれた。この舞踊は、典雅な姿態と様子とからなり、誠に可愛らしかった。これは事実に於て無言劇で、歌い手が言葉で主題を提供し、舞い手は身ぶりによって、その物語の要点を真似するのである。

[やぶちゃん注:「外山教授」外山正一。既注。当時数えで三十一歳。

私の乏しい和食・和菓子の知識では、ここ出る「一種の甘いジェリー菓子」であるとか、「カスタードに似ていて、煮た鰻と茄子とが入っ」た料理(私の妻曰く、「茶わん蒸しじゃないの?」)、果ては「色は赤味がかった緑色で、実に美味な一枚の長い葉」とは何物か、見当もつかない。これまた情けなくも識者の御教授を乞うものである。

「カスタード」底本では直下に石川氏の『〔牛乳と鶏卵とを混ぜて料理したもの〕』という割注が入る。

「ヤム」底本では直下に石川氏の『〔薯蕷〕』という割注が入る。「薯蕷」は音「しょよ」であるが恐らくは「ながいも」と訓じておられよう。長芋(単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)のことである。]

中島敦 南洋日記 一月二日

        一月二日(金)

 午後より、中島幹夫、材料を仕入れ來り、土方氏方にて、鍋三杯のしるこを作り、腹一杯喰ふ。うまし。餅も充分あり、砂糖は三百匁使ふ。

[やぶちゃん注:「中島幹夫」二十四日の注で示した岡谷公二氏の「南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦」に、南洋群島での文化活動を行っていた南洋庁の外郭団体「南洋群島文化協会」で月刊誌『南洋群島』の編集長で、土方久功と親しく交わった人物である旨の記載がある(但し、敦はここコロールに来て土方を通じて初めて逢ったらしい)。彼の姓名はここ一ヶ所にしか現れないが、岡谷氏はフル・ネームの記載で「氏」を附していない点に着目し、敦より『年下で、かなり気安くつきあっていたふしがある。しかし敦は滞在わずか八ヶ月で帰国し、その年に早逝してしまうし、島に残った幹夫のほうも、昭和十八年、アメリカ軍の爆撃によって死亡したため、二人の間柄がどのようなものであったかは、今となってはわからない』と記しておられる。

「三百匁」一キロ二百五十グラム。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「若きウエルテルの煩ひ」(1)

[やぶちゃん注:向後暫く、底本の「萩原朔太郎全集」第十五巻所収の「ソライロノハナ」(昭和五二(一九七七)年に萩原家が発見入手したもので、それまで知られていなかった自筆本自選歌集。死後四十年、製作時に遡れば実に六十余年を経ての驚天動地の新発見であった。「自敍傳」のクレジットは『一九一三、四』で一九一三年は大正二年で同年四月時点で朔太郎は満二十七歳であった)の歌群「若きウエルテルの煩ひ」の章から順次短歌を掲載する。

 私は既に「ソライロノハナ」の内、

 自敍傳

 大磯ノ海

 平塚ノ海

をブログにて電子化しているので参照されたい。最終的には「ソライロノハナ」総てを電子化する予定である。]

 

柴の戸に君を訪ひたるその夜より

戀しくなりぬ北斗七星

 

春こゝにこゝに暫しの花の醉に

まどろむ蝶の夢あやぶみぬ

 

ゑにし細う冷たき砂にたゞ泣きぬ

戀としもなき濱のおぼろ月

 

[やぶちゃん注:「ゑにし」はママ。この一首は、一ノ宮青松館から出された明治三五(一九〇二)年八月十三日消印萩原栄次宛葉書に載る三首の内の一首、

えにし細う小き砂にたゞ泣きぬ歌は名になき濱のおぼろ月

の相似歌であるが、かなり印象が異なる。]

 

朝ざむを桃により來しそゞろ路

そゞろ逢ふひとみな美しき

 

[やぶちゃん注:この一首は萩原朔太郎満十六歳の時、『坂東太郎』第三十四号(明治三五(一九〇二)年十二月発行)に掲載された、最初期の短歌五首連作「ひと夜えにし」の三首目、

 

 あけぼのの花により來しそぞろ道そぞろあふ人皆うつくしき

 

の類型歌である。]

 

忍ひつゝ人と添ひ來し傘の一里

香は連翹の黄と迷ふ雨

 

[やぶちゃん注:「忍ひつゝ」はママ。下句は「ソライロノハナ」原本では「香は連翹の黄と述ふ雨」となっているが、これでは如何にも意味も通らず、韻律も悪い。やや躊躇は感じるが底本の誤字を支持し、ここは校訂本文の「迷ふ」を採った。]

 

繪日傘は桃につゞきて淸水院の

御堂十二に晝の鐘なる

 

[やぶちゃん注:「淸水院の御堂十二」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

我れ寧ろ煩(もだ)へに悶へ戀に戀ひて

野邊に我が世を笛吹かん願ひ

 

[やぶちゃん注:「煩へ」「悶へ」は孰れもママ。]

 

君に逢はず山百合つみて歸りくる

小出松原なくほとゝぎす

 

[やぶちゃん注:「小出松原」「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)の「郷土望景詩」の私の偏愛する一篇「小出新道」の自註「郷土望景詩の後に」に「小出松林」で出る。一群の鳥(歌) 萩原朔太郎 短歌十三首  附習作ニ十首 大正二(一九一三)年八月の私の注を参照されたい。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十五年(五句)

   明治四十五年(五句)

       ――大正元年――

 

門前に牛羊あそぶ社日かな

 

野おぼろに水口祭過ぎし月

 

[やぶちゃん注:「水口祭」は「みなくちまつり」と読み、稲作儀礼の一つ。一年の豊作を祈願して苗代に種籾をまいた日に水口(水田への水の取り入れ口)で行う田の神への神饌の儀式。この水口に土を盛って躑躅・山吹・栗などの当季の花や木の小枝などを刺し立て、お神酒や籾の残りで作った焼き米を供える。]

 

二三人薄月の夜や人丸忌

 

[やぶちゃん注:「人丸忌」歌聖柿本人麻呂の忌日。陰暦三月十八日で明治四五(一九一二)年は五月四日の土曜に当たっていた。当日の月齢は一六・六で大潮で十五夜であった五月一日から三日目の居待月であった。]

 

雪掃けば驛人遠く往きにけり

 

[やぶちゃん注:この「驛人」(えきびと)とは馬で荷を運送す人夫のことであろうと私は読んだが、後に「踏切」の句が並ぶとやや自信がなくなる。しかしこれが鉄道の「驛」だとすると、「驛人」という語の如何にもな生硬さ(それは人足の意であっても異例で大差ないが)と「遠く往きにけり」の表現が嚙み合わないように私には感じられる。]

 

踏切の灯を見る窻の深雪かな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「深雪」は「みゆき」と読み、本来は「み」は美称の接頭語で雪の美称、或いは、深く積もった雪・深雪(しんせつ)をもいう。「窓の」とあるから前者でとるのが自然であろう。]

思辨   山之口貘


 思辨

 

科學の頂點によぢのぼる飛行機類

海を引き裂く船舶類

生きるとかいふ人間類

 

ではあるが

生きつ放しの人間なんてないもんか

生きるのであらうかと思つて見てゐるとみるみるうちに死んでしまふ人間類

ゆきつ放しの船舶なんてないもんか

出帆したのかと思つてゐたら戻つて來てゐる船舶類

飛びつ放しの飛行橙なんてないもんか

昇天するのかと思ふまに垂下して來る飛行機類

 

まるで

風におびえる蛾みたいに

金粉を浴びては

翅をたゝみ

胴體にひそんでは

ふるえあがり

文明ともあらう物達のどれもこれもが夢みるひまも戀みるひまもなく 米や息などみるひまさへもなくなつてそこにばたばたしてゐても文明なのか

あゝ

かゝる非文化的な文明らが現實すぎるほど群れてゐる

みんなかなしく古ぼけて

むんむんしてゐる神の息吹を浴び

地球の頭にばかりすがつてゐる。


[やぶちゃん注:【以下、2014年6月6日 ミス・タイプを訂正、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により全面改稿】初出は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『歴程』で、後の昭和一六(一九四一)年二月発行の『歴程詩集 紀元二千六百年版』に先に示したように「加藤淸正」「友引の日」「彈痕」「日曜日」の四篇とともに再録された。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では七行目が、

生きるのであらうかと思つて見てゐると みるみるうちに死んでしまふ人間類

に、十九行目が、

文明ともあらう物達のどれもこれもが 夢みるひまも戀みるひまもなく 米や息などみるひまさへもなくなつてそこにばたばたしてゐても文明なのか

に改稿されている。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年九月 

   毒蛇

  沖繩にはハブ捕りを先祖代々より

  の家業としてゐる者があり、方言

  にて「ハブトヤー」と称してゐま

  す。砂や石垣を嗅ぎ歩いてハブの

  所在を知り多くは是を手捕りにし

  ます。鎌首を捉へるのです。簡単

  な罠にかけて捕る場合もあります。

  捉へたハブは一しごきすると死に

  ます。

 

炎天に笠もかむらず毒蛇とり

 

炎天や笠もかむらず毒蛇とり

 

[やぶちゃん注:前者は九月の『泉』発表句形、後者は昭和八(一九三三)年前後に自身が編んだ作品集「雲彦沖繩句輯」(公刊されたものではない)に載る句形。]

 

手捕つたるハブを阿呍の一しごき

 

飴伸ばす如くにハブをしごきける

 

[やぶちゃん注:「ハブトヤー」の文字列では検索で捕捉出来ない(これが本土ならば祭儀主催者を意味する「頭屋」や「当屋」を当てたくなるところだが無論違う)。沖縄方言で「家」は「やー」で「ト」は「捕る」の意か。「本家」を「むーとやー」「うふやー」と呼ぶが、もしかすると「ハブ(捕りの)本家」で「はぶむーとやー」が約されたもののような気もした。沖縄方言にお詳しい方の御教授を乞うものである。なお、「嗅ぎ歩いてハブの所在を知」るとあるが、実際のハブの体表は人間の嗅覚上はほぼ無臭に近い。ではこのハブ捕り職人は何を嗅ぎ分けているのかといえば、恐らくはヘビ類一般が持つところの尾の基部にある一対の臭腺からの臭いを嗅いでいるものと思われる。沖縄県の配布しているハブについての文書「ハブはこんな動物」によれば、この臭腺の内部に強い臭いを持った褐色の液体が入っていて、人が摑んだりするとこの液体を霧状に噴出させることがあり、種によって多少の差があるものの、キナ臭い匂いに近いもので、手などに附着するとなかなか落ちないとある(これは他個体に対して外敵からの攻撃の危険を知らせる効果があるという説がある)。]

 

   我が宿

この島の乏しき菖蒲葺きにけり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「菖蒲葺きにけり」は一般には「あやめふきにけり」(但し、「菖蒲」はそのまま「しやうぶ(しょうぶ)」と読んでも構わない)と読んで端午の節句の行事として前の夜から軒に菖蒲(しょうぶ)をさす行事をいう。邪気を払い家を火災から防ぐとされる。]

 

濱木綿や礁に伏せある獨木舟

 

[やぶちゃん注:「礁」は音「せう(しょう)」であるが、それでは如何にもである。私は「いは」と読みたくなる。また言わずもがな乍ら、「獨木舟」は「まるきぶね」と読む。]

 

干されある藻の金色や紫や

 

[やぶちゃん注:例えば心太や寒天の材料になる紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属するテングサ類(「テングサ」とは一種の名称ではなく、そうした材料となるテングサ藻類の総称である。テングサ属マクサ Gelidium crinale を代表種として、他にも同テングサ属のオオブサ Gelidium pacificum・キヌクサ Gelidium linoides・オニクサ Gelidium japonicum・ヒラクサ属のヒラクサ Ptilophora subcostata・オバクサ属のオバクサ Pterocladiella tenuis・ユイキリ属ユイキリ Acanthopeltis japonica 等多様の種を含む)は概ね採取時には種によって強い濃淡の違いがあるものの全般に赤紫色を呈しているが、海岸で天日干しと何度もの水洗い作業を繰り返すことによって黄色い飴色(金色)に変じてゆく。]

 

  那覇の廓

港より見えて廓の土用干

 

[やぶちゃん注:実に色彩鮮烈な諧謔に富んだ洒落た句である。]

 

芭蕉林ゆけば機音ありにけり

 

玉卷ける芭蕉を活けてありにけり

 

短夜守宮しば鳴く天井かな

 

破れなき芭蕉若葉の靜けさよ

 

榕蔭の晝寢翁は毒蛇捕り

 

[やぶちゃん注:「榕蔭」は「よういん」又は「ゆういん」で、「榕」は半常緑高木であるイラクサ目クワ科イチジク属 Ficus superba 変種アコウFicus superba var. japonica を指す。ウィキアコウ」によれば、漢字では「榕」「赤榕」「赤秀」「雀榕」などと表記し、国内では紀伊半島及び山口県・四国南部・九州・南西諸島などの温暖な地方に自生する。樹高は約一〇~二〇メートル、樹皮は木目細かい。幹は分岐が多く、枝や幹から多数の気根を垂らして岩や露頭などに張りつく。新芽は成長するにつれて色が赤などに変化して美しい。葉は互生し、やや細長い楕円形で滑らかで光沢はあまりなく、やや大ぶりで約一〇~一五センチメートル程。年に数回、新芽を出す前に短期間落葉する。但し、その時期は一定でなく同じ個体でも枝ごとに時期が異なる場合もある。五月頃にイチジクに似た形状の小型の隠頭花序を幹や枝から直接出た短い柄に付ける。果実は熟すと食用になる。『琉球諸島では、他の植物が生育しにくい石灰岩地の岩場や露頭に、気根を利用して着生し生育している』とある。]

 

ハブ捕にお茶たまはるやお城番

 

ハブ捕の嗅ぎ移りゆく岩根かな

 

ハブ踊る罠ひつ提げて去りにけり

 

ハブ穴にまぎれもあらぬ匂かな

 

兩側に甘蔗の市たつ埠頭哉

 

[やぶちゃん注:以上十八句は九月の創作・発表句。]

杉田久女句集 61 雨のごと降る病葉の館かな

雨のごと降る病葉の館かな

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 霧を航く

 霧を航く

 

埠頭の燈(ひ)去りゆき霧の航につく

 

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。本歌群内では以下同じ。]

 

あかつきの舷燈よごれ霧をゆく

 

霧を航き汽笛の中を子が驅くる

 

霧を航き船晩餐の燈を惜しまず

 

船室(キヤビン)も霧寢臺(ベツド)の帳ひきて寢る

草に すわる   八木重吉


わたしの まちがひだつた

わたしのまちがひだつた

こうして 草にすわれば それがわかる

 

[やぶちゃん注:一行目と二行目の違いは朗読を愛する者ならば神韻絶妙のものでそれが三行目の搖るぎないリズムの重厚さとマッチする。こういう詩は最も朗読が難しい代わりに最も朗読したくなる麻酔的誘惑を持っている。]

