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2014/02/02

一群の鳥(歌) 萩原朔太郎 短歌十三首  附習作ニ十首 大正二(一九一三)年八月

    一群(ぐん)の鳥(とり) (歌)

 

                   夢みるひと

 

遠(とほ)く行(ゆ)く一群(ぐん)の鳥(とり)

かへりみて

我(われ)を想(おも)へば涙(なみだ)はてなし。

 

悲(かな)しくも人(ひと)に隱(かく)れて

故郷(ふるさと)に歌(うた)などつくる

我(われ)の果敢(はか)なさ。

 

寂(さび)しさに少(すこ)しく慣(な)れて

なにがなし

この田舍(いなか)をば好(よ)しと思(おも)へり。

 

かの遠(とほ)き赤城(あかぎ)を望(のぞ)む

わが部屋(へや)の窓(まど)に咲(さ)きたる

木犀(もくせい)の花(はな)。

 

クロバアの上(うへ)に寢(ね)ころび

空(そら)ばかり眺(なが)めてありし

中學(ちうがく)の庭(には)。

 

ともすれば學校(がくかう)を休(やす)み

泣(な)き濡(ぬ)れて

小出(こいで)の林(はやし)を歩(ある)きし昔(むかし)。

 

その昔(むかし)よく逢曳(あひゞき)したる

公園(こうゑん)の側(そば)の波宜亭(はぎてい)

今(いま)も尚(なほ)あり。

 

酒(さけ)のめど

このごろ醉(よ)はぬさびしさ

うたへども

あゝあゝ遂(つひ)に涙(なみだ)出(い)でざり。

 

いまも尚(なほ)

歌(うた)つくることを止(や)めぬや

かく問(と)ひし

わが古(ふる)き友(とも)の嘲(あざけ)りの色(いろ)。

 

新昇(しんせう)のサロンに來(きた)り

夜(よる)おそく

口笛(くちぶえ)を吹(ふ)く我(われ)のいとしさ。

 

時(とき)にふと

盃杯(さかづき)を投(な)げてすゝり泣(な)く

いとほしやと母(はゝ)も流石(さすが)思(おも)へり。

 

米專(こめせん)の店(みせ)に飾(かざ)れる

馬鹿面(ばかづら)の人形(にんげう)に我(わ)が似(に)しと

思(おも)ふ悲(かな)しさ。

 

公園(こうえん)のベンチにもたれ

哀(かな)しみて

遠(とほ)き淺間(あさま)の煙(けむり)を眺(なが)む。

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年八月九日附『上毛新聞』に標記通り、「夢みるひと」名義で掲載された土岐哀果(善麿)や石川啄木ばりの三行分かち書きの十三首連作。朔太郎満二十六歳。

 四首目は初出「木犀(もくさい)」とルビを振るが、後に示す習作で確認し訂した。

 七首目及び掉尾十三首目の「公園(こうえん)」のルビはママ。正しくは「こうゑん」。

 八首目三行目は初出では「あゝあゝ遂(つひ)に涙(なみだ)出(い)でさり。」であるが、濁音化して示した。

 十首目「新昇(しんせう)」のルビはママ。正しくは「しんしよう」。

 十二首目「人形(にんげう)」のルビはママ。正しくは「にんぎやう」。

 同じ一九一三年八月のクレジットを持つこれらの習作連作十九首が残る(底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート」)所収)に残る。以下に示す。取り消し線は抹消を示す。最後の【*】のマークは発表されたものから除かれたものを示す私のマーキングである。標題に「歌二十首」とするが、初出も校訂本文も十九首しかない。しかもそれについての編者注もなく、しかもなお「ヽ」の圏点があると編者注はあるのだが、そこにはない『二十首の上に』あるという不可解な記載があるのでこれ(圏点復元)は断念した。

 

  一群の鳥

         (歌二十首)

 

遠く行く、一群の鳥

かへりみて

我を想へば涙はてなし

 

哀しくも人にかくれて

故郷に歌などつくる我のはかなさ

 

淋しさに少しく慣れて

なにがなし

この田舍をば好しと思へり

 

かの遠き赤城を望む

わが部屋の窓に咲きたる木犀(もくせい)の花。

 

公園のベンチによりてもたれ

哀しみて

遠き淺間の煙を眺む

 

その昔よく逢曳したる

公園のそばの波宜亭

今も尚ありや

 

波宜(はぎ)亭の柱に書きし戀の歌

かの頃の歌、今も忘れず【*】

 

その昔

身をすりよせて君と我と

よく泣き濡れし波宜亭の窓【*】

 

クロバアの上に寢ころび

空ばかり眺めてありし

中學の庭

 

學校をよく休みたる

その頃の悲しかりし日よ

なつかしき日よ【*】

 

ともすれば學校を休み

學校を休み

泣き濡れて

小出の林を歩きし昔

 

酒のめど

このごろ醉はぬさびしさ

歌へども

あゝあゝ遂に涙出でざり

 

時にふと

盃投げてすゝり泣く

いとほしや母も流石に思へり

 

新昇のサロンに來りて

夜おそく

口笛を吹く我のいとしさ

 

