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2014/02/02

中島敦 南洋日記 十二月二十一日

        十二月二十一日(日)

Aziyadé’を讀む。夕方、土方氏宅にて島民料理を喰ふ。熱帶生物、放送局の人達。タピオカのふかしたもの(特別に名前無し。diokan とはタピオカのこと)タカオ芋、タピオカのちまき( Binllŭmm )タピオカの甘き玉( titml )、雞の蒸したるもの。皮ごと。魚の燻製( Aelat )等。人々手づかみにてムシャムシヤ喰ひ合成酒を飮む、食後、島民の唄(日本語と土語と交れるもの)を皆で唱ふ。今日の料理はマリヤの馳走なり。パラオ語にて主食物を Onlao 、副食物を Odomi, titmle の類を klior と呼ぶ由。

[やぶちゃん注:「Aziyadé」ピエール・ロティ作の最初期の小説。一八七六年、仲間の海軍将校たちから彼が日記に書いたイスタンブールでの面白い体験の下りを小説にしろと勧められて書かれたのがこの「アジヤデ」で、ロティの作品によく見られるように半分ロマンスで半分自伝であると、ウィキの「ピエール・ロティ」にはある。詳細な内容評が仁木稔のブログ「事実だけとは限りません」の「参考文献録」に載る。

「タピオカ」すっかりメジャーになっているが、バラ亜綱トウダイグサ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ Manihot esculenta の根茎から製造したデンプンのこと。球状の「タピオカパール」に加工してデザートの材料や飲み物のトッピングとして使われるたり、粉末は料理のとろみ付けに用いられる他、つなぎにも用いられる。紙の強度を上げるための薬剤の原料としても重要であるが(ウここまでィキの「タピオカ」及び「キャッサバ」を参照)、個人サイト「楽園マニア」の「キャッサバ(タピオカ)」によれば、芋類には多少なりとも青酸配糖体が含まれているものだがこのキャッサバは細心の注意が必要で、生食は危険であるとある。『この毒素の含有量は品種により多様で、含有量の少ない甘み品種では毒素のほとんどが葉の部分にあるため、皮を剥いて火を通せばそのまま食べることが出来る。一方、量の多い苦み品種群は、芋全体に青酸を含み毒性が強いので、食用とするためには、よく洗って皮を剥き、芋をすりつぶして布袋等に入れ、液汁を取り除き2~3日放置して発酵させ加熱乾燥させる。又は、同様にすりつぶした芋を水洗し沈殿させ、デンプンのみを取り出し加熱乾燥させる方法等が取られる』とあるので注しておく。どれだけ危険か? この tf2 氏のブログ記事「キャッサバ菓子で大量死」にある、フィリピン中部ボホール州マビニの小学校で、近くの売店で買ったフィリピンでは主食代わりにもなるキャッサバで作られた菓子を食べた児童が次々と食中毒の症状を訴え、二十九人が死亡、三十五人が重体というニュースに基づく記事を見れば、その深刻さは分かろう。

「タカオ芋」単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科サトイモ属タロイモ Colocasia esculenta だろうか? 識者のご教授を乞う。

「マリヤ」敦の「環礁」の中の「マリヤン」や、その習作「マリヤン」のモデルであるコロールの女。習作通りならば二十代半ば、『堂々たる體軀の』、『純然たるミクロネシヤ・カナカの典型的な』『屈託の無い豐かな顏』立ちで、土方久功がモデルの民俗学者『H氏』が親しくしている『パラオ語の先生』で、日本の内地の女学校に何年か留学経験があって『英語も出來る』『極めてインテリ』の女性である(彼女の養父はドパラオのドイツ領時代にはドイツ人民俗学者の通訳(英語で)をしたという『インテリ混血兒』ともある)。『四つになる女の兒がある』が、夫は『マリアンが追い出した』とある。敦はその知性を『マリアンは(内地人も含めて)コロール第一の讀書家かも知れない』とまで賞賛しており、H氏曰く、彼女は『開化し過ぎて』いるとあり、『さういへば、マリアンの友達はどうも日本人ばかりのやうだ』ともある。彼女は時々土方のところへ自分の家から『パラオ料理を作つては御馳走する。その都度、私がお相伴に預かるのである』ともある。何より、この習作「マリヤン」には、この日の場面が登場する。以下、筑摩書房版旧全集第二巻の「マリヤン」(別稿)の方(他に「草稿」がある)からそのシーンから末まで総てを引用しておく(太字は底本では傍点「ヽ」、踊り字「〲」は正字に変えた。会話文は底本では二行目以降は一字下げである。文中の「おぢさん」とは「H氏」(=土方)のこと)。