2014/02/19

第一版新迷怪国語辞典 あ(感動詞)

(感動詞)

1 何かを急に思い出すか若しくは気づいた際(そこでは「あ」に示した通り、無批判に本来的に手前勝手に所有を認識していたはずの対象が喪失・離脱するケースが多い)に思わず(というところに既にして対象喪失を齎すところの安易な所有意識前提が見え隠れしている)発する語。それはしばしば発生した個人の絶対的エゴイズムを露呈させる属性をも持つ。「アツ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にして居るぢやないか、馬鹿、畜生、アツ、アツ痛、痛イ痛イ、寢返りしても痛いどころか、じつとして居ても痛いや。」(正岡子規「煩悶」)

2 応答で用いる語。但し、「はい」という丁寧な応答が面倒なので一音化している点で対象を無意識的に対等以下に見下している場合に多用する。さらに近年では「あ↺?」と語尾を尻上げて戻ることによって疑問化しつつ、対象者を完膚なきまでに侮蔑するおぞましい方法を男女老若問わず好んで使用するようになった。これは「応答」語としては最下劣な用法であるが、麻薬的な蔓延を見せている。

第一版新迷怪国語辞典 始動 / あ

ブログ・カテゴリ「第一版新迷怪国語辞典」(藪野直史編)を創始する。

見出し語は太字で示し、意味は適宜改行する。

これによって五十七歳の私の新しい絶対に完成し得ないプロジェクトを新たに始めるのである。一部では大槻文彦編「言海」などの個性的な辞書を参考にしつつ、オリジナルの「悪魔の辞典」を目指すが、完成は出来ないであろう。それでよい。そんなものが欲しかった。――それだけのことです――

 

 

五十音図あ行第一段の仮名で国語学では「後舌の広母音」という。

人間の幼児(それも如何なる人種に於いても、と推測してよい)が最初に発するであろう確率の最も高い音。

それは何かを発見したり、初めて認識したりして驚いたり、若しくは喪失したりする要因に基づくものである。

とすれば「あ」とは辞書の初めであるのみならず、ヒトが最初に発音するところの感情的にして知性的な「音」の原器である。問題はそれが「発見」とその発見による所有欲の「認識」とその速やかな「喪失」に関わるものであることである。

「あ」は従って常に発見と喪失と同義の原音に他ならない。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 鳴鶴が崎

    ●鳴鶴が崎

富士見橋を東方に渡りて南に往く此の處岬なり、里俗往昔賴朝公此處を通行ありて景色の秀美なるを眺め給ふ折りしも鶴啼き渡りて耳を掠めければ、賞觀(しやうくわん)ありて暫時休憩せらしことあり、鳴鶴(なきつる)が崎と呼ぶ、眺望濶くしって富岳江の島雨降山の嶺など遠く白波の末に連なり、實に佳絶勝絶の地といふべし。

[やぶちゃん注:「鳴鶴が崎」田越川に沿って逗子湾に落ちる低い峰の旧称。現在の桜山九丁目附近。]

モースの出逢った「ショーリン」とは元福山藩士で画家であった藤井松林である!

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 14 「ショーリン」という絵師のこと」に只今、追記した。僕はこのモースが逢った“Shorin”(ショーリン。訳文は「松林」で訳者石川氏は「?」を附す)とは元福山藩藩士「藤井松林」であったと断定し、今回、更に追記を附した。その論拠はリンク先のそれをご覧あれ! これ――僕にはかなり自信がある!



今回のモースの一件で僕にとって何より素晴らしかったことは、教え子の「ゆうき」やミクシィのマイミクの「からからこ」姐御が全くの無私で、この僕の貧しい注記をより優れた高みへと導いてくれたことである。これこそがネット世界の僕へのこの上ない賜物なのである。

中島敦 南洋日記 昭和十七年一月一日

      昭和十七年一月一日(木)

 八時半より役所にて式、

 食堂の雜煮は凡そすさまじきものなり。しかも晝・夜二食分の折詰は、どう見ても一食分にしか當らず、十一時迄に二食分の折詰食ひ終る、十一時半土方、高松氏とアラカべサンに向ふ。途中スコールに降られる。渡船場に到る頃はすでに止む。渡し舟十分にして島に着き佐伯氏宅に行く。鰐魚を見る、試みに石を投ずれば、怒りて、カツと血の氣なき口を開く。コーヒーうまし。家鴨。晩食の馳走に預かり、七時過の渡船にて歸る。

 昨夜の土方氏の蛸とりの話頗る面白し。リーフの穴に潛める靖をピスカンにて突くに突かれながら蛸が足を長く伸ばして、突手の手に吸ひつく話。ピスカンの尖端が蛸の身體を突貫くや、直ち蛸は、貫かれたるまゝ手許まで上つてきて、吸ひつく話。大蛸に胸をだかれて嚙みつかれ、その頭をつかんで離さんと格鬪する話。月夜に蛸が上陸し、椰子の木に登りて椰子蜜を飮む話。剽悍なる巨口の大魚タマカイの話。魚の巣なる岩穴にピスカンを突込みし瞬間ブルブルッと電氣に觸るゝ如き手應へありし時の感じ。魚大きく穴小さくして、引出し難き時、石もて、リーフの岩を碎く話。波荒き時、作業困難なる時、ピスカンを穴中の獲物につき立てたる儘、水面に浮かび出て息(イキ)をつく話。小さき蛸なれば、揃へて直ちにその口にかみつきて殺すも、嚙まんとする時、忽ち墨を吹かるゝことありと。

 阿刀田氏によれば、熱帶の生物は凡て雄に比べて雌の數壓倒的に多しと。

[やぶちゃん注:「アラカべサン」アラカベサン島(Ngerekebesang Island)。現在のパラオ共和国コロール州に属する島の一つで同国のコロール島の北西沿岸にある。参照したウィキアラカベサン島によれば、マルキョク州に遷都するまではこの島に大統領府があった。コロールの中心部からはやや離れており、リゾート・ホテルが多く点在、日本大使館もこの島にある。『アラカベサン島とコロール島の間には陸橋で接続されている。この陸橋は日本統治時代に建設され、今でも改修しながら使用されている』とあるが、敦は船で渡っている。地図上で見ると約一キロメートルほどの橋である。

「鰐魚」これは実際の鰐で、パラオに棲息するワニ目クロコダイル科クロコダイル属イリエワニ Crocodylus porosus のことと思われる。ウィキイリエワニ」によれば、現生爬虫類の中では最大級の一種で、オスの平均は全長五メートル・体重は四五〇キログラムに及ぶ(最大個体では全長八・五メートルを超えるものが記録されている)。口吻はやや長く基部の一・七五~二倍に達し、隆起や畝がよく発達する。下顎の第一歯が上顎の先端を貫通しており体色は緑褐色で、『主に汽水域に生息し、入江や三角州のマングローブ林を好む。イリエワニという和名もこれに由来する。地域によっては河川の上流域や湖、池沼などの淡水域にも生息する。海水に対する耐性が強く、海流に乗り沖合に出て島嶼などへ移動することも』可能であることから、実は日本でも奄美大島・西表島・八丈島などでの発見例があるとある。

「椰子の木に登りて椰子蜜を飮む話」「椰子蜜」は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ココヤシ Cocos nucifera(又はその仲間)に咲く花の蜜で、実際に「ナチュレハニー」という蜜が採れる。さて、ここに出た蛸の上陸摂餌の話については、寺島良安の和漢三 第五十一 魚類 江海無鱗魚の「章魚 たこ」の章にも『性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ』」とあり、そこで私も以前長々と注した。それを少し加工して以下語らせて貰う。この現象は本邦でもかなり人口に膾炙した話なのではあるが、残念ながら私は一種の都市伝説の類いであると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は実は確かに結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを生まで聞いたことがある。また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかしこの人は、知る人ぞ知る、人魂を捕獲しようとしたり、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまうちょっとアブナい人物である。いや、私は実はフリークともいえるファンなのだが)。実際に全国各地でタコが畠や田圃に入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろうと思われる。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、また好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコさま……じゃあない……イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚く泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていたシロモノであった)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。例えば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり、漁獲された後に逃げ出したタコが畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは海の忍者と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、数十センチメートルを超える極めて大型の個体が蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることはとみに知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(因みに魚のクロダイでもサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、西丸氏の上記の記事も載るように禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等といった辺りこそが、この伝説の真相ではないかと私は思うのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、実は是非見たいのだ。信望者の方は、是非とも実写フィルムを私に提供されたい!……海中からのおどろどろしきタコ上陸→農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿→腕足を驚天動地の巧みさで操りながら起用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ→「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ……だ!……円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが突けど触れど一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、生き物はこりごりだと言ったと聴いている……。

「剽悍」は「へうかん(ひょうかん)」で「慓悍」とも書き、すばしこくて荒々しく強いことをいう。

「タマカイ」スズキ目スズキ亜目ハタ科マハタ属タマカイ Epinephelus lanceolatus(英名 Giant grouper)。全長二メートルにも及ぶタ巨大魚でハタ科の中では最大で、よく知られているマハタ属クエ Epinephelus bruneus などよりも大きくなる。『タマカイは太平洋やインド洋に分布しているハタ科の海水魚で、太平洋では東シナ海から南シナ海を経てグレートバリアリーフ、ミクロネシアなどの西太平洋のほか、ハワイ諸島やライン諸島などの中部太平洋にも分布して』おり、『インド洋でもアフリカの東海岸まで見られ、国内では和歌山や琉球列島、伊豆・小笠原諸島などの南日本に分布している』。『体は長い楕円形で側扁し、口はやや大きく、上顎の後縁は眼の後縁下を超える』。『尾びれの後縁は丸く、鰓蓋骨には三本の棘が見られる』。『体色は灰褐色や暗褐色で、白い斑模様があり、各鰭にも黄色と黒の虫食い状の班がある』。『また、体色や班は成長と共に変化し、10cm程度の幼魚では淡褐色の地に不規則な幅広い黒色の横帯が見られるが、老成すると体や鰭の斑は不明瞭になる』。『岩礁やサンゴ礁域などに生息しているが、サンゴ礁域に生息するものの内でも最も大きく、体長は3m近くにまで成長し、体重も400kg程になるものもいると言われている』。『水深100m程のところでも生息しているが、大型魚にも関わらず水深50m位までの比較的浅場に多く見られる』。『魚や甲殻類などを主に食べるが、小型のサメやエイ、ウミガメの子どもなども食べることがある』。『餌は水と一緒に吸い込んで食べてしまうが、この時の吸引力は強力で、南太平洋などでは、タマカイはサメよりも恐れられている』。『しかし、サンゴ礁などではホンソメワケベラなどに鰓を掃除してもらったりして共生していることも多く、これを食べたりすることはない』。『タマカイは鍋物や刺身など、食用に利用されるが、大型のものは希にシガテラ毒をもつことがある』。『また、台湾では養殖されている他、幼魚は観賞用などに利用されることもあるが、自然分布するタマカイの生息数は減少していて、国際自然保護連合(IUCN)の保存状況評価では絶滅危惧種(VU)に指定されている』と参照したサイト「アクアリウム・ゲート」のタマカイ」にはある。ツアー・ガイドを見ると現在のパラオのダイビング・ツアーでもこのタマカイに出逢えるというのが一つの目玉のようである。]

萩原朔太郎 短歌六首 大正二(一九一三)年十月

[やぶちゃん注:以下に示す六首は底本の筑摩書房版全集第十五巻(昭和五三(一九七八)年刊)の「短歌補遺」に載る(掲載はこれらのみ)もので、先行する第三巻の短歌の編集の際に漏れたものと思われるもの。『創造』第三十七号・大正二(一九一三)年十月号の「詠草欄」に掲載されたものである。朔太郎満三十二歳。]

 

寂しさに少しく慣れてなにがなしこの田舍をも懷しみをる

 

[やぶちゃん注:初出では「なにがなし」が「なにがし」であるが、以下の習作などから脱字と断じ、底本校訂本文通り、「なにがなし」とした。この一首は、先に全歌を掲載した底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の二十首連作の歌群「一群の鳥」の第三首目、

 

 淋しさに少しく慣れて

 なにがなし

 この田舍をば好しと思へり

 

が原案に見え、またこれを改稿した、この『創造』での掲載の二ヶ月前、大正二(一九一三)年八月九日附『上毛新聞』に発表した「一群の鳥」の第三首目、

 

 寂(さび)しさに少(すこ)しく慣(な)れて

 なにがなし

 この田舍(いなか)をば好(よ)しと思(おも)へり。

 

の更なる改稿と思われる。]

 

しんしんとする水の音かな滊車はまたトンネルを出でてひた走りけり

 

[やぶちゃん注:初出は上句を「しんしんとする水の音がな滊車はまた」とするが、以下の習作から訂した。この一首は、底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の十七首連作の歌群「林檎の核」(大正二(一九一三)年七月十三日相当のクレジットを最後に持つ)の第「4」首目に、

 

ヽしんしんたる水の音かな

 汽車はまた

 トンネルを出でゝひたに走れり

 

とある(首巻の「ヽ」は圏点。太字「ひた」は底本では傍点「ヽ」)。初案の方が韻律はよいものの何か平板で、この改作の方が汽車のリズムに合っている気が私はする。]

 

油日照りつく日にしきりなく黑くつづける蟻の列かな

 

[やぶちゃん注:初出は上句を「黑くつつける蟻の列かな」とするが、以下の習作から訂した。この一首も前の一首と同じく底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の十七首連作の歌群「林檎の核」の掉尾第「17」首目に、

 

 かんかんたる酷熱の日に

 きりもなく

 {赫土(あかつち)に}

            續ける蟻の列かな

 {黑く       }

 

とあるものの改作である(「{」の二行は二つの語句が並置されて残っていることを示す)。漢詩めいた佶屈聱牙な初期形が和歌の響きとなっている。]

 

酒飮めどこのごろ醉はぬさびしさに唄へどもああああ遂に涙もいでず

 

[やぶちゃん注:初出は「酒飮めどこのごろ醉はぬさびしきに唄へども」。少し迷ったが、以下の習作などから校訂本文と同じく「さびしさに」と訂した。この一首はやはり、先に全歌を掲載した底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の二十首連作の歌群「一群の鳥」の第十二首目、

 

 酒のめど

 このごろ醉はぬさびしさ

 歌へども

 あゝあゝ遂に涙出でざり

 

が原案と思われ、またこれを改稿した、この『創造』での掲載の二ヶ月前、大正二(一九一三)年八月九日附『上毛新聞』に発表した「一群の鳥」の第八首目、

 

 酒(さけ)のめど

 このごろ醉(よ)はぬさびしさ

 うたへども

 あゝあゝ遂(つひ)に涙(なみだ)出(い)でざり。

 

の更なる改稿とも思われる。短歌らしくはなったもののパッションが行儀よくなってしまった分、初期形二稿の方が私は好きである。]

 

時にふと盃投げてすゝり泣きいとほしき母の寢顏をながむ

 

