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2014/02/04

北條九代記 大炊渡軍 付 御所燒の太刀 承久の乱【十八】――大炊渡しの戦いⅡ 官軍、敗走す

既に破れて、引色になりけるを、鵜沼渡に向へられたる美濃の目代帶刀左衞門尉五十騎計(ばかり)にて馳來るといへども、終に打ち立てられて、引き退(しりぞ)く。同國の住人蜂屋冠者(はちやのくわんじや)は、信濃國の住人伊豆次郎に組まれて討れたり。筑後〔の〕六郎左衞門尉は、洗革(あらひがは)の鎧に、母衣(ほろ)掛けて、白月毛(しろつきげ)の馬に乗りて落行きけるを、武田七「穢し。餘(あま)すまじきぞ」とて追掛けたり。六郎左衞門「返すに難き事か」御所燒(ごしよやき)と云ふ太刀を拔きて引返し、撃つて掛る、抑(そもそも)この太刀は備前國の住人藤原三郎家次と云ふ鍛冶を、一院に召し上(のぼ)せて、君御手づから煆(きた)はせられて、打立てられし太刀にてあり。御所燒と名を付けられ、公卿、殿上人、北面、西面の輩(ともがら)、御氣色(おんきしよく)善き程の者は皆賜りて帶(たい)しけり、名詮自性(みやうせんじしやう)の道理ならば、この太刀の名こそ忌々(いまいま)しけれ筑後〔の〕六郎左衞門今度大炊渡に、向へられて、都を出ける時、一院より賜りて、この度帶して下りしが、武田七郎掛寄せて押(おし)竝ぶを、馬の平首(ひらくび)手綱を副へて切つて落し、その間に筑後左衞門落延びたり、武田は下(おり)立ちて、離れ馬に乘替へて、「あはれ敵を逃しけり」と齒嚙(はがみ)をしてぞ控へたる。大竹小太郎も落ちける所に、信濃國の住人岩手三郎父子追掛けて「如何に大竹殿と見るは僻目(ひがめ)か。和殿は武蔵の住人にて、關東の御恩深く仰せに依て都へは上られたり。惡(あし)くも計ひて京方にはなり給ひけり。降參し給へ、如何にも申さん」と云ひければ、大竹馬を引返し、思案する所を、岩手父子押竝(おしなら)べて組(くみ)落し、指(さし)殺して首を取る。この大竹は相撲(すまふ)を好みて、力も強く心も剛(がう)なり。先年一院より、關東へ仰せられ、「力強く、健(したゝか)ならん相撲の達者を參らせよ」とありしかば、選出(えらびいだ)して上せられ、元は家光(いへみつ)と名のりけるを、西面に召れて家任(いへたふ)と云ふ名をば院よりぞ付け給ひける。岩手程の男には、中々討たるまじき者なりしが、運の盡きぬる故にや、暗々(やみやみ)と討たれしは、二心(ふたごゝろ)の起りて欺罔(たばから)れける所なり。大炊渡破れて、東山道の大軍打入ると見えければ、平九郎判官胤義「口惜きことかな。胤義罷向(まかりむか)うて一軍(ひといくさ)せん」とて、五百餘騎にて馳來る。能登守秀康申しけるは、「この大軍に前後を包まれなば、雄々しき大事なり、尾張河破れなば、引退(ひきしりぞ)きて、宇治勢多を防げとこそ院には仰せ下されし。秀康は引上りて宇治にて防ぎ候はん」とて、落ち行きければ、平九郎判官も力及ばす、打連れてこそ落ち上りけれ。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱【十八】――大炊渡しの戦いⅡ 官軍、敗走す〉

「洗革」薄紅色に染めた鹿のなめし革。揉んで柔らかくした白いなめし革ともいう。

「母衣」鎧の背につけて流れ矢を防ぎ、また存在を示すための標識にした幅の広い布。平安末期には装飾化して大型となり、後の室町期以後は中に竹籠を入れて袋状にするのが例となった。

