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2014/02/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 18 日本人考古学倶楽部で講演

 数日前、私は大森の貝塚に就て、日本人が組織している考古学倶楽部(クラブ)で講演する可く招かれた。この倶楽部は、毎月第一日曜日に大学内の一室で会合する。大学副綜理の服部氏が、通訳をすることになっていた。今日、六月二日の朝、私は会場へ行った。会員は各、自分の前に、手をあたため、煙管に火をつける役をする、炭火を灰に埋めた小さな容器を置き、大きな机を取りかこんで坐っていた。私は彼等に紹介され、彼等はすべて丁寧にお辞儀をした。私は隣室に、古代の陶器をいくつかの盆にならべたものを置いて、ここで話をした。私はこの問題の概略、即ち旧石器時代、新石器時代、青銅時代、鉄時代と、ラボックが定限した欧洲の四つの時代に就て語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸の貝墟でした仕事を話し、最後に大森の貝塚のことを話した。かかる智力あり、且つ注意深い聴衆を前に話すことは、実に愉快であった。私の黒板画は、彼等をよろこばせたらしい。要するに私は、この時位、講演することを楽しんだ覚えはない。

[やぶちゃん注:これはモースの記す通り、明治一一(一八七八)年六月二日(この日は日曜日である)に東京大学で行われたもので、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には、この会は一種の『考古学愛好家の集会(古物会?)』で、『このとき、のちにモースの陶器の師となる蜷川式胤(にながわのりたね)も出席し』たと式胤の日記にある旨の記載がある。蜷川式胤(天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)は考古家で京都東寺の公人子賢の子として生まれ、明治二(一八六九)年に新政府の制度取調御用掛として上京、太政官権少史・同少史・外交大録・文部省博物局御用・内務省博物館掛を歴任した(明治十年に病により辞任)。この間、明治四年に九段坂上で行われた物産会や同五年の湯島聖堂に於ける博覧会の開催に尽力、同年にはまた近畿地方の社寺宝物検査にも従事し、その際に正倉院御物の調査記録を残したことで知られる。また、文化財の調査保存や博物館開設を政府に建議し、日本の古美術を海外に紹介した功も大きい。著書に「観古図説」「徴古図説」「好古図説」など(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「ラボック」はイギリスの銀行家・政治家にして生物学者で考古学者でもあったジョン・ラボック(Sir John Lubbock 一八三四年~一九一三年)。自由党及びそこから分裂した自由統一党員として活躍する一方、銀行家協会(Institute of Bankers)の初代理事長をも務めたが、学者としても一八六五年に“Pre-historic Times, as Illustrated by Ancient Remains, and the Manners and Customs of Modern Savages”(「前史時代:古代遺跡と、現代の未開人のマナーと習慣による描写」)を執筆、これは恐らく十九世紀に於ける最も影響力を持った考古学テキストであるという。また、石器時代を大きく二つに分けて旧石器時代(Palaeolithic)と新石器時代(Neolithic)という用語を提案している。ラボックはいくつかの分野でアマチュアの生物学者でもあり、膜翅目に関する本「アリ、ミツバチとスズメバチ:社会的膜翅目の習性の観察記録」(一八八四)も執筆している。また昆虫の感覚器とその発達や動物の知性、その他、自然史の幾つかの問題についても出版しており、チャールズ・ダーウィンとも幼いころから広く交流した人物であった。ラボックの生家はケント州ダウンにあったが、その広大な敷地の隣人がかのダーウィンであったからである(以上はウィキの「ジョン・ラボック」に拠った)。なお、磯野先生の引用に出る『古物会』というのは江戸時代以降確立していた一種の物産学で、東京大学創立百二十周年記念東京大学展「学問のアルケオロジー」サイトの東京大学総合研究博物館木下直之氏の「大学南校物産会について」の中で、当時の物産会に於ける『「古物之部」には、観音像以外にも「法隆寺古竹帙」「古磁器茶碗」など現代ならば美術に含まれるものがあり、同じく現代ならば石器や勾玉や瓦などの出土品は考古学的遺物と扱われるはずだが、当時は、それらを一括する「古物」というカテゴリーがしっかりと出来上がっていた。そして、古物の展示ならば、物産会でもしばしば行なわれてきたのである』とあり、木下氏の論文の後半を読むと一種の博物学的一ジャンルとしてそうした古物家(そこでは魚歯化石や石器が既に扱われていた)やそのネットワークがすでにその頃出来上がっていたことも分かる。

「ステーンストラップ」既注であるが再掲しておく。デンマークの動物学者ヤペトゥス・ステーンストロップ(Johannes Japetus Smith Steenstrup 一八一三年~一八九七年)。一八四五年からコペンハーゲン大学の動物学の教授を務め、頭足類を含む多くの分野の研究を行い、遺伝学の分野も研究、寄生虫の世代交代の原理を一八四二年に発見、同年にはまた、後氷期の半化石の研究から気候変動や植生の変動を推定出来る可能性があることをも発見している(以上はウィキの「ヤペトゥス・ステーンストロップ」に拠った)。]

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