[やぶちゃん注:この一首もやはり、先に全歌を掲載した底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の二十首連作の歌群「一群の鳥」の第十三首目、

 

ヽ時にふと

 盃投げてすゝり泣く

 いとほしや母も流石に思へり

 

が原案と思われ(「ヽ」は朔太郎自身の附した圏点)、またこれを改稿した、この『創造』での掲載の二ヶ月前、大正二(一九一三)年八月九日附『上毛新聞』に発表した「一群の鳥」の第十一首目、

 

 時(とき)にふと

 盃杯(さかづき)を投(な)げてすゝり泣(な)く

 いとほしやと母(はゝ)も流石(さすが)思(おも)へり。

 

の更なる改稿とも思われる。この三稿目で確かな和歌となったという気が私にはする。]

 

わかき日はとくとく過ぎてわれわれは今饐えくされたる林檎の核なり

 

[やぶちゃん注:「とくとく」の後半は底本では踊り字「〱」。「饐えくされたる」は初出では「饐らくされたる」であるが、意味が通らないので、次の習作をもとに全集校訂本文と同じく訂した。この一首も同じく底本第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」所収の十七首連作の歌群「林檎の核」の巻頭第「1」首目の、

 

 若き日は既に過ぎ去り

 今の我れは

 いたく饐えたる林檎の核(たね)なり

 

の改稿である。説明的な初期形が歌らしくなっていると私は思う。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十四年(十句)

   明治四十四年(十句)

 

琵琶の帆に煙霞もすえの四月かな

 

[やぶちゃん注:「琵琶」は琵琶湖か。知られた元禄三(一六九〇)年芭蕉数え四十七歳の作、

 行く春を近江の人と惜しみける

をインスパイアしたものであろう。因みに当時、蛇笏は数え二十七歳であった。]

 

雛の日や遲く暮れたる山の鐘

 

久遠寺へ閑な渡しや雉子の聲

 

[やぶちゃん注:「久遠寺」山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗総本山身延山久遠寺。なお、蛇笏の墓所は山梨県笛吹市境川町の曹洞宗松尾山智光寺である。]

 

夏海へ燈臺みちの穗麥かな

 

午過ぎの磧に干せる鵜繩かな

 

[やぶちゃん注:鵜が呑んだ鮎は引いて吐かせる「鵜繩」は晩夏の季語。]

 

日の秋や門茶につどふ草苅女

 

[やぶちゃん注:「門茶」は「かどちや(かどちゃ)」と読み、陰暦七月初旬から二十四日まで寺や個人の家の門前で死者の供養を目的として茶を入れて通行人に施す行事で、「摂待(せったい)」ともいう。秋の季語。]

 

帆もなくて冬至の海の日影かな

 

牧へとぶ木の葉にあらる小禽かな

 

ありあけの月をこぼるゝ千鳥かな

 

[やぶちゃん注:「千鳥」は特定の鳥類ではなく水辺に群がって棲息する小型のそれを指し、冬の季語である。]

 

岬山の綠竹にとぶちどりかな

 

[やぶちゃん注:「崎山」は「さきやま」と読んでいよう。「岬」とするからには海か湖での景と思われる。]

轉居   山之口貘

 轉居

 

詩を書くことよりも まづ めしを食へといふ

それは世間の出來事である

食つてしまつた性には合はないんだ

もらつて食つてもひつたぐつて食つても食つてしまつたわけなんだ

死ねと言つても死ぬどころか死ぬことなんか無駄にして食つてしまつたあんばいなんだ

ここに食つたばかりの現實がある

空つぽになつて露はになつた現實の底深く 米粒のやうに光つてゐた筈の 兩國の佐藤さんをもついに食つてしまつた現在なんだ

陸はごらんの通りの陸である

食はふとしてもこれ以上は 食ふ物がなくなつたんだといふやうに電信柱や塵箱なんか立つてゐて まるでがらんとしてゐる陸なんだ

言はなくたつて勿論である。

めしに飢えたらめしを食へ めしも盡きたら飢えも食へ飢えにも飽きたら勿論なんだ

僕を見よ

引つ越すのが僕である

白ばつくれても人間面をして 世間を食ひ廻はるこの肉體を引き摺りながら 石や歷史や時間や空間などのやうに なるべく長命したいといふのが僕なんだ

お天氣を見よ

それは天氣のことなんだ

海を見よ

陸の隣りが海なんだ

海に坐つて僕は食ふ

甲板の上のその 生きた船頭さんをつまんで食ひながら 海の世間に向つては時々大きな口を開けて見せるんだ

魚らよ

びつくりしなさんな

珍客はこんなに肥つてゐても

陸の時代では有名な いはゆる食へなくなつた詩なんだよ。

 

[やぶちゃん注:「兩國の佐藤さん」「両国の思い出の人たち」(昭和三五(一九六〇)年三月十日附『沖繩タイムス』)や「ぼくの半生記」(一九五八年十一月から十二月にかけての『沖繩タイムス』への二十回連載)などを読むと、昭和四、五年頃から、貘は両国にあった「両国ビルディング」を根城にして一風変わったやや怪しげな人々と交友していたことや、鍼灸師や汚濊汲取・ダルマ船の船頭をしていたことが分かる。この「兩國の佐藤さん」という人物もそうした付き合いの中で知り合った一人と考えてよく、何より、小説ながら実録性の強い貘の「詩人便所を使う」(『中央公論』昭和一三(一九三八)年九月号)の中で、主人公の「食えない詩人」である「僕」が、ある「ビルディングの管理をしている佐藤さん」の勧めに従って「おわい屋」になって、そこに「佐藤衛生研究所」を開業、営業主任となって……というエピソードが記されている。この「兩國の佐藤さん」とは限りなくこの「僕」に文字通り臭い仕事をさせておいて只管自身が儲けることに邁進する「ビルディングの管理をしている佐藤さん」であると考えてよかろう。なお、この同時期に詩人佐藤惣之助とも親しくしていて、それらの作品にも頻繁に名が出るが、彼は川崎住まいで「兩國の佐藤さん」とは呼べない。また序文を寄せている佐藤春夫が両国に住んでいたことがあるかどうかは不明ながら、文京区公式サイトによれば佐藤春夫は昭和二(一九二七)年から没するまで文京区関口に住んでおり、本詩集「思弁の苑」の発行は昭和一三(一九三八)年で、何より山之口貘の「ぼくの半世紀」の中で、佐藤春夫を山之口貘が訪ねた下りには、『佐藤春夫を知ったのは、大正の終わりごろである。小石川の小日向町にあった佐藤氏宅を、はじめて訪ねた』とあるから、やはりこの「兩國の佐藤さん」は佐藤春夫ではない。

【以下、2014年6月3日 思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により全面改稿】
 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では一行目が、

詩を書くことよりも まづめしを食へといふ

字空けはあった方がよいのに除去されており、四行目が、

もらつて食つてもひつたくつて食つても食つてしまつたわけなんだ

と「ひつたぐつて」が「ひつたくつて」に変更され、七行目が、

空つぽになつて露はになつた現實の底深く 米粒のやうに光つてゐた筈の 兩國の佐藤さんをもつひに食つてしまつた現在なんだ

に、九行目が、

食はうとしてもこれ以上は 食ふ物がなくなつたんだといふやうに電信柱や塵箱なんか立つてゐて まるでがらんとしてゐる陸なんだ

になっている。十行目の句点が除去され、十四行目が、

白ばつくれても人間面をして 世間を食ひ廻るこの肉體を引き摺りながら 石や歷史や時間や空間などのやうに なるべく長命したいといふのが僕なんだ

と「廻はる」の送り仮名が「廻る」に、そして最後の句点が除去されている。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年八月


梭の音しづかに芭蕉玉ときぬ

 

梭の音靜かに芭蕉玉ときぬ

 

[やぶちゃん注:前者が八月刊の『馬酔木』掲載の、後者が翌九月刊の『泉』掲載の句形。無論、言わずもがなながら、この「梭」(ひ)は芭蕉布(ばさーじん)を織る機(はた)のそれである。]

 

靑芭蕉吹かるる音と機音と

 

炎天や甘蔗のはたけは油風

 

[やぶちゃん注:「油風」(あぶらかぜ)は「油まじ」「油まぜ」ともいい、油を流したような静かな南寄りの風をいう語。「まじ」は南又は南西の風、「まぜ」「まじの風」で、多くは西日本での謂い(季語としては夏)。]

 

   嘉手納製糖工場附近

縱横にはせ交ふトロや甘蔗の秋

 

[やぶちゃん注:「トロ」はトロッコのこと。]

 

   琉球燒

踏ん張れる獅子の口より蚊火煙

 

[やぶちゃん注:「琉球燒」一応、ウィキの「壺屋焼をリンクさせておく(但し、同ウィキには一ヶ所も「琉球焼」という語は用いられてはいない)。この那覇の壺屋焼が琉球の焼き物の本流であることは間違いないのだが、実は現在では「壺屋焼」と「琉球焼」は区分された別箇な伝統工芸製品指定を受けているからである。その論争記事は一九九八年三月二十八日附『琉球新報』の伝統めぐり論争、琉球焼と壺屋焼に詳しい(個人的には何か残念な論争である気がする)。

「獅子」「しーさー」のこと。無論、ここは「しし」と読んでいる。]

 

炎天や水を打たざる那覇の町

 

浦風のあはれに強し走馬灯

 

守宮啼くこだまぞ古き機屋かな

 

[やぶちゃん注:ヤモリは沖縄言葉(うちなーぐち)で「やーるー」と呼ぶ。宮古島在住の「さんごのたまご」さんのブログに写真入りで「ケケケケケケケ」と鳴く旨の記載がある。女性の方の個人サイト「たびかがみ」の解説ヤモリいう虫」によれば、本邦には少なくとも十四種以上が棲息すると考えられ、その中に鳴くことに由来すると思われるナキヤモリ属 Hemidactylus があり、以下の同属の二種を掲げておられる(一部データや情報を「国立環境研究所」その他のそれと差し替えさせて戴いた)。

タシロヤモリ Hemidactylus bowringii

分布は奄美諸島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に分布するとされるほか、台湾・東南アジアなどに棲息。人家付近で夜間照明に集まり、昆虫を食べること以外には生態は殆ど知られていない。全長は九〇~一二〇ミリメートルで暗い場所で見ると明瞭な横帯が現れて見え、一見「虎柄」のように見える。一部のネット記載には殆んど鳴かないともある。

ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus

原産地ははっきりしないが分布は奄美諸島・沖縄諸島・大東諸島・先島諸島のほぼ全ての有人島および小笠原諸島で人為的な移入による外来種であり、世界的分布域は大陸の内陸部を除く熱帯・亜熱帯域広範に及ぶ。民家などの建造物を好み、かなりの密度で棲息し、逆に人里から有意に離れた自然林内ではあまりみられない。「ケケケ」又は「チッ、チッ」と鳴き、灯りに集まり虫などを摂餌する。全長は九〇~一三〇ミリメートルで南西諸島では最も普通にみられるヤモリである。

これらから見るに、鳳作の聴いた「こだま」するほど吃驚したそれは後者ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus の可能性が高いか。南洋系と思われる種を突いて鳴かせている動画も幾つかあるが、何となくいじめているようで不快であるからリンクしない。しかしかなり大きな声で高い鳴き声ではある。]

 

松風を蘇鐡のみきにとらへけり

 

藻の如く靡く芭蕉や大南風

 

[やぶちゃん注:「大南風」は「おほみなみ(おおみなみ)」と読む。夏の湿って暑苦しい季節風のこと。「みなみ」と「風」の読みを省略する呼称はもとは漁師や船乗りの用語であったことに由来する。]

 

實を垂れて枯れそめたる芭蕉哉

 

[やぶちゃん注:「垂」の字の旧字体「埀」をまともに使っている作家は私の知る限りでは非常に少ない。以下、この注は略す。]

 

遠雷にこたへそよげる芭蕉哉

 

[やぶちゃん注: 以上、十二句は八月の発表句。]

杉田久女句集 60 蝉の音(ね) 



蟬時雨日斑(まだら)あびて掃き移る

 

蟬涼しわがよる机大いなる

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 長崎にて

 長崎にて

 

長崎の暗き橋ゆき遠花火

 

港見るうしろに靑き蚊帳吊られ

 

靑き蚊帳熟睡(うまゐ)の吾子とならび寢む

 

靑き蚊帳ひとの家にも吊られゐる

 

[やぶちゃん注:三句目「熟睡(うまゐ)」「熟睡」「味眠」などの字を当てる上代語であるが、歴史的仮名遣は「うまい」が正しい。「うま」(甘)は造語の成分でここでは「快い」の謂いを添える。気持ちよく熟睡すること(なお、「大辞林」によれば古くは「安寝(やすい)」が単に安眠であるのに対して男女が気持ちよく共寝することをいったとある)。これはもう明らかに前年夏の九州行の回想吟である。]

鳩が飛ぶ   八木重吉

 

あき空を はとが とぶ、

それでよい

それで いいのだ

2014/02/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 18 日本人考古学倶楽部で講演

 数日前、私は大森の貝塚に就て、日本人が組織している考古学倶楽部(クラブ)で講演する可く招かれた。この倶楽部は、毎月第一日曜日に大学内の一室で会合する。大学副綜理の服部氏が、通訳をすることになっていた。今日、六月二日の朝、私は会場へ行った。会員は各、自分の前に、手をあたため、煙管に火をつける役をする、炭火を灰に埋めた小さな容器を置き、大きな机を取りかこんで坐っていた。私は彼等に紹介され、彼等はすべて丁寧にお辞儀をした。私は隣室に、古代の陶器をいくつかの盆にならべたものを置いて、ここで話をした。私はこの問題の概略、即ち旧石器時代、新石器時代、青銅時代、鉄時代と、ラボックが定限した欧洲の四つの時代に就て語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸の貝墟でした仕事を話し、最後に大森の貝塚のことを話した。かかる智力あり、且つ注意深い聴衆を前に話すことは、実に愉快であった。私の黒板画は、彼等をよろこばせたらしい。要するに私は、この時位、講演することを楽しんだ覚えはない。