「白月毛」「しらつきげ」とも読む。白地の毛に黒や濃褐色のサシの入った、赤みの強い(これが月毛の由来)毛色。

「備前國」現在の岡山県南東部に当たる。古くは吉備国の一部。

「御所燒」ウィキの「後鳥羽天皇」に、『刀を打つことを好み、刀工の鍛冶に好みの兵庫鎖拵えを打たせた。また自らも刃紋を入れそれに十六弁の菊紋を入れた(菊一文字)。「御所焼」「菊御作」と呼ばれる。天皇家の菊紋のはじまりである』とある。「兵庫鎖拵え」とは、サイト「中世歩兵研究所」の「太刀の拵の種類と履歴」によれば、「兵庫」は兵庫とは無縁らしく、『本来「兵具」であったが、後世訛って「兵庫」と変化してしまった様である』とされ、『兵庫鎖の太刀とは足緒が七ツ金ではなく、鎖を編んだベルト状の足緒で出来ている拵を言』い、「厳物造(いかものづくり)の太刀」『の一つとされるが、拵というよりも部品の形式名に近いといえる』。『遺品が総じて「長覆輪の太刀」である事から、「兵庫鎖の太刀」=「長覆輪の太刀」と捉えられがちであるが、そうではない拵も有ったのではないかとの説もある』(「長覆輪の太刀」とは『鞘全体を板金で包み、長い覆輪で鞘の上下を挟んで固定し』たものと同ページにある)『兵庫鎖は始め、足金具に三~四筋ばかりの鎖の紐が付いているような遊動制のある物であったが、後に太鼓革に通じる金具を用いて中央部分で鎖の筋を連結してまとめる様になる』。『兵庫鎖の太刀が兵仗の太刀で無くなっていくと共に、兵庫鎖も形骸化し、南北朝・室町時代には実用とはほど遠い形状へと変化していってしまう』とある。にしても確かに「御所焼き」とは莫迦でも分かる「名詮自性の道理」の不吉な名で後鳥羽という呪われた男が結界中に呼び込んでしまったモンストロムであったとしか言いようがない。

「御氣色善き程の者」後鳥羽の側近や近侍する者で覚え目出度いの者。

「名詮自性」仏教語で古代インドの僧世親の著した「唯識二十論」に出る語で、「詮」は「解き明かす」の意、「自性」はその物の性質・本性で、「物の名はその物自体の本性を表す」「名がそれ自らの性質を備えている」という義である。略して「名詮」とも言い、「性」は「称」とも書く。

「馬の平首」馬の首の鬣左右の平らな部位。

「暗々」副詞で、何も出来ないさま、みすみす・むざむざ。

 

 以下、「承久記」(底本の編者番号43(冒頭を前注とダブらせた)から47のパートまで)の記載。各段の後に語注を附した。

 

 京方、各河端ニ歩向テ散々ニ戰ケレ共、東山道ノ大勢如雲霞打人々々渡シケレバ、力不ㇾ及引退テ、上ノ段へ打上ル。下サマノ手ニ向タル者共、手負馬共、射捨タル矢、西ノ岸ニ臨添フテ流ケレバ、御方ノ軍能ナク破レニケレバ、東〔ノ〕大勢西ノ岸ニ著テケリ、サレバコソ手負西ノ岸ニ臨添テ流ルラント思所ニ、「大炊ノ渡ノ京方破レ、大勢己ニ打入」ト申ケレバ、鵜沼ノ渡ニ向タリケル美濃ノ目代帶刀左衞門尉、口惜事ト思テ、五十餘計ニテ馳來ル。中ニ隔タリ、七八度ガ〔程〕取テ返返戰ケレ共、其モ終ニハ可ㇾ叶モ無レバ引退。美濃國ノ住人蜂屋ノ冠者モ引退ケルガ、信濃國住人伊豆次郎ニ被組落テ被ㇾ討ケリ。

[やぶちゃん注:「能なく」いっかな守備の効果を示すことも出来ず。]

 筑後六郎左衞門尉、黑皮威ノ鎧ニ、蒜ノ母衣懸テ、白月毛ナル馬ニ乘テ落行ケルヲ、武田七郎、「キタナシ、餘スマジキゾ」トテ追懸タリ。六郎左衞門〔尉〕、取テ返ス。御所燒卜云フ聞ユル太刀ヲ帶タリケリ。御所燒トハ次家正ニ作ラセテ、君御手ヅカラ燒セ給ケリ。公卿・殿上人、北面・西面ノ輩、御氣色好程ノ者ハ皆給テ帶ケリ。筑後六郎左衞門尉、都ヲ出ケル時、「今度ハケ」トテ給ケリ。只今其太刀ヲゾ帶タリケル。武田七郎押雙タル所ヲ、拔打ニ馬ノ首、手綱添テフツト切テゾ落シタル。武田、鐙ヲ越テヒラト下タツ。此間ニ筑後六郎左衞門延ニケリ。武田七郎、馬ハ被ㇾ切ヌ、乘替ハナシ、四方見マハシケレバ、敵・御方ハ不ㇾ知、馬共イクラモ放レテ走散ケル中ニ、白蘆毛ナル馬ノ轡モナキガ出來タリケルヲ、雜色・下人寄合テ、是ヲ取テゾノセタリケル。

[やぶちゃん注:「蒜ノ母衣」「ひるのほろ」で、単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属ノビルAllium macrostemon をデザイン(紋)とした母衣であろうか。