いまも尚

歌つくることを止(や)めぬや

かく問ひし

わが古き友の嘲りの色

 

あゝ如何に我や老いたる

かく思ひ、この日ひそかにためいきをつく【*】

 

米專人形の店に飾れる

馬鹿面の人形に

わが似しと思ふ悲しさ

 

死ぬよりは尚よろしかり

とかくして

今日もまた安らかに寢床に入れり【*】

 

眞劍になりて嬉しと思ふこと

いつの日か

我が身の上にめぐり來るならむ【*】

              (一九一三、八)

 

順列の投稿に際して変更も行われている点に注意。

「中學」朔太郎の在学した群馬県立前橋中学校(現在の前橋高等学校)と考えてよいか。朔太郎はここに明治三三(一九〇〇)年四月入学、明治三七年の五年進級に際して落第、明治三十九年三月に満十九歳で卒業しており(旧制中学は五年制)、十三の時には「エレナ」と出逢っていてその多感な青春の六年間をこの中学校で過ごしている(その四月には高等学校受験の予備校に相当する同中学校補習科に入学したが、七月末日を以って退学、九月に東京の早稲田中学校補習科に再入学している)。

 

「波宜亭」専ら後の朔太郎の「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)の「郷土望景詩」で知られる茶店。

 

 波宜亭

 

少年の日は物に感ぜしや

われは波宜亭(はぎてい)の二階によりて

かなしき情歡の思ひにしづめり。

その亭の庭にも草木(さうもく)茂み

風ふき渡りてばうばうたれども

かのふるき待たれびとありやなしや。

いにしへの日には鉛筆もて

欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。

 

また、同詩集の自註「郷土望景詩の後に」には、

 

 Ⅴ  波宜亭

 波宜亭、萩亭ともいふ。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。

 

と記す。Tetsudotabi氏のサイト「鉄道で行く旅」の「萩原朔太郎と郷土望景詩について」の「波宜亭」に『文献には「萩の餅で名高い旗亭」と書かれている』とある。現在の群馬県前橋市大手町にある遊園地前橋市中央児童遊園(愛称は「前橋るなぱあく」)の敷地相当の一画にあった。

「小出の林」これも後の朔太郎の「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)の「郷土望景詩」の私の偏愛する一篇「小出新道」で知られる地名。

 

 小出新道

 

ここに道路の新開せるは

直(ちよく)として市街に通ずるならん。

われこの新道の交路に立てど

さびしき四方(よも)の地平をきはめず

暗鬱なる日かな

天日家竝の軒に低くして

林の雜木まばらに伐られたり。

いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

われの叛きて行かざる道に

新しき樹木みな伐られたり。

 

また、同詩集の自註「郷土望景詩の後に」には、

 

 Ⅳ  小出松林

 

 小出の林は前橋の北部、赤城山の遠き麓にあり。我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、橅の類、むざんに白日の下に倒されたり。新しき道路ここに敷かれ、直として利根川の岸に通ずる如きも、我れその遠き行方を知らず。

 

とある雑木林である(「橅」は「ぶな」と読む)。但し、「小出新道」という名称は朔太郎の造語であって通称名でもなんでもないので注意。やはりTetsudotabi氏のサイト「鉄道で行く旅」の「萩原朔太郎と郷土望景詩について」の「小出新道」に「小出河原」とし、『「小出新道」というのは朔太郎が勝手に命名した名前なので、地元の人には通じないらしい。「前橋の市街から小出河原(敷島公園)へ通じる道路」が朔太郎の「小出新道」である。その敷島公園には萩原朔太郎の生家の一部が保存されている』と写真も載る。

「新昇のサロン」新昇というのは前橋にあった洋食屋。公益財団法人前橋観光コンベンション協会の公式サイトの「前橋まるごとガイド」の「前橋の歴史」にある「萩原朔太郎の世界」の「朔太郎の好きな食べ物」に、『朔太郎は、前橋の街なかにあった「新昇ホール」でお銚子を立てながらサーロインステーキをしばしば食べ、焼き方はそのときの気分によってレアだったり、ミディアムだったりしたようです』。『斉藤総彦と朔太郎は、一時、萩原家そばの家を借り、同居したことがあります。音楽活動のためでしょう。そのときに、朔太郎は、総彦に、スパゲティーやオムレツを作らせたそうです。総彦は、「新昇ホール」のマスターから料理の手ほどきを受け、その腕前もなかなかのものだったということです』とある。この斉藤総彦(明治三四(一九〇一)年~昭和六二(一九八三)年)は朔太郎主宰の「上毛マンドリン倶楽部」の後継者となった人物である。朔太郎十五歳年下。

「米專」呉服屋。現在の前橋弁天通り商店街の青年会長しゅんこう氏のブログ「前橋まちなかガイド 朔太郎まちなか遊興コースを巡ってきました」に当時の前橋の商店街の中では大きな呉服屋で、『全面ガラス張りのショーウインドーに人形があって、そのバカ面に自分の姿を重ねる詩が残っています』とある。詩とあるのはこの短歌のことと考えてよいであろう。現存しない。]

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