[やぶちゃん注:これはモースの記す通り、明治一一(一八七八)年六月二日(この日は日曜日である)に東京大学で行われたもので、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、この会は一種の『考古学愛好家の集会(古物会?)』で、『このとき、のちにモースの陶器の師となる蜷川式胤(にながわのりたね)も出席し』たと式胤の日記にある旨の記載がある。蜷川式胤(天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)は考古家で京都東寺の公人子賢の子として生まれ、明治二(一八六九)年に新政府の制度取調御用掛として上京、太政官権少史・同少史・外交大録・文部省博物局御用・内務省博物館掛を歴任した(明治十年に病により辞任)。この間、明治四年に九段坂上で行われた物産会や同五年の湯島聖堂に於ける博覧会の開催に尽力、同年にはまた近畿地方の社寺宝物検査にも従事し、その際に正倉院御物の調査記録を残したことで知られる。また、文化財の調査保存や博物館開設を政府に建議し、日本の古美術を海外に紹介した功も大きい。著書に「観古図説」「徴古図説」「好古図説」など(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「ラボック」はイギリスの銀行家・政治家にして生物学者で考古学者でもあったジョン・ラボック(Sir John Lubbock 一八三四年~一九一三年)。自由党及びそこから分裂した自由統一党員として活躍する一方、銀行家協会(Institute of Bankers)の初代理事長をも務めたが、学者としても一八六五年に“Pre-historic Times, as Illustrated by Ancient Remains, and the Manners and Customs of Modern Savages”(「前史時代:古代遺跡と、現代の未開人のマナーと習慣による描写」)を執筆、これは恐らく十九世紀に於ける最も影響力を持った考古学テキストであるという。また、石器時代を大きく二つに分けて旧石器時代(Palaeolithic)と新石器時代(Neolithic)という用語を提案している。ラボックはいくつかの分野でアマチュアの生物学者でもあり、膜翅目に関する本「アリ、ミツバチとスズメバチ:社会的膜翅目の習性の観察記録」(一八八四)も執筆している。また昆虫の感覚器とその発達や動物の知性、その他、自然史の幾つかの問題についても出版しており、チャールズ・ダーウィンとも幼いころから広く交流した人物であった。ラボックの生家はケント州ダウンにあったが、その広大な敷地の隣人がかのダーウィンであったからである(以上はウィキの「ジョン・ラボック」に拠った)。なお、磯野先生の引用に出る『古物会』というのは江戸時代以降確立していた一種の物産学で、東京大学創立百二十周年記念東京大学展「学問のアルケオロジー」サイトの東京大学総合研究博物館木下直之氏の「大学南校物産会について」の中で、当時の物産会に於ける『「古物之部」には、観音像以外にも「法隆寺古竹帙」「古磁器茶碗」など現代ならば美術に含まれるものがあり、同じく現代ならば石器や勾玉や瓦などの出土品は考古学的遺物と扱われるはずだが、当時は、それらを一括する「古物」というカテゴリーがしっかりと出来上がっていた。そして、古物の展示ならば、物産会でもしばしば行なわれてきたのである』とあり、木下氏の論文の後半を読むと一種の博物学的一ジャンルとしてそうした古物家(そこでは魚歯化石や石器が既に扱われていた)やそのネットワークがすでにその頃出来上がっていたことも分かる。

「ステーンストラップ」既注であるが再掲しておく。デンマークの動物学者ヤペトゥス・ステーンストロップ(Johannes Japetus Smith Steenstrup 一八一三年~一八九七年)。一八四五年からコペンハーゲン大学の動物学の教授を務め、頭足類を含む多くの分野の研究を行い、遺伝学の分野も研究、寄生虫の世代交代の原理を一八四二年に発見、同年にはまた、後氷期の半化石の研究から気候変動や植生の変動を推定出来る可能性があることをも発見している(以上はウィキの「ヤペトゥス・ステーンストロップ」に拠った)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 17 鬼女調伏の舞い?

M316
図―316
 

 昨日、教育博物館からの帰途、私はお寺の大鼓が鳴っているのを聞き、公園の木立の間を近路して、寺院を取まく亭(ちん)の一つで、奇妙な演技が行われつつある所へ出た。俳優が二人、最もきらびやかな色で刺繡された衣を身につけ、人間の考の及ぶ範囲内で、最も醜悪な仮面をかぶって、舞台に現れた。一人は房々とした白髪に、金色の眉毛と紫色の唇とを持つ緑色の面をかぶり、他の一人は、死そのものの如き、薄気味の悪い白色の仮面に、長く黒い頭髪の、非常な大量を持っていた。彼等は、刀を用いて、白い髪の悪魔が退散する迄、一種の戦いを続けた(図316)。日本人は、私の見た中で、最もぞっとするような仮面をつくり上げる。これ等は木から彫ったもので、劇の一種に於る各種の人物を代表する可くつくられる。

[やぶちゃん注:「寺院を取まく亭の一つ」原文は“one of the pavilions that surround the temple”。寛永寺の子院の一つか。ここで演じられているのは能の一種か? こっちを向いている役者の腹部にある鱗文様は能の鬼女の役のそれに酷似して見えるのだが……。私は能楽に暗い。能を趣味とする教え子に聴いてみよう。暫くお時間を。【2014年2月19日追記】以下、教え子よりの途中報告である。

   《引用開始》

先生、あれこれ考えていますが、能で該当する曲を思いつくことが出来ません。ご承知の通り、能において主役はひとりのシテ。シテを舞台に呼んでくる仲介役、すなわち観る者とシテとの間に立つのがワキです。モース先生の文章からいえば、白髪が退治されたところでこの劇が終わるのですから、能で言えばこれはキリの段における死闘であり、白髪がシテ、必然的に黒髪がワキということになります。最後に一騎打ちになり、かつワキが刀を揮う曲といえば、平維茂の鬼退治を題材とした「紅葉狩」が思い浮かびます。しかし、どうも登場人物の風体が能の「紅葉狩」と異なります。もしかしたら私が思い出せない曲なのかもしれない。いやいや、どうも私の知識不足ではなさそうです。なぜなら黒髪の方は薄気味の悪い白色の仮面をかけていたということですが……、能のワキが面(おもて)をかけることはないのです。では如何なる演劇であったかと問われると、残念ながら答えに窮してしまいます。すみません、取り急ぎ、私の印象です。

   《引用終了》

確かに教え子が言うように鬼女役に対峙する調伏役が「金色の眉毛と紫色の唇とを持つ緑色の面」をつけているというのは能とは思われない。そこで考えてみると、「鬼女」が「鬼」であるとしても、時期的(五月下旬としても同年の旧暦では四月下旬相当)にも演ぜられる内容から考えると寺院で「鬼」が演じるところの追儺の儀式にしてはどうもおかしい。が、しかしこれが所謂、神仏習合時代の残滓である「鬼払いの神楽」の特別な公演であるとすればどうであろうか(それでも時期の問題の奇異性は残るか)?……この「亭」は実は廃仏毀釈後に残った神社の舞殿であり、主催者も神社なのかも知れない……などと口の干ぬ間に前注を修正せねばならぬというこのいい加減さ……向後も教え子とその他識者の御教授を俟つものである。これが地域の祭りや神楽として残っているものであれば幸いなのだが……上野では無理か……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 矢の根井戸

    ●矢の根井戸

小坪にあり、里諺云、鎭西爲朝遠矢をためさんと、伊豆の大島より射し矢、海上十餘里の遠きを走りて此井に落つ、今に井底に矢の根ありといふ。

[やぶちゃん注:この井戸は鎌倉十井の一つに数えられている「六角井」である。「新編鎌倉志卷之七」の「飯島」の条の文中に、

    *

此村の南に、六角の井と云ふ名水あり。鎌倉十井の一つなり。石にてたゝみたり。里俗の云、昔し鎭西の八郎源の爲朝、伊豆の大島より、我が弓勢昔にかはらずやとて、天照山をさして遠矢を射る。其の矢十八里を越へて此井の中に落たり。里民矢を取り上げれば、鏃(やじり)は井の中に留まる。今も井を掃除すれば、其の鏃見ミゆると云ふ。或る時取り上げて、明神に納めければ、井の水かはけり。又井の中へ入れば、本の如く水涌き出ると也。鏃の長さ四五寸と云ふ。鶴が岡一の鳥居より、此地まで、四十町餘あり。

    *

と記す。以下、私がそこで附した注をそのまま引いておく。

「六角の井」この井戸の形は六角形ではなく八角形であるが、六角が鎌倉持分で二角が小坪分であることから、かく言うと伝えられる。以前は井戸替えの際には為朝所縁の鏃の入った竹筒を使用したが、本文とはやや異なるが、ある時これを怠ったがために悪疫が流行ったことから、それ以来今も鏃は竹筒に封じ込めて井戸の中に奉納してあると現在に伝承されている。その他にもありがちな弘法が掘った井であるとか、井戸側面にある龍頭まで水が減ると必ず雨が降るとか、妙本寺の蛇形の井とは地中で繋がっているとか、伝承の多い十井の一つではある。今は何だかものものしい櫓にお覆われているようだが、私が二十の折りに見た時には、未だ世間の市井の井戸として機能していたのに、ちょっと淋しい。いやいや、それよりなにより、大島から「十八里」(約六八・四キロメートル)とは直線距離を美事に計測していることに「舌を卷く」ぞ。本土に最も近い大島最南端の乳が崎から単純直線距離で測っても五八・三キロメートル、三原山の頂上からだと六五キロメートル、とんでもない正確度である。珍説(「ちんせつ」いやさ「ちんぜい」)どころか真説、「鎭西ちんぜい」為朝も涙流して、アッ! 喜ぶ西(ぜい)!]

北條九代記 株瀨川軍 付 關東勢手賦 承久の乱【十九】――株瀬川の戦い

      ○株瀨川軍  關東勢手賦

大豆途渡(まめどのわたり)へは相模守足利武蔵〔の〕前司向はれたり。足利〔の〕小太郎兵衞、阿曾沼(あそぬまの)小次郎近綱をはじめて川に打入り渡しけるに、京勢は、皆落失せて防ぐ者一人もなし。美濃國莚田(むしろだ)と云ふ所にして、京勢少々出合ひて戰ふといへども、大軍折重(をりかさ)なり、新手入替りける故に、多くは皆討取られ、残るは又散々に落ちて行く。尾張國の住人山田〔の〕次郎重忠此有樣を見て云ふやうは「君の仰を蒙り、京都より討手に向けらる之者共の、尾張川にても恥ある矢の一つをも射ず、跡をも顧ずして落ちて歸道(かへりみち)の程にも甲斐々々しき軍(いくさ)もせで、京までも追立てられ、關東武士に笑はるゝのみにあらず。君御尋あらんには、なにとか答へ奉らん。重忠一軍(ひといくさ)して、此憤(いきどほり)を散ぜんと思ふなり」とて、郎等に水野左近、大金太郎、太田五郎兵衞、藤兵衞、伊豫坊、荒左近(あらさこん)、兵部坊、以下九十餘騎を前後左右に立てて、株瀨川(くひぜがは)の端に控へて敵を相待つ所に、奥州の住人岳島橘(だけしまのきち)左衞門、五十餘騎にて川を渡し、散散に戰ふ、岳島が郎等、加地(かぢの)丹内、佐賀羅(さがらの)三郎矢庭(やには)に射臥(いふ)せられ、其外の者共も、手を負はぬはなかりけり。大將軍、武藏守泰時、川端に打臨み、軍の下知をせらるれば、跡より大軍重りて、ひたひたと川を渡す。山田次郎叶はずして、南を指して落ちて行く。武藏國の住人高枝(たかえの)次郎只一騎、川瀨を渡して細繩手(ほそなはて)にかゝりて追掛けしに、敵七八騎返合(かへしあは)せ、孝枝だをなかに取込めて戰ふに、高枝片足を田の中に蹈(ふみ)入れて、片足は繩手に跪(ひざまづ)き、立寄る敵一人諸膝(もろひざ)薙(なぎ)て切伏せ、立ち上らんとする所に、遂にして切伏せられ、敵一人走り寄りては首を取(とら)んとする所に大軍どつと續きたれば、打捨てて落ちて行く。關東勢近(ちかづ)きて手負(ておひ)を見れば、鎧物具(よろひものゝぐ)朱(あけ)に成りて、誰とも更に見分(みえわ)かず。大將武藏守「あら無慘やな、此者痛手負ひたれども、未だ死なず、片息(かたいき)なるぞ、何者ぞ名乘(なのれ)」とありしに、「武蔵國の住人高枝〔の〕次郎」と云ひければ、能々(よくよく)見せらるゝに、痛手、薄手二十三ヶ所。是にても死(しな)ざるは天命ある者なりとて、人を副(そ)へて鎌倉へぞ下されける。軍兵を憐み給ふ大將の志を感ぜぬはなかりけり。伊具六郎有時が郎從に、伊佐(いさの)三郎行正と名乘りて、山田次郎を追(おひ)つめて引組みて、堀の底に落人たり。敵も味方もこれを知らず、上になり下になり、半時計(ばかり)揉合(もみあう)たり。伊佐〔の〕三郎が雜色一人倶したりけるが、主(しゆ)の軍(いくさ)する加勢にもならず、敵と打合ふ時は、立退きて見物し、戰疲れて休む時は、突(つく)として傍に居たり。組合へども只見物して動くべき色もなし。其間に山田が郎等藤兵衞尉立歸りて、伊佐を押伏(おしふ)せ、山田を馬に搔(かき)乘せて落ちて行く。伊佐もた討れざるを幸にして、味方にぞ馳入りける。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十九】――株瀬川の戦い〉標題「株瀨川軍 付 關東勢手賦」は「くひぜがはいくさ つけたり くわんとうぜいてくばり」と読む。本章も分離させる。

「株瀨川」杭瀬川。現在の岐阜県揖斐郡池田町・大垣市・養老郡養老町・安八郡輪之内町を流れる木曽川水系の河川で揖斐川支流の牧田川に合流する一級河川。この川は慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いの前哨戦の戦場として知られるが、参照したウィキの「杭瀬川によれば、『かつては揖斐川の本流であり、現在よりも川幅が広い大きな河川であったが、戦国時代の享禄3年(1530年)に発生した大洪水により揖斐川の流れが現在の位置に変化したため、現在の姿となった』とあり、川の流路は現在のそれとは大きく異なることが分かる。

「相模守」北条時房。

「足利武蔵前司」足利義氏。

「美濃國莚田」席田郡。現在の本巣郡北川町。「席田用水」にその名を留める。

「突と」副詞。「つくねんと」と同じ。何もしようとせず、独りぼんやりしているさま。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号48から50のパート中ほどまで)の記載。原文の臨場感は何時もながら、素晴らしい。

 

 大豆渡へハ、相模守・足利武藏前司被ㇾ向タリケルニ、足利小太郎兵衞・阿曾沼小次郎近綱ヲ始トシテ、各河ヲ渡ス。京方、宵ニ皆落タリケレバ、屋形ハ殘テ主モナシ。敵ナクテ軍ヲセヌ事ヲ無念ニ思ヒテ、敵ノカサニ逢ント向フ輩タレタレゾ。伊具六郎有時・善左衞門太郎・奧嶽島橘左衞門・山田五郎兵衞入道・紀伊五郎兵衞入道・阿保刑部丞・由良左近・靑木兵衞・新開兵衞小次郎・目黑太郎・佐賀羅三郎・加地丹内・同中務、是等ヲ始トシテ、敵ノカサニ合ント道ヲバヨケテ進行。美濃筵田ト云所ニテ、京方少々返合セ戰ケリ。坂東ノ兵共、願所ニテハアリ、悦ヲナシテ責戰フ。京方、落足武者ニテハアリ、組落シ組落シ被ㇾ討ニケリ。サレバヨ、獨シテ頸ノ二三取ヌハ無ケリ。