   *

 去年の大晦日の晩、それは白々とした良い月夜だつたが、H氏とマリヤンと私とは涼しい夜風に肌をさらしながら、街を歩いた。夜半迄さうして時を過ごし、十二時になると同時に南洋神社に初詣でをしようといふのである。私達はコロール波止場の方へ歩いて行つた。波止場の先にプールが出來てゐるのだが、其のプールの緣に我々は腰を下した。相當な年輩のくせにひどく歌の好きなH氏が、大聲をあげて色んな歌を――主に氏の得意な樣々のオペラの中の一節だつたが――唱つた。マリヤンは口笛ばかり吹いてゐた。厚い脣を丸くとんがらせて吹くのである。彼女のはそんなむづかしいオペラなんぞではなく、大抵フォスターの甘い曲ばかりである。聞きながら、ふと、私は其等が元々北米の黑人共の哀しい歌だつたことを思ひ出した。何の話のついでだつたか、突然H氏がマリヤンに向つていやに大きな聲で言つた。

 「マリヤン! マリヤン!(さういへばH氏は家を出る前に合成酒を一杯引掛けて來たやうだつた。)マリヤンが今度お婿さんを貰ふんだつたら、内地の人でなきや駄目だなあ。え? マリヤン!」

 「フン」と厚い脣の端を一寸歪めたきり、マリヤンは返事をしないで、プールの面を眺めてゐた。月は丁度中天に近く、從つて退潮なので、海と通じてゐる此のプールは殆ど底の石が現れさうな程水がなくなつてゐる。暫くして、――私が先刻のH氏の續きを忘れて了つた頃――マリヤンが口を切つた。

 「でもねえ、内地の男の人はねえ、やつぱりねえ。」

 なんだ、此奴、やつぱり先刻からずつと本氣で自分の結婚のことを考へてゐたのかと、急に私は可笑しくなつて、大きな聲で笑ひ出した。さうして、尚も笑ひながら、「やつぱり、内地の男は、どうなんだい?」と聞いた。笑はれたのに腹を立てたのか、マリヤンはそつぽを向いて返事をしなかつた。

 

 この春、H氏と私とが偶然にも揃つて一時内地へ歸ることになつた時、マリヤンは雞をつぶして最後のパラオ料理の御馳走をして呉れた。正月以來絶えて口にしなかつた肉の味に、舌鼓を打ちながら、H氏と私とが、「いづれ又秋頃迄には歸つて來るよ」(本當に二人ともその豫定だつたので)といふと、マリヤンが笑ひながら言ふのである。

 「おぢさんは、そりや半分以上島民なんだから、又戻つてくるでせうけれど、トンちやん(困つたことに彼女は私のことを斯う呼ぶのだ。H氏の呼ぶのを眞似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまひには閉口して苦笑する外はなかつた。)はねえ」

 「あてにならなといふのかね」といへば、

 「内地の人と幾ら友達になつても、一ぺん内地へ歸つたら二度と戻つて來た人は無いんだものね」と珍しくしみじみと言つた。

 我々が内地へ歸つてから、H氏の所へ二三囘マリヤンから便りがあつたさうである。其の都度トンちやんの消息を聞いて來てゐるといふ。

 私はといへば、實は、横濱へ上陸するや否や忽ち寒さにやられて風邪をひき、それがこぢれて肋膜になつて了つたのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底覺束無い。

 H氏も最近偶然結婚(隨分晩婚だが)の話がまとまり東京に落ちつくこととなつた。勿論南洋土俗研究に一生を捧げた氏のことだから、いづれは又向ふへも調査には出掛けることがあるだらうが、それにしても、マリヤンが豫期してゐたやうに彼の地に永住することはなくなつた譯だ。

 マリヤンが聞いたら、何といふだらうか。

   *

 敦が実際に罹った帰国(三月十七日)後の肺炎から回復したのは六月、この作中、マリヤンからH氏に『二三囘マリヤンから便りがあつた』とあるから、この執筆時期から半年も経たぬ同年十二月四日に敦は白玉楼中の人となったのであった。――

 なお、廖秀娟氏の『中島敦「マリヤン論」』にこの女性についての詳細な考察が載る。お薦めである。]

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