「次家」「北條九代記」では「家次」である。孰れも当代の刀鍛冶としては不詳。

「白蘆毛」「蘆毛」(葦毛)は一般には灰色の馬を指す。肌は黒っぽくて生えている毛が白いことが多い。当時や現在でも本邦ではより白い白毛(しろげ)の馬は稀であったため、通常は「白馬」と言えば白くなった蘆毛のことを指した。蘆の白い穂に由来するか。]

 又、京方ヨリ「大竹小太郎家任」トテ喚テ出來タリ。信濃國住人岩手三郎親子、向樣ニ歩マセケルガ、「如何ニ大竹殿カ。哀レ、モノヲバアシク計ヒ給フモノカナ。ワ殿ハ元ハ武藏國ノ住人ゾカシ。今コソ京方へモ參給タレ。其モ關東ヨリコソ進ラセタリ。侍ハワタリ者、草ノ靡ニコソヨレ。今日アル間モナキ物ヲ、能計ヒ給ハデ」トイヘバ、眞ニモトヤ思ケン、扣テ案ズル所ヲ、岩手父子押雙ベテ、觀取テ引ハリ、太トハ云へ共、指殺シテ首ヲ取。此大竹小太郎ト申ハ、關東へ、「侍ノ相撲取テシタヽカナラン者ヲ進ラセヨ」ト院ヨリ被ㇾ召シカバ、嶽部右馬允五郎ト此大竹トヲ竝べテ、「何レ共有ナン、サレ共、カハ猶大竹ニテコソアラメ」トテ、進ラセラレタリ。元ハ家光ト名乘ケルヲ、西面ニ被ㇾ召テ、院ノ家任トハ付サセ給タリケリ。

[やぶちゃん注:「進ラセ」「まゐらせ」と読む。「参らす」。

「侍ハワタリ者、草ノ靡ニコソヨレ。今日アル間モナキ物ヲ、能計ヒ給ハデ」ちょっと分かり難い。――侍というものは元来、渡り者(状況に応じて主人を替えて奉公をする者)なれば、草が風に従って靡くが如く臨機応変に勝ち目のある者に就くが得策じゃ。今日只今、その命、瞬く間に亡きものともなろうほどに。少しも上手く立ち廻ることもなされずにのう――といった意味か。「北條九代記」の方では庶民には打って響く分かり易い台詞に書き換えられてある。

「扣テ」は「ひかへて」(控へて)と読む。

「太」は「ふとし」と訓じているか。肥えている・太っているの意。力士なれば腑に落ちる。]

 京方、大妻太郎・中三郎・小島四郎、三騎連テ落行ケルガ、大妻太郎ガ申ケルハ、「我ハ痛手負タリ。敵ニ姿ヲ見へジト思程ニ、山へ入テ自害ヲセンズルナリ。ワ殿原ハ手モ負不ㇾ給。大豆渡ニ行向テ、軍ノ樣ヲモ披露シ給へ。君、軍ニ勝セ給バ、京ニ二ツニナル男子ヲ持タリ、是ニ勳功申アテ給へ」トテ山ノ方へ馳ケルガ、死モヤシケン、後ニハ行末モ不ㇾ知。中三郎・小島四郎大豆渡ニ行向テ此由申ケレバ、人々アザミアヒ色ヲ失フ。

 平九郎判官、「已ニ大炊渡破ル、事コソ安カラネ。胤義、罷向テ一軍セン」トテ、下總前司・安藝宗内左衞門尉・伊藤左衞門尉ヲ始トシテ五百餘騎、大炊渡へトテ打向。能登守被ㇾ申ケルハ、「已ニ大炊渡破レテ、東山道ノ大勢打入タリ。後ロヲ被推隔中ニ被取籠勇々敷大事也。平九郎判官殿宣フハ、事可ㇾ然共不ㇾ覺。君モ『尾張河破レバ、引退テ宇治・勢多ヲ防ゲ』トコソ被仰下候シカ。秀康ニ於テハ罷上ルナリ」トテ引退ク。平九郎判官、口惜ハ思へ共、宗徒ノ者共角イフ間、力不ㇾ及引レテ落行ケリ。

[やぶちゃん注:「宗徒」ここは「むねと」と読み、宗(むね。主となること。中心の意)となる者の意。ある集団の中に於いて主だった者、中心となる者の意。ここでは藤原。能登守秀康に代表されるその場にいた官軍武将らを指す。この退去の正当化は如何にも口実めいた謂いで、胤義も内心、既にして当方の敗北を予兆ことは難くない。]

大妻太郎の部分は「北條九代記」では省略しているが、私なら是非使いたい戦場秘話のシークエンスである。]

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