 被討殘テ落行ケル勢ノ中ニ、山田次郎申ケルハ、「サレバトヨ、打手ニ向セラレタル者共ノ尾張川ニテモ有ㇾ恥矢ノ一モ不ㇾ射、道ノ程モ甲斐々々敷軍モセデ、君ノ御尋有ンニハ何トカ答申ベキ。サレバ重忠ハ一軍セント思也」トテ、杭瀨河ノ西ノハタニ九十餘綺ニテ扣タリ。奧嶽島ノ橘左衞門、三十騎餘ノ勢ニテ馳來レバ、御方ヲ待カト覺シタテ、河モ不ㇾ渡、軍モセズ。

 去程ニ御方ノ勢少々馳著タリ。河ノ端ニ打立テ、「向ノ岸ナルハ何者ゾ。敵カ御方カ」。山田次郎、「御方ゾ」。「御方ハタソ」。「誠ニハ敵ゾ」。「カタキハタソ」。「尾張國住人、山田次郎重忠ゾカシ」。「サテハ」トテ矢合スル程コソアレ、打出テ渡シケリ。山田次郎ガ郎等共、水野左近・大金太郎・大田五郎兵衞・藤兵衞・伊豫坊・荒左近・兵部坊、是等ヲ始トシテ九十餘騎、河ノ端ニ打下テ散々ニ戰フ。其中ニ大弓・精兵數多有シカバ、河中ニ射ヒデラレ流ルヽモアリ、痛手負テ引退者モアリ。其中ニ加地丹内ハ渡シケルガ、鞍ノ前輪鎧コメ、尻輪ニ被射付テ、シバシハ保テ見へケルガ、後ニハ眞倒ニ落テゾ流ケル。佐賀羅三郎、眞甲ノ餘ヲ射サセテ引退ク。波多野五郎、尻モナキ矢ニテ、其モ眞甲ノ餘ヲ射サセテ引退ク。大將軍武藏守、河端ニ打立テ軍ノ下知セラレケリ。手負共、各參テ見參ニ入。誠由々敷ゾ見へケル。薄手負タル者共、矢折懸テ臆タル氣色モナク渡シケリ。被ㇾ討ヲモ不ㇾ顧、乘越々々渡ス。東國ノ兵共、如雲霞續キケレバ、暫戰フテゾ、山田次郎颯ト引テゾ落行ケル。

 武藏國住人高枝次郎、河瀨渡シテ只一騎細繩手ニ懸テ、敵ニ向テ追懸テ行。七八騎有ケル勢取テ返シ、高枝ヲ中ニ取籠テ戰フ。高枝ノ次郎、片足ヲ田へ蹈入、片足ヲバ繩手ニ跪テ被切伏ヌ。甲モ被打落テ、痛手負テ横樣ニ臥タブケリ。敵一人寄合テ、取テ押へ首取ントシケル所ニ、東國ノ兵サツト續タリケレバ、首ヲモ不ㇾ取、打捨テ落行ヌ。御方勢近ヅキテ見レバ、鎧・物具・面モアケニ成テ、誰共不ㇾ見。大將軍武藏守、「アラムザンヤナ。此者、痛手負クリ。タレゾ」ト問給へバ、未死ヤラデ片息シタリケルガ、「是ハ武藏國住人、高校次郎ト申者ニテ候」。武藏守、「ムザンノ事ヤ。手ヲ能々見ヨ」。甲被打落テ、頭ノ疵ヨリ物具ノスソマデ、大小ノ疵廿三箇所ゾ負クリケル。「如何ニ、此手ニテハ可ㇾ死カ。「ヨモ此手ニテハ死候ハジ」ト申。「如何ガスベキ。道ニテハ叶マジ」トテ、御文遊シ、御使一人添テ、其ヨリ鎌倉へゾ被ㇾ下ケル。「是ハ武藏國住人、高枝次郎ト申者ニテ候。六月六日、杭瀨河ノ軍ニ手アマタ負テ候。道ニテハ如何ニモ療治難ㇾ叶候間、進ラセ候。隨分忠ヲ致候。相構テ相構テタスカリ候樣ニ、御計ヒ可ㇾ有」由、權大夫殿へゾ被ㇾ申ケル。

 去程ニ京方落行ケルヲ、各追懸々々行程ニ、伊具六郎有時ガ手者、伊佐三郎行正、山田二郎ヲ目ニ懸テ行程ニ、彼方端モ此方ノ岸モ草ハ生ヲホヒ、底モ見へザルニ、馬ノシリ足蹈ハヅシテ倒ニ歸リケレバ、山田次郎、堀ノ底ニテ落立タル。伊佐三郎馳ヨセテ、「如何ナル者ゾ」。「山田次郎重忠ゾカシ。ワ君ハタソ」。「伊佐三郎行政」ト名乘。鐙ヲ越テ落合テ、堀ノ底ニテ引組間、敵・御方是ヲ不ㇾ知。山田次郎、乘替・下人モナシ。伊佐三郎、雜色一人具シタリ。主ガ軍セバ寄テ手傳モセズ、打合時ハ立ノキ見物シ、戰疲レテ休時ハ寄テソバニ居ル。角スル事、三度ニ及べリ。山田ガ郎從藤兵衞尉、落行ケルガ、サテモ我主ハ何ト成給ヒケント思テ、取テ返シ見ケレバ、堀ノ底ニ太刀打ノ音シケリ。打寄テ窺へバワガ主也。是ニ御座ケル物ヲト思テ、馬ヨリ飛ヲリ、主ヲ己レガ馬ニ搔乘テ落ントス。伊佐、山田ガ甲ノ甲ヲツカンデ引タリケレ共、大力ナリケレバ甲ノ緒ヲフツト引切テ、山田ハ延ヌ。伊佐被打取ヌハ遺恨ナレ共、甲・馬・鞍ヲ奪留タレバ、伊佐ガ高名トゾ申ケル。山田次郎落行ケルニ、美濃小關ニテ高キ梢ニ旗ヲ結付テゾ落行ケリ。是ハ、爰ニ敵アリト思ハセン爲ナリト覺へタリ。]

萩原朔太郎 短歌一首 昭和一七(一九四二)年二月二十二日(死の三月前) はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花


はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花

 

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。これは昭和一七(一九四二)年二月二十二日附森房子宛葉書に記された一首。この約三か月後の五月十一日に朔太郎は肺炎のため死去した。享年五十七歳。「醫えざる」はママ(底本全集校訂本文は「癒えざる」と訂する。以下に、書簡全文を示す(「中野區江古田町、四ノ一五九六 森房子樣」宛。ゴム印にて「世田谷區代田一ノ六三五 萩原朔太郎」)

   *

 御見舞重ねてありがたうございます。

 病気もまだ全快に至りませんが、気候あたゝかにもならば温々起床できせうです、いつも御芳情うれしく。

  はかなしや病ひ醫えざる枕べに七日咲きたる白百合の花

  二月二十二日、

   *

森房子とは女流歌人で朔太郎の全集書簡には五通が認められる。]

遺伝子操作夢

昨日見た夢。

僕は僕の書斎でPCに向っている――
僕は国外の遺伝子データベースにアクセスし、そこから「キノボリウオ」と「クリプトコッカス」のデータを引き出し、そのゲノムを操作している――

[やぶちゃん注:「キノボリウオ」スズキ目キノボリウオ亜目キノボリウオ科キノボリウオ(アナバス) Anabas testudineus。中国南部から東南アジアの湖沼・河川にすむ淡水魚。丘先生は、「樹の幹を登ることが出來る」とするが、参照したウィキの「キノボリウオ」によれば、『実際は木に登ることはなく、実際には、雨天時などに地面を這い回る程度である。 このような名が付いたのは、鳥に捕まって木の上まで運ばれ、生きているのを目撃した人が、木に登ったと勘違いしたためである。このように地上に進出できるのは、同じ仲間のベタやグラミーと同様に、エラブタの中に上鰓器官(ラビリンス器官)を持ち、これを利用して空気呼吸ができることと、他の仲間と異なり、這い回りやすい体型のためである』とあり、私も、木に登っているのは図像ばかりで、かなり湿った草地の泥の中を這うようにしているものしか見たことがない。因みに、上鰓器官とはベタなどを含むキノボリウオ亜目の共通の特徴で、鰓蓋の鰓の鰓上皮組織が変形したもの(構造が迷路状になっていることから「ラビリンス器官」とも呼ばれる)で、口を空気中に出して直接空気を吸い込み、ここを通して直接、空気呼吸をする器官。これは水中の溶存酸素が少ない劣悪な状況にも堪えうることを意味している。
「クリプトコッカス」担子菌門異型担子菌綱シロキクラゲ目シロキクラゲ科クリプトコッカス属  Cryptococcusウィキの「クリプトコッカス属」によれば、『酵母状の無性世代(不完全世代=アナモルフ)であり、菌糸を形成する有性世代(完全世代=テレオモルフ)の属名は Filobasidiella という。子実体は形成しない』。『空気中や土壌の至るところに存在するが、余病を併発して免疫が低下していたり、HIV感染者や臓器移植手術後の免疫抑制剤を服用中の場合、ステロイド剤を長期連用している場合等で体の抵抗力が頗る落ちていると、日和見感染症であるクリプトコッカス症の原因となることがある。健常人への感染例の報告もあるが、極めて稀である。代表的な種として Cryptococcus neoformans などがある』とあり、同「クリプトコッカス症」には、『クリプトコッカス属に属する酵母様真菌の感染を原因とする人獣共通感染症。ヒト、イヌ、ネコなどに感染する。主に Cryptococcus neoformans による呼吸器症状が認められる。クリプトコッカス属は空気中や土壌、植物などの環境中に広く分布』しており、『免疫抑制状態、通常であればその免疫力によって増殖が抑えられている病原性の低い常在細菌が増殖し、その結果として病気を引き起こすことがある日和見感染症の一つとして知られている』とある。]

中島敦 南洋日記 十二月三十一日

        十二月三十一日(水)

 夜土方氏方に到り、阿刀田氏高松氏等と飮み喰ひ語る。十一時、外に出で一同マリヤを誘出し、月明に乘じコロール波止場に散歩す、プール際にて少憩。歸途初詣の人に會ふこと多し、疲れて歸る、

[やぶちゃん注:「マリヤ」マリヤン。既注

 なお、底本年譜によれば、この日附で敦は「心臟性喘息ノタメ劇務ニ適セズ」という事由で「總動員業務從事ニ關スル希望」を「内地勤務」と申告している。]]

中島敦 南洋日記 十二月二十七日 《追加リロード版》

        十二月二十七日(土)

 土方氏が軍艦より贈られし和菓子の馳走にありつく。小豆のあんは久しぶりなり。

[やぶちゃん注:太字「あん」は底本では傍点「ヽ」。以下、二十八日(日)・二十九日(月)・三十日(火)の三日間は日記の記載がない。理由不明。ただ気になる書簡一通が残る。かの禁断の恋の相手教え子の小宮山靜への葉書である。これが昭和一六(一九四一)年の書簡の掉尾に当たる。旧全集書簡番号一五四。以下に示す。

   *

〇十二月二十九日(消印サイパン郵便局一六・一二・二九 パラオ南洋庁地方課。東京市王子区豊島町三ノ二一 小宮山靜宛。ヤップ海岸の風光の絵葉書)

 まだ旅をつゞけてゐます、毎日々々椰子と海と珊瑚礁の眺めばかり。身體の調子は割に良いのですが、寂しくつて寂しくつてどうにもなりません、

 内地はもう寒いんだらうな、君は、もう風邪をひいてるんぢやないかな? (サイパン丸の上で)

   *

 これはおよそ教え子の女性に挨拶として送った文面とは私には思われない。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十三年(五句)

   明治四十三年(五句)

 

煮るものに大湖の蝦や夏近し

 

[やぶちゃん注:「大湖」はどこの湖かは不詳乍ら、二句後の山中湖であろうか。]

 

灯をはこぶ湯女と戰ぐ樹夏の雨

 

合歡かげに舟の煙りや山中湖

 

ひぐらしの鳴く音にはづす轡かな

 

松にむれて田の面はとばぬ蜻蛉かな

猫   山之口貘

 猫

 

蹴つ飛ばされて

 

宙に舞ひ上り

 

人を越え

 

梢を越え

 

月をも越えて

 

神の座にまで屆いても

 

落つこちるといふことのない身輕な獸

 

高さの限りを根から無視してしまひ

 

地上に降り立ちこの四つ肢で歩くんだ。

 

[やぶちゃん注:【2014年6月3日全面改稿】初出は昭和一二(一九三七)年六月発行の『むらさき』。この雑誌は発行所(東京市神田区神保町二ノ二)から昭和九(一九三四)年に創刊されて昭和一九(一九四四)年六月に終刊した紫式部学会の学会月刊誌であることが分かる。この雑誌については個人サイト「通信・余話」の「余話 10 忘れられている月刊誌『むらさき』」に詳しく、実は同住所には一時は岩波・有斐閣とともに学術書出版三大書店と言われた巌松堂書店があったとし、『山之口貘の処女詩集『思弁の苑』は四六判函入りのものだが、巌松堂書店の出版書だ。どちらかといえば埋め草的な取り扱いをされていた詩歌にも、『むらさき』は、殆ど毎号、頁を割いていた』とある。リンク先の同誌の編集者や執筆者の記載には佐藤春夫やバクさんの盟友金子光晴はおろか、主だった近代詩人歌人俳人の名がこれでもかというほどに並んでいる。一時は二万部もの発行部数を誇ったというとんでもない学会誌の体裁をとりながらその実広く読まれた文芸雑誌であったことが分かる。是非、お読みあれ。

 本詩は標記通り、各行間が優位に広い。なお、原書房刊「定本山之口貘詩集」では、この行間空けはない。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年七月



浜木綿に流人の墓の小ささよ

 

南風や海より續く甘蔗畑

 

[やぶちゃん注:「南風」は「なんぷう」、「畑」は「ばた」であろう。]

 

春雨傘さして馬上や琉球女

 

[やぶちゃん注:「春雨傘」は「はるさめがさ」であろう。]

 

しののめの星まだありぬ揚雲雀

 

[やぶちゃん注:前の二句は七月の発表句、後の二句は「俳句手記」よりここに置かれた句。]

杉田久女句集 59 むきかはる通風筒に蚊喰鳥


むきかはる通風筒に蚊喰鳥

 

[やぶちゃん注:「通風筒」これは炭鉱の坑内の換気のためのそれではあるまいか。「蚊喰鳥」蝙蝠の別名。夏の季語。]

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 墓地



 墓地

 

室(むろ)櫻手にせりひとの葬にあふ

 

[やぶちゃん注:「室櫻」御室桜(おむろざくら)であろう。桜の名所仁和寺の桜には特にの名で呼ばれる。]

 

閼伽汲むと春の日中(ひなか)に井を鳴らす

 

墓地をゆき春の落暉に歩み入る

 

春日暮れ掘られし墓地の土をふむ

止まつた ウオツチ   八木重吉


止まつた 懷中時計(ウオツチ)、

ほそい 三つの 針、

白い 夜だのに

丸いかほの おまへの うつろ、

うごけ うごけ

うごかぬ おまへがこわい

 

[やぶちゃん注:「こわい」はママ。]

僕のヌード

フェイスブック経由で父から来た僕のヌード――

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2014/02/17

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年六月

   旅籠住居二句

部屋毎にある蛇皮線や蚊火の宿

 

蛇皮線と籠の枕とあるばかり

 

[やぶちゃん注:「蛇皮線」は「じやびせん(じゃびせん)」で、胴に蛇の皮を張るところから沖繩の三線(さんしん)の本土での俗称である(室町末に本土に伝わって改造されたものが三味線である)。沖繩フリークの私としては「さんしん」と読みたくなるが、であれば鳳作は「さんしん」とルビを振るはずであるから、ここは「じやびせん」である。「蚊火」は「かび」又は「かひ」で蚊やり火のこと。「毎(ごと)」「じやびせん」の濁音を意識するなら「かび」と濁りたい。年譜によれば宮古中学校に赴任した鳳作は暫くの間、張水港(これは平良港のことであろう。平良字西里には琉球の信仰の中で祭祀などを行う大切な聖域である張水御嶽(ぴゃるみずうたき)がある)近くの一心旅館に暫くいて、後に同じ西里の玉家旅館に移って、昭和七(一九三二)年秋頃まではこの旅館に住んだとあるが、孰れの旅館を詠んだものかは特定出来ない。また、孰れの旅館も現存しない模様である。ただ、前田霧人鳳作の季節(沖積舎平成一八(二〇〇六)年刊。リンク先はPDFファイルの全文)にある鳳作の教え子の喜納虹人のお書きになられた「雲彦と宮古島」(『傘火』昭和十二年四月号)の引用の中に、玉家旅館の鳳作の思い出が出、『この宿の主人は琴の師匠で、何曜かに、一回、下の方で謡(うたい)の会が開かれて蛇皮線(じゃびせん)と琴でうたい出す事がよくあった。その時は『やかましくてやりきれん』とぷいと外に出られる時もあった』とある。]

 

炎天や女も驢馬に男騎(の)り

 

うちかけを着たる遊女や螢狩

 

[やぶちゃん注:「螢」は底本の用字。このホタルは甲虫(コウチュウ)目ホタル科マドボタル属Pyrocoeliaの、宮古島で分化したミヤコマドボタル Pyrocoelia miyako Nakane であると思われる。宮古列島(宮古島・下地島・伊良部島・来間島・池間島)にのみ生息する固有種で、成虫のみならず幼虫も発光する。「東京ゲンジボタル研究所」古河義仁氏のブログ「ホタルの独り言」のミヤコマドボタルを参照されたい。]

 

島の春龍舌蘭の花高し

 

[やぶちゃん注:クサスギカズラ目クサスギカズラ科リュウゼツラン亜科リュウゼツラン属 Agave の仲間で百種以上ある。]

 

花椰子に蜑が伏屋の網代垣

 

[やぶちゃん注:「花椰子」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus のワジュロ(和棕櫚)Trachycarpus fortunei かトウジュロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianu(ワジュロと同種とする説もあり、その場合はワジュロの学名となる)の花であろう。雌雄異株で稀に雌雄同株も存在する。雌株は五~六月に葉の間から花枝を伸ばし、微細な粒状の黄色い花を密集して咲かせる(果実は十一~十二月頃に黒く熟す。ここまではウィキの「シュロ」に拠る)。「蜑」は「あま」と読んで海人・漁師の意、「伏屋」は「ふせや」で屋根の低い小さなみすぼらしい家の謂い。「網代垣」は「あじろがき」で細い竹や割り竹を網代形に組んで作った垣根のこと。]

 

   旧正月

廻禮も跣足のままや琉球女

 

[やぶちゃん注:「廻禮」は「くわいれい(かいれい)」で新年の挨拶回りのこと。

 ここまでの七句は六月の発表句。]

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (5) 卵の大小多少の利害得失について / 三 卵~了

 なほ卵について考ふべきことは、その大きさと數とである。前にも述べた通り卵に大小の相違のあるのは、全くその含む滋養分の多少に基づくことであるが、滋養分を多く含む大きな卵は、それから子の發育するときに速に大きく強くなり得るといふ利益があるが、その代り卵が數多く出來ぬといふ不便を免れぬ。これに反して小さな卵の方は、無數に生まれ得る便宜がある代りに、その卵より發育する幼兒は滋養分の不足のために極めて小さく弱いときから早くも獨力で冐險的の生活を試みねばならぬ不利益がある。譬へていへば、新領土へ少數の者に富裕な資本を持たせて遣るか、または資本なしの人間を無數に送り込むかといふ如くで、いづれにも一得一失があるから、甲の適する場合もあれば乙の方が據却つて有功な場合もあらう。また胎生する動物では、卵は如何に小さくても絶えず親から滋養分を供給し、長く掛つて少數の子を十分に發育せしめるのであるから、恰も初め手ぶらで出かけた社員に月月多額の創業費を送つて居るやうなもので、結局大きな卵を數少く生むのと同じことに當る。卵生も胎生も、卵の大きいのも小さいのも、皆それぞれの動物の生活狀態に應じたことで、利害損得を差引き勘定して、種族の生存上、少しでも得になる方が實行せられて居るやうである。

[やぶちゃん注:この丘先生の譬え話、なかなか面白い。]

杉田久女句集 58 訪ふを待たでいつ巣立ちけむ燕の子


訪ふを待たでいつ巣立ちけむ燕の子

 

[やぶちゃん注:本句集は明らかに季題ごとに纏めたものであるから、この句が前句と必ずしも繋がるものとは言えないが、もし、前句が私の推測したような意であるとし、本句がその後日の同じ場所での詠とすれば、私は腑に落ちるのである。]

三女アリスは全治致しました

暴漢柴犬に襲われました三女は、お蔭様で先週木曜に三箇所の抜糸をし、女王さまカラーも今日はずすことが出来ました。娘はすこぶる附きで元気です。皆様にご心配をかえた上に多くの方からお見舞いの言葉を戴き、ありがとう御座いました。娘になり代わり、心より御礼申し上げます。心朽窩主人敬白

フランスの古城の執事の私は惟光というナンジャヤラホイ夢

今朝方、見た夢。
私は広大な葡萄園を持ったフランスの古城(文字通りの「シャトー」で本当に古風な城なのである)に勤める執事なのである(但し、年齢は20代の頃の私である)が、私は私の名が何故か「Koremitu」であると強く認識している(「源氏物語」のあの光の側近の「惟光」である!)。
城の主人は若いフランス人で、今日訪ねてこられて主人と城の一画で一緒におられる(時刻はまだ昼過ぎでそらは青く雲一つない上天気である)その恋人の女性も無論、フランス人なのだが(窓から遠くを歩く二人を見ただけだが孰れも私より若そうだ)、何故か私は主人を「Monsieur Hikaru」、恋人を「Mademoiselle Yu-gao」と呼んで、何やらん、やはり若いフランス人男性の召使いとフランス語(!)で喋っているのである。
そのうちに私の顔が青ざめてくる(この時、私は執事を演じている私を映画のように見ていたのである)。そうしてフランス語で召使いに何かを激しく命ずるようだが、召使いは恐れおののいて、ノン! ノン! と手を振って室外へと逃げ去ってしまう……焦った表情の私……
この瞬間――見ている私は執事を演じている私となったのが感じられた――すると私が考えていることが分かったのである――
「……いけない!……今夜、ここでお二人が過ごされれば……夕顔さまは……命を落とされる!……早く……それを分かるようにお伝えしなければならぬ!……しかし果して間に合うだろうか?……」
と……。(ここで覚醒)
 

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (4) ヒトの卵巣

Hujinnnokaibouzu

[婦人腹部の解剖 卵巣を示す

(い)子宮 (ろ)膀胱 (は)卵巣 (に)輸卵管 (ほ)直腸]

 

 婦人の腹を正面から切り開いて腸などを取り去ると、膀胱の後に恰も茄子を倒にした如き形の子宮が見えるが、その左右に一つづつ三糎餘のお多福豆のやうな卵巣がある。鳥類の卵巣または世人がつねに「たひ」の子とか「かれひ」の子とか呼んでいる魚類の卵巣とは違ひ、哺乳類の卵巣は一見して直に卵の塊とは思はぬが、よく調べて見ると、やはり大小不同の卵細胞の集まり成つたもので、その中の成熟したものから順々に離れ出るのである。そして一旦離れ出た後は、或は精蟲と合して子宮内で新たな個體の基となるか、或は精蟲に會わずしてそのまゝ死ぬか、いづれにしても親の身體との組織の連絡は絶えるが、それまでは慥に母親の身體の一部を成して居たものである。

Ransoudannmenn

[卵巣の斷面] 

[やぶちゃん注:「お多福豆」阿多福豆(おたふくまめ)は形がおたふくの面に似ていることからついた大粒の豆をつけるソラマメの一品種名又はその豆を用いて製した甘納豆の菓子名。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉古城蹟 

    ●住吉古城蹟

正覺寺院内、住吉明神の社地是なり、背(うしろ)は山に據り前は海に臨み、要害の山城なり。造築の始詳ならす、永正七年長尾六郎爲景蜂起の時、北條新九郎入道早雲、假りに當所の古城を取立て楯籠(たてこも)る。

[やぶちゃん注:以下二段は底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前後を一行空けた。]

 

上杉憲房上乘院に呈する書曰、伊勢新九郎入道宗瑞 長尾六郎と相談、相州へ令出張、高麗寺幷住吉之古要害取立令蜂起候、

小田原記に曰、上杉の家老長尾六郎爲景逆心を起し、永正七年六月顯定を討取申ける小田原の城主伊勢新九郎早雲も、彼六郎と一味して、已に相州住吉の城を取立出張す、去る程に上田藏人入道、武州神奈川に打て出、熊野權現山を城郭に取立、小田原の宗瑞と引合、謀叛の色を立にけり。早雲小田原には子息新九郎をとゝめ、吾身は松田大道寺以下の軍勢を引率し、高麗寺山幷住吉の故城を取立てこもる。

 

されと早雲も須臾(しばし)にして當城をすてしかは、後三浦介義同(よしあつ)が抱城となりしにや、同九年には義同岡崎の居城を北條早雲に攻落(せめおと)され、姑(しばら)く當城に遁しか、又此城をも沒落して三浦城に奔し事小田原記に見ゆ、

[やぶちゃん注:以下底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前後を一行空けた。]

 

三浦介義同永正九年八月十三日、小田原早雲に岡崎城を攻落され、搦手より落て同國住吉の城に落行きける其後又住吉をも落されて、三浦の城へ落行、

 

其後廢城となりし年代詳(つまびらか)ならす、

[やぶちゃん注:以下底本では全体が一字下げで極度に小さくポイント落ち(則ち、当該本文ポイントでは全体が二字下げの格好になる)。前を一行空けた。]

 

案するに北條氏當國併呑の後廢却せしにや、小田原分國より以來當城の事諸記録に見ず。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」の「正覺寺」の項に附す形で、

   *

三浦の導寸(だうすん)が城跡 寺の西南の山にあり、切拔(きりぬき)の洞(ほら)二十餘間ありて、寺へ拔け通るなり。前に道あり。此を三浦導寸が城の跡と云ふ。【鎌倉九代記】【北條五代記】等に、三浦陸奧守義同(よしあつ)入道導寸永正九年八月に、北條新九郎長氏に、相州住吉の城をも攻め落さるゝとあるは此處なり。里人、光明寺の南方の山を導寸が城跡なりと指し示す。則ち此處へ相ひ續きて同じ所也。俗にくらがりやぐらと云ふ。總じて鎌倉の俚語に、巖窟(いはや)をやぐらと云ふなり。

   *

とある(ここで以下、「新編鎌倉志卷之七」で私が附した注をそのまま引いておく)。

・「三浦の導寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年?~永正十三年(一五一六)年)は東相模の初期の戦国小大名。「導寸」は道寸とも書き、彼の出家後の法名。通常はこちらで呼ばれることの方が多い。平安から綿々と続いてきた相模三浦氏血脈の最後の当主にして、北条早雲に拮抗する最大勢力であったが、北条に攻められ、三浦の新井城で三年の籠城の末、討死した。

・「北條新九郎長氏」戦国大名の嚆矢たる北條早雲(永享四(一四三二)年又は康正二(一四五六)年~永正十六(一五一九)年)のこと。「長氏」は彼の諱とされ、他の諱に氏茂も伝えられたが、現在は盛時が定説である。早雲というのは早雲庵宗瑞(そうずい)という彼の号に基づく。

・「俗にくらがりやぐらと云ふ。」前に光明寺裏山の記載があるため一読、分かりにくいが、この「くらがりやぐら」とは、この「切拔の洞」=手掘りの隧道を指している(後に示す「鎌倉攬勝考卷之九」所載の「古城址」の「三浦陸奧守義同人道道寸城跡」の冒頭がそれをはっきりと述べている)。この隧道は現在未確認である。ところがこれに関わってこの隧道を探索している方がいる。「山さ行がねが・ヨッキれん」の平沼義之氏で、その「隧道レポート 小坪のゲジ穴」後編にそれはある。私は長くこの「くらがりやぐら」をこの平沼氏踏査の隧道だと固く信じて来た。実は三十数年前に私はこの隧道を通り抜けているのだ(現在はリンク先でご覧の通り、出口が封鎖され通行出来なくなっている)が、その際、リンク先の画像でも分かる通り、隧道自体が上り坂となっている以上に、途中で大きく隧道が左へ湾曲しているため、中は真暗なのである(因みに私は照明器具を持たずに手探りでこの天井にゲジゲジの群生する中を抜けたわけであった)。従って「くらがりやぐら」という呼称が実感として落ちて、そう思い込んでいた訳である。この隧道の海側の口は正に住吉明神のすぐ右手にあって「鎌倉攬勝考」の「住吉の社地より山中を切拔たる洞口」という表現にもぴったり一致する点も手伝った。ところが、平沼氏がこの探査の折りに出逢った六十歳ほどの地元男性の証言では、この隧道は戦後になってから地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものとあり、更にその最後で平沼氏はデジタル地図ソフトの地図を示され、この隧道より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が示されているのである。これが幻の「くらがりやぐら」であることは間違いない。ネット上を検索すると「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」という書物に「掘拔の穴 東の方は表門、北の方は裏門、住吉城双方へ掘拔也。裏門を出れば姥ヶ谷小坪の後也。」とあって、前者が幻の「くらがりやぐら」で、後者は現在の住吉隧道のプロトタイプか、消滅した別隧道を言うか。――しかし、今や、「くらがりやぐら」どころか、この無名の「ゲジ穴」さえも消滅させられようとしている。かつて歩いた場所がなくなることを痛烈に意識するということは――それは『私の病い』に基づくものなのだろうか、それともこの『現実世界そのものの病い』の現象なのだろうか――

   *

 また、「鎌倉攬勝考卷之九」の「古城址」の項には特別にこの住吉城跡だけが図入りで載っている。

   *

三浦陸奧守義同人道道寸城跡 小坪正覺寺の東南、住吉の社あるゆへ、住吉の城とも唱へし由。城山は、光明寺の山より地つゞけり。此所を三浦道寸が城跡といふ。住吉の社地より山中を切拔たる洞口を、大手口なりといふ。入口の洞穴を、例の土人が方言に、くらがりやぐらと稱す。平坦の地四ケ所有。亭宅を構へしは、【北條五代記】に、永正六年、上杉治部少輔建芳が被官、上田藏人入道、北條早雲が下知に從ひ、武州神奈川へ出張し、熊野權現山に城を構へ、謀叛の色を立けるゆへ、早雲、小田原に新九郎氏綱を留置て、松田・大道寺以下の軍勢を率ひ、高麗寺山並住吉の城を攻立てるとあるは、此地の事なり。扨早雲は、住吉の城より神奈川へ押寄合戰せし由。其後此所に三浦道寸を置て守らせけるが、是も又敵の色をなしけるゆへ、同十三年七月、早雲が爲に此城攻落され、道寸父子討る。此入道が太刀並系圖文書等、今圓覺寺中壽德菴に藏す。其由來はしれず。

城山の圖爰に出す。扨此地は三浦都なれども、鎌倉に接附しけるゆへ玆に出せり。

   *

 今回、ネットを調べたところ、さらに武衛氏の「鎌倉遺構探索」の中に住吉城跡~概要編に始まり、ら」に終わる詳細な現地探索記録を発見した。見応えがあり、必見である。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 16 高嶺秀夫との欧米人と日本人の愛情表現の違いについての会話

 高嶺氏がちょいちょい家へやって来る。彼はオスゥェゴー師範学校の卒業生で、私とは汽船の中で知合になったが、気持のいい人であり、私のいろいろな質問に対して、腹蔵なく返事をする。彼は私の男の子のことを話し、如何に彼を抱きしめることが好きであるかをいった。そこで私は、愛情をあらわす方法が違っていることをいい出した。高嶺のお母さんは、立派な、聡明そうな婦人で、非常に気持のよい、親切な感じを人に与える。で私は高嶺に、二ケ年半も留守にした後でお母さんに逢った時、君は彼女にとびついて、固く抱擁して接吻しなかったかと聞いた。すると彼は一寸終っていたが、「いいえ、僕にはそんなことは出来ませんでした。そんなことは非常に極りが悪いのです。ですから僕は、母親の左の手をつかんで、握手しました。母は私が握手した勢に吃驚し、私が完全に外国化したと思いました」と答えた。そこで私は彼に向って、日本人が友人や親類、殊に自分の子供に対して持つ愛情は、我々に於ると同様に熱切だと考えるかと、質ねた。彼は素直に、そうは思わぬといい、かつ愛情と愛情的の表現は、養成することが出来ると信じることと、それから米国へ行く前にくらべて、彼は兄弟に対して、よりやさしい感情を持つようになったこととを、つけ加えた。

[やぶちゃん注:「高嶺」本章冒頭の注でも示したが再掲しておく。高嶺秀夫(安政元(一八五四)年~明治四三(一九一〇)年)は教育学者。旧会津藩士。藩学日新館に学んで明治元(一八六八)年四月に藩主松平容保(かたもり)の近習役となったが九月には会津戦役を迎えてしまう。謹慎のために上京後、福地源一郎・沼間守一・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾で英学などを学び、同四年七月に慶応義塾に転学して英学を修めた(在学中に既に英学授業を担当している)。八年七月に文部省は師範学科取調のために三名の留学生を米国に派遣留学させることを決定、高嶺と伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎(同人社学生)が選ばれた。高嶺は一八七五年九月にニューヨーク州立オスウィーゴ師範学校に入学、一八七七年七月に卒業したが、この間に校長シェルドン・教頭クルージに学んでペスタロッチ主義教授法を修めつつ、ジョホノット(一八二三年~一八八八年:実生活にもとづく科学観に則る教授内容へ自然科学を導入した教育学者。)と交流を深め、コーネル大学のワイルダー教授(モースの師アガシーの弟子でモースの旧友でもあった)に動物学をも学んだ。偶然、このモースの再来日に同船して帰国、東京師範学校(現在の筑波大学)に赴任、その後、精力的に欧米最新の教育理論を本邦に導入して師範教育のモデルを創生した。その後,女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授や校長などを歴任した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]

飯田蛇笏 靈芝 明治四十二年(五句)

   明治四十二年(五句)

 

月光に燭爽かや灯取蟲

 

牡丹しろし人倫をとく眼はなてば

 

爐ほとりの甕に澄む日や十二月

 

春近し廻國どもが下駄の泥

 

[やぶちゃん注:「廻國」の「廻」の字はママ。]

 

湯屋出づるとき傘のみぞれかな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「傘」は「からかさ」と読む。]

篠原鳳作句集 昭和六(一九三一)年五月

くまもなき望の光の寢釋迦哉

 

くまもなき望の光の寢釋迦かな

 

[やぶちゃん注:前者が『馬酔木』同年五月発表の、後者が『天の川』昭和六(一九三一)年九月発表の句形。先行する寝釈迦句の再吟。]

 

   琉球所見

鶯を檳榔林に聞きにけり

 

鶯を檳榔林に聞かんとは

 

[やぶちゃん注:「檳榔林」は音数律からも「びんらうりん(びんろうりん)」と読んでいよう。「檳榔」は「びんろう」と読むならば単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu に同定される。宮古島にビンロウ Areca catechu が植生することは、例えばこちらの宮古島に住む93(クミ)さんのブログ「宮古島日和ブログ」の「ビンロウ」で明らかではあるからビンロウ Areca catechu ではないとは言えない。但し、「檳榔」は別に「びろう」と読んで、ヤシ科ビロウ Livistona chinensis という全くの別種をも指し、この「林」という表現からは後者のビロウ Livistona chinensis の可能性の方が遙かに高いようにも思われる。但し、実景を実際に見ていない(私は残念なことに宮古島には行ったことがない)のでここでは断定は避ける。なお、沖繩ではこの「ビロウ」を「クバ」と呼び、葉を用いて扇や笠などを作る(リンクはそれぞれのウィキ)。]

 

   首里城

屋根の上にペンペン草やら薊やら

 

  琉球の墓は住まつてゐる家よりも

  數層倍立派であります。「母體より

  出でて母に歸る」と云ふ信仰のも

  とに墓は母體に型どつて出來てゐ

  ます。墓毎に築地構への庭があり

  ます。

 

鷄合せ古墳の庭に始まれり

 

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、亀甲墓(かーみなくーばか)である。私はこれについては多くを語りたくなるのだが、ここはぐっとこらえてウィキの「亀甲墓をリンクさせるに留める。そうしないといつものように膨大な注になってしまうからである。一言だけ言っておくと、古いタイプのそれは円形をして海波の彼方であるニライカナイにその入り口を向けた子宮のような形をしている。鳳作の前書は要所を押さえた簡便ながらよい解説である。「鷄合せ」沖繩では「闘鶏(たうちーおーらせー)」と言って二羽の雄の鶏を戦わせる娯楽が古来より盛んであった。

 以上、四句は五月の発表句。最後の句は底本では六月の句群最後に配されてあるが、この句、『ホトトギス』では六月の発表だが、『不知火』は五月発行分に掲載されているのでここに配した。編者には相応の意図があって後ろに回しているのであろうが、その意図が不明である以上、書誌データからここに移動させた。]

士族   山之口貘

 士族

 

往つたり來たりが能なのか

往つたばかりの筈なのに

季節顏してやつて來る

 

それが 春や夏らの顏ならまだよいが

四季を三季にしたいくらゐ見るのもいやなその冬が

木の葉を食ひ食ひ こちらを見い見いやつて來る

兩國橋を渡つて來る

 

來るのもそれはまだよいが

手を振り

睾丸振り

まる裸

 

裸もまだよい

あの食ひしんぼうが

なにを季節顏して來るのであらうか

 

第一

ここは兩國ビルの空室である

たまには食つても食ふめしが たまには見ても見る夢が

一から

十まで

借り物ばかり

その他しばらく血の気を染め忘れた 手首、足首、この首など

あるにはあるが僕の物。


[やぶちゃん注:【2014年6月2日:思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証により注を全面改稿した】初出は昭和一二(一九三七)年七月号『人民文庫』(発行所は東京市神田区淡路町の人民社)。同誌は昭和一一(一九三六)年三月に武田麟太郎らによって創刊されたプロレタリア文学運動系文芸雑誌。当局の発禁措置や圧力により、昭和一三(一九三八)年一月号を以って終刊した(以上はウィキの「人民文庫」に拠った)。

 原書房刊「定本 山之口貘詩集」では七行目が、

 

木の葉を食ひ食ひこちらを見い見いやつて來る

 

に改稿されており、最終連の後ろから二行目が、

 

その他しばらく血の気を染め忘れた 手首 足首 この首など

 

と読点が除去され、最終行の「あるにはあるが僕の物。」の句点も除かれてある。「木の葉を食ひ食ひ こちらを見い見いやつて來る」の一マス空けのツメはやや読み難くなるものの、音韻上、リズムの連続性からは納得出来る。しかしであれば、対称性の際立つ第四連の「たまには食つても食ふめしが たまには見ても見る夢が」も「たまには食つても食ふめしがたまには見ても見る夢が」とツメるべきであろうと私は思う。

「兩國ビルの空室」はバクさんの随筆にしばしば懐かしい青春の思い出として語られるもので、「両国の思い出の人たち」(昭和三五(一九六〇)年三月十日附『沖繩タイムス』掲載)に、『もう二十年余りも前なのだが』、『両国駅のすぐ際に、両国ビルディングというのがあって、その中に住んでいた。住んでいたとはいっても、そのビルの倉庫とか、空室から安室へと転々としてその日その日を過ごしていたのである』という「兩國ビルの空室」である。この『ビルとの関係は、昭和の四年か五年ごろからのことで、最初は就職のことからそこに住むようになったのであって、両国ビル二階のお灸と鍼の研究所に通信事務員の名目で、住み込みとして働くことになってからである。この研究所は後になってしんきゅうの学校になった』とあるビルである。この辺りの年譜的事実については前の鼻のある結論の私の注も参照されたい。この詩はともかくもバクさんの独身時代最後の詩(の一つ)と思われる詩である。]

萩原朔太郎 短歌一首 綠なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな

綠なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな

この一首についてはこの萩原朔太郎の短歌パートを始める前の、ほぼ一年前の2013年2月19日のブログで詳細注を附しているので、そちらをお読み戴きたい。

なお、底本とした全集の短歌パートもあと一首で終わる。なにか不思議にしみじみしてきた――

萩原朔太郎 短歌一首 うらうらに俥俥とゆきかへる けふしも年の初會はつゑなるらむ 《同首ヴァリアント併記》


うらうらに俥俥とゆきかへる

けふしも年の初會はつゑなるらむ

 

[やぶちゃん注:底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」より。これは大正四(一九一五)年一月一日のクレジットを持つ北原白秋宛(宛先「東京市麻布區坂下町十三」)年賀状に書かれた一首。底本全集第十三巻の「書簡」の書簡番号七六であるが、そこでは二行分かち書きではなく、

 新正

 うらうらに俥俥とゆきかへるけふしも年の初會(はつゑ)なるらむ

  大正四年一月一日

                   萩原朔太郎

 

の一行書きであるのは不審。前の一首の改案か。前の注で示した通り、これにはこの一首を含めて都合四つのヴァリアントがある。そのすべてをここで並べてみたい。

 

〇底本全集第二巻「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「晩秋」と題する十二首連作の第九首目

 

みちもせに俥俥(くるまくるま)と行きかへる

なにしか菊の節會なるらむ

 

〇大正二(一九一三)年十二月一日附『上毛新聞』発表の「古今新調」の中の一首

 

     菊(きく)

みちもせに俥俥(くるまくるま)と行(ゆ)きかへる今日(けふ)しも菊(きく)の節會(せちゑ)なるらむ

 

〇底本筑摩版全集「短歌・俳句・美文」の短歌パートの掉尾にある「『草稿ノート』『書簡』より」の本歌の前の四首の掉尾

 

うらゝかに俥俥と行きかへる

けふしも年の初會(はつゑ)なるらむ、

 

〇本歌「書簡」書簡番号七六(大正四(一九一五)年一月一日)

 

新正

うらうらに俥俥とゆきかへるけふしも年の初會(はつゑ)なるらむ

 

朔太郎、後年の白秋への賀状に添えるほどだから、よほどの自信作であったに違いなく、四つもヴァリアントが残るというのも彼の短歌の中では特異である。但し、私は上手い短歌とはお世辞にも思わない。残念乍ら。]

杉田久女句集 57 燕に機窓明けて縫ひにけり 《解釈に識者の御教授を乞う》



燕に機窓明けて縫ひにけり

 

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年の作。私が莫迦なのか、本句は解釈に苦しんでいる。「機窓」はどう読んでも「はたまど」という熟語としか思えないのだが、これは、一体、何だ? 機織り機の置いてある別棟の機屋(はたや)の窓か? それとも何か独特の(機織り機に似た)構造の窓のことか?(「日本国語大辞典」にも「機窓」は乗らない。ネットで引っ掛かるのは、これ、飛行「機」の「窓」である。)――その窓を開ける(「明けて」の用字も気になるが暫く「開けて」の意で採る)のは「燕」(「つばくら」と訓じていよう)のため、というのは――例えばその機屋の内に燕が入り込んでいて巣を作っていたから、その巣に親鳥を通わすために機屋の窓を開けた――というシチュエーションが自然に浮かんでそこだけは腑に落ちるのだが、しかし下五でまた躓く。そこで機(はた)を織るのではなく、手で何かを「縫」っているからである。これは何故?……これは貧しい私の知恵では……久女はこの時、機を織ろうと機屋へ入ったのだったが、気がつけばその屋内には燕が巣を作っており、その中には既に沢山の子が生まれていた(だからこそ餌を運ぶ燕を通わせるために「機」屋の「窓」を「明け」(開け)たのである)。だから……その燕の子たちを驚かさぬために久女は大きな音の出る機(はた)を織るのはやめにし、静かに別な手縫い仕事をそこで始めた……という牽強付会の謗りを受けそうな解釈しか出来ない。……私は……もしかすると……とんでもない思い込みと誤読をしているのかも知れない(でなければここまでの不審と解釈への自信のなさは募らぬはずだから)。どうか識者の御教授を乞う。目から鱗の解釈をお願いしたい。]

杉田久女句集 56 こがね蟲葉かげを歩む風雨かな

こがね蟲葉かげを歩む風雨かな

橋本多佳子句集「海燕」昭和十四年 小豆島

 小豆島

 

春日沒り鹽田昏るる身のまはり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍、「沒り」は「いり」と読む。「鹽田」底本の用字は「塩田」。]

 

魚ひかり春潮比重計浸せり

 

春日昏れ鹽屋の裡(うち)にベルト鳴り

 

[やぶちゃん注:「鹽屋」底本の用字は「塩屋」。このベルトは何だろう? 夜間作業のための自家発電のモーターか? それとも海水を汲み上げるモーターか? 凡そベルト・コンベアを装備した多量生産の塩屋というのもこの時代の小豆島の造塩業では考えにくいように思われる。識者の御教授を乞うものである。年譜上ではこの年の小豆島行は確認出来ない。

「私はいい人なんです」

自ら「私はいい人なんです」といった人で本当に「いい人」だったというのは古今東西一人として僕は聞いたことがないがそういう人が歴史上実在するなら是非教えてもらいたい。――但し、今、どこかでそう言っておるおぞましく不遜極まりない最下劣な人物以外に――でである。――因みに僕は57年の人生の中で「私はいい人なんです」と言ったことはないし今後も言わない――

暗光   八木重吉

 

ちさい 童女が

ぬかるみばたで くびをまわす

灰色の

午后の 暗光

 

[やぶちゃん注:これは極めつけのシュールレアリスム!]

ギルバート諸島

キリバス人全員の移住も=気候変動で国土水没なら-フィジー

……22の頃、毎日通っていた食堂の主人は、戦前、船員をしていた。その彼が、

「て船乗りの人生の中で一番のパラダイスだと思ったのはギルバート諸島だったね……あそこは美しかった……」

と厨房から遙か彼方の南の島を見るように如何にも懐かしそうに幸せな笑みを浮かべてぽつん呟いたのを忘れない……

風呂場より走り出て来し二童子の二つちんぽこ端午の節句  佐佐木幸綱

風呂場より走り出て来し二童子の二つちんぽこ端午の節句  佐佐木幸綱

マイミクの「進撃の半沢直樹」氏より教えられし短歌。頗る附きでいい♡

2014/02/16

私はまた

私はまた新しい夢を――見よう――

人を愛する

愛する人に厭われてまで言葉を発するのは、実は愛こそ故であるにも拘わらず、その人があなたを愛していないというその瞬間の現在的事実が露呈する際には、それがただの猥雑な犯罪者に瞬時に豹変するという事実が生ずるのである。これは頗る面白い現象であると言わねばならぬ。そういう点に於いて人は――「人を愛する」――という行為を――厳に――慎まねばならない――という命題の真であることが証明されるのである。

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 水蛭

水蛭〔音質〕人ノ血ヲ吸フ蟲ナリ小アリ大アリ鹽ヲオソル夏月

澤水ニ多シ妄ニ澤水ヲノムヘカラスアラメヲ煮テ雨水ヲソヽ

ケハ大蛭トナル女ノ髮ヲ水ニ久シクツケヲケハ變シテ赤キ小

蛭トナル黑キモアリ蟹ヲクタキフキノ葉ニツヽミ水ニツケヲケ

ハヤカテ蛭トナル又蛭ノ黑燒雨ニウルホヘハ百千ノ蛭ニ變スト

云〇草蛭ヲ國俗山ヒルト云本草水蛭條下ニアリ深山ニ

アリ山中ヲ行ニ林木ノ枝ヨリ人ニヲチカヽル事アリ故ニ笠ヲ

キテ山行ス又本草辰砂附方水蛭瘡毒ノ事アリ水蛭

古木ノ上ニ生ス人其下ヲ過レハ落テ人ノ體ニツキテ即瘡

トナル久ケレハ遍體朱砂麝香ヲヌレハ癒又本草水蛭ノ

集解ニ續博物志ヲ引テ此事ヲ云ヘリ又曰此即草蛭

〇やぶちゃんの書き下し文

水蛭[やぶちゃん注:「蛭」の右に「ヒツ」、「水蛭」の左に「ヒル」とルビを振る。]〔音、「質」〕。人の血を吸ふ蟲なり。小あり、大あり。鹽をおそる。夏月、澤水に多し。妄りに水をのむべからず。アラメを煮て、雨水をそゝげば、大蛭となる。女の髮を水に久しくつけをけば、變じて赤き小蛭となる。黑きもあり。蟹をくだき、フキの葉につゝみ、水につけをけば、やがて蛭となる。又、蛭の黑燒、雨にうるほへば、百千の蛭に變ずと云ふ。草蛭を國俗、「山ひる」と云ふ。「本草」〔の〕「水蛭」條下にあり、『深山にあり。山中を行くに林木の枝より人にをちかゝる事あり。故に笠をきて山行す。』〔と〕。又、「本草」「辰砂」〔の〕「附方」〔に〕「水蛭瘡毒」の事あり、『水蛭古木の上に生ず。人、其の下を過ぐれば落ちて人の體につきて即ち、瘡となる。久しければ、體に遍(〔あまね〕)し。朱砂・麝香をぬれば癒ゆ。』〔と〕。又、「本草」「水蛭」〔の〕「集解」に「續博物志」を引きて此の事を云へり。又、曰く、『此れ即ち草蛭なり。』〔と。〕

[やぶちゃん注:「水蛭」は環形動物門ヒル綱顎ビル目ヒルド科チスイビル Hirudo nipponia を指すと考えてよいが、本文は明らかにヒル綱 Hirudinea に属するヒル類(特に吸血性ヒル類)全般をごった煮のように記しており、途中にある「木蛭」というのは「草蛭」「山びる」というのは顎ヒル目ヒルド科ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica を指している。しかもその記載は噴飯ものの化生説を多く含み、信頼するに足らない。

『「本草」の「水蛭」條下に……』「本草綱目 蟲之二」「水蛭」の項の「集解」の中に、

其草蛭在深山草上、人行即著脛股、不覺入於肉中、育爲害、山人自有療法。

とある部分の前半を指す。

『「本草」「辰砂」の「附方」に「水蛭瘡毒」の事あり……』「本草綱目 金石之三」の「丹砂」の項の「附方」の最後の方に、

木蛭瘡毒、南方多雨、有物曰木蛭、大類鼻涕、生於枯木之上、聞人氣則閃閃而動。人過其下、墮人體間、即立成瘡、久則遍體。惟以朱砂、麝香塗之、即愈。(張杲「醫説」

とあるのを引いている。

『「本草」「水蛭」の「集解」に「續博物志」を引きて此の事を云へり。又、曰く、『此れ即ち草蛭なり。』と。』「本草綱目 蟲之二」「水蛭」の項の「集解」の最後に、

時珍曰、「李石「續博物志」云、『南方水痴似鼻涕、聞人氣閃閃而動、就人體成瘡、惟以麝香、朱砂塗之即愈。此即草蛭也。』」

とあるのに基づく。「續博物志」は晋の張華の「博物志」に倣って宋代に李石が著わした地誌博物書。

生物學講話 丘淺次郎 第十章 卵と精蟲 三 卵 (4) ヒトの卵子

Hitonorann
[人間の卵]

 以上は卵生する動物の卵の例であるが、卵は必ずしも卵生する動物に限つてあるわけではない。哺乳類の如き胎生する動物でも胎兒の始は必ず一つの卵である。しかし鳥類などの卵とは違ひ頗る小さいから、その發見せられたものも比較的近いことで、昔は誰もこれを知らずに居た。人間の女などは年に十二三囘も卵を産み落としていながら、餘り小さいから當人さへ氣が附かぬ。人間の卵でも犬・猫・馬・牛の卵でも形も大きさも皆ほゞ同樣で、直徑僅に一粍の五分の一にも足らぬ小球であるから、肉眼ではたゞ針の先で突いた孔程により見えず、顯微鏡で覗いて見ても殆ど何の異なる所もない。即ち卵の時代には、人間でも猿でも犬でも猫でも全く同じである。哺乳類の卵の外面には稍々厚い透明な膜があるが、この膜を度外視して内容だけを「うに」や「ひとで」などの微細な卵に比べて見ると、いづれも嚢狀の大きな核と多少の顆粒とを含んだ原形質の塊で、その一個の細胞なることは明に知れる。されば鳥の卵などに比べて違ふ點は、一は滋養分を殆ど含まぬために小さく、他は滋養分を多量に含むために大きく、一は親の體内で發育するために單に膜を以て被はれ、他は親の體外で發育するために更に白身と殼とで包まれて居るといふだけで、いづれも一個の細胞である點に至つては毫も相違はない。

[やぶちゃん注:「その發見せられたものも」はママ。講談社学術文庫版では「せられたのも」とする。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 住吉明神社

    ●住吉明神社

正覺寺の後山(うしろやま)の上に在り、神體は故ありて曩(さき)に鶴岡(つるがをか)の末社に移し當社には今白幣を神體とす小名飯島の鎭守なり、古は郡中の總鎭守なりしと云ふ、此地三浦道寸の城跡なり。

[やぶちゃん注:鎌倉三」の「住吉社」の項には、

住吉社 小坪の正覺寺の後山にあり。正覺寺の山號をも住吉山と號し、むかしは、小坪の内住吉といふ地名に唱へし由、されば古き社ならん。【光明寺開山傳記】に、三浦住吉谷悟眞寺に住して、淨土宗を弘通すとあり。今も小坪邊の生土神に崇むといふ。偖此住吉は、三浦部の地なれども、當郡に接附せし地なるゆへ、因に此編に錄せり。

とある。ここで言う「悟眞寺」というのは光明寺の前身で現在とは別な所にあったとされる寺である。これには疑義があるものの、「正覺寺」の注で示した通り、光明寺開山の良忠を荼毘に付した場所はこの正覚寺のある場所と考えられ、現在の同寺でもその遺跡と伝える。「鎌倉事典」の三浦勝男氏の「正覚寺」の項では、この悟真寺は、『背後に住吉城をひかえていることから、再三の合戦の被害で廃寺となったが、天文十年(一五四一)光明寺十八世快誉上人が正覚寺を起立したと伝える』と記す。「弘通」は「ぐづう(ぐずう)」又は「ぐつう」と読み、仏教が広く世に行われること。また、仏教を普及させることを言う。「生土神」「うぶうながみ」と読む。産土神。その土地の民草を守る土地神のこと。言わずもがなであるが本文で「古は郡中の總鎭守なりしと云ふ」とある「郡」とは三浦郡を指す。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 15 明治十一年の日本製の皮靴は踵に難点あり!

M315
図―315
 

 日本人は我々の服装を使用するのに、帽子はうまい具合にかぶり、また衣服でさえも、彼等特有の理屈にかなった優雅な寛衣と対照すれば、必ず身に合わず、吃驚せざるを得ないような有様ではあるが、それにしても相当に着こなす。然し日本の靴屋さんは、見た所は靴らしく思われる物はつくるが、まだまだ踝(くるぶし)を固くする技術を呑み込んでいない。靴を見ることは稀であるが、見る靴はたいてい踵(かかと)のところが曲っている。図315は今日私がある男のはいていた靴を、正確に写生したものである。

[やぶちゃん注:こんなことを記録していたのはきっとモースだけに違いない。明治十一年の日本製の靴は踵が軟かったのであった。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 14 草刈鎌 / 迷路のような街 / 買った鉢植えの草花

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図―313

 

 

 

 図313は、まっすぐな柄の鎌で草を刈っている男を示す。鎌はすべてこの種類である。

 

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図―314

 

 今日私は、先日菓子をくれたある人を見つけようと努めた。私は、彼の住所を明瞭に書いたものを、持っていたのであるが、而もこの図(図314)は、私が連れて行った日本人が、この場所をさがす為にとった、まがりくねった経路を示している。名前のついている町は僅かで、名前は四角な地域全部につけられ、その地域の中を、また若干の町が通っていることもあるのだということを、私は再び聞いた。それで我々は、目的地を見つける迄に、あっちへ行ったり、こつちへ行ったり、くるくる廻ったりしたのである。

 

[やぶちゃん注:モースはこれと似たようなこと(不満)を「第四章 再び東京へ 9 町の名」でも記している。]

 

 

 

 今日鉢に植えた植物を売る男が前庭へ入って来た。我々は植物を、鉢も何もひっくるめて十四買い、一本について一セントずつ払った。その中の二つは真盛りの奇麗な石竹、二つは馬鞭草(くまつづら)で、その他美しいゼラニウム若干等であった。

 

[やぶちゃん注:「石竹」原文“pinks”。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis。英語の“pink”はカーネーションなどを含むナデシコ属の総称で、セキチクは普通、英語では“China pink”と呼称する。ウィキの「セキチク」によれば、中国原産であるが日本では平安時代には既に栽培されており、その後、草丈と花の大きさにより区別される三寸石竹、五寸石竹などの品種が育成されてきたとある。ヨーロッパでは一七一六年には栽培されており、一八六〇年代には日本から導入された「常夏(とこなつ)」を中心に品種改良が行なわれ、その後も世界各地で多くの品種が育成され現在ではアメリカナデシコなどとの交配品種が栽培の主体となっているとし、起源が不明ながら日本で育成されたと思われる品種として、

 

トコナツ(常夏)
Dianthus chinensis L. var. semperflorens Makino

 

イセナデシコ
Dianthus × isensis Hirahata et Kitam.

 

の二品種が挙げられてある。

 

「馬鞭草(くまつづら)」原文は“verbenas”。シソ目クマツヅラ科クマツヅラ Verbena officinalis は本州・四国・九州・西南諸島に分布する多年生草本で、高さ30~80センチメートルで路傍・荒地・原野などに生育する。横に走る太い地下茎を持ち、種子以外にこの地下茎を用いても繁殖が可能であるらしい。茎の断面は四角形で上部で枝を分け、羽状に三~五裂する葉を対生する。花期は六~九月で茎の上部に穂状花序を出し、淡紅紫色の花を多数咲かせる。漢名である「馬鞭草」(ばべんそう:属名“Verbena”(バーベナ)はそれに由来するか)は長く伸びた花穂を鞭に見たてことに由来する。古くは、腫れ物などの薬に用いられた(以上は岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)サイト内の「植物雑学辞典」のクマツヅラの森定伸氏の解説に拠った)。ただ、個人サイト「野の花散歩」の「クマツヅラ」によれば、『クマツヅラの名は900年代に書かれた「和名抄」に登場』するものの、その和名の由来は良く分かっていないとあり、『一説には花の後、米粒状の実が穂状に付くので「米ツヅラ」がなまってクマツヅラになったとされる』とあった。]

中島敦 南洋日記 十二月二十六日

        十二月二十六日(金) 晴、

 午前灸。香港昨日陷る、午後を物産陳列館に過す。

[やぶちゃん注:「香港昨日陷る」一九四一(昭和十六)年十二月八日から十二月二十五日にかけて行われた太平洋戦争緒戦の日本軍によるイギリス植民地であった香港の攻略戦で「香港の戦い」と呼ばれる。日本側の作戦名は「C作戦」。参照したウィキの「香港の戦い」によれば、『日本軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。香港島への上陸作戦は』十八日夜から十九日未明